血と覚悟
ステータスという、非現実的ながらも絶対的な指標を自覚したことで、健の思考は以前とは比べ物にならないほど、冷静かつ明確なものへと変わっていた。
恐怖は消えない。だが、それはもはや彼を支配する絶望の闇ではなかった。乗り越えるべき具体的な壁、対策を講じるべき明確な課題へと姿を変えていた。
ステータスが示す通り、今の彼はあまりにも弱い。レベル1という数字が、この世界の赤子同然であることを示している。筋力7、耐久力6という数値は、おそらくあの集落の子供にさえ劣るかもしれない。唯一、器用さの数値が少しだけ高いのは、現代社会で培われた指先の細かな作業の賜物だろうか。
『この貧弱なステータスで、あの獣と渡り合うには……』
昨夜、闇の中で感じた巨大な気配。あれがもし、この森の標準的な捕食者なのだとすれば、正面から戦って勝てる可能性は万に一つもない。
必要なのは、技術だ。この低い能力値を補って余りある、圧倒的な技術。そして、それを支えるための、反復練習。
その日から、健の一日は様変わりした。
朝露がまだ森の葉を濡らしている薄明かりの中から、彼の一日は始まった。槍を手に、彼は森の一角にある小さな開けた場所を己の練兵場と定めた。
最初は、ただ槍を構え、その重さを身体に馴染ませることから始めた。両手で握りしめた樫の柄の、ずしりとした感触。石の穂先によって、重心がわずかに前にあること。それを意識し、ただひたすらに立ち尽くす。まるで、槍が自分の腕の延長であるかのように感じられるまで、何時間も。
次に、突き。
目の前にある、太い木の幹を仮想の敵と見立て、彼は槍を突き出した。一回、また一回と。最初は、肩と腕の力だけで突いていた。すぐに腕は痺れ、肩は灼けるように痛み、十回も突けば息が上がった。全身から吹き出した汗が、地面に黒い染みを作っていく。
『違う……これじゃない』
筋肉が悲鳴を上げるたびに、彼は自らの非効率さを痛感する。彼は一度槍を下ろし、呼吸を整え、己の身体の動きを内側から見つめ直した。
足だ。全ての力の源は、大地を踏みしめる足にある。彼は足の裏で地面を掴む感覚を意識した。そして、腰。下半身で生み出した力を、腰の回転によって増幅させ、上半身へと伝える。最後に、その捻りの力を、腕を通して槍へと集約させるのだ。
頭では理解できても、身体がついてこない。
ぎこちない動きを、彼は何度も、何度も繰り返した。日が昇り、頭上を通り過ぎ、そして西の森へと傾いていくまで、彼は憑かれたように同じ動作を続けた。手のひらの皮はめくれ、血豆が潰れて、槍の柄が赤黒く染まった。空腹も、喉の渇きも、極度の集中の中では遠い感覚でしかなかった。
そうして、何日目かのことだった。
いつものように、無心で槍を突き出していた彼の身体を、ある瞬間、奇妙な感覚が貫いた。
足から腰へ、腰から背中へ、そして肩、腕、手首、槍の穂先へ。一分の無駄もなく、力の全てが連動し、一本の鋼の鞭のようにしなって、目標へと突き刺さっていく感覚。
ドスッ、という、これまでとは全く違う、重く、深く、食い込むような音が響いた。
見れば、槍の穂先は、硬い木の幹に、指の第一関節ほども深く突き刺さっていた。
『これか……!』
その瞬間、再び、あの奔流が脳内を駆け巡った。
身体に染み付かせた無数の動きが、一つの洗練された「型」として再構築され、魂に刻まれていく。
スキル: 【槍術:Lv.1】を獲得しました。
ステータス画面に現れた新しい文字列。それは、彼の血と汗が流した努力への、この世界からの明確な回答だった。
技術は手に入れた。だが、それはまだ机上の空論に過ぎない。
木は動かない。だが、森の獣たちは生きている。逃げ、襲い、牙を剥く。
次の段階は、実戦。すなわち、狩りだった。
彼は、これまで以上に慎重に森を観察し始めた。ただ食料を探すのではない。獲物の、痕跡を探すのだ。
地面に残された足跡、木の幹につけられた爪痕、食い散らかされた木の実の残骸。それら全てが、この森に生きる者たちの言葉なき言葉だった。
数日間の探索の末、彼は比較的小さな、蹄に似た足跡が、特定の沢沿いに頻繁に見られることを突き止めた。
そして、運命の日が訪れた。
風下から、慎重に、音を殺して沢に近づいた健の目に、それは飛び込んできた。
健がこの森で初めて目にする、奇妙な草食獣だった。鹿ほどの大きさがあるだろうか、しかし体つきはずんぐりとしており、ウサギを思わせる長い耳を持つ。全身は、周囲の岩肌に溶け込むような、ごわごわとした灰色の毛皮で覆われていた。そして額からは、黒曜石のように鈍く光る、二本の短い角が突き出ている。
『岩角兎』
健の頭に、なぜかその生物の名前が自然に浮かんだ。
獣は、警戒心もなく、夢中で沢の水を飲んでいる。距離は、およそ二十メートル。絶好の機会だった。
健の心臓が、破裂しそうなほど激しく鼓動する。練習とは違う、本物の殺意と、命のやり取りを前にした原始的な恐怖が、喉をカラカラに乾かした。
彼はゆっくりと槍を構え、息を殺し、一歩、また一歩と距離を詰めていく。足元の小枝を踏まぬよう、木の葉の擦れる音さえ立てぬよう、全神経を足の裏に集中させる。
十メートル。
五メートル。
岩角兎が、ぴくりと耳を動かした。何かの気配を察したのだ。水を飲むのをやめ、ゆっくりと顔を上げる。その黒く濡れた瞳が、真っ直ぐに健が潜む茂みを捉えた。
見つかった。
もう、迷っている時間はない。
「うおおおおっ!」
健は、自らを鼓舞するように雄叫びを上げながら、茂みから飛び出した。
驚いた岩角兎は、瞬時に身を翻し、驚異的な跳躍力で逃走を図る。速い。あまりにも速い。
健は、練習で身体に叩き込んだ、力の流れを意識した突きを繰り出した。
しかし、穂先は岩角兎の脇腹を浅く切り裂いただけで、致命傷には程遠い。
獣は体勢を立て直すと、今度は健に向かって真っ直ぐに突進してきた。その額の角が、鋭い凶器となって健の腹部を狙う。
恐怖で足がすくむ。だが、健はここで退かなかった。
突進してくる獣の動きを、極限の集中力で見据える。彼は、突きの構えから一転、槍を薙ぎ払うように横に振るった。
ガキン!という硬い音。
槍の柄が、岩角兎の角を辛うじて受け止めた。凄まじい衝撃が腕を痺れさせる。
だが、その衝撃で獣の体勢がわずかに崩れた。
一瞬の、好機。
健は、痺れる腕に鞭打ち、がら空きになった獣の脇腹、先ほど自分が切り裂いた傷口へ、全体重を乗せて槍を突き込んだ。
ゴツン、という硬い感触。続けて、肉を貫く生々しい抵抗が、柄を通して両腕に伝わってきた。
岩角兎は、今まで聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げ、凄まじい力で暴れた。槍の柄が軋み、折れる寸前までしなる。健は歯を食いしばり、槍を離すまいと必死に耐えた。
やがて、獣の動きは徐々に弱々しくなり、そして、完全にその動きを止めた。
静寂が、森に戻ってきた。
健の荒い呼吸だけが、やけに大きく響いている。
彼は、恐る恐る槍から手を離した。岩角兎は、その場にぐったりと横たわり、動かない。
自分が、生き物の命を、この手で奪ったのだ。
その事実が、重い鉄塊のように健の胃の腑に落ちてきた。吐き気がこみ上げてくる。手足は震え、立っていることさえままならない。
これは、ゲームではない。
血は生暖かく、命には重さがある。
生きるということは、他の命を奪うこと。その、当たり前で、しかし残酷な世界の理を、彼は全身で理解した。
健は、その場に膝をつき、しばらく動けなかった。
彼が狩りを成し遂げたその場所を、そして、その場に呆然と座り込む彼の姿を、遠く離れた木々の影から、集落の少年が、大きく見開いた目のまま、固唾を飲んで見つめていた。
少年の手は、無意識のうちに、腰に下げた小さな石のナイフの柄を、強く、強く握りしめていた。




