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刻まれる知識


夜は、眠るための時間ではなかった。生存のための、長く、過酷な闘いの時間だった。

健は、絶えず燃え続ける焚き火の前に、背を丸めて座っていた。火の光が届く範囲は、彼の世界の全てだ。その光の輪郭の外側、漆黒の闇の中からは、絶えず何かの気配がしていた。

それは昨夜のことだった。

風が止み、森が不気味なほど静まり返った深夜。焚き火の薪がパチリと爆ぜる音だけが響く中、健はそれを聞いた。

すぐそこの闇の中、手が届きそうな距離で、太い枝が「ボキリ」と折れる音。

健は息を飲んだ。心臓が凍りつき、全身の血が逆流するような感覚。それは風で枝が落ちたような、自然のか細い音では断じてなかった。明確な重量を持つ、巨大な何かが踏み折った音だった。

彼はゆっくりと、音を立てないように、手元に置いていた粗末な槍もどきを握りしめる。だが、その先端は丸まり、ただの尖った棒に過ぎない。これで威嚇はできても、本気で襲い掛かってくる獣の硬い皮膚を貫けるとは到底思えなかった。

静寂。

だが、その静寂は無ではなく、濃密な緊張感に満ちていた。見られている。闇の中から、一対の、あるいは複数の目が、自分の一挙手一投足を観察している。その事実が、肌を粟立たせた。

獣は、火を恐れている。だが、それ以上に腹を空かせているとしたら?

火の光の輪の外側を、ゆっくりと、しかし確実に旋回する気配。健は身じろぎもできず、ただ時間が過ぎるのを祈るしかなかった。どれほどの時間が経っただろうか。やて、その気配は夜の闇の奥深くへと遠ざかっていった。

朝、彼はほとんど眠れないまま、蒼白な顔で夜明けを迎えた。

昨夜の恐怖が、骨の髄まで染み込んでいた。幸運だっただけだ。次はないかもしれない。

もう、その場しのぎの道具では駄目だ。生き残るためには、この森の脅威と本気で渡り合えるだけの、信頼できる「武器」を作り上げるしかない。

その日から、健の全ては、その一点に注がれた。

彼はまず、武器の心臓となる「刃」を探すことに没頭した。

毎日、夜明けと共に川へ向かい、腰まで水に浸かりながら、川底の石を一つ一つ手にとって確かめていく。指先は冷たい水で感覚を失い、ふやけた皮膚は鋭い石の角で絶えず切り裂かれ、血が滲んだ。数日がかりで、ようやく黒くガラスのような光沢を持つ、硬く鋭利に割れる石を見つけ出す。

彼はその石の塊を、より硬い石で慎重に、少しずつ打ち欠いていった。気の遠くなるような作業の末、ようやく手のひらほどの大きさの、鋭い穂先の形をした石の刃が完成した。

次は、その刃を支える「柄」だった。硬さとしなりを両立する若木を丸一日がかりで切り出し、最高の素材を揃える。

だが、本当の苦闘は、二つを一つにする「固定」という最大の問題だった。

蔓で縛るだけでは、衝撃で刃がすぐに緩んでしまう。何十回と失敗を繰り返し、心が折れかけた時、彼は粘土と樹液を混ぜ合わせることを思いつく。天然の接着剤を作り、刃と柄の接合部にたっぷりと塗り込み、その上から濡らした蔓で力強く縛り上げる。そして焚き火の遠火で、一昼夜かけてじっくりと乾燥させた。

そして、運命の朝が来た。

完全に乾燥した槍は、手に取るとずしりと重く、接合部は石のように硬く一体化していた。健は意を決し、昨日、何度も彼を絶望させたあの木の幹に向き直る。全身のバネを使って、渾身の力で突き出した。

ゴッ、という腹の底に響くような、鈍く重い衝撃音。

凄まじい振動が腕を駆け上がったが、槍はびくともしなかった。穂先は幹の分厚い皮を貫き、深く食い込んでいる。引き抜いても、刃は少しもぐらついていない。

「できた……! できたぞ……!」

健は、完成した石槍を天に掲げ、歓喜の声を上げた。

それは、彼がこの世界に来て初めて、恐怖を克服するために、自らの知恵と意志と努力の全てを注ぎ込んで生み出した、勝利の証だった。

その瞬間、健の脳裏に、あの鮮明な感覚が奔流となって流れ込んできた。

石の性質の見極め方、最適な打ち欠き方、木の繊維の読み方、蔓の強靭な結び方、樹液と粘土の最適な配合比率。自分が何日もかけて、無数の失敗の末にようやく手探りでたどり着いた答えの全てが、体系化された一つの巨大な知識として、彼の魂に刻み込まれていく。

まるで、身体の細胞一つ一つが、世界のことわりを一つ学んだと歓喜しているかのようだった。

そして、その知識の奔流の最後に、まるで付録のように、一つの情報が頭の中にそっと置かれた。

それは、自分自身を客観的に知るための方法だった。

『ステータス……?』

ゲームや物語でしか見たことのない単語が、ごく自然な概念として頭に浮かんだ。そして、それを強く意識すれば、自分自身の状態が「見える」のだという。

『馬鹿な……そんなことが……』

半信半疑ながらも、健は心の内で強く念じた。

――ステータス、オープン。

すると、彼の眼前に、淡い光を放つ半透明の板のようなものが、ふわりと浮かび上がった。そこに映し出された文字列を、健は呆然と見つめた。

名前: サトウ ケン

種族: 人間ヒト

称号: 迷い人

レベル: 1

体力(HP): 85/85

魔力(MP): 5/5

筋力(STR): 7

耐久力(VIT): 6

敏捷性(AGI): 8

器用さ(DEX): 12

スキル:

* 【原始的な武具作成技術:Lv.1】

* 【原始的な道具作成技術:Lv.1】

「なんだ……これ……」

かすれた声が漏れた。

やはり、ここは自分が知る世界とは全く違う法則で動いているのだ。その事実を、改めて突きつけられる。

数値は、悲しいほどに平凡だった。いや、おそらくこの世界の基準で言えば、著しく低いのだろう。筋力や耐久力は、成人男性の平均にも満たないかもしれない。魔力に至っては、あるのかないのか分からないような微々たる数値だ。

異世界に来たからといって、特別な力が宿るわけではない。これが、32年間ごく普通に生きてきた、佐藤健という人間の、ありのままの能力値なのだ。

だが、彼は絶望しなかった。

視線は、スキルの欄に釘付けになっていた。

【原始的な武具作成技術:Lv.1】

【原始的な道具作成技術:Lv.1】

この二行だけが、彼の努力の結晶として、確かにそこに存在していた。火を起こし、接着剤を作り、そして今、武器を完成させた。その一つ一つの苦闘が無駄ではなかったという証明。誰かから与えられたチートではない。自らの血と汗によって、この世界の理から勝ち取った、正真正銘の、自分だけの力だ。

「……そうか」

健は、そっとステータス画面を閉じた。

目の前には、先ほど突き立てた木の幹に、深く刻まれた傷跡。そして手には、確かな重みを持つ石槍。

『レベル1でも、スキルが1でも、関係ない』

彼は、静かに槍を構え直した。

瞳には、もはや以前のような怯えや絶望の色はなかった。

あるのは、自分の現在地を正確に把握し、これから何をすべきかを見据える、静かで、しかし鋼のように硬い決意だけだった。

その様子を、少し離れた木々の影から、集落の少年が息を殺して見つめていることには、まだ気づいていなかった。


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