始まり,生命の火
夜の闇は、底なしの絶望のように冷たく、静かだった。
健は無心で石を打ち合わせ続ける。カチッ、カチッ、という硬質な音が、自身の孤独を際立たせるように響く。指の感覚はとうに麻痺し、何度か打ち損ねてぶつけた親指の付け根からは、じわりと血が滲んでいた。それでも彼は手を止めない。止めてしまえば、心が折れてしまいそうだったからだ。
『なぜだ……なぜ火花の一つも散らない……!』
焦りが思考を支配する。ただの石では駄目なのだということは、本能的に理解していた。火花を生むには、もっと硬く、角の立った、特別な性質の石が必要なはずだ。しかし、この暗闇の中で、足元に無数に転がる石の中からそれを見分ける術など、健にはない。手当たり次第に拾った石を打ち合わせる、非効率で絶望的な作業を繰り返すだけだった。
体力も、精神も、まさしく限界だった。
集落の門前で突きつけられた、槍の穂先の冷たさ。自分を汚物でも見るかのように眺めていた、住民たちの瞳。それらが脳裏に焼き付いて離れない。やっとの思いでたどり着いた人の営みは、彼にとって安息の地ではなく、より深い孤独を突きつけるただの絶壁だった。
『もう、いいか……。このまま、凍えて眠るように死ぬのも……』
一瞬、悪魔のような囁きが心をよぎる。石を持つ手が、ぴたりと止まった。
その時だった。
集落の方から、風に乗って微かな音が聞こえてきた。それは、子供のものと思われる、屈託のない笑い声だった。暖かな家の中、家族に囲まれて過ごす、幸福な時間の響き。
その無邪気な音が、健の心の奥底に、小さな、しかし鋭い棘のように突き刺さった。
『冗談じゃない……』
健は、ゆっくりと顔を上げた。
彼の目に映ったのは、遠くで揺らめく集落の灯り。自分があそこへ入ることを拒絶された、暖かな世界の象徴。
『あいつらが、当たり前のように火を使い、笑い合っている時に……俺がこんな所で、みじめに凍え死んでたまるか……!』
それは怒りに近い感情だった。理不尽な世界に対する、そして何より無力な自分自身に対する、燃え上がるような憤り。その黒く熱い感情が、不思議なことに、凍てつきかけた彼の心に再び熱を注ぎ込んだ。
健は再び、狂ったように石を打ち始めた。今度は、ただ闇雲にではない。石同士がぶつかる角度、振り下ろす速度、込める力加減。その全てに全意識を集中させる。何度も、何度も、何度も。
そして、数百回目だったろうか。
これまでとは違う、カッと鋭い金属音と共に、暗闇の中にオレンジ色の小さな光が、確かに瞬いた。
「……!」
火花だ。
ほんの一瞬で闇に消えてしまう、儚い光。しかし、それは健にとって、この世界で初めて自らの手だけで掴み取った、確かな希望の光だった。
彼は急いで、昼間のうちにかき集めておいた、乾燥した木の皮や枯れ草の塊を慎重に手元へ引き寄せる。心臓が早鐘のように鳴っていた。失敗は許されない。
再び石を打ち合わせる。一度捉えた感覚を頼りに、最適な角度を探る。
カッ、と鋭い音。散った火花が、用意した火口の上に着地した。小さな赤い点が生まれ、じりじりと燻り始める。
『消えるな……消えるな……!』
健は神に祈るような気持ちで、その小さな火種に、そっと息を吹きかけた。慎重に、優しく、空気を送り込む。赤い点は徐々に広がり、やがて頼りない煙が立ち上り始めた。さらに息を吹き続けると、ぼっ、という小さな音と共に、炎が燃え上がった。
「ついた……火が……」
揺らめく炎が、健の疲れ切った顔を照らし出す。その頬を、熱い雫が伝っていた。それは安堵か、喜びか、あるいは自分という存在をこの世界に証明できたことへの感動か。彼自身にも分からなかった。ただ、燃え盛る炎から目が離せなかった。
彼は慌てて用意していた小枝をくべ、徐々に太い枝へと火を移していく。やがて、焚き火はパチパチと心地よい音を立て、安定した光と熱を放ち始めた。闇と冷気が後退し、暖かな光の輪が生まれる。それは、健がこの世界で初めて作り上げた、自分だけの、安全な領域だった。
火の暖かさは、凍えた身体だけでなく、ささくれだった心までをも優しく癒していくようだった。ようやく人心地がつくと、忘れていた強烈な空腹感が、再び彼を襲ってきた。
火は手に入れた。次は、食料だ。
『あの川には、魚がいた……』
昼間、川沿いを歩いている時に、何度か魚影を見かけたことを思い出す。もちろん、釣り竿も網もない。ならば、原始的な方法で獲るしかない。
夜が明け、空が白み始めると、健は行動を開始した。彼はまず、武器となるものを作ることにした。川辺で手頃な太さの、まっすぐな枝を見つけ出す。次に、硬くて角の鋭い石を探し出し、それを粗末なナイフ代わりにして、枝の先端をひたすら削り始めた。
気の遠くなるような、根気のいる作業だった。石の刃はすぐに丸くなり、思うように木を削れない。何度も指を切り、血が滲んだ。それでも彼は、黙々と手を動かし続けた。
昼過ぎになって、ようやく一本の、不格好な槍と呼べるものが出来上がった。先端は尖っているとは言え、お世辞にも鋭いとは言えない代物だ。
『こんなもので、本当に魚が獲れるのか……?』
不安がよぎるが、他に方法はない。彼は完成した槍を手に、川の浅瀬に立った。冷たい水が足の感覚を奪っていく。水面をじっと見つめていると、時折、小さな魚がすばしこく横切るのが見えた。
チャンスを窺い、魚が射程に入った瞬間、力任せに槍を突き立てる。
しかし、槍は虚しく水をかき混ぜるだけだった。水の屈折で見た目と実際の位置がずれること、そして魚の動きが予想以上に素早いこと。それらを全く計算に入れていなかったのだ。
その後も、何度も、何度も挑戦した。魚を見つけては槍を突き、水しぶきを上げる。その繰り返し。身体は芯まで冷え切り、空腹で目眩がする。
「くそっ……!」
焦りと空腹で、集中力が切れかかっていた。諦めて、またあの得体の知れない木の実を食べるしかないのか。そんな弱気が頭をよぎる。
その時、比較的大きな魚が、すぐ足元で動きを止めたのが見えた。川底の苔でもついばんでいるのだろうか。
これは、千載一遇のチャンスかもしれなかった。
健は呼吸を止め、全身の意識を槍の先端に集中させる。水の屈折を考慮し、狙いを少し下へ。そして、今度こそ、という祈りを込めて、静かに、そして素早く槍を突き出した。
ズン、という確かな手応え。
槍の先端で、何かが暴れる生命の感触が、腕に伝わってきた。
「やった……!」
彼は急いで槍を引き上げる。その先端には、一匹の銀色の魚が体をくねらせて突き刺さっていた。決して大きくはない。だが、それは紛れもなく、健が自らの知恵と努力だけで手に入れた、この世界で初めての食料だった。
健は急いで自分のねぐらに戻り、焚き火で魚を焼いた。串に刺して火で炙るだけという、これ以上ないほど原始的な調理法。もちろん、塩すらない。
やがて、魚の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。それは、どんな高級料理の香りよりも、健の食欲を強烈に刺激した。
十分に火が通ったのを確認し、熱いのも構わずにかぶりつく。
少し泥臭く、生臭さも残っている。だが、その素朴な白身の味は、健の身体の隅々まで染み渡っていくようだった。
『うまい……』
コンビニの弁当を当たり前のように食べていた、数日前までの自分が信じられない。食べ物がそこにあることが、どれほどありがたいことか。生きるということが、どれほど大変で、そして尊いことか。彼は、生まれて初めてそれを心の底から実感していた。
一匹の魚を骨までしゃぶり尽くすと、ようやく腹は満たされ、心地よい疲労感と満足感が彼を包んだ。
健は燃え続ける焚き火の前に座り、自分がたった今乗り越えてきたことを反芻する。火を起こし、道具を作り、食料を得た。特別な力などなくとも、知恵を絞り、諦めずに努力すれば、生きていくことができる。その小さな成功体験が、彼の中に確かな自信を芽生えさせていた。
彼はふと、遠くに見える集落の柵に目をやった。
まだ、あの場所は彼を拒絶している。だが、以前のような絶望は感じなかった。
『今はまだ、これでいい。まずは、独りで生き抜く力をつけるんだ』
それが、この理不尽な世界で生きていくための、最初の、そして最も重要な一歩なのだから。
健は焚き火に薪をくべ足した。パチリと火の粉が舞い、夜の闇へと消えていく。
その様子を、集落の高い柵の上にある見張り台から、一人の少年がじっと見つめていることには、まだ気づいていなかった。




