拒絶の門
夜明けの光が、木々の隙間から淡く差し込んでくる。
健は、身体の芯まで凍えるような寒さで目を覚ました。ほとんど眠れなかった。岩陰は吹き付ける風を多少は遮ってくれたが、夜の森の冷気は容赦なく体力を奪っていく。空っぽの胃がキリキリと痛み、立ち上がる気力さえ湧いてこない。
しかし、動かなければ死ぬ。
その冷徹な事実だけが、健の身体を重々しく突き動かす唯一の力だった。
『この川に沿って下れば、何かあるはずだ。人里か、あるいは海か……。とにかく、この閉ざされた森から出られる場所に繋がっているかもしれない』
彼は小川まで這うようにして進み、突き刺すように冷たい水で顔を洗った。喉の渇きだけを潤し、頼りない足取りで、再び川沿いを下り始めた。
道なき道を進むのは、想像を絶するほど過酷だった。
ぬかるみに足を取られ、鋭い茨に安物のスーツはさらに引き裂かれ、露出した肌は無数の切り傷と擦り傷だらけになっていく。時折、鮮やかな色をした木の実が目に留まったが、それが食べられるものなのか、それとも口にした瞬間に命を奪う猛毒を持つのか、健には判断する知識がなかった。
『下手に食って死ぬわけにはいかない……。今は、水だけで耐えるんだ』
彼は乾いた唾を飲み込み、狂おしいほどの空腹を意志の力でねじ伏せて、ただひたすらに先へと進んだ。
日は昇り、そして中天を過ぎ、やがて森の向こうへと傾いていく。
同じような景色が延々と続き、まるで無限の緑の牢獄に閉じ込められたかのように、精神がじりじりとすり減っていくのが分かった。
夜になれば、少しでも安全そうな場所を見つけて丸くなり、闇の奥から聞こえる得体のしれない獣の声に怯えながら、浅い眠りにつく。
そんな絶望的な日々が、一体何日続いただろうか。
三日か、五日か。もはや日付の感覚は、完全に失われていた。
疲労が限界に達し、空腹で意識が朦朧とし始めた、ある日の昼下がりだった。
健は、川の向こう側の森が途切れるあたりから、細く、しかし確かに立ち上る一本の煙を、その目に捉えた。
「煙……?」
最初は目の錯覚かと思った。疲労が見せる幻覚かもしれない。
だが、何度まばたきをしても、その淡い灰色の筋は消えることなく、空へと昇っている。
煙は、人が火を使った揺るぎない証拠だ。
『人が……いる!』
その事実に気づいた瞬間、枯渇したはずの健の全身に、最後の活力が爆発するようにみなぎった。
彼は残された全ての力を振り絞り、煙が立つ方角へと向かって走り出した。もつれる足を叱咤し、木の根に躓いて何度も転びながら、それでもただひたすらに前へと進む。助かる、その一心で。
やがて、視界が大きく開けた。
そこにあったのは、粗末な丸太を荒々しく組み上げた、高い柵に囲まれた小さな集落だった。建物は質素だが、間違いなく人の営みがそこにはあった。
健はよろよろと、柵に設けられた簡素な門へと近づいていく。
門の前には、錆びた槍を無造作に抱えた一人の男が、退屈そうに立っていた。見張りだろう。日に焼けた精悍な顔つきで、獣の皮をまとっただけの、原始的な服装をしている。
「あ、あの……!」
健がかすれた声で呼びかけると、門番の男は訝しげな視線を彼に向けた。
その視線は、まるで値踏みするかのように、健の頭のてっぺんから泥だらけの革靴の先までを、じろりと舐め回す。そして、ズタズタになったスーツ姿を見たところで、その目に明らかな侮蔑の色が浮かんだ。
「助けてください……! 森で遭難して……何日も、何も食べてなくて……」
必死に訴えかけるが、男の表情は一切変わらない。
それどころか、健が発する言葉が全く理解できないといった風に、怪訝な顔で眉をひそめている。健の話す日本語が、この世界では全く通じないのだ。
『言葉が、通じない……!』
絶望的な事実に気づきながらも、健は諦めなかった。身振り手振りで、何かを食べる仕草や、水を飲む仕草、そして眠る仕草を必死に繰り返してみせる。自分が安全な場所を求める、無害で困窮した人間であることを、全身で伝えようとした。
しかし、その必死の訴えは、門番の固い心を溶かすことはなかった。
男は槍の石突で地面をドンと強く突き、腹の底から出すような大声で何かを叫んだ。
それは威嚇であり、疑いようもなく、明確な拒絶の意思表示だった。
「よそ者は失せろ!」
言葉の意味は分からなくとも、そう言っているのだと、健の心は直感で理解してしまった。
その騒ぎを聞きつけて、集落の中から数人の住民が顔を覗かせた。屈強な男、子供を抱いた女、白髪の老人。彼らもまた、健を一瞥すると、汚物でも見るかのような冷たい視線を向けるだけだった。好奇の目、警戒の目、そして侮蔑の目。そのどれもが、救いを求める健の心を鋭く突き刺す。助けの手を差し伸べようとする者は、誰一人としていなかった。
『なんだよ……なんでだよ……! やっと、やっと人に会えたのに……!』
最後の希望が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。
それでも、健がなおも食い下がろうと、門へ向かって一歩前に出た、その瞬間。
門番が獣のような怒鳴り声を上げ、持っていた槍の穂先を、電光石火の速さで健の喉元に突きつけてきた。
ひやり、とした冷たい金属の感触が、肌を刺す。
これ以上近づけば、本気で殺す。
その無言の、しかし絶対的な殺意が、槍の先端からびりびりと伝わってきた。
健は、なすすべもなく、ゆっくりと後ずさるしかなかった。
集落の人々の冷たい視線が、無防備な背中に突き刺さる。彼は力なくその場に膝をつき、遠ざかっていく集落の門を、ただ呆然と見つめていた。
陽が落ち、再び森に夜の帳が下りた。
健は、集落の壁が遠くに見える、森の入り口あたりで動けずにいた。あの場所に戻る勇気も、さらに森の奥深くへと進む気力も、もう残ってはいない。
人のいる場所にたどり着きながら、そこにも自分の居場所はなかった。
その残酷な事実が、森で独りだった時以上の、底なしの孤独と絶望を健に味あわせる。
『これから、どうすればいいんだ……』
涙さえ、もう出なかった。ただ、虚無感が全身を支配していた。
それでも、腹は減る。身体は寒さを訴える。生きている限り、生命の根源的な要求からは、決して逃れられない。
やがて、健は、何かに取り憑かれたようにゆっくりと身体を起こした。
震える手で地面をまさぐり、乾いた小枝や落ち葉を、無心でかき集め始める。ボーイスカウトで習った、原始的な火の起こし方を、試してみるためだ。
『火を……起こすんだ……。あいつらに頼らなくても、俺は独りで……』
それは、生きることを諦めないという、彼の最後の、そして唯一の抵抗だった。
集落から漏れ聞こえる人々の声と、暖かな光が、まるで別世界の出来事のように、手の届かない場所で揺らめいていた。




