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二つの滝が見下ろす森

土の匂いと、肺を満たす湿った空気。それで佐藤健さとう けんは目を覚ました。

背中にひんやりとした感触が広がる。自分が硬い地面の上に直接横たわっているのだと理解した。ぼやける視界に映ったのは、見たこともない木々の葉が幾重にも重なる光景だった。その隙間から覗く深い藍色の空には、信じられないものが浮かんでいる。


「月が……二つ?」


一つは慣れ親しんだ、穏やかな光を放つ乳白色の月。そしてもう一つは、その隣で不気味なほど赤みを帯びた、一回り小さな月。両方がくっきりと、そこに存在していた。


『夢か……』


健はそう思い、ゆっくりと身を起こした。全身は泥と草で汚れ、昨日まで着ていたはずの安物のスーツは見るも無惨な状態だ。ポケットを探ると、ひび割れた画面のスマートフォンと、くたびれた革の財布が出てきた。スマホの電源は入るが、左上には無情にも「圏外」の二文字が表示されている。時刻も日付も、めちゃくちゃな文字列に化けていた。


健には、今の状況が全く理解できなかった。

昨夜は会社の飲み会で少し飲みすぎたはずだ。終電間際の電車に揺られ、最寄り駅で降りて、自宅アパートへの道を歩いていた。そこまでの記憶は確かだ。だが、その後の記憶がすっぽりと抜け落ちている。


周囲を見渡せば、どこまでも鬱蒼とした森が続いている。見たこともない奇怪な形をした植物が、月明かりに妖しく照らされていた。日本のそれとは明らかに違う、濃密な生命の気配が満ちている。


「なんだよ、これ……」


声が震えた。

『誘拐か? いや、それにしては不自然すぎる。手の込んだドッキリ? 誰が、何のために』

思考は迷宮に迷い込む。健はごく平凡な32歳のサラリーマンだ。取り立てて優れた能力があるわけでも、特殊な技能を持っているわけでもない。そんな自分がなぜこんな場所に。


ひとまず、動かなければならない。ここにいても状況は変わらない。

健は立ち上がり、どちらへ向かうべきかも分からぬまま、比較的歩きやすそうな方角へと足を進めた。革靴はぬかるんだ地面に何度も足を取られ、すぐに泥だらけになった。


---------------------------------


どれくらい歩いただろうか。一時間か、あるいは三時間か。時間の感覚さえ曖昧になっていた。喉は焼け付くように渇き、足は鉛のように重い。体力の限界が近づいてくる。平凡な男の身体は、過酷な自然環境に早々と悲鳴を上げていた。


「くそっ……何で俺が……」


ついに膝が折れ、健はその場に崩れ落ちた。地面に手をつき、荒い息を繰り返す。心臓が早鐘のように打ち、視界が明滅した。


『死ぬかもしれない……』


その考えが脳裏をよぎった瞬間、全身から力が抜けていくような感覚に襲われる。スキルも、魔法も、特別な力もない。あるのは疲れ果てた身体と、絶望に染まりつつある心だけだ。


諦めかけたその時、ふと、子供の頃の記憶が蘇った。小学生の時、数年間だけ入っていたボーイスカウトの記憶だ。キャンプで教官が言っていた言葉が、頭の中で再生される。


――森で迷ったら、まず水を探せ。水は生命線だ。そして水は、必ず低い方へ流れる。


『……低い方へ』


かすれた声で呟き、健は顔を上げた。最後の力を振り絞り、周囲の地形を観察する。幸い、今いる場所は緩やかな下り坂になっているようだった。単純な理屈が、今の彼にとっては唯一の希望の光となった。


彼は再び立ち上がり、一歩、また一歩と坂を下っていく。何度も木の根に足を取られて転び、スーツはさらに破れ、膝からは血が滲んだ。それでも、歩みを止めなかった。


やがて、耳が微かな音を捉えた。サラサラという、水の流れる音だ。

音のする方へ、まるで何かに引き寄せられるように進む。木々の合間を抜けると、月明かりを反射してきらきらと光る、小さな小川が目の前に現れた。


「水だ……!」


健は小川のほとりに倒れ込むようにしてたどり着くと、両手で水をすくい、夢中で口に含んだ。土の味が混じった冷たい水が、乾ききった喉を潤していく。


ようやく人心地がつくと、今度は強烈な空腹感が彼を襲った。そして、森の奥から響き渡る得体のしれない獣の遠吠え。寒さと恐怖が、濡れた身体を震わせる。


『生き延びるためには、食料と、安全な寝床が必要だ』


健は小川の周囲を注意深く見回し、人が一人なんとか入れるくらいの大きさの岩陰を見つけた。完璧な避難場所とは言えないが、何もないよりはずっといい。彼はそこに身を滑り込ませ、膝を抱えてうずくまった。


特別な力は何もない。チートと呼ばれるような便利な能力も、頼れる仲間もいない。


あるのは、乏しい知識と、平均以下の体力、そして「生きたい」という本能的な叫びだけだ。


『死んでたまるか……絶対に、生きて帰るんだ』


岩陰で小さく震えながら、健は固く誓った。

平凡な男の、純粋な努力と意志だけを武器にした異世界での闘いが、今、静かに幕を開けた。

夜空に浮かぶ二つの月が、その小さな決意を、ただ黙って見下ろしていた。

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