昔と今の育児から
「次は特別授業だったよね?なにやるんだろ?」
「講師呼んで講演だってさ。育児の歴史について」
「寝ちゃおっかな?」
休み時間、保育科の生徒たちは楽しげに話す。
「感想文の提出あるからちゃんと聞こうぜ」
「保育の一時預かりのために知っとこうよ」
「そうそう。机を班の形にしとけってさ」
声と同時にチャイムが鳴り先生たちがやってきた。
「みんな早く着席してね。欠席扱いにするよ」
先生の声に生徒がバタバタと席に戻り班を作る。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ではこれから育児の歴史を学びます」
そう話すと先生は場を講演者に譲った。
講演者は軽く自己紹介をして授業が始まる。
「気になることがあったらすぐ質問してね」
開口一番講演者は生徒たちに伝えた。
「随時受け付けてるからね。軽くなら相談もOKよ」
「わかりました。どんな質問でもいいんですか?」
「んー5W1Hはしっかりしてほしいかな」
委員長の回答に講演者は気さくに答える。
「皆さんはこれから保育士になるわけですから」
いつ、どこで、だれが、なにを、どうした。
乳幼児も答えやすい聞き方をしてと講演者は言う。
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「まずは昔の育児についてかな」
講演者が話しだすと生徒たちはメモを取り始める。
「皆さんは昔と聞くとどれくらい前と思いますか?」
いきなりの質問に生徒たちは面を食らう。
「えーっと……バブルがはじけたぐらい?」
「高度経済成長期かな?」
「ぶっちゃけ戦後!」
自分たちは質問側と思っていた生徒たちが答える。
「そうですね、どれも転換期とも言えますね」
相談して出した答えもあり講演者は満足げに返す。
「私の知ってる記録によれば明治ですね」
「そんな昔!?」
「ひょっとしたら江戸や室町も当てはまるかも」
記録に残っているのが明治の文献と講演者は話す。
「海外からは子どもの楽園と呼ばれていたそうです」
その頃に来日した記録を講演者は続ける。
「子どもが子どもの世話をして走り回っていました」
講演者の話を聞き生徒たちはざわつき始めた。
「ホント昔なんだなあ……」
「赤とんぼとかの時代かな?地域全体での子育て」
「ずっと昔から続いてたのね……」
男子生徒も女子生徒も思い思いの言葉を口にする。
「その頃はどんな育児だったんですか?」
「おんぶや抱っこが主流でしたね」
ざわざわした中で委員長の質問し講演者が答えた。
「それだけですか?」
さらに質問を続けようとして委員長は言いよどむ。
「聞きたいことはわかります」
講演者は優しく微笑み委員長を胸中を察する。
「体罰や偏見などですね?」
「はい、それも含めていろいろあったと想像します」
委員長は安心した様子で講演者に聞き返す。
「次の世代にはよかったものだけを残していきたい」
講演者は静かにはっきりとした口調で口を開く。
「この思いも受け継いでくれると嬉しく思います」
「はい。ありがとうございました」
「戦後はどうなったんです?」
委員長のお礼のあと男子生徒が質問する。
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「核家族化が始まりました」
「都市部への移住とかですか?」
「そうですね、高度経済成長期も重なりました」
「育児はどう変わったんですか?」
「海外の育児のやり方が伝わってきました」
講演者が先生に視線を送る。
それを受けて先生はパソコンを操作し始めた。
「ベビーカーとかですか?」
何人かで相談してひとりの女子生徒が代表で聞く。
「それもありますね」
黒板の画面が切り替わり講演者は話を続けていく。
「ベビーシッターやナニーさんの技術も来ました」
「どんな技術なんですか?」
「保育のプロの技術で、日本の保育園に似ています」
生活リズムやしつけなどの例を講演者は挙げる。
「これらを駆使した子育てが核家族の中心ですか?」
「それと日本古来のものになりますね」
日本古来と海外の子育てがふたつ。
高度経済成長期にできた子育ては今も続いている。
そう講演者は生徒たちに伝えた。
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「その後バブル崩壊後に困ったことが起きます」
「日本が子どもの権利条約に批准した時期ですか?」
「その辺りですね。ふたつの育児の差がでました」
「どんな差があったんですか?」
「そうですね例えば――」
黒板の画面が切り替わり文字が浮かび上がっていく。
『泣いたら抱っこと泣くのも運動』
『しつけは厳しくとしつけは甘く』
『規則正しい生活と自由奔放な生活』
文字が浮かび終えると少し間を置いて講演者は話す。
「大きく分けるとこんな感じですね」
「抱っこやおんぶとベビーカーもですか?」
女子生徒が質問する。
講演者は質問を肯定すると口調を強めて言う。
「ベビーカーにはプラスしてほしいものがあります」
「なんですか?」
「愛です」
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愛と聞いて男子性も女子生徒もざわつき始める。
「乳幼児への愛はふたつあります」
心理学者マズローが説いた話を講演者は始めた。
講演者が説明を続けるとざわめきも置ちつきだす。
「ひとつ目は条件付きの愛ですね」
「どんなものですか?」
「どんなものだと思います?」
質問を質問で返された男子生徒は口をつぐむ。
「回答者が答えやすい質問をお願いしますね」
聞いたら答えが返ってくる。
これで社会に出たら痛い目を見ると講演者は言う。
「その質問に意味があるかを考えると良いですよ」
言いたいことは明日言えの格言を講演者は告げる。
「条件付きの愛とはしつけとかでしょうか?」
生徒たちが緊張し委縮する中で委員長は質問した。
「そうですね。しつけも関係はありますよ」
講演者の返答に教室内の緊張が和らぐ。
「約束を守ったから、言うことを聞いたからですね」
「大人の要求に応える返礼が条件付きの愛?」
女子生徒と相談していた男子生徒が質問する。
「そうなりますね。条件をクリアした見返りです」
「もうひとつの愛は?」
なにか言いたげな様子で女子生徒が聞く。
「純粋な愛もしくは無条件の愛と呼ばれています」
気持ちを汲んでか優しげな口調で講演者は答えた。
「愛しているよ。生まれてきてくれてありがとう」
子どもの存在そのものに注ぐ愛と講演者は説う。
「その愛を注ぐと子どもはどうなりますか?」
「自分に自信を持つようになります」
「おんぶや抱っこの時もした方がいいですか?」
「お任せします」
「え?おんぶや抱っこでは省略できるんですか?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問に講演者はひとつずつ答えた。
「おんぶや抱っこ自体が無条件の愛だからです」
日本古来の子育ては行動で愛を示していた。
「ぬくもりと一緒に愛も伝わっていたのでしょう」
「ならずっとおんぶや抱っこでいいじゃん」
男子生徒がポロリと本音をこぼす。
「おんぶ紐や抱っこ紐の使用の目安は2時間ですね」
「え?どうして?」
「疲れちゃうんです。おんぶや抱っこは」
講演者の言葉に生徒たちは首をかしげる。
「皆さんはまだ若いから大丈夫と思えるのでしょう」
微笑を浮かべ講演者は口を開く。
「今は晩婚化の影響もありますし」
顔を元に戻して講演者は話を続ける。
「二人目三人目を見ながらでは老いも感じえます」
雲を掴む話なのか生徒たちはきょとんとしていた。
少し沈黙が流れるとどこかで相談の声が始まる。
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「昔はどうだったんだろうな」
「地域全体で世話してたって前に授業でやったよ?」
「ああそうか。世話する人はたくさんいたのか」
男子生徒と女子生徒数人の話し声が教室を包む。
「今は核家族だからなあ」
「ワンオペ育児で赤ちゃん泣くたびに抱っこするの?」
「んなことしたらぶっ倒れるな」
「だから男性の育児休暇が――ってふたりだけか」
「完璧すぎると倒れるなら状況で使い分けようかな」
相談する声がここで止まる。
また静寂が訪れた。
そこから少しして委員長が口を開く。
「親が疲れた時のための一時保育でしょうか?」
「それもありますし気分転換の意味もあります」
「気分転換ですか?」
「ストレスたまりますからね、育児は」
「子どもがわがままだからですか?」
女子生徒が会話に入ってきた。
「そうですね、脳が発達中だからですね」
講演者は教室全体を見て答える。
生徒たちは徐々に我に返ってきていた。
「脳は20~30歳ぐらいで一通り完成します」
「私たちも発達中ですか?」
「そうです。感情の抑制は20代で完成しますよ」
抑制は前頭前野で行われると講演者は話す。
その発達は2~3歳ごろから始まると続けた。
「3歳までは脳が発達するゴールデンタイムなんです」
「その間にしっかりと愛を伝えればいいのですか?」
「はい。その通りです」
「愛情を注いだ子どもはどんな感じに育ちますか?」
「どんな壁にぶつかっても乗り越えられる力が育ちます」
三つ子の魂百までもと講演者は諺を用いて問う。
「愛を注ぐのは誰が行えばいいのでしょう?」
「親や保育士ですか?」
「育児を知っている人なら大丈夫です」
人との関わりが心を豊かにすると講演者は話す。
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「あの……無条件の愛の質問いいですか?」
メモを取る男子生徒がおずおずと声を上げる。
「はい良いですよ」
講演者は温かい目で微笑む。
「愛は言葉だけで与えられますか?」
話に追いつこうとする姿が誰の目からも見えた。
「ハグやアイコンタクトもあると嬉しいですね」
赤ちゃんを抱っこからベッドやいすに移すと泣く。
視線の高さを合わせ目が合ったら微笑む。
そうすることで愛情は注がれると講演者は話す。
「キスはどうでしょうか?」
「虫歯菌が移る説があります。フーフーも一緒です」
男子生徒の質問に生徒たちはペンを走らせる。
「なので免疫が育つ3歳を過ぎてからでお願いします」
男子生徒は集中してメモを取り続けていく。
「ハグや語りかけは毎日ですか?」
それを見ていた同じ班の女子生徒が質問する。
「はい。春夏秋冬愛情を注ぐものです」
「夏の暑い時期もかー」
「クーラー使えばいいじゃん」
男子生徒と女子生徒の会話が場を和ませた。
「乳幼児は素直なのでおいでしたらすぐ来ますし」
講演者は速度を落として話を続ける。
「お風呂上りのタオルハグも効果的ですね」
お休み前のハグも有りと言って一旦話を区切った。
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「さて、育児をしていくとたまるのはストレスです」
講演者はストレスの話題に内容を戻す。
「体罰や虐待もストレスが原因という説もあります」
「昔はどうしていたのですか?」
「両親に預けて夫婦で外出で対処していました」
「あー今は核家族だから」
「俺のじいちゃんばあちゃん遠方だわ」
生徒たちが率直に言葉をもらす。
「そこで一時預かりやサポートセンターの出番です」
講演者の言葉を受けて委員長が質問する。
「子ども預けて遊ぶのはちょっと……」
「保育士はプロですし体罰対策も兼ねています」
回答の直後に男子生徒から質問が飛ぶ。
「例えばどんな時に預けますか?手をあげそうな時?」
「それもあれば映画見たりラーメン食べたりですね」
「ラ、ラーメン?」
講演者の言葉に生徒たちがどよめく。
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「ジョークかな?」
「赤ちゃん泣いたら麺伸びちゃうでしょ」
「あんかけちゃんぽんでどうよ?」
生徒たちがひそひそと相談する。
「ちゃんぽんな理由は?」
「野菜も摂りたいからかな?」
「そ。あんかけならアツアツ維持できるし」
男子生徒が自信をもって答えた。
「それだと赤ちゃんやけどするんじゃ……」
「あ」
女子生徒の声に男子生徒は理論の穴に気づく。
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「サポートセンターはちょっとしたときに頼ります」
講演者はごく自然に会話に入り補足をして続けた。
「昔の地域全体での育児でしょうか?」
「それもあります。根づきが遅いのが現状かな」
一度途絶えたものが復活するには時間がかかる。
イギリスの家庭料理も産業革命で一度消えた。
「地域の育児支援も時代に合わせて形を変えてます」
講演者はここで一息入れる。
生徒たちが書き終えるのを待っている様子だった。
「さて、先ほど伝えた通り今は晩婚化の時代です」
話を少しさかのぼり、講演者は口を開く。
「老いを感じたり疲れたりの時もあるでしょう」
生徒たちを見て講演者は質問する。
「この時にだっこをせがまれたらどうします?」
各班は一斉に相談をはじめた。
そして発表が始まる。
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「最後いろんな回答出ましたね」
授業が終わり講演者と先生と話しつつ廊下を歩く。
「そうね。若い意見が聞けて楽しかったわ」
少しの間だけだっこする。
アイコンタクトや会話で代替して明日の朝行う。
かわりにハグする。
ふたりは生徒たちが出した答えを口にしあう。
答えを一通り出し終えると講演者は先生を見る。
「次の世代を育ててくれてありがとう」
保育園の先輩として嬉しい限りと講演者は告げた。
「その節はありがとうございました」
「あの時はびっくりしたわ。新人バイトの第一声」
「保育科の先生になるので勉強させてください」
先生と講演者、ふたりの声が重なる。
職員室につくと会話が弾む。
「感想文どんなのが来るかしら」
「昔と今の育児を織り交ぜたものが来るといいなあ」
「来るわよ。園長先生の教えが根づいてるのなら」
ふたりは懐かしむ様子で園長先生の言葉を思い出す。
『子どもの個性は多岐にわたります』
『同じように各家庭の事情も多様性に満ちています』
『片方が日勤でもう片方が夜勤の家庭もあるし』
『両方とも在宅ワークの親もいるからこそ』
『昔と今を参考に育児支援を織り合わせましょう』
気がつけば交互に園長先生の言葉を口にしていた。
そしてまた笑みを交え会話と昔話の花が咲く。