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六月の温泉

作者: きりづみ

 「近代」のはじまりから百年――ここにまたひとつ新たな国民国家が誕生しようとしている。《王国》としては民族統一のために《帝国》打倒は欠かせない。《帝国》にとってみれば、《王国》による統一事業が完成することは過去にない脅威をもたらす。衝突は必然であった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 さわやかな六月の風が山を撫で、療養地として名高い山間の鉱泉の湯煙をかき消すように吹き抜けていった。深緑に抱かれた小さな温泉町。いまや民族の統一という運命を背負う国王は、離宮の庭園にて、静かに浴後の牛乳を愉しんでいた。冷えた牛乳ののどごしは、心労の絶えない国王にとって最上の快楽である。そこに《帝国》の大使が現れる。


「陛下、かの国の王位継承問題に貴王家がもはや永遠に関係することはないと明言していただきたい」


 彼にとってはどうしても欲しい言質。しかし、極上の時間を妨げられた国王にとって、この強気の要求は不快だった。国王は宮殿へ戻り、侍従武官を通じてもはや話すべきことはない旨を大使に伝える。この一連の事件を伝える電報が宰相のもとに届いたのは夕方のことだった。


「参謀総長、やれるか?」

「もちろん」

「ならば、仕掛けよう」


 翌十三日、《王国》最大手の新聞が一面に掲げたのは「陛下に対し前代未聞の侮辱」という煽動的な記事だった。記事を読めば、文面は曖昧さが残る。しかし、それがキモだった。《王国》国民の怒りを誘いながら、「本当のこと」しか言わない。これにより、国王が感じた「不快感」が国民感情と歩調を揃えることになる。他の各紙もこの「事件」を大きく扱った。


 しかし、この事件はむしろ《帝国》の世論を沸騰させた。各紙は《王国》の報道へ一斉に反駁。「大使は行動を誇張された」「《王国》の対応の方が無礼だ」――見出しは反論として十分な迫力を持っていた。筆鋒は《王国》の被害者面をこき下ろし、互いの報道合戦は国民感情を焚きつける焰となって燃え広がっていく。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 週があけた月曜日の午前、《帝国》軍は世論に押される形で臨時会議で国境への兵力増派と小規模な動員を決定。通達を作成するのは先月雇われたタイピストである。昼の休憩、外出を禁じられている彼女は「母親」に対して、「帰宅する日の予定を知らせ」、「品物の購入を依頼する」手紙を送る。検閲官は不審な内容が含まれていないか検査し、発送する。帝都の市内郵便は自転車で配送されるのですぐ届く。「母親」は《王国》南西部の「菓子店」に対して「さまざまな菓子を注文する」電報を送る。王都の某新聞社に送られてきた「南西部国境に現れた三毛猫が地元で有名に」という原稿が陸軍省調査課に密かに届けられたのは決定からわずか五時間のことであった。


 臨時の御前会議。


「これは我らの意志ではない。敵が挑発してきたのだ、そうだな。」


 そう国王が語ったのは、六分間に及ぶ沈黙の末だった。そこから先は早かった。

 

「限定戦争ではすまないな」

と陸相。

 

「むしろ、統一を確実にするためには屈服させるべきだ」

宰相の決意は固い。


「どうするにせよ、早々に勝ってもらわないと困る」

近年の戦争での戦費調整を一手に担ってきた蔵相の意見は重みを放つ。


「いまは鉄道は閑散期ですから必要な輸送はすぐに手配できます」

国有鉄道はこの時に備えてネットワークを強化してきた。


「全面戦争で短期戦、となるとオレンジかパープルだな。私はオレンジで奇襲した方が良いと思うが」

参謀総長は作戦計画を立案した張本人である。


「穀物の件があるから、いま《海向かい》との関係との関係を悪くされては困る。奇襲攻撃なんてしたら、かの国があちらへ手助けする可能性さえ否定できない」

外務大臣の額には玉のような汗が浮かんでいる。彼は先月、首相に《海向かい》との関係は良好で問題は全くないと報告したばかりだった。


「そうか、《海向かい》、か……こうなると、爾後の対処を考えるならパープルの方がよいな。先に行動したのは《帝国》だ。正当性を確保するにこしたことはない。その分、軍にとっては賭けになるが」

宰相のこの発言が決め手となった。

 

「確かに現下の情勢を鑑みるにパープルの方に利がありそうだな。パープルなら、二十日開戦ということになる。相手に時間を与えるから、動員の規模も拡大した方がよいな。奇襲ではない、というのがパープルのミソであるから、やるからには外務省には宣戦の時刻に万全を期していただきたい」

参謀総長の発言には外務大臣は頷くほかない。

 

 参謀本部が「南部国境での臨時演習の実施」を通達したのは《王国》時間で十六時のことである。常時充足している即応部隊はその日のうちに計画通りの臨時貨物列車に乗せられた。これまでたびたびあったように、部隊は「兵力欺瞞のために」「迂回して」輸送された。編成表の一部は意図的に誤って記載された。これまでの臨時演習と全てが同じだった。異なるのは、迂回した先が《帝国》に面する西部国境地域であり、欺瞞をする相手も「演習の仮想敵国」ではなく「真の敵」であるだけだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 十八日火曜日。召集令状が各地の予備兵の元に届き、連隊最寄駅には私服姿の若者が次々と現れた。それはまだ、新聞には載らぬ静かな戦争準備であった。《帝国》もなにかがあることには気がついた。だが、皇帝は違和感を異変として見つめることを拒んだ。


「先制するだと?いつもの威嚇演習だろう。刺激してどうする」


 この瞬間、「パープル」の成功は確定した。この日の《王国》の前線は、大規模な配置転換のため、まさに無防備な状態にあった。皇帝の優柔不断は「賭け」をそもそも発生させなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 十九日。この日、《帝国》では大きな動きがあった。なんと、国境へ増派される部隊の編成と人事が確定したのだ。朝には早くも急行列車で北部沿岸司令部付大隊が東部の《王国》国境へ転出していった。

 

 《帝国》のその将校は妻を愛していた。荷造りのために帰宅した彼は妻に増派される旅団の参謀として前線へ行くことを伝えた。彼が出発した後、妻は近所の友だちに愚痴を吐いた。その友だちのひとりの夫は記事のネタに飢えていた。かつては敏腕記者として出世コースのど真ん中を駆け上がっていた彼は、もはや挫折に苦しんでいた。通信社の六階、社会局。家からの電話で伝えられたネタをなんとしてでもモノにすべく記事の原稿を書く。午後三時。彼は菓子でも買おうかと、玄関の受付の前を通る。


「困るんだよねー、こういう軍隊の写真とか送ってきちゃう人。」


「いちおう政治局あたりの人に見せて、それから処分しちゃおうか」


 普段なら気にも留めない会話、しかし彼には直感が走った。


「ちょっと、その写真見せてくれ」


 兵士が急行列車から手を振っている写真。彼にはそれが国境への幹線で撮影されたものだとわかった。ご丁寧にも駅の時計が写り込んでいる。後ろには「祝 電信局落成」のバルーン。彼はその駅で電信局の完成式典が今日行われる、という情報を掴んでいた。彼の目は釘づけになる。彼は茶封筒の中を見る。地図にたくさん書き込まれている図形と線、そして文字。彼にはそれが軍の展開の図だとわかる。ほかにも、大砲を列車に積み込む兵士の姿、野営地に設置された臨時通信設備、そして訓示をする将校の姿まで明確に写っている写真。記事が採用されないと困る彼は、迷わず記事に写真と図を追加した。そしてその記事は夕刊に載ることとなった。「《帝国》軍、勇ましく前線へ」当時の社会局長は、「証拠写真がなければ掲載しなかった」と述懐している。


 その夕刊の最初の一部が印刷所から発送されたのは十五時五十七分。地方に送られるその運送ボックスの錠が現場判断で省略されがちなことも、駅で積み込む時に数分間誰も見ていない時間があることも、《王国》陸軍省調査課は調べつくしていた。


 そして、三十六分後――《帝国》時間十六時三十三分(《王国》時間十七時三十三分)。まだ市中で販売も配達もされていないはずのその夕刊を手に、《王国》の駐《帝国》大使が《帝国》外務省に現れた。


「貴国は、我が国に対し明確な敵意を持って動員を開始した」


 大使の言葉に驚いた《帝国》外務大臣は、思わず軍の措置を認めたと受け取れる発言をしてしまう。この瞬間が「パープル」の完成である。


 返す刀で、大使は国王の親書を手交する。その文面はすでに明確であった。事前に大使に届けられていた、国王にしか捺せないはずの国璽が捺された紙に、彼は先ほど秘密電報で届いた本文を清書したのだった。即時の断交と《王国》の外交官の引き上げを通告し、《王国》内の《帝国》外交官の即時国外退去を要求する。大使館にその国璽入りの用紙を届けた男は、通信社に封書を投函したその人物であった。


 夜半にはすでに、《帝国》の大使が第三国行きの船に乗せられていた。


 その日の夕方、《王国》の各都市で配られた号外。宰相の「《帝国》による先制攻撃のたくらみに対して必要な処置を講ずる」という談話。《王国》国民の不安と怒りは頂点に達した。


 深夜。帝都の《帝国》兵部省では激論が交わされていた。


「今すぐに臨戦体制を整えるべきだ!」

「なんのためにプランDの議論を重ねてきたと思っているんだ!」

「小官は作戦のための戦争には反対ですな」

「増派が《王国》を刺激してしまったのでは?」

「そもそもなして新聞なんぞに増派のことが載っとるんか!」

「さすがに夜襲はないだろう」

「《王国》軍が国境地域に集結しているという情報もある。警戒すべきだ」

「それは《王国》南方での演習では?」

「今から陛下の裁可をもらうのは非現実的だ。対応は明朝でいいだろう」


 結局、この夜にさえ前線の《帝国》軍に動きはなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 六月二十日、一時(《王国》時間)。《王国》の各新聞社は印刷済の「開戦を告げる」号外を軍の秘密郵便で各都市に発送した。「午前四時に配布せよ」と記された赤いラベルが添えられていた。


 二時。外務省職員が主要国の大使館に一斉に現れる。「本日四時、《王国》は重大なる決意を表明する」王都電信局では、深夜にかもかかわらず何人もの人が国際電報を依頼しにきたので、驚いたという。


 三時。各地の鉄道駅では、臨時ダイヤへの移行を知らせる紙が張り出される。国境地帯の駅周辺の野営地。南に移動するまでの一時的な待機場所であったはずのそこでは、ランプが灯り始め、軍電信の封止が解かれる。全軍に伝わったのは一行の命令。


「これは演習に非ず。敵は目前なり」


 空には、暗い色に染められた三隻の飛行船が音もなく昇ってゆく。


 三時五十分。この時に備えて、いく度も訓練を重ねた三十人の外交官。各主要国首都の外務省で、叩き起こされた外務官僚と雑談をする。もちろん、相手もこちらが雑談をしにきたわけではないことを承知している。王国時間四時ちょうど、懐中時計の秒針が音を立てると、一斉に開戦を通告し、厳正中立を要請する文書が朗読される。断交したはずの《帝国》においても、驚く門衛に対して正式な宣戦布告文が手渡される。


 同時刻、《王国》外務大臣が記者会見にて正式に宣言。


「《王国》は、《帝国》に対して必要な軍事的措置を講ずる決断をした」


 直後、各地の新聞販売所では、あらかじめ印刷された号外が一斉に配布される。宣言の全文が、なぜかすでに印刷されていた。


 同時に、飛行船は《帝国》国境を越えてビラを散布。「正義の名において、《王国》は戦う」と記されたその紙片は、戦争の狼煙となった。そして、飛行船のひとつは《帝国》深部へと侵入する。


 臨時の御前会議は四時八分に始まる。


「状況はよいか?」

国王の発言の威厳。


「前線は今のところ問題ありません。敵に動きはないそうです。……全てうまくいっているはずです」

とても苦々しい顔で参謀総長が言う。彼はこの夜一睡もできなかった。汗まみれで、顔に皺が増えたように感じられる。


「《海向かい》は厳正中立を表明したとのことです。」

外務大臣はすでに緊張が解けている。開戦についての彼の職責は完全に果たされただけでなく、南の隣国――数年前に戦ったばかり――から好意的中立さえ取り付けることができた。


「では、開戦のご命令を。」

 宰相は泰然としている。いつも通りのその外見。その内心を推し量ることはできない。


 四時十分、国王は、ついに開戦の最終命令を承認。二十分、軍使が《帝国》軍国境監視所に赴き、「十分後より戦闘を開始する」と通告する。


 その時刻、《帝国》ではまだ混乱が続いていた。最大手の新聞社が慌ただしく号外を刷り始める一方、宮廷では皇帝が起こされるも、閣僚や軍幹部たちは到着せず、宮廷武官たちも事情を把握していない。


 しかも、奇妙なことに――《帝国》の前線を担当する将軍の邸宅に、ちょうどその時間、強盗が侵入していた。警備をしていた兵士が前日の夕方食べた弁当は、地元の信頼できる食堂から配達されたものだったが、なぜか睡眠薬が盛られていたという。後の調査では地元の犯罪者集団による偶発的事件とされたが、将軍は行動を封じられ、作戦計画と共に《王国》軍の捕虜となった。後日、その強盗団は《王国》占領地の刑務所からなぜか無傷で脱走し、正面から《王国》軍の警備を抜け、港から南新大陸へと出航。なぜか格安で用意されていた土地の購入に成功し、彼らは農園主として新生活を始めたという。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 四時三十分(《帝国》時間三時三十分)、飛行船から投下された十二発の爆弾が《帝国》前方上級司令部の通信所を正確に破壊する。続けて《王国》軍が一斉に砲撃を開始、わずか五分後には越境突撃が始まった。


 その瞬間、世界は変わった。「パープル」作戦の大成功により、わずか一月で戦争は終わる。煙の向こうで昇り始めた太陽は、旧き秩序に別れを告げ、新たな戦争の地平を照らし出していた。

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