第一話 神の鉄槌
私、椿カガリは日本で暮らすごくごく普通の人間だった。人口一億人の中にいる多数派の、人並みのクズだった。
享年29歳。死因はガス漏れに気づかないままタバコに火を付けた事による爆発死。
痛いだの熱いだの感じる間も無く死ねたのは、神様からの些細な慈悲だったのかもしれない。
何故バチが当たったんだろう。心当たりがありすぎて皆目見当もつかない。
電動キックボードで歩行者を退かしながら走ったから?仕事終わりに妊婦に優先席を譲らなかったから?人通りのない夜道で歩きタバコをしていたから?それとも、大嫌いな同僚の鬱病をザマァみろなんて嘲笑っていたから?
それ相応に自分のクズさは自覚していた。でも別に殺人だの窃盗だの働いたわけじゃない。
だからこそ、この与えられた罰には納得できないのだ。
私はどうやら転生した様だ。生前どハマりした少年漫画の世界に。
作品名は【神のまに魔尼】。週刊少年漫画雑誌ガンマに掲載されているダークファンタジー系のバトル漫画である。
生前は本誌でひたすら最新話を追っていた。それこそ死ぬ直前に最新話を読み終えた所だったんだ。次週ついに最終章へ突入するという煽り文で、期待に胸を膨らませていたのに。
まさか最新話で主人公に祓い殺された悪役キャラクターに自分が成り代わる日が来るなんて、誰が想像出来ようか。
詛人“椿輝凜”。同姓同名の彼女こそが私の転生先だ。
それに気づいたのは丁度、たった一人の家族である母椿ヒカリに馬乗りになりながら、胸に包丁を突き刺そうとした時だった。
包丁はヒカリさんの胸元に刺さる直前で止まっている。
手の震えが治らない。全部全部、思い出してしまったからだ。
自分が置かれた立場と、今からしようとした残虐な行動に恐怖が襲いかかる。
それと同時に、殺してしまう前に思い出せてよかったという安心感で、感情がぐちゃぐちゃだ。
「わあああ!?」
恐怖が頂点に達し、思わず包丁を遠くに放り投げた。
包丁は大して滞空せず、フローリングに刃の先端が当たり、金属の鈍い音と共に倒れる。
そのまま逃げる様に後退りをする。狭い1LDKの一室なので、すぐに壁にぶつかり、私の動きはそこで止まった。
「ハァっ、ハア…ハア…」
自分の呼吸が次第に荒くなってゆく。どれだけ吸っても空気が足りない。まるで深い海の底に沈んで這い上がれない様な、切羽詰まった感覚。
そんな過呼吸になる程の罪悪感が押し寄せる。
震えていた手も、だんだんと痺れてきて動かせなくなる。足も唇も痺れて不快な感覚だ。
ごめんなさい、ごめんなさい。そう唱えたくても声が出せない。ただ苦しんで藻掻くだけしかできなかった。
「輝凜!!」
ヒカリさんが心配して、焦った様に私の元へ駆け寄り、体を支えながら背中を摩ってくれる。触れられた所がじんわりと温かい。
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いて」
やめてよ。ついさっき私は貴方のことを殺そうとしたんだ。それなのにそんな優しくされたらますます罪悪感で死にたくなる。
お願いだからほっといて。寧ろそこに転がっている包丁で、思いのままに私を滅多刺しにして欲しい。
そうじゃなくても、普通なら速攻で110番を呼ぶだろうに。この人はどこまでお人好しなんだ。
椿輝凜として生きて約15年。ヒカリさんはいつだって優しかった。心の底から穢れている傲慢な娘のことを忌避する事もなく、ただ一心に無償の愛で包んでくれた。
どんなわがままも笑って許してくれた彼女だからこそ、より一層今までしてきた行いがどれだけ傲慢だったかを思い知らされる。
恐怖、罪悪感、後悔がひっきりなしに混ざり合い、耐えられなくなった私は、呼吸する事を諦めた。
もうこのまま気を飛ばしたい。あわよくばこのまま死んでしまいたい。
その願いが神様に通じたのか、瞬間プツリと意識が暗転した。必死に私の名前を叫ぶヒカリさんの声がなんとなく聞こえるが、これでやっとどうにもできない感情から逃れられる。
己の罪から逃避するなんて、本当に私はほとほとクズな女だ。今ならネットで炎上している政治家やインフルエンサーらの気持ちがよく分かる。
起きたら全部夢で、元の世界で目を覚ませますようにと願いながら、ただ安寧の地を求める様にすべてをシャットアウトした。