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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

再編:Untitled

再編:Untitled

作者: 魅空
掲載日:2026/07/05

--あるところに、王国がありました

その王国では、様々な民たちが過ごしていました

どうやら、これが幸せなようです--






第一章:王子の日常


ある朝、王城の庭園。

杖をつきながらクカラースが歩いていた。

「……今日は風が気持ちいいな」

鳥の鳴き声。花の香り。

目は見えなくとも、世界は感じられる。

そう教えてくれたのは父だった。

その時、遠くから慌ただしい足音が聞こえた。

「クカー!」

聞き慣れた声。オビオヌだった。

「どうした?」

「また薬飲み忘れただろ」

「……」

「図星か」

「……少しだけ」

「少しじゃない」

オビオヌは呆れたように笑った。

クカラースも苦笑する。

そこへ、フードを被った人物が近づいてくる。

「……おはよう」

「リラか」

リランティーヌだった。

少し顔色が悪く、咳も出ている。

オビオヌはすぐ気づく。

「また無理したな」

「してない」

「嘘つけ」

「…してない」

「した」

「……した」

「素直でよろしい」

三人は思わず笑った。

診療所二階。

この場所だけは、彼らにとって安らぎの場所だった。


その日の夕方。

王城に一通の報せが届く。

ラタルア王国からの正式な使者。

差出人は――

ロウナタリー・セラフィスト。

「ナタリー様が来るの?」

オビオヌが目を輝かせる。

「久しぶりだな」

クカラースは微笑む。

リランティーヌも少し嬉しそうだった。

だが誰も知らない。

この訪問が、ラヴァラル王国の運命を大きく変えることになることを。

そして、クカラースが王となる日が、そう遠くないことを――。



第二章:ラディース


ロウナタリーがラヴァラル王国へ到着して数日後。

王城には重い空気が漂っていた。

原因はただ一つ。

国王――クカラースの父が倒れたのだ。

王族専用の寝室。

そこにはオビオヌとリランティーヌがいた。

オビオヌの表情は険しい。

何度も脈を確認し、薬を調合し、治療を続けている。

しかし、結果は変わらなかった。

「……慢性カラクリ症候群」

静かに呟く。

リランティーヌは目を見開いた。

「そんな……」

自分が長年苦しめられてきた病。

まさか国王までもが。

オビオヌは拳を握る。

「進行が早すぎる……」

王城の廊下。

クカラースは杖を握り締めていた。

見えない目を寝室へ向ける。

中から聞こえる慌ただしい音。

誰も何も言わない。

それだけで理解できた。

状況は良くない。


そして、数日後。

国王は自らクカラースを呼んだ。


寝室。

窓から差し込む夕陽。

ベッドに横たわる父の呼吸は浅い。

かつて誰よりも大きく見えた背中は、今は小さく見えた。

クカラースはベッドの傍へ座る。

「御父上様」

「……来たか」

弱々しい声。

それでも優しい。

昔と変わらない声だった。

「申し訳ありません」

クカラースは俯く。

「何を謝る」

「何もできませんでした」

父は微かに笑う。

「馬鹿者」

その言葉は昔と同じだった。

「お前は十分やった」

「ですが……」

「クカラース」

父の手が伸びる。

震える手。

クカラースは両手で包み込んだ。

「お前は優しい」

「……」

「優しすぎるほどにな」

沈黙が落ちる。

やがて父は続けた。

「王になれ」

クカラースの肩が震えた。

「私には……」

「なれる」

即答だった。

「目が見えなくても」

「脚が悪くても」

「関係ない」

父の手がクカラースの頬に触れる。

「お前は誰よりも国を愛している」

涙が零れた。

「御父上様……」

「誇りだ」

その言葉に、クカラースは堪えきれなくなった。

声を上げて泣くことはなかった。

ただ静かに涙を流した。

父は微笑む。

そして。

「……あとは頼んだ」

呼吸が弱くなる。

クカラースは父を抱き寄せた。

「御父上様」

返事はない。

「御父上様」

もう一度呼ぶ。

返事はない。

「御父上様……!」

クカラースの腕の中で、ラヴァラル王国国王は

静かに息を引き取った。


王城中に鐘が鳴り響いた。

国王崩御。

知らせは国中へ広がる。

街は静まり返った。

誰もが悲しんだ。


そして数日後。

王城の大広間。

大勢の国民、貴族、兵士。

ロウナタリー、オビオヌ、リランティーヌ。

全員が見守る中、クカラースは王冠の前へ進む。

杖をつきながら、ゆっくりと、静かに。

王冠を受け取り、玉座へ座った。

沈黙。

次の瞬間。

クカラースが口を開く。

「私は未熟だ」

広間が静まり返る。

「目も見えない」

「右脚も不自由だ」

「父のような立派な王になれるかは分からない」

誰も言葉を発さない。

「だが」

クカラースは顔を上げた。

見えない目を真っ直ぐ前へ向ける。

「私は皆を守る」

「この国を守る」

「それだけは誓う」

力強い声だった。

その瞬間。

広間から大きな歓声が上がる。

「偉大なる国王!」

「偉大なる国王!」

「偉大なる国王!」

歓声は止まらない。

オビオヌは涙を拭った。

リランティーヌも静かに泣いていた。

ロウナタリーは微笑む。

「立派になったな、クカラース」

玉座の上で、クカラースは拳を握る。

父から受け継いだ国。

守るべき民。支えてくれる仲間。

その全てを胸に刻みながら、

ラヴァラル王国の新たな時代が始まった。


しかしその頃――。

遥か北方。閉ざされたカラール王国では、

ある者たちが動き始めていた。

その目的はただ一つ。

「偽りの救世主」――リランティーヌの奪還。

平和だった日々は、少しずつ終わりへ向かおうとしていた。



第三章:ロウナタリー


カラール王国からの追手が動き始めた頃。

ラヴァラル王国では、もう一つの異変が起きていた。

ロウナタリー・セラフィスト。

「偉大なる帝王」と呼ばれた彼もまた、原因不明の体調不良に悩まされていた。

最初は些細な咳だった。

しかし日を追うごとに悪化し、やがて診療所のベッドから起き上がることも難しくなっていく。

診察を続けたオビオヌは、ついに結論へ辿り着く。

「……慢性カラクリ症候群」

静かな声だった。

部屋の空気が凍り付く。

クカラースは杖を強く握った。

リランティーヌは俯く。

誰よりも病の恐ろしさを知っていたからだ。

ベッドの上のロウナタリーだけが穏やかだった。

「そうか」

まるで他人事のように呟く。

「ナタリー……」

クカラースの声は震えていた。

ロウナタリーは微笑む。

「そんな顔をするな」


数週間後。

ロウナタリーの容態は急激に悪化した。

診療所二階。

関係者以外立入禁止の部屋。

そこにいるのは四人だけだった。

いや。

もうすぐ三人になることを、全員が理解していた。

ロウナタリーはベッドに横たわっている。

その隣でオビオヌが座っていた。

静かに、優しく、頭を撫でる。背中を摩る。

幼い頃から変わらない仕草だった。

ロウナタリーが薄く目を開く。

「……懐かしいな」

「そう?」

「昔、泣いた時もそうしていた」

オビオヌは少し笑った。

「覚えてたんだ」

「忘れるわけがない」

ロウナタリーは静かに息を吐く。

「オビオヌ」

「ん?」

「立派になったな」

その言葉に、オビオヌは何も返せなかった。

代わりに、そっと頭を撫で続ける。

ロウナタリーは目を閉じた。

「我は幸せだった」

静かな声だった。

「クカラース」

「いる」

「良い王になれ」

「努力する」

クカラースは拳を握った。

「…リランティーヌ」

「……はい」

「生きろ」

リランティーヌは俯いたまま頷いた。

「…….オビオヌ」

「何?」

「………ありがとう」

その言葉を残し――

ロウナタリー・セラフィストは静かに息を引き取った。

部屋には沈黙だけが残った。


数日後。

ラタルア王国では王位継承の儀が行われた。

そこで初めて公表された事実がある。

「希望の名医」オビオヌの本名は――

オビオヌ・セラフィスト。

ロウナタリーの実のきょうだいだった。

医師として生きることを選び、自ら王位継承権から距離を置いていた。

だが今、王家の血を引く者として立たなければならない。

玉座の前に立つオビオヌは王冠を受け取る。

歓声が響く。

新たな王の誕生だった。


その頃。

診療所二階では、リランティーヌが一人、窓際に座っていた。

フードの奥で表情は見えない。

だが、その瞳の奥で何かが揺れていた。

クカラースが隣へ座る。

「リラ」

返事はない。


しばらくして。

低い声が聞こえた。

「……僕は嘘つきなんだ」

「何がだ」

長い沈黙。

そして、リランティーヌはゆっくりとフードを外した。

「リランティーヌは名前じゃない」

クカラースは黙って聞く。

「僕の本当の名前は――」

窓から風が吹く。

「ラン・ローノ」

その名を聞いた瞬間。

部屋の空気が変わった。

「カラール王国国王」

クカラースは驚かなかった。

ただ静かに言う。

「そうか」

リランティーヌは目を見開く。

「それだけ?」

「お前はお前だろう」

あまりにも自然な言葉だった。

しかし、リランティーヌは苦しそうに胸を押さえる。

「違う」

その声は震えていた。

「僕の中にはもう一人いる」

その瞬間、雰囲気が変わる。

優しかった声が消える。

瞳から温度が失われる。

「――ようやく話したか」

クカラースは静かに息を呑む。

別人だった。

そこにいるのはリランティーヌではない。

「我が名はバラナイスル」

冷たい笑みが浮かぶ。

それは、ラン・ローノが作り出した人格。

深い幸福を得てしまったが故に、

それを失う恐怖から生まれた人格。

冷酷な守護者、バラナイスル。

「クカラース」

低い声が響く。

「我はリラを守るためなら何でもする」

その瞳には凄まじい覚悟が宿っていた。


その頃、遠く離れたカラール王国では、国王の帰還を望む者たちが、ついにラヴァラル王国へ向けて進軍を開始していた。



第四章:王の帰還


ラヴァラル王国国境。

深い森の向こうに、無数の灯りが見えていた。

カラール王国の軍勢である。

しかし不思議なことに、兵たちは戦うためではなく、まるで誰かを迎えに来たかのような様子だった。


王城では緊急会議が開かれていた。

オビオヌはラタルア王国の新たな王として駆け付けている。

クカラースは玉座に座り、静かに報告を聞いていた。

「カラール軍は侵攻していない」

兵士が告げる。

「城下町にも被害はありません」

「目的は明白だな」

オビオヌが腕を組む。

クカラースは静かに頷いた。

「リラか」


診療所二階。

リランティーヌは窓際に座っていた。

手は震えている。

「……来たんだ」

小さな呟き。

その瞬間。

頭の奥から声が響く。

『当然だ』

バラナイスルだった。

『お前は王だ』

『違う』

『違わない』

リランティーヌは耳を塞ぐ。

しかし声は消えない。

『ラン・ローノ』

『カラール王国国王』

『逃亡者』

『偽りの救世主』

『どれもお前だ』

リランティーヌは苦しそうに俯く。

『嫌だ』

『クカたちの側にいたい』

『ここにいたい』

その願いに、珍しくバラナイスルは沈黙した。


その夜。

王城へ一人の使者が現れた。

全身を白銀の装束で包んだエルフ。

彼は玉座の前で跪く。

「カラール王国より使者として参りました」

静寂。

「我らは戦争を望みません」

クカラースは黙って聞く。

「我らが望むのはただ一つ」

使者は顔を上げた。

「国王陛下の帰還です」


城内がざわつく。

だがクカラースは冷静だった。

「リランティーヌを返せと?」

「違います」

使者は首を横に振る。

「ラン・ローノ陛下をお迎えしたいのです」

その言葉にオビオヌが眉をひそめる。

「本人の意思は?」

「もちろん尊重いたします」

使者は真っ直ぐ答える。

「ですが国は限界です」

「限界?」

「陛下が消えてから五年」

「カラール王国は崩壊寸前です」


クカラースは息を呑む。

使者は続ける。

「ラン・ローノ陛下は優しい王でした」

「民を愛し、誰よりも国を愛した」

「だからこそ民は今も待っています」

静かな声だった。

だが嘘ではないことが伝わる。


会議が終わった後。

クカラースは診療所へ向かった。

いつもの二階。

そこにはリランティーヌがいた。

「聞いていたか」

「……うん」

クカラースは隣へ座る。

「どうしたい」

リランティーヌは答えない。

長い沈黙。

やがて小さな声が漏れる。

「分からない」

本音だった。

「帰れば皆が喜ぶ」

「でも」

震える声。

「帰ったらまた失う」

クカラースは静かに聞く。

「皆を守れなかった」

「国も守れなかった」

「僕は王失格なんだ」

その瞬間、空気が変わる。

バラナイスルが現れる。

「黙れ」

冷たい声。

リランティーヌ自身が驚く。

バラナイスルは続けた。

「貴様は守った」

「守れなかった」

「守った」

「守れなかった!」

叫びだった。

涙が零れる。

「たくさん死んだ!」

「皆苦しんだ!」

「だから僕は逃げた!」

部屋が静まり返る。

その時、クカラースが口を開く。

「それでもだ」

リランティーヌが顔を上げる。

「それでもお前を待っている者がいる」

静かな声。

だが力強い。

「私は王になった」

「父上が亡くなったからだ」

「オビオヌも王になった」

「ナタリーが託したからだ」

クカラースは微笑む。

「王は完璧じゃない」

「失敗もする」

「間違いもする」

「それでも前を向くんだ」

リランティーヌの瞳が揺れる。


その夜。

リランティーヌは一人の人物と向き合っていた。

漆黒の王冠、黒衣、紫色の瞳。

バラナイスルだった。

「お前……」

「久しぶりだな」

不思議なことに、彼は以前ほど冷たく見えなかった。

「どうするつもりだ」

バラナイスルが問う。

リランティーヌは迷う。

だが、少しだけ笑った。

「逃げるのは終わりにしたい」

その言葉を聞いたバラナイスルは静かに目を閉じる。

そして初めて、ほんの少しだけ微笑んだ。

「そうか」

夢の世界が崩れていく。

消える直前、バラナイスルは最後に言った。

「ならば我も共に行こう、王よ」


翌朝。

リランティーヌ――いや、ラン・ローノは決断する。

カラール王国へ帰るのか。

それともラヴァラル王国に残るのか。

その答えが、大陸全土の運命を左右することになる。



第五章:ラン・ローノ


カラール王国、王都中央広場。

数え切れないほどの民衆が集まっていた。

誰もが息を呑み、誰もが信じられないものを見るような顔をしていた。

王城の大階段。

そこに立つ一人の青年。

焦げ茶色の髪、焦げ茶色の瞳。

長年深く被っていたフードはない。

堂々と空を見上げている。

――ラン・ローノ。

カラール王国の王、そして、リランティーヌ。

民衆のざわめきが広がる。

生きていた。

王が帰ってきた。

本当に帰ってきた。

その事実だけで涙を流す者もいた。


リランティーヌは静かに前へ出る。

王冠を受け取り、王杖を握る。

そして、王として初めて民へ語りかけた。

「聞いてほしい」

広場が静まる。

「僕は逃げた」

誰も反論しない。

「国を置いて、皆を置いて」

「王であることから逃げた」

沈黙。

だが。

リランティーヌは目を逸らさなかった。

「だから謝りたい」

深々と頭を下げる。

王が、民へ、謝罪した。


やがて顔を上げる。

その瞳は迷いなく前を向いていた。

「でも」

「もう逃げない」

風が吹く。

長い髪が揺れる。

「今日から僕は」

「この国を変える」

民衆が息を呑む。

リランティーヌは高らかに宣言した。

「王の命も、偽りもない、平和な王国を作る」

静寂。

誰も意味を理解できなかった。

だが、続く言葉が全てを伝えた。

「王だから正しいわけじゃない」

「民だから従わなきゃいけないわけでもない」

「皆で生きる国を作ろう」

「誰か一人が犠牲になる国を終わらせよう」

王命に縛られない。

嘘にも縛られない。

誰もが自由に生きられる国。

それが、リランティーヌの願いだった。


その瞬間だった。

頭の奥で、聞き慣れた声が響く。

『なるほど』

バラナイスルだった。

リランティーヌは目を閉じる。

『満足か』

問いかけると、珍しく笑う気配がした。

『ああ』

穏やかな声だった。

『これでいい』

リランティーヌは驚く。

バラナイスルは続ける。

『我は元々、お前を守るために生まれた』

『知ってる』

『なら役目は終わった』

沈黙。

『リラ』

その呼び方は初めてだった。

『幸せになれ』

暖かな声だった。

そして、声が消える。

優しく、静かに。

雪が溶けるように。

バラナイスルは消滅した。


その瞬間。

リランティーヌは胸を押さえる。

苦しい。痛い。

息が吸える。

身体が軽い。

「……え?」

理解できない。

慢性カラクリ症候群。

その症状がほぼ消えていた。


同じ頃。

ラヴァラル王国の王城。

クカラースも異変に気付いていた。

「……痛くない」

長年苦しめられてきた身体の不調。

倦怠感、発作。

全てが消えていた。

オビオヌは何度も診察する。

そして最後に呟いた。

「治ってる」

信じられない表情だった。

「完全に」

クカラースは静かに微笑んだ。

「そうか」

まるで最初から知っていたように。


数ヶ月後。

カラール王国は安定を取り戻していた。

王命に頼らない新制度。

民の意見を取り入れる議会。

医療支援、福祉制度。

リランティーヌは忙しく働いた。


そして、ある日。

全てを整え終えた彼は旅に出る。

向かう先は一つ。

ラヴァラル王国。


王城前。

クカラースが庭園を歩いていた。

以前よりも足取りが軽い。

そこへ、一人の青年が現れる。

足音だけで分かった。

クカラースは笑う。

「おかえり」

返事が聞こえる。

穏やかな声。

「ただいま」

フードはない。

髪は後ろで一つに結ばれている。

もう隠れない。

もう逃げない。

焦げ茶色の瞳は真っ直ぐ前を向いていた。

オビオヌも駆け寄る。

「リラ!」

「久しぶり、オビオヌ」

三人は自然と笑った。

誰も王ではなかった頃のように。

ただの友人として。


夕暮れ。

診療所二階、いつもの部屋。

クカラース。

オビオヌ。

リランティーヌ。

三人が並んで窓の外を見ている。

風が吹く。

静かな時間。

リランティーヌは空を見上げる。

もう頭の中に声はない。

だけど、どこかで感じる。

見守っているような気配を。

「ありがとう」

誰にも聞こえないほど小さな声。

その言葉は、かつて自分を守り続けた、冷酷で優しい守護者へ向けられていた。

そして、長い旅路を経た三人の物語は、新しい日常へと続いていくのだった。



最終章:結晶の空


月日は流れ、争いは消えた。

ラヴァラル、ラタルア王国、カラールの三国は穏やかな時代を迎えていた。


ある晴れた日。

クカラース、オビオヌ、リランティーヌ。

三人は草原へ足を運んでいた。

そこには二つの墓が並んでいる。

一つはラヴァラル王国前国王。

クカラースの父。

もう一つはロウナタリー・セラフィスト。

オビオヌの兄。

三人にとって大切な人たちだった。

そして、二人の墓の中央には――

巨大な結晶があった。

山より小さい。

だが木々より遥かに大きい。

透き通った蒼白い結晶。

空へ向かって伸びている。

まるで世界の傷跡のように。


クカラースは静かに言う。

「ずっと分かっていた」

オビオヌが頷く。

「私もだ」

リランティーヌも結晶を見上げる。

「これが最後だね」

誰も反論しない。

皆理解していた。

慢性カラクリ症候群。

失われた命。

苦しみ。

悲しみ。

別れ。

全ての始まりがこの結晶だった。


風が吹く。

草が揺れる。

三人はそれぞれ前へ出た。

オビオヌは腰のナイフを抜く。

クカラースは愛銃を握る。

リランティーヌは魔力を練る。

静寂。


オビオヌが笑う。

「せーの、でやるか」

「いいな」

「うん」

三人は顔を見合わせる。

そして。

同時に叫んだ。

「今だ!」


銀色の刃が飛ぶ。

銃声が響く。

膨大な魔法が放たれる。

三つの力は結晶の中心へ直撃した。

次の瞬間、世界が白く染まる。


――パリン。


小さな音。

そして、巨大結晶が崩壊した。

空へ、大地へ、無数の破片が舞い上がる。


蒼い光の雨だった。

宝石のような欠片が空を覆う。

墓へ降り注ぐ。

草原へ降り注ぐ。

遠く離れた診療所へも降り注ぐ。

ラヴァラル王国全体を優しく包み込む。

夕陽を受けて輝く結晶片。

風に流される光。

世界そのものが宝石になったような景色だった。


オビオヌは思わず息を呑む。

その時だった。

微かな音が聞こえる。

風、草木、鳥の声、遠くの川、全て。

全て聞こえる。

オビオヌは目を見開く。

「……え」

震える指が耳に触れる。

涙が溢れた。

「聞こえる」

長年失われていた音。

世界の音。

初めて聞くような感覚だった。


クカラースも異変に気付く。

眩しい。

光が、見える。

彼は思わず空を見上げた。

蒼い空、白い雲、黄金色の草原。

涙を流すオビオヌ、驚いた顔のリランティーヌ、全部。

全部見える。

「……綺麗だ」

それが最初の言葉だった。

同時に、右脚の痛みも消えている。

何十年も抱えていた違和感も、病も何もかも、完全に消えていた。


リランティーヌも胸を押さえる。

そこにはもう何もない。

慢性カラクリ症候群の影も。

心を締め付けていた憂いも。

罪悪感も、恐怖も、失う不安も、全て。

結晶と共に砕け散っていた。


夕暮れ。

三人は墓の前に並ぶ。

オビオヌは笑いながら泣いている。

クカラースは初めて見る世界を眺めている。

リランティーヌは穏やかな表情を浮かべている。

誰も言葉を発さない。

それでも伝わっていた。


風が吹く。

結晶の欠片が舞い上がる。

一瞬だけ。本当に一瞬だけ。

二つの人影が見えた気がした。

優しく微笑む国王。

穏やかに笑うロウナタリー。

幻だったのかもしれない。

だが、三人には分かった。


「見ていてください」

クカラースが言う。

「兄上」

オビオヌが微笑む。

「ありがとう」

リランティーヌが空を見上げる。


光の結晶が風に乗って舞う。

診療所の窓辺にも、王城にも、草原にも、優しく降り積もる。

それはまるで、苦しみを乗り越えた者たちへの祝福のようだった。


こうして、

“偉大なる国王”クカラース。

“希望の名医”オビオヌ。

“偽りの救世主”リランティーヌ。

三人の長い物語は終わりを迎える。

だがそれは終幕ではない。

今度こそ誰も病に苦しまず、誰も運命に縛られず。

誰も孤独にならない。

そんな未来へ向かう、新たな始まりだった。


結晶の雨が降ったあの日から、

クカラースは世界を見た。

オビオヌは世界の音を聞いた。

リランティーヌは世界を恐れなくなった。

三人は変わった。

けれど、変わらないものもあった。


診療所二階。

夕暮れ。

窓から差し込む橙色の光。

クカラースは書類を読み、オビオヌは薬草を仕分け、リランティーヌは窓辺で本を読んでいる。

特別なことは何もない。

王も、名医も、救世主も、そこにはいない。

ただ、クカラース、オビオヌ、リランティーヌ。

三人がいるだけだった。


時には笑い、時には喧嘩し、時には泣き、時には何も話さず同じ空を眺めた。


季節は巡る。

春が来る。

夏が来る。

秋が来る。

冬が来る。

また春が来る。

何度も、何度でも。


ラヴァラル王国は栄えた。

ラタルア王国は発展した。

カラール王国は平和になった。

だが、それ以上に大切だったものがある。

三人が生きていること。

それだけだった。


やがて、昔を知る者は少なくなる。

偉大なる帝王の名も、偉大なる国王の名も、希望の名医の名も、偽りの救世主の名も、伝説になっていく。

けれど、診療所だけは残り続ける。

誰かが訪れ、誰かが救われ、誰かが帰っていく。

その窓辺には、いつも三つの影があったという。


ある旅人は言った。

「不思議な診療所がある」

ある子供は言った。

「優しい王様がいた」

ある老人は言った。

「昔、世界を救った人たちがいたらしい」

真実かどうかは誰にも分からない。


風は知っている。

草原は知っている。

結晶の欠片は知っている。

あの日の空を。

あの日の約束を。

あの日の笑顔を。


幾年、幾十年、幾百年。

永遠とも思える時間が流れても、三人は共に歩き続ける。

ゆっくりと、穏やかに、幸せに。


そんな物語が存在していた。

名前もない。

終わりもない。

ただ紡がれていく。

誰かの願いのように。

風のように。

光のように。


幾年後も。

きっと、その先も。

紡いでいくだろう。

名前のない、物語を。



外伝Ⅰ:偽りの救世主

「王である前に、一人の弱い少年だった」


ラン・ローノは王冠を着けている。

しかし、王としてはあまりにも若い。

毎朝。

目覚めて発熱。

ルウィ入りのウァレクライを食べる。

執務をする。

倒れる。

回復する。

また執務をする。

これを毎日繰り返している。

侍従たちは心配する。

しかし、リランティーヌは笑う。


「大丈夫だよ」


当時のカラール王国は危険だった。

貴族派、王家派、保守派、改革派の対立が激しい。

さらに、慢性カラクリ症候群が国内でも広がる。

王自身も感染。

民は不安になる。

「王様まで病気なんだ」

その言葉がリランティーヌを苦しめる。


ある夜、玉座の間。

誰もいない。

リランティーヌは一人で仕事をしている。

突然、視界が揺れる。

呼吸が苦しい。

身体が動かない。

床へ倒れる。

助けも呼べない。

その時、初めて聞く声がする。


『立て』

リランティーヌは驚く。

『王だろう』

これが、バラナイスルが誕生した瞬間だった。


国境付近で視察中、また倒れる。

森の中。雨。

目を開けると。

知らないエルフがいる。

「起きたか」

オビオヌだった。

当時は医師見習いだった。

「また倒れたな」

「初対面だよ?」

「顔色見れば分かる」

ここから二人の縁が始まる。


ルウィ。

リランティーヌの好物。

甘い果実で栄養価が高い。

しかし、オビオヌは気付く。

果実ではない。

葉、茎、根。

そこに異常な薬効がある。


外交会議。

若い王子がいる。

目が見えない。

足も悪い。

でも笑っている。

リランティーヌは理解できない。

「どうしてそんなに前向きなの」

クカラースは答える。

「支えてくれる人がいるから」

その言葉が心に残る。


バラナイスルは最初は声だけの存在だった。

しかし徐々に人格になる。

リランティーヌが苦しむほど強くなる。

『休め』

『逃げろ』

『誰も信じるな』

全て、守るため。

だから本当は悪人じゃない。


王城。

民の暴動、病の蔓延、政争。

全てが重なる。

リランティーヌは限界を迎える。

「もう嫌だ」

初めて弱音を吐く。

その時、バラナイスルが現れる。

『なら我が守る』

人格が完成する。


深夜、王城。

リランティーヌは一人泣いている。

「助けて」

誰にも聞こえない声。

その時、初めてバラナイスルが優しく言う。

『大丈夫だ、我がいる』


この物語は、後に「偽りの救世主」の誕生と逃亡の物語になる。



外伝Ⅱ:希望の名医


「救えなかったから、救えるようになりたかった」


ラタルア王国、王城。

ロウナタリーは執務をしている。

オビオヌは窓から侵入してくる。

「ナタリー様」

「扉を使え」

「嫌だ」

いつものやり取り。

ロウナタリーは厳しい。

しかしオビオヌには甘い。


オビオヌは王族なのに医師を目指していた。

「王になれと言われたら?」

ある日ロウナタリーが聞く。

「断る」

即答。

「私は患者を診たい」

これがオビオヌだった。


転機。

ラタルア王国辺境で、大規模な魔獣災害が発生。

オビオヌは医療班として派遣される。

負傷者多数。

泣く子供、傷ついた兵士。

オビオヌは休まず治療を続ける。

しかし、最悪の事態が起きる。

巨大魔獣が暴走。

魔力炉が暴発。

閃光、轟音、爆風。

世界が白くなる。


病室。

目を覚ます。

誰かが喋っている。

だが聞こえない。

何も、聞こえない。

「……?」

医師が説明している。

しかし聞こえない。

ようやく理解する。

両耳の聴力喪失、胸部損傷。


医師生命終了。

周囲はそう思った。

だが、オビオヌは違った。


退院後、医師たちは止める。

「無理だ」

「患者の声が聞こえない」

「医者はできない」

オビオヌは笑う。

「なら別の方法を探す」

口の動き、表情、仕草、脈拍、瞳孔。

観察力が異常な速度で成長する。

むしろ、以前より診断精度が上がる。


国境の森。

そこで出会ったのは、倒れている少年。

リランティーヌ。

「死ぬぞ」

最初の言葉。

「まだ死なないよ」

最初の返事。

これが出会い。


オビオヌは気付く。

リランティーヌが毎日食べているもの。

ルウィ入りのウァレクライ。

フルーツ粥。病人食。

しかし変だった。

慢性カラクリ症候群の患者にしては、症状進行が遅い。

なぜか。


研究開始。

ルウィを調べる。

果実、葉、茎、根、樹液、花、種。

数百回の実験。


失敗。


失敗。


失敗。


冬、リランティーヌが倒れる。

今までで最悪。

呼吸停止寸前。

高熱、意識不明。

オビオヌは震える。

救えない。

また救えない。

あの日と同じ。

音を失った日と同じ。

その時、机に散らばる研究資料が目に入る。

ルウィ。

葉、茎、根。

ふと気付く。


「……これだ」


徹夜三日。

完成。

誰も成功すると思っていない。

オビオヌだけが信じる。

薬を飲ませる。


数時間後、熱が下がる。

発作が止まり、呼吸が安定する。

奇跡だった。

リランティーヌが目を開ける。


「おはよう」


数年後、診療所開設。

慢性カラクリ症候群患者が集まる。

誰も治せない病。

でも、症状を抑えられる。

生きられる。

その事実だけで世界は変わる。

国民が呼び始める。


「希望の名医」


オビオヌは嫌そうな顔をする。

「大げさだ」

しかし、診療所二階の窓辺で、薬を飲んで眠るリランティーヌを見て、少しだけ微笑む。

「生きてるならそれでいい」


夕暮れ。

ラヴァラル王国。

王城に隣接する小さな診療所。

まだ開業して数ヶ月しか経っていない。

一階では患者の診察が終わり、オビオヌは机に向かって薬の調合をしていた。

相変わらず忙しい。

だが、今日は珍しく穏やかだった。


二階。

関係者以外立入禁止。

窓辺の寝台でリランティーヌが眠っている。

規則正しい呼吸。

熱も発作もない。

オビオヌは階段から様子を見て小さく笑った。

「よし」


診療所の扉が開く。

カラン。

オビオヌは振り向く。

「診療時間は終わり――」

そこで言葉が止まる。

見慣れない青年。

明るい茶髪。

右手で杖をついている。優しい表情。

そして、瞳がどこも見ていない。

オビオヌはすぐ察した。


「王族か」

青年は驚く。

「分かるのか」

「服装」

即答だった。

青年は苦笑する。

「私はクカラース」

「クカラース・ラヴァラルだ」

「病気か?」

オビオヌが聞く。

「いや」

「友達が欲しくて来た」


「は?」

オビオヌが呆れる。

しかし、クカラースは真面目だった。

「王城は退屈なんだ」

「帰れ」

「嫌だ」

「帰れ」

「嫌だ」

オビオヌは頭を抱える。

その時、二階から足音が聞こえた。

リランティーヌだった。

眠そうな顔。

「オビオヌ……騒がしい」

そこでクカラースに気付く。

「誰?」

クカラースは微笑む。

「初めまして」

リランティーヌは少し首を傾げる。

「初めまして」


夕陽が差し込む。

誰も知らない。

後に、偉大なる国王、希望の名医、偽りの救世主。

そう呼ばれる三人が、今ここで出会ったことを。



外伝Ⅲ:偉大なる帝王


「王になる前から、誰かの支えだった男」


ラタルア王国。

ロウナタリー・セラフィストは、最初から強かったわけではない。

しかし、幼いロウナタリーは優秀だった。

剣術、魔法、学問、外交。

全て一番。

だからこそ、誰も気付かなかった。

彼が疲れていることに。


「兄上」

まだ幼いオビオヌが駆け寄る。

「どうした」

「また寝てない」

図星だった。

ロウナタリーは昔から、

誰かのために無理をする人間だった。


オビオヌは昔から変わっている。

王族なのに木に登る。

泥だらけになる。

城を抜け出す。

ロウナタリーはよく探し回った。

ある日、突然聞かれる。

「兄上は王になるの?」

「なるだろうな」

「なりたいの?」

ロウナタリーは答えられなかった。

初めてだった。

“なりたいか”を聞かれたのは。


各国会談で出会った。

クカラース。

目が見えない。

脚も悪い。

だが、誰よりも穏やかだった。


会談後、ロウナタリーが聞く。

「どうしてそんなに落ち着いている」

クカラースは笑う。

「慣れた」

「それだけか」

「それだけだ」

ロウナタリーは初めて興味を持つ。


戦争寸前だった二国。

ロウナタリーは一人で交渉に向かう。

護衛も少なく、誰も賛成しない。

しかし、交渉成功、戦争回避。

民衆は歓喜する。

この頃から呼ばれる。


“偉大なる帝王”


しかし本人は不満そうだった。

「大袈裟だ」


診療所。

オビオヌ、クカラース、リランティーヌ。

ロウナタリーは時々訪れる。

政治の話、くだらない話、未来の話。

その時間が好きだった。

王子でも、王でも、帝王でもない。

ただのロウナタリーでいられるから。


最初は咳。

誰も気にしない。

しかし、増える。

止まらない。

疲労、発熱、倦怠感。

ロウナタリーだけが気付く。

「嫌な予感がする」

そして診断される。

慢性カラクリ症候群。


死を悟ったロウナタリーは、

誰にも言わず手紙を書く。


一通目。


オビオヌへ。


「お前はきっと良い王になる。」


二通目。


クカラースへ。


「良い友を持った。」


三通目。


リランティーヌへ。


「生きろ。」


実は、かなり前から決めていた言葉だった。


ロウナタリーは亡くなる。

だが、彼が支えた三人は生き続ける。

だからこそ、彼は最後まで穏やかに笑っていられたのだろう。



外伝Ⅳ:「息子が王になる日」


クカラースの父は、王として有能だった。

戦争を起こさない。

民に優しい。

だが、何より優れていたのは、クカラースを信じ続けたこと。


クカラースは目が見えない。

脚が悪い。

病弱。

貴族たちは陰口を言う。

「王になれるのか」

しかし、父だけは違った。

「なれる」

最初からそう信じていた。


慢性カラクリ症候群の発症直後、父は気付いていた。

自分が長くないことに。

だから焦る。

王位継承、政治、国防。

全てを整える。

だが、一番気になるのは、クカラースのことだった。


病床で何度も話す。

政治、歴史、法律、民。そして、

「王とは何か」


父は答える。

「最後まで民を見捨てない者だ」


これが、後の偉大なる国王の思想になる。


実は、父は一睡もしていない。

最後の夜。

窓から王都を眺めていた。

「綺麗だな」

そう呟く。

「頼んだぞ」

誰もいない部屋で。

そう呟いている。


クカラースは、父の体温が消えていく感覚を忘れられない。

最初は暖かい。少しずつ冷える。

手が震える。呼吸が弱くなる。

それでも、クカラースは離さない。

子供の頃、抱き上げてもらった記憶があるから。

最後くらいは、自分が支えたかった。


戴冠式。

本当は怖い。逃げたい。泣きたい。

でも、父の最後の言葉がある。


「誇りだ」


だから立てた。

だから王になれた。



外伝Ⅳ:光のない王子


「見えなくても、進める」


幼少期。

クカラースは生まれた時から視力がない。

医師は言う。

「回復の見込みなし」

王妃は泣く。

父は黙る。そして、クカラースを抱き上げる。

「そうか」

それだけ。


クカラースは景色を知らない。

空も、花も、太陽も、分からない。

だから父が教える。

「空は広い」

「花は柔らかい」

「風は優しい」

毎日、少しずつ世界を教える。


五歳頃。

右脚の異常が判明。

長距離を歩けない。

転ぶ、痛む。

周囲は心配する。

クカラースは謝る。

「ごめんなさい」

父は怒る。

「謝るな」

初めて怒った。

「お前が悪いわけではない」

この言葉はクカラースの心に残り続ける。


ある日、父は王都へ連れて行く。

護衛なし。

変装。普通の服。

クカラースは驚く。

市場。

子供たち、パンの匂い、笑い声。

全部新鮮。

そこで気付く。

国とは城じゃない。

人なんだ。


十歳頃。

貴族の子供たちの陰口を聞く。

「可哀想」

「王になれない」

「障害者だ」

クカラースは傷付く。

部屋へ閉じこもる。

誰にも会わない。

その時、父が来る。

そして聞く。

「王になりたいか」


長い沈黙。

クカラースは答える。

「分からない」

本音だった。

父は言う。


「なりたいからなる必要はない」

クカラースは驚く。

「誰かを守りたいなら、それで十分だ」

「見えないなら聞け」

「聞こえないなら触れろ」

「触れられないなら考えろ」

この瞬間、クカラースは初めて王というものを理解する。


十五歳。

外交会談で出会う。

ロウナタリー。

そして後に。

オビオヌ、リランティーヌ。

まだ知らない。

この三人が、人生を変える友人になることを。

そして、光のない王子はやがて、誰よりも多くの人を照らす“偉大なる国王”になることを。



外伝Ⅴ:バラナイスル


「存在する理由」


バラナイスル。

本名なし、年齢なし、出生なし、戸籍なし、肉体なし。

ただ一つだけある。

リランティーヌを守ること。


王城、深夜。

リランティーヌは一人だった。

高熱、発作、政治問題、王族としての責任。

全てが重なる。


「苦しい」


その瞬間、生まれる。


『立て』


『王だろう』


これがバラナイスルの始まり。


当初のバラナイスルは人格ですらない。

本能だった。

リランティーヌが倒れる。

起こす。

泣く。

慰める。

危険。

逃がす。

ただそれだけ。

しかし年月と共に学ぶ。

リランティーヌの記憶、知識、感情は、少しずつ人格になる。


バラナイスルは人々を嫌う。

理由は単純。

皆、リランティーヌに頼る。そして誰も、リランティーヌを守らない。

だから怒る。

『勝手な奴らだ』

初めて生まれた感情。


怒り。


国境の森。

倒れたリランティーヌ。

そこへ現れるオビオヌ。

バラナイスルは警戒する。

『近付くな』

しかし、オビオヌは違った。

「死ぬぞ」

助ける。

見返りなし。

称賛も求めない。

ただ助ける。

バラナイスルは困惑する。

『なんだこいつ』


次に現れる王子。

目が見えない。

脚も悪い。

なのに笑う。

意味が分からない。

『壊れてるのか』

本気でそう思う。

だが、クカラースは何度も診療所へ来る。

リランティーヌとオビオヌと話す。

笑う。

何度も。

何度も。

そのうち、リランティーヌも笑うようになる。

バラナイスルは気付く。

『最近泣かないな』

少し安心する。


ある日、リランティーヌが眠っている。

バラナイスルは意識の中で呟く。

『友達か』

今まで知らなかった言葉。

王には臣下がいる。

民がいる。

でも友達はいなかった。

クカラース、オビオヌ、ロウナタリー。

三人といる時だけ、リランティーヌは王じゃない。

ただのリランティーヌになる。

それが嬉しい。

だから、初めて願う。


『失いたくない』


しかし、クカラースの父とロウナタリーが病に倒れる。

死が近付く。

リランティーヌは怯える。

再び失う恐怖。

その恐怖を受け止めるのが、バラナイスル。


『大丈夫だ』

何度も言う。

本当は、自分も怖いのに。


カラール王国崩壊寸前。

リランティーヌ限界。

眠れない、食べられない、立てない、泣いている。

『もういい』

バラナイスルが言う。

『逃げろ』

『今は生きろ』

それが、バラナイスルの決断だった。


診療所。

リランティーヌが笑っている。

オビオヌと、クカラースと。

バラナイスルは気付く。

自分がいなくても、リランティーヌは笑える。


少し寂しい。

嫉妬。

初めての感情。


リランティーヌは決断する。

逃げない。

帰る。

王になる。

その姿を見てバラナイスルは理解する。


役目が終わった。

もう守らなくてもいい。


意識の世界。

リランティーヌと向き合う。

もう泣いていない。

もう怯えていない。

もう一人じゃない。

だから、バラナイスルは笑う。

生まれて初めて。

心から。


『幸せになれ』


怖くない。

後悔もない。

だって、リランティーヌは生きている。

友達もいる。

帰る場所もある。

だから、バラナイスルは静かに消滅する。


結晶が砕けた後。

診療所二階。

夕陽。

クカラース、オビオヌ、リランティーヌ。

三人が笑っている。

その窓の外。

一瞬だけ、黒衣の王が立っている。

誰も気付かない。

けれど彼は満足そうに微笑む。

そして風になって消える。


これが、

「誰にも知られなかった第四の主人公」バラナイスルの物語。


風が吹く。

黒衣が崩れる。

身体が光になる。

そして、バラナイスルは風になった。

その先に何があるのかを知らないまま。



外伝Ⅵ:穏やかな日々


結晶が砕けてから数年後。

診療所二階。

夕暮れ。

クカラースが本を読んでいる。

オビオヌは薬草を整理している。

リランティーヌは窓辺にいる。

平和だった。

本当に平和だった。

だから誰も気付かなかった。

リランティーヌが少しずつ疲れていることに。


ある日、三人で話していた時。

リランティーヌの返事が止まる。

「リラ?」

オビオヌが顔を上げる。

返事がない。

次の瞬間、身体が傾き床へ倒れる。

クカラースが立ち上がる。

「リラ!」

オビオヌが駆け寄る。

呼吸はある。

脈もある。

だが意識がない。

診療所は慌ただしくなる。


その夜。

ベッドで眠るリランティーヌ。

クカラースとオビオヌは傍にいる。

静かな時間。

窓から風が入る。

誰も知らない。

その風の中に、かつての守護者がいたことを。


もし、バラナイスルがここにいたなら、きっと慌てただろう。

怒ったかもしれない。

「無理をするな」と。「休め」と。

いつものように。

けれど、もういない。

なぜなら、バラナイスルは最後まで信じていたから。

リランティーヌが生きていること。

それが何よりの救いだったから。

そして皮肉にも、その安心こそが、彼が知らない未来を残した。

だが、今のリランティーヌは一人ではない。

クカラースがいる、オビオヌがいる。


だからこの物語は、かつてとは違う。

倒れても、苦しんでも、支えてくれる人がいる。

それは、バラナイスルがずっと望んでいた未来そのものだった。



外伝Ⅵ:リランティーヌ


診療所二階。

窓から朝日が差し込んでいる。

ベッドの上で、リランティーヌは静かに目を開いた。

「……おはよう」

少し掠れた声。

すぐ傍にいたオビオヌが顔を上げる。

「起きたか」

その表情は普段通りを装っていた。

だが、リランティーヌには分かった。

とても心配している。

クカラースも椅子から立ち上がった。

「体調はどうだ」

「悪くないよ」

リランティーヌは笑う。

しかし、その笑顔を見て、二人は何も言えなくなった。


リランティーヌの右手。

指先が少し透けていた。

まるで薄いガラスのように。

「……」

オビオヌは言葉を失う。

昨日より確実に進んでいる。

原因は分からなかった。

病ではない。

呪いでもない。

毒でもない。

診断できない。

治療法も見つからない。

ただ一つ分かることがある。

リランティーヌの身体は少しずつ薄くなっている。

まるで光へ還るように。


数日後、王城の庭園。

リランティーヌは歩いていた。

以前なら発作を恐れてできなかった散歩。

今はできる。

身体は軽い。

痛みもない。

苦しさもない。

けれど、足元を見ると、草が透けて見える。

自分の脚の向こう側に。

「不思議だな」

小さく呟く。

「何がだ」

隣を歩くクカラースが聞く。

「前は生きることが苦しかったのに」

リランティーヌは空を見上げる。

「今は苦しくない」


風が吹く。

結んだ髪が揺れる。

「少しだけ怖いけど」

そう言って笑った。

クカラースは黙る。

そして、そっとリランティーヌの肩に触れた。

まだ触れられる。

温もりもある。

だから言う。

「消えるな」

リランティーヌは目を丸くする。

「そんな命令みたいな言い方」

「王だからな」

二人は少しだけ笑った。


その日の夜。

診療所二階。

オビオヌは机いっぱいに資料を広げていた。

調べても、調べても、答えがない。

「……なんなんだよ」

珍しく弱音が漏れる。


助けたい。


ずっとそうしてきた。

兄も、患者も、クカラースも、リランティーヌも。

なのに今だけは、何も分からない。

すると、静かな足音が聞こえた。

リランティーヌだった。

「寝てろ」

「眠れない」

オビオヌは溜息をつく。

そして隣の椅子を引いた。

「座れ」

リランティーヌは素直に座る。

しばらく沈黙。

やがてリランティーヌが言う。

「ごめん」

オビオヌは即座に首を横に振った。

「謝るな」

どこかで聞いた言葉だった。

かつてクカラースの父が息子へ言った言葉。

そして、今はオビオヌが友へ向ける言葉。

「謝る必要なんてない」

リランティーヌは静かに目を伏せた。

窓の外では星が輝いている。

その光は、どこか結晶の雨の日に似ていた。


誰も知らない。

この現象が何なのか、なぜ起きているのか。

ただ一つだけ確かなことがあった。

リランティーヌは一人ではない。

たとえ身体が少しずつ薄くなっても。

たとえ原因が分からなくても。

今は隣にいる人たちがいる。

だからリランティーヌは窓の外を見ながら、静かに微笑んだ。


「大丈夫だよ」


それは二人に向けた言葉だったのか。

それとも自分自身に向けた言葉だったのか。

まだ誰にも分からなかった。



外伝Ⅵ:最後の真実


春の終わりだった。

診療所二階。

窓から柔らかな風が吹いている。

リランティーヌの身体は、ほとんど光になっていた。

輪郭は薄く、指先は透け、髪さえも淡い光に溶けている。

それでもリランティーヌは穏やかだった。

恐れていない。

怯えていない。

ただ静かに二人を見つめている。


「クカ」

「いる」


「オビオヌ」

「ここだ」


リランティーヌは微笑んだ。

「ありがとう」


それは短い言葉だった。

けれど、長い年月の全てが込められていた。


次の瞬間、光が舞い上がる。


風が吹く。

リランティーヌの身体が崩れる。

結晶の欠片のような光となって。

静かに、優しく、消えていった。

誰の苦しみもなく。

誰の悲鳴もなく。

ただ風へ還るように。


部屋には沈黙が残った。

クカラースは立ち尽くす。

オビオヌは何も言わない。

窓の外へ消えていく光を見つめている。

そして突然、オビオヌの身体が傾いた。

「オビオヌ!」

クカラースは咄嗟に支え、そのまま抱き起こす。

しかし、そこで初めて違和感を覚えた。

大きい。

以前から知っていたはずなのに。

改めて触れると分かる。

肩幅、腕、手、体格。

長年薬草や医療器具を運び続けたことで鍛えられた身体。

温かな体温、厚い胸板、力強い腕。

クカラースは驚く。

「……まさか」

オビオヌが薄く目を開く。

苦笑した。

「気付いたか」

静かな声。

「隠していたわけじゃない」

「ただ訂正する機会がなかった」

クカラースは言葉を失う。

オビオヌは昔から自分のことをほとんど語らなかった。

王族であることも。

ロウナタリーの家族であることも。

そして、自分自身のことも。


「私は男だ」


あっさりと告げる。

まるで今日の天気を話すように。

クカラースは数秒沈黙した。

「そうか」

それだけだった。

オビオヌは思わず吹き出す。

「驚かないのか」

「驚いた」

「驚いてる顔に見えない」

「見えていない頃からの付き合いだからな」

クカラースは少し笑った。

「オビオヌはオビオヌだ」

それ以上でも、それ以下でもない。

オビオヌは目を閉じる。

そして、少しだけ肩の力を抜いた。


長い間、語らなかった真実。

誰にも話さなかったこと。

けれど今は、不思議と軽かった。

窓の外では、光の粒が風に乗って舞っている。

まるで、どこかでリランティーヌが笑っているようだった。

クカラースとオビオヌはしばらくその景色を見つめていた。


名前のない物語は終わらない。

誰かが去っても。

誰かが真実を明かしても。

それでも続いていく。

風の向こうへ、光の向こうへ。

静かに、永遠に。



外伝Ⅵ:帰ってきた日


暖かな光が差し込んでいた。

診療所二階。

嗅ぎ慣れた薬草の香り。

木造の天井。

窓から入る風。

オビオヌはゆっくりと目を開く。

「……」

視界がぼやける。

身体も重い。

どれほど眠っていたのか分からない。

やがて焦点が合う。

誰かがいる。

ベッドの傍。

「起きたか」

聞き慣れた声。

クカラースだった。

オビオヌはぼんやりと瞬きを繰り返す。

「クカ……?」

「そうだ」

クカラースは穏やかに微笑んでいる。


そして、もう一人。

窓辺に座る人影。

焦げ茶色の髪。

穏やかな瞳。

見慣れた姿。

オビオヌの思考が止まる。

「……リラ?」

窓辺の青年が笑った。

「おはよう」

オビオヌは言葉を失った。

ありえない。

リランティーヌは消えたはずだった。

この手で見送った。

光になって、風になって。、確かに消えた。

「なんで……」

震える声が漏れる。

リランティーヌは少し困ったように笑う。

「僕も分からない」

「分からないって……」

「気付いたらここにいた」

相変わらずだった。

クカラースが小さく笑う。

「目が覚めたら窓際に座っていた」

「驚いたぞ」

「一番驚いてるのは僕だよ」

三人は顔を見合わせる。

そして、静寂の後。

オビオヌは顔を覆った。

肩が震える。

怒っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。

「馬鹿」

小さく呟く。

「本当に馬鹿だ」

リランティーヌは苦笑する。

「ごめん」

「謝るな」

オビオヌは顔を上げる。

目が赤い。

「二度と勝手に消えるな」

リランティーヌは少し驚く。

それから静かに頷いた。

「うん」

その返事だけで十分だった。


窓の外では風が吹いている。

草原が揺れる。

遠くで鳥が鳴く。

平和な音。

クカラースは二人を見ながら思う。

父が残した国。

ロウナタリーが守った未来。

バラナイスルが願った幸せ。

その全てが、今ここにある。

診療所二階。

いつもの場所。

クカラース、オビオヌ、リランティーヌ。

三人は再び揃った。

そして窓から吹く風の中に、ほんの一瞬だけ、誰かが満足そうに笑った気がした。

だが誰も振り返らない。

もう守る必要はない。

もう見守るだけでいい。


名前のない物語は、

今日も静かに続いていく。



外伝Ⅰ:まだ「リランティーヌ」になる前


まだ、誰も病気ではなかった頃。

ラヴァラル王国の国王も健在。

ロウナタリーも元気だった。

オビオヌは診療所を持っていない。

クカラースもまだ王子。

そして、カラール王国。

その王だった少年も、まだ逃げ出してはいなかった。

しかしその日、全てが変わる。


深夜。

雨。

森。

一人の少年が走っていた。

長い焦げ茶色の髪。

長い耳。

王族の装束は泥だらけ。

呼吸は荒い。

何度も転ぶ。

それでも走る。

「はぁ……はぁ……」

ラン・ローノ。

後のリランティーヌ。

まだ王だった頃。

背後からは追手の声。


王を探せ。


連れ戻せ。


その声が聞こえ、ランは震える。

怖かった。

王としてではなく、一人の少年として。


怖かった。


やがて脚がもつれ、泥の上へ倒れ込む。

立ち上がろうとする。

しかし身体が言うことを聞かない。


「……いやだ」


小さな声。


「帰りたくない」


雨音に消えそうな声。


その時だった。


『立て』


聞き慣れない声。


ランは顔を上げる。

誰もいない。


『立て』


冷たい声。


『まだ終わっていない』


ランは震える。

「誰……?」

返事はない。

ただ。


『生きろ』


その言葉だけが残った。

これが、バラナイスルとの出会いだった。


数日後、国境近く。

ランは倒れていた。

食事もしていない。

眠れてもいない。

高熱、衰弱、泥だらけ。

王だった面影はほとんどない。

長い耳だけが、彼がカラール王国のエルフであることを示していた。

ふらつきながら歩く。

そして限界を迎える。

視界が暗くなる。

地面が近付く。

倒れる。

その瞬間、誰かが腕を掴んだ。


「おい」


低い声。

聞いたことのない声。


「死ぬぞ」


ランは薄く目を開く。

そこには、茶髪の青年がいた。

少し不機嫌そうな顔。

だが、その手だけは驚くほど優しい。

オビオヌだった。

まだ若く、まだ「希望の名医」と呼ばれる前。

ただの医師見習い。


「立てるか」


ランは答えられない。

意識が遠のく。

最後に見えたのは、心配そうな茶色の瞳だった。

そして、後に運命を変える診療所との縁が、この瞬間から始まった。



外伝Ⅱ:誰も知らなかった秘密


リランティーヌがラヴァラル王国へ逃げてきて間もなく、まだ長い耳を持っていた頃。


ある夜、診療所。

オビオヌは眠っている。

リランティーヌは目を覚ましていた。

発作、高熱、痛み。

眠れない夜だった。

窓辺に座りながら、ぼんやりとオビオヌを見る。

オビオヌは疲れていた。

昼は患者。夜は研究。

ほとんど眠らない。

それでも、

「絶対に治す」

そう言っていた。


自分のために。


リランティーヌは胸が痛くなる。


その時。


『死ぬぞ』

バラナイスルの声。

『あれは先に死ぬ』


リランティーヌは黙る。

そして、静かに自分の耳へ触れる。

エルフの耳。

カラール王国では神聖視されるもの。

王族の血を宿す証。

リランティーヌは知っていた。

王族の耳には特殊な力があることを。

生命力、治癒力、病への抵抗。

その全てを宿していることを。


翌朝、リランティーヌは秘密を言わない。

ただ、

「少し切っただけ」

そう笑う。

それが、最初だった。


年月が流れる。

クカラースは病弱。

リランティーヌは慢性カラクリ症候群。

ロウナタリーもクカラースの父も発症する。

しかし、オビオヌだけは違う。

風邪もひかない。

発熱もしない。

病に侵されない。

異常なほど健康だった。

本人は気付かない。

周囲も気付かない。

ただ一人、バラナイスルだけが知っていた。


『馬鹿だな』

『そこまでするか』


リランティーヌは笑う。

「オビオヌには生きてほしいから」

それだけだった。



外伝Ⅵ:真実


リランティーヌは消滅する。

風になる。光になる。

完全に消える。


その瞬間、長年続いていた加護も消える。

オビオヌの身体を支えていた力。

知らないまま受け取っていた生命力。

その全てが失われる。

だから、オビオヌは倒れた。

病気ではない。

呪いでもない。

長い年月、当たり前のように存在していた力が、突然消えた反動。

そして目覚めた時、クカラースとリランティーヌがいた。

リランティーヌは戻ってきていた。

なぜか。どうしてか。

誰にも分からない。

けれど、オビオヌは初めて知る。

自分が弱っていることを。疲れることを。

熱が出ることを。倒れることを。

そして、その原因だけは知らない。

リランティーヌも語らない。

バラナイスルももういない。

だからこの秘密は、三人の誰も知らないまま、

物語の中に埋もれていく。


ただ一つ確かなことがある。

リランティーヌが耳を切り落とした日の傷跡は、逃亡者だった証であると同時に、誰かを生かした証でもあった。



外伝Ⅵ:誰にも言わなかった傷


診療所二階、深夜。

リランティーヌが戻ってきてから数週間。

オビオヌは一人で資料を読み漁っていた。

古い文献、禁書、王家の記録、エルフ史、カラール王国関連の資料。

きっかけは自分だった。

リランティーヌが消えた瞬間に自分は倒れた。

そして、リランティーヌが戻ってきた途端に身体が回復し始めた。

偶然では説明できない。

だから調べた。


何日も。


何週間も。


そして一冊の古い記録を見つける。


『王族の耳』


その文字を見た瞬間、オビオヌの指が止まる。


王家の血を引くエルフの耳には、生命力が宿る。

血肉は他者へ力を分け与える。

与えられた者は病や衰弱に強くなる。

だが、与えた者は寿命と生命力を削る。


静かな部屋。

ページをめくる音だけが響く。

オビオヌの視線がある一文で止まる。


『耳を切り落とした王族は二度と元には戻らない』


沈黙。

長い沈黙。

オビオヌはゆっくり本を閉じた。

脳裏に浮かぶ。

現在のリランティーヌ。


少し短い耳。


そして。


昔の肖像画。

出会ったときのリランティーヌ。


長く、美しい耳。


オビオヌの顔色が変わる。

「……まさか」

理解してしまう。

全て。

リランティーヌが病弱だったこと。

耳を失っていたこと。

自分だけが病に倒れなかったこと。

全て繋がる。


翌朝。

診療所の庭。

リランティーヌは花壇の花の手入れをしていた。

以前より顔色は良く穏やかだった。

オビオヌはその背中を見つめる。

何も言えない。

何度も言葉を飲み込む。

そして、ようやく口を開いた。


「リラ」


リランティーヌが振り返る。

「ん?」


いつもの笑顔。

その笑顔が、オビオヌには痛かった。


「……きみ」


声が震える。


「なんだい」


オビオヌは拳を握る。

怒っている。

悲しんでいる。

苦しい。

自分でも分からない。

そして、ようやく言葉になる。


「……リラ」

「きみは……」


リランティーヌは首を傾げる。

「うん」


オビオヌの目が潤む。


「……なんてことを……」


小さな声だった。

怒鳴ることもできない。

責めることもできない。

だってその傷は、自分のためについた傷だから。

リランティーヌは少しだけ黙る。

それから、困ったように笑った。


「気付いたんだ」


否定しない。

誤魔化さない。

ただ静かに認める。

オビオヌは俯く。


「どうして言わなかった」

「言ったら怒るだろ」

「当たり前だ」

即答だった。

リランティーヌは少し笑う。

その笑顔を見て、オビオヌはついに堪えきれなくなる。


「私は医者だぞ」


声が震える。


「患者を救う側なんだ」

「助けられる側じゃない」


リランティーヌは静かに聞いている。


「なんで」

「なんで一人で決めた」


沈黙。

風が吹く。

花が揺れる。

そして、リランティーヌは静かに答えた。


「だって」


優しい声だった。


「オビオヌが死んだら嫌だったから」


その一言で、オビオヌは何も言えなくなった。

言葉が続かない。

怒りも、反論も、全部消えてしまう。

リランティーヌは微笑む。


「後悔はしてないよ」


「……」


「だからそんな顔しないで」


オビオヌは顔を覆う。

どうしようもなく、嬉しくて。苦しくて。

泣きたくなる。


その時。少し離れた場所からクカラースが歩いてくる。


「どうした」


オビオヌは答えられない。

リランティーヌも答えない。

ただ二人で笑っている。

クカラースは首を傾げる。

だが二人の表情を見て、それ以上は聞かなかった。


春の風が吹く。

その風はどこか懐かしかった。

まるで遠い昔に消えた守護者が、

「今さら気付いたのか」と呆れているようだった。



外伝Ⅵ:決別


春の風が吹いていた。

診療所の庭。

花々が静かに揺れている。

オビオヌの手は震えていた。

怒りだった。

悲しみだった。

そして何より、恐怖だった。

目の前の青年が、自分の知っているリランティーヌが、あまりにも軽く、自分自身を差し出していたことへの。


「……リラ」


声が震える。


「きみは……」


リランティーヌは黙って見つめ返す。


オビオヌの拳が強く握られる。


「きみがしたことをわかっているのか!?」


庭に声が響く。

リランティーヌは目を伏せない。

逃げない。

ただ真っ直ぐ見つめる。

そして。


「うん」


はっきりと答えた。

迷いはなかった。

後悔もなかった。

だからこそ、オビオヌは絶望する。

リランティーヌは少し笑った。

どこか寂しげに、どこか諦めたように。


「わかってるよ」


その笑顔が、オビオヌには耐えられなかった。


「……そうか」


小さな声。

怒鳴った直後とは思えないほど静かな声。

震える手を背中へ隠す。

見られたくなかった。

弱っている自分も、泣きそうな自分も。

何もかも。


「もういい」


それだけ言った。

リランティーヌが何か言おうとする。

しかし、オビオヌは振り返らない。

そのまま歩き出す。

クカラースが呼ぶ。


「オビオヌ」


返事はない。


「待て」


それでも止まらない。

診療所への階段を上る。

二階。

関係者以外立入禁止。

長年過ごした部屋。

研究室。

扉が閉まる。


静寂。


そして、机の上の資料を見る。

積み上げられた記録。

薬学、治療法、研究結果、リランティーヌの病状、経過観察。

何年分もある。

オビオヌは一枚手に取る。

紙が震える。

怒りではない。

自分でも分からない感情。


「なんなんだ……」


掠れた声。


「なんなんだよ……」


机を殴る。

資料が崩れて床へ散らばる。

そして、一枚を破いた。


びり。


静かな音。


また一枚。


また一枚。


破る。


破る。


破る。


何年もの研究。


何年もの記録。


何年もの時間。


全て床へ落ちる。


「私は……」


声が震える。


「医者だろうが……」


患者を守るために生きてきた。

誰かを救うために。

兄を救えなかったから、救える人を増やしたかった。

なのに。

一番近くにいた患者は、自分の知らないところで、自分を救っていた。

その事実が受け入れられなかった。

床に膝をつく。

破れた資料が散らばっている。

その中に昔の記録があった。


『リランティーヌ 本日発熱』


『薬の投与成功』


『容体安定』


見慣れた文字。

自分の字。

オビオヌは動きを止める。

何年も前の記録。

まだクカラースが王子だった頃。

まだロウナタリーが生きていた頃。

まだ皆が若かった頃。

ふと思い出す。

診療所で眠るリランティーヌ。

窓辺で本を読むクカラース。

笑うロウナタリー。


当たり前だった日々。


オビオヌは顔を覆う。


「……馬鹿」


誰への言葉か分からない。

リランティーヌか。

自分か。

それとも両方か。

部屋の外では、クカラースとリランティーヌが黙って立っていた。

扉を開けない。

声もかけない。

ただ、待っている。

オビオヌが自分で出てくるのを。

三人は長い年月を共に過ごした。

だから知っている。

今のオビオヌに必要なのは説得ではない。

時間だと。


春の風が診療所を通り抜ける。

その風はどこか冷たく、そして少しだけ優しかっ

た。



外伝Ⅵ:希望の名医


診療所二階。

研究室。

床には破り捨てられた資料。

机は倒れ、薬瓶も転がっている。

静かな部屋だった。

オビオヌは壁にもたれたまま座っている。

呼吸が荒い。

額から汗が流れる。

視界が霞む。

身体が重い。


「……は……」


熱い。

異常なほど。

オビオヌは自分の額に触れる。

驚くほど熱かった。

立ち上がろうとする。

しかし脚に力が入らない。

そのまま崩れ、床へ倒れ込む。


「……っ」


呼吸が苦しい。

全身が痛む。

関節が軋む。

頭が割れそうだった。

ここまで酷い熱は生まれて初めてだった。

風邪でもない。

感染症でもない。

だが身体は確実に悲鳴を上げている。

エルフの血肉。

リランティーヌが与えた加護。

長い年月。

当然のように身体を守っていた力。

それが失われた。

オビオヌ自身の身体が、初めて本来の弱さを思い出している。


「……馬鹿が……」


掠れた声。

誰に向けた言葉か。

もう分からない。

そのまま意識が遠のく。

部屋の外。

クカラースがふと顔を上げた。


「静かすぎる」


リランティーヌも気付く。

先程から物音がしない。

二人は顔を見合わせる。

そして。

クカラースが扉を叩く。


「オビオヌ」


返事はない。


「オビオヌ」


もう一度。

返事はない。

リランティーヌの表情が変わる。


「……開ける」


扉を開く。

次の瞬間。

二人は息を呑んだ。


床。

倒れているオビオヌ。

顔は真っ赤。

汗で髪が張り付いている。

呼吸も苦しそうだった。


「オビオヌ!」


リランティーヌが駆け寄る。

額へ触れる。

異常な熱。

思わず手を引くほど。

クカラースも膝をつく。


「熱が高いのか」


「高いなんてもんじゃない」


リランティーヌの声が震える。

オビオヌはうっすら目を開く。

焦点が合わない。


「……帰れ」


弱々しい声。


「うるさい」


即座にリランティーヌが返す。


「帰らない」


「……帰れ」


「嫌だ」


昔、診療所へ押しかけたクカラースに、オビオヌ自身が言っていた言葉だった。

クカラースは小さく息を吐く。

そして、倒れているオビオヌを抱き上げた。

驚くほど軽かった。

いや、軽く感じた。

ずっと頼ってきた人。

いつも支えていた人。

決して倒れないと思っていた人。

その姿が今はあまりにも弱々しい。

オビオヌは抵抗しようとする。

しかし力が入らない。


「……離せ」


「断る」


クカラースは即答する。


「患者は大人しく寝ていろ」


オビオヌが少し目を見開く。

それは昔、自分が何度もリランティーヌへ言った言葉だった。

リランティーヌは思わず笑う。

そして、少しだけ泣きそうな顔になる。


「今度は僕たちの番だ」


静かな声だった。

オビオヌは何も返せない。

熱で朦朧とする意識の中、ただ一つだけ思う。


――面倒な患者が二人になった。


その考えに、ほんの少しだけ笑えた気がした。



外伝Ⅵ:最後の一瓶


夜だった。

診療所二階。

オビオヌは眠っている。

だが、熱は下がらない。

額は燃えるように熱い。

呼吸も荒い。

何度も寝返りを打つ。

苦しそうだった。

クカラースは傍らに座っている。

リランティーヌも離れない。


一日。


二日。


熱は下がらない。


「おかしい」


リランティーヌが呟く。

オビオヌなら分かるはずだった。

自分の身体のことも。

治療法も。

それなのに治せていない。

いや。

治療する余裕すらなかったのかもしれない。

その時、リランティーヌの視線が棚へ向く。

薬棚の奥。

一本の瓶。

ひび割れている。

ほとんど空。

しかし、底に僅かな液体が残っていた。

リランティーヌは近付く。

手に取る。

見覚えがあった。


「……これ」


静かな声。

クカラースが振り向く。


「何だ」


リランティーヌは瓶を見つめる。

長い年月。

何度も見てきた。

何度も飲んできた。

何度も命を繋いできた。


「オビオヌ薬だ」


クカラースが息を呑む。

オビオヌ薬。

慢性カラクリ症候群を抑え続けた薬。

リランティーヌを生かし続けた薬。

そして、オビオヌ自身が作った薬。

瓶の底には本当に僅かしか残っていない。

最後の一滴。

最後の一瓶。

おそらく、オビオヌが保管していたもの。

リランティーヌは瓶を見つめる。

少しだけ笑った。


「最後まで残してたんだね」


その声は優しかった。

クカラースは黙る。

二人とも分かっていた。

オビオヌは捨てられなかったのだ。

研究の始まり。

リランティーヌとの日々。

全てが詰まっているから。

リランティーヌは迷わない。

薬を取り出す。

そして、眠るオビオヌへ与える。


「……リラ」


クカラースが呼ぶ。

リランティーヌは頷く。


「大丈夫」


静かな声。


「これは元々、オビオヌのものだから」


最後の一滴。

最後の薬。

全て使う。

一滴も残さず。


やがて、数時間後。

オビオヌの呼吸が変わる。

少しずつ、ゆっくりと、穏やかになっていく。

額に触れる。

熱が下がっている。

明らかに、確実に。

苦しそうだった表情も消えている。

まるで、長い戦いが終わったかのように。

オビオヌは静かに眠っていた。

リランティーヌはベッドの傍に座り、オビオヌの眠る横顔を見る。

昔と同じだった。

自分のために徹夜していた頃も。

薬を作っていた頃も。

何も変わらない。


「……ありがとう」


小さな声。

誰にも聞こえないほど小さい。

クカラースだけが聞いていた。

だが何も言わない。


窓の外を見る。

夜空。

星々が輝いている。

そして棚の上には、空になった瓶だけが残っていた。

ひびの入った瓶。

最後のオビオヌ薬。

それは終わりの証ではなかった。

長い年月を共に生きた三人が、

再び同じ場所にいることを示す、小さな証だった。



外伝Ⅵ:再会


数年後。

春の終わり。

草原を風が渡っていく。

クカラースの父。

ロウナタリー。

二人の墓が並ぶ丘。

かつて巨大な結晶が埋まっていた場所。

今は静かな花畑になっていた。


その日。

オビオヌは一人で丘へ向かっていた。

まだ病み上がりだった。

足取りは重い。

何度もふらつく。

それでも歩く。

止まらない。

墓前へ辿り着く頃には息が上がっていた。


「……相変わらず遠いな」


誰もいない丘で呟く。

オビオヌは懐から小さな瓶を取り出した。

透明な瓶。

中には淡い金色の液体。

かつて世界を救った薬。

オビオヌ薬。

しかし普通のオビオヌ薬ではない。


自身の血。


唾液。


涙。


汗。


長い年月をかけて完成させた薬。


オビオヌは静かに墓石へ手を置く。


「ナタリー様」


風が吹く。


「御父上様」


もう一つの墓へ視線を向ける。


「クカとリラなら止めただろうな」


少し笑う。

そして瓶の蓋を開けた。

液体を墓へ注ぐ。

最後の一滴まで、全て。


静寂。

何も起こらない。

当然だ。

死者は戻らない。

それが世界の理だ。

オビオヌはそう思っていた。


次の瞬間。

墓の周囲に淡い光が生まれる。


草花が揺れる。


風が止まる。


空気が震える。


「……?」


オビオヌが目を見開く。


光は強くなる。


二つの墓を包み込む。


まるで朝日が地上へ降りたようだった。


その頃。

診療所。

クカラースは椅子で眠っていた。

リランティーヌは窓辺で本を読んでいた。

突然二人は同時に目を開く。


胸が熱い。


何かが起きている。


説明できない感覚。



「クカ」


「ああ」



言葉はそれだけで十分だった。


二人は急いで丘へ向かう。

そして。

辿り着く。

丘の上。

墓の前。

オビオヌが立ち尽くしている。

その先に、二つの人影がある。


一人は威厳ある王。


もう一人は穏やかな青年。


クカラースの父。


ロウナタリー。


二人とも確かに立っていた。


風が吹く。


長い沈黙。


クカラースは声を失う。

リランティーヌも言葉が出ない。

オビオヌだけが呆然としていた。


最初に動いたのはロウナタリーだった。

優しく笑う。


「久しいな」


その声は昔と変わらない。

オビオヌの肩が震える。


「……ナタリー様」


ロウナタリーは静かに頷く。

クカラースの父も息子を見る。

そして微笑んだ。


「立派になったな」


その一言で、クカラースは膝をつく。

王としてではなく、息子として。

ずっと会いたかった人の前で。


春の風が吹き抜ける。


花々が揺れる。


失われたはずの人々。


残された人々。


そして、長い時間を越えた再会。


誰も言葉にできなかった。

ただ、その場にいる全員が理解していた。


この日は、長い物語の中でも、最も奇跡に近い一日だった。



外伝Ⅵ:希望の終着点


丘の上。

風が吹いていた。

クカラースは父に抱き締められていた。

震える肩。

流れる涙。

王ではない。

偉大なる国王でもない。

ただの息子だった。


「御父上様……」


父は何も言わない。

ただ背中を撫でる。

幼い頃と同じように。


「よく頑張った」


その一言だけで十分だった。

クカラースは声を上げて泣いた。

その隣。

ロウナタリーは静かにリランティーヌへ歩み寄る。

肩へ手を置く。

リランティーヌは顔を上げる。


「生きていたか」


ロウナタリーが微笑む。


「はい」


「そうか」


それだけだった。

だが、リランティーヌは思わず笑う。

泣きそうになりながら。


「はい」


もう一度答えた。

ロウナタリーも穏やかに笑った。

その光景を、オビオヌだけは見ていなかった。


墓の傍。

砕けた結晶の残骸。

かつて二人の墓の間に存在した巨大な結晶。

その最後の欠片へ手を置いている。

誰よりも静かに。

誰よりも穏やかに。

まるで、最初から決めていたように。


「クカ」


四人が振り向く。


「ナタリー様」


「リラ」


「御父上様」


オビオヌは微笑む。

そして、頼み事をするような口調で言った。


「一つだけ頼みがある」


誰も嫌な予感しかしなかった。


風が止まる。


静寂。

オビオヌは結晶を撫でる。


「この結晶の残りを壊せば」


少しだけ目を伏せる。


「私は消える」


誰も理解できない。

いや。

理解したくなかった。


オビオヌは続ける。


「どうか私を消してくれ」


その瞬間、空気が凍った。


クカラースの表情が消える。


リランティーヌの目が見開かれる。


ロウナタリーが息を呑む。


クカラースの父でさえ言葉を失う。


最初に声を上げたのはクカラースだった。


「断る」


即答だった。


「何を言っている」


王としてではない。

友としての声。

オビオヌは静かだった。


「私は役目を終えた」


「終えていない!」


クカラースが叫ぶ。

珍しいほど感情的だった。


「まだ生きているだろう!」


「クカ」


「黙れ!」


涙が滲む。


「勝手に決めるな!」


その隣で。

リランティーヌも首を振る。


「駄目だ」


小さな声。

しかし強い意志。


「僕は反対だ」


オビオヌが見る。

リランティーヌは笑わない。

ただ真っ直ぐ見つめる。


「僕は君に生きていてほしい」


「リラ」


「君が僕を生かした」


静かな声。


「今度は僕たちが君を生かす番だ」


オビオヌは目を閉じる。

ロウナタリーが前へ出る。


「オビオヌ」


兄の声。

懐かしい声。


「役目とは何だ」


オビオヌは答えない。

ロウナタリーは続ける。


「役目を終えたから死ぬのか」


静かな問い。


「なら我も」


「クカラースも」


「クカラースの父君も」


「リランティーヌも」


「皆死なねばならん」


オビオヌの肩が震える。

ロウナタリーは微笑む。


「違うだろう」


「人は役目のためだけに生きるのではない」


風が吹く。

丘を渡る。

そして、最後にクカラースの父が口を開いた。


「生きろ」


短い言葉。

だが重かった。


「お前は多くを救った」


「だから今度は救われろ」


オビオヌは動けない。

結晶へ置いていた手が震える。


目の前には、自分が救いたかった人たち。


そして、自分を救おうとしている人たち。


長い沈黙。


結晶は静かに輝いている。


まだ壊されない。

まだ終わらない。

オビオヌの役目も。

五人の物語も、まだ終わらないのだから。



外伝Ⅵ:オビオヌ


丘の上。

春風が草原を揺らしている。

結晶の残骸の前。

オビオヌは立ち尽くしていた。


皆の反対。


皆の言葉。


皆の願い。


その全てを聞き終えた後、オビオヌは小さく息を吐いた。

そして、長年隠していた髪へ手を伸ばす。

茶髪を耳へかける。

いつも両耳を覆っていた髪。

その奥に隠されていたものが露わになる。


そこにあるのは、エルフの長い耳ではない。


丸い耳。


人間の耳。


オビオヌは静かに笑う。


どこか寂しそうに。


どこか諦めたように。


「……わかっていたのか」


誰に向けた言葉なのか。


全員に向けた言葉だった。


最初に答えたのはロウナタリーだった。


「当然だ」


即答だった。

オビオヌは思わず目を瞬く。

ロウナタリーは肩をすくめる。


「我は王だぞ」


「隠し事は得意ではない」


少しだけ笑う。

クカラースの父も頷いた。


「最初から気付いていた」


オビオヌは思わず額を押さえる。


「……いつからだ」


「最初からだ」


「最初からだな」


二人とも同じ答えだった。

オビオヌは絶句する。

そして、ゆっくりとクカラースを見る。

クカラースは穏やかだった。


「私も知っていた」


「……クカ」


「声だ」


短い答え。


「見えなくても分かる」


オビオヌは苦笑する。

確かにそうだった。

クカラースは昔から人の気配や声に敏感だった。

隠せていると思っていたのは自分だけだったらしい。

そして最後にリランティーヌを見る。

リランティーヌは少し困ったように笑った。


「僕は会った日から知ってたよ」


「……なんでだ」


「だって」


リランティーヌは首を傾げる。


「耳を見れば分かる」


あまりにも当然の答えだった。

オビオヌは両目を閉じる。

そして数秒後、思わず笑った。

本当に、心の底から。


笑った。


「馬鹿らしいな」


何十年も。


何百年も。


隠してきた秘密。


誰にも知られてはいけないと思っていたこと。


自分だけが抱えていたと思っていたこと。


それを皆はずっと知っていた。


そして、知った上で、

オビオヌをオビオヌとして扱っていた。


エルフだからではない。


人間だからでもない。


男だからでもない。


ただ、オビオヌだから。


ロウナタリーが微笑む。


「今さらだな」


クカラースも笑う。


「本当に今さらだ」


リランティーヌは吹き出す。


「何十年隠してたんだい」


「うるさい」


反射的に返す。

その言葉に。

全員が笑った。


丘の上に笑い声が響く。


懐かしい声。


失われたと思っていた時間。


もう二度と戻らないと思っていた日々。


その中心に、オビオヌは立っていた。


結晶はまだそこにある。

役目も終わっていない。

だから、今だけは。

もう少しだけ、

この時間を続けてもいいのかもしれない。

そう思いながら、

オビオヌは久しぶりに心から笑った。



外伝Ⅵ:生きすぎた男


丘の上。

五人の笑い声がようやく落ち着いた頃。

オビオヌはふと黙り込んだ。


風が髪を揺らす。

人間の耳が露わになったまま、珍しく隠そうともしない。

クカラースが首を傾げる。


「どうした」


オビオヌは少し考え込む。


「いや」


そして、本当に不思議そうに言った。


「おかしいと思ってな」


「何がだ?」


クカラースの父が尋ねる。

オビオヌは空を見る。


青い空。


流れる雲。


ずっと昔にも見た景色。


「私は人間だ」



静かな声。


「なのに」


そこで言葉が止まる。

リランティーヌは気付いていた。

オビオヌ自身が、今さらになってその異常さを考えていることに。


「……そういえば」


リランティーヌも呟く。

オビオヌを見る。


「君、何年生きてるんだい」


全員が考える。そして、全員が気付く。


『あれ?』


ロウナタリーが眉をひそめる。


「待て」


クカラースの父も腕を組む。


「確かに妙だな」


オビオヌは苦笑する。


「今さらか」


「今さらだ」


全員同時だった。

オビオヌは少し笑う。

そして、ゆっくり語り始めた。


「私は生まれた時から人間だった」


「普通の村で育った」


「普通に老いるはずだった」


風が吹く。


「だが」


「気付けば周りが老いていった」


「友人も」


「家族も」


「知人も」


「皆いなくなった」


その声に悲しみはない。

もう遠い昔の話だから。


「それでも私は老いなかった」


静かな告白。

クカラースが息を呑む。


「何年だ」


オビオヌは考える。

本当に考える。

指折り数えようとして、途中で諦めた。


「分からない」


「分からない?」


リランティーヌが思わず聞き返す。


「途中から数えるのをやめた」


あまりにも自然な返答だった。

全員が黙る。

そして、クカラースが呟く。


「それは確かに異常だな」


「他人事みたいに言うな」


久しぶりの軽口だった。

ロウナタリーは興味深そうに見る。


「不老か」


「違う」


オビオヌは首を振る。


「怪我はする」



「病にもなる」



「死にそうにもなる」


「ただ」


少し困ったように笑う。


「死なない」


沈黙。

誰もすぐには言葉が出ない。

結局、オビオヌ自身にも分からないのだ。


なぜ生きているのか。


なぜ老いないのか。


なぜ今ここにいるのか。


リランティーヌはふと思う。


だからなのかもしれない。


オビオヌが誰よりも命に執着した理由は。


誰よりも死を知り。


誰よりも別れを知り。


誰よりも多くの終わりを見てきたから。


オビオヌは再び空を見る。


「不思議だな」


ぽつりと呟く。


「ずっと終わりを探していたはずなのに」


視線を四人へ向ける。


クカラース。


リランティーヌ。


ロウナタリー。


クカラースの父。


皆がいる。


「今は少しだけ」


穏やかに笑う。


「終わらなくてもいいと思っている。」


春風が吹く。


誰も答えない。


ただ、その言葉を聞いた四人は静かに微笑んでいた。


長すぎる人生を生きた男はようやく、


「生き続ける理由」を見つけ始めていたのかもしれない。



外伝Ⅵ:名前のない理由


丘の上。


風が吹いている。



どこまでも広がる草原。



花々が揺れる。


鳥が空を横切る。


穏やかな日だった。


五人は並んで立っている。


偉大なる国王。


クカラース・ラヴァラル。


かつて偉大なる帝王と呼ばれた王。


ロウナタリー・セラフィスト。


偽りの救世主。


リランティーヌ。


ラヴァラル王国の先王。


ラディース・ラヴァラル。


希望の名医。


オビオヌ。


二人のエルフ。


一人の耳の短いエルフ。


一人のハーフエルフ。


一人の人間。


誰一人として同じではない。


生まれも、立場も、過去も、抱えた傷も。


失ったものも。


何もかも違う。


それでも、五人は同じ場所に立っている。


隣に。


当たり前のように。


肩を並べ、前を見据えている。


誰も王座の話をしない。


誰も病の話をしない。


誰も死の話をしない。


ただ、風を感じている。

生きていることを感じている。


長い年月だった。


失ったものも多かった。


泣いた日もあった。


立ち上がれなかった日もあった。


別れた日もあった。


消えた日もあった。


それでも、ここにいる。


クカラースは静かに微笑む。


ロウナタリーは穏やかに目を細める。


リランティーヌは風に揺れる花を見ている。


ラディースは息子たちを誇らしそうに見つめる。


オビオヌは空を見上げる。


そして誰も口にはしない。


生き続ける理由を。


答えを。


意味を。


そんなものはなくていいのかもしれない。


名前がなくても。


言葉にならなくても。


ただ。


今日を生きる。


明日を迎える。


隣に誰かがいる。


それだけで十分なのかもしれない。


風が吹く。


優しく。


どこまでも、草原を渡っていく。


その風は、遠い昔に失われたものも、

救われたものも、語られなかった想いも、

静かに包み込んでいた。


だから五人は歩き出す。


過去ではなく、未来へ。


名前のない理由を胸に。


名前のない日々を重ねながら。


あの穏やかな草原の下で、今日もまた。


名前のない物語は続いていく。




外伝Ⅶ:結晶の指輪


平和な日々が続いていた。

王城には笑い声が戻り、診療所には穏やかな時間が流れる。

草原には花が咲き続けている。


ある日の夕暮れ。

クカラースは一人、診療所を訪れた。

二階の工房では、オビオヌが静かに工具を並べている。


「珍しいな」


オビオヌは振り向かずに言う。


「今日は診察じゃないだろ」


「相談がある」


クカラースの一言で、オビオヌは手を止めた。


「聞こう」


クカラースは懐から、小さな布を取り出す。

布の中には、淡く輝く結晶の欠片が入っていた。


かつて二人の墓の間に眠っていた結晶。

最後に残された、本当に小さな欠片。


「これで指輪を作れないだろうか」


オビオヌは欠片を手に取る。

光にかざし、しばらく黙って見つめる。


「……作れる」


「本当か」


「ただし」


オビオヌは少し笑う。


「二つ作れば、ほとんど残らない」


クカラースは迷わなかった。


「構わない」


「贈る相手は決まっているんだな」


クカラースは照れくさそうに笑う。


「……ああ」


オビオヌはそれ以上何も聞かなかった。


その夜。

工房には小さな槌の音だけが響いた。

結晶は削られ、磨かれ、静かに形を変えていく。


夜明け。

机の上には二つの指輪が並んでいた。

淡い光を宿した、美しい指輪。

オビオヌは欠片を見つめる。

まだ、本当にわずかだけ残っていた。


「これだけ残るのか」


彼は少し考える。

そして、その最後の欠片も丁寧に磨き、小さな輪へと形を変えた。


「せっかくだ」


誰に贈るわけでもない。

けれど、この結晶と共に歩んできた日々を忘れないために。

三つ目の指輪が静かに完成した。


翌日。

草原。

柔らかな風が吹いている。

リランティーヌは花を眺めていた。

その後ろからクカラースが歩いてくる。


「リラ」


「どうしたの?」


クカラースは少しだけ緊張した様子で、小さな箱を差し出した。


「受け取ってほしい」


箱を開く。

そこには淡く輝く指輪。

リランティーヌは息を呑む。


「これ……」


「結晶で作った」


少し照れながら続ける。


「私と……これから先も共に歩んでほしい」


風が吹く。

花びらが舞う。

リランティーヌの目には涙が浮かんでいた。


「……うん」


その返事だけで十分だった。


クカラースは指輪をリランティーヌの左手の薬指にはめる。

リランティーヌも、もう一つの指輪をクカラースの左手の薬指へそっとはめた。


二人は顔を見合わせて笑う。

少し離れた場所では、ラディースとロウナタリーが穏やかにその様子を見守っていた。


「ようやくか」

とラディースが笑えば、

ロウナタリーも静かに頷く。


その隣で、オビオヌは大きく拍手を送る。


「おめでとう」


その笑顔は、心からの祝福だった。

クカラースとリランティーヌが振り向く。

そこで初めて気付く。

オビオヌの右手。

人差し指には、小さな指輪が一つ。

結晶の最後の欠片から作られた、三つ目の指輪。

リランティーヌが微笑む。


「オビオヌも、お揃いなんだね」


オビオヌは少し照れくさそうに肩をすくめる。


「最後の欠片を捨てるのは惜しかっただけだ」


クカラースは笑う。


「そういうことにしておこう」


三人の指輪は、それぞれ形は少し違う。

けれど同じ結晶から生まれたものだった。


かつて喪失を見届けた結晶は、

今度は絆の証となって三人の手に残った。


穏やかな風が草原を吹き抜ける。

祝福するように。

未来を照らすように。

名前のない物語は、

新しい一頁を静かに刻んでいった。




外伝Ⅷ:◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎


安らぎを夢見ていた、ある日の朝。

王城の窓から差し込む陽光の中で、

まだ幼さの残る一人の王子が目を覚ますと、

同時に部屋の扉が開く。

国王が静かに部屋へ入ってきた。

その表情は厳しくも優しい。


「◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎」


「はい」


国王は息子の前に立つ。

そして静かに告げた。


「お前は今日からラヴァラル王国の王子だ」


◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎は小さく頷く。


「はい、御父上様」


その返事に迷いはない。

だが、まだ幼い彼には、

その言葉の重さを理解しきれてはいなかった。


父が部屋を去り、静寂が戻る。

◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎は窓際へ歩いた。

ぼんやりと空を見上げる。

空には、僅かな結晶が舞っていた。


雪でもない。

花びらでもない。

透き通った小さな結晶。

掌へ落ちる。

触れた瞬間、音もなく溶ける。

けれど、次の瞬間には、また空から舞い降りる。


消えない。


終わらない。


誰も名前を付けていない。


誰も理由を知らない。


◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎は結晶を見つめる。


「……君にも名前がないんだね」


しばらく考える。

そして、穏やかに微笑んだ。


「それなら」


掌へ降りた結晶へ語りかける。


「今日から君は--◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎だ」


自分と同じ名前。

結晶は返事をしない。

それでも、風に乗って優しく舞う。

まるで名前を気に入ったかのように。

◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎は小さく笑う。


「よろしく」


結晶は光を反射しながら空へ舞い上がる。


王子は歩き出す。


隣には誰もいない。


それでも、名前を与えられた結晶だけは、

いつまでも彼の傍を漂っていた。


進む先は--





◻︎◻︎:◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎






--あるところに、王国がありました

その王国では、◻︎◻︎する者たちが暮らしています

どうやら、これが幸せなようです--






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