呪いで幼女になった聖女ですが、置いてけぼりにされた上に魔王に拾われました。でも結構幸せです。
「……何で、こんなこと」
レティシアは絶望の淵でそう呟いた。
もうこんな状況、どうしようもない。
自分の力では解決できないほどの、絶望的な状況。
小さな手、幼い声、いつもとは低い視線、だぼだぼの服。
そして小さくなってしまった身体。
レティシアは、先ほど戦った魔族が絶命直前に放った呪いによって幼児になってしまった。
しかも、そのせいで張っていた結界が消滅し、辺りに漂う瘴気を退ける力も、魔族からの攻撃を防ぐすべも失った。
おそらく、聖力に目覚める前までに退化してしまったために、力を失ったのだろう。
足手まといになるというのは分かる。
だが……。
(――置いていかれるなんてっ)
子どもに戻ったせいか涙腺まで弱くなってしまい、ジワリと涙が目に浮かんだ。
レティシアは、この世を支配せんと企む魔王を討伐するために選ばれた勇者一行の一人だ。
五歳の頃に神殿に引き取られ、そこで聖力の発現・強化するための修行に明け暮れていた。巫女と呼ばれ、俗世から切り離されて慎ましい生活を送り、神に祈りを捧げ続けることで、聖なる力を得るのだ。
巫女の中でも特に聖力が強いレティシアが聖女の称号を得て、勇者一行に随行することになった。
聖力で結界を張り、魔族が放つ瘴気や攻撃を退けるのがレティシアの主な役目だ。
魔王が棲むという、ラドゥーシヴァ。
その国境にある「及ばずの森」に入ったのが昨日のこと。
もう少しで森を抜けるというときに、魔族の襲撃に遭い戦闘。
強敵で苦戦を強いられたが無事に撃退した。
そう思われた。
だが、魔族が絶命する直前に呪いをかけてきた。
勇者を狙ったそれに気付いたレティシアは、彼を庇い呪いを受けてしまったのだ。
子どもになり聖力すらも失ったレティシアを囲み、どうするべきかとあれやこれやと話す勇者一行。
ところが、先ほどの魔族とは比べ物にならないほどの強大な力の持ち主が近づいてきたことを察知し、レティシアは今すぐここから逃げましょうと言った。
結界もないまま戦うのは得策ではないと思ったのだ。
「分かった」
そう大きく頷いた勇者は、何故かレティシアをその場に置き去りにした。
「ごめん! レティシア! そこで敵を足止めしておいてくれ!」
子どもに戻ってしまった人間に言う言葉だろうか。
森に消えていく勇者たちの後姿を見つめながら、レティシアは絶望した。
分かっていた。
あの一行の中で、レティシアは随分と浮いた存在だったことを。
お世辞にも真面目とは言い難い勇者たちは、国からお金を貰い、民からは歓声を浴び、ちやほやされることに快感を覚えていた。
いつしか、魔王を倒すという目的を忘れ、ただもてはやされて美味しい思いをしたいがために旅をする堕落した集団になってしまったのだ。
勇者は、「このまま魔王倒さなくてもよくね?」とまで言ってしまう始末だった。
とても勇者とは言い難い、欲に塗れた一行の尻を叩いていたのがレティシアだ。
行きたくないとごねる彼らをどうにか説き伏せて、及ばずの森までやってきた。
文句を何度も言われながら。
――そして自分は置き去りにされた。
よしんば予測不能の事態に陥って混乱した故の行動だとしても、迷いもいっさいない素振りからそれだけではないと分かる。
もしかして、元から皆でそうしようと決めていたのだろうか。
(そうだとしたら……酷い)
レティシアを森の中に捨てるつもりでここに来ることを賛同したのだ。
そして、絶好のチャンスがやってきた。
加えて、おあつらえ向きとばかりに強力な魔力の持ち主がやってきている。
口煩い邪魔者を始末するにはこれ以上の場面はない。
自分の人生はここで終わってしまうのだろう。
聖力もなく、幼い身体で戦うこともできずに殺されてしまう。
そういえば、魔王は人間を食すことを好むと聞いたことがある。
殺されるだけではなく、食べられてしまうのか。
(……痛いのかしら。それとも、先に殺してくれるかしら)
思考が現実から逃避し始めて、なるべく楽に死にたいな……と思い始める。
神殿に入ってからこの方、俗っぽい思考を棄てて、高尚で清廉な思考を持つようにと叩き込まれたが、人間は死を間近にするとお綺麗ではいられないらしい。
怖くて怖くて、震え上がって、今にも取り乱しそうだ。
もうすぐ、強大な魔力の持ち主がやってくる。
どこかに隠れないととは思うが、腰が抜けて動けなかった。
遠くから黒い塊のようなものが二つ、物凄い速さで迫ってくる。
あれがそうなのだろう。
瞬く間にそれはレティシアの前にやってきて、そして目の前に立ちはだかった。
(……この人、もしかして……魔王……?)
漆黒の髪の毛、金色の瞳、真っ黒な服に身を包むその人は、レティシアの肌をビリビリと刺激するほどの魔力の持ち主だ。
ここまで強い力を感じたことはない。
禍々しくもおぞましい。
聖力がなくなっても分かる。
この人は、おそらく魔王だ。
もう一人の男は、紺色の髪の毛に眼鏡をかけて真面目そうな雰囲気を持っている。だが、この人も相当な魔力の持ち主。
レティシアはいっそのことこのまま気絶したいと思ったが、意外にも気絶というのは難しいらしい。
一瞬気は遠のくものの、結局失わずにいる。
涙で目の前が霞んでしまっているけれども。
「――ん? 子ども? 何でこんなところに?」
魔王と思しき男がレティシアを認めると、片眉を上げてしげしげと顔を覗き込んできた。
小さくなったからだろうか。
男の口が恐ろしいほどに大きく見えて、がぶりと頭から食べられてしまうのではないかと声にならない悲鳴を上げた。
「生贄では? いまだに勘違いしている、森の向こうの村の人間たちがいるのでしょう。困りましたねぇ。もう生贄なんていらないと何度も言っているのに、いっこうに信じようとしない」
「それだけあの爺さんがしつこく寄越せって言ってたんだろうな。大好きだからなぁ、人間が」
男二人は渋い顔をして何やら話し込んでいる。
話から察するに、彼らはレティシアのことを生贄だと思っているようだ。
たしか、森に入る前に、近くの村の人間に随分とやめておけと言われたものだが、こういう事情があってのことだったのだろう。
つまりは、今レティシアは勇者一行にいた聖女であるということはバレてはいない。
目の前にいる幼女が敵であり、呪いによってこんな姿になったと知ったら、彼らはどうするのだろう。
聖女の力は、魔王にとっては脅威だ。
聖力は魔力を妨げる唯一の力。
命を脅かされている者としては、是が非でも殺しておきたい相手のはず。
(バレたら……殺される!)
レティシアは、命を守るために子どもの振りを懸命にした。
身体を小さくして、子どもらしく怯えなければ。
いや、怯えているのは素でだが。
「しょうがない。連れて帰るか……」
「え?!」
「本気ですか?」
魔王の言葉に、レティシアともう一人の男は同時に声を上げる。
まさかそうくるとは思ってはいなかった。
「もう森が閉じる。このまま俺たちがこいつをあちらの村まで送り届けたら帰ってこられなくなる。かと言って、置いていくわけにはいかないだろう? まだ小さいのに可哀想だ」
「可哀想にって、貴方ね……。人間を城に連れて帰ったら大変になることは目に見えて分かるでしょう?」
「じゃあ、俺はここに残ってこいつと一緒に森に閉じ込められるよ。次に出てこられるのは三十日後だ。それまで諸々よろしくな、オズワルド」
魔王にオズワルドと呼ばれた眼鏡の男は、ムッとしたような顔をする。
そして、諦めたようにはぁ……と大きな溜息を吐いた。
「……本当に貴方のそういうところ、頭に来ますね」
本当は賛同したくないのに、渋々と頷いた感じだ。
だが、ここに一人それに賛同できない人間がいる。
「あ、あの!」
このまま大人しくしていようと思ったが、聞き捨てならない話が出てきて声を上げた。
背の高い二人の男が一気に視線を寄せてきて、ひっ! と肩を震わせる。
またじわりと目に涙が浮かんだ。
「ん~? どうした? おいおい泣くな泣くな! 怖くないぞ~」
魔王と思しき男は、しゃがみ込んでレティシアの顔を覗き込んでくる。
恐ろしいと思っていた男は意外にも格好良くて、一瞬涙が引っ込んだ。
あやすように抱き上げられ、レティシアは彼の腕の中にすっぽりと収まる。
本当に自分は子どもになってしまったのだと、恥ずかしいやら驚くやらで目を白黒させた。
「どうした? ん?」
声も言葉も優しい。
禍々しい魔力が彼を包んでいるというのに、本当にこの男は魔王なのだろうかと疑ってしまう。
レティシアは小さな手で懸命に涙を拭いて、言葉を絞り出した。
「あの、わ、私を……城に連れて帰るのは……み、皆さんで私を……た、食べ……うぅっ」
このまま食べられてしまうのか。
そう思ったら涙がまた溢れてきてしまった。
美味しそうに皿の上に盛りつけられたレティシアが、フォークを持ち凶悪な顔をして舌なめずりする魔族に囲まれている様子を想像する。
想像だけでこんなに泣けてしまうなんてどうなってしまったのだろうと、レティシアは自分で自分をコントロールできなくなった。
すると、魔王はハハハと笑って、レティシアの涙を指で拭いてきた。
「食べない食べない。あのな? 人間を食べるっていうのは、俺の前の魔王の話だ。俺は去年そいつを倒して新しく魔王になった。人間は一度も食べたことないな」
「……ほ、本当ですか?」
「本当。俺も、そこのオズワルドもその趣味はない」
よかった、と安堵する。
とりあえずだが。
だが、人間は食べないけれども、残虐に殺すことは大好きなんてことはあるのかもしれない。
「とりあえず、ここにこのままいることはできない」
「……はい」
この「及ばずの森」は普段は濃い瘴気によって閉じ込められ、一度入ると無限迷宮のように彷徨うことになる、出口にまで及ばない森。
レティシアはここに一人に置かれたら死んでしまうだろうし、魔王も先ほどから森に残るのはまずいと話している。
かの魔王の力をもってしても、この森は魔境であることは変わりないのだろう。
「このままお前を城に連れて帰って、また森が開く三十日後にあちらの村まで送ってやるよ」
「……でも、さすがに、城に行くというのは……」
つまりは敵の本丸に幼女の姿のままで行くということだ。
もしも滞在中の三十日の間に聖女とバレてしまったら、食べられないにせよ殺されるくらいのことはあるのでは? と考え込んだ。
「このままどこかの宿に置いていってもらっても……」
「いいのか? 街中には人間の肉を好む奴はいるぞ?」
「ひっ!」
「匂いですぐに人間だってバレる」
「うぅ……」
「だから、城にやってきた方が安全だ」
そこまで言われて、レティシアは渋々頷くしかなかった。
ここにいても死、町に滞在しても死、城に行ったら……生き残れる可能性はある。
「来いよ。帰れるまで城で面倒見てやる。もちろん、食べないし殺しもしない。安心しろ」
誘いつつも、足はもう森の外に向いている。
抱き上げられたままのレティシアには、拒否権はさほどないようだ。
「俺はゲオルグ。お前の名前は?」
「……れ、レティ……です」
一瞬本名を名乗りそうになったが、思いとどまってレティと名乗る。
魔王……ゲオルグは嬉しそうな顔をして笑った。
「よーし! 城まで飛ばすぞー!」
レティシアの両脇に手を差し入れて空に掲げる。まるで赤ちゃんにするような高い高いだ。
子ども扱いされて恥ずかしいやら、困ったやらで顔を赤く染め上げた。
この人から見れば、レティシアはただの子どもだ。
聖女でもなく、幼気な存在。
慈しみの目を向けられるとどうしていいか分からない。
子どものように喜んでいいのか。
そもそも、誰かにこんな風に笑いかけられることも久しい。
皆、レティシアには厳しい顔をするか、面倒くさそうに顔を歪めるかだった。
面映ゆく、むず痒い。
森を出て、黒い馬に乗せられて。
城に向けて走る最中、レティシアはどうしたものかと考える。
ゲオルグの腕の中は温かくて、少し心地よくて困ってしまった。
◇◇◇
「レティ、ここが俺の城だ。これから好きに過ごせ」
魔王の城というものはおドロドロしくて、暗雲の下にそびえる仄暗いものだと思っていた。
中も薄暗くて、日の光も差さないような。
だが、実際に辿り着いた城は綺麗で美しく、窓から陽の光がたくさん降り注ぐような場所だった。
「代替わりをしたあと、ゲオルグ様が城の雰囲気を変えました」
城の様子に驚いてきょろきょろと見回していると、その気持ちを察したかのようにオズワルドが説明してくれる。
そうして分かったのだろうと首を傾げると、オズワルドは
「貴女、随分と魔族に対して恐ろしいイメージをお持ちのようなので」
そうウインク付きで説明をしてくれた。
人間の間で広まっていた噂と実態は違うのだろうか。
ゲオルグとオズワルドは、出会ってからずっとレティシアに対し怖くないのだと訴えかけている。
それとも、今のレティシアが子どもの姿をしているからだろうか。
ならば、随分と情が深い。
「レティ、ここがお前の部屋だ。それで、この女性が世話係のウィニー。何でも言ってくれ」
案内された部屋もまた綺麗に整えられており、内装も子ども向けのなのか可愛らしい。
「寂しかったらあとでぬいぐるみも持ってきますからね」
ウィニーが腰を屈めながらレティシアに言ってきた。
(……ぬいぐるみ? 呪いの人形とか?)
そんなものを預けられた日には眠るにも眠れないと、首をブンブンと横に振る。
ウィニーは残念そうにしていたが、やはりいらないと断った。
おもちゃは? 本は? といろいろと気を遣ってくれたのだが、そのすべてを断って椅子の上に小さくなってじっと座る。
「何かあれば言ってくださいね」
それでもウィニーは嫌な顔をすることなく、レティシアに声を掛けてくれた。
(これからどうしよう……)
ウィニーが一旦部屋をでたあと、レティシアはこれからの身の置き方を考える。
まずは聖女とバレることなく、三十日を無事に乗り越えることがまず第一だ。
今は聖力もなく、聖女だとバレる要因はないが、これからどうなるか分からない。
突然呪いが解けて元の姿に戻ってしまう可能性もあるし、聖力が戻ってしまう可能性も無きにしも非ず。
どちらにせよ、油断できない状況だ。
優しくされているが、決してこの心を開いてはいけない。
心を開いた瞬間、首と胴体を切り離されてしまうかも……また想像して頭を横に振った。
(……そう言えば、勇者たちは森を抜けたのかしら)
すっかり忘れていた。
もうどうでもいいが。
さすがのレティシアでも置き去りにされて、無事を祈るほど高潔ではない。
「レティ様~! 子ども服を見つけてきましたよ~! どれがいいでしょうか?」
再び部屋に戻ってきたウィニーは、両手にたくさんの服を持っていた。
一目で目に付くようなピンクや黄色、水色にオレンジ、黄緑のパステルカラー。リボンやフリル、レースもふんだんで、可愛らしさに溢れるものばかりだった。
正直、どれも着たくない。
いつも地味な服しか着てこなかったレティシアには、縁のない色味の服ばかりだ。
「……いえ、このままで」
「このままって、サイズ合っていないじゃないですか! それにしても何でこんなぶかぶかの服を着せたのかしら? 生贄用の服?」
ぶかぶかの真っ白な服を見て、ウィニーが首を傾げる。
これ以上深く突っ込まれるのはまずいと、レティシアは慌ててウィニーが持ってきてくれた服を物色し始める。
(……どれも、キラキラフワフワしていてよく分からない)
いずれも可愛くて甘いテイストの、子どもらしい服だということは分かる。
たとえば、どこぞのお金持ちのお嬢様が来ていそうなドレス。
これを着ている自分が想像つかない。
「……あの、ウィニーさん……私、どれがいいとか……よく分からなくて」
「まぁまぁ! そうなんですね! それでは私がお決めしてもよろしいですか?」
そう言ってくれて、レティシアはホッとしながら頷いた。
「ありがとうございます」
「お任せください!」
張り切ったウィニーはこれもあれもいいと、レティシアを着せ替え人形のごとく振り回す。
ようやく決まったドレスはピンクで、フリルとレースを余すことなく使われたお人形のようなものだった。
仕上げとばかりに髪の毛もツインテールにされて、ピンクのリボンで結ばれる。
鏡の中の自分は顔が引き攣っていて、絶対に似合わないと泣きそうになった。
できれば元の服を着直したいと未練がましく見つめたが、ウィニーが洗濯しますねと持って行ってしまう。
どうやらこのままでいなければならないようだ。
ますます、レティシアは身体を小さくして存在を隠すように椅子の上に蹲っていた。
しばらくすると、食事の用意ができたとウィニーが声をかけてきた。
「食事、ですか?」
「はい。ゲオルグ様がお待ちです」
「え、えっと、ま、魔王、様と一緒に食べるのですか?」
「ええ」
もうすでにそこに食事が用意されているからと言われたが、魔王と食事をするくらいならば食べない方がまだマシだ。
「いりません」
首を横に振って断った。
正直、この格好も他の人に見られたくはない。
頑なになってしまったレティシアにウィニーは優しく誘いをかける。
何故人間相手にここまでしてくれるのかと戸惑いながらも、一方で妙な優しさが居心地悪くて訝しんでしまう。
どうしても思ってしまうのだ。
何か裏があるのではないか、と。
「どうかしたのか? なかなか来ないが」
ところが、ずっと食事の席で待っていてくれていたのであろうゲオルグが、わざわざ部屋まで様子を見に来た。
レティシアは隠れるようにカーテンの裏に隠れる。
「レティ?」
ゲオルグに声を掛けられ、レティシアは緊張を高まらせた。
「……も、申し訳ございません。私、お腹は空いていないので、食事は……」
「具合でも悪いのか? 見せてみろ」
少し慌てたような声を上げたゲオルグは、無理矢理カーテンを剥がした。
驚いた顔のレティシアと、真摯な顔のゲオルグが対面する。
どんな顔していいか分からず固まっていると、途端に彼は破顔した。
「随分と可愛くしてもらったな」
「……か、かわいくなんか」
「いいや、可愛いぞ? 自分で鏡を見たのか? ん?」
レティシアを抱き上げ、ニコリを笑うゲオルグからは嘘もお世辞の気配も感じない。
本当に心の底から可愛いと言ってくれているように見える。
「私、こういう格好慣れていなくて、汚してしまうかも」
「気にしなくていい。汚れれば洗えばいいし、代わりの服も用意させる」
「そんなことしてくれなくても……」
「子どもなんだ。好きなように食べて好きなように遊んで、めいいっぱい楽しく暮らせよ。俺が勝手に連れてきたんだ、不自由はさせないさ」
な? と念を押すように言われたが、頷くことができない。
逆に勝手に森にやってきたのはレティシアの方だ。
迷惑をかけてしまっているのはこちらのほうだろう。
「さて、お姫様。本当に食事はいいのか?」
「…………」
「熱は?」
「……ありません」
「腹がいたいとかは?」
「……ありません」
「じゃあ、全部食べなくてもいい。少しでも腹の中に入れておけ」
そのうち食欲が湧いてくるかもしれないだろう? と彼は言う。
「そんなガリガリの身体じゃ俺が心配なんだ。だから食事に手をつけて、俺を安心させてくれよ。……ダメか?」
ガリガリだと言われて、レティシアは自分の体を見下ろす。腕を見て、棒のように細くなっていることに驚いた。
神殿に引き取られる前は、家が貧しくて食事は一日一回だった。
水で腹を満たし、与えられた食事はすぐになくならないように少しずつ口に入れる日々。
たしかに、あの頃の自分であれば痩せっぽっちだ。
昔のひもじさや辛さが甦ってきて、お腹が減ってきた。
レティシアはゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
ゲオルグは微笑む。
その笑顔に胸が温かくなった。
抱き上げられたまま食堂へと向かうと、食卓の上には豪華な食事が用意されていた。
肉料理や果物、デザートまである。肉の丸焼きも置かれていて驚いた。
「レティ、何が食べたい?」
優しく問いかけられて、レティシアは戸惑った。
ざっと見渡した限り、すべての料理には肉が使われている。
魔族の主食は肉なのだろうか。
神殿の掟で菜食主義を強いられていたレティシアには、口にできるものはなかった。果物も見たことないものばかりだ。
デザートも、甘いものを禁じられているので無理だ。
「……分かりません」
何を食べていいのか分からない。
どれもこれも掟に反するものばかりで、口にはできない。
「好みのものがなかったのか?」
「いいえ。野菜とか穀物類しか口にしてはいけないと言われてきたので」
「親に?」
神殿に、とは言えなかった。
言えば素性がばれてしまう。
押し黙り、答えを濁した。
「そうか。でも俺たちは口煩く言わないし、お前の親にも告げ口したりしないぞ? 誰も怒ったりしない。心配するな」
内緒にすればいいという話でもないのだが。
どうすればいいのだろう、とレティシアは悩んだ。
「レティ様は、子どもらしくありませんねぇ」
ふと後ろからぬるりと声を吹き込むようにオズワルドが囁いてきた。
悲鳴を上げて思わずゲオルグの首にしがみ付く。
「おい、オズワルド。レティを怖がらせるな」
「怖がらせるなんてとんでもない。私なりの親密さの表すための距離なのですが」
「それで耳元で突然囁かれたら、俺でも怖い」
「ゲオルグ様なら、驚くついでに裏拳を食らわせてきそうですよね」
フフフと妖艶にオズワルドは微笑む。
「話を戻しますが、レティ様は子どもらしくないですよね。言葉遣いも丁寧ですし、こんなご馳走にも喜ばない。ウィニーから聞くにおもちゃもいらないとおっしゃったとか」
ぎくりと肩を震わせ、息を呑んだ。
「そう言えば、及ばずの森には魔女がいましたよねぇ。呪いが得意な……」
「わー! 美味しそうなご飯! うれしいです!」
これ以上オズワルドに問い詰められたくなくて、声をあげて食事に喜ぶふりをした。
子どもらしいというものがどういうものか分からないが、とりあえずはしゃいでみせればいいのだろうか。
思いつく限りの子どもらしさを出して、レティシアは懸命に子どもを演じた。
「魔王様! 本当にこれを食べてもいいのですか?」
「おう! もちろんだ」
「本当に内緒にしてくださるのなら、喜んでいただきます!」
これは生きるため、聖女とバレないため。
そう自分に言い聞かせて食事を喜び、席に着いた。
だが、いざ食べるぞとなったときどれを食べていいのか分からず、見つめたまま考え込んだ。
「ほら、レティ」
フォークを持ったまま固まっていると、横からゲオルグが声を掛けてくる。
そちらを向くと、ゲオルグが肉と一緒に煮込んだ野菜をフォークに乗せてこちらに差し出していた。
(……これは)
いわゆる、あーんというものではないだろうか。
手ずから食べ物を食べさせるという、子どもにする行為。
本当にこれを食べろと? とゲオルグを見ると、彼は期待を込めたような目でこちらを見ていた。
おそらく、これは親切心なのだ。
肉を食べてはいけないと教わったと言ってしまったレティシアが口にしやすいようにと、ゲオルグが口に運ぶことで罪悪感を薄めようとしてくれているのかもしれない。
そんな純粋なる親切心。
無下にすることはできず、レティシアは遠慮がちに口を開けて食べ物にかぶりついた。
(お肉を食べてしまった~!)
心の中でごめんなさいと謝りながら、咀嚼する。
けれども、口の中に広がる肉汁の美味しさと、肉の柔らかに感動する。
覚えるのある野菜に肉の味が滲み込んでいて、さらに美味しく感じた。
(どうしよう……美味しい)
知らなかった。
お肉というのはこんなにも美味しいものなのか。
神殿に引き取られる前も、お肉など食べたことは一、二回。しかも干し肉だ。
ほぼ初めて味わった肉の味。
今までこれを知らなかった人生がもったいないと思えるほどに美味しかった。
「美味しいか?」
「はい!」
ゲオルグに聞かれて、つい正直に頷いてしまう。
本当はいけないはずなのに、お肉の美味しさには逆らえなかった。
「もっと食べろ」
これ以上は……と思いつつも、口の中で涎が次から次へと溢れ出てくる。
もっと食べたいという欲求が止まらず、恐る恐る今度は自ら肉にフォークを突きさし自分の口に運んだ。
「…………っ!」
言葉にならないほどの美味しさというのはまさにこのことだ。
レティシアは目を輝かせて、また一口、さらに一口と肉を口の中に運ぶ。
いつの間にか夢中になっていた。
「――しかし、野菜と穀物だけしか食べるなとは、レティの親は随分と厳しいんだな」
レティシアの食べっぷりを眺めながら、ゲオルグは難しい顔をする。
本当は親ではなく神殿だがと思いつつも、聞こえなかった振りをして食べ物に集中する。
「どこかに仕えていたのでは? 生贄にされるくらいです。親はいないのでしょう。……奴隷だった、とか?」
「奴隷? こんな小さな子どもをか? 人間って鬼畜か?」
その人間を食べる魔族に鬼畜呼ばわりはされたくないだろう。
レティシアは思わず吹き出しそうになった。
「言葉遣いも整っていますしねぇ。妙に大人びておりますし」
「そうせざるを得なかった環境にいたということだろう。可哀想にな。俺は人間たちはもっとまともかと思ったが、一皮むけば俺たち魔族と同じような残虐さもあるのかもしれないな」
「フフフ……人間は弱いですからねぇ。その残虐性は弱いがゆえに生じる、などというのは多分にあるでしょう」
「俺たちはただ力を誇示するために、もしくは捕食のためというのがほとんどだからな」
あぁ、そうか。
自分はあのとき、人間の残虐性というものに殺されそうになったのだ。
レティシアは、自分を置いてきぼりにして去っていく勇者たちの後姿を思い出す。
彼らは死ぬと分かっていながら、レティシアを犠牲にすることを選んだ。
神殿では性善説を教え込まれた。
レティシアもまた、人間は生まれながらにして悪人ではないと信じていた。
だから、堕落の一途をたどる勇者たちに口煩く言っていたのだ。
きっと正しき道に戻ってくれると信じて。
(でも、私は見捨てられた……)
一心に寄せた信頼は、あっけなく裏切られた。
おいしいものを食べて、心が少し落ち着いて。
レティシアを可哀想な子として見ている二人の会話を聞いて、だんだんと現実が見えてきた。
ズンと胸に重石が乗せられたかのように重くなる。
またじんわりと涙が浮かんできた。
「……そうですね……私、私、見捨てられたのです……」
五歳のときに親に見捨てられた。
お前は選ばれたのだと言っていたが、口減らしであったことは幼いレティシアでも分かっていた。
そして今回、また勇者たちに見捨てられた。
レティシアの人生、捨てられてばかりだ。
こんな自分が嫌になるし、こんな人生しか送れないことに哀しさがこみ上げる。
「……どうしましょう……私、これからどうしたら……見捨てられて、これからどうしたら……」
ボロリと大きな涙がこぼれたのをきっかけに、涙が止まらなくなってしまった。
皿の上に水たまりができてしまうほどに流れる涙は、レティシアを悲しみの海へと沈めていく。
ずっと張りつめていたものが切れて、一気に崩壊したのが自分でも分かった。
それでもどこか恥じらいがあって、声も出さずに静かに泣く。
懸命に涙を拭くレティシアを、ゲオルグもオズワルドも目を見開いて見つめていた。
「大丈夫だ、心配するな。俺たちがついている」
ウィニーがすかさずゲオルグにハンカチを差し出すと、彼はそれでレティシアの涙を拭いてくれた。
「これからどうするかは、ゆっくり考えたらいいさ。何だったら、三十日後にあちらに送っていった際に、俺がお前の面倒を見てくれる家を見つけてやってもいい」
「またそんな安請け合いして……困りますよ、仕事が山のようにあるのに」
「そのときは、俺の優秀な右腕がどうにかしてくれるんだろう?」
そんなことができないお前ではないだろう? とでも言うように、ゲオルグはオズワルドに目で訴えていた。
眼鏡を指で押し特に反論もしないところを見ると、その自信はあるようだ。
「ごめんなさい……ご迷惑をかけて……」
「迷惑なわけないだろう? お前は子どもなんだ、大人に頼って当たり前だ」
「見ず知らずのわたしに……何でそんな優しく……」
「拾った縁だ」
拾った縁でここまでしてくれるのが、人間ではなく敵であるはずの魔族だなんてなんて皮肉だ。
ここまでしてもらったこと、今までなかった。
「今まで苦労してきたんだろう?」
「……どうでしょう? 私の苦労など、他の人に比べれば……大したことでは……」
こんなことで自分で可哀想だと思ってはいけないと首を横に振る。
すると、ゲオルグは眉尻を下げて、悲しそうな顔をしてきた。
「この年で生贄になるなんて、とんでもないことだ。普通なら考えられないし、大人はそれを止めるべきだ。レティ、お前は十分しなくてもいい苦労を強いられている」
「そ、そんなことぉ……う……うぁ……」
「ここでは、そんなことさせないからな。俺があちらに戻すまでちゃんと面倒見てやる。思いっきり甘えてくれ」
そんな優しい言葉をかけられたのは初めてだ。
逆に甘えるなと叱咤されてきたのに。
レティシアは堪らず声を上げて泣いてしまった。
まるで子どものように。
わんわんと声を上げて。
ゲオルグはレティシアを自分の膝の上に乗せて、背中をさすってくれた。
服が涙で汚れることも構わず、ただ「思い切り泣け」と言ってくれたのだ。
いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた。
◇◇◇
奇妙な魔王の城での生活は、思った以上に楽しいものだった。
ウィニーは何かと世話を焼いてくれるし、遊び相手にもなってくれる。
レティシアの知らない遊びばかり教えてくれるので、つい夢中になって時間を忘れてしまうほどだ。
食事もまだ遠慮がちではあるが、随分とためらいなく食べることができるようになった。
あの見たこともない真っ黒な果実も食べた。
少し酸味と癖のある匂いがあったが、甘くて美味しい。
今では食後にはその果実を食べるのが楽しみになってほどだ。
衣装は変わらず可愛らしいフリフリのもの。
もっとシンプルなものはないのかと聞いたが、ウィニーが残念そうにしていたのでついこのままでいいと言ってしまった。
思うに、この甘ふわなドレスは彼女の趣味なのだろう。
食事は三食必ずゲオルグと一緒だ。
仕事の合間にも会いに来てくれる。
政治のことはよく分からないが、魔族の王だ。それなりに忙しいだろうに、毎日必ずレティシアの様子を見に来てくれる。結局、オズワルドに連れ戻されてしまうのだが。
それでも、まめに様子を見に来てくれるのだ。
「――ゲオルグ様、いいのでしょうか? 私なんかにこんなに構っていて」
普通に考えれば、魔族の王が人間の子どもの世話を焼ているなど、醜聞もいいところではないだろうか。
敵方に味方をするのかと眉を顰める人も出てくるかもしれない。
だが、ウィニーはケロッとした顔で心配ないですと言ってきた。
「ゲオルグ様は穏健派ですから」
「穏健派?」
「ええっと……人間と仲良くしましょうと言っている代表の人です」
子どもには難しい言葉だろうと、意味を砕いて説明してくれる。
ときおりこういう場面がある。
本当は意味は分かるのだがと思いながら、その親切心が嬉しくて仕方がない。
「ゲオルグ様は、人間と仲良くしたいのですか?」
「ええ。それで、前魔王様はまた別の考えでして。今魔族はその二つのグループで睨み合ってる……えぇと、喧嘩している感じです」
ウィニー曰く、前魔王は人間を支配下に置こうとした侵略派だった。
対して、もう不毛な争いをやめて人間たちと歩み寄ろうとしているのが、ゲオルグたちなのだ言う。
「オズワルド様も、人間と仲良くしたいと思っているのでしょうか?」
「う~ん……オズワルド様はどちらかというと、中間ですかね。歴代魔王様に仕えてきた人ですからねぇ」
二十代の青年かと思っていたが、もしかしてオズワルドは結構な年なのだろうか。全く見えないが、ゲオルグより年上なのかもしれない。
「ウィニーも、穏健派ですか?」
「はい。この城の半分ほどはそうですね。私も人間とこのまま争うよりは、共存していった方がいいと思っております」
「人間と仲良くできるのですか……?」
「できると思いますよ。現に私とレティ様は仲良しでしょう?」
「たしかに……そうですね」
最初は怖がっていたが、今では楽しく遊んでいる。
まだ慣れない部分はあるが、以前よりは抵抗感を持たなくなった。
ウィニーが好きかと聞かれれば、好きだ。
魔族とか人間とかそういう種族を抜きにして考えると、ゲオルグもオズワルドも好きだ。
親切にしてくれるし、レティシアに怖いことをしない。
強要しないし、掟に縛ったりもしない。
こんな風に自由でいられるのは初めてだ。
そして、自由でいいのだとここの皆は言ってくれる。
「本当は人間も魔族とともに歩む道を選ぶべきなのでしょうか」
だが、人間は魔族は排除すべし、滅ぼすべしという考え方が主流だ。
悪の象徴である魔王を弑することで、真の平和が訪れるのだと誰もが信じている。
レティシアもそうだ。
神殿でそう教わったし、ゲオルグたちに会うまで魔族は悪の塊だと信じて疑わなかった。
(私に唯一優しくしてくれたのが魔族だなんて、何という皮肉かしら)
手に持っている女の子の人形を見つめる。
これもウィニーがわざわざ作ってくれた。
魔族の子どもは、魔獣を模したものや人気の高い魔族のぬいぐるみを持つらしい。だが、ウィニーは魔族の中で一人で寂しい思いをしているであろうレティシアのために人間の女の子の人形を作ってくれたのだ。
新しいお友達ですよ、と言って。
一緒に、巷で大人気のゲオルグを模したぬいぐるみももらった。
二体並べて、レティシアのそばにいつも置いてある。
そう言えば、友達と呼べる人もあちらにはいなかったと思い出した。
だから、この人形たちをもらったとき嬉しかったし、大事にしようと決めた。
子どもっぽいとは思いつつも、レティシアのためにしてくれたその真心がこめられたものが宝物にならないわけがない。
寝ているときも一緒だ。
――ときおり襲ってくる、夜の寂しさを慰めてもらう友として。
ゲオルグ人形は、特に心強い。
本物のように屈強でも格好良くもない、むしろ二頭身の丸いフォルムのそれは可愛らしいのだが、それでもゲオルグが側にいてくれるような気持ちになれる。
一人で眠る夜も、怖くはない。
そう思っていた。
ところが。
――ぴちゃ……ぴちゃ……
レティシアは、自分の頬に垂れる何かに気付いて目を覚ました。
水のようなものが、ぽと……ぽと……と垂れてくるのだ。
(雨漏り……?)
こんな立派な城で? と薄っすらと目を開ける。
「ひっ……!」
すると、引き攣るような悲鳴が口から出てきた。
目の前に、ぎょろぎょろと大きな目がある。
レティシアのすぐ横で、得体の知れない何かがこちらを見ていた。
「……ひひひぃ……美味そうな匂いだぁ……儂のところにまで漂ってきたぞぉ」
大きな口から出た長くて分厚い舌が、だらだらと涎を垂らしている。
それがレティシアの頬に落ちてきていたのだと分かって、気持ち悪くて飛び起きようとした。
ところが、ベッドごと身体を縛り付けられていて身動きが取れない。
蔦のようなものが巻き付いて、微動だにできないのだ。
魔法か何かだろうか。
それで自分が思った以上に危機的な状況に陥っていることが分かった。
「人間人間人間……お前、人間だなぁ。人間、にん、にんゲン、ひひひっ」
老父なのか顔じゅうが皺だらけで皮が弛んでいた。
目と口だけは大きく開いているために、異形に見える。
にたぁと笑うさまはおぞましく、この世のものとは思えなかった。
「久しぶりじゃあ……久しぶりの馳走じゃあ。どこから喰ろうてやろう。頭からバリバリとか? それとも、そのやわこそうな腹を裂いて臓腑を吸い出してやろうかのう」
しゃがれた声から出てくる言葉にレティシアは震え上がった。
食べる?
自分を食べようとしているのかと、ぶわりと全身から汗が滲み出る。
もしかして、魔族の一人だろうか。
人間を捕食することを好むという魔族。
そいつがレティシアの人間の匂いを嗅ぎつけてここまでやってきたのか。
「……っ……ぁ……たす……たすけっ」
声が震えて上手く出せない。
悲鳴を上げて誰かに助けを求めたいのに、上手く呼吸ができなく息が吐けない。
「やはりぃ……その美味そうな桃色の瞳からいただこうとしようかのぉ!」
ひひひっ、と下卑た笑い声を上げて、長い舌をレティシアの目に向けて伸ばしてくる。
涎が滴るそれを見つめながら、死を覚悟した。
(……助けてっ)
声が出ない代わりに心の中で何度も叫ぶ。
――でも、誰が?
誰が助けてくれるというのだろう。
一方ですでに諦めを持ってしまった自分が囁いていた。
神殿に売られた自分。
勇者に見捨てられた自分。
聖女という称号を得ても、結局は変わらなかった。
レティシアはいらないと言われてしまう人間。
そうではないと思いたいのに、どうしても思ってしまう。
ここでこの魔族に食われても、きっと誰も……。
(……誰かが)
ひゅっと咽喉が鳴り、頭にその誰かを思い浮かべた。
そのとき、頭の上に置いてあったゲオルグ人形がカタカタと震え出す。
パカっと大きく口を開けると、そこからぬ……っと腕が生えてきた。
「ぶべっ!」
その腕はレティシアを食べようとしていた魔族の横っ面を力強く掴み、潰すように力を込める。
魔族は頭に指が食い込んでひぃひぃと悲鳴を上げながら悶えるも、手が離されることはない。
それどころかさらに力を込めるようにベッドに押し付け、同時に腕から先が現れた。
「……ゲオルグ様?」
何と、その腕の持ち主はゲオルグだった。
ゲオルグ人形の口からずるずると出てきて、最後には身体全体がレティシアの目の前に現れる。
怒っているのか顔は怖いが、ゲオルグその人だ。
「……おい、爺……レティの部屋で何をしている」
「わ、儂は、人間の匂いがしたからっ」
「だからって勝手に入ってくるんじゃねぇ。お前は幽閉されている身だろうが。恩赦で殺さずにいてやったんだ。それを忘れて、徘徊してんじゃねぇよ」
低く、地を這うようなゲオルグの声は背筋が凍るほどに恐ろしかった。
いつもより乱暴な言葉遣いをし、今にも爺と呼ばれた魔族の頭を握り潰しそうなほどに怒っている。
こめかみの血管がピクピク震えていて、相当憤慨しているのが分かった。
「今すぐここで殺してやろうか? あ?」
「や、やめろっ」
「なら二度とレティに近づくな。――今度近づいたら、容赦なく殺す」
ゲオルグの瞳の瞳孔が縦に細長くなっている。
金色のそれは鋭い光を放つ。
普段は優しいので忘れてしまいそうになるが、彼は魔王なのだと改めて思う。
レティシアは、ゲオルグの恐ろしさを知ったような気がした。
「悪かったな。怖かっただろう?」
騒ぎを聞きつけてやってきた兵士たちに顔が変形した魔族を引き渡すと、ゲオルグは申し訳なさそうに言ってきた。
先ほどまで怖い顔をしていたのに、レティシアにはいつものような優しい顔を見せる。そのギャップに少々戸惑いながら頷いた。
「あの爺は前魔王なんだ」
ゲオルグが倒して魔王になったあと、情けをかけて城の地下に幽閉していたのだが、今回抜け出したようだ。
城を徘徊しているうちに、レティシアの人間の匂いを嗅ぎつけて襲ってきたのだろうと説明してくれた。
「今度は絶対にこんなことがないように気をつけるからな」
「ありがとうございます」
「大丈夫か? 怒っているなら怒ってもいいし、泣いてもいいんだぞ?」
「いいえ。逆にゲオルグ様には感謝しております。助けてくださり、ありがとうございます」
怖かったが、結果的には助けてもらったので怒りも涙も込み上げてこない。
あるのは安堵と、ゲオルグへの感謝。
そして疑問だった。
「ゲオルグ様。あの、何故ぬいぐるみから出てきたのですか?」
誰も助けに来ないと思っていた。
それなのに、ゲオルグはゲオルグ人形の口から生えてきて助けてくれた。
あれはどういう仕掛けだったのだろう。
「あー……あれは……」
「実はあのゲオルグ人形には、ゲオルグ様の魔法がかけられているのですよ」
兵士たちと一緒にやってきて、乱れたベッドを直していたウィニーが横から口を挟んできた。
ゲオルグは彼女の言葉に気まずそうにする。
「レティ様の身に危険があったときにご自身が助けに行けるようにと召喚魔術と、防御魔術、それに攻撃魔術、結界も張れるようにと改造しておりまして。この世で唯一、そして最強のぬいぐるみです」
「そ、そうなのですか? 知りませんでした……」
「それはゲオルグ様が口止めしたからですよ。ぬいぐるみがこっそり守ってくれるから、わざわざ怖い思いをさせることはないと」
ゲオルグをちらりと見ると、彼は照れ臭そうに目を逸らした。
「私のために……そこまで……」
「城の中とはいえ、安全とは言い難い。守ると言ったんだ。その対策をとったまでだ」
ただ偶然拾っただけのレティシアにそこまでしてくれるなんて。
彼の優しさに、胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「別にいいんだ。お前が無事ならば」
「ゲオルグ人形、これからも大切にしますね」
「あぁ、できれば肌身離さずにいろ。あれが助けてくれるからな」
頭を優しく撫でられ、レティシアは口元を綻ばせる。
ゲオルグの優しさを素直に受け取れないでいたが、今は受け取って心からの感謝を伝えたい。
「さぁ、もう夜更けだ。そろそろ寝ろ」
ゲオルグに就寝を促されて、レティシアはウィニーが整えてくれたベッドを見る。
だが、そこに行く気持ちになれなくて戸惑った。
もう大丈夫だとは分かっているが、また何かあったらと思うと一人で眠るのは怖い。
部屋に一人になるのは嫌だった。
「どうした?」
なかなか動こうとしないレティシアの顔を覗き込み、ゲオルグは心配そうに問いかけてくる。
何度も何度も言葉を呑み込み、このまま首を横に振ろうとした。
でも、もしも許されるのであれば、今の気持ちに素直になりたい。
素直になって、本当の気持ちを伝えられたなら。
もしかして、受け止めてくれるのだろうか。
レティシアという人間を。
「……ゲオルグ様、私」
我が儘を言ってはいけない。
ずっとそう教え込まれてきた。
我が儘を言って誰かの手を煩わせることは悪なのだと。
実際に言えば叱責され、ときには罰を受けた。
けれども。
「遠慮するな。言ってみろ」
ゲオルグは違う。
優しい目でこちらを見つめ、レティシアの気持ちに耳を傾けてくれる。
それが酷く嬉しくて。
「――一人だと怖くて眠れないので、眠るまで……そ、側にいてもらっても、よろしいでしょうか?」
気持ちを素直に吐き出した。
(い、言ってしまった! とうとう、我が儘を言ってしまった!)
内心、やってしまったという気持ちが大きくてドキドキしている。
迷惑だったらどうしよう。
断られたらどうしよう。
嫌われたら、どうしよう。
たくさん頭の中に不安が浮かび、ゲオルグの顔が見られなかった。
「あぁ、分かった。側にいよう」
だが、ゲオルグはそんなレティシアの不安を一蹴するかのような温かな声で答えてくれた。
ハッとして彼の顔を見ると、嬉しそうにこちらを見ている。
「初めてだな。お前が子どもらしいことを言うのは。いいことだ」
「……嫌ではありませんか?」
「そんなことあるはずがない」
「わ、私を、嫌いになったり……」
「しない」
きっぱりと否定されて、レティシアは安堵した。
よかった、と嬉しそうに微笑む。
「そんなに怯えるな、レティ。皆、お前が可愛くて仕方がないんだ。この城には子どもがいないからな。だから甘やかしたくなる。我が儘を言ってほしいんだよ。逆に、大人びていて心配になるくらいだ」
でも、本当のレティシアは大人だ。
我が儘を言える立場でもなく、子どものように振る舞うのはあってはならない。
大人びて当然だ。
けれども、許されるのであればもっと我が儘を言ってみたい。
自分の気持ちを受け止めてくれるという安堵感を味わいたい。
どうせ、また人間の国に帰される身だ。
期間限定の居候で、あと二十日ほどでいなくなる。
だから、今だけは。
きっとあちらに戻ったら、元の自分になるから。
そう思って、レティシアは頷いた。
「――私、明日、デザートを食べてみたいです」
ずっと食べてみたいと思っていた。
けれども贅沢品である肉を食しているので、デザートまで手を伸ばしたらさすがにいけないだろう自重していたのだ。
だが、この際だから味わってみたい。
それが次のレティシアの我が儘だ。
「お前は欲がないなぁ」
ゲオルグは笑いながら頭をわしゃわしゃと撫でてきた。
自分なりに精一杯の我が儘を言ったつもりだったのだが、欲がないと言われてしまった。
(……我が儘って難しいのね)
初めて知った難しさだった。
それから、レティシアは随分と自分に正直になった。
我が儘の加減が分からず、ときおりゲオルグたちを困らせてしまうこともあったが、そんなときは彼らは怒らずにじっくりと教えてくれた。
これは我が儘か否かと頭を悩ませることもあるが、でもそこがレティシアに求められている主題ではないのだと気付いた。
気持ちを自分の中に押し込まない。
相手に伝えることも重要だ。
その過程で多少我が儘になってしまってもいいんだよ。
そう教えてもらっているような気がする。
レティシアの中には「個」というものがなくて、いつも「誰か」のために動いていた。
両親のため、神殿のため、そして平和を求める世の中のために。
「個」を殺すことに慣れ、麻痺していたのだろう。
それに、実は少し我が儘を言うのが楽しくなってきていた。
神殿の掟を破ることに快感を覚えてしまう。
ずっと禁じられていた肉もデザートも美味しいし、ウィニーと一緒に遊んだり、ゲオルグとお忍びで町に下りて買い食いをしたり乗馬したり。
疲れたら寝て、大きな口を開けて笑って。
毎日捧げていた祈りもそこそこに、やってきたゲオルグを迎え入れて、オズワルドに連れ帰される姿を見送って。
庭に花も植えた。
人間の国に帰っても、レティシアがここにいたという証を残せるように。
手紙も書いた。
感謝の言葉で溢れたものを。
書ききれなくて何枚も使ったけれど、きっとこの気持ちの半分も伝えきれていないだろう。
ウィニーに教えてもらって、簡単な刺繍もした。
魔族の文字を教えてもらい、ハンカチにウィニーの名前を刺繍をする。
その横に、小さく「レティ」と入れたのは、彼女に渡すまで内緒だ。
ゲオルグにもオズワルドにも同じく刺繍入りのハンカチを。
それと、ウィニーが作ってくれた女の子の人形の胸の辺りにも、「レティ」と刺繍した名札をつけた。
あとは、何を残せるだろう。
レティシアは滞在日数が少なくなるにつれて深く考え込むようになった。
子どもがまるで駄々をこねるように、皆に「レティ」という人間がいたことを忘れてほしくなくて必死にもがいている。
あれもこれもと思い付くけれど、そのいずれもが足りない感じがしてしまう。
こんな焦燥感は初めてで、レティシアは落ち着かない心地のまま城での生活を終えようとしていた。
及ばずの森が開くまであと一日。
明日は朝一番に城を出て、ゲオルグとともに森に入り人間の国へと帰る。
とうとうお別れのときがくるのだ。
長いと思っていた三十日だが、過ぎてみればあっという間だった。
荷物をまとめてみると思った以上に多くて驚く。
そのひとつひとつに思い出が詰まっていた。
「おや、もう支度を終えたのですか? 気が早いですね。明日出発なのに」
部屋にやってきたオズワルドは、綺麗に整えられた部屋を見てフフフと微笑む。
最初、彼のこの笑い方が苦手だったが、今では平気になった。
腹に一物を抱えているようではあるが、レティシアを見透かしたうえでどうこうしようという気はなさそうというのが分かったからだ。
おそらく、こちらが意図的に危害を加えない限りは傍観するつもりだったのだろう。
「明日忘れ物をしたら嫌なので、早めの準備をしたのです。……もう二度と、こちらに取りには戻れないでしょう?」
及ばずの森を抜けて人間の国に戻ったら、ゲオルグたちには会えない。
嫌というほど分かっているから、念入りになる。
「フフフ……貴女は本当にいい子ですねぇ。最後の最後まで」
「そうですか? 結構我が儘を言ってしまった自覚はあるのですが……」
人生の中で一番我が儘を言った日々だった。
楽しかったし、充実感があった。
その分、皆には迷惑をかけたかもしれないという思いもあった。
「あのくらい可愛いものですよ」
けれども、オズワルドは、いやゲオルグもそうだが、レティシアの我が儘は可愛らしいと言う。
最後までその線引きが分からないままだった。
「それに、本当に言いたいことは言っていないでしょう?」
「すべて言っています」
オズワルドの言葉に、ソワリと胸が騒めく。
そうだ。
全部言っている。
思いつく限りのやってほしいこと、やりたいことを口にしてきた。
だが、オズワルドは意地の悪い笑みを浮かべる。
可哀想なものを見るような目で。
「自覚がないのですね」
まるで、レティシアの望みを知っているかのような口ぶりだ。
何故こんなことを言われるのか分からず、レティシアは戸惑った。
「覚えておいてくださいね。本当に欲しいものは、声に出して相手にしっかりと伝えないと手に入りませんよ」
――どうして、そんなことを言うのだろう。
レティシアはキュッと唇を真一文字に引き結んだ。
すべて口にしたというのに、これ以上何を望めというのか。
「短い間でしたが、楽しかったですよ。貴女がやって来てから、この城は華やぎました。――しばらくは、貴女のいない日々に慣れないかもしれませんね」
◇◇◇
次の日、ゲオルグと一緒に及ばずの森にやってきた。
黒い馬に乗ってここを去ってから三十日。
薄暗い森は、いつ見ても恐ろしい。
「そう言えば、私を拾った日、ゲオルグ様は何故及ばずの森にやってきたのですか?」
ずっと聞きそびれていた。
何故魔王ともあろう人が、こんなところまでやってきたのかを。
何か目的があってのことだろうかと、再び森を見て思い出して聞く。
「生贄が置かれたりするから、その見回りだ。それとたまに、人間の国に押しかけようとする馬鹿な奴らもいるからその見張りも兼ねて」
「魔王様直々に?」
「俺以上に強い奴はいないからな。俺が守った方が面倒は少なくなるだろ?」
たしかに魔族の中でも最強であるゲオルグならば、どんな強敵でも一掃するだろう。鉄壁の守りと言ってもいい。
こうやって、彼は人間との共存を進めるべく人知れず戦ってくれているのだ。
その理想がいつか叶う日が来るといいなと、密かに思う。
一緒にそれを祝えないのは、寂しいけれど。
「私、あちらに帰ったら、皆に伝えますね。ゲオルグ様が、人間と仲良くなりたいと思っているということを。こちらも歩み寄ることをしないかと、訴え続けます」
「ありがとう」
手に持ったゲオルグ人形をギュッと抱き締める。
寂しくなんかない。
ゲオルグ人形があればきっと大丈夫。
人間の国に戻ってもちゃんとやっていける。
レティシアは心の中で何度も自分に言い聞かせた。
「あっちに行ったら、ちゃんと面倒をみてくれる大人を見つけてやるからな」
「……別に大丈夫だと言いましたのに」
人間の国に送ったらそれでおしまいということはできないらしく、レティシアが何度断ってもゲオルグは見つけるからと言い張った。
そうなるとまた及ばずの森が開くまで三十日かかるので、そうなってもいいようにと必死に仕事を終わらせてきたらしい。
あとはオズワルドにお任せだと言っていた。
「……私、見た目は子どもですが、しっかりしていますよ?」
「そうだとしても俺が心配なんだよ。お前がしっかりしていても、な」
本当は呪いで幼くなったことを最後まで言えなかった。
聖女であることも。
無垢な子どもを演じて、自分の居心地の良さを守ったのだ。
(私はずるい)
結局、本当のことを言う勇気もなく別れようとしている。
こんな自分が、いつまでもゲオルグの側にいていいはずがない。
「元気でいてくれよ、レティ。また生贄になったりするな。そうなったら、二度と人間の国には帰さないからな」
「そうなったら、また城に置いてくださいますか?」
「ああ、もちろんだ。俺の娘として、一緒に暮らせばいい」
「……嬉しいです」
本当に、ゲオルグの娘だったらどれだけよかっただろう。
どれほど幸せだっただろうか。
城の中での日々を思い起こし、レティシアはそれを手放してしまうことに胸が苦しくなる。
「……ゲオルグ様、私」
オズワルドの言葉が頭の中に甦る。
本当に欲しいものは口に出して相手に伝えないと手に入らない。
その言葉がレティシアの心を苛む。
「……私、……私は」
そうか、自分は。
ここにきてようやく分かった。
何を心の底から望んでいたのかを。
いや、分かっていたが、知らない振りをしたのだ。
心の叫びに耳を塞いで、大丈夫だと言い聞かせていた。
口に出してしまって、断られてしまったら。
そうしたら二度と城では暮らせないと、嫌でも思い知ってしまう。
今度こそ、拒絶された辛さから立ち直れそうにもない。
「……レティ?」
ゲオルグは涙をポロポロと零すレティシアを、心配そうに覗き込んできた。
大丈夫、何でもないといつものように言ってみせたいのに、今ばかりは難しかった。
大丈夫じゃない、全然。
今にも胸が張り裂けそうだ。
「……ゲオルグ様」
「どうした?」
「私、これから、凄く自分勝手なことを言います。今までで一番の我が儘です。こんなことを言うこと自体おこがましい」
ゲオルグは何か言いたげに口を開いたが、再び閉じた。
最後までじっと聞いてくれるつもりなのだろう。
レティシアはその気遣いに感謝しながら、さらに続けた。
「でも私、今ここで本当の気持ちを伝えなければ後悔する。やはりあのとき言っておけばよかったと、二度と取り返しのつかないことを惜しむのは嫌なのです」
ちゃんと相手に伝える。
そのためにレティシアは大きな目をゲオルグに向け、絞り出すように願いを言葉にした。
「――ゲオルグ様、私、帰りたくないです。まだ城にいたい。城でゲオルグ様たちと一緒に、暮らしたいです」
ようやく口にできた願いは、涙とともにとめどなく溢れ出た。
「……ごめんなさい、ゲオルグ様……ごめんなさい」
きっとこんなことを言ったらゲオルグは困るだろう。
迷惑をかけていることも分かる。
けれども、ゲオルグたちが大好きなのだ。
魔族であろうとも、他の魔族に食べられる危険性があったとしても。
様々な危惧がどうでもいいと思えてしまうくらいに。
これが一方通行の想いであったとしても。
レティシアにとっては城は唯一無二の場所だった。
「……本気か?」
さめざめと泣くレティシアに、ゲオルグが訝しむように聞いてきた。
少し低い声色にビクリと肩を震わせたが、本気であることを示すように強く頷いた。
「魔族に囲まれるということはどういうことか分かっているか?」
「はい」
「身に危険が降りかかる可能性もある」
「分かっています」
「人間の国に帰りたいと言っても、すぐには帰れなくなるぞ?」
「それでもいいです。もし、私がそんなことを言い始めたら、森に放り投げてください」
「……そうか」
ゲオルグの静かな声が怖かった。
やはりダメなのだろうかと予感させるような声が。
断られる覚悟を決めて、レティシアはぎゅっと手に力を込めた。
――ところが。
「分かった! なら、また一緒に暮らそう!」
ゲオルグはレティシアを抱き上げ、にっかりと笑う。
嬉しそうに。
「ずっと人間の国に帰りたいのかと思っていたし、その方がいいのかと思っていた。だが、レティがここに残りたいと望むのであれば大歓迎だ。オズワルドもウィニーも喜ぶ。もちろん俺もな」
「い、いいのですか? 私、残っても」
「もちろんだ。むしろ反対する理由がない」
反対する理由ならたくさんあるだろうに、彼は大した問題ではないとでも言うように笑い飛ばす。
「さっきは脅すようなことを言ったが、安心しろ。城にいる間は俺がお前を守るからな。そのぬいぐるみも守ってくれる」
「なら、私、何かお仕事をします! ただ城にいるだけではやはりご迷惑では……」
「いいよ。しなくても。子どものお前に仕事なんかさせられない」
でも本当は中身は大人なのに……! と前のめりで訴えたくなった。
何をしなくても城に住むというのは心苦しい。
皆、働いているのに、たとえ身体が子どもでも怠惰を貪っているように嫌だった。
「そんな顔するなよ。別に気にしなくてもいいぞ?」
「でも……」
「あのな、レティ」
ゲオルグは難しい顔をして考え込むレティシアに、優しい声で諭してくる。
「お前には将来的に、人間と魔族の橋渡しをしてもらいたいんだよ。人間と魔族両方を知るお前に、和平の突破口を開いてほしい。そのためにこちらに残る。それなら、お前も大義名分があっていいだろう? まぁ、あくまで建前だけどな」
建前であっても何でも。
レティシアにできることがあるのであれば、それをやり遂げたい。
ゲオルグの理想の実現のお手伝いができるのであれば、喜んで進み出る。
「私……私! 拾っていただいた恩を忘れません! 必ずや、ゲオルグ様のお役に立ってみせます!」
感極まり、ゲオルグの首に抱き着いた。
嬉しくて嬉しくて仕方がない。
無理だと思っていたから、この喜びはひとしおだ。
「おお。立派な大人になって返してくれよ」
そう言われ頭を撫でられ、はたと気付く。
いつまでも、子どものふりをしたままではいられないと。
本当のことを言わなければ、フェアではないだろう。
レティシアはゲオルグから少し離れ、口籠りながら俯く。
「……実は、ゲオルグ様にお伝えしなければならないことがありまして」
「何だ?」
「えっと……その……」
実は子どもではなく立派な大人で、しかも貴方たちの天敵である聖女なのです。
そう言っても、ゲオルグは許してくれるだろうか。
ドキドキしながら、ええいと口を開いた。
「私――!」
ぼふんっ。
一度だけ耳にした音が聞こえて、自分の身体がググっと伸びていく感覚がする。
え? と慌てて見下ろすと、そこには大きくなった自分の手が。
バッと顔を上げると、いつもより近くにあるゲオルグの顔があった。
双方、目が落ちそうなほどに見開いて驚いている。
「……レティ……なのか?」
「……そのぉ……うふふ……」
笑って誤魔化そうとしてみた。
だが、今のこの状況は誤魔化しようもなくて、冷や汗をダラダラと流す。
また、ぼふんっと音がして身体が縮む。
ゲオルグはますます固まって、言葉を失っていた。
「……実は呪いで子どもになっていたのですが……それでも置いてくださいますか?」
彼は頭が痛いとばかりにやれやれと首を振り、うぅんと唸り声を上げる。
レティシアはその顔を見ながら、もう笑うしかなかった。
「とりあえずレティ、事情を最初から話してくれるか?」
その後、無事にゲオルグと城に帰ったレティシアは、不安定になってしまった呪いのせいで子どもなったり大人に戻ったりと割と大変な日々を送るのだが、それはまた別のお話。