入道雲は手の中で。
水面が太陽のひかりを乱反射させている。一人またひとりと飛び込み台から飛沫をあげる。ワタシは教室の窓辺から水泳部の練習を見ていた。
「おいみんな解き終わったか」
放課後の校舎は昼間の賑わいが嘘のようにひっそりとしていて、蝉の鳴き声すら飲まれてしまう。補習のために残された生徒らは夏の暑さを言い訳に机にふして夢の中へと逃れる。
虹は太陽と観測者の間にしか現れない。ワタシは答案用紙に筆を滑らせた。幼い頃のワタシは虹の架け橋を歩けると信じていたし、雲に跨がって世界を旅することを飽くことなく想像した。
「寝てばかりいると試験に落ちるぞ。大人になって苦労しないように今頑張らなきゃ」
先生は黒板に向かい解説を始めた。もちろん誰も聞いてはいない。
「この問題が分かるヤツはいるかー」
静まり返った教室で先生は続ける。
木々に囲まれたプールはここからだと良く見える。水泳部は休憩だろうか、フェンスに寄りかかってたくましい体に陽を浴びていた。
彼らは遠くを指差している。視線をワタシは追った。大きな入道雲がある。でかいなあ、ソフトクリームみたいだ、とか話しているのだろうか。
入道雲はワタシの手にすっぽりと収まる。真ん中を小さな旅客機が通過していく。乗客たちには見えているだろうか、塵を核にした無数の氷の礫。それはもう雲ではない。
「君は何でここにいるんだ」
振り向くと先生が立っていた。ワタシの答案用紙を持っている。黙っていると先生は丸だけつけて離れていった。
「中間考査よりも難しいはずなんだけどなあ」
教卓に頬杖をついて先生はため息をついた。
何かが光った。ワタシは改めてプールへ顔を向ける。
浅黒い肌にやけたクラスメートの瞳がワタシを映していた。彼からぽつりぽつりと滴る水の輪郭まではっきりと分かるようでいて、陽炎に巻かれて幻でも見せられている気もした。
ここからだと手の届かない彼の背中が水中に消えていく。もしも触れてしまったら、近づいてしまえば、ワタシは知ってしまうだろう。
遠くから眺めているだけでいい。
入道雲を掴むようなことだ。虹の架け橋は足を乗せた途端に真っ逆さまに墜ちて往く。そうするのが大人になるってことなら、ワタシは遠くから眺めているだけでいい。
そう、遠くから眺めているだけでいいんだ。