84.牧場経営の誘惑
今のゲームのペースでは車の購入なんてまだまだ先だと思いつつゲームを終了して現実世界に戻ると、肉が焼けているような香ばしい匂いが鼻から喉を通り、肺に入らず胃に向かっていく錯覚に陥った。
すると、即座に肋膜の下辺りがグウウと鳴って、言葉が思いつくよりも前に空の胃袋が窮状を訴える。
ところが、その匂いを追いかけて、何やら黒焦げを連想させる臭いが漂い始めるが、それでも空きっ腹が鳴ってしまうのには参ってしまった。
臭いの後に「あああっ!」という母親の悲鳴が追いかけてきたが、何が起きたのかは容易に想像が付く。
仰向けになって天井を見ながら転移ボケが治るまで待って、ベッドの上で思いっきり伸びをした後でおもむろに起き上がる。ゲームと現実の世界がシームレスになっていないので、頭の切り替えに時間がかかるのは何とかならないものかといつも思う。
部屋を出て階段をヨロヨロと降りて行き、ダイニングに顔を出す。
食卓には、早めの昼食なのかまるっきり時間がずれた朝食なのかを隠すために発明された「ブランチ」というおしゃれな言葉の実態が、よれたエプロンを身につけた母親の手によって乱雑に並んでいる。
ちょっとキレ気味の母親が「あなたが寝てばかりいるからこうなるのよ」と、黒焦げがデミグラスソースで隠されたハンバーグと、部分的に濃い茶色に変色している白身に縁取られたカチカチで凹みのある黄身という組み合わせの目玉焼きが、楕円形の皿にフライ返しを使って載せられた。その皿は、娘が椅子に腰をドカッと下ろしたのとほぼ同時に、大きな音を立てて娘の目の前に置かれた。
どう見ても自分の失敗を人の寝坊とすり替えているが、週末が寝坊なのは親譲りなので、どうせ30分前に起きて慌てて食事を用意しているあなたが何を言ってるのよ、と心の中でつぶやく。
背中で聴くテレビの音声は、バラエティ番組の早口の台詞と笑い声ばかりで、それをBGMにして「お待たせ」と胃袋に食べ物を流し込む。焦げ目を避ければ、ハンバーグは肉汁が溢れておいしい。ゆで卵みたいな黄身の目玉焼きだって、黄身だけ丸く箸で切り取って醤油をふってパクッと食べれば悪くない。
ドレッシングをたっぷりかけた野菜はシャキシャキして美味しいし、その上に乗っているチーズは芳醇な香りがする。
グラスに入った飲むヨーグルトは口の中で甘みとともに滑らかに広がり、追いかけてくる程よい酸味には味わいがある。
そのグラスを頬に当てて考えた。
(牧場っていいのかなぁ……。酪農ってどうなんだろう……)
今やっている農場経営のVRゲームは、野菜の栽培だけじゃなくて、牛や豚や羊を育てることが出来る。養鶏場も出来る。乳製品の工場だって建てられるのだ。ただし、いずれも敷地面積が必要だけど。
あの小川の向こうはどれだけ土地が空いているかわからないが、もし空いていたら切り開いて牧場にしたり、工場を建設できるだろう。ただし、資金がいくらかかるかという問題があるが、今は横に置いておこう。
前に一度『野菜の栽培だけにしよう』と悩んで決めたものの、こうも食卓を彩る野菜以外の食品を見てしまうと、経営をいろんな方面に広げたくなる誘惑には勝てない。
「何やってんの? ごちそうさまなら、ぼさっとしないで、さっさと片付けなさい!」
母親の怒気を含む声に、半眼になってボーッと皿に目をやっていた私は我に返った。
食い散らかしたように食べかけが残った皿を片付ける私だが、お行儀が悪いのではなく、母親自身の調理失敗の証拠を残したものであることは認めてもらいたいものだ。