143.リアルは知らない方がいい
私が警戒しながら「おはようございます」と挨拶して恵美さんの前に立った。
「昨日はどうも」
妙にニヤニヤしている彼女は手を後ろに組んで体を屈め、「どうも」を強調して言葉を返す。
私がノアールであることはバレバレだろうが、ここに来る前に私の口からはその名前を一切出さないことを決めていた。
彼女の前で認めることだけはどうしても出来ない私は、「どうも」に頬をピクリともさせないし、唇を固く結んだままで応じる。
「あら、よそよそしいわね。握手まで交わしたのに。あれは何だったの?」
皮肉な笑いを浮かべる恵美さんへ「どういったご用件ですか」と単刀直入に質問をぶつける。
一瞬、言葉を選んでいるようにうつむいた彼女は、ふいっと顔を上げた。
「農園 恵さん。あなたは、ノアールのリアルの姿であることを顔に書いておきながら、ご自分では認めないのですね。なぜなのです?」
思っていることが顔に出やすい私の欠点を悔やむ瞬間が訪れる。しかし、ここでも無言を貫いた。
「まさか、『私の別の人格がゲームでノアールをプレイしているから知りません』なんて滑稽なことを言うおつもり?」
肺に息を貯めて、長めに吐いてから心を落ち着かせた。
「ノアールの正体を知ってどうするつもりですか?」
「あなたはこう言いましたよ。『一緒に楽しくプレイしませんか? このアール・ドゥ・レペの世界で』と。だから、一緒にこの現実世界でも楽しみませんか、お友達として?」
また不気味に笑う。気が置けるから疲れる相手だ。
「バーチャルなゲームとリアルとは区別した方がいいと思いますが」
「あら、否定しないということは、やはりあなたはノアールなのね?」
「こだわりますね」
「それははっきりさせたいから。私は、ジャンヌ・ド・ポワティエであることを早々に認めましたよ」
「自分が認めたから他人も認めるべきとは、押しつけと同じ考え方です。人それぞれに事情もあり考えもありますから」
「なぜバーチャルの世界でリアルを隠すの?」
「なぜバーチャルの世界でリアルをさらけ出すのですか?」
「質問に質問で返すのですか?」
「質問の答えを正しく返すために質問しているのです」
「ん?」
そう言って首を傾げる恵美さんが、一瞬、コニーリアさんに見えてきて吹き出しそうになった。
「あら、何か可笑しくて?」
まずい。また顔に出てしまったらしい。
「いえ、別に」
「そう……。ヘンな人」
ヘンで大いに結構。
「あのチート的な技を繰り出すノアールを演じる人がどういう人でどんな生活を送っているのか、凄く興味があるの。お近づきになれば、私もあのくらい強くなれるのかなって」
「…………」
「そんな純粋で単純な動機だけど、だめかしら?」
いや、裏があると思う。それが何かわからないけど、私の直感は警告を促している。
今度はこちらから自分の考えを主張してみる。
「VRMMOの世界でリアルが誰かわからないまま仲間になったり、競い合ったりしている方が気が置けなくていいです。リアルを知ってしまったら、姿がダブってしまってゲームが楽しめません」
「あら、リアルを知っているからこそ、バーチャルが楽しいし、安心できるんじゃないの? ネカマだったらどうするの?」
「それはリアルで楽しい仲間だからこそ、その理屈が成り立ちます。リアルで楽しくない仲間ならバーチャルなゲームの世界でも楽しくありません」
すると、恵美さんが考え込んでしまった。
「……なるほど。リアルを知ってしまうと、バーチャルなゲームの中では相手と親しくないと楽しくない。でも、リアルを知らないなら、たとえリアルでは親しくない相手でも楽しいと」
「そうです。バーチャルではリアルを知らなくていいのです」
「まあ、そういう考えもあるわね。あなたは、その考えがバックボーンにあると」
「はい」
恵美さんは、大きく頷いて歩き出した。
「私とあなたとは相容れないことがよくわかったわ。でも、ゲームではお互いに無視せず、良きライバルでいましょうね、ノアールさん」
最後まで「ノアール」に反応しなかった私だが、最後の最後で否定しようと思ったものの、言われるがままにして彼女にはもう関わらないことにした。
立ち去る彼女の後ろ姿を見ながら、私は安堵の胸をなで下ろした。




