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二重奏  作者: 神浦七床
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青年は本当に音楽を愛していたのか

 カタカタ、と窓が小刻みに揺れて窓枠に当たる。外は風が強く吹き荒れていて、落ち葉がなすすべもなく宙を舞うのは可愛そうなほどだった。

 窓を閉めていても冷気が入り混んでくるので、家中のカーテンを閉めた。やっと唯一暖房のあるリビングのソファに腰を落ち着けようとした時、壁に立てかけられた白いケースが目に止まった。

 一昨日買って、そのままにしていたチェロだ。まだ一度もケースから出していない。

 俺は立ち上がってケースを床に横たえ、その蓋を開けた。ぱちりと銀色の金具が音を立てて外れ、中に収まっていた茶色のチェロが顔を出した。

 世話になっていた楽器屋から安く引き取った品だ。つやつやと輝くそれには木目がきちんと浮き出ている。安くとはいえ、それなりに値は張った。二ヶ月分の給料は間違いなく飛んだ。

 俺にはチェロの弾き方が分からない。だから、あの時の記憶を引っ張りだして、あいつがやっていたようにエンドピンを引き出し、俺の知っているやり方で弓の毛に松脂を塗り、椅子を持ってきて座りチェロを構えてみた。

 弓をG線に当てて滑らすと、音色とも呼べない掠れた雑音が聞こえた。

 四年前、最後に聞いたあいつの音とは程遠かった。


 授業後、プリント類をリュックに突っ込んでいると隣の席のやつが不思議そうに声を掛けてきた。

「なに? 急いでんの?」

「ああ、練習室取りたいんだよ」

「ふーん、俺はバイト行くわ。頑張れよ」

 そう言ってがちゃがちゃと筆箱の中に筆記用具を詰め込むそいつを横に、俺はカバンのファスナーを勢いよく閉め、立ち上がった。いつもは俺もゆっくりと帰宅の準備をするのだが今日は事情が違う。大学備え付けの練習室を使いたかったのだ。あそこは大量にいる学生に対して数が少なく急がないとすぐになくなる。そういうわけで、俺はカバンを持ってバイオリンを担ぐと早足で練習室に向かった。

 コンクールが近い。普段は自主練習なんて家で少しやって終わりにする不真面目な音大生だが、コンクール前くらいは練習室で五六時間真剣に取り組もうと思っていた。

 楽器を揺らさないように慎重に、かつ急ごうと頑張った甲斐があり、練習室は無事借りられた。コートについた桜の花びらをはらい、受付の女性から部屋番号の書かれたプレートを受け取った俺は意気揚々と部屋に向かった。

 重いドアを開け中に入ると、無人のはずの練習室には先客がいた。

「え……?」

 奇妙な風貌の人間だった。毛先が白く頭部は黒い髪の毛が肩のあたりまで伸びている。椅子に腰掛けたその人は俺に気付かずチェロを弾いていた。

 これはなんの曲だろう。聴いたことがあるような気はするが、分からない。いかんせんスピードが速かった。絶対原曲はこんなに速くないと確信出来るほどの速弾き。

 譜面台は脇に追いやられ、自分の弾きたいように音を操るその人の姿は浮世離れして見えた。

 声をかけるのを躊躇って部屋の入口で突っ立っていると、背後で閉めるのを忘れていたドアが大きな音を立てて閉まった。

「ん?」

 その人はドアの音で気がついたのか、顔を上げ、弓も止めた。

 白目が充血した瞳がじろりと俺を見る。

「誰?」

「あ、その……この練習室、俺が借りたんですけど」

 その人のオーラに飲まれてぼーっとしていた俺は、つっかえながら何とか事情を説明した。

「ああ、受付する必要があったのか。ごめん、知らなかった」

 低い声。ああ、男か。

 男は髪を耳にかけ、チェロを床に横たえてから立ち上がった。

「怪しい者じゃないよ。ここの生徒」

 弁解するように付け加え、チェロの片付けを始める背中を見て、何故か俺の口はこう動いていた。

「ここ、使ってていいですよ。俺別のとこ行くんで」

 男は驚いたように振り返り、首を横に振った。

「え、いいよ。僕が悪いんだから」

「大丈夫です。駅前のカラオケで練習しますから」

 確かに俺は悪くないし、見ず知らずの人にこんなことをする義理はない。でも、あんなに音楽に熱中している人の邪魔をしてしまった罪悪感が言わせたのだろうか。

 俺が引く様子がないことを見てとると、男は困惑の表情を浮かべたがすぐに嬉しそうに笑った。邪気のない満面の笑み。

「ありがとう。キミ、名前は?」

「……音野。音野響」

「音野君、何年生?」

「三年」

「なんだ、僕と同じじゃない。僕は歌川奏士」

 歌川奏士と名乗った男は右手を差し出した。ワンテンポ遅れて俺はその手を握った。

「この借りは必ず返すよ、ありがとう」

 歌川奏士は立ったまま俺が部屋から出るのを見送った。

 白と黒の混じった変な髪型をしていたが、その顔に浮かんだ笑顔は妙に人間くさかった。


 それから数日後、俺はすっかり歌川奏士のことを忘れていた。三日後に迫ったコンクールのことで頭がいっぱいで、だから見知らぬ男に急に横から呼び止められた時俺は不信感を込めてその人を見つめてしまった。

「……音野君、だよね? 僕歌川だよ」

 白黒の髪を見て漸く俺は歌川のことを思い出した。表情の変化で俺が存在を認識したことに気づいたのか、歌川は安心したように笑った。

「今日の夜用事ある?お礼したいんだけど」

「悪い。今日レッスンだしコンクール近いから忙しいんだ」

 お礼なんて良いのに、と言う前に断りの言葉を言ってしまった。印象悪かったかな、いやでも初めから良い印象でもなかったしな、と考えていたが、歌川は気にした様子もなくこう言った。

「コンクール終わる日はいつ?その次の日の夜は?」

「……たぶん空いてる」

 あ、また遠慮する前に自分の事情を言ってしまった。でもお礼なんていらない、と言おうとしたがその前に歌川はにっこりと本当に嬉しそうに笑った。

「良かった!じゃあ七時に正門で待ってるから」

 言いたいことはそれだけだったのか、さっさと歌川は俺に背を向けて歩き去ってしまった。その背中に背負ったチェロの奥で白黒の髪がリズミカルに揺れる。

「……変なやつ」

 俺は刺激に飢えていた。

 いくら練習しても人並み以上になれないバイオリンとの生活に飽き飽きしていた。何個出ても入賞できないコンクールにうんざりしていた。

 その奇妙な髪型をしたチェリストは、俺の目に魅力的な非日常に映った。


 コンクールの出来はいつもと変わらなかった。可もなく不可もない。ぱっとしない出来。ミスはなかった。でも音楽として物足りない。自分でも分かったし、観客の拍手の熱からも察せられた。

 ちょっとバイオリンが弾けるだけではやっぱりダメだったんだ。幼稚園の頃から習っていたところで、大学まで来たら弾けて技術があるのは当たり前。後は才能と運の勝負。

 俺にはそのどちらも足りなかった。もしくは、そもそもの努力が不十分だったのか。

 今日も親には連絡出来ないなと思った。元から音大に行くと言った俺にあまり良い顔をしなかった。強く反対はせずに金を援助してくれたが、話す度に将来について質問してきた。それが嫌で、電話をするのも、実家に戻ることも、しばらくしていない。コンクールで結果を出せたら電話しよう、なんて自分約束をしてみたが、まだその日は来そうにない。

 バイオリンの先生にも顔向け出来ない。小さい頃から俺のレッスンをやってくれたあの人は、まだ俺に期待してくれているだろうか。

 コンクールの夜は、悩むのに疲れて深夜まで携帯ゲームをし、いつの間にか寝て、起きたのは夕方だった。

 歌川との約束を思い出して急いで支度をし、家を出たのは約束の三十分前で遅刻は確実。ここから大学までは一時間かかる。連絡先を貰っていないことに今更ながら気づいたが後の祭りだった。


 七時三十分。歌川は正門前にいた。ぼーっと車の流れを眺め、髪を風に遊ばせている。

「……歌川」

 なんて声をかければ迷い、迷った末に苗字を呼んだ。歌川ははっとしたように俺を見つめ、手を上げた。

「わざわざ悪かったね、音野君」

「悪い。寝坊した」

 歌川はゆるゆると首を横に振った。

 黒いシャツに黒いズボン。頭以外全身真っ黒で一歩間違えれば不審者な格好だ。でもそれが妙に似合っていた。

「じゃ、行こうか」

 世間話なんかを挟まず、すぐに歌川は駅の方に向かって歩き出した。

「どこに行くつもりなんだ?」

「焼肉」

「焼肉?」

「僕の奢りだよ」

 疑問に思ったのはそこじゃない。焼肉に行くのか。そんな浮世離れした暗い格好して明るく焼肉に行くなんて言い出すのか。我ながら失礼だけれども。

「音野君、早く早くー」

 歌川は振り返って、立ち止まっていた俺に幼稚な仕草で手招きをした。


 数十分後、俺と歌川は七輪を間に向かい合っていた。

 家族連れや呑んでいるサラリーマン、俺達みたいな大学生グループでがやがやと賑やかな店内。七輪の上では程よく脂の乗った肉がジュージューと音を立てている。歌川は一生懸命肉の面倒を見ていた。頼んだ色んな肉を均等に七輪に盛り、種類によって焼き加減を変えてこんがり焦げ目のついた肉を俺の皿によそう。

「音野君ホルモン行ける?」

「あ、ああ」

 俺へのお礼なんて言ってたけど、歌川の方が楽しんでるみたいだ。

 七輪の明かりに照らされたあいつの顔は無邪気に笑んでいる。思ったよりも和風な顔立ちをしていた。涼やかな一重の目元と通った鼻筋、薄い唇。白黒のアバンギャルドな髪型が意外とマッチしているようにも思える。

「お前、なんでそんな髪型なんだ?」

 ホルモンを食べていた歌川は答えるためにそれを噛み切ろうと数回口を動かしたが、出来なかったようで諦めてごくりと飲み込んだ。

「ん? 髪型?」

 歌川は左手で髪を一房掴んで、何故そんなことを聞かれたのか不思議そうにそれを弄んだ。

「ああ、色のことか。一度白くしたんだけど、飽きて染め続けるのをやめたんだ」

 思ったよりズボラな理由で驚いた。髪全体を黒く染め直すわけでもなく、時の流れに任せているのか。それに、一度でも髪を真っ白に染め上げたとは、すごい度胸の持ち主だ。音楽家に奇抜な身なりの者がいないわけではないが……。

「なんで白染めなんてしたんだ?」

「……興味、かな」

 歌川は首を傾げながら言った。深く物事を考えない性分なのか、天然なのか。

「僕からも質問していい?」

 歌川はこう続けた。断る理由もないので頷く。歌川は俺の皿にカルビを載せ、いつの間にか無くなっていたタレを継ぎ足し、笑った。

「キミ、なんで音楽やってるの?」

「………」

 言葉に詰まった。急に肉の焼ける音と人の話し声がうるさく聞こえた。

 歌川の口元には薄い笑みが浮かんでいたが、その瞳は最初に会った時のように血走っていた。

 こいつは、音楽に対して俺以上の思いを抱いてるんだ。幼少期から音楽をやっていて、何となく大学にまで進んでしまった俺とは、音楽に対する思いが違う。きっとそうだ。

 何気ない世間話に見せかけた、こいつが俺に課した試験。これから俺と関係を持つか見極めるための問い。

「……分からない」

 本音を答えることにした。魅力的なチェリストであるこいつに気に入られたいという思いは勿論ある。でも、嘘までついてそうしようとは思わない。

「……そっか」

 歌川はホルモンを箸でつまみ、口に放り込んだ。そして、噛み、噛み、噛んで、飲み込み、言った。

「じゃあ、僕と組まない?」

 タレのついた口をおしぼりで拭い、箸をトングに持ち替えた歌川は網から引き上げた良い焼き色のついたカルビを俺の皿に近づけた。

「僕と一緒にバイオリンとチェロの二重奏、やろうよ」

 それで学園祭で演奏会一緒にやらない? 

 歌川はそう続けた。

 俺の返答の何を気に入ったのか、それは分からない。俺はこれ以上、音楽に熱意を注げるのか。…それも分からない。

 報われない努力が嫌いだ。才能のない自分が嫌いだ。

 でも俺は音楽が、バイオリンが、嫌いじゃない。

 それなら、きっとやれる。

 俺は皿を持ち上げ、カルビを受け取った。

「よろしく、音野君」

「こちらこそ、歌川」

 こうして、俺達は仲間になった。

 でも、この時俺は歌川に歩み寄るべきではなかった。それかせめて、彼が音楽をやっている理由を聞いておくべきだった。その理由を、知っておくべきだったのだ。


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