第9話
……気がついたら、すでに四時を回っていて飛び起きた。お昼も食べずに学校休んで何してんだよ!?オレ!抱きしめられて囁かれたことを思い出して一人赤面した。狼はいつの間にか居なくなっていた。
「……ったく。アイツ、人寝かしつけといて放置かよ……」
オレは重い頭を押さえながら立ち上がった。
「あー。のど痛……」
そう呟きながら、とりあえずキッチンに向かう。何か腹に詰めなきゃやってられない気分だ。頭がズキズキ痛んで今ならば体調不良も嘘じゃない気がする。お袋はまだ帰って来ていないようで、仕方なく冷蔵庫からすぐに食べられそうなものを取り出して腹に詰めた。
「……アイツ……、何で最近あんな切羽詰まった感じなんだよ……」
狼の事を思い出して頭を抱えた。今日は特にひどかった気がする。オレにあんな事……。
「うぁぁっ! ダメだ! 何がって、イヤじゃなかった事が一番イヤだぁぁぁっ!!」
一人でわめいていたら、玄関のチャイムが鳴った。チャイムが鳴るってことはお袋ではないだろう。オレは玄関に向かうと、扉をそーっと開けた。
「よ」
目の前に、透の姿があった。とっさに狼の言葉を思い出し、あわててその扉を閉めようとした。透が隙間に体をねじりこませてくる。
「ああ、やっぱりばれちゃってたか。隠れてれば大丈夫だと思ってたんだけどな。逃げずに始末しておけばよかったなぁ」
透の体から威圧感のある何かがあふれ出ているみたいだ。こいつは透だけど透じゃないと思った。
「劉孤……!」
「ヒトの表面に出るのは初めてかもなぁ。アイツ、居るんだろ? 出せよ」
そう言いながら、オレを押しのけて中に入ってくる。鼻をクンっと鳴らすと、一直線にオレの部屋へ向かって歩き出した。
「と、透っ……! 待てよっ!」
オレもあわてて透の後を追った。ガチャリとオレの部屋のドアが開けられる。
何か狼の想いの臭いでも嗅いだんだろう、透がこちらを振り返ると、ニヤーっと笑った。
「ふぅん……。そういう事。それならこいつを食っちゃった後はアンタの中に入ろうかなぁ? アンタの中ならアイツを始末するのも楽そうだ」
そう言って透……、劉孤はオレの腕を引っ張って部屋の中に入った。そのままオレをベッドの上に放り投げると、オレの上にのしかかってきた。
「あいつさえ始末できれば俺は自由だ。力もないくせに俺を追ってくる。奴はウザくて仕方なかったんだよ」
オレの肩をベッドに押しつけると、頬に劉孤の指が這わされた。背筋に寒気がはしる。こいつは気付いてないんだろうか?満月の日に少しだけ狼の力が戻ることを。知っていたら、そんな日に狼を訪ねてくること自体おかしいよな。そんな事を思いながらも、狼が今ここにいない事が不安で仕方なかった。狼、どこ行っちゃったんだよ!?
こんな恐怖に負けるものかとなんとか劉孤の下から抵抗する。腰が重くあまり力が入らないせいで、抵抗というほどの抵抗にはならなかったけれど。
「あんまり暴れるなよ。こいつを食うまではアンタは人質なんだから」
そう言いながら、劉孤の指がオレの唇に移動してきた。劉孤の笑う顔を見ていたら、オレの体が恐怖でガタガタと震えだした。
「おいしく喰われるまで、ドキドキしながら待ってな?」
その言葉のすぐ後に、何故かいきなり劉孤がのけぞった。
「ぐ、ぁ!?」
「それ以上アキヤに何かをしてみろ。消滅だけでは済まなくするぞ」
「ろ、狼!!」
狼の姿を確認した途端、めちゃくちゃほっとしている自分がいた。狼は劉孤の首根っこを掴んでいる。それにしても目の錯覚だろうか?透の体がダブって見える。
「人間を食うまでに最低二カ月はかかると聞いていたが……、完全に深くは入っていなかったか。今ならばまだ引きはがせる。あわててこいつを取りに戻った甲斐があるというものだ」
そう言うと、狼は劉孤を掴んでいる方の手とは反対の手を挙げて見せた。その手には宝石がちりばめられた青い刀身の美しい剣が握られていた。それで劉孤を斬るんだろうか?
「狼! 引きはがせるってことは、透、助かるんだな!? 透は斬らなくていいってことなんだろ!?」
オレはうれしくなって、そう叫んだ。
「な……、力が……少しだが戻っている……?」
劉孤が怯えたように呟いている。その後にオレを見ると、ニヤリという表情に変わった。
「ひ、引きはがせるものなら、やってみろよ。お前がその剣に力を注いでいる間にそいつの中に入ってやるぜ? そんな微々たる力じゃ、二度引きはがすのは無理だろう?」
「くっ……!」
狼が何故か劉孤の掴んでいた首根っこを離した。ぶれていた透が一人にまとまる。
「な、狼!? 何で手を離すんだよ!? 透がっ……!」
このままでは深く入られてしまう、と焦って透の下から叫んだ。透の肩越しに、苦しそうな狼の表情が見える。
「アキヤ……。劉孤の言う通り、今のオレの力では人間に憑いた劉孤を二度引きはがすのは無理だ。このままでは、アキヤの中に入られてしまう」
狼の言葉にオレは食い下がった。
「オ、オレの中に入られたって、喰われるまでに二カ月かかるなら、次のチャンスの時にはがして斬ればいい話だろ? それぐらいなら、オレがまんするし! だから、透を助けてやってくれよ? 頼むよ、な?」
透に押さえつけられて、動かせない体を必死で起き上がらせながら、狼に頼み込んだ。透だって、失いたくない友人の一人なんだ。こいつと朝からアホな会話ができなくなるなんていやだ。必死で頼み込んでいるオレを見て、狼が苦しそうに眉間のしわを深くしていく。
「俺は、アキヤを危険に晒したくない。それに、アキヤの姿をした劉孤から逃げる自信もない」
「そんな…」
我儘だっていう事は自分でもよく分かっている。狼を困らせるだけだっていう事も……。それでも、透を失うなんて嫌だった。せっかく助けられるチャンスがあるっていうのに……。
オレは混乱する頭をフル稼働させて、色々と考えた。何とか透を助けたい。
「ほ、ほら、それならオレの中に入られないようにすればいいんだろ? 先にその剣に力を注いでから引きはがす……とか、オレがこの場から逃げる……とか」
思いついた事を並べてみる。
「アキヤ。こいつを引きはがすのには力がいる。集中力が切れれば注いだ力も消えてしまうんだ」
「俺がオマエを逃がすと思ってるのかよ?」
オレの淡い期待は二人にそれぞれ打ち砕かれた。劉孤に、さらに強い力で肩を押さえつけられる。狼の顔がどんどん苦しそうにゆがめられていった。
「い、いやだよ、狼……。オレ、透を助けたいんだ。頼むよ……。せっかく希望があるのに……」
「……すまない、アキヤ。俺は今、自分のことだけしか考えられていない」
そう言うと、狼の右手に握られていた青い刀身の剣の輝きがどんどん増していく。
「ちょ、待てよ!? もしかして、透の事、劉孤と一緒に斬ろうとしてるのか!?」
引き留めようと手を伸ばしても、狼には届かなかった。
「な!? ふざけるな! そんな事させると思って……うがぁっ!」
あわててオレの上からどいて逃げようとしていた透の胸に、狼の手に握られていたその剣が深々と突き立てられた。オレの目の前で、その青い剣の切っ先が止まる。透の胸から信じられないことに剣が突き出していた。
剣が貫通しているというのに、不思議な事に血は一滴も出ていない。
「あ、ぐあっぐああああっ」
部屋に劉孤の、透の悲鳴がこだまする。全身からしゅうしゅうと黒い煙を出しながら、透の体はオレのベッドから左へかしぐと狼の布団の上へと落下していった。オレの目には全てがスローモーションで映る。
「あ……、あ、……ああっ……」
唇から、言葉にならない声が漏れる。オレの歯がガチガチと、せわしなく音をたてはじめた。ひくん、ひくんと喉がけいれんを起こす。
「あ……、な、んで……? 何でだよ!? 狼ーーー!!」
オレはベッドから起き上がると、目の前にいた狼の胸ぐらに掴みかかった。
「助けてくれって……、助けてくれって言っただろ!? 間にあったのに、助けられたのに、何でっ……!!」
全身が、がたがたと震える。狼の黒いTシャツを握る指先がカタカタと震えて止まらなかった。オレの目からは滝のように涙があふれ出してきた。
「何で……、助けてくれなかったんだよっ……!」
震える指先を握りしめると、その拳を狼の胸に何度もたたきつけた。
狼は、オレの事を傷つけないために、透を斬るという選択をしてくれたはずなのに、オレはそれを理解したくなかった。考えてしまったんだ。もういつものように、透と冗談を言い合ったり、バカをやりながら登校する事も出来ない。いつもの日常が、取り戻せたはずの日常が狼に壊されてしまったんだ、と。
「アキヤ……」
狼の手が、こちらに伸びてきた。指先がオレの頬に触れる。オレはその狼の手を、はたき落した。
「お前、本当は早く力を取り戻したかっただけなんだろ? オレの事も、透の事も考えてくれてなかったんだろ!?」
違うって分かってる。狼はそんなことする奴じゃないって、痛いほど分かってる。だけど狼のせいにでもしなきゃ今のこの気持ちをどうしようもできなかったんだ。
「……ていけよ……。力、戻ったんだろ? 出て行けよ! お前の顔なんて見たくない!!」
オレは、震える肩を自分で抱きしめると、心にもない事を狼に向かって投げつけた。苦しくて仕方がない。自分の気持ちなのに、どうしようもできなかった。
「アキ……」
再び近づいてきた狼の胸を、突き飛ばす。狼が、自分の唇をかみしめた。
「……ごめんなさい」
言葉と同時に抱き締められる。ビックリして狼の方を見たら、狼は、悲しそうに笑っていた。その笑顔が、どんどん変化していく。
「え……?」
変化していったかと思ったら、あっという間に狼の姿がオオカミのものに変わってしまった。オレはそれを、呆然と見ていることしかできなかった。狼の舌が、オレの左耳に触れる。ペロリと舐めたかと思ったら、狼はそのままオレから離れていった。こちらを振り返らずに、少しだけ開いていた部屋のドアの隙間から出ていく。
「ろ、狼……?」
オオカミの姿になっても、狼の耳にはオレがプレゼントした青いピアスが輝いていた。
『俺が、俺と分かるように……』
ふと、狼が言っていた言葉を思い出した。あいつ、自分がオオカミの姿に戻るんだってこと、気がついていたんだ。何で言ってくれなかったんだよ!?オレ、そんな事すっかり忘れていたのにっ……。思い出してたら、あんな事言わなかった!顔なんて見たくない……なんて、言えなかったよっ……。
「狼ッ! 違うよ!! オレ、今の言葉全部取り消す!! だから、だからっ……」
あわてて狼の後を追って部屋を飛び出した。玄関まで行って、狼の姿が見えないのを確認すると、キッチンも、浴室も探した。だけど、狼の姿はもうどこにも見あたらなかった。
「狼!!」
名前を呼んでも、答えてくれる声はなかった……。