第7話
「アキヤ! これはすごくいいぞ! 泡が目に入らず痛くない!!」
浴室で大はしゃぎの狼だ。そんな狼を見ていたら、オレも何故か楽しくなってきて、調子に乗って必要以上に泡立ててしまった。ちなみに今日はオレも全部脱いだ。狼からのグルーミングも終わったし、あのパンダみたいな恥ずかしいワイシャツを着ているよりはマシだと思ったからだ。
狼の立派なものと比べたら悲しくなるのは必須だが、そこはあえて見ないようにすればいい。それに、狼と一緒になって泡でモコモコするのは意外と楽しいと思ってしまった。
「あははっ。狼、鼻の頭についてる」
まるで綺麗にデコレーションされたみたいに、狼の鼻の頭に乗っかっていた泡を見たら、笑いが止まらなくなった。指でその泡をすくって、狼に見せてやる。
「アキヤもついてる」
そう言った狼が、オレの鼻に泡を乗せてきやがった。
「あッ! 何すんだよ!!」
腹が立って、もう一度狼の鼻に泡を乗せてやろうと手を伸ばしたら、その手をなぜか狼に握られた。真剣な眼差しになっている。
「あの男……、今日一緒にいたリョーヘ―とかいう男にはもう近づくな」
「近づくなって言われても……。涼平とは友達だし、明日だってもう遊ぶ約束しちゃったぜ?」
無理だと言ったら狼の眉間に深くしわが刻まれた。
「あの男から劉孤の匂いがした。昨日は肉の匂いで消えていたが、アキヤからもかすかに劉孤の匂いがしてくる。もしかしたらあのリョーヘ―に劉孤が入っているのかもしれない」
言っている意味が良く分からなくて、狼に問い返した。
「涼平に劉孤が入っている? どういうことだ?」
オレの手を握る狼の指先に力が込められる。
「劉孤は人の中に入り人を喰らう。喰われる前にヤツを斬らなければ、その人間は助からない」
「き、斬る!? 助からないって!?」
いきなりの物騒な話についていけなくなってきて、頭が混乱してきた。
劉孤って何なんだよ……。
「劉孤に入られた人間はどこかしらに痛みを発する。リョーヘ―はそんな事を言っていなかったか?」
オレは唇をかみしめてうつむいた。言っていた。腰が痛むって確かに言っていたんだ。
「もし喰われる前に劉孤を斬ったら、涼平は助かるのか?」
まさか涼平まで……。そう考えたら怖くなった。カタカタと、狼に握られた指先が震う。
「劉孤の入り具合にもよる。浅ければ引きはがして劉孤だけを斬れるだろう。だが、もし喰われる直前まで深く入り込んでいたら、今の奪われた力のままでは……」
そのまま狼は押し黙った。涼平も無事では済まないという事なんだろうか。オレの全身がガタガタと震えはじめた。狼がオレを抱きしめてくる。
「ギリギリかもしれないが、俺の力が多少戻ってくる次の満月の日に必ず決着をつける。リョーヘ―も、アキヤのために何とか助けてみる!」
オレを抱きしめる腕に力が込められた。オレも狼の背中に腕を回した。
「オレ、次の満月までは涼平に気をつける。その日あったことも、狼に報告するよ。だから絶対劉孤やっつけて、涼平も狼の力も取り戻そうな?」
そう言ったら、狼がビクッと震えた。
「力……。力を取り戻したら俺は……」
何かをつぶやいている狼が気になって、狼の腕の中から抜け出すと顔を見上げた。こちらに気がついた狼が、苦しそうに微笑んでくる。
この時のオレ、すっかり忘れていたんだ。狼が力を取り戻したら、オオカミの姿に戻るんだってこと。絶対涼平を助けて狼の力を取り戻してやるって息巻いてた。
「アキヤ! これはどんなおもちゃだ!?」
朝、はしゃぐ狼の声で目が覚めた。目を開けて、周りを見た瞬間、顎が外れるかと思ったぐらいびっくりした。最初に思い浮かんだものは泥棒だ。そう、泥棒に入られたのかって言うぐらいオレの部屋が荒らされていた。
「ちょっ……、な、何っ……オレッ……部屋がっ……!!」
あまりにもビックリしすぎて、言葉にならない言葉が出てくる。しかも狼の手に握られた物体を見て、もう顎が閉じられなくなってしまった。自分でもどこにしまったか忘れていた、例のピアスの穴を開ける機械がその手に握られていたからだ。
「お、おもちゃじゃねーし!! 危ねーから!!」
あわてて狼の手からそれを取り上げる。狼が小さく首をかしげた。そ、そんなかわいい仕草したってダメだからな!!
仕方なく訳の分かっていない狼相手に、この機械について懇切丁寧に説明することにした。一通り説明が終わったところで、狼がなぜか笑いかけてきた。何かと尋ねる前に、狼が口を開く。
「俺にそのピアス、というのをしてくれ」
「はぁ!?」
今の説明をちゃんと聞いていなかったのか!?驚いているオレを差し置いて、狼は嬉しそうに髪を耳にかけた。
「一度開けたら跡が残るし、そうそう簡単には戻らないらしいってオレの説明、聞いてたのか!?」
「戻らない方がいい」
オレの質問に狼が即答しやがった。どうやら本気みたいだ。
仕方なくオレは、狼の望むとおりにしてやることにした。
「何で戻らない方がいいんだよ?」
不思議に思って聞いてみる。狼が、オレの目をまっすぐに見つめ返してきた。
「俺が、俺とすぐ分かるように……」
訳が分からない。狼みたいな特徴的でめちゃくちゃいい男が分からなくなる訳ないだろうに……。そう思いながらも、ピアスホールを開ける準備を着々と進めていく。狼も興味津々だ。
「それで、出来るんだな?」
「多分……。オレだってこういうことするのは初めてなんだから、痛くても我慢しろよ?」
まるで初体験のようなセリフをお互いに吐きながら、思い切って狼の耳に穴を開けた。自分の耳じゃない分余計に緊張する。開け終わった狼のピアスホールには、オレがはめようと思って買っておいた青い石のついたピアスをはめ込んでやった。これも機械と一緒にしまいこまれていたものだ。自分に似合うか不安になりながら買ったものだったけれど、狼には良く似合っている。あの時のオレを今褒めてやりたい気分だ。狼もうれしそうに青い石に触れている。
「あんまりいじるなよ? バイキン入るぜ?」
そう言ったら、狼も真剣な顔でうなずき手を下ろした。その後すぐに笑顔になる。
「アキヤ、ありがとう」
オレの顔が一瞬にしてゆで上がった。
その後は、いつも通りの朝だった。狼もうれしそうに散歩に出かけていったし……。
どうやら昨日お気に入りの場所を見つけたらしい。今度一緒に行こうなんて誘われたりした。それを思い出して一人でニヤニヤしながら家を出た。
「うわ、秋夜今日も変な顔してんなぁ」
「誰が変な顔だ」
涼平に会った途端これだ。失礼さにも程がある。
「けどさ、恋する乙女ってそんな顔してると思うぞ?」
「こ、こ、こ、恋!? いや、ちがっ!」
あわてればあわてるほど墓穴を掘っていく気分だ。これ以上何かを言うと自爆しそうな気がして、オレは無言で歩きだした。後から涼平が不思議顔でついてくる。
でも、本当に涼平の中に劉孤が入ってるんだろうか?昔から変わった所なんてどこにもない。
「?? 秋夜、そんなに見つめんなよ。照れるだろ?」
気がついたら、いつの間にかじーっと見つめてしまっていたらしい。オレの視線に気がついた涼平が、そんな事を言ってきた。
「ベ、別に見つめてねーよ」
それにしても、オレの視線がこんなに簡単にばれるなんて、オレ探偵とかには絶対向いていない気がする。それでも劉孤じゃないかと怪しんでいる事がばれてはいけないと思い、あわてて適当にごまかした。
「りゅ、劉孤の事、何か分かったかなーって気になって見てただけだって」
今思えば間抜けな質問だよな。涼平本人が劉孤だったら自分の居場所を話させる訳がない。絶対情報は出てこないだろうと諦めながらも聞いてみた。涼平が頭の上に両手を乗せて空を仰ぐ。
「劉孤なぁー。偽情報とか別の人物とか、ペットの名前だ……とか、色々入ってきて訳が分からなくなったぜ。結局何が何だか、生きものなのか物体なのかも分からなくなってきて諦めた」
「そっかぁ…」
仕方ねーよな、と思ってしまう。涼平のように今までと変わらない状態で憑いているんだとしたら知っている人はほぼ無に近いはずだ。もしかしたら本人すらも気づいていない可能性が高い。
再び涼平の顔をじーっと見つめていたら涼平が眉間にしわを寄せた。
「秋夜……、もしかして……気付いたのか……?」
「へ?」
「ちょっと来い」
いきなり涼平に腕を引っ張られ、登校ルートからは外れた方へと連れられていく。オレは訳が分からず、涼平のなすがままに引っ張られていった。
家と家の塀が隣り合っている小さな路地に連れ込まれると、その塀に体を押し付けられた。
「り、涼平……?」
不思議に思って見上げたら、涼平の顔が今までに見たこともないような形を作り上げていた。苦しそうな、諦めたような、ほっとしているような、そんな表情だ。複雑すぎてどんな心境なのか全く分からない。
涼平が少しだけオレを見つめてくる。その後、オレを押さえつけている左手はそのままに、溜息をつきながら右手でかけていた眼鏡をゆっくりと外した。その眼鏡を制服の胸ポケットに押し込む。
「ずっと、騙せると思ってたんだけどな。お前すげー鈍かったからさ。何で気付いた?」
涼平の言葉を聞いてオレは青ざめた。やっぱり劉孤は涼平の中にいたんだ。しかもそれをオレが知っているとバレてしまった。オレは危険を感じて逃げ道を視線で探した。一生懸命に探したところで、人が二人並んでいっぱいいっぱいのこんな細い路地じゃ右か左にしか逃げられないけれど。
涼平もオレが逃げようとしているのに気がついたのか、オレの体を両手で塀に押し付けてきた。
「逃がすと思うかよ? もしかして気がついたのって、昨日のあの男が原因なのか?」
オレの背中を冷たい汗が伝った。涼平、狼にも気が付いていたんだ。何とかごまかそうと口を開いたけれど、言葉が出てこなくてただぱくぱくとしただけだった。
「そっか。アイツが狼なんだろ」
オレの肩がビクンッと跳ねる。犬だって言っておいたのに、何でバレたんだ!?驚いているオレを差し置いて、涼平の顔がどんどん近付いてくる。
「あんなヤツに……」
「なっ……」
この距離はグルーミングっぽいと危険を感じてあわてて自分の口をガードしたら、右手の指先に涼平の唇が当たる感触がした。目の前の、ぼやけた涼平と目が合う。あ、危ねー。もう少しで涼平にグルーミングされるところだった。
………………。
いや、キスされるところだった……だ。涼平がキスは諦めたのか、オレの襟のホックをはずしにかかってきた。な、何でいきなりこんな事!?良く分からなかったが、このままでは朝っぱらから涼平に食われそうだと危険を感じて、真っ白な頭で涼平の胸を突き飛ばした。
「いっ……てぇ……」
狭い路地だ。倒れる前に、向かいの塀に涼平の背中が当たった。
「だ、大丈夫か……?」
あまりにも痛そうにうめくものだから、つい心配になってへっぴり腰になりながら涼平に訪ねてみた。そのオレの伸ばした手を、涼平はガシッと掴んで引くと、体を反転させて再びオレの体を塀に押し付けてきた。顔が近づいてくる。
もうダメだと、ギュッと目を閉じたところで、オレの頬に涼平の息がかかった。
「そんなに硬くなられると俺が犯罪者っぽくね?」
オレの唇数センチ手前でそうつぶやくと、涼平がオレから少し離れて言った。恐る恐る目を開けてみる。涼平の苦笑した顔が目に入ってきた。その顔もすぐにニヤニヤ笑いに変わったけれど。
「秋夜君、キスの受け方下手だねー。全身ガチガチじゃする気も失せちゃうぜ?」
「う、うるせっ……! 何でこんなことするんだよ!?」
「……、気付いてたわけじゃ……」
涼平が何かをぶつぶつと言っていたが、聞き取る前にこちらを振り返るとニヤーっと笑ってきた。気持ちの悪い笑いだ。
「悪い悪い。ちょっと試しただけだって。今はまだ雑誌がもっぱら恋人なんだな」
「んなっ!?」
オレの顔が熱くなっていく。こいつ、いつまで言うつもりだよ!?そこまで考えて、荒らされた今日の部屋を思い出してあわてた。そ、そう言えばあの雑誌、どうしていたか……。狼の登場ですっかり忘れていた。そんな事を考えていたら、涼平の鞄からいつもとは違う軽快な着信音が鳴り響いた。涼平は、先程胸ポケットに突っ込んだ自分の眼鏡を取り出してかけ直すと、鞄からスマホを取り出した。
「あれ? 透から? ……なになに? 遅いから先行っちゃうぜ~って、気ぃ短かすぎだろ!?」
「と、とりあえず急ごうぜっ……!」
そう言うと、オレと涼平はあわててその場を駆け出した。
だけど、今のやり取りでオレは確信した。涼平は何かを隠してる。それはつまり涼平の中に劉孤が入っているってことだろ。オレ、もう少し警戒心を強く持った方がいいかもしれない、なんて思ってしまった。