第6話
その日の夕方、結局今日も二人の誘いを断って狼のシャンプーハットを買いに家とは反対方向にある駅前のショッピングセンターへと向かった。
劉孤については休み時間の間中図書室で調べてみたけれど、結局何も分からなかった。仕方なく涼平に分かったらすぐに教えてくれ、と頼み込んで今日は別れた。なんとか分かるといいんだけど……。
店に着くと、まずは子供用品が置いてあるコーナーに向かった。小さな子供の母親らしい人たちにかなり痛い視線を受けたけれど、ここで負けたらおしまいだ、とまるで戦闘のようにシャンプーハットを探した。
くそっ……、やっぱりお袋に頼めば良かったぜ……。
だんだん恥ずかしくなってきて、きょろきょろしている探し方が何か悪いことでもしているような感じになってきた。このままじゃオレ、ベビー用品売り場を徘徊する不審者だ。
それでも負けずに探し続けて、ようやく見つけたと目を輝かせたけれど良く見てみればどれも狼の頭にははまりそうもなさそうだった。それもそうだよな、子供用だし。結局大人用のものはないかと店員さんに聞いて、案内してもらった。見つけたシャンプーハットは介護用のものらしいけど、使えれば何でもいいはずだ。ほっとしてそれを手にとり、近くにあったレジに向かってめちゃくちゃ後悔した。
何故って、そこのレジにいた店員がちょうど家の五つ向こうの向かいに住んでいるめちゃくちゃ話が長いと有名なおばちゃんだったんだ。他のレジへ行こうと回れ右をする前に、そのおばちゃんがこちらに気がついてしまった。それからはもう地獄だ。
シャンプーハットなんて誰が使うんだ、から始まり、お隣の若夫婦はいつもケンカばかりだ……、なんてオレにとってはどうでもいい話まで延々とされ続けた。しかも一緒にいた店員さんがおばちゃんに気を利かせてレジに入ってくれちゃったもんだから余計に長話になってしまった。
おかげで店を出る頃には、すでに夕日がまた明日状態だ。
……ったく。二日続けて厄日だぜ。
それでも狼がうれしそうに笑う顔を思い浮かべたら耐えられる気がした。オレは一刻も早くその顔が見たくなって、家への道を駆け足で急いだ。道を急いでいたら学校を少し過ぎた辺りの角の方から、いきなり誰かに声をかけられた。
「あれ? 秋夜、今日は買い物したら急いで帰るって言ってなかったか?」
「あ、涼平」
見てみれば、涼平が不思議顔でこちらを見ている。オレは駆け足を止めて少し戻ると、涼平の方へ歩み寄った。涼平と並んで帰り道を歩き出す。
「あー……、うん。……の、つもりだったんだけど……。レジに浅野のおばちゃんがいてさ。延々今まで付き合わされた」
「げっ、マジかよ。お前ついてねーなぁ」
疲れきった感じで言ったら、涼平が苦笑いをしながら背中を叩いてきた。浅野のおばちゃんの話の長さは涼平もよく知っている。おかげで名前を出すだけで理解してくれて説明する手間も省けて話しやすい。
「ホントついてねーよ……。で? 涼平は今まで透と遊んでたのか?」
ここ二日断り続けていた分だけ、少し寂しい気になって聞いてみた。透の家もここから少し離れているし、こんな時間にこんなところで偶然会うのも珍しい。
「あー。俺は女の子達とデート。本当は透の家に行くつもりだったんだけど、お前と別れたとたんすげー着信攻撃にあってさ。仕方なく……、な。透と二人で女の子の波に揉まれて来たぜ……」
う、うらやましい報告を無表情どころかイヤそうな顔でするなぁーーーー!!
はぁ……。オレにも一人ぐらい紹介してくれないだろうか……。無理とは思いつつも毎回思ってしまう。
「ま、透の家は明日行くことにした。明日は秋夜も来れるんだろ?」
「おう! 行く行く!! 明日はとことんまで付き合うぜッ」
この二日間の災厄を忘れてはしゃぎたい気分だ。
そんなこんなと話していたら、いつの間にか家の近くまで来ていたみたいだ。あまりにも夢中になりすぎて気がつかなかった。
明日は絶対遊ぶと約束して、オレの家から少し離れた十字路で涼平と別れた。涼平の家はここから少し離れた所にある。あそこからの帰り道ならここを通るより近い道があったはずなのに、わざわざここまで付き合ってくれたんだ。
そうやってさりげなく紳士だから涼平は余計にモテるのかもしれない。紳士になる相手が違う気もするけど……。
苦笑しながら家に近づいて、ギョッとした。
「ろ、狼……」
玄関の前に立っていた狼が、こちらを睨みつけながら無言で近づいてくる。
な、何で睨みつけられなきゃいけないんだよ!?
意味も分からず睨みつけられて、腹が立って手に持っていたシャンプーハットの入っている袋をぎゅっと握りしめた。
「アキヤ! 何でこんなに遅いんだ!?」
狼の言葉を聞いてハッとした。そっか、狼、オレを待ってたのか……。そう思ったら、怒りが嬉しさに変わる。
「ごめん。ちょっと色々あって……。とりあえず中、入ろーぜ」
狼を押しのけて玄関をくぐる。中に入った途端、右腕を掴まれた。
「アキヤ、今の男は誰だ!」
「今の男? って、ああ、涼平の事か?」
狼を見上げたら、すごい目で睨みつけられた。まるで昨日初めて会った時のようだ。こんな顔はさせないって思っていたのに、何でこんな顔してるんだよ……?
なんとか笑顔にしてやりたくて、手に持っていたシャンプーハットの入った袋を持ち上げて狼に見せてやった。
「涼平の事は後で説明するって。それよりさ、風呂入るだろ? 昨日言ってたシャンプーハット……」
そこまで言ったら、狼にその手をはたかれた。手に持っていた袋が床に落ちる。
「な……」
「あの男の事、今説明しろ。それとも出来ないか? あの男ともぐるーみんぐ、しあっていたんだろう!!」
「なぁッ!?」
昨日狼にされた事を涼平に当てはめてしまって、げっそりとした。涼平と、グルーミング!?それ、ぜってーありえねーから!!
それなのに、そんなオレの心を知らない勘違いした狼は、そのまま話を進めていく。
「俺はお前の事を勘違いしていたようだ。口を舐めてもいいという権限など与えなければよかった!」
狼の言っている言葉の意味はよく分からなかったけれど、オレが拒絶されているんだってことだけは分かった。何故か胸が苦しくなる。
「ろ、狼……。オレ、涼平とはそんな、狼が思っているような関係じゃないって。落ちつけよ」
そう言っているのに、狼は無言でこちらを睨みつけてくる。オレは怖くなって視線を逸らすと、足元に落ちていたシャンプーハットの袋を拾いながら狼に話しかけた。
「風呂、入ったらきっと落ち着くからさ、それからゆっくり話そうぜ。な?」
狼を笑顔にする方法が泡しか思い浮かばなくて、必死で狼を風呂に誘った。これ以上こんな表情をさせておきたくない、そう思った。
それなのに……。
「お前のような薄汚い牡のぐるーみんぐなど受けない!!」
「ッ!」
うす……汚い……?せっかく拾った、シャンプーハットの入った袋が、オレの手から離れて再びパサリと床に落ちた。
「狼、気持ちいいって……、オレが、一番だって、言って……くれたじゃん……?」
心臓に棘付きの錘がつけられたみたいだ。重くて、時々オレを傷つける。
「お前の事を知らなかっただけだ」
ぐさりと、オレの心に錘の棘が突き刺さった。
「ああ、そうだよな。どうせオレは薄汚ねーよ。顔も、性格も、良くねーし。だけど、だけどオレだってッ……!」
それ以上は言葉が出てこなかった。うつむいたら、狼のためにと買ってきたシャンプーハットの袋が目に入ってきて、それを見たとたんつらくて、悔しくて、苦しくて、オレはその場を逃げだした。
「何よ、騒がしいわねぇ。アキちゃん? 帰ってきたの? 帰って来たならただいまぐらい言いなさいよ!? おかずなしにするわよ!?」
部屋に駆け込んでいくオレの背中にお袋の声がかかった。けど、ごめん。今はそんな気分じゃないんだ。オレは自分の部屋に入ると、着ていた制服の上着を脱ぎ捨てて頭ごと布団にもぐりこんだ。心の中で狼に罵詈雑言を浴びせかける。
なんだよ、狼のバカやろー!涼平とは何でもないのに、勝手に誤解してあんな顔ッ……。オレじゃ、笑わせてやることもできないのかよ……。
薄汚いって言葉がオレの心に突き刺さったまま、じくじくと痛む。痛くて仕方がない。オレは唇の端をかみしめると、布団を握る拳に力を込めた。
「あんな汚い牡とは思わなかった……」
「狼ちゃん、また! 人間はオスやメスって言っちゃダメって言ったでしょ!?」
秋夜がいなくなった後の玄関で、狼の言葉に春香が注意をした。
「す、すまない……」
狼が素直に謝罪する。秋夜が学校へ行っている間に、狼は春香に、人間についてや世間について、いろいろと教えてもらっていた。オス、メスではなく、男、女と言うのだという事もその一つだ。しっかり叩き込まれていたはずなのに、秋夜が他の牡……、男ともグルーミングしていたのだと思ったら、怒りで学んだことなど吹き飛んでしまっていた。まるで雌に対する想いのように、他の誰にも取られたくないと思ってしまったのだ。
「何故だ……」
今まで出会った人間相手には、狼もどうしても警戒してしまっていた。狼本人を人間としてではなく特別な存在として扱っていたからかもしれない。だが秋夜は違った。秋夜と居る時は狼も温かい気持ちになれた。だからこそ腹が立ったのだ。他の男とそういう事をしてほしくないと思った。独占欲だ。
「こんな気持ち……、雌にしか感じた事がなかったのに」
「狼ちゃん? なによ? 二人とも変ねぇ。喧嘩でもした?」
春香の言葉に狼が苦笑した。
「ケンカ……。そうだな。アキヤが悪い。俺との約束を忘れ他の男と居たんだからな」
「? アキちゃん誰かと一緒だったの?」
春香の質問に狼がコクリとうなずいた。先程秋夜と一緒にいた男の特徴を身振り手振りで説明してみる。春香がうんうんとうなずくと、自分の手のひらを拳でぽんと叩いた。
「ああ、それならきっと涼ちゃんね。あの二人小さな頃から仲良しさんだから」
小さな頃から仲良し……、と聞いて狼の胸が何故かずきりと痛んだ。自分の心のはずなのに何故痛むのか分からず首を傾げていたら、春香が足元から何かを拾い上げその中身を取り出した。
「狼ちゃんの事、忘れていたわけじゃないみたいよ? これ、狼ちゃんのために買ってきた物じゃないかしら? 大したお小遣いもあげてないのにあの子ったら……」
そう言いながら、穴のあいた円盤を狼の胸に押し付けてくる。
「なんだ? これは?」
「頭の泡を水で流す時にね、便利なもの。シャンプーハットっていうものよ。アキちゃん言ってたわよー? 狼ちゃんを助けてあげたいって。狼ちゃんの笑顔を守りたいんですって」
ふふっと笑う春香の言葉を聞いたとたん、シャンプーハットをぎゅっと握りしめた狼が秋夜の部屋に向かって歩き出した。
「先に風呂に入る」
そう春香に言い残して。
「アキヤ」
ガチャリという音と共に狼の声がかかった。オレは潜っていた布団からゆっくり這い出ると、そこに座ってうつむいた。
「うす汚いオレに何の用だよ……?」
自分の言葉にじくじくと痛んでいた胸がさらに痛む。せっかく嫌味もこめて言ってやったのに、狼からは返事が返ってこなかった。不思議に思って顔をあげたら、すぐ目の前に狼が居て驚いた。良く見てみれば、狼の手にはオレが買ってきたシャンプーハットが握られている。
な、なんだよ……。うす汚いオレのグルーミングなんか受けないんだろ?
そんな事を思っていたら、さらにこちらに近づいてきた狼に、左耳を舐められた。
「やっ…」
小さく抵抗したら、そのまま耳の中に囁かれる。
「ごめんなさい。」
一瞬自分の耳を疑ってしまった。ごめん、とかすまない、じゃなくてごめんなさい!?あまりにも狼には似合わなさ過ぎて、ショックも忘れて笑ってしまった。
「何だよ? それ……。まるで教科書読んで覚えたばっかのセリフみてぇ」
「ハルカに教わった。自分が後悔するぐらい相手を傷つけたと思った時は丁寧な言葉で謝りなさいって。言葉使いを変えるだけでもちゃんと伝わるものなんだ、とな。俺はアキヤの事を誤解して傷つけた。だから、ごめんなさい」
そう言いながら狼はオレの首筋に舌を這わせてくる。服を脱がせたら飯抜きと言うオレの言葉を守っているのか、ワイシャツの襟ギリギリのところまでは舌を這わされたけれど、それ以上はもぐりこんでこなかった。少しだけほっとする。
「グ、グルーミング……するのか?」
何故いきなりこんなことをされているのか分からなくて聞いてみた。狼はオレの質問にうなずくと、右手に持っていたシャンプーハットをこちらに見えるように持ち上げてみせた。
「これの礼だ。これは俺の為の物なんだろう?」
そ、そうだけど……。別に、狼にグルーミングしてほしくて買ってきたわけじゃない。そう思っていたのに狼がにっこりと笑いやがった。こんな顔をされたら、イヤだなんて言えなくなるじゃないか。
狼が笑ってくれた事が嬉しくて、文句も言えずにもごもごとしていたら、狼がオレのワイシャツの上から乳首をきゅっとつまんできた。
「あ! うわっ……!」
予想外の展開に、一瞬自分の物じゃないような声が漏れる。そんな自分の声にびっくりして油断していたら、狼がワイシャツの上からオレの乳首にかぶりついてきた。あまりにもびっくりしすぎて、そのままベッドに倒れ込む。狼がのしかかってきた。
「ちょ……、狼!?」
ワイシャツ越しの狼の舌の感触にめちゃくちゃ恥ずかしくなる。しかも見てみれば、オレのその部分だけが湿ってシャツの色が変わっていた。
「ろ、狼っ……! そこ、いやだっ……!」
イヤだと訴えたら、今度は反対の方を舐められた。そ、そういう意味じゃねー!ワイシャツがまるでパンダの目状態だ。なんとかやめさせようと、狼のサラサラとした黒髪に指をからめて引きはがそうと力を込める。狼が起き上がって、熱のこもった眼差しでこちらを見つめてきた。
「口……いいか?」
一瞬、何を言われているのか理解できなくて、この恥ずかしい行為を早く終わらせてほしくて、オレはガクガクと首を縦にふった。オレがうなずくのを確認した瞬間、狼がオレの唇にまで舌を這わせてきた。
「んんッ!」
ビックリして声を出したら、唇を丸ごと塞がれた。まるでオレの声ごと狼にのみ込まれていくみたいだ。
「俺の口を舐められるのは、お前だけに与えた特権だ。オオカミの世界では特別な相手にしか舐めさせない」
一度、オレから離れてそう言うと、再び角度を変えて塞がれる。舐めてるのはオレじゃなくてお前だろ……とは、思うだけで言葉としては出てこなかった。オレの顔がどんどん赤く染まっていく。
何度目かのキスの後、狼がささやいた。
「俺は、もうすでにアキヤの事を…………かもな……」
「え…?」
狼のつぶやきが良く聞き取れず問い返したら、狼がうれしそうに微笑みかけてきた。オレのおでこにキスが降ってくる。
「風呂、入ろう! アキヤの作る泡が恋しい」
そう言うと狼はベッドから立ち上がり、オレを待たずにシャンプーハットを持って部屋を出ていってしまった。
「ったく、アイツ……。うす汚い発言の事なんて忘れてるだろ」
オレはため息をつくと、苦笑して狼の後を追った。狼に罵詈雑言を浴びせかけてしまった事を心の中で謝りながら……。