【 第1章 : 勲章の男 】 1-7
~暮坂峠で聞いた
母の長い長い昔話。
それは凄絶な恋の物語。
【 第1章 : 勲章の男 】
《1-7》
★ ★ ★
少女は、信州飯田の山村から同年代の娘達と共に、汽車に乗せられ、
長い長い旅の果てに東京上野の駅に降り立った。
少女がそれまで居た村に、当たり前のようにあった山と川は全く無くて、
木の建物、レンガや鉄の建物、そして見たこともないくらい沢山の人間が
行き来していた。
「こっちだよ。」
少女たちを連れて来た男は、口数の少ない、ハンチング帽を被った若い男。
左頬から首の辺りまで火傷の跡がある。気味が悪い。きっと普通ではない男。
1898年(明治31年)---
少女は5歳だった。
飯田の村では、「トミ」と呼ばれていたが、その日以来、誰も「トミ」とは呼ばなくなった。
日が暮れても、両親や兄、姉達は現れなかった。
ハンチングの男に連れてこられたのは、兎に角、赤色や桃色の壁やら柱やらでできた
綺麗な建物が沢山ある町だった。勿論、見たことのない景色だった。
家の中が半分見えていて、お人形みたいに綺麗な着物を着た女性達が居る。
一緒にやってきた娘達が、あの屋敷で一人、この家で一人、と減っていき、
最後はトミとハンチングの男だけになった。
町の奥の、一際大きな屋敷の裏口から通って、その家に入った。
炊事場のような所で待っていたら、握り飯を一つ渡され食べて待っていた。美味しい。白い飯だった。
ハンチングの男が家の奥から出てきて、トミの頭を撫でて、
「じゃあな。」と言って裏木戸から出て行った。
太った女が現れて、家の奥の奥の小さな部屋に連れて行く。
部屋には、自分より少し大きい少女が二人、だいぶ大きい少女が二人、合わせて四人居た。
一番年上の娘が「こんばんは」と言ったので、トミも「こんばんは」と言った。
その日から、彼女の屋敷生活が始まった。
勿論、楽しい生活ではなく、辛い辛い女中奉公。
そう言えば、以前、飯田の姉ちゃんが、自分達はいずれ金持ちの家に女中奉公に行くのだと、教えてくれたことがあった。
しかし姉より先に自分がこんなに遠いところまでやって来た。不思議だった。
最初は父や母や兄、姉が居ない寂しさに泣いた。
次は日々の奉公の辛さに泣き、同部屋の少女たちの意地悪が辛くて泣いた。
ある日、太った女から言われた。
「おまえの名前は、今日から克乃だからね!いいね!」
そして少女は克乃になった。
田舎の貧しい農村の口減らし、彼女はなんの説明も受けず、売られてきた。
「めんこいなあ、おめえは。」飯田の村の婆さんが、ずっと自分の顔を褒めてくれていた。
美人に育てば得だ、と母が言っていた。そうなのか、と思っていた。
何ヶ月かして、同部屋の娘達から教えられた。
---ここは、吉原遊郭。
男達の遊び場。この屋敷で自分達は芸と女を磨き上げ、将来は男の相手をして銭を稼ぐ。
そういう場所。そこに売られてきたんだよ---あたし達でここで生きていきのさ。
娘達は、先輩の女から貰ったお古のキセルで煙草も吸った。
勿論、世話役の太った女に見つかったら厳しい折檻を受ける。でもそれが、一番最初に覚える
遊女の真似事だった。だから克乃もキセル煙草を吸った。
ショックだった。けれど、克乃はメソメソとはしなかった。覚悟が自然とに座った。
これが、父が、母が、兄姉が、そしてこの屋敷の皆が良しとする生活。私に与えられた人生。
そう信じた。
★ ★ ★
明治天皇が崩御あそばされ、世は大正を迎えていた。
克乃は多摩川河岸の朽ちたバラック小屋で、愛する男の背中を抱きしめていた。
傷と痣で腫れ上がった彼の全身。
彼は約束を守った。だから自分はこうしてここに居る。何年も泣いたことなどなかった。
しかしその日は、涙が止まらなかった。
信じていい真実があった事に、克乃は感激していた。
激しい道だった。
★ ★ ★
1905年(明治38年)2月---
真冬だというのに吉原の夜の輝きは、夜だけの繚乱の春を思わせた。
それでも、お侍の時代に比べたらかなり地味になったのだという。
お侍の時代とはどんなに豊かだったのだろう?と、11歳になった克乃は考えた。
ここに来たあの日、自分は女中奉公に来たと思っていたけれど、ここは違った。
その頃にはすっかり彼女も、この町が何であり、自分の将来が何であるかを判っていた。
花形の花魁、富士志麻姐さんみたいになるんだ。
散茶で終わっちゃー、色街の本当の花とは咲けないからね---
大人びた言葉を、美しい姐さん達から、又、置屋の母さんから教わった。
克乃は利発な娘であり、読み書き算盤の覚えも早かった。
そこへきて瓜実の小顔で男好きのする別品と来ている。
克乃が暮らす名門の郭、志麻屋でも、僅か11歳の幼い克乃は有望な少女だった。
料理も得意で、幼いながら調理場では一目置かれる存在。
飯田の母から仕込まれた田舎の味が、金持ちの大人たちには嬉しい味なのだろうか?
大旦那という人達を、懐かしい気持ちにさせるのか?
飯田の母に感謝した。
昼時を回ると、酒やら調味料やらを配達に来る少年が居た。
酒屋の奉公人の彼は、身体は小柄だが頑丈そうな腕周りで、志麻屋が日々注文する
大量の品物を「うんせ」と肩に担いで、裏木戸からやって来た。
そして克乃にニコリと笑いかけた。物言わぬ彼の笑顔が、克乃は好きだった。
郭で修行中の儚い娘子の自分にも、人並みの「初恋」という感情が芽生えた。
それだけで彼が、理由なく彼が麗しの君になっていく。
姐さん達は面白がって、声を掛けてみなよ、と唆したが、勇気を出そうと決めた日に、
声を掛けてきたのは彼の方だった。
---「俺の名前は、鈴井泰輔と言います。14歳です。
2年前から富山酒店で奉公しています。
いつもご贔屓いただいて有難うございます。」
くぐもった様な青年の声で真正面から名乗られて克乃は舞い上がってしまった。
「こちらこそ、克乃です。いつもご苦労さまです。」とだけ、
それが二人交わした最初の言葉だった。
姐さん達は益々面白がって彼女を冷やかした。
「馬鹿な事教えるんじゃないよ。お前達は。この娘は志麻屋の看板になるかも知れない娘だよ。
酒屋の奉公に身請けができるもあるまいし---」置屋の母さんに叱られた。
散茶という位の、「目白」姐さんは、同郷の誼みで何かと優しくしてくれた。
身請けとは何か?花形の花魁の身請け料はいくらか?もっと下の位ならいくら?
あの泰輔って子の給金はさて、いくらだろうねぇ?彼氏を待ってたら、
克乃、あんた、おばあちゃんになっちゃうねえ---目白姐さんは笑った。
泰輔の勤める富山酒店の店主、富山清衛門は、吉原遊里に出入りする酒商の中では一番の大店である。
それなりに金も使って吉原の町に食い込んだ。
定めた商いが保証されはしたが、明治の世も進み、堅気相手の商売で大きくなってくる競合も多い。
日銭を稼ぐ地盤はある。しかし欲を言えば、折角の遊郭散財で大旦那衆にもっと金を落として貰える術は無いものかと思案していた。
番頭にも手代にも相談をするが、彼らとて如何せん頭が硬い。清衛門と並んでの昔頭、江戸気質で、今更に、「葡萄酒などいかがでございましょう?」と宣う始末であった。
清衛門には奉公人の中に一人、目を掛けている少年が居る。
2年前に兵庫地元の小学校尋常科を卒業し単身この東京に仕事を求めて上ってきた泰輔である。
姫路から少し山合いに入った山村農家の三男。
何故姫路や神戸、大阪ではなく東京まで上ってきたか?と問えば彼は、「やすやす帰れぬように---」と語った潔さ。負けん気の強そうな鼻筋や浅黒い肌が彼の芯の太さを表しているようで、どういう縁かよく判らぬ遠縁の親戚と称する紹介状よりも、真偽の定かでない紙切れよりも、彼の眼の輝きを信じた。
泰輔は働いた。体力を惜しみなく使い、夕食の後は先輩から勘定を習った。
口数は少ないが何事にも熱心で、番頭をして「拾いものでしたな。」と言わしめた。泰輔に一目置いているのは清衛門だけではなかった。
ある春の夕暮れ、清衛門は庭先に泰輔を呼んだ。
陽光が若干目映い葉桜の頃。泰輔は15歳になっていた。
「泰輔や、よく働いてくれている。礼を言う。お前を迎えて良かった。」
予想外の褒め言葉に面食らう泰輔。
「ありがとうございます。旦那様。」
「礼儀もいい、商売気も有る。お得意受けもいい。」
「・・・」
「これは私の気持ちだ。他の者には黙っていなさい。」和紙に包まれて10円紙幣が5枚入っていた。
彼の月給の三月分以上。「こんなに・・?よろしいのですか?」嬉しいが尋ねないと信じられない。
「構わない。仕舞いなさい。」優しく旦那様は言う。
「泰輔は将来どうなりたいのだい?こんな話するのは初めてだが。」
「叶うならばこちらでお世話になりながら、いずれはこの東京で所帯も持ちたいと思っております。」
心付けを貰ったからではなく本心からそう思っていた。
旦那様は安心したという表情になった。
「そうかい。よく言うてくれました。私も、それに身体の弱い佐久衛門も、お前が支えてくれたら安心じゃと思う。」まだ5歳になったばかりの当家の長子、佐久衛門は病弱。大店の主人としての懸念。こんな立派な旦那様にも気掛かりはあるのだと---金だけが幸せの根拠ではないのだと思う。
「私を父親と思うておくれ。私もお前を息子と思う。」
葉桜が揺れる。泰輔は50円を握りしめて、東京の父にもう一度頭を下げた。
※ ※ ※
儚い初恋を胸に秘めて
克乃の修行は続く。
泰輔の奉公は続く~