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密使

作者: 一色靖

密使


               一色靖



 一九四五年五月上旬。アメリカ。

 誰でも後悔をすることがある。たとえば頭痛を抱えながら、夕べあんなに深酒をするのではなかったと思うことなど日常茶飯事だ。たいていの人はいつもそんな小さな後悔を重ねながら生きている。

 しかし、物理学者レオ・シラードが抱える後悔はそんなものとは比べようもないほど大きかった。取り返しの付かないことをしてしまったという痛悔が、体を震わせるほどの恐れとなって、彼を苛んでいた。


 シラードは、大戦前にドイツからアメリカに亡命してきたユダヤ人科学者だった。当時、核分裂現象を取り扱っている物理学者なら誰でも、それが武器に転用できることを知っていた。もう「いかに」という段階は過ぎていた。「誰が、いつ」という問題が最も重要になりつつあった。

 彼は、ドイツにいた頃、ヒトラーが原子爆弾を手にすることに強い危惧を覚えていた。武器というものは、実際のところ、それ自体は少しも危険ではない。危険性はそれを扱う人間に左右される。狂った男がもし原爆を手に入れたら――考えるだけでもおぞましい事態を招くだろう。

 シラードは、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに書簡で進言した。「ヒトラーより先に原爆を開発しなければ大変なことになります」

 ルーズベルトは始めはそのことに取り合わなかった。だが、ほどなくしてドイツがイギリス・フランスに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まると、状況は一変した。ヒトラーの破竹の侵攻に、ルーズベルトもシラードの言う危険性を理解し危機感を覚えた。そして、マンハッタン計画をスタートさせ、原爆の開発に乗り出した。これは十万人の技術者や科学者と二十億ドルの巨費を投じた、一大プロジェクトだった。一九三九年の事である。

 シラードも一度は満足した。

 ところが、一九四四年六月にノルマンディー上陸作戦で連合国が反攻を開始し、翌年四月三十日にヒトラーが自殺。五月七日にドイツは無条件降伏をした。

 これで原爆開発の必要性はなくなった。シラードを始め多くの科学者がそう思った。

 しかし、それは巨大な石を坂の上から転げ落とすのに似ていた。最初ゆっくりと転がり始めたマンハッタン計画は、次第に速度を上げて、気づいたときにはもう止めようが無くなっていた。

 ルーズベルトが四月十二日に急死し、その後をトルーマン副大統領が継いだ。政治にも、経済にも、そして外交にも、まったくの素人に近かったトルーマンに、百戦錬磨の国務長官ジェームズ・バーンズが助言をする。アメリカの国力を誇示するためにも原爆開発は必要だと。マンハッタン計画は継続しなければならない。トルーマンはバーンズの言いなりだった。政治家たちの関心は、既に戦後のパワーゲームへと移っていたのだ。


 五月、シラードはホワイトハウスに赴き、大統領に原爆開発の中止を進言しようとした。この恐ろしい兵器はもう必要はないと。しかし、応対した原爆推進論者のバーンズは取り合わなかった。もはやマンハッタン計画は止められない。使った巨額の予算は無駄でした、などと、議会に言えるはずがない。それにまた、戦争はまだ終わっていない。ただ一国、日本が残っている。目標をドイツから日本に変えればよい。

 だが、シラードでなくても、この時点で日本に原爆を落とす必要など無いことは知っていた。硫黄島で日本の守備兵二万人が玉砕し、沖縄本土も制圧された今、日本に戦争を継続する能力など残っていなかった。

 シラードはここに来てようやく、最初に原爆開発を進言した自身の思慮の浅さを悟った。蜜にアリが群がるように、いつの間にかホワイトハウスは、バーンズを始めとする原爆推進論者たちに牛耳られていたのだ。

 将来世界を破滅させるかも知れない武器の開発が始まってしまった。シラードは己のしたことの罪深さを知り、深く後悔していた。



 一九四五年五月、東亜通信社パリ支局の記者、関豊は、帰国の準備をしていた。豊は秘かに抗独レジスタンス組織「七月の狼」に所属し、活動を続けていた。しかし、連合国の反攻が始まり、前年に「七月の狼」が、独立戦線自由フランス軍に組み入れられた時点で、レジスタンス活動から身を引いた。もうフランスは大丈夫だ。そう確信していた。

 ドイツ軍がフランスから撤退するとともに東亜通信社パリ支局は閉鎖されることになった。豊も帰国命令を受けた。良い潮時だろう。飛行機で中立国ソ連に飛び、そこからシベリア鉄道で帰る予定だった。

 アパルトマンで使っていた家具などの調度品は、近所の住民に譲った。ひとつ、またひとつと、部屋から調度品が消える度に、ちょっとした寂しさを味わっていた。

 「七月の狼」に身を置き、命をかけてフランスのために戦ってきた。野に咲く花がむしられ間引かれるように、何人もの仲間を失った。自分がむしられなかったのは単なる僥倖に過ぎないと思う。

 考え事をすると、どうしても逝ってしまった仲間の顔が脳裏に浮かんでしまう。それを忘れようとするように、荷造りに精を出した。

 出発を控えた五月十日、ひとりの男が、部屋に訪ねてきた。ノックの音にドアを開けると、自分と同じくらいの背丈の男がいる。歳は五十過ぎといったところだろう。「やあ、ユタカ」と馴れ馴れしい口調で男は言った。

 顔を見ても見覚えがない。豊は頭の中の記憶帳を大急ぎでめくったが、出てこなかった。

 仕方なく豊は言った。「どこかでお会いしましたか」

 すると男は「いや、会ったことはない。だが、何度も話はしているよ」

 確かに声に聞き覚えがある。豊は気づいた。「ジョルジュ」

「そう、私がジョルジュだ」

 「七月の狼」にいた頃、豊はジョルジュの指示で動いていた。電話で声は何度も聞いているが、会ったことは一度もなかった。初めてジョルジュの顔を見た。深く刻まれた幾本もの皺は、まるでこれまでの長い戦いを物語っているようだった。

 ジョルジュは笑顔で握手を求めてきた。豊もその手を握った。温かな手だ。当たり前といえば当たり前だが、電話では分からなかったことだった。

 ジョルジュは言った。

「ユタカ、君に会わせたい人物がいるんだ」

「おれに」

「そう」

 豊は意外に感じた。「七月の狼」はとうの昔に辞めている。三日前にはドイツが降伏した。もう自分に用はないはずだ。

「おれはもうやるべき事はないと思っているよ。だから「七月の狼」も辞めたんだ」

「君の心中は分かっている。だが、まあ来れば分かる。外で車を待たせているんだ。少しだけ付き合ってくれないか」

 その言葉を聞き、すぐさま何の迷いもなく従おうとしている自分に気づいて、豊は内心苦笑した。レジスタンス時代に染みついた癖らしい。


 二人で車の後部座席に乗り込むと、運転手は何も言わずに発進した。行き先は既に告げられているのだろう。

 パリの街並みを行く人々はすっかり平穏を取り戻してるようだった。いや、平穏以上かも知れない。いたるところに笑顔が見られた。改めて、戦争は終わったのだと実感させられた。

 車は、自由フランス軍の参謀本部になっているビルに着いた。それは、花崗岩の外壁で出来た四階建のビルだった。通用門の両脇にフランスの国旗が立てられ、たなびいている。それは見ようによっては誇らしげに見えなくもない。この国旗を再び堂々と立てるために、どれだけの血が流れたのか。豊は複雑な思いで旗を見上げた。

 車を降りた二人は、ビルに入っていった。ビルの中には大勢の人間がいた。無数の靴音が石の壁に反響する。

 階段を上がって何番目かのドア。ジョルジュはそれを開けた。五人掛けのテーブルが置かれた小さな会議室だった。

 椅子には二人の男が座っていた。白髪の思慮深そうな人物と、黒い口ひげをたくわえた意志の堅そうな人物だった。豊は二人を見てすぐ、白髪の男は学者で、口ひげの男は政治家だろうと想像した。それなりの経験を積めば、人は意外と外見で判断できるものだ。二人は、豊たちが部屋に入ると、立ち上がって握手を求めてきた。

 白髪の男が言った。「私はレオ・シラード。アメリカの物理学者だ。元はドイツにいたが、いまはアメリカに亡命している。ユダヤ人なのでね」

 続いて口ひげの男が握手して、「ジョセフ・グルー。合衆国国務長官代理だ」と言った。

 豊の予想は見事に的中した。それにしてもアメリカ人が二人、自分に何の用事なのだろう。

「まあ、座ろう」ジョルジュが言って、それぞれ向かい合わせで席に着いた。

 コンコンというノックの音がして、ドアが開いた。若い下士官がコーヒーをトレイに載せて入ってきた。

 下士官がコーヒーを配り終え、部屋を出てドアが閉じると、シラードが口を開いた。

「原子爆弾というものを知っているかね」

「さあ、初耳ですね」耳慣れない単語だ。

「一発で十万人を殺すこともできる爆弾だよ」

「一発で十万人」豊は驚いた。だが、すぐに疑問が湧いた。「そんな大型の爆弾を載せられる飛行機はないでしょう」

シラードは、コーヒーを一口飲み、唇をすぼめた。さあこの素人にどこから話せばいいのだろう、と思案しているようだった。

「大きくはないんだ。かといって今までの焼夷弾ほど小さくはない。長距離爆撃機に一個積める程度の大きさだよ。もっとも一個あれば充分だろうがね。実は今言った十万人という数字も少な目に見積もった計算上の話で、実際にどれほどの破壊力があるのかは誰も分からないんだよ」

 豊にはにわかに理解できなかった。

「新しい、威力の大きな火薬でも発明されたんですか」

「違う。火薬は使わないんだ。代わりにウランを使い、連鎖核分裂反応という現象を起こして爆発させる」

 シラードは説明を始めた。原子爆弾の原理と、ドイツに先を越されないよう彼が最初に開発を提言したこと、マンハッタン計画という名で開発がおこなわれていること、ドイツが降伏したにもかかわらず、それは進行していること等々。

 シラードは話すうちに、次第に表情が曇って行った。

「私は今、深く後悔している。実は先月、連合国軍は、ドイツの原子炉研究施設を制圧した。その結果、ドイツ軍は全くと言って良いほど原子爆弾の研究を進めていなかったことが判った。つまり、私はルーズベルト前大統領に開発を提言する必要はなかったんだ。ドイツ、イタリアが降伏した今、その目標は日本になった。マンハッタン計画は最終段階に入っている。あと二ヶ月もすれば、原爆は現実のものとなるだろう」

 豊は、アメリカ人を支配している日本への感情をよく知っていた。日本人は、宣戦布告を行わず真珠湾をだまし討ちにした邪悪で卑怯な人間たちなのだ。実際は、宣戦布告が遅れたのは事務手続きに手間取って間に合わなかったからというのが真相なのだが、そんなことを言ってもアメリカは言い訳としか受け取らない。

 ドイツが降伏したのなら、代わりに日本に原爆を落とそうと目標を変えるのは、彼らにとってさしたる問題ではないだろうことは容易に理解できた。

 それまで黙っていたグルーが、シラードの後を継いで話し始めた。

「どうやら私の番だな。ここからは政治の話だ。いまホワイトハウスでは原爆推進論者が大きな勢力を持っている。シラード博士や私など反対派は、何度も原爆は使用すべきではないし開発も取りやめるべきだと言ってきた。だがトルーマン大統領は、――こう言っては失礼だが――、政治音痴、外交音痴なのだよ。このため推進派の急先鋒であるジェームズ・バーンズ国務長官にすっかり頼りきっていて、反対派に耳を貸さない。原爆を日本に次々と落とすことで、アメリカの国力を世界に見せつけたいのだ。このままでは日本に原爆が使用されるのは避けられない」

 豊は聞きながら息苦しさを覚えた。ただの一発で都市が消滅してしまう兵器――想像もつかなかった。そんなものが日本中を襲おうとしているのか。「……話は分かりました。だが、そんな話をなぜ私にするんです」

 ジョルジュが口を挟んだ。「仕事だ。いつものやつだよ」

 豊は、反射的に、かつて何度も電話ごしに耳にしたジョルジュの指令を思い出した。仕事だ……。

 グルーが頷いた。「日本は実際の戦争もほぼ敗北が決まっているが、それよりさらにお粗末なのが情報戦だ。米国の情報を全く掴めていない。このため、最後のひとりまで抵抗を続けようとしており、またそれが可能だと勘違いしている。

 原爆推進論者たちは、攻撃のための大義名分を欲しがっている。いま彼らが盛んに喧伝しているのは『原爆を落とせば落とすほど早く戦争が終わる』という主張だ。

 我々原爆反対派は、逆に、日本中に原爆が投下されて無人の廃墟となるのを防ぐためには、一日も早く終戦に持ち込むしかないと考えている。だが、我々アメリカ政府は日本にまったくパイプを持っていない。君に原爆反対派のパイプになってもらい、米国の正しい情報を政府要人にリークしてもらいたいのだ」

 豊は、いつも命じられる側の人間だった。いつしか気づいたことがある。命じる側は、任務が難しければ難しいほど簡単そうな口調で伝える。そうすることで、そんなに難しくはないと思いこませたいのか、あるいは簡単なのだから必ず成し遂げてもらいたいと思うのかは分からないが、今、グルーが告げたのもまさにそれだ。口調はさりげないが、中身はとんでもない難題だ。

「政府要人と言っても、私はそれほど知りませんし、親しい間柄の人はいませんよ」

「君は記者だろう。いままで取材した誰かの中に政府関係の人間がいないのかね」

 豊は考えた。

「……ああ、東条英機内閣の頃に、東郷茂徳外相がドイツを訪問しています。その時、ベルリンまで同行しました。随行員の大蔵省総務局長、迫水久常氏とずっと一緒でした。あの人なら気安く話せそうです」

 グルーは、そら見ろといった表情で、何度も頷いた。

「それだ。まずはそこから人脈を広げていったら良い」

 グルーは椅子の横に置いていた革張りのスーツケースを持ち上げてテーブルに乗せた。蓋を開けて、「これは情報局のエリス・ザカリアス大佐のチームが開発した高性能の携帯用無線機だ。伸縮式のアンテナも内蔵されていて、これで東京にいても硫黄島の基地と連絡ができる。これを使いたまえ」

 豊は目を見張った。「こんなものが出来たんですか。今までこれがあれば助かった場面が何度もありましたよ」そう言いながら、つまみをカチャカチャいじって見た。改めて、アメリカという国は、奥の深い国だと思った。大は圧倒的な数の航空母艦から、小はこんな小型無線機まで、物質的な国力は日本をはるかに凌駕している。日本は、やはりこんな国と戦争などすべきではなかったのだ。そして今、原爆などというものが開発されつつあるという。

 シラードが豊を黙考から呼び戻した。

「私は、過ちを犯して、地獄から火を持ち出すようアメリカをそそのかしてしまった。何とかして、それを使わせないで欲しい。あれはこの世にはなってはいけないものだ」



 五月二十五日。豊は帰国した。五年ぶりの祖国だった。

 東京は、三月十日に行われた最大規模の空襲で、その四割近くが焼け野原と化していた。三百機以上のB29が飛来し、三十八万発、千七百トンの焼夷弾が投下されたのだ。死者は八万人を超えたという。

 燃え尽き、柱の一部だけが残った家屋たち。焼け跡からただ一本突き出た水道管とその蛇口。路上でわずかな食料を七輪で焼いている一家。あちらこちらから、煙が未だ立ち上りくすぶっている。

 豊は両手に荷物を提げ、虚ろな足取りで焦土となった街を歩いた。東京の様子は電信で伝え聞いていたから予想はしていた。だが、実際目の当たりにすると、それは予想を遙かに超える惨状だった。そこに広がっていたはずの、記憶の中の街並みと比べずにはいられなかった。

 これを見ても、まだ本土決戦などと馬鹿げたことを主張して止まない帝国陸軍はどうかしている。だが、どうかしていないと出来ないのが戦争というものなのだろう。

 豊は、前もって巣鴨に借家を手配していた。部屋が三つのごく小さな家だったが、こぢんまりながら庭もあり、住み心地は良さそうだ。何より、屋根のあるところで寝起きできるだけでも充分感謝するに足るといえるだろう。巣鴨も空襲の網から逃れたわけではなく、たまたまその借家と両隣が無傷で残ったと言う方が正しい。現に、借家の前の通りを挟んで向い側は、焼き尽くされた瓦礫の原だった。

 次の日、雑品屋で身の回り品を揃え、ガスがないため煮炊き用に木炭と七輪を求め、手に入る限りの食料を買った。最後に切れていた電球を取り替えると、することがなくなった。

 一休みに畳の上で仰向けになった。所々ささくれた古畳だったが、それでもかすかに香りがした。豊は、目を閉じてそれを吸い込んだ。懐かしい……。おれはやっぱり日本人だな、そう思った。

 シラードの言葉が聞こえてくる。「あれはこの世に放ってはいけないものだ」

 あと二ヶ月で、アメリカ政府は、この世で誰も手にしたことのない「火」を手に入れる。手に入れたら放ってみたくなるだろう。

 一発で十万人以上を殺戮するという原爆。その原爆を、これまでの焼夷弾のように雨あられと投下されたら……日本人は根絶やしにされるかもしれない。

 おれに何が出来るだろう。豊は自問した。普通に考えると、ひとつの国を終戦に導くなど、ひとりの人間に出来るわけがない。だが、鼠のひと穴で堤防が決壊することもある。正しい場所に正しく穴を穿てば、国の舵を切らせることも出来るかも知れない。グルーの言う情報戦だ。情報に関して、今の日本政府は丸腰に等しいという。うまく情報を流せば、ひょっとして政府を誘導できないとも限らない。

 いつしか、レジスタンス時代の様々な任務を思い浮かべていた。仕事に取りかかるには、それに必要な道具を揃えなければならない。いつもそうだった。今の自分に必要なものは……人脈だろう。情報は人から人へと伝わる。情報戦という戦いを始めるには、情報をやり取りする人間を見つけなくてはならない。


 五月二十七日朝、豊は大蔵省を訪ねた。

 受付で東亜通信の社員証を見せ、「総務局長の迫水さんにお会いしたいのですが」と言った。

 三年前にドイツに同行したときは、迫水とはすぐにうち解け、互いに夜遅くまでホテルの部屋で酒を飲み交わした。もちろんレジスタンス活動のことは伏せていたが。

 実はその時、豊は下心を持って迫水に接近したのだ。当時「大蔵省の迫水」といえば知らぬものがいないくらい有名で、頭の切れる敏腕高級官僚だった。そういう人物にコネを持っていれば、いずれ日本に帰ったときに、取材活動で何かと役に立つはずと踏んでいたのだ。

 だから、何とかご機嫌をうかがって歓心を買おうと思ったのだが、実際に会ってみるとそんな必要はなかった。当人は思いの外、気さくな人物で、「関君、関君」と弟のように親しく語りかけてくれた。酔うほどに快活になり、豊には懐かしい日本の様子を色々と話してくれた。

 豊は話すうちに、迫水の考え方が、官僚には珍しく非常にリベラルであることに気づいていた。今回の仕事でも、彼なら信用できる――豊はそう思っていた。

「迫水さんはもうここにはいませんよ」受付の男性はそう答えた。「官邸です。いまは内閣書記官長になられています」

 豊は迫水の出世にさもあらんと思いつつ、幸運にちょっとした驚きを覚えた。内閣書記官長と言えば総理の側近である。「これは、まさに『正しい穴』だぞ」独り言をつぶやいた。

 きょうは家に帰って、日を改めて出直すことにした。内閣書記官長なら予定していたより多くのことを単刀直入に話せるかも知れない。


 今の総理大臣は鈴木貫太郎、七十八歳である。かつて天皇の侍従長を八年間務めていて、天皇の信頼は極めて厚い。だが天皇が、この時局になぜ鈴木貫太郎という老人を総理に指名したのか、それが豊には解せなかった。会社から持ち込んだ資料を基に情勢分析に取り組んだ。迫水と接触するにしても鈴木貫太郎総理の姿勢を知っておく必要がある。鈴木貫太郎が天皇より組閣を命じられたのは、奇しくもアメリカでルーズベルト大統領が急死した七日前だった。後を継いだのはトルーマン副大統領。日米に同時期に誕生したこの二人の指導者が、日本の運命を握っているのだ。

 天皇の意図。鈴木貫太郎の腹の内。集めた資料からはそれらが見えてこなかった。

 豊は、無線機をスーツケースから取り出し、組み立てた。指定された周波数で、暗号表をもとに、情報局のエリス・ザカリアス大佐にアメリカ側の分析を問い合わせた。 一時間後に返信が来た。暗号表を片手に、テレタイプの吐き出す長いテープを読み解いていくと、そこにはザカリアスたち情報分析チームの見解が克明に記されていた。

『鈴木貫太郎の言行には裏表がある。表向き徹底抗戦を国民に呼びかけているが、天皇から戦争終結の指揮を執るよう要請されたと見ている。これは政府内外に相当な抵抗が予想される。このときに天皇が直接大臣や軍部に発言できるよう、信頼の厚い鈴木貫太郎を選んだと分析している』

 灯台もと暗しとはこういうことを言うのだろう。国内にいては見えてこない日本の情勢に、アメリカ軍の方が精通している。

 いまの日本の軍事作戦や外交など戦争に関わる諸問題は、最高戦争指導会議が決定している。メンバーは六人。総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、外務大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長だった。この中で鈴木貫太郎総理大臣がどれほどの発言力があるのか。天皇が極秘に鈴木貫太郎に託した終戦工作を、彼は果たして実行できるのか。


 翌日、豊は教えられた番号に電話をしてみた。

「迫水ですが」

「迫水さん、憶えておいでですか。三年前ベルリンでご一緒した東亜通信の関豊です」

「おお、関君、憶えているとも。懐かしいなあ。日本に帰ってきたのか」

「そうです」

 互いに、あれから自らに起こったことなど、軽い世間話を交わした。ひとしきり話し尽くすと、豊は本題に入ることにした。

「実は、大切な話があります。できればお会いしたいのですが」

 迫水は訝しんだ。「電話ではできないのかね」

「はい、込み入った話なので、電話ではちょっと……何とかお時間をいただけませんか」

「それは構わんよ。官邸に来たまえ。きょうの午後は二時ならちょうど空いている」

 豊は大いに喜んだ。「ありがとうございます」

 ねんごろに礼を言って、豊は電話を切った。

 始めの一歩はうまく踏み出せた。先のことは全く見えないが、それでもこれは良いことだ。最初からトラブルで壁に阻まれるような仕事はいくつもあった。

 豊は、午後二時に官邸を訪ねた。迫水が現れた。笑顔で出迎えてくれたが、その顔には、深い疲労の色がうかがえた。内閣書記官長といえば激務中の激務である。相当無理を重ねているのだろう。

 豊は、会議室に通された。差し向かいに席に着くと迫水の方から話しかけてきた。

「関君、君は変わらないな。ぼくは老けただろう」笑いながら、手であごをさすった。

「そんなことはありませんが、顔色は良いとは言えませんね。見ただけで、今の仕事のきつさが分かりますよ」

「はっはっは。君は嗅覚に秀でた記者だと思っていたよ。その通りさ。

 さて……」迫水は真顔に戻って、豊を見つめた。「大切な話とは何だね」

 豊はいきなり核心から入った。「日本は終戦工作に入るべき時期に来ていると思います」

 迫水は身を乗り出して声を低めた。「それは禁句だよ。陸軍の憲兵が至る所で監視している。とても口に出来る状況じゃない。だが、ぼくを含めて、何人もの関係者が君と同じ事を考えているのは事実だ」

 憲兵は陸軍の中で警察業務をおこなう兵士で、陸軍大臣の直轄になっている。

 それはともあれ、迫水も終戦に賛同していることは豊を安堵させた。

「分かっています。しかし、もう時間がないのです」

 豊は迫水を信じ、知っていること――特に原子爆弾について――をすべて話した。迫水は、始めのうち豊の持つ情報の多さと多彩さに驚きの色を見せたが、話が進むにつれ内容につり込まれ、険しい表情になった。

「君はなぜそこまで詳しいんだ」

「私はフランス時代、秘かにレジスタンス活動をしてドイツと戦っていました。

 その関係で、アメリカ政府内の原爆反対派のリーダー、レオ・シラード博士とジョセフ・グルー国務長官代理が私に密命を託したのです」

 相当際どい会話だった。相手を間違えれば、即、逮捕されるだろう。だが、迫水は驚き動揺してはいるものの、豊をとがめる様子は微塵もなかった。

「あと二ヶ月で、その原子爆弾は実用化されるんだね」

「そうです」

「だが、終戦については、先ほど言ったように、思ってはいても誰も口に出来ない。大臣たちでさえそうだ。鍵は陸軍を掌握できるかということだ。

 陛下が鈴木貫太郎総理をご指名したのも、君の読み通りおそらく終戦を託してのことだろう。しかし陸軍大臣や陸軍参謀総長を前にして切り出せないのが現状だ」

「原爆のことをぜひ最高戦争指導会議のメンバーに伝えてください。もう時間がないことを知ってもらわねば」

 豊の言葉は熱を帯びていた。迫水は黙り込んだ。それはそうだろう。原爆のことを話すのは、迫水にとっても危険なことだ。充分に機を図って行わなければならない。

「これはタイミングが大事だ。一旦、この話はぼくが預かる。様子を見ながら、慎重に時期を見極めて話そうと思う」

 豊は正しい人物に事を委ねたことが分かり、ほっとしていた。最初の一歩としては悪くない。



 六月十五日。豊は、迫水からの電話を受けた。

 快活、という感じではなかった。声に、まるで宿題を忘れた学生のような申し訳なさがうかがえた。

「関君、駄目だったよ。先日、鈴木総理に原爆のことを伝え、月末の最高戦争指導会議で総理から話してもらった。だが阿南陸軍大臣も梅津陸軍参謀総長も一笑に付した。そんな夢のような爆弾があるはずがない、と。総理の考えに非常に近い米内海軍大臣でさえ信じなかった」

 豊は落胆したが、一方で無理もないと思った。まだ、世界中の誰も見たことのない兵器なのだ。開発しているマンハッタン計画の関係者でさえ、その威力を、机上の計算でしか推し量ることが出来ない。ちょうど豊自身が、レオ・シラードから初めて聞いたとき耳を疑ったように、話だけでにわかに理解できるような代物ではない。

「それに、天皇陛下がお倒れになった」

「何ですって」

「数日前に、陛下の命を受け、国内の軍備の現状を調査してきた長谷川海軍大将から報告を受けたんだ。それによると、もはや戦闘機を作る鉄もなく、ベニヤ板に古い自動車のエンジンを取り付けたボートなどを特攻兵器として多数作っているらしい。弾薬もほとんど底を突いて、大規模な戦闘なら二日で尽きるとのことだ。陛下はそれをお聞きになった三日後、お倒れになった。これまで大本営の誇張した戦果ばかり聞かされてきただけに、お受けになった衝撃も大きかったのだろう。幸い、原因は疲労で、数日お休みになればご回復なさるというのが侍医の診断だ」

「そうですか……」

 豊は、他の国民ほど天皇を崇拝しているわけではない。長いヨーロッパ暮らしで、物事を世界規模で見る目を得た。そんな豊に、天皇を現人神あらひとがみとして敬う日本人は理解できなかった。

 豊も迫水に伝えなければならない知らせがあった。気の重い知らせだった。

「迫水さん、原爆の第一目標が決まったようです」

「えっ、まだ完成もしていないのに」

「そうです。アメリカは完成したら一刻も早く使用したいのでしょう。第一目標は、広島、長崎、小倉のうちのどれかです。出撃時に天候が良いところを選ぶようです。

 終戦を早めねばなりません」

「分かった。繰り返し、鈴木総理には進言する。ただ、まだ終戦の話は切り出せないようだ」

「憲兵ですか」

「いや、憲兵だけではない。本土決戦の準備に積極的に取り組まない今の内閣に、軍部の強硬派が強い憤りと不信感を抱いている。場合によっては軍事クーデターに発展しかねないんだ。まだ組織だった行動を取るまでには至っていないが、彼らにも充分警戒しなければならない。今のところ阿南陸軍大臣が跳ね返りの将校たちを諫めているがね」

 それは豊も早くから危惧していた。

 鈴木総理は、四月の就任以来、ラジオ放送で本土決戦を訴え、国民の士気を喚起する演説を繰り返していたが、実際の施策としては何もしていない。ザカリアス大佐の分析通り、鈴木総理は天皇から終戦の作業を委ねられているのだ。

 国民総特攻を訴え、最後の一兵まで戦い抜く覚悟を決めている陸軍強硬派としては、アメリカ軍が沖縄本島まで攻略してきているのに何もしない鈴木政権には業を煮やしているだろう。

 クーデターが起こり、軍部による政権が誕生でもすれば、戦争はさらに長期化し、アメリカは日本中に原爆を投下するだろう。国民総特攻と原爆の絨毯爆撃……どちらの道に進むにしても日本民族は本当に絶滅してしまう。


 六月十七日。最高戦争指導会議が開かれた。

 鈴木総理が口火を切った。

「以前話したアメリカの原子爆弾だが、第一次攻撃の目標都市が決まったようです」

 軍服姿の阿南陸軍大臣が噛みついた。「先日来、尋ねているように、その情報の出所は誰なんです。人物も分からないのに、そんな者が言っている情報など信用できませんな」

 同じ意見であろう梅津陸軍参謀総長が深く頷いた。彼もまた軍服を着ていた。

 しかし、鈴木総理は動じなかった。

「書記官長の迫水君を介して接触している、アメリカの原爆反対派から送られた密使です。日本を原子爆弾から守りたいという一心で行動しているだけで他意はありません。信用するに足ると私は思っています。その男が提供した他の情報、たとえば沖縄上陸軍の兵力規模や船舶数などは実に正確で、これひとつ取っても信頼できる証ではないですかな」

 梅津陸軍参謀総長が問い返した。「総理がそこまで言われるなら、取りあえずその人物のことは棚上げするとして、その原子爆弾とやらの攻撃目標はどこなんです」

「広島、長崎、小倉の三つです」

 阿南陸軍大臣が苦笑した。「いいですか。私が原子爆弾を与えられたら、ワシントンに落とすでしょう。なぜ首都ではなく、地方の都市なんです」

「さあ、そこまでは分かりません」

「やはり戯れ言にしか聞こえませんな。そもそもそんな威力の爆弾などあり得ない」

 鈴木総理は、阿南陸軍大臣たちの頑迷さに閉口した。鈴木自身も海軍出身だが、海軍と陸軍では考え方が根本的に違う。昔から言われていることだ。

 陸軍軍人は、もし武器が全て尽きたら、最後はその石頭でも使いかねないのではないか。鈴木総理は胸の内で苦笑いした。

 結局、その日の最高戦争指導会議でも、豊の情報はまともに取り上げられずに終わった。



 六月二十二日。

 前夜、連絡をもらった最高戦争指導会議のメンバー五人は、鈴木総理に不意打ちを食らったような思いをしていた。連絡役の迫水書記官長は「明日の最高戦争指導会議は皇居にて天皇陛下の御前で行います」と伝えた。天皇と鈴木総理の間には強い信頼関係がある。何か裏があるのではないかと五人は訝しんだ。


 皇居内の一室で、天皇の椅子と机を取り囲むように六つの椅子が置かれ、めいめいは正装で着席した。やがて軍服姿の天皇が現れ、金屏風を背に席に着いた。

 天皇は。まっすぐ前を見つめたまま、会議の行方を黙って聞いていた。

 阿南陸軍大臣と梅津陸軍参謀総長は、これまで同様、本土決戦を主張し、あくまで戦争完遂の意志を曲げなかった。

 一時間が過ぎ、鈴木総理が起立して、天皇に礼をした。

「議を尽くすこと一時間。会議の内容はお聞きになったとおりです。誠に恐れ多き事ながら、陛下のお言葉をいただきたく存じます」

 天皇は言った。「この際、これまでの観念にとらわれることなく、戦争終結に向けた研究を速やかに遂げ、これを実行することも必要かと思うが、皆はどうか」

 初めて公の場で「終戦」が語られた。それも陸海軍の大元帥である天皇の口から。

 鈴木総理が答えた。「あくまで戦争遂行に尽力するのは申すまでもありませんが、平行して陛下からお言葉を頂戴した和平に向けての外交的努力も行うべきかと存じます」

 天皇は頷くと、立ち上がり、静かに退室した。六人は起立して見送った。

 天皇が去るとみな、それまで水に潜っていたかのように、ふーっと息を吸い込んで吐いた。御前会議というものは、とにかく疲れる。たった一時間でも、まるで二十四時間ずっと座っていたような緊張感があった。

 鈴木総理が言った。「我々が口にするのもはばかられる事を、お上自らが仰しゃって下さった。誠にありがたき事です。今後はこの六人で、和平への方策も練っていくことにいたしましょう」

 五人は思った。これが鈴木総理の奥の手だったのだ。天皇が何を考えているか、それが鈴木には分かる。天皇の心が終戦に傾いていることを察知し、きょうの御前会議を設定したのだ。

 ともかく、これで禁句であった終戦を大っぴらに議論できるようになった。日本はようやく終戦への道に進み出した。

 米内海軍大臣が言った。「急がねばなりませんな。敵が例の原子爆弾を落とす前に決着をつけなければ」

 阿南陸軍大臣が鼻で笑った。「あの世迷い言かね。私は軍属になって以来、敵・味方のありとあらゆる爆薬を見てきた。そんな破壊力のある爆弾などあるわけがない。そんな妄言を信じて総理に報告するなど、『カミソリの迫水』も焼きが回ったな」

 これだから文官は困る、とでも言いたげな顔で、腰に差した礼装用の軍刀をさすった。

 鈴木総理は何か言いたそうだったが、途中であきらめたようだった。



 六月二十三日。豊は、迫水内閣書記官長に呼び出され、官邸に赴いた。顔を隠すようにと言われていたので、帽子を目深に被り、マスクをして官邸に入った。

 前回の連絡で、近いうちに御前会議が開かれると聞かされていたので、その結果を知りたく、気を揉んでいたところだった。

 迫水が指定した会議室のドアを開けた。

「関君、待っていたよ」迫水が会議卓についていた。何か良い報告らしい。自信ありげな表情にそれが表れていた。

「昨日、御前で最高戦争指導会議を開き、天皇から終戦について検討するよう指示があった」

「本当ですか。これでようやく終戦が俎上に乗るわけですね」

 豊も喜んだ。少しではあるが、国の舵が動いたのだ。安全な進路にはまだほど遠いが。

「そうだ。天皇の親書を持った特使をソ連に派遣する予定だ。ソ連に連合国との仲介を依頼することになるだろう」

 それを聞いて豊は愕然とした。一旦喜んで膨らんだ期待が針を刺されて破裂した……そんな気分だった。

 語気を強めて「ソ連はだめです」

「何がだめなんだ」

「ソ連は、今は日ソ中立条約に従っていますが、いずれこれを破棄して連合国側に付き、日本に宣戦布告するつもりです。アメリカ軍情報局のザカリアス大佐からの情報です」

「何だって」迫水は顔色を変えた。

「ソ連は終戦ギリギリまで待って漁夫の利を得ようという腹です。それをさせたくないせいもあってアメリカは原爆を日本に落として終戦を早めようとしているんです」

 迫水は眉をひそめた。

「アメリカは表向きはソ連と握手をしているが、内心では既に将来の敵と考えているのだな」さすがカミソリの異名を持つだけのことはある。迫水の外交に関するk感覚は一流だった。

「特使を派遣しようとしてもソ連は取り合わないでしょう。時間の浪費です。それよりこの際、連合国と直接交渉したほうが早い」

 迫水は豊の提案に首を横に振った。「それは軍部の面子が丸つぶれになるから無理だ」

「そんなことを言っている場合ですか」

「関君、君の言いたいことは分かるよ。しかし、政治で一番大事なのは順序と筋道なんだ。

 ここで軍部の意向を無視して、交戦中である連合国と終戦交渉を始めれば、陸海軍大臣は辞職し、軍は後継大臣を出さないだろう。そうすると鈴木貫太郎内閣は総辞職だ。

 昨日の御前会議でも分かるように鈴木総理の切り札は陛下だ。侍従長を八年も務めた人だから、陛下とはあうんの呼吸がある。

 だが、陛下にとっても鈴木総理は終戦にたどり着くための切り札なんだよ。

 四月、総理は、陛下から組閣の大命を拝受したとき、高齢を理由に固辞したんだ。すると陛下は『いま他に人はいないのだ。頼むから総理を引き受けてくれ』とおっしゃったんだよ。天皇陛下から『頼むから』などというお言葉を頂戴した人物など、後にも先にも鈴木総理ただひとりだろう。だからこの内閣を潰すようなことはできない。そのためには慎重に事を運ばなければならないんだ」

 豊は、ひとつひとつ相づちを打ちながら聞いていた。迫水はその相づちを確認しながら語ってくれた。

 迫水が話し終えて、ふっと、二人の間に沈黙が流れた。

 豊がそれを破った。「政治は難しいですね。仰ることは良く分かりました。ただ、この瞬間も原爆の開発は進んでいます。それだけは忘れないでください」

 迫水も言った。「それは重々承知だ。ぼくもいたずらに時間を費やすことはしないよ」


 官邸からの帰り道、豊は説明の出来ない違和感を感じた。だが、この感覚は初めてではない。(つけられてる)たちまち豊にレジスタンス時代の勘が戻った。追っているのは二人らしい。ひとつ実験をしてみるか。題目は、ドイツ人と日本人では、どちらが尾行が上手いのか。豊は楽しんでいる自分に気がついた。何度もやったゲームだ。ただ、負けた場合の支払いは時々命だったりするから厄介だ。

 針を隠すには砂浜が適しているように、人が隠れるには人に限る。尾行者は人通りを好む。だから尾行者との距離を遠ざけるには、人通りの少ない道を選びながら歩くのがコツだ。

 およそ二時間、丹念に複雑な道のりで歩きながら、ついに追っ手をまくことが出来た。豊の結論は、尾行はドイツ人の方が上手いということだった。

 家に帰り着いたらもう夕方だった。上着を脱ぐと、久しぶりのゲームによる心地よい疲労を感じながら、床に寝転がった。追ってきたのは誰なのか。

 静寂を裂いて電話が鳴った。受話器を取ると、迫水だった。

「関君、何度もかけたんだよ」迫水の声はやや上ずっていた。

「どうかしましたか」

「別れた後、内務省の人間が来て、面会していたのは誰か訊かれたんだ。答えるのを拒否したがね」

「なるほど。実は尾行されましてね。何とかまいて家に着いたところです」

「おそらく特高(特別高等警察)だろう。まずいな」

 特高は、内務省管轄の一種の秘密警察で、自由主義、共産主義などの思想家を取り締まる組織だ。捕らえられると、拷問、獄死も珍しくなかった。

「しばらく官邸に出入りするのは控えます」

「それがいい」

 迫水の声の調子から、いまの日本で、特高がいかに恐れられているかが伝わってきた。豊にとってはゲシュタポの方がよほど恐ろしかったのだが。しかし自分は五年も日本を離れていたのだ。タカをくくることは慎むべきだろう。


 その夜、豊は沖縄が陥落したという電信を受け取った。四月にアメリカ軍が上陸して二ヶ月。日本兵も民間人もそれぞれほぼ同じ九万四千人が戦死したという。

 無機質な電信文の向こうで、十八万以上のおびただしく、そしてむごたらしい死体が転がっている。豊には、電文が簡潔ならば簡潔なほど、生々しい人々の死に様が見えてくる気がして、恐怖とも怒りともつかないドロドロした感情が胸の中で渦巻いていた。



 七月に入り、日本各地へのB29の空襲は熾烈を極めた。主要な都市は軒並み焼夷弾の雨を浴び、灰燼と化した。もはや日本には、迎撃する戦闘機も高射砲もなく、アメリカ軍は楽々と飛来しては腹一杯抱えた焼夷弾をばらまき去っていった。下界でいかなる悽愴な殺戮が繰り広げられてるかなどあまり意識することもなく、ほとんど爆撃演習のような気分で空爆を繰り返した。

 鈴木総理や東郷外相は、迫水内閣書記官長からソ連への甘い期待を捨てるよう何度も進言を受けた。しかし、話は半ば分かっていても、現実的にはソ連経由で終戦工作をとろうとしていた。いや、他に外交チャンネルがないというのが本当のところだった。

 ところが七月十三日になり、いざ準備を整えソ連に特使を遣わそうと打診したところ、十七日から始まるポツダム会議の準備で対応できないと、にべもなく断られた

 この会議では、日本に対し速やかな降伏を促すとともに、領土や賠償などの戦後処理について話し合われることになっていた。もう日本は崖っぷちに追い込まれていた。

 これを受けて、十六日、総理官邸で最高戦争指導会議が開かれた。迫水も同席した。

 鈴木総理が言った。

「結局、迫水君のソ連について言っていたことは正しかったわけですな。ポツダム会議も始まろうとしている今、我々がとるべき方策について話し合いたいと思う」

 米内海軍大臣がためらいがちに言った。「ソ連の動向も当たっていたわけだから、迫水君が以前から言っているアメリカの原子爆弾も事実なのでは」

「妄言だ」阿南陸軍大臣が切って捨てた。「そのような爆弾はあり得ん。沖縄がそうであったように、敵は海から上陸してくる。それを本土決戦で迎え撃つのみだ」

「しかしソ連のことを的確に言い当てたほどの密使ですから、信用できるのではありませんか」米内海軍大臣は食い下がった。

 鈴木総理が後押しするように言った。「もし正しいとすれば、当の爆弾の完成は目の前です。我々には一刻の猶予もない」

 秘書官が静かにドアを開けて入ってきた。迫水に歩み寄るとそっと耳打ちした。はっと秘書官を見上げた迫水は、立ち上がり、会議室を出て行った。

 堂々巡りの議論が続く中、迫水が戻ってきた。鈴木総理に一枚のメモを手渡した。

 鈴木総理はメモをぎゅっと握りしめ、告げた。「みなさん、例の密使からの連絡です。アメリカが原子爆弾の爆発実験に成功したそうです」

 皆、ぴたりと黙った。

「どうしますかな」鈴木総理が促した。「信用できるかできないかは別として、仮にこれが正しいとして動いても、我々に損はないと思いますな」

 米内海軍大臣がうんうんと頷いた。「総理の言われる通りだ。阿南さん、どうです」

 阿南陸軍大臣は天井を見上げて目を閉じた。何も返事をしなかった。

「広島、長崎、小倉に避難命令を出しては」東郷外務大臣が言った。

 梅津陸軍参謀総長が東郷外務大臣のほうを向いた。「無理だ。合わせると百万人近い数になる。それだけの数を移動させる手段もないし、疎開先もない」

 米内海軍大臣が口を挟んだ。「何もしないわけにはいかない。通知だけでもすべきではありませんか」

「それではいたずらに騒乱を招くだけだ」

 鈴木総理が阿南陸軍大臣に言った。「阿南さんは。ご意見はないのですか」

 阿南は目を閉じたまま言った。「妄言だ」



 七月二十六日。豊は、長らくパリにいたため忘れかけていた、東京の蒸し暑い夏を味わっていた。

 九日間にわたるポツダム会議が終わり、ラジオ放送の形でポツダム宣言が日本に伝えられた。

 豊は、予想はしていたものの、その厳しい内容に困惑していた。――即時無条件降伏

 日本側の呑める最低条件は「国体護持」、つまり天皇制の存続だった。無条件降伏では天皇の地位の保証がない。ここに豊を困惑させる元凶があった。これは認めさせたいための宣言ではなく、拒ませたいための宣言ではないだろうか。

 翌二十七日、豊は、暗号電信で、ジョセフ・グルーからのメッセージを受け取った。

「危機的状況だ。すでにテニアン島基地に向けて、原爆の部品を積んだ巡洋艦が出航している。原爆推進派にとってあと必要なものは、原爆投下のための大義名分だ。ポツダム宣言は必ず受諾しなければいけない。拒絶すれば、原爆に対するゴーサインを出したも同然だ」

 豊もグルーに同感だった。たとえ厳しい条件であっても、これは絶対に受諾しなければならない。それを訴えるために、迫水に電話をかけた。

「迫水さん、政府の態度はどうなっていますか。ポツダム宣言は、何としても受諾しなければいけません。さもなければ、アメリカに原爆使用のお墨付きを与えるに等しいでしょう」

「分かっている、関君。しかし、朝から陸軍の将校たちが大挙して官邸に押し寄せ、鈴木総理を会議室に缶詰にして、ポツダム宣言を突き返すよう猛抗議をしているんだ。前にも言ったように、軍部にはクーデターを目論む輩もいる。刺激を与えるのは危険だから、彼らをむげにもできない」

「だめです。何とか受諾するよう総理を説得してください」

「ぼくもそのつもりでいるのだが、何とか両方に顔が立つような落としどころを探しているところだ」


 何とも煮え切らない電話の後、豊は無性に苛々して、部屋を歩き回った。確かに軍部、とくに陸軍の動きは警戒しなければならない。だが、むやみに恐れて決断すべき時を逸してしまっては元も子もない。

 自分がここで思い悩んでも無意味であることは分かっている。だが、その己の無力さにも腹が立って仕方がなかった。

 事は、レオ・シラードのルーズベルト前大統領への提言から始まった。マンハッタン計画の開始、原爆反対派の進言――数々の分岐点があった。そのどれもがことごとく原爆使用の方向に事態を進めてきた。自分は、その最後の防波堤となるべく日本に帰ってきたのだ。自分なりに最善を尽くしたという思いはある。しかし、結果的にはいよいよ瀬戸際まで追い詰められてしまった。ポツダム宣言に対し、政府がどう出るか、まったく予測が立たない。

 豊はその夜、眠れなかった。


 一夜明けた七月二十八日の早朝、待ちわびて玄関に座り込んでいた豊に新聞が届いた。むさぼるように記事を探す。見つけた。ずいぶんと短く小さな記事だった。だが、それは戦慄が走るのには充分な内容だった。

「ポツダム宣言、政府は黙殺」

 黙殺。確かに受諾でも拒絶でもない。これが迫水の言った「落としどころ」なのか。

 だが、豊にはこれが海外報道機関にどう伝わるか、手に取るように分かっていた。「黙殺」は「拒絶」と翻訳されるのだ。

 どうやら鈴木総理は軍部の圧力に屈したようだ。

「これではだめだ」

 豊は着替えると、総理官邸に向かった。行かずにはいられなかった。続報次第では、まだ何とかなる。原爆投下へと開きかけた重い扉を、再び閉じる方法はあるはずだ。


 汗をかきながら官邸の門までたどり着いた。通り過ぎようとしたその時、四人の背広姿の男たちが現れ、飛びかかってきた。脳より先に体が動き、最初の二人はかわした。しかし、三人目が足に飛びつき、倒された。その後、もがく豊の四肢は寄ってたかって押さえつけられ、後ろ手に手錠をかけられた。荒々しいブレーキ音とともに門の外に黒塗りの車が横付けされ、豊は後部座席に押し込まれた。頭にすっぽり布袋を被せられ、車は急発進した。一連の出来事の間、男たちはひと言も声を発しなかった。



 手錠で身動きできず、布袋で視界を奪われ、むしろ豊は冷静になっていた。人間は、自分が完全に他人の手に委ねられていると知ると、かえって落ち着くものだ。選択肢があるから迷うのだ。選択肢がゼロと分かれば、何かしようという気も起こらなくなる。

 豊は、この連中はおそらく特高だろうと考えていた。逮捕の理由は……きっと彼らにはほとんど重要ではないのだろう。まずは捕まえる。それから理由を作る。特高のお家芸だ。理不尽だという点に目をつぶれば、彼らは理由作りの天才と言える。

 先日の尾行の一件に続き、どうやら二つ目の実験が出来そうだ。題目は、そう、秘密警察の拷問は、日本とドイツではどちらがより残忍か。前回と違うのは、今回はちっとも楽しくないという点だが。


 三十分ほど走って、車は停まった。右側に座る男に小突かれて、豊は車から降り立った。両脇を男たちにがっちりと抱えられ、どこかの建物に連れ込まれると小さな一室に入れられ、椅子にかけた。そこでようやく頭の袋を剥ぎ取られた。

 広さは十畳ほど。打ちっ放しのコンクリートの壁に、鉄格子のはまった窓。暗い部屋だった。

 粗末な木の机と椅子。体重を預けると、椅子はあちこちが緩み、ぎしぎしと歪んだ。

 たぶん自分をさらってきた男たちだと思うが、四人の人間がいた。

 壁に寄りかかって、タバコを吸っている男が言った。

「もう分かっていると思うが、我々は特高だ。生きて帰れると思うなよ。

 私は特高一課の森岡巡査長だ。

 お前は関豊だな。敵国から提供を受けた嘘の情報を通報し、国家の転覆を図っているようだが、住所を言え。無線機をどこに隠し持っている」

 残りは刑事たちというわけだ。

「身に何の憶えもないし、住所も言うつもりはありません」

 ひとりの刑事が「なめるんじゃない」と言って椅子を足で蹴った。豊は、椅子ごとコンクリートの床に倒れた。なるほど、椅子の立て付けが悪いのはこのせいか、と小さな発見をした。何の意味もないが。

 豊は、群がった三人の刑事たちに、激しく蹴られた。

 顔も数え切れないほど蹴られ、目は腫れ、鼻血が吹き出し顔の下半分を染めた。

「うっ。ぐあっ」うめき声が洩れる。一切、手加減無しの暴力だった。

 それは、五分間ほど続き、豊は徹底的に痛めつけられた。もし今、一番痛いところは、と訊かれたら「すべて」と答えるだろう。

 森岡が手で合図をすると、刑事たちは蹴るのをやめた。

「関、住所はどこだ」

「……忘れました……」豊の声は、か細く、絞り出すようだった。

 目があまり見えないが、森岡自らが、自分の横に立ったのを気配で感じた。

「住所は、と訊いているんだ」靴先がみぞおちに突き刺さった。

「げえっ」胃液を嘔吐した。床に出来た鼻血の海に、黄色い胃液が混じる。

 拷問は続いた。


 豊が手錠を外され、独房に入れられたのは深夜0時を過ぎていた。ついに住所は言わなかった。

 それにしても派手に痛めつけてくれたものだ。体中が痛くてたまらない。あれだけ責められて、よく住所を言わなかったなと、我ながら少し驚くとともに、呆れてもいた。それでは死んでしまう。まだ自分は死ぬわけにはいかない。

 独房に窓はない。闇の中、よろよろしながら、鼻血で汚れたワイシャツを脱ぐと、手探りで洗面台まで行き水洗いした。

 日中、車の中で思いついた実験の結果は、もう数日痛めつけられてから結論を出すとしよう。

 シャツを洗いながら、生地に染み付いた血のぬめりに触れたら、外界では情勢がどうなっているのか気になった。日本政府の反応が「黙殺」のままならば、アメリカは原爆を落としに来る。グルーによるとB29の発進基地であるテニアン島に部品を輸送中ということだった。到着して爆弾を組み立てるのに必要な時間は、あと一週間程度だろう。それから順々に日本の各地に原爆が投下されていく。早く戦争を終結させなければならない。


 翌日、七月二十九日、森岡は趣向を変えようと思ったらしい。

 豊はまた後ろ手に手錠をされた。そして足首に鎖を結びつけられた。その鎖は、取調室の天井に取り付けられた滑車にかけられ、鎖の反対側の端が引かれると、豊は逆さまの宙づりになった。

 昨日の痛みはまだ体中に残っている。豊はうめいた。

 刑事が、なみなみと水をたたえたバケツを運んできて、宙づりの豊の下に置いた。

「一緒に潜伏している仲間がいるはずだ。言え」森岡が言った。

「そんな者はいません」

 森岡は鎖を握る刑事に目配せした。それを受けて、刑事は握る手を緩めた。水音を立てて、豊の頭がバケツの中に水没した。豊は体をよじって苦悶する。

 森岡は、腕時計を見ていた。「よし、上げろ」

 豊は引き上げられた。それこそ水あげされた魚のように、口を開けて大きくあえいだ。

「言う気になったか。今のは一分だ。次第に増やしていくぞ」

「……仲間など、いません。私はひとりです」激しく咳き込みながら、豊は言い返した。

「次は一分三十秒にしてみようか」森岡の微笑は、蛇やトカゲが笑ったらこんな感じだろうと思わせる、乾いた冷たい笑みだった。

 豊は三度までは耐えた。しかし四度目で水を大量に吸い込み気を失った。

 気がつくと、鎖と手錠は外され、床に横になっていた。

 白衣を着た医師らしき男が、脇にしゃがんでいる。彼が蘇生させてくれたのだろう。

 その後ろに立つ森岡が、タバコをくゆらせながら言った。「今はまだ死なれては困るんだ。いずれはそうなるだろうがね」


 水責めの翌日は火責めだった。裸にされ、体中に、熱した鉄棒を押し当てられた。取調室の外の廊下には、一日中、絞め殺される鳥のような悲鳴や金切り声が響いていた。

 その夜からというもの、体の炎症のせいだろうか、相当な高熱になったが、森岡は医師に手当てさせようとはしなかった。


       *  *  *


 八月に入った。最高戦争指導会議の席上、阿南陸軍大臣は、同席している迫水に言った。

「先般の会議の席では、ポツダム宣言を受諾しなければ原子爆弾が投下されると言っておったが、どうだ、何も起こらないではないか」それ見たことかと言わんばかりの表情だった。「最初から私は妄言だと言っている。そのような強力な爆弾など有るわけがないのだ」

 迫水は深く沈んだ顔で、何も答えなかった。

 鈴木総理が言いにくそうに口を挟んだ。「密使の彼とは連絡が途絶えまして、行方がわからず、その後の情報が入ってこないのです」

 梅津陸軍参謀総長が「日本を原子爆弾から救いたいなどと抜かして、結局は作り話の針小棒大。密使などというのも怪しいものだ。アメリカ政府から、流言飛語をまき散らして日本政府に混乱を起こすよう命ぜられた危険分子なのではないか。うまく行かぬから逃走したのであろう」と言った。

、それに対し迫水は「いえ、そんな怪しげな人物ではございません。彼の言葉には耳を傾けるべきです」と答えた。

「では、なぜ消えたのかね」

「私もそれが解せないのです」


10


 晴天は誰にも歓迎される。一九四五年八月六日の広島も、気持ちの良い青空が広がり、三十五万人の人々は気分良くそれぞれの一日を始めようとしていた。その朝、日本で一番のどかな街だったかも知れない。

 昨年テニアン島がアメリカ軍によって陥落してから、ほぼ本州全域がB29の航続距離範囲になった。東京、大阪、名古屋をはじめとして日本のいたるところの都市で無差別爆撃が行われるようになった。まるで、日本人を絶滅させようと目論んでいるかのような凄まじい爆撃だった。いや、実際そう考える人々もアメリカ政府内には存在したのだ。

 そんな中、広島には不思議と空襲が一度もなかった。「広島には空襲がない」という噂話が流れ、広島に、いつ空爆で悲運に見舞われて死ぬかも知れない不安を持った人々が集まってきていた。それは見せかけの安全とは夢にも思わずに……。実はアメリカ軍総司令部から、広島、長崎、小倉、京都、横浜そして新潟への爆撃を禁止する命令が、前線に通達されていた。

 その命令は、ある意図の元に決定されていた。ある目的で、日本に無傷の都市を残しておく必要があったのだ。


 八月六日のその日、深夜一時にテニアン島を離陸したアメリカ軍のB29エノラ・ゲイは、最大積載量を超える重たい荷物――原子爆弾リトルボーイを腹に内蔵し、夜の闇の中、日本に向かった。出撃前、この任務が歴史を変えるほどの重要性を持つ、選ばれたことを誇りに思えと上官から告げられ、搭乗員たちは奮い立った。だが、実際の仕事自体はいつもの出撃と特に変わったことはなかった。目標地点まで行き、爆弾を落とす。何度も経験している仕事だ。

 エノラ・ゲイは、七時間かけて広島上空高度九千六百メートルに、その銀色の機体を現した。時は朝八時十五分。人々は夏空高くに飛来した小さな機影を、手をかざして見上げた。そしてリトルボーイは投下された。リトルボーイは広島市の中央にある相生橋目がけて放物線を描きながら落下した。リトルボーイの高度が地上六百メートルになったとき、内部の二つのウラン塊が衝突した。そこで核分裂の連鎖反応が発生し核爆発を起こした。

 まず光。あまりの明るさに、かざした手の骨が透けて見えるほどだった。それから、この世の誰もが聞いたことのないほど大きな爆発音。


 同時に三つのことが起きた。


 まず、爆発点の温度は一気に摂氏一万℃近くまでに達した。これは広島のわずか六百メートル上空に、太陽がもう一つ生まれたことを意味する。強烈な光とともに、熱線が放出された。声を出すこともままならなかった。半径一キロ内にいた人々はただちに蒸発し、道ばたや建物に黒い人影だけが残った。、半径二.五キロ以内にいた人々は、全身に凄まじい激痛を感じた。体中の水分が沸騰したのだ。だが、それはほんの一瞬のことで、皆、すぐに絶命し、肉が焼け尽くされ、宙をつかもうとする者、叫び声をあげようと口を開けたままの者などそれぞれが苦悶する姿のまま、乾燥した黒い死体となった。そして、それより遠くにいた人々は、衣服が焼け落ち、全身に恐ろしいほどの火傷を負った。皮膚と肉が剥がれ、あごの先や指先にかろうじてつながったまま、ぶら下がった。みな自分に何が起こったのか分からないまま、千切れた肉をぶら下げてよろよろとさまよい、じきに死んだ。

 おびただしい人々が水を求めて、川へ押し寄せ、そのまま息絶えた。川には上流から次々と死体が流れてくる。赤黒い手を宙に差し出したまま流れてくる死体があった。その指先は、三分の一ほど残して、五つの青い炎を上げており、そこから蝋燭のように灰色の液体が伝い流れていた。

 また、大量の放射線が放出され、人々を死に至らしめた。爆心地から遠く離れたところの人たちも、外傷はないのに、後に、高熱を発して、髪が抜け落ち、穴という穴から血を吐き出し死んでいった。

 さらに、核爆発により爆発点の気圧は数十万気圧を超え、これが猛烈な爆風となって四方に広がった。その風速は音の速さを超え、台風の千倍を上回る破壊力で広島の建造物を破壊し吹き飛ばした。これにより、広島市は壊滅した。

 リトルボーイの爆発は一瞬にして、実に十万人以上の人々を惨殺したのだ。さらに翌日、翌々日と、後を追うように命を落とす人々の数は増え続けた。

 広島がそれまで空襲もなく無傷でいた理由。それは、世界初めてとなる原子爆弾の効果を科学的に詳しく調べるためだった。


 仏教やキリスト教では、多くの人は死後地獄へ行くと言うが、それを見て帰ってきた人はいない。だが、間違いなく広島はこの世に現出された地獄の街だった。


11


 八月七日。広島の惨事は東京に伝わった。また、アメリカ政府が発するラジオ放送も後を追い、広島に投下した新兵器が原子爆弾というもので、日本がポツダム宣言を受諾しなければ、これをさらに投下し続けるつもりだということを伝えた。この放送からも分かるように、アメリカは既に日本との戦争には見切りをつけ、世界に自国の国力を見せつけるために原爆を投下しようとしていることがうかがえる。日本は新兵器の展示場として利用されつつあるのだ。

 政府には、次々と被害の様子を知らせる報告が届き、その、想像を絶する規模の大きさが、次第に明らかになってきた。


 阿南陸軍大臣は、午後に市ヶ谷台の陸軍省大臣室で、部下から広島の被害状況の報告を受けた後、ひとりになり、考え込んだ。これから起こるであろう事、これからやらねばならない事、様々な事を思案した。

 それから迫水内閣書記官長を呼んだ。

 迫水も、ついに豊の言う通り原子爆弾が現実のものとなり、動揺を抑えきれないまま、朝からあちこちを走り回っていた。

 息を切らせて大臣室に入ってきた迫水に、阿南陸軍大臣が尋ねた。「迫水君、例の密使からは何も連絡がないのかね」

「はい、ありません」

「どのようにして消えたのだ」

「ポツダム宣言が出た後、緊密に連絡を取り合っていたのですが、政府が『黙殺』の声明をだしてからパタリと途絶えました」

「名前は何という」

「は……」

 迫水は言葉に詰まった。

「その者は、軍部が逮捕する。名前を言いたまえ」

 迫水は大臣の卓の前で、身を凍り付かせた。

「それは……言えません」

「馬鹿者」阿南陸軍大臣は一喝した。「いいか。その密使はおそらく特高の手に落ちたのだ。しかし、この一件は軍事情報が密接に絡んでおる。すなわち軍部の問題だ。だから軍部が逮捕し身柄を拘束する。

 名前を教えろ。言うことを聞かなければ、現内閣を瓦解させてもいいのだぞ」

 内閣の命運まで賭けることは出来ない。迫水は目を閉じた。(すまん、許してくれ、関君)

「関……関豊です」

 阿南陸軍大臣は帳面にそれを書き取った。その場で警視庁特高部に電話をかけて照会した。

「……そうだ、その男だ。軍部の管轄になったため、こちらで再逮捕し、身柄を預かる。憲兵を送るからただちに引き渡すように」

 電話を切った阿南陸軍大臣は、迫水を見上げた。

「いたぞ」

「そうですか」

「ああ、さっき言ったように、我々の方で拘束する。君は下がりたまえ」

 迫水は、おぼつかない足取りで大臣室を後にした。豊を軍部に売り渡してしまった。日本を守りたい一心で単身戦ってきた男への報いがこれでは、あまりに非道ではないか。

 しかし、今まで「妄言」の一辺倒で全く取り合わなかった阿南陸軍大臣が、急に逮捕に乗り出したのはどういうことなのだろう。


12


 特高一課の森岡巡査長は、課長から軍部の圧力があったことを聞き、憤慨した。軍部と警察機構はある種、親戚のようなもので、互いの領分は侵さない不文律がある。こんな横槍は滅多にないことだ。

 しかし、陸軍大臣自らの命令とあれば応じざるを得ない。

 部下に、豊に新しい服を与えるように命じた。「手錠も外してやれ」

 独房の豊はぐったりしていたが、もらった服に着替えるよう命じられ、のろのろと袖に腕を通し、ズボンを履いた。着替えを終えると、二人の刑事に両脇を支えられながら、よろよろと独房から続く廊下を歩いた。森岡が立っているのが見えた。見飽きた。もう見たくもない顔だ。

「入れ」森岡は取調室のドアを開けて言った。

 連れ込まれて、例の立て付けの悪い椅子に座らされた。顔も手も、露出している部分は傷だらけだった。

「服なんかより飯をくれたらどうなんです……」豊は森岡を腫れた目で見上げて言った。

「まだ皮肉を言うだけの余裕があるのか」森岡も皮肉を返した。

「殴る蹴る、水責めに火責め、最後は兵糧責め。次は何です。手の内はそれだけですか」

「いや、まだまだたっぷりあるさ。お前の口の硬さは見上げたものだ。これから死ぬまでじっくり楽しむつもりだったのだが、横取りされたよ」

 森岡はタバコを取り出し、火をつけた。煙を吐きながら、「だがな、ここに残った方が良かったと思うかもしれんぞ」

 豊はどういう意味か考えようとしたが、熱に空腹に疲労に痛み、それらが思考を邪魔して、頭に何も浮かばなかった。ただ、ドイツと日本の秘密警察についての実験は結論が出た。豊の意見では日本の方が残忍だ。ゲシュタポも残忍だが、どこかエレガントなところがある。日本人は泥臭くていけない。

 カツカツカツ……。外の廊下から靴音が響いてきた。四、五人だろうか。近づいてくる。そしてそれはドアの前で止まった。

 ノックの音。刑事がドアを開けると、軍服姿に憲兵の腕章をした四人の兵士が入ってきた。狭い部屋がいっそう狭くなる。

 四人ともピシっと直立した。

 先頭の士官が森岡に言った。「巣鴨憲兵管区第三分隊、西村曹長以下、上等兵三名である」小柄だが、がっしりした体躯だ。

「ご苦労様です。こいつが関豊です」森岡がタバコを持っていない方の手で、豊を指した。

 豊は刑事に立たされた。

「関豊、命令によりお前を逮捕する」西村曹長は豊の手に手錠をかけた。

 森岡は、西村曹長に、豊の逮捕時の所持品が入った封筒を渡した。

 豊は、憲兵たちに連行され、部屋を出て行った。


 建物から出ると、日差しがまぶしかった。見上げるのは何日ぶりだろう、青空が広がっている。

「乗れ」西村曹長が腕を引っ張った。通りには憲兵隊の幌付きトラックが停まっている。運転席と助手席に二人の憲兵が乗っていた。自分を捕らえに来たのは六人の憲兵たちということになる。ちょうど一分隊だろう。

 豊は憲兵たちに手伝ってもらい荷台に乗り込んだ。全員が乗ると、西村曹長が豊に言った。

「家はどこだ」

 豊はその質問に、やれやれ、と思った。振り出しに戻っている。相手が特高から憲兵に変わっただけだ。

「言えません」答えながら、鉄拳が飛んでくるのを覚悟した。

 ところが誰も豊に手出ししなかった。

「答えろ。住所だ」西村曹長が繰り返した。

 何もされないと、かえって不安になった。百回殴られるのと、指一つ触れずにいて最後にズドンと射殺されるのでは、殴られる方を選びたい。

「言えません」二度目の答えは恐る恐るだった。相手の意図が読めない。元気ならもっと頭も回転するのだが。

「それでは困る。我々は、お前を自宅に監禁するよう命じられているのだ。これでは車を出せない」

「監禁なら別に自宅でなくても、どこでもいいでしょう」

「お前は自宅にあるものを押収されることを怖れているのだろう。

 信用できるように、特別に見せてやる。これは特別だぞ」

 西村曹長はそう言うと、内ポケットから畳まれた紙束を出した。

「我々は直属の上官ではなく、阿南陸軍大臣から直接、命令を受けている。これが一つ目の命令書だ」

 一枚を開いて、豊の顔の前に差し出した。

『一、関豊を逮捕し自宅にて監禁すべし。なお宅内の一切のものに触れることを禁ずる

 陸軍大臣 阿南惟幾』

 驚きだった。すぐに尋問をするつもりはないらしい。

「わかりました。住所は××××××です」

 西村曹長は、トラックの運転席との境にある窓を叩いた。運転手が窓を開けた。行き先を聞き、トラックは発進した。


 巣鴨の借家に着きトラックのエンジンが止まった。豊は、十日間ひっそりと主を待っていた家が懐かしかった。

 降り立った豊に続き、憲兵たちも門から入ってきた。豊は、玄関前に立って「あ」と西村曹長を振り返った。鍵をかけている。

「ああ、これは返そう」西村曹長は所持品の入った封筒をあっさり返してくれた。家の鍵がその中にあるのだ。

「おい、手錠を外してやれ」命じられた部下が、豊の手錠に鍵を差して開けた。

「狭くてすみません。どうぞ」引き戸を開けた豊は言った。六人だから二部屋は提供する必要があるだろう。自分は、痛みと疲労で早く横になりたかった。腹も減っている。いや、それ以前に、戦況が気になる。

「いや、我々は、敷地の四方に監視に立ち、残りの者はトラックで休む」

「では、この引き戸は開けておかなければならないのですか」

「いや、閉じても構わん」

 奇妙な話だ。確かに監視が戸外にいるのだから監禁といえば監禁だが、戸を閉め切ってしまえば、中で何をやっているか分からないだろう。

 豊の表情に戸惑いの色を読み取り、西村曹長が仏頂面で続けた。

「お前は敵と内通していると聞いた。実に許し難く羞悪すべきことだ。

 しかし我らが憲兵隊において軍規は絶対だ。自分の感情は捨て、一糸乱れず命令に従うのが軍人の本分である。我々は受けた命令に完全に従う。阿南陸軍大臣から受けた命令の二つ目は『監禁中、関豊が宅内で行うことを咎めざるべし』というものだ」

 今の豊の回らない頭でも、その命令の意味は分かった。これまで通りに活動できるということだ。不思議ではあるが、ありがたいことだ。

「そうですか。それでは失礼します」

 引き戸を閉めると、靴を脱いで、崩れ、転がり込むように家に上がった。

 何か食べるものをと土間を探し回り、新聞紙で包んださつま芋を見つけた。皮も剥かず、生のままかぶりついた。ただの芋がこんなに美味いものだったのか。収穫期の畑を見つけた猪のように、がりがりとむさぼった。たちまち二本の芋をたいらげた。

 腹がくちくなると、やや落ち着きを取り戻し、考えを巡らす余裕が生まれた。

 いま日本ではポツダム宣言の扱いはどうなっているのか。原爆はどうなっているのか。

 無線機に向かい、硫黄島の基地に問い合わせの電信を送った。ほどなく最新情報が色々と飛び込んできた。

 その中のひとつは、豊を愕然とさせるのに充分な内容だった。昨日、広島に原爆が落とされた。

 被害についてはアメリカは何も知らないが、確かに爆発したことを確認したという。

 防げなかった……。痛恨の事態だ。豊はレオ・シラードの言葉を再び思い出した。――あれはこの世に放ってはいけないものだ――ついに、この世の誰もが経験したことのない厄災の劫火が、放たれてしまったのだ。

 自分ひとりでどうなるものでもなかったのかも知れない。政府がポツダム宣言を黙殺した時点で決まっていたことなのかもしれない。しかしそれでも、豊は自らを責めずにはいられなかった。自分は知っていたのに止められなかった。豊はうなだれて、拳を握りしめた。どれほどの命が失われたのだろう。

 だが、悔やんでばかりもいられない。思わず忘れかけていたが。広島は始まりなのだ。これから続く原爆の連続投下による、日本破滅の序章にすぎないのだ。

 豊は、顔を上げ電話をかけた。呼び出し音が二回。

「迫水だ」

「迫水さん、関です」

「関君。どうした。今どこにいる」

 豊は特高に捕らえられて連絡が取れなかったことを教えた。

「今は、憲兵に捕らえられ、自宅に監禁されています」

「なに、ではこの電話は憲兵の指示かね」

「違うんです。どうも通信も電話も自由にさせてもらえるようです。咎めるなと命令されているそうで」

「上官からかね」

「それがどうも不思議なんですが、私を監禁している六人の憲兵たちは、阿南陸軍大臣から直接命令を受けて行動しています。通信も電話もしてよいというのも阿南陸軍大臣の命令に含まれているそうです。確かに監禁されてはいますが、取り調べも受けていません」

「妙だな」迫水の声の響きには戸惑いが含まれていた。

「そんなことより迫水さん、ポツダム宣言はどうなりました」

「あのままだよ。黙殺という声明を発表してからそれっきりだ」

「ああ、結局アメリカに原爆を使わせる大義名分を与えてしまったんですね」

「そういうことになるな。君は正しかった。原爆は実在したし、攻撃目標も広島だった」

「それなら、これでいたずらに時間を引き延ばすとどういう目に会うか分かったでしょう。鈴木総理を説得して、最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を決めて下さい」

「だが、閣僚や最高戦争指導会議の間で、意見がまとまらないのだ。国体の護持という条件をつけるという点では一致している。だが、鈴木総理、米内海軍大臣、東郷外務大臣は『天皇制の維持』というひとつだけを条件として受諾したいと考えているのに対し。阿南陸軍大臣、梅津陸軍参謀総長は、国体の確実な護持のため『連合国軍は上陸しない』『武装解除、戦争犯罪人の処罰は日本自身が行う』など、四つの条件をつけるべきだと言って譲らない」

「アメリカは次々と原爆を使ってきますよ。次は長崎か小倉のどちらかです」

「わかっている。原爆が現実のものと分かった以上、陸軍幹部も時間がないことは分かっているはずだ」

「これも伝えて下さい。あさって九日、ソ連は宣戦布告し、満州国境に侵入してきます」

「ソ連がついに来るのか」迫水は息を呑んだ。

「そうです。日ソ中立条約を破棄して攻撃してくるんです」

「わかった」


 迫水との電話を終えると、興奮で抑えつけられていた疲れが押し寄せてきた。

 豊はそのまま畳の上に大の字になると、眠りに落ちた。長かった八月七日が終わった。


13


 八月九日、未明には、ソ連が宣戦布告し満州に侵攻。さらに、午前十一時には長崎に二つ目の原子爆弾が投下され、十一万人の市民が犠牲になった。いずれも豊が予言した通りになった。


 これを受け、鈴木総理は、天皇の許しを得て御前で最高戦争指導会議を開いた。ポツダム宣言を受諾するかどうかが議題である。全員がいまはもう、迫水を通じて知らされていた、第二次、第三次……の原爆攻撃があるという情報を信じていた。さすがの軍部もポツダム宣言受諾はやむなしという姿勢に傾き、あとは、どういう条件をつけるか、というところに論点が移っていた。

 しかし、一条件のみとする鈴木総理、東郷外務大臣らと、四条件を付けるという阿南陸軍大臣、梅津陸軍参謀総長らの間の溝は、ついに埋まらない。

 とうとう鈴木総理が遮って起立し、天皇に歩み寄った。「御覧の通り、結論を見るに至りません。恐れ多き事ながら陛下の思し召しをお示し下さい」

 天皇は言った。「それならば、私の意見を述べる。私は外務大臣の意見に賛成である。これ以上、戦争を継続して国民に塗炭の苦しみを与えることはできない。今日まで尽くしてくれた忠勇なる軍人たちを戦争犯罪人として裁くなどということは、情けにおいて忍び難いものがあるが、いまは忍び難きを忍ぶときと思う」

「賜りました御聖断の通りに事を運ぶことと致します」鈴木総理は言った。

 これをもって、日本政府はポツダム宣言を国体護持を条件として受諾することに決まった。


 八月十日、日本は正式にポツダム宣言の受諾を連合国に通知した。ただし、連合国側の言う無条件の受諾ではなく、「天皇制の存続」という条件をつけている。これが受け入れられるかどうか。連合国側の回答が待たれた。


 阿南陸軍大臣の部屋に、陸軍参謀次長の河辺虎四郎、憲兵司令部の最高指揮官である大越兼二憲兵大佐がやって来た。

「大臣、なぜ軍部に相談もなく、ポツダム宣言を受諾したのですか」

「相談する必要など無い。これは陛下の御聖断であり、絶対のものだ」阿南陸軍大臣とて、賛成だったわけではない。しかし、天皇が決定を下した以上、それに従うより他はない。

「軍部の強硬派は、これを、陛下を良からぬ方向へ惑わそうという側近の奸詐によるものと断じております。したがいまして、倒閣の上、全国に戒厳令を敷き軍部による政権を樹立し、陛下に再び御君臨いただくべく計画を立てています。もはや鈴木ら奸官には任せてはおけません」

「何を言うか。それを諫め押さえるのが貴様らの役目ではないか。いまは、ひたすら大御心おおみごころのままに従うのだ」

「しかし、大臣、もはや計画に加わっているのは百人以上の将兵に上っています。私どもが諫めることもままなりません。いや、私たちはむしろ、大臣に指揮を執っていただきたく参上したのです」

「ならぬ、ならぬ。貴様らの行っていることは恐れ多くも陛下を侮辱するものに他ならない。絶対にそのような計画は認めぬ。今こそ、我々の鉄の軍規に従い、粛々と相手側の回答を待つのだ」阿南陸軍大臣は顔を紅潮させて怒った。しかし阿南陸軍大臣とて、軍部内の空気にはとうに気づいている。暴走する者が現れる可能性は充分に予想していた。


 豊は、ポツダム宣言受諾とその内容を聞き、終戦のために天皇は必要だろうと考えた。南太平洋や東南アジア、中国大陸に広く展開した日本の残存部隊はいま、ゲリラ化し、徹底した抵抗を続けている。これに武装解除を命じられるのは天皇しかいない。きっちりと戦争を終わらせるためには天皇が必要だった。

 豊を始め、日本政府や軍部に今できるのは、連合国側の回答を待つことだけだった。


 自宅に監禁されて三日目である。西村曹長たち六名の憲兵は交代で、トラックの荷台で携行していた糧食を食べ、休んだ。残りは、敷地の隅の、ほぼ決まった位置で銃を持ち豊の監視を続けた。立場は違えど、豊も、フランスでレジスタンスの兵士として戦ってきた身だ。毎日顔を合わせているうちに、うち解けたいという気持ちが湧いてきた。

 夕方、豊は、あり合わせの具材で、大鍋に芋汁を作った。

 出来上がると玄関を出て、西村曹長に声をかけた。「芋汁を沢山作ったんです。どうです、みなさんも食べませんか」

 西村曹長は、相変わらず無愛想だったが、わずかに眉がつり上がったところを見ると、驚いたらしい。しかし、答えはにべもなかった。「断る」

 あまりにも予想した通りで、豊は可笑しくなった。同時に、横にいた斯波上等兵のうらやましそうな顔も見逃さなかった。彼は六人の中で一番背が低く若そうでもあり、どこか幼さすら感じさせた。入隊してそう長くはなさそうだ。

「まあ、そう言わずに、長いつきあいになりそうですし、汁の一杯くらいいいじゃないですか。それとも阿南陸軍大臣から『関豊から芋汁をもらってはならない』という命令でも受けているんですか」豊の冗談に付き合おうという気は、西村曹長には全くないらしい。表情を変えなかった。

「お前は逮捕者だ。逮捕者から饗応を受けることなど出来るわけがない」

「粗末な芋汁ですよ。饗応なんて大げさなものではないでしょう」

 叱責されたら、その時はその時だ。豊は構わずに、勝手から湯気のもうもうと出る鍋を抱えてきて庭に置いた。

「さあ、飯盒を出して下さい」鍋を杓子でかき混ぜながら言った。

 斯波上等兵は、西村曹長の顔色をうかがっていた。重苦しい沈黙が流れた。

 西村曹長が口を開いた。「斯波」

「はっ」

「毒見をしろ」

「え」

「同じことを言わせるな」西村曹長は叱った。

 匂いにつられて、監視に立つほかの兵士たちも首を伸ばして興味を示していた。

「斯波の次は、遠藤、監視を交代して毒見をせよ。以下、江原、佐野、結城も交代で毒見をせよ」

 豊は笑いを押し殺した。

「はっ」五人の上等兵は敬礼した。

 豊は斯波上等兵の差し出した飯盒に芋汁を入れてやった。ふうふうと吹きながら食べ終わると次の者と交代し、やがて、五人は食べ終わった。西村曹長の手前、皆、何も言わなかったが、表情には満足げな気配が浮かんでいた。

「西村曹長はいかがです」

「おれは食わん」ぶすっとした顔のままだ。豊は無理強いしようとはしなかった。

 西村曹長はいくつくらいなのだろう。五、六歳年上のように豊には思えた。しかし、他の五人は明らかに自分より年下だ。本来なら明日の日本を背負っていかなければいけない若者たちだ。彼らを散らせてはならない。始まってしまった原爆の雨を止め、早く戦争を終わらせなければならない。そう思った。

 豊は自分も夕食を済ませ、庭に出た。

 暗がりに、家の灯りに照らされて西村曹長が立っていた。

「西村曹長、生まれはどちらですか」

 彼は何も答えなかった。

「軍役は長いんでしょうな」

 二つ目の問いに、西村曹長は豊に目を向けた。

「質問の好きなやつだな」

「することがないんですよ」

「お前は新潟だそうだな」

「ええ、そうです。曹長は」

「……名古屋だ」無表情のままだった。

「名古屋ですか。東京同様、空襲が激しいようですが、近しい人はご無事ですか」

 西村曹長は答えなかった。豊のことをどう思っているのだろうか。最初の日に言ったように、

許し難く羞悪すべき人物と今でも思っているのだろうか。いや、そもそもあの言葉は、本心だったのだろうか。

 命令とともに豊のことをどれだけ聞いているのか分からないが、それによっては単なる姑息なスパイと思っているだろう。だが、ある程度のことを聞いていて、しかも少し自分で考える力があるなら、豊のことを、他の者とは少し違った形ではあるが国を救おうとしている人間だと気づいてくれるかも知れない。


14


 八月十二日未明。連合国側から、ラジオ放送として日本に回答が返ってきた。

 豊はそれを聞き、暗い気持ちになった。「これは、もう一揉めするぞ……」と。国というものが生まれ変わるには、一度死ななければならないのかも知れない。これは、最後の断末魔の苦悶を招くように思えた。


 外務省では、夜通しかかってその詳細を翻訳した。要点は次のようなものだった。


・日本の政府の政治形態は日本国民の自由に表明される意志により決定せらるべきものとする。

・占領下での天皇および日本国政府の権限は、連合国最高司令官に”subject to”する。


 政治形態が国民の意思に任されるのであれば、天皇制は維持されものも同然と、外務省は解釈した。問題は、次の subject to だった。そのまま訳せば「従属する」である。しかし、それでは軍部の神経を逆なでするようなものだ。そこで「制限の下に置かれる」と訳した。

 ところが、軍部は、独自に連合国回答を翻訳していた。政治形態が国民の自由意志に任されるということは、天皇を否定することもあり得ると考えた。また、subject to は「隷属」すなわち奴隷のように従うと解釈した。若手幹部を始め、みな激昂した。「陛下の尊厳を侮辱するものだ」


 八月十三日。このような経緯があって開かれたの午後の閣僚会議は、紛糾した。軍部はこの回答は受け入れられない、突き返すべきだと主張。これに対し、東郷外務大臣らは、これは最後通牒であり、これを受け入れなければ日本は原子爆弾で国土も民族も滅亡してしまうと主張。議論はいっこうにまとまらなかった。

 居並ぶ大臣たちの顔も疲れの色が濃かった。夕方になり、鈴木総理が発言した。

「どうにもまとまりそうにありませんな。ここで今日は散会とし、明日午前十時半から再び閣議を開きましょう。その上で、午後、皆の意見をありのままに陛下にご報告し、再び御聖断を拝する所存です」

 ついに二度目の天皇の決断を仰ぐことになった。


 これを聞き、軍部の強硬派は秘かに会合を持った。主に、陸軍近衛第二師団に所属する者たちだった。

「いよいよ計画を実行に移すしかない」

「明日、一個小隊を派遣し、午前十時半の閣議に乱入、鈴木、東郷らの和平派を逮捕し、陛下に御政路の転換を求めよう」

「そうだ」「やるしかない」

 そこへ一枚の紙を持った将校が入ってきた。

「憲兵隊司令部からとんでもない情報が入ったぞ。敵と内通し、政府の動きを操ってきた者がいるらしい」

「何」「どこにいるんだ」

 テーブルに置かれたメモに、皆が身を乗り出して見入った。「関……豊か」


 豊は、十三日の朝、外の騒がしさに気づいた。出てみると、西村曹長らが、トラック一杯運んできた土嚢を次々と降ろし、門の前に積み上げている。門の外に馬蹄形の土塁を築くと、次は、塀の内側にも積み始めた。斯波、遠藤、江原、佐野、結城の五人の上等兵は汗だくになって、西村曹長の指揮に従って土塁の形を整えながら積み上げていた。

「どうしたんです」

 誰も答えてくれなかった。だが、これは明らかに外に対する防御の土塁だ。黙々と作業を続ける西村曹長たちを見ているうちに、豊は閃いた。

 家に入り、迫水に電話をかけた。連合国回答の取り扱いが、明日午前の閣議に持ち越されたことを聞いた。

「迫水さん、それでは遅いかも知れません」

「なぜだ」

「軍部がクーデターを起こすような気がするんです。私を監禁している憲兵が防御の準備らしきことをしています。

 明日午後の天皇の決定がなされる前に、閣僚が逮捕されてしまえばそれまでです」

「うむ。実は軍部強硬派の不穏な動きは、ここに来てかなり活発化している。懸念しているのだが、君もそう思うか」

「はい。迫水さん、総理に進言して下さい。天皇の了解を取り付け、午前中の閣議は中止、朝からすぐに御前会議を招集するんです。いくら強硬派でも、御前会議に乱入することはできません。そこで天皇に決定していただけば、事態を収拾できます」

「名案だ。早速、鈴木総理に申し上げることにするよ」

 電話を切って、豊は外に出てみた。門の外の土塁、土嚢でしっかり固められた塀と門、ちょっとした要塞の体を成している。

 六人は、軍服のボタンを二、三個外し、手拭いで汗を拭いていた。

「戦の準備ですね」豊が声をかけても、西村曹長は相変わらず答えない。やはり、自分のことを気に入ってないようだ。他の五人は、豊に目をやり、微笑みを浮かべた。芋汁以来、毎晩、あり合わせのもので簡単な食事を作っては、皆に「毒見」をさせてきた。次第にうち解け、会話も交わすようになっている。話してみれば皆、好青年で、人柄も良かった。お互い、こんな立場でなければ、良い友人になれただろう。

 背の高い遠藤上等兵は、二十四歳。動作がもっさりしていて、少し鈍いところがあるが、人情味のある人物だった。江原上等兵と佐野上等兵は共に中肉中背で二十二歳。二人とも東京生まれだが、三月十日の大空襲で親兄弟のほとんどを失ったという。しかし、いつも闘志をあらわにしている江原上等兵と、反対に静かにそれを胸に秘めているような佐野上等兵は、どちらも、肉親の死を悲しんでいるそぶりは見せなかった。本当の心の内は分からない。だが、厳しい軍国教育で、そういう感情は捨てるように叩き込まれているようだった。結城上等兵と斯波上等兵は二十歳。結城上等兵も斯波上等兵のように、どこかまだ幼さの残る顔立ちをしていた。

 そのような五人だったが、軍規を何より重んじるという点では西村曹長と同じで、西村の命じることには常に即応する習慣が染みこんでいた。豊は、パリにいた時、ジョルジュの声に無意識に体が動いてしまう癖の付いていた自分を思い出して、内心苦笑した。おそらく命じられる者というのは、世界中どこでも同じなのだろう。

 明日、陸軍強硬派が襲撃してくるかも知れない。連中にとって自分は、敵と内通した反逆者だ。身の危険は予想できたが、不思議と恐怖感がなかった。豊は、もう自分のできることはすべて行ったと思っていた。あとは、日本が終戦へ軟着陸できるかどうかだ。自分自身の身の上は、なぜかもう、どうでもよくなっていた。

 豊は思っていることを口にした。「解せないですな。西村曹長、あなたは私を、許し難く羞悪すべき者と言っていましたね。まさにこれから襲ってくるかも知れない連中と思いは同じはずだ。なぜ先頭を切って私を殺さないんですか」

 西村曹長は、軍服のボタンをはめながら答えた。「特別に教えてやろう。我々が阿南陸軍大臣から受けた命令の最後は『もし不穏分子その他が関豊を襲撃せしめんとした時は、全力を挙げてこれを阻止すべし』だ。我々は軍規に従い、命令を実行する。それだけだ」

 豊は、ここに来て阿南陸軍大臣の真意を理解した。最初から阿南は、監禁の形を借りて豊を保護するつもりだったのだ。

 それにしても、西村曹長は憲兵の一分隊だけで、陸軍を相手に戦おうというつもりらしい。あまり利口とは言えない。ありていに言えば、無茶だ。


 電話の後、迫水も阿南陸軍大臣の真意に気づいていた。「妄言」と切って捨てていた原爆が現実のものと分かり、豊が日本を壊滅から救おうと帰ってきた密使であることを認めたのだ。そのために、特高の凄惨な拷問から豊を助け出し、監禁の名の下に豊を保護し、さらに今、武装蜂起をたくらむ軍部強硬派から守ろうとしているのだろう。

 明日八月十四日は、おそらく長い一日になる。迫水は、鈴木総理の元へ向かった。


15


 八月十四日、早朝。内閣閣僚、軍部最高幹部たちは、それぞれ緊急の連絡を受けた。午前中の閣議は中止となったという。「午前十時半までに吹上御苑に参集のこと」すなわち御前会議だ。閣僚たちは、慌てて正装に着替え、家を出た。

 午前十時五十分、御所の一室の中、ずらりと並べられた椅子に御前会議参列者たちが腰をかけた。静けさの中、時折、咳払いや、息を吐く音などが響いた。


       *  *  *


 前夜から、官邸に乱入すべく武装蜂起の準備をしていた軍部強硬派にも、御前会議の連絡が届いた。御前会議では、動くことは出来ない。

「鈴木だ。鈴木の奸計にしてやられた」

 みな、口々に、憤怒や呪詛の言葉を発した。

「だが、関の処刑は、予定通り実行する。午前八時、三個分隊で向かう」首謀者のひとり、岡田陸軍大尉が言った。一同は頷いた。


       *  *  *


 豊は耳を澄ました。遠くからエンジン音が聞こえる。軍用車だ。襲撃隊のようだ。

 やがて歩兵運搬車が二台、向かいの荒れ野原にやってきた。二十名以上の兵士が荷台から飛び降り、武器を降ろして、めいめい瓦礫の影に身を隠した。

 西村曹長が、部下たちに言った。「来たぞ。戦闘配置で待機だ。関、おれの後ろにいろ」

 門の前の土塁には斯波上等兵が銃を構えて隠れている。門塀の右に西村曹長、豊それに遠藤上等兵、左には江原、佐野、結城上等兵が配置についた。みなそれぞれ、土嚢の隙間に設けた銃眼から三八式歩兵銃の銃口を突きだし、いつでも撃てるように構えている。

 襲撃隊と、豊たちのあいだは五十メートルほど離れていた。

 拡声器から声が聞こえてきた。「我々は、亡国の不忠者、関豊に天誅を加えるべく急行した。監視中の憲兵隊に告ぐ。ただちに関を連行し外に出るように」

 西村曹長が大声で叫んだ。「我々は、関を保護するよう、阿南陸軍大臣から直接の特命を受けております。戦闘配置を解くわけにはいきません」

「指揮官は誰か。名乗れ」

「巣鴨憲兵管区第三分隊、西村曹長であります」

「西村、私は岡田陸軍大尉だ。命令する。ただちに武装解除し先に述べた通りにせよ」

「できません。大臣の特命です」

「やむを得ん。それでは実力で排除する。覚悟するがいい」

 瓦礫野原に散開した歩兵たちが、一斉に撃ってきた。けたたましい音を立てて塀が爆ぜ穴だらけになった。斯波上等兵が守る土塁は特に銃撃が集中し、土嚢に十も二十もの銃弾が食い込んだ。

 三八式は五発撃つと弾倉が空になる。耳を立てていた西村曹長が、相手の銃声の勢いが衰えるのを捉え、命じた。「撃て」

 六人の憲兵たちは一斉に反撃した。

 銃声の中、豊は西村曹長の耳元で叫んだ。「向こうは陸軍の正規部隊ですよ。本気で立ち向かうつもりですか」

「戦闘はそろばんではない」西村が前を向いたまま叫び返した。「気合いと覚悟だ」そして、撃ち続けた。

 また相手が撃ち返してきた。西村曹長らは首をすくめ、身をかがめた。


       *  *  *


 カチャリ、と音がして、ドアが開き、天皇が入ってきた。二十名余りの閣僚、軍部幹部たちは一斉に起立した。

 天皇は席に着き、皆を見渡し告げた。「かけてよい」

 一同は腰を下ろした。

 鈴木総理が立ち上がった。

「ここに再び陛下を煩わすこと誠に遺憾と存じ、深謝申し上げます。重ねてなにぶんの御聖断をお願い奉ります」

 天皇は頷き、鈴木総理は再び椅子にかけた。

 完全な静寂だった。だが、全員、天皇を見つめ、その言葉を一言も聞き漏らすまいと神経を集中させている。空気はこれ以上ないほど張りつめていた。

 三十秒ほど過ぎただろうか。天皇が静かに話し始めた。

「私は国内の事情と世界の現状を考えて、これ以上戦争を継続することは不可能と考える。この際、先方の申し入れをそのまま受諾してよろしいと考える――」


       *  *  *


 豊がかたずを呑んで見守る中、門の前の、斯波上等兵の隠れる土塁が、激烈な集中射撃を浴び続けている。土嚢に無数の穴が開き、そこから中の砂が流れ出していた。そのため次第に形が崩れ、低くなってきた。

「斯波、下がれ」潮時を察したのだろう、西村曹長が叫んだ。

「大丈夫です」大声で答えて、斯波は銃眼から反撃した。

 そこへ再三の一斉射撃が土塁を襲った。風船から空気が抜けるように、急に土塁が縮んだ。斯波上等兵の肩から上が露出した。

 首の横に一発の銃弾が命中した。

「うあっ」斯波上等兵はがくりとうなだれた。

「斯波、斯波」佐野上等兵が、門から出て地面を這いながら、土塁に入った。土嚢や地面が激しく弾ける中、斯波上等兵の服を鷲掴みにして門内に引きずり込んだ。

 どうやら動脈が破れたらしく、傷口からシュッ、シュッと鮮血が完結的に吹き出してくる。苦悶してもがく手足を、他の者が押さえつけた。

「傷口を強く押さえろ」西村曹長が命じた。佐野上等兵が、裂けた肉に蓋をするように傷口を手で押さえた。たちまち肘から先が真っ赤に染まった。

 豊は呼びかけた。「斯波さん、斯波さん」その間も銃撃は続く。

 斯波上等兵は、何を言いたいのか、目を見開き、口をぱくぱくと開けていたが、痙攣し始め、やがて動かなくなった。

 芋汁を手渡したときの、どこかあどけなさの残る笑顔を思い出した。涙が出てきた。

「西村曹長、もういい。私を向こうに引き渡して下さい」豊は西村曹長に訴えた。

 西村曹長が豊の襟首をつかんで拳で殴った。「馬鹿野郎。何を言うか」初めて感情をあらわにする西村曹長を見た思いがした。

「何のために斯波が死んだか、わからんのか。お前は生きなければならんのだ。お前の使命だ。そのために我々がここにいるのだ」


       *  *  *


 天皇は続けた。「――陸海軍将兵にとって武装解除ということは耐え難いことであることも良く分かる。しかし私自身はいかになろうとも、国民の命を助けたい。今日まで戦場にあって戦死し、あるいは内地にいて非命に倒れた者やその遺族のことを思えば悲嘆に耐えない――」

 参列者はひたすら黙って、その言葉に耳を傾けていた。


       *  *  *


 もはや、門塀は完全に破壊され、内側に積み上げた土嚢があらわになっていた。

 銃撃の合間のわずかな静寂に、無数の、穴から砂が漏れる音が聞こえた。塁壁はここでも縮み始めていた。

 豊たちの隠れる、門を挟んで右側の土嚢の方が、左より急速に崩れ続けている。このままでは、いずれ裸になってしまう。

 西村曹長が叫んだ。「一斉射撃の用意。関を左に移動させる」ガチャガチャと五人が銃を構えた。西村は豊に言った。「射撃とともに、左に移れ」

「皆さんも」

「一人ずつ順番だ」

 西村曹長の合図とともに、五人は一斉に撃ち始めた。気押されて相手方がひるみ、銃撃が止んだ隙に、豊が門を横切って左へ走った。

 たちまち反撃の鉄の雨が降りかかったが、何とか無事に左に移ることが出来た。

「弾を装填。次の一斉射撃の用意」西村曹長が命じた。「遠藤、次に行け。発射」

 遠藤上等兵は首を振り、西村曹長を突き飛ばした。西村は左側に転がり込んだ。

「何をする」

「曹長殿、自分の方が体が大きいですから、邪魔になります。自分が残ります」ふだんの鈍重な物腰とは打って変わった機敏さだった。

 西村曹長は怒った。「遠藤」

 いまや元の半分の高さまで崩れた右の塁壁に向けて、猛烈な攻撃が続いた。

 遠藤も撃ち返していたが、やがて隠れることもできなくなり、地面に這い蹲った。

 見え隠れする遠藤の姿に、射撃が集中した。

「遠藤さん、こっちへ」豊が叫んだ。

 ついに遠藤は肩を撃たれた。「ううっ」うめき声を上げた。思わず身をよじったところを、今度は脚を撃たれた。

「遠藤」「遠藤、もがくな。がまんしろ。撃たれるぞ」

 しかし、無理な相談だった。激しい痛みに、体が勝手に動くようだ。遠藤は、腕や胴を次々と撃たれた。最後に頭を撃たれて動かなかった。

「遠藤さん」豊があげた声は、悲鳴に近かった。


       *  *  *


 御前会議は続く。天皇は言った。

「――この際、私の出来ることは何でもする。国民は、何も知らないでいるのだから、動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることが良ければ、いつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海軍大臣はその心持ちをなだめるのに相当困難を感ずるであろうが、必要があれば私はどこへでも出かけて、親しく説き諭しても良い。内閣には至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」

 天皇が口を閉じ、参列者は全員起立した。

 鈴木総理がかしこまりながら、声を上げた。「ありがたくも拝しました御聖断の通りにいたします」

 この時、日本の戦争終結は決定した。


       *  *  *


 凄まじい銃撃が、豊たちを襲っていた。相手は次第に瓦礫から瓦礫へと近づきつつあった。

「私にも何か武器を」豊が言った。

 西村曹長が、腰から南部一四式拳銃と弾倉を抜いて渡した。

 この距離では、拳銃は中々通用しないが、豊はそれでも狙い定めて撃ち始めた。

 戦闘の中で、江原上等兵、佐野上等兵が倒れ、残るは豊と西村曹長、結城上等兵だけになった。

「曹長殿、弾薬が残りわずかです」結城上等兵が悲壮な声を上げた。

「江原と佐野の残りを使うんだ」結城も豊も、二人の亡骸が握る歩兵銃を取り上げた。

 この時、数台の軍用車がうなりを立てて近づいてきた。拡声器で何か叫んでいるのが聞こえる。

 双方とも、銃撃を止め、耳を澄ました。

「……岡田陸軍大尉並びに配下の分隊に告ぐ。攻撃を止めよ。天皇陛下より武装解除の詔が発せられた。陛下の御命令である。ただちに攻撃を止めよ」

 今の豊には、それは天使の奏でる美しい音楽であるかのように甘く響いた。戦争が終わったのだ。三台の軍用車両が停まると、相手方の兵士は皆、姿を現し、まるで荒れ野に土筆が生えるようにひとり、またひとりと瓦礫から立ち上がった。

 豊も土嚢の影から立ち上がった。と、その時――

「伏せろ」西村曹長が叫ぶなり豊に飛びついた。銃声が一発鳴り、西村の背中が爆ぜた。岡田陸軍大尉が憎々しげに豊に銃を向けていた。

「やめんか」軍用車から降りた将校が怒鳴り、後ろに続いた歩兵たち十数名が、一斉に岡田大尉に銃口を向けた。岡田大尉は豊を睨みながら、銃を落とした。

「西村曹長」豊が、自分にすがりながらずるずると崩れ落ちていく西村曹長の体を抱きとめた。背中からあふれる血で軍服が染まっていく。豊はそっとその体を地面に横たえた。

「関……」西村曹長の顔がこわばり、ぶるぶると震えた。

 豊は最後にどうしても聞いておきたいことがあった。「西村曹長、私を憎んでいますか」

 西村は首をかすかに横に振った。そして「……日本を……立派にしてくれ」そう言うと、事切れた。


16


 一九四五年八月十五日。ラジオで、朝から何度か、正午から天皇自らによる重大な放送を行うため、国民は全員それを聞くようにというアナウンスが流れていた。こんなことは初めてである。

 正午になり、全国民が耳を傾ける中、それは放送された。まず情報局総裁が、この放送について説明し、続いて君が代が流れた。その後、天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を約四分間にわたり読み上げた。


 豊は、それを、総理官邸の迫水内閣書記官長の部屋で聞いていた。だが、聞いてはいても、どこか上の空だった。

 これで日本の壊滅だけは防げたと思った。だが、二発の原爆という高い代償を払った。その他に、ほぼ敗戦が決まった後も、一連の戦地で、数え切れないほどの血が流れた。

 最善を尽くしたつもりではあるが、それでもまだ、何かできたのではないかという疑問が、心の中で、あぶくのように浮いては消える。

 放送が終わった後も動かずにいると、迫水から声をかけられた。

「関君、ありがとう。君はすべきことをしっかりとやってくれた」

「やめてください。私は、そうは思えないのです。しかし、今はそう思いこむようにしないと亡くなった方たちに申し訳ないような気がして」

 豊は本当は泣きたいのに、涙が出なかった。


(了)


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― 新着の感想 ―
[一言] 歴史が好きな方とお見受けします。夜が明けることの無い原爆投下前夜の暗い部分がすばらしいと思います。 次の作品が楽しみです。
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