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「え? だって公爵家の方でしょう」
ヴォーリッツ公爵は先々代皇帝の妹姫の血を受け継ぐ家柄だったはずだ。皇帝とは薄いとはいえ親族にあたるはずの一族が、他の貴族たちに知られていないなんてことがあるのだろうか。クレメーヌが内心で首を傾げていると、アンニがあっけらかんとその答えを紡いだ。
「公爵家と言いましても没落寸前の方ですしね。姫様が羽織ってらっしゃるそのリッツ織物だって、十数年前まで市場で羽振りを利かせておりましたが、ゴルディ商会が安価の織物を売り出すようになってからというもの下火になって、今ではほとんど市場に出回っていないらしいですよ」
「そうだったの? 確かにリッツ織物は丈夫で長持ちする分少し値が張ってしまうものね」
クレメーヌは肩にかけている幾何学模様の草花が織り込まれたショールを軽くなでた。裏目を見せないように二重に合わさっているため、肩にずっしりと重みがくる。だが、柔らかな手触りにいつまででもなでていたくなるほどだった。
「でも全然知らなかったわ。アンニ良く知ってたわね」
「姫様は公国のヤギたちに夢中ですからね」
ふふっと、楽しそうに笑うアンニを見てクレメーヌは頬を膨らませる。
「まぁ、失礼ね。私だってヤギ以外にも注目しているものはあるわよ」
「なんですか?」
いつも一緒にいるからと言ってもすべてがわかるわけではないらしい。アンニの茶色の瞳が丸く見開いた。クレメーヌは身体を仰け反らせながら満面の笑みを侍女へ向ける。
「バーレ産の紅茶に牛の乳で作ったバタークッキー。それとケーキ。あぁ! もちろんゴルディのショコラはまだまだ大注目よ」
「……食べ物ばかりですね」
アンニが胡乱な眼差しを向けてくる。クレメーヌは、侍女の的確な突っ込みに顔を上気させた。
「い、いいじゃない。好きなんだから。我慢して美味しいものを食べないなんてもったいなさすぎるわ」
気恥ずかしさにあらぬ方向を向いて言い放つ。アンニの嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふふ。それでこそクレメーヌ様です」
「そうよ。私は周りになんて言われようと食べたいものを食べるんだから!」
握り拳を作り力説していると、隣でアンニがパチパチと手を叩く。ふいに可笑しさがこみ上げてきた。アンニと目が合い、どちらからともなく笑い出す。二人の声が廊下に響きわたった。
そんなことをしている間に気がつけば、レオノーラの部屋の前にきていた。クレメーヌが滞在している部屋と同じように、彫刻のある扉の両脇には庭園で咲いていたアーモンドの花が花瓶に活けられていた。クレメーヌが淡い桃色の花に和んでいると、アンニが扉へ近づきノックをしようと手をあげる。だが、その前に扉が開き、中から若い男の声が聞こえてきた。
「じゃあなレオ……お前もさっさと執務室戻って仕事しろよ!」
「……ぃ! ぉ……に………ぅ!」
「あーはいはい。そんなに怒るな、せっかくの顔が台無しだぞ」
(レオってレオノーラ様のことなのかしら?)
アンニがいるために中の様子が見えないが、男は扉の前に立っているアンニの存在に気づいていないようだ。レオノーラらしき女性の声はよく聞こえないが、話を止めることなく続けていた。
「あ、あの!」
立ち聞きしていたなどという不名誉なことを言われたくなかったのだろう。アンニが大きな声をあげた。
「先触れも出さずに申し訳ありません。わたくしはドゥラグーン公国第三王女の侍女で……」
早口でまくし立てていたアンニの声が途切れ、クレメーヌは首を傾げた。何があったのかと侍女の背後から室内を覗き見て、目を見張る。
「……皇帝、陛下」
直角に曲がったままの状態で顔だけをあげ固まっているアンニの前に、先ほど庭園で会ったばかりのグラジスドラコ帝国皇帝が口をあんぐりと開けて立っていた。
(蒼灰色っていうけど、そこまで蒼が濃いわけじゃないのね)
庭園で見たときは確かに帝国の始祖、ラウリヴォルフ一世と同じ蒼灰色に見えたが、気のせいだったようだ。未だに固まったまま動かない皇帝の瞳は、光の加減で蒼灰色に見える程度というものだった。
(これだったらレオノーラ様の瞳のほうが、って蒼灰色を持つのは皇帝陛下だけだったはずじゃ?)
降って湧いてきた疑問に内心で首をひねっていると、部屋の中から小さな足音が聞こえてきた。
「どうしたリーン。さっさと……げっ」
(リーン? げっ?)
皇帝の後ろからこの部屋の主、レオノーラが顔を出す。立ち姿も可憐なレオノーラだったが、どこか茶会で会ったときの印象とは違ったように思えクレメーヌは戸惑った。
「あのレオノーラ様ですよね?」
「あぁ、ん、ううん。はい。私に何かご用でしょうかクレメーヌ様?」
レオノーラがわざとらしい咳払いする。そして何事もなかったかのように微笑んできた。クレメーヌは明らかに様子のおかしいレオノーラをジッと見つめる。なぜかすぐに視線を逸らされてしまった。仕方がないので、先ほどから一言も言わずに立ち尽くしているもう一人の当事者である皇帝へと目線を移す。しばらく見つめ合う形となったのちに、皇帝がためらいがちに口を開いた。
「……こちらには何用で参ったのだ?」
クレメーヌは不躾な態度を取っていたことに気づき、慌てて弁解を口にした。
「あ、はい。あ、あの、一緒にお茶でもどうかなと思いまして……その、さっきの執務室とかレオとか、リーンってなんのことですか?」
何も聞いていない振りをしようかとも考えたが、あからさますぎる二人の態度にクレメーヌは彼らが何を隠しているのか知りたくなった。
「やっぱり聞いていたか……」
茶会で話した口調とはまったく違うレオノーラの姿にクレメーヌは瞠目する。だが、それでもレオノーラの可愛さは損なわれておらず。クレメーヌは頭を指先で支えながらうなだれるレオノーラを微笑ましく眺めていた。