第三章 迷子になる条件を満たした結果 <2>
「やだ、どうしましょう。レオン様の元に戻るはずだったのに」
少しだけ驚かそうと、レオンから離れていたことをすっかり忘れていた。現在地がよくわからない状態では戻るに戻れない。途方に暮れるクレメーヌの鼻に先ほど香った匂いがまた運ばれてきた。クレメーヌは、花の蜜を探す蜂のようにふらふらと足を動かす。
洗練された建物があったさっきまでの場所とは違い、古臭い木造の建物がよく目についた。壁にガラスはなく、小さな木枠がいくつかある。そのすべてに鎧戸がつけられ、開いている家もあれば閉まったままの家もあった。人の行き交いもまばらで、なんだか物悲しい。
「あそこの窓からだわ!」
鎧戸が開かれたところから湯気がゆらゆらと立ち上っていた。クレメーヌはそっと近づき、中を覗く。そこには長袖シャツの上に赤茶色の膝丈チュニックを着た十歳くらいの少年が大きな鍋を掻き回していた。身体全身を使って混ぜる姿は、何かの拍子でそのまま鍋の中に入ってしまうのかと思うほどで。クレメーヌはできるだけ驚かせないように、優しく声をかけた。
「あの、すみません。この甘い匂いはなんですか?」
声に反応した黒髪の少年が、おもむろに顔をあげる。ニカリと歯を見せて笑う顔から、釣り気味の瞳がなくなり、えくぼができた。
「アンコだよ」
「え? アンコ? シャオスィの中に入っているアンコのことですか?」
まさかこんな場所でその名前を聞くとは思いもしなかった。クレメーヌは目を見開き、まじまじと鍋の中を見つめる。たしかに鍋の中には黒っぽい豆のようなものが混ざり合っていた。だが、店で食べた真っ黒なアンコというよりは、紫に近いようにも見える。
「姉ちゃん、シャオスィを知ってるのか?」
「ええ、さっきカフェ・グスティでいただいてきたばかりだから」
興味津々と親しげに話かけてきた少年の態度が一変する。
「あんたカフェ・グスティの手のものだな。知らない振りしやがって、騙されないんだからな!」
「え? 私は別に」
睨みつけ、怒鳴ってくる少年にクレメーヌは戸惑った。しかし反論は許さないとばかりに、少年が詰め寄ってくる。
「どっか行けよ! あんたに見せるもんなんか何もねーんだ」
怒りを露わにし、木枠の鎧戸を閉めようとする。だが、クレメーヌが立っているせいで閉めることができない。少年が腕を押してきた。華奢な子供の力に負けるような体格をしているわけではない。だが、鍋にぶつかりそうなことを厭いもせずに必死で追い払おうとしてくる少年に、クレメーヌはハラハラした。
「あ、ちょっ、わ、わかったから押さないで、危ないわ」
腕を伸ばし、なんとか少年を落ち着かせようと試みる。しかし頭に血がのぼっているのだろう。サラサラと揺れる短い黒髪を振り乱し、肩を勢いよく押された。
「どいてくれ、もう二度と来るんじゃねー!」
「きゃー」
渾身の力を込めて押し出され、クレメーヌはたたらを踏みながら数歩下がる。思った以上の勢いにバランスを崩した。
「メーヌ!」
「あ、レオン様」
尻もちをつくことなく助けられ、ホッと安堵する。顔をあげると、レオンの眼差しが鋭くなっていくのが見えた。
「きさまっ!」
「レ、レオン様待ってください。レオン様のおかげで転ばずに済みましたから」
子供相手に拳を出しそうなレオンを宥めすかしていると、嫌悪感を露わにしたままの少年が木枠から顔を出した。
「なんだ、兄ちゃんもカフェ・グスティの手下なのか!」
少年が鼻に皺を作り、牙をむく。だが、レオンは振り上げた手をそのままに固まってしまった。
「……兄ちゃん……おい、お前、俺が男に見えるのか?」
きっとこの言葉の真意がわかるのは自分くらいだろう。案の定少年は頭がおかしくなった人でも見るかのような眼差しをレオンに送った。
「はぁ? 当たり前だろう」
「そうか……」
(レオン様ったら気にしないなんて言ってたのに……)
恋人が嬉しそうに顔を綻ばせる。男に見られて喜ぶレオンの姿を微笑ましく思う。それと同時に、抱えている劣等感の深さを改めて教えられた気がした。
「そんなことはどうでもいいんだよ! グスティの回し者ならどっか行ってくれ! おれはお前らのボスのところでなんて働く気もこの家を売る気もないんだからな!」
少年の啖呵に、レオンと目線を交わす。意図がわからず、二人で同時に首をかしげた。
「どういうことだ? 俺たちはカフェ・グスティに行った帰りにここへ来ただけだぞ」
「そんなウソ言ったって騙されないからな!」
「本当よ」
クレメーヌは信じようとしない少年に両手を合わせ、訴えかける。少年の茶色い切れ長の瞳が微かに揺れた。
「ふむ。何か事情がありそうだな。話してみろ。力になってやれるかもしれないぞ」
レオンが少年と向き合って言った。少年はレオンの提案にためらっているようだ。クレメーヌは少年の背中を押すように微笑みかけた。




