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(はぁ。なんとか退出できた)
あのままあそこにいたら、と考えるだけで恐ろしい。クレメーヌはぶるると身を震わした。
「クレメーヌ様、寒いのですか?」
アンニが息を切らせながら訊いてくる。レオノーラの部屋から逃げ出したい一心で、駆け足に近い早歩きをしていたようだ。クレメーヌは歩調を緩めた。
「寒いわけじゃないわ。帝国の機密情報をこれ以上知りたくなかっただけよ」
アンニを安心させようと、口角をあげる。しかし未だに引きつったままのぎこちなさを残している頬は、思うように動かなかった。
「よくわかりませんが、体調が悪くないのならよかったです」
「えぇ。逃げてこられたから問題ないわ」
困惑した様子のアンニへおどけるように肩を竦めくすりと笑うと、息を調えた彼女の顔が緩んだ。
「それにしても無我夢中で歩いてたみたいね。こんなに早くここまでこられたのは記録ものだわ」
脇目も振らずに進んでいたためか、気づけば次の角を曲がれば自室戻れるところまできていた。
「ねぇ、アンニ。さっきの話なんだけど……」
「姫様、良いのですか? このような誰が通るともわからない場所でその話題を口にして」
部屋が近づいた安心から口を開くと、アンニが小声で諌めてくる。
「ああそうね。ごめんなさい。でもちょっと気になって……」
「何をですか?」
周囲に人の気配がないからと大目に見てくれるらしい。アンニが続きを促してきた。
「ミクたちのご飯のことよ。確か去年、ヒューバー領から買い取ったトウモロコシって例年通りだったわよね」
さっきレオノーラの部屋で聞いたときは、帝国の裏事情を知ってしまう状況に戸惑うばかりだった。しかし自分のテリトリーとも呼べる部屋へ近づくとともに、退出直前に聞いた話が脳裏を掠めたのだ。
「そうですね。むしろ、少し多めに買えたからと父が喜んでいた記憶があります」
アンニの父、アーネ・ボニージャは国の重鎮であり、財務の長でもある。厳しい財政の中、いかに国を回していくか。日々頭を悩ましている彼の喜ぶ姿を想像し、クレメーヌは笑みがこぼした。
「いつも眉間にシワを寄せているアーネの肩の荷が少しでも軽くなって良かったわ。……って、そうじゃないのよ。うちがたくさん仕入れちゃったってことは、ただでさえ不作だったのに我が国を優先してくれたってことでしょう? 知らなかったとはいえ、そのせいで帝国の民に迷惑がかかってしまうのは申し訳ないわ」
まさかとは思うが、こんなことで帝国が不興を買ってしまったらと思うと不安なる。
「ああ、なるほど。ですが、公国への輸出はヒューバー家と帝国が考えた上でお決めになったことでしょうから姫様がそのように悩まれる必要はないのでは?」
「……そうかもしれないけど」
それでも釈然としないのだ。知ってしまったからには何か自分にできることはないかと考えてしまう。たとえそれが取るに足らないことだとしても、公国の第三公女として国民が理想とする人間でなければならないのだ。
(今さら返却することってできるのかしら?)
しかしそれだとヤギの餌が少なくなってしまう。順調にヤギの頭数が増えている現状で、トウモロコシを減らすことは避けたい。餌のすべてがトウモロコシというわけではないのだが、それでもトウモロコシが占める割合は高い。
(何よりトウモロコシを食べるようになってからお乳の出が良くなったってお父様もおっしゃってたし)
それならばどうするか。クレメーヌが歩きながら考え込んでいる間に最後の曲がり角に差し掛かった。
「姫様」
アンニの声に顔をあげる。
「あれは、マリヤーレス様?」
向こう側からマリヤーレスが近づいてくるのが見えた。
「私に用なのかしら?」
「そうかもしれませんね」
マリヤーレスの部屋はこの廊下を使わないはずだ。にも関わらず彼女がここにいるということは、きっと自分に用があったのだろう。クレメーヌはそう判断した。しかし、一対一で話したこともないマリヤーレスの用件を想像することはできなかった。
「聞いてみればわかることよね。それに、今がチャンスかもしれないわ」
お誂え向きに彼女は一人だ。今ならトウモロコシの件について話せるかもしれない。打開策は見つかってはいないが、せめて礼だけでも伝えておくべきだろう。クレメーヌは彼女へ近づこうと少し速度をあげた。
「何がです? え? あ、クレメーヌ様お待ちください」
後ろから慌てたようすでついてくるアンニの声が聞こえてくる。クレメーヌはそれを無視して、ズンズンとマリヤーレスの元へ歩を進めた。
「こんにちわ。マリヤーレス様。ここ私の部屋の近くなんですけど、何かご用ですか?」
元気よく話しかけたが、勢いがよすぎたらしい。目を丸くし頬を引きつらせ、後ずさられた。
「やっぱりいないと思ったら……あなた今まで、皇帝陛下とお会いになっていたんですってね! そんな抜け駆けが通ると思ってらっしゃるの!」
マリヤーレスが指先をつきつけ高飛車な態度をとってくる。
「いえ、そのようなことは……私はレオノーラ様の元へ行っていただけで」
「言い訳は結構よ。いくら公国の姫だからって自分勝手になんでもできるだなんてお思いにならないで! それを伝えたかっただけですわ」
気迫に負け何も言えずにいると、マリヤーレスがふんと鼻を鳴らして踵を返そうとする。クレメーヌは慌てて彼女を引き止めた。




