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庭園へと続く部屋へ足を踏み入れると同時に、クレメーヌは感嘆のため息を吐いた。
ダンスホールと見紛うほどの広さを持つ部屋の床には、寄木でできた幾重もの草花が描かれている。絵画のような床に、クレメーヌは靴で踏んでしまうのをためらった。それでもここを通り抜けなければ、目的地である庭園にたどり着くことはできない。クレメーヌは意を決し、モスグリーンのスカートの裾を摘まんだ。
広い室内にカツン、カツンとクレメーヌと侍女の足音が響き渡る。中庭へと続く壁一面には、大きなガラスがいくつもはめ込まれており、太陽の光が等間隔に吊されているシャンデリアを照らしていた。
(うわぁー! こんな透き通ったガラス、初めて見たわ)
故国であるヴィルデュハグーン公国では、こんな高度な技術を要するガラスを惜しみなく使っている場所などない。一応、公国にもガラスというものはある。だが、外の景色が容易に見えるものではなく。ぼやけた景色しか見えない、くすんだガラスだった。
(さすがは『龍の鉤爪』と呼ばれるグラジスドラゴ帝国だけのことはあるわね)
大陸に聳え立った連邦を、寝そべる龍になぞられているドラスローブ大陸がクレメーヌの故国と帝国がある場所だ。各国にはその龍の身体にあやかって、二つ名が存在していた。
クレメーヌの故国、ヴィルデュハグーン公国は『龍の宝玉』という大層な名を持つ。しかし、周りを山に囲まれているため帝国から攻められなかっただけの小国だ。自然豊かな公国の歴史は帝国よりも古く、それゆえ民との距離も近い。片やクレメーヌが現在いる帝国はといえば、他国を侵略し続けその民を支配している独裁国家だ。
(はぁー。なんで私、こんなところにいるんだろう。絶対に場違いだわ……)
公国の城とは何もかも違う。洗練された調度品はもちろんのこと、高価なガラスが中庭へと続く壁一面に惜しげもなく使われていることにクレメーヌは怖じ気づいた。その時だ。
「まぁ、マリヤーレス様ったら、うふふ」
窓ガラスの向こう側から小鳥のさえずりのような笑い声が漏れ聞こえてくる。それはただでさえ遅くなった足取りを止めるには充分なものだった。
(はぁー。行きたくないなぁ)
この向こう側で、茶会という名の女の戦い行われていると思うだけで憂鬱な気分になる。
クレメーヌの元へ帝国皇帝の妃候補に選出されたとの知らせがきたのが半年前。それからあれよあれよと言う間に月日は流れ、クレメーヌは家族に生暖かい目で見送られながら帝国へとやってきた。自分を含め五人の候補者がこれから数週間かけて、一つしかない正妃の座を巡って戦わなくてはならないのだ。
(なんで私が候補者に選ばれちゃったんだろう)
ただ歴史が古いだけで、力など持たないから影響力がないとみなされたのか。自分以外の候補者はすべて帝国内の有力貴族たちの娘で、各人系統は違うもののかなりの美少女揃いだと聞いている。そんな中に入っていかなければならないのかと、クレメーヌは考えるだけで気が滅入って仕方なかった。
「クレメーヌ様、どうなさいました?」
急に動かなくなったこちらの行動を不思議に思ったのか、後ろからついてきていた侍女のアンニが首をかしげて顔を覗き込んでくる。丸い茶色の瞳の下にある小ぶりな鼻の上には、薄茶色のそばかすが散りばめられていた。
「クレメーヌ様、行かないのですか?」
「行くわ。行くけど……」
赤茶色のおさげを揺らしながら訊いてくる故国からついてきてくれた侍女の声に、クレメーヌは床に貼りついた足を動かそうとする。だが、窓に映ったモスグリーンのスカートをギュッと握るずんぐりとした自身の姿が目に入り、クレメーヌはため息をついた。
「ねえ、アンニ。やっぱり私、このまま帰ったほうがいいと思うんだけど……」
「何言ってるんですか、ヴィルデュハグーン公国第三公女であるクレメーヌ様が茶会を不参加なんてダメに決まってます」
ガラス越しに映るクリーム色のお仕着せを着たアンニが腰に手をあて、諫めてくる。しかしクレメーヌは、素直に頷くことができなかった。
「公女って言ったって、ここに比べたら小国だし。何よりこんなんだし……」
窓ガラスには、実年齢よりも幼く見えるアンニと自分の姿が映っている。たしか、自分より一つ年上の十七歳なはずだが、どう見ても十四、五歳くらいにしか見えない。クレメーヌは、身長はそれほど変わらないのに横幅が彼女よりも一回り近く広がっている現実を再認識し顔をしかめた。