赤の荒野
「やっと見えたぜ」
疲れを押して歩きつづけた岩山の地。その北限近くの頂に立った時、ファバの目に彼方まで続く赤い大地の光景が飛び込んできた。
赤の荒野と呼ばれるあの中にさえ入ってしまえば、棒になりかけた足をようやく休める事ができる。
そのような考えがよぎり小さな喜びを覚えていたのは何も彼だけに限っての話ではない。
「もう一踏ん張りだな」
太陽の高さを確認するディオンの頬が自然と緩む。
日が暮れ切るまでの時間はまだ残されており、麓まで下りてしばらく奥へと進むだけの猶予もあろう。
無理をして歩いてきた甲斐はあったようだった。
「あれが見えるか?」
気持ちが休息へ向かっている者を尻目にマルフスが東の片隅を指す。
そこには空の青と大地の赤に混じり、異質に色づく一帯が存在した。
「『歌い木の樹海』。あの樹海に沿って北へと進む。三日もあれば赤の荒野を抜けられるはずだ」
「三日ね……。お前達も頑張ってくれよ」
デリシャ人の男はそう言って引いてきた獣の首すじを軽く叩いた。
馬というのはよく食べ、よく飲む生き物である。
しかし運べる荷には限りがあり、飼い葉や水樽をいくつも背負わせるわけにもいかない旅路では道中の自然を頼りとするところが大きい。
不毛の荒野を幾日とかけて通るならば、馬にも我慢を強いる必要があった。
「あっちの森に立ち寄れたらこいつらの負担も少しは軽減できそうなんだがな」
ガドーが呟くように漏らすと、灰色肌の小男は表情を険しくした。
「マルフスの話を忘れたか? 樹海に住まう者達は余所者を決して受け入れない。あそこはうかうかと立ち入っていい場所なんかじゃない」
「わかってるって。そうできればっていう話だろ」
歌い木の樹海には『甲躯人』と呼ばれる蛮人が住み着いており、極度に余所者を嫌う彼らは壁の民とすら交流を持たずにいるという。
マルフスにとっても言葉の通じぬ相手であり、そんな者達の領域に入り込もうなど考えられない事だった。
一行を率いる立場にあるレグスとて様々な懸念はあれど最終的には樹海を避けて不毛の荒野を通るという選択をしたのである。
「馬鹿な話だ。そんな無駄口を叩いても意味がない。それよりもお前達には先にやるべきことがある」
栓のされた木筒を手にしながらマルフスは言う。
「そろそろ使い時だ」
「そいつは……」
ガドーの問うような視線に小さな壁の民は嬉しそうに笑顔を返した。
「マルフス特製の虫よけ薬だ」
赤の荒野を通ろうとするなら人の身にあって最も気をつけねばならないのは獣や魔物の類などではなく、毒虫の存在であった。
特にそこかしこの穴より湧き出してくる凶暴な毒蟻は厄介極まりなく、対策もせずに足を踏み入れた者は一日と持たずにその餌食になるという。
そしてそうならぬ為に用意していたのがマルフスが手にする虫よけ薬である。
「ちゃんと人数分用意してる。ほら、お前達の分だ」
小男は木筒を配ると、その中身を首筋や手足に塗り付けるよう指示した。
言われたようにしようと木筒の栓を抜けば途端に強い刺激臭が周囲にまで広がる。
「うっ、こいつは強烈だな」
「うげっ、鼻が潰れそう」
あまりの異臭に顔をしかめるガドーとファバ。
べルティーナなどは嫌悪感を隠さず不満を口にする。
「ひどい臭い。こんな物を肌につけろって言うの?」
「このニオイは薬が良く出来てる証拠だ。文句があるならつけなくてもいい。ただし毒蟻の群れを一日中相手することになる」
音もなくたかる小さな虫を相手に剣を振り回して追い払うわけにもいかない。魔法を使って虫よけを試みるにしてもどれだけの魔力を消費することになるものか。
現実的には不快な臭いを我慢し渡された薬を使用するのが一番の選択肢である。
「覚悟を決めるしかねえな」
渋々ながらもガドーは木筒を傾けた。
中からは少し粘り気のある透明の液体が垂れ出てきて、それはひんやりと冷たく肌を刺激したが、特別不快感を覚えるようなものではなかった。
臭いさえ我慢できれば何の問題もない。レグスなどはまるで気にするそぶりすら見せずに黙々と薬を使っていた。
そうした姿を横目に他の者達もそれぞれ覚悟を決める。
「本当に最低の気分」
薬を塗りつけていくあいだ相も変わらずべルティーナは不平を口にしていたが、それでも彼女は自らの意志でそうするだけ扱いやすい方で。
「こらっ大人しくしろよ」
ガドーが馬にも虫よけ薬を塗ってやろうとすると、四足で歩むその動物は体をよじり地面を踏んで抵抗した。
他へと目を向ければ賢く我慢強いフウバですら嫌がるそぶりを見せている。
馬の嗅覚は犬ほどではないにしても常人のそれよりもずっと敏感であり、彼らにとって薬の異臭は人間以上に苦痛を感じるらしい。
それでも薬なしには赤の荒野は越えられない。
「肉体があるといろいろ大変ねえ」
霊体のセセリナが他人事のように眺める中、ガドー達はカムの手を借りながらもどうにかこうにか虫よけ薬を馬に塗っていく。
その作業には山歩きとは違った苦労があり疲労をさらにためる結果となったが、かといって一休みしている時間もない。
準備を終えるなり彼らは岩山を下らねばならなかった。
「ほらほら出発よ」
楽々と浮遊する精霊を傍らにレグス達は移動を再開する。
その足がようやく止まったのは岩山を越え、荒野へと入った後。赤い大地に夜が訪れてからの事であった。
「これ以上はもう無理だ……」
経った時間はわずか一日といえど、テサルの街を離れてからどれほど歩いたものだろう。
倒れ込むようにして地面へ腰をおろすファバ。日頃強がるばかりの少年が思わず弱音を吐くほどに今回の移動はきついものだった。
ぐったりとするその姿を見下ろしながらディオンとガドーの二人が口を開く。
「これだけ無理したんだ。ゼティス教徒の連中もさすがに追いきれやしないだろうよ」
「そう願いたいもんだぜ」
移動距離を別にしても赤の荒野には危険な毒虫が生息しており、その虫よけの知識は誰しもが会得しているわけではない。ゼティス教徒がこの荒野へと踏み入るのは簡単なことではないだろう。
それでも一行を率いるレグスに楽観めいた色はなかった。
「予定通りに赤の荒野に入れたのは大きい。だが追手があろうとなかろうと見張りを疎かにはできない。疲れもあるだろうが、今夜の見張りもいつも通りにいく」
「いつも通りでいいのか?」
カムが疑問を呈せば肯定の言葉が返るよりも早くにセセリナが口を挟んだ。
「いいわけないじゃない。レグス、あなた今夜の見張り番はナシよ。他の誰かに代わってもらいなさい」
旅さなかに必要となる夜中の見張り、その役目をレグスはなるべく自らが務めるようにしていた。
いつも通りとは『ひとり二角の砦へと攻め入り、それから眠らずに歩き続けて岩山ではキマイラを相手した男』に今夜の番をやらせるという事になる。
途中で交代があるとはいえ、セセリナが反対するのも当然の話だった。
「余計な心配はするな。自分の状態ぐらいは把握している。見張りをするぐらい何の問題もない」
「あのね、そうやって無理をしようとして、それで危ない目にあうのはあなただけじゃないのよ。壁の地で何があったか、忘れたわけじゃないでしょうね」
壁の地での激戦ではレグスは魔剣の力に呑まれかけ一時正気を失っていた。
あれは肉体的疲弊もあっての暴走。魔剣の力を頼るとは常に危険がつきまとうものであり、万全の体調ならば安全などというものではないが、出来るだけ体力を回復させておくことに越したことはない。
「とにかく今夜はよく眠ることよ。それがあなたが一番にすべきこと、わかったわね」
子供を叱りつけるかのような口調で古き精霊はそう言い切った。
そんな彼女にディオンも同意する。
「セセリナの言う通りだな。昨日今日と無理をさせたんだ、今夜の見張りぐらいは俺達だけで何とかするさ」
彼らとて疲れがたまっていないわけではなかったが、この程度の代わりも果たせぬのならばレグス頼みが過ぎるというもの。
その認識はカムにも共通しており、彼女は説得の言葉を重ねた。
「これだけ開けた場所だ。星光露を使えば万が一の見落としもないだろう。それにライセンもいる」
「私も手伝ってあげるわ」
面倒な役目にもめずらしくやる気を見せる精霊。
皆にそこまで言われては、もとより他人の力を当てにしない質の男も観念するしかない。
「わかった。お前達に任せる」
獣の寄る気配はなく、虫の鳴く声すらもしない。赤の荒野で過ごす夜は静かなものであった。
魔物や追手の影など見えはせず、カム達の警戒など無駄骨かと思えてしまうほどただただ時間だけが流れていく。
気を抜けば魔境の地であることを忘れてしまいそうな夜。
むろんそれはここが呪い毒された土地であるからこそのものであったのだが、いかなる理由があるにせよ疲れ果てた体にはその静寂は有難いものだった。
見張り役を免除された男は深く眠りを貪り、翌朝に備えることができたのである。




