侵入者
大犬岩の地での戦い、その決着がついた夜。
二角の砦の主ルオンドールは私室の窓辺に腰掛け独り思考を巡らせていた。
無論その脳裏にあるのは件の戦いやそれに関わる今後についての対策であり、それが好ましいモノになるはずもない事は他ならぬ彼の置かれた状況こそが物語っている。
――とんだ失態もいいところだ、まさか北の異端者どもに二度もしてやられるとは。
予定の時刻を過ぎても一騎と戻らぬ騎兵隊。それが意味する事に気づけぬほどルオンドールも鈍くはない。
事前の命令を無視し、ゴンゾ達が追撃に精を出しすぎて砦へ戻るに戻れなくなったという可能性もないわけではなかったが、だがそれはあまりに希望的観測すぎるというもので現実的には彼らは異端者との戦いに敗北したのだと判断せざるを得ない。それも深刻な痛手を負う大敗であると。
――ゴンゾのやつめ。あれだけえらそうに言っておいて……。
胸の内で苦々しぐ吐き捨てる言葉には惜別の念などありはせず、ただただ侮蔑的な色に染め上げられていた。
たとえ古馴染みの戦士達であろうと、彼にとっては所詮手駒の一つとしか数えられていなかったのである。
だが駒に過ぎぬといえども、四十もの兵馬を一度に失うというのは二角の砦の規模を考えればあまりに大きな損失。砦長としての責任を追及される事になるだろう。
そして異端者にいいようにやられたままこれ以上何の手も打てないとなれば今の立場すらも危うくなりかねない。
早急に次の手を打つ必要があった。
――やむを得んか……。
ルオンドールは一つの決断を下して机に置かれた羽筆を手に取った。
そうして何枚かの書状をかきあげると、彼は呼びつけた兵にそれを持たせ任を与える。
「『狼の口』、『狼の背』、『白の水瓶』。各砦へ急ぎこれを届けてもらおう」
「夜明けを待たずにですか?」
問うた兵の表情が強張っていたのも無理はない。
邪悪な者達は血と夜を好む。灰の地の夜ともなればその危険はいっそうと増すのである。
だがルオンドールにとって今は夜明けを待つ時間すらも惜しい。短くとも威圧的な口調で彼は断言する。
「そうだ」
「……わかりました。すぐに出発の準備にとりかかります」
まもなくして砦より使者が夜闇の中へと放たれた。
携える書状にはいずれも異端者を誅罰するにあたっての援軍を求める旨が記されており、顔が利く他の砦長の力を借りる事によって次こそは成果をあげようとルオンドールは企んでいたのである。
そうした砦側の動きを夜陰に紛れ一つの影が窺う。
影の名はレグス。彼はさらなる夜更けを待って動き出すと砦の外壁へと忍びより、そこに垂らされていた縄に手をかけ登っていった。
「ようこそ我らが砦へ」
登った先で覚えのある声が迎える。
声を発するは内通者トリクス。すべては彼らの計画の通りに事が進んでいた。
「順調なようでなによりです。あとはあの男を始末するだけですが」
「様子は?」
「自室にこもったまま動きはありません。砦から出た早馬は見えていましたか?」
「ああ」
「あれが他の砦に援軍を求めるための使者です。任務を無事果たしたとして兵の到着は早くても明け方になるでしょう。それまではあの男も動きようがない」
「女達の方はどうなっている」
「気になりますか?」
「報酬に関わる話だ」
ルオンドールを殺害するにあたってレグスとエフモントの間にはある約束が交わされていた。
住民の保護を建前に恵与派の横暴、その生き証人を確保しようとテサルの街側はさらわれた娼婦達のうち最低限でも一人の無事を求め、対してレグスは助け出した人数に合わせて追加で報酬を支払うよう要求していたのである。
「ご心配なく。あなた方の活躍のおかげで今夜は大勢の人間が砦の警備に駆り出されています。誰も遊んでいる余裕などないので、彼女らは東の別棟に全員隔離されたまま。万が一にも戦闘の巻き添えになるような事はないかと」
「では手筈通りにいく」
そう言うと侵入の手助けをしたトリクスと別れ、レグスは砦内の何処かへと姿を消した。
それからしばらくの事。
ルオンドールの部屋を一人の兵が慌ただしげに訪れる。
「大変です、魔物がっ、魔物が砦内に侵入しました!!」
「魔物だと!? 何の為に今夜の見張りを増やしたと思っている」
異端者達がゴンゾを打ち破るだけでは満足せず万が一にも砦を襲撃してくる事を考えて警戒の度を高めていたにも関わらず、魔物の侵入を許すという失態。
砦長のもっともな怒りに兵士は恐縮した様子で報告を続けた。
「申し訳ありません。ですが気がついた時にはすでに食糧庫に侵入されており……」
「よりによって食糧庫か。それで相手はオークか、トロルか、その数は?」
「それが狼とも犬ともとれぬ奇妙な魔物が一頭だけ」
「一頭だと? では仕留め終わったのか」
「いえそれがまだ……」
「たかが化け物一頭ごときに何を手間取ってる!!」
「恐ろしく素早いやつでして手がつけられず、すでに五人も犠牲者が出ています」
青ざめる兵士の表情はルオンドールに対する恐怖によるものというだけではないのだろう。
魔境の地ではどんな化け物と遭遇しようと不思議はなく、未熟な兵士の空言とは切り捨てられない。
「くそっ、よりによってこんな時に……」
ルオンドールにしてみればゴンゾらのような腕の立つ戦士達を失ったばかりでのこの襲撃騒動。何から何まで上手くいかない気分であった。
いずれにせよこの騒ぎをおさめるには直接指揮をとる必要がある。そう判断して、彼は数名の護衛を伴い食糧庫の方へと向かう。
侵入した魔物に対応する兵士達の声が外へと繋がる二階部の廊にも聞こえてきていた。
魔境の地の夜には珍しくもない喧騒。その声に急かされて現場へ向かうルオンドール達の足が速まる。
だが廊の暗がりの先に立つ不審な影がその足を止めた。
「貴様、何者だ?」
ルオンドールの問いかけに人影が踏み出し、窓より差し入る星明りがその者を照らす。
明かりに浮かぶはフードを深く被る黒髪の男。その口がおもむろに開き、無感情な声を発する。
「お前がルオンドールだな?」
「違うと言ったら?」
「下手な誤魔化しが通用するとは思わないことだ。私はもうお前を殺すと決めている」
「物騒な話だ。だが生憎こちらとしては貴様の顔にまるで覚えがない。殺されなければならないほどの恨みをいったいどこで買ったのやら」
「お前達が突いてまわった藪の一つに蛇が潜んでいただけの事、ただそれだけの話だ。ルオンドール、お前の悪運はすでに尽きた」
侵入者の双眸にはさざ波すら立たぬような静かな殺意だけが宿っていた。
興奮もなく強い憎悪も激しい怒りもない。
不気味で異様なその立ち振る舞いに、ルオンドールはただならぬ危険を感じながらも一つの確信をする。
――この男やはり……。
異端の襲撃者。騎兵隊の大敗。魔物の侵入。
全てが偶然ではなく必然として繋がっているのなら目の前の存在もまた同じ。
事実を確かめる為にも男を捕らえて無理やりにでも情報を吐かせたいところではあったが、ゴンゾ、グゼンの隊を破り、砦の奥深くに乗り込んでくるような人間を相手にいま連れている者達程度では多少の数の差などあってないようなモノ。
下手な加減は命取りになりかねない。
「殺せ」
脅威の排除を優先しルオンドールは護衛の兵士達に命じた。
命令に従い侵入者へと斬りかかる兵士達。
されど彼らの振るういずれの剣も相手に傷一つ負わす事ができない。
対して、侵入者の振るう黒剣は軽々と兵士達を斬り伏せた。
「ぐっ……」
「ううっ……」
「つ、強い……」
廊内で斬り結ぶ者達の力量差は一目瞭然。護衛の兵士達では何度挑めたところで侵入者を捕縛するどころか討ち取る事すらできない。ルオンドールの予想は正しく数名程度の差などあってないようなもので、故に彼の次なる行動も迅速だった。
斬り合いの間にその場から逃げ出したのである。
通常ならば僅かであろうと自尊心が邪魔して動きが鈍くなりがちな逃げの一手、計算高く利己的な男は最初からそれを狙っていた。
――とにかく数だ、数がいる!!
護衛など捨て駒に使えば十分。多少が通じぬのなら圧倒的な数を用意すればいい。
砦にはまだ百人以上の兵士が残っている。その兵士達を集め合流すれば、いくら腕に覚えある使い手だろうと対抗できるはずと彼は考えていた。
「侵入者だ!! 砦に異端者が侵入しているぞ!!」
建物の二階という高さにも迷わず外へと飛び降りて大声をあげながらルオンドールは駆けていく。
彼の向かう先は既に他の兵士達が大勢集まっているであろう食糧庫付近である。
「いかがされました!! 侵入者とはいったい!?」
声を荒立て現れた砦の長に魔物退治に動きまわっていた兵士達が集まってくる。
事態を飲み込めず困惑する彼らにルオンドールは息を切らしながら説明した。
「廊内で男に襲われた、かなりの手練れだ。恐らくはゴンゾ達を打ち破り勢いそのままに乗り込んできた異端の連中だろう」
「なんと!! まさか本当にこの砦まで仕掛けてくるとは……、ではこの騒ぎもその者達が!?」
「でなければとんだ偶然もいいところだ。とにかく魔物の一頭ごときを追い回している場合ではない、急ぎ兵を集めなおせ。こちらがバラけていては各個に打ち破る隙を与えるようなものだぞ」
「わかりました!!」
ルオンドールの指示のもと砦に散らばる兵達が集めなおされる事となった。
だがその最中、さほど時間もかからぬうちに彼の周囲にいた兵士達の一部がざわめきだす。
「お、おい。あれって……」
「まさか……」
そのざわめきにつられて場の視線は一点に注がれる。
彼らが目にしたモノ、それは夜闇の先より出現した招かざる者の姿。
纏う外套を血に汚した侵入者がそこに立っていたのである。
――この男何を考えている……。
あまりに堂々とした登場の仕方にルオンドール達は一瞬固まってしまっていた。
手近にいた者が中心とはいえ、場には既に三十を超える兵士が集まっている。
時間が経つほどにその数は増す。だからこそ侵入者達が早い段階で仕掛けてくる可能性も考えてはいたが、しかしこのような形で集団の中に一人でやってこようなどとは思いもするはずがない。
警戒と戸惑いを抱きながらルオンドールはその口を開く。
「この俺によほど恨みがあるらしいな、まさかこの状況でノコノコ追ってくるとは」
何の勝算あってか、単なる蛮勇か。
疑い出せば限の無い状況のなか黙って睨み合うわけにもいかず、彼は『目の前の敵を始末する』という単純な選択を優先する。
「勢いのままこの首が取れると思ったか? ……形勢逆転だ」
無様に逃げざるをえなかった廊内での事を思い返しながら砦の主は自らの命を狙う侵入者へと告げた。
同時に周囲の兵達も臨戦態勢となる。
「一つ忠告しておく」
大勢の敵に囲まれながら黒き剣の使い手は言う。
「私が必要としているのはその男の首だ。死にたくない者はそこで大人しくしていろ」
三十対一。傍から見れば戯言ととしかとれぬような忠告だった。
されども馬鹿げているはずの言葉がどこか不気味に聞こえてしまうのは、侵入者の醸し出す尋常ならざる気配のせいだろう。
経験の浅い者ほどそうした空気にのまれやすい。
要らぬ言を交わせば交わすほど兵士達に迷いが生まれるだけ。ルオンドールは鋭く強い口調で彼らに命じる。
「くだらん駆け引きだ。殺せ!!」
砦に残る兵の中では比較的勇敢といえる者。七、八名ほどの男達が先んじて動いた。
四方より斬りかかる敵に対して侵入者の男は下手に動きまわるような真似はせずその場にて迎えうつ。
歩幅は最低限。受けて、流し、避けて、斬る。
廊内での戦いがそうであったように砦の兵士達は傷一つ負わす事ができず、ただ死体の数だけが増える結果となった。
「どいつもこいつも……」
その戦況を見つめながらルオンドールは吐き捨てる。
いくら数で圧倒しようとこの有様では最終的にどれほど甚大な被害が出るかわかったものではない。侵入者達の戦力の規模が正確にわからぬ以上、それは避けねばならない事態。
単なる斬り合いに見切りををつけて彼は再度命じる。
「弩兵!!」
ルオンドールの声に従い何人もの兵士がいっせいに射撃武器を構えた。
それは砦内に入り込んだ魔物をしとめる為に用意していた物だったが、斬り合いが駄目なら射殺すまでの事。人も魔物もそこは同じ。
場には射線を遮る壁などありはせず、この距離この数では外しようがない。
必殺の戦法。
指揮する者をはじめ誰もがそう思っていた、ただ一人標的となる男を除いては。
「放て」
何本もの矢が弩より射出され、直後に撃音が鳴る。
同時にルオンドール達は目前の光景に言葉を失った。
――なんだと……。
腕に覚えのある者ならば一矢、二矢と切り落とす事は可能だろう。あるいは周囲の壁や物を盾として使い防ぐ者もいよう。
だが目の前の光景はそれらとは次元が違っていた。
わずか一振り。鋭さを増した黒き剣の一閃が幾本もの矢を打ち払ったのである。
「下手くそどもが、どこを狙っている!! この距離から外しすぎだ!! 役立たずどもめ!!」
ルオンドールの怒声が飛ぶ。
彼は事実をわざと否定してみせねばならなかった。夜闇のせいで見紛ったのだと主張せねば、未熟な兵士達はその圧倒的な力量差を自覚して動けなくなってしまう。
「お前らもなにをボサっとしている、たたみ掛けて斬り殺せ!! 命令違反は全員打ち首だぞ!!」
半信半疑となり迷う兵士達を衝き動かすのは思考停止にも似た義務感と日頃より染みついた恐怖心。
唖然とし固まりかけていた男達が命令されるがまま再び侵入者へと斬りかかる。
「殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!」
祈りや願望にも似たルオンドールの声。
そんなものも空しく、荒々しく力強さを増した黒剣は兵士達を鎧ごと叩き斬り骸へと変えていった。
――なんだ……。なんなんだこれはっ……。
防具を纏う人間がボロ切れのように斬り飛ばされていく。
兵士達の剣技が未熟であるからとか、相手が優れた使い手であるからとか、もはやそうした度合いの話ではない。
怪物。
夜の闇よりも黒く禍々しい怪物がそこに立ち暴れていた。
「ば、化け物だ……」
「人間じゃない……」
「こんなの勝てるわけが……」
圧倒的な暴力を前に、麻痺していた思考の内から恐怖が這い出す。
そしてそれは全身へとまわり剥き出しの事実を突きつけた。
どうして自分達がこんな怪物の相手をしているのだろう、未熟な者が何十人と束になろうとこの怪物は決して倒せはしないのに。
一度気づいてしまえばもう動けはしない。
黒い牙を振るう怪物に近付こうとする者は一人と無く、ルオンドールまでの道が自然と出来上がる。
「いったい貴様、何者だ?」
驚き、恐怖、混乱。冷たい殺意に見据えられて動けぬ標的が問えば、怪物は残酷なまでの静けさをたたえながら答えた。
「蛇だと、そう言ったはずだ」
「蛇?」
「アウロボロス。三欲の蛇に集いし者は代償を必ず取り立てる」
「欲深き悪蛇の仔かっ……!?」
悪名はルオンドールの耳にも届いていた。
だがそれは伝説めいた噂話としてにすぎず、遠い異端の地に暗躍する蛇の仔がまさか本当に存在し、自らの目の前に現れるとは考えもしなかった事。
所詮そこが小さな砦の長の限界。無知ゆえの慢心、積み重ねた横暴ゆえの自得。
ルオンドールがいまさらどれだけ後悔しようと遅い。血塗られた黒剣を手に蛇を名乗りし者はゆっくりと近づいてくる。
「ま、待て誤解だ。今回の件に俺は関わっていない。部下の一人が勝手にやったこと。こちらに非があるというのは認めよう、用意出来るだけの金も支払おう。だから……」
しぼり出すような声で懇願する男の姿にはもはや小さな王としての威厳は欠片も無く、ただ一匹の哀れな蛙と化していた。
そして蛇は蛙に告げる。
「お前が支払うべきは血の代償だ、ルオンドール」
その直後、突風の如き一撃が放たれた。
ルオンドールは構えすら間に合わず胴を斬り裂かれ、大量の鮮血が飛び散る。
「聞け!!」
標的を亡き者にし蛇の仔は言う。
「血の代償はここに支払われた。お前達がこれ以上の戦いを望むというわけではないのなら、我が求めに応じテサルの街のエレンという女を引き渡してもらおう」
要求に砦の兵士達がざわめく。
彼らの大多数はこの襲撃の意図すらまだ理解していなかったのだ。それも当然の反応であり、その混乱の最中に一人の兵士が進み出る。
名はトリクス。襲撃の裏の事情を知り、侵入者たる蛇の仔と内通する者。
この男にしてみればここが動き時だった。惑う兵士を演じ彼は問いかける。
「なぜ彼女を?」
「お前達の悪事によって着せられた濡れ衣。その汚名を女の証言を以ってすすぎ、不当に傷付けられた名誉を回復する」
「自らの無実を証明する、それだけの為にこれほどの無茶をしたと?」
「不服か? 流す血がまだ足りないと言うのならいくらでも相手になろう。次に斬られたい者から前に出るといい」
冷然な呼びかけが夜闇に響くがそれに応じる者はいない。
砦の兵士達は静まり返るばかりで、彼らに戦意が欠片も残っていない事は明らかだった。
その無言の意を得てトリクスは話を先へと進める。
「わかりました。彼女を、エレンという名の女をすぐにでも解放し、あなたに引き渡すと約束しましょう。ただその前に、こちらとしても伝えておかねばならない事があります」
苦渋の表情をつくりながら話す様は一端の恵与派の兵士そのもので、裏にある真意に気づく者はいない。
だが彼の口から衝いて出る言葉は全て今後の処理を上手くいかせる為、計算あってのものにすぎない。
「僕達も砦長、いや、あの忌々しいルオンドールとその古くからの仲間達によって支配されていた被害者なのです。この砦は恐怖によって支配されていました。彼らの悪事を非難した者は次々に殺されていき、非道に協力しない者は拷問を受けました。僕達は奴らに従わざるをえなかった、あの恐ろしき背教者どもに!!」
神々の言葉を知りながら尚もそれに背く者、『背教者』という烙印は信仰厚き国々において異教異端にもまさる大罪人を意味し、個人の人格に対する最大限の非難と言えた。
軽々しく口にすべきモノではない。
それでもトリクスはその言葉をあえて使い横暴な砦の長を断罪したのである。そして自らの言葉に同意を求めるかのように彼は周囲の男達を見やった。
束の間の沈黙があった。その後に、重く塞ぎがちだった口々が開き始める。
「そうだ、この男の勝手には俺たちもウンザリしていたんだ!!」
「いくら異教徒相手だからってあんな不名誉な事……!!」
「背教者だ!! 背教者ルオンドールは死んで当然の男だった!!」
それは滑稽にも見える身勝手さであったが、当人達は責任逃れに必死だった。その発言にこそある種の責任が伴うと気づく者はいない。
口々よりあがる非難の声を聞き届けてトリクスは言う。
「聞いての通りです。僕達は誰一人として望んであの男の悪行に手を貸していたわけではないのです。その証拠にエレンという女性だけではなく、街よりこの砦へと運ばれた他の方々もあなたに引き渡しましょう」
大胆な提案だった。
小さな砦の一兵士にすぎない者が異端の襲撃者とこれほどの交渉を行うなど、本来ならば許されるような事ではなかった。
無事にこの場を生き残れたとして後に問題視される事は想像に難くない。故に彼は他の兵士達から先ほどの言葉を引き出したのである。
発言には責任が伴う。沈黙を守るうちは使えた言い訳すらもう使えず、砦に生き残る者達全員が異端の男と交渉をした共犯者となっていた。
「必要ない。証言は一つあれば十分だ」
「どうかそう言わずに。現状を思えば街の人間は僕達に対してあらぬ誤解を抱いてしまっているに違いありません。話をややこしくしない為にも、そして不運な彼女達を一時でも早く無事家に帰す為にも間に立ってくれる方の協力が必要なのです。あなたにとっても悪い話ではないはずだ。エレン嬢ばかりか、他の住民までも連れ帰ったとなれば街の者達はその働きに相応の礼を以って報いる事でしょう。これはテサルの街への、そして何よりご迷惑をおかけしたあなたに対しての僕達なりの誠意の表れなのです」
まるで打ち合わせていたかの如く言葉を紡ぎ、トリクスは恵与派の兵士を演じながら教導派としての目的に向かって状況を動かしていく。
そして応じる蛇の仔の方も僅考する様子を挟みながら本来の目論見を隠して事を進める。
「……いいだろう。街の女達を全員連れてこい。ただし下手な時間稼ぎが通じるとは思わないことだ」
「もちろんです」
衆目を集める中、偽りの交渉は成立した。
まもなくして別棟に閉じ込められていた女達が全員連れ出され襲撃者へと引き渡される。
その突然の解放に彼女らは事態を飲み込みきれず不安の色を浮かべていたが、それは周囲に集う砦の兵士達もまた同じだった。
「なあ他の女達までも逃がしちまって本当に大丈夫なのか?」
「一人逃がしゃどうせその口から漏れちまうんだ、あとの一人も二人も同じ事だろ」
「けどよお」
彼らには確かな展望があったわけではなかった。
目の前の生にしがみつこうとしながらも流れに身を任せていただけにすぎず、胸の内に巣くう疑念を拭い去る事などできるはずもない。
それでもそれが彼らの精一杯なのである。
「だったらあの化け物を相手に闇討ちでもするか?」
「それは……」
「後の事は後の事だ。どうにかやり過ごすしかねえ」
そう自らに言い聞かせ、恵与派の兵士達は砦から出ていく人影を夜闇の先へと見送るしかなかった。




