妖しき森の顔
結界の内と外。
オルザの森は二つの顔を持っているかのようだった。
セルトラの張る結界の内を行く分には鬱蒼とした木々に囲まれる森の中にあって春の温かな恵みと和やかさを十分に感じる事が出来たというのに、それがどうしたことか結界の外へと出てしばらくもすれば、同じ森にあって何か恐ろしい異様の気配を漂わせていたのである。
それは目に映る何かが突然にハッキリと変化したわけではない。
緑の葉が急に黒グロと染まったわけでもないし、ましてや春の花々が枯れ果てたわけでもない。
遠目から一見としただけではその違いに気づく事が出来ぬような変化だった。
だがそこを歩む者達には感覚として確かに伝わってくるのである。
木々や下草の陰に鳥達の鳴き声、風のざわめきや樹皮に寄るシワ模様。それが徐々に不気味さを増していき、気がつけばまるで全くの別世界に迷い込んでしまったかのように森が気配を変えてしまっている事に。
魔女の森、その二つ名に相応しい危険と怪しさを孕ませたもう一つの顔を覗かせて、オルザの森の鬱蒼とした草木はレグス達を取り囲んでいたのである。
――キィイイッ!! キィイイッ!!
木々の合間より響く悲鳴にも似た甲高き鳴き声。
聞く者に不快と不安をもたらすその怪音にガドーが反応する。
「嫌な鳴き声だぜ……」
顔をしかめて漏らした男の呟きに、傍らのエルフがその正体を告げた。
「ハエ鳥の鳴き声ですよ。自ら狩りもせず死肉ばかりを漁って食らう卑しい奴らです」
嫌悪感を露わにしながら森の民の戦士は警告する。
「少し注意した方がいいかもしれません。奴らは肉食の獣の後についてまわる習性がある。近くに狼共が潜んでいるのかもしれない」
その警告は正しかった。
まもなくして、レグスが周囲に潜む何かの気配を察知する。
「囲まれているな」
驚いた者達が思わず足を止め周囲の様子を窺おうとするが、彼はそれを許さなかった。
「止まるな。奴らに気取られる」
「狼共か?」
歩みを再開させながら尋ねるガドー。
その問いに、レグスは淡々とした調子で応じる。
「さぁな。姿を見せないよう上手く隠れている。ただ気配が人間のモノじゃない事は確かだ。数も多い」
「その気配は確かなものなのか?」
今度はゲルミアが怪訝そうな声で問い掛けた。
「あなた方の力を疑うわけじゃないが、エルフの我々よりも先に人の子が気が付くとは……」
ハエ鳥が鳴いていたことから、たとえ狼共が近くに潜んでいたとしても驚きはない。
彼が驚いていたのは護衛に選び抜かれたエルフ達の誰もが気が付かぬ中、レグスという人間だけが真っ先に忍び寄る気配を察したということである。
その事実に、ゲルミアはどうにも信じ難いという驚きを抱かずにはいられなかったのだ。
「何かが潜んでいるのは確かなようだ。ライセンが危険を知らせている」
疑い深いエルフに聞かせるように、傍らに乗せた鷹の様子を見ながらジバ族の女が言った。
レグスと利発な鷹を相棒とするカム。二人の告げる言葉が一致するならば、彼らと共に旅をしてきた者達はその言葉を疑うはずもないだろう。
だがこの森のエルフ達はまだ二人とは昨日に会ったばかり。
易々とその能力を信頼しきるわけにもいかず、どこか納得のいかなさそうな表情がその顔から消えはしなかった。
そんな彼らに対してレグスは右手に続く斜面を指して静かに言う。
「見ろ」
五十フィートルほど離れた先にある繁みがガサリと揺れて動いた。
それは風が揺らしたにしてはあまりに不自然に強く、大きな揺れだった。
「ただの狼にしてはでかいな」
繁みの揺れの大きさを見てディオンが言った。
同行するエルフ達もようやく自らに迫る危険の存在を認めたらしく、彼らは移動を続けながらも熱心に四方へ目をやって繁みに隠れ潜む者達の正体を見極めようとする。
そしてそのうちに、一人のエルフが緊迫した声色にて告げた。
「ゲルミア隊長、あれを」
彼が示した場所には繁みから繁みへと横切っていく大きく異様な獣の姿があった。
それを瞳に捉えた一団を率いる長は険しい表情となって呟く。
「『バンダーウルフ』……」
「バンダーウルフだって!?」
たちまちエルフ達の間にざわめきが起こった。
「まさか、見間違いじゃないのか!? 奴らの縄張りはもっと南東のはずだ。オーザスの陰岩を越えてくるなんてありえない」
「餌に不足してこんなところにまで狩場を広げたとなると、大問題だぞ」
バンダーウルフの名に動揺したのはエルフ達だけではない。単眼の大猿までもが全身の毛を逆立てるようにして、強い敵意と警戒心を示している。
彼らのただならぬ様子に、その名に覚えがない者達までもが脅威の大きさを感じずにはいられないほどだった。
「そんなにヤバイのか? そのバンダーウルフってのは」
ガドーの問いにゲルミアは険しい口調のまま答える。
「この森で出くわすには最も最悪な部類に入る恐ろしい狼共だ」
「『最も最悪』、そいつはとびっきりヤバそうだ。で、ブラディウルフやワーグよりも厄介なのか?」
「『穢れし血の狼』も『悪しき大狼』も奴らに比べればカワイイ子犬のようなもの。手だれの者であってもバンダーウルフの縄張りには決して近寄ろうとはしない。奴らは熊をも殺す牙と爪を持っている」
「熊殺しならブラディウルフやワーグにだって聞く話だぜ。あいつら他の魔物達同様恐れ知らずだからな。熊相手だろうがかまわず食い殺そうと飛び掛っていきやがるのさ」
「魔狼の熊殺しは群れでの狩りによるものだ。バンダーウルフは違う」
「まさか、一頭一頭がそうだってのか? 冗談だろ?」
男の言葉に黙って首を振り、ゲルミアはそれが冗談でなく大真面目に言っている事だと示した。
「おいおい。ってことは何か? 俺達は単独で熊すら殺しちまうようなヤバイ狼共に囲まれてるってわけか?」
「しかもかなりの数だな」
深刻な声色で付け足すように言ったのはディオンだった。
彼の言葉を証明するように、周囲の繁みのあちらこちらが激しく揺れ動いていた。
もはや未熟なファバですらも潜む者達の脅威とその数の多さを十分に感じる事が出来るほどである。
「なんて数だ」
「大きな群れだぞ」
「二十か、三十か。いや、もっといるぞこれは……」
活発に動き繁みを揺らし始めた獣達にエルフらは動揺を大きくした。
それはガドーとて同じ。
「さっきまで息を殺したように潜んでやがったくせに、なんだよ急にこりゃ。ついに仕掛けようってわけか? 上等じゃねぇか」
武器を握る手に力を込めて彼は言うが、ゲルミアは冷静にそれを否定する。
「まだ脅しの段階だ。こちらが気づいたことを察して、ああして気配をわざと晒しているのだ。この森に住まう者ならば誰もがバンダーウルフの脅威を知っている。奴らもそれを自覚しているから獲物を脅し、慌て逃げ出したところを背後から一方的に狩り殺そうと狙っているのだ」
「ゴブリンのような意地の悪さじゃねぇか。で、このまま狼共と仲良く睨み合いか?」
「奴らは慎重ではあるが同時に執念深く、狙った獲物は必ず仕留めにかかる。グズグズしてはいられない、決断しなくては」
「どうしようってんだ。狼共と競争するか? この森の中をテサルの街までよ」
男の発言はどこか投げやりにも聞こえるものであったが、ゲルミアもその案を完全に否定する気はないらしい。
覚悟を決めた表情で彼は言った。
「我々が囮となって奴らを引き付けよう。その間にあなた方はテサルの街へと急ぐのだ。森で最も恐ろしい狼共も街の壁は越えられない」
「急げったって、この深い森の中を俺達だけでか!?」
「もちろん案内役を何人かそちらにつけよう、特別優秀な者達を」
ゲルミアの率いる一団には精鋭の戦士達が選ばれていたが、数としては二十人にも満たない。
その戦力規模を思えばそこから何人かを割くなど、軽く決められるような事ではなかった。
相手はバンダーウルフの大群である。
残る者達は全滅も覚悟のうえでの戦いとなるだろう。
だがそんな決死の申し出を、レグスはバッサリと切って捨てた。
「その必要はない」
そして無感情にも聞こえるほど落ち着いた口調で彼は言い放つのである。
「ここで奴らを迎えうつ」
「何を……、話を聞いていなかったのか!?」
「十分と聞いていた。そのうえで結論はお前のそれとは違うという事だ」
「しょせんは狼の群れと奴らの脅威を軽く見れば、取り返しのつかぬ事態となるぞ!!」
「俺もバンダーウルフについて何も知らずに言っているわけではない。下手に戦力を分散すれば、こちらの被害が増すだけになる」
「犠牲は覚悟のうえだ。我々は魔女さまと約束した、あなた方を全員無事にテサルの街まで送り届けると!!」
「全員無事に街に着くために言っている。俺が目に通した書にはバンダーウルフについてどれも似たような事が記されていた。『前足と首が異様に長く、恐ろしく執拗で惨忍な大狼』、そして『森を駆けるバンダーウルフは駿馬に優り速く、標的の逃亡を許すことがない』と。子供の乗り手と荷負いの馬を連れて逃げきれる相手ではないだろう。街に着くまでに何人かは必ず奴らに捉まる」
「それでも、ここで迎えうつよりはよほど可能性のある話だ」
「選択肢は他にない。悪いが俺には、お前達の自己満足な犠牲心に付き合う気など一切ありはしないのでな」
侮辱と取られても仕方がないほどの強烈な言葉。
だがそれほどのものであったからこそ、その場の誰もがレグスの意思が確固たるものである事を一瞬にして理解できたのである。
そして彼はゲルミアの了解も得ないまま同行者達へと号令をかけた。
「狼共を迎えうつ。馬を中央へ寄せ円陣を組め。下手に動き回らずそれぞれの持ち場を死守しろ」
男の一方的な命令にエルフ達は惑った。
その戸惑いの中で彼らのひとりが自身を率いる者に判断を仰ぐ。
「隊長……」
「彼の指示に従え。あとはもう我々に祖霊達の加護があらんことを祈るのみだ」
これ以上の争議は無駄と、諦めにも似た心持ちでゲルミアは言った。
不服さや戸惑いが完全に消えずとも、従うべき者からの判断が一度下されればその配下の者達の動きは早い。
バンダーウルフの大群に囲まれるという絶望下にあって一定の冷静さを保ち、訓練された兵士たちのように綺麗な円陣を組み上げていくエルフと大猿達の見事さは精鋭が選ばれたというだけのことはあるものだった。
そうして一行が防陣を組み上げる間も、また組み終わった後も、狼達に大きな動きはない。
相変わらず唸り声をあげ繁みを揺らすばかりで、狩ろうとする者達と迎えうたんとする者達の間には奇妙な睨み合いが続いた。
「いつまでこうしてりゃいいんだ?」
押し潰されそうな緊迫感が漂う中で発されたガドーの問いにゲルミアが答える。
「奴らがその気なら丸一日だって必要となる。そうしてこちらが疲労と睡魔に蝕まれ、頃合となればその途端に奴らは仕掛けてくるだろう。確かに言える事は、睨み合うだけでは奴らは決して諦めはしない、という事だ」
嫌気がさすような回答にディオンが言う。
「……レグス、どうすんだ。このまま一昼夜睨み合うってわけにはいかないだろう」
「当然だ。日暮れまでには街に着く必要がある。狼共に仕掛ける気がないというのなら誘き出し、さっさとケリをつけるまでの話だ」
「どうやって誘き出す?」
「こうやってだ」
言うなり一人歩き出して円陣から離れるレグス。
彼の向かう先には狼達が潜むであろう繁みが広がっていた。
「何をやっている!!」
守るべき対象の驚くべき行動にゲルミアはとっさの声をあげた。
その慌てように対して、歩む男の方は平然としている。
「こちらの一群れは俺が引き受ける。残る狼共をお前達で処理しろ」
「馬鹿なっ!!」
バンダーウルフの包囲下にありながら防陣から離れるなど無謀としか思えない。
それこそ男が言った自己満足な犠牲心とやらにしかそれは見えなかったし、そうでないとしたら、よほど思い上がった馬鹿の取る行動であるとしかゲルミアの目には映らなかった。
だがどんなに愚かな男だったとしても、魔女より託された守るべき客人には違いない。
ゲルミアは後を追ってでもレグスの突出を止めようとした。
しかし、その肩を掴み引っ張ってディオンが邪魔をする。
「待て」
「見殺しにする気か!!」
「ゲルミア、あんたは言ったな。バンダーウルフは熊をも狩り殺すような凶狼だと」
「だったら何だと言うのだ!?」
今この場で急にそんな話を持ち出す理由がわからなかった。
苛立ちの色すら浮かぶゲルミアに対して、デリシャ人の男は至って落ち着いた口調で言葉を続ける。
「何故奴らは仕掛けてこない? 二十人ばかりの俺達を相手に。数の問題か? 違うよな、少なく見積もったって三十じゃきかない大群だ。それだけの数がいて、何を恐れこんなにも慎重になっているんだ?」
「それは……」
返答に窮するエルフの反応に、意味深な笑みを口もとにたたえながらディオンは言う。
「奴らも本能で理解してるのさ。大熊なんかよりもずっと恐ろしい怪物が、そこに立っているってことを」
「まさか……」
言わんとする事を察してゲルミアの視線がレグスへと向く。
デリシャ人の男が指摘する通り、いくら一団を組んで行動してるとはいってもそれ以上の大群で取り囲んでいるであろうバンダーウルフ達がここまで慎重になることは奇妙であった。
そして狼共がそこまで慎重にならざるをえない理由があるとするなら、その答えとして彼の言うような推論を立てる事も可能なのかもしれない。
しかしそれでも『森に生き、森を知る』エルフの男の目に映る光景としては、それはあまりにも無謀な行動としか思えてならない。
止めるべきか、見守るべきか。
なおも判断を迷うゲルミアの様子に、今度はガドーが強い口調で発した。
「いいから黙って見ときな!! アレが狼なんかに殺されるタマかよ!! その程度の野郎なら、俺らは壁を越えたりなんかしねぇ!!」
青目人の男が声を張り上げるとほぼ同時に、レグスの歩む先、広がる繁みの一角が大きく揺れた。
円陣を離れた標的を食い殺そうと、ついに狼達が飛び出してきたのである。
その数は四頭。どれも体躯はワーグに劣らず大きく、特徴的な長い首と前足は凶悪的に鋭い牙と爪の存在をより際立たせていた。
森の民の戦士達が名を聞いただけであれほどうろたえたワケが一目で理解できる禍々しき異様の姿。通常、四頭ものバンダーウルフに襲われれば、凡百の使い手では対処しきれない。
だが飛び出した凶狼達が標的としたのはただの男ではない。
壁の民を決闘で負かし、不浄の王を葬り、古き神にすら挑み生還するほどの剣の使い手なのである。
レグスは動じることなく冷静に間合いを見極めていた。
そして最初の一振り。
彼はその一撃を飛び掛ってきたバンダーウルフの開かれた大口の中へと叩き込んだ。
その瞬間、数多くの獲物を平然と食いちぎってきたであろう凶狼の大牙が先にある頭蓋ごと砕け飛んだ。
そしてそのまま振り抜き返した二撃目にて、次なる狼の背中を硬い骨ごと断ずる。
バンダーウルフはなおも三、四と襲い掛かったが、いずれの狼牙、狼爪も完璧に見切り避けてレグスは黒き剣にてその凶狼達をも斬り殺した。
一撃一殺の流れるような殺劇。
男の周囲には瞬く間に血溜まりと、斬り断たれた四頭分の死骸が出来上がっていた。
「信じられん、あのバンダーウルフを相手にこうも簡単に……」
「しかも急所も関係なく叩き斬ってしまったぞ……」
バンダーウルフの骨は尋常ではない硬さであり、背はさらに厚い皮肉で覆われている。
その為、剣で相手する時には首の動脈や腹部の内臓を的確に狙う必要があり、それが余計に凶狼との戦いを難しくさせていたのである。
これは森の戦士達の常識であり、陣形を組む際にもしきりにその事はレグス達へも伝えれていた。
だが、黒き剣の使い手はそれを全く無視するようかのように、ただ振るい、ただ斬殺したのである。
森の民の想像の遥か上をいく圧倒的な暴力がそこに存在していた。
我が目を疑うような光景に、エルフ達は称賛も忘れて唖然とするしかなかった。
だがそうやって呆けていられる猶予もそう長くあるわけではない。
「くるぞ」
魔剣を手にする男が言うが早いか遅いか、繁みの一角よりひときわ大きな遠吠えが上がる。
同時に、周囲の凶狼がいっせいに飛び出し襲い掛かってきた。
「偉大なる森の魔女と祖霊達の加護があらんことを!!」
ゲルミアが叫び、それに応じて他のエルフの声も響く。
単眼の大猿達は全身の毛を逆立て哮り、セルトラより託された客人を守りきろうと彼らは迫る脅威に対して果敢に立ち向かった。
身軽な動きで相手の攻撃を回避し、急所を斬りつけ致命の一撃を与えていくエルフ達。
その巨体を以って立ちふさがり、巨腕を振るい叩きつけ殴り飛ばすイパ達。
たとえ牙を立てられ噛み付かれ、爪に肉をえぐりとられようとも、次々と襲い掛かってくるバンダーウルフを相手に森の戦士達は戦い続けた。
その奮闘っぷりは精鋭と評するに値する見事なものであった。
されど、全滅をも覚悟していた彼らがこれほどまでに戦えた理由は、単にその力量の問題というだけでは片付かない。
守るべき客人達の活躍あってこその奮闘であったのだ。
「おらぁ!! くたばれやクソ狼共!!」
「陣を崩すな!! 間合いに入ったやつらを確実に仕留めていけ!!」
初めて目にする禍々しき狼達を相手に、ガドーとディオンはよく戦った。
バンダーウルフは彼らにとってもまた強敵に違いなく一頭倒すのすら苦戦しながらの様子で、レグスのように軽々と屠っていくとはいかない。
それでも臆し過ぎず侮り過ぎず、集中を切らすことなく剣を振るい、確実に一頭一頭を仕留めていったのである。
そしてそんな二人以上に、目を見張るほどの活躍をみせたのは不動の愛馬の背に立ち四方へと矢を放つジバ族の女だった。
乱戦の中、凶狼だけを精確に射抜き続けるその弓働きは、弓の扱いを得意と自負する森のエルフ達にすら決して真似出切るものではなかった。
彼女は群れ襲うバンダーウルフのうち最も脅威となっている個体を瞬時に判断し、死角から飛び掛ろうとするその凶狼をギリギリのところで何頭も仕留めていったのである。
その働きが無ければ、森の民の戦士達には数多くの犠牲者が出ていた事だろう。
しかしそうした客人達の見事な活躍も、無双の剣働きをみせる一人の男と比べてしまえば霞んでしまった。
円陣より離れ誰の援護も受けず、ただひたすら群がり襲い掛かる獣を斬り殺し続けるレグス。
彼の転がした狼骸の数は、他の者達全員の戦果を合わしたものすらも上回っていた。
――あれは本当に人の子なのか……!?
戦いの最中にあって、ゲルミアは黒き剣にて凶狼を屠り続ける男の姿につい目を奪われてしまう。
弱く、脆く、迂闊で愚か。
彼の知る『人間』とは、剣の扱いも弓の扱いもエルフのそれに及ばない、脆弱な存在に過ぎないはずであった。
たとえエルフの古い歴史とかつての年寄り達が、どれだけ人の子の脅威を語り警告を重ねようとも、彼は実感としてそれを理解する事がどうしても出来ずにいたのである。
だがそんな認識を嘲笑うかのように、その男は森のエルフの誰もが及ばぬほどの鮮烈で圧倒的な暴力を行使していた。
――あれではまるで……。
ゲルミアは恐怖すら覚えていた。
牙と爪を突き立てんとする敵にではない。黒い嵐のようにそれを斬り殺していくレグスの姿に対してである。
いや、もっと正確に言えば、彼が恐れたのは『人間』そのものである。
まさしく歴史は正しく、まさしく年寄り達の警告は正しかったのだ。
人の子はただ弱く、脆く、迂闊で愚かな存在などではなかった。
そして村の同胞のように愉快な友として語るだけでも済まない。
人の子とは底知れず恐ろしい力を秘めた、決して侮ってはならぬ存在なのである。
その事を、黒き殺戮の嵐は告げていた。
「隊長!!」
レグスの戦いに目を奪われ、気を散らしていたゲルミア。
その耳に同胞の声が聞こえる。彼の虚をついて一頭のバンダーウルフが飛びかかろうとしていたのである。
――くっ!!
ゲルミアは急ぎ体勢を変え、迎え撃とうとした。
しかし瞬時の判断、瞬時の対応が求められる戦いの中にあって、それはあまりに大きな遅れだった。
飛び掛る敵に対して体勢は不十分となり、剣速は鈍らざるを得ない。
目の前へと迫る鋭き狼爪に、彼は一瞬己の死を覚悟した。
だが爪が届くより先に、一本の矢が凶狼の細長き首を貫いて急襲を阻止する。
自らの不覚により陥った危機からすんでのところで救われたエルフの男。
彼が視線を射ち手へと向けると、そこには馬上に立ち弓を構える女の姿があった。
互いに何を言うわけでもなかったが、一瞬合った彼女のその瞳は語っていた。
『ボーっとするな。戦いに集中しろ』と。
全くその通りだった。
ゲルミアは戦いの邪魔となる先ほどのまでの思考を振り払い、凶狼殺しに集中し直す。
もとは魔女の森の中でも最も優れたエルフの戦士である。
彼が戦いに集中すれば、同行者達の足手まといになるような事は二度とありはしない。
エルフの戦士達の中でも一際鮮やかに剣を振るい続け、ゲルミアは次々とバンダーウルフを斬り殺していった。
そうしてどれだけの時が経ったか。
長いようで短い時間。その間に、多くのバンダーウルフが屠られ、多くの血が流れた。
正確に数えてる者は誰ひとりと居はしなかったろうが、少なくとも辺りには何十頭もの凶狼の骸が転がり、大地と草木はその血で赤黒く染まっていた。
戦いが終わりを告げたのは、大群で襲ってきた狼たちの生き残りが三十ほどまでに数を減らした頃である。
――ウォオーーン!!
どこか物悲しさを感じさせる遠吠え。それが奴らの引き揚げの合図だった。
ついに執念深きバンダーウルフ達が負けを認めたのである。
「見ろ!! 奴らが逃げていく……!!」
「やったぞ、俺達の勝ちだ!!」
すごすごと去りゆく獣たちを見やりながら、エルフの戦士達は勝利を喜んだ。
だが戦いに勝利した側も無傷の完勝とはいかない。
多くの者は少なからず傷を負い、疲労から肩で息をするのもやっとの有り様だった。
中にはバンダーウルフが引き揚げていくのを確認するなり、その場へと倒れ込んでしまう者さえもいた。
「まさか本当にあれだけの数のバンダーウルフを追い払ってしまうとは……、それも死者を一人も出さずに済んだ」
同胞の様子と転がる凶狼の骸の数々を見比べながらゲルミアがそう呟くと、傍らのデリシャ人が反応する。
「奇跡的な勝利だってか? それも実力あればこそのことさ。いい働きだったぜ」
ゲルミアの肩を軽く叩いて森の戦士達の奮闘を労うディオン。続けざまに彼は言う。
「それに、この程度のことはまだ奇跡のうちには入らねぇさ。何たって俺達にはあの男がついてたんだからな。……大熊なんかよりもずっと恐ろしい怪物が」
視線の先にあるのは黒き剣の使い手。バンダーウルフの大群に囲まれていながら平然と迎え撃つとの宣言をして、その通り何十頭もの凶狼を斬り殺してしまう男。
まさに黒い嵐の殺戮者。
あれは尋常ならざる光景だった。
「怪物か。……いったい何者なんだ、あの男」
思わず客人に対する敬意も忘れて素で問うてしまうゲルミアに、ディオンは含みを持たせた笑みを小さくたたえながら答えた。
「何者もなにも、見ての通りの男さ。とんでもない野郎だろ?」
要領を得ない返答にエルフの男は顔をしかめこそしたが、それ以上問いただすような真似はしなかった。
彼ら森の民にとってレグス達はあくまで恩人であり客人という立場。執拗に問うては礼を失する事になる。
それぐらいの事はゲルミアとて弁えていた。
彼の反応に、ディオンはその肩を再び軽く叩き、それ以上は何も言わぬまま他の仲間達のところへいってしまう。
その後ろ姿をを少しばかり見やった後、ゲルミアもまた移動して今しがた話題にしていた男のもとへと向かった。
「私は謝らなくてはならないだろう」
レグスの前に立つなり彼はそう言って切り出した。
「あなたの判断が正しかった、これだけのバンダーウルフを討ち取る事が出来るとは……。これだけ手痛くやられれば、奴らもしばらくは縄張りの外まで荒らそうとはしなくなるだろう。結果として多くの者が救われる事になる。オルザの森の民を代表してあなた方には感謝しなくては」
「謝罪も礼も必要ない。どのみち行く手の障害となる存在は排除する必要がある。それだけの事だ。狩りは上手くいった、何の問題もない」
「それもあなた方の活躍があればこそだ。我々だけではこれほど上手くはいかなかっただろう」
「それはこちらとて同じだ。お前達森の民の戦士が勇敢に戦ったからこそ、こちらも犠牲者を出さずに済んだ」
謙遜しているというよりは無感情に近く淡々と応じるレグス。
それが彼の人となりによるものであって、決して嫌味でやっているわけではない事ぐらいはゲルミアも承知している。
「それでも、最も多くのバンダーウルフを討ち取ったのがあなたであるという事を疑う者はいない。素直に驚かされた。エルフとしていくらかの年月を重ねて人の子を見てきたつもりであったが……、まさかこれほどの使い手がいるとは」
「種族を問わず偉大な使い手達は数多く存在した、それが剣術であろうと弓術であろうと、あるいは魔術であろうとな。その事は歴史が証明している」
「歴史が証明している……、たしかにその通りだ。しかし我らは遠き日の出来事よりもつい目の前の事ばかりに囚われて、その事実を忘れてしまっていたようだ。だがこれで認識をあらためなくてはならない事がよくわかった、……世界の広さと人の子の可能性について」
ゲルミアの言葉の端からは懸念というべき恐れが感じ取れた。
されどレグスは何を言うでもなしに、話題を次へ移す。
「負傷者の手当ては順調か? あまり時間はかけたくない。強い血の臭いは他の獣や魔物を寄せ付ける」
「さきほど様子を見て回ってきたが、最も重傷な者でも移動に大きな支障が出るような者はいないようだ。治療にもそう時間はかからないだろう」
「そうでないと困る」
「わかっている。万が一にもテサルの街への到着が遅れることのないように我々は最善を尽くすつもりだ」
「必要としているのは努力や誠意ではなく結果だ」
不平や悪意を感じさせないながらも、淡々とした物言いだからこその有無を言わさぬ迫力がレグスの言葉にはあった。
彼の求めに対してゲルミアは眉にシワを寄せながらも頷いて応じる。
「なるほど。あなたの言い分はいちいち正しい。では出発を少しでも早める為にも、私は負傷者の治療をあらためて急がせてくるとしよう。失礼する」
そう言って同胞達の方へと向かい歩き出すゲルミアだったが、その足はすぐに止まる。
そして彼は振り返りながらどこかためらうような表情を一瞬浮かべた後、意を決した様子で尋ねた。
「一つだけ聞いてもいいだろうか? 西の巨壁を越えてこのオルザの森へとやってきたというあなたの言葉は、真実に違いないモノなのだろうか?」
「ああ、そうだ。俺達がそんな事を偽る理由もないと思うが、何か問題があるのか?」
「いや、それならいいのだ。忘れてくれ」
勝手にひとり納得するように頷くとゲルミアはそのまま歩いていってしまう。
「何だったんだ、あれ」
エルフの男が残していった去り際の奇妙な問いが気になったらしく、それまで二人の会話を黙って聞いていた醜顔の少年が不思議がって言った。
だが質問の意図がわからぬのはレグスも同じである。
「さぁな」
「ひょっとしたらあれかしら」
さほどの興味もなさそうに言う男に代わって、今度は彼の指輪に宿る古き精霊が口を開いた。
何か思い当たる節があるらしい。
「何だよ」
「『災いは東からきたる』。エルフの古い迷信の一つよ」
「迷信?」
「エルフが東の方角を嫌うとは初耳だな」
ファバとレグス、似たような反応を示す二人。
そんな彼らに対してセセリナはさも当然と言わんばかりの口調で語る。
「そりゃあエルフといっても、いろいろいるもの。東を不吉な方角としていたと言えば『ナバフの白頭山』に住んでたエルフ達ね。彼らはその流れを汲んでいるのかもしれないわ」
ゲルミア達の方を見つめながら古き精霊は己の推測を述べた。
その言に真っ先に反応したのはマルフスであった。
「失礼な話だ!! 大の恩人であるご主人様を疑うなんて!!」
ゲルミアの疑問は主に対する侮辱だと憤る灰色肌の小男。
彼に続いて東黄人の少年が発言する。
「つまりいろいろ助けてやったってのに、あいつら俺達を不吉な旅人扱いしようとしてたってわけだ。しょせんは余所者ってことかよ」
皮肉るファバの言葉をセセリナは否定も肯定もせず、さらに意味ありげな事を口にする。
「もしかしたらそれ以上のものかもね」
「それ以上?」
「迷信のもととなった予言があるのよ。『悪魔を従えた災いの王が東の地からやってきて、星を砕く黒き魔剣を振るいエルフの国々を滅ぼす』と」
「黒き魔剣って……」
レグスの持つ『魂喰らいの剣』の事が少年の頭に自然と思い浮かぶ。
ファバは剣が秘める強い力によって命を救われてきた側の人間だったが、そんな彼であっても、この呪われた魔剣の禍々しさそのものを否定する事はできなかった。
黒き魔剣を振るい圧倒的な暴力を以ってバンダーウルフを殺戮するレグスの姿。
あれを見て、ゲルミアが古き予言に謳われた災いの王を重ね不安を覚えたとしても、それはそれで一理あると納得せざる得ない部分はある。
それは少年だけでなく、セセリナや当人であるレグスすらも思った事だった。
しかしこの場でただ一人、マルフスだけは納得するわけにはいかない。
「馬鹿げてる!! ご主人様は星々に選ばれし王だ!!」
より一層声を大にして彼は言う。
「星を砕くだなんて、あっ、ありえない!! なんて事だ、そんな馬鹿な妄言、疑いを、許しちゃいけない!! あの男に謝罪させなくては!!」
喚き立てるように怒り、マルフスはゲルミアの後を追いかけようとした。
だがそれを静かでありながらも強い口調でレグスが制止する。
「よせマルフス」
「でもご主人様!!」
「戯言など放っておけ。優先すべきはテサルの街への到着だ。これ以上余計な揉め事は必要ない」
疑いによって主の名誉を傷つけられたと従者が騒いだところで、その主自身に制止されては矛を収めざるを得ない。
あからさまに消沈するマルフスの様子を一瞥しながらファバは鼻で笑い言う。
「ハッ、救世主の次は災いの王かよ。レグスも大変だな、好き勝手に言われてよ」
同情と呆れ混じりの少年の言葉にもレグスはそれまでと同様の淡々とした調子で応じた。
「周りの人間が何を言おうと、俺は俺の望むようにやるだけだ」
それからまもなくして、無事負傷者の治療を終えると一行はテサルの街へ向けての移動を再開した。
行く道はまたも木深く草高く、デコボコと整備されておらぬ道なき道が続く。
その険しさは旅慣れしてる者にすらちょっとしたもので、馬を連れ、荷を積んでとなると余計に足は遅くなった。
それでも、楽々簡単とはいかぬこの森の行路こそが交易の任を担うエルフの戦士達にとっての勝手知ったる道なのである。
他にとるべき道があるわけでもなし、次の襲撃を警戒しながら彼らは森の中を進む。
「風が変わった」
どれほど歩き続けたものか、道なき道を行く疲労と森に満ちる鬱蒼とした空気に交わされる言葉数も少なくなってきた頃、レグスがおもむろに口を開いて言った。
風の勢いと流れ、そして匂い。
それらの微妙な変化が何を告げているのか、彼には既にわかっているようだった。
その様子に驚きながら、見た目若いエルフが目立つ大きな樹木を指差して言う。
「ええ、まもなく森を抜けますよ。あの巨木の先を行けばテサルの街もすぐに見えます」
その言葉を聞いてファバやガドーといった面々は表情をやわらげた。
いや、よく見れば彼らだけではない。
エルフ達の表情からもずいぶんと硬さが抜けていた。
ひとまず客人であり恩人たる者達を街まで送ることができそうな事に、森の民の戦士達も安堵していたのだろう。
「一時はどうなる事かと思ったが、あの襲撃を除けば順調だったな」
「そうでなくっちゃ困るぜまったくよ」
バンダーウルフの襲撃を思い返しながら言うディオンに、やれやれとガドーが相槌を打つ。
「わざわざ進路変えてまでこっちの森を通ろうって事になったんだ、あんなの何度も襲われちゃ安全策を取った意味がねぇ」
それからさらに歩いていくと、エルフらの話通りに魔女の森は終わりを告げた。
陽光を遮る妖しき木々の姿が消え、土塊と草葉から成る地平まで見渡せてしまうほどの広大な大地がその先にひろがっていたのである。
吹き抜ける風を浴び、鬱蒼とした森を抜けられた開放感に一行の心は自然と弾んだ。
開けた視界の先には遠目ではあるが石積みの壁に囲まれた街の姿がハッキリと見えている。
「見ろよ街だ!! テサルの街だ!!」
ファバが声をあげると同時に、カムのもとより鷹が空へと飛び立った。
――キィィィ。
目一杯に翼を広げて舞うライセン。
鬱憤をはらすかのように飛びいく彼の姿を追えば、空には傾き落ちいく太陽が見えた。
日が地平に隠れるにはまだ十分と時の猶予は残されていそうである。
それはつまり、ゲルミア達がレグスの求めた『結果』を見事示してみせた証でもあった。




