神の慟哭
深き闇に沈み、完全に意識を失い動かなくなった男のもとにイファートが迫る。
力を使い果たし、大いなる風の加護すら弱まりきった今なら、彼の巨神が触れる必要すらなく、大炎から成るその腕を伸ばすだけでレグスの肉体は神の炎に呑まれてしまうことだろう。
そうなれば、もはや誰にも彼を救う事は出来ない。
星が告げし王、予言されし英雄は、何を為す事もなく生涯を終える事になるのだ。
それが意味するのは一人の人間の終幕ではない。
この世界の終わり。人の世の終わり。
魔が栄え、星の命が絶えた永遠の夜の訪れを意味するに他ならない。
その事をマルフスだけが理解していた。
――やめろ……。やめてくれ……!!
縋り、懇願するように彼は心の内で叫ぶ。
――あの男は希望なのだ。人の世の、星の世の、我らの希望なのだ!! ようやく見つけた俺の運命を奪ってくれるな、古き神よ!!
肌が焼け落ちそうなほどの熱波を浴びながらもマルフスは無我夢中で駆けた。
そして、手にした武器の射程距離にイファートの姿を捉えると、弩を構え、つがわれた矢を射出する。
狙いは炎神の巨体。マルフスの腕でも外す方が難しいくらいの巨体。
されど矢は目標に向かって飛びこそしたが、その胴体部は木製の為あっとう間に焼失してしまう。
それでも鉄製の矢尻だけは炎の神の巨躯に何とか届きはした。だが無論、そんな物ではイファートの霊体に傷一つ付けれはしない。
端からマルフスとて、このような武器で炎の神をどうこう出来るとは思っていない。
不意の攻撃にイファートは動きを止め、興味をレグスからマルフスへと移す。
それこそがまさに彼の狙いであったのだ。
「聞け!! 聞いてくれ!! 大いなる炎の神よ!!」
恐怖を殺し、体の震えを抑え、マルフスは己を見下ろす巨大な神に訴える。
「彼を殺してはいけない、どうか殺してくれるな!! あの男は星々に選ばれた運命なのだ!!」
縋るように懇願し、彼は叫ぶ。
「もうすぐ夜が来る。望むはずもない長き夜の時代が!! 黒き予言に語られし暗黒の時代が!!」
熱風を浴び、喉を、肺を、焼きながら彼は叫び続ける。
「穢れた闇が大地を覆い、星を呑み、全てを滅ぼそうとしているのだ!! 彼が、その闇よりこの世界を救える唯一の希望なのだ!!」
マルフスが何を訴えているのか、イファートは言葉で理解するわけではない。
心だ。
強い心の震えが思念となりイファートに伝わるのだ。
「教会が崇める傲慢な神々と人がかつてお前達に対して犯した大罪を許してくれとは言わない。言えるはずもない!!」
古き炎の神々を崇めたミダンディアの炎の王国。それを滅ぼしたのは他ならぬ人間だ。
ユピアの神々に仕える天使達と共に人が彼らの故国を滅ぼしたのだ。
わかっている。古き神々のその怒りをわかっていてなお、彼は懇願する。
「それでもどうか機会をくれ!! 犯した過ちを正す機会を、我らに与えてはくれないか!!」
イファートが咆哮する。
そして巨腕を振り上げ、叩き潰そうとマルフスに迫る。
炎の巨神がその腕を振り下ろせば、無力な灰色肌の小男はいとも簡単に砕け散るだろう。
だが逃げはしない。彼にそのような選択が有りようはずもなかった。
「このマルフスの命ならばくれてやる!! だがどうか、あの男だけは殺さないでくれ!!」
決死の叫び。
「頼む炎の神よ。彼を殺すな!! 星々の王を奪うな!! 希望を、俺の宿命を奪わないでくれ!!」
強く強く心を震わせ、彼は叫び懇願する。
「頼む。同じ星のもとに生まれた兄弟よ!!」
マルフスは知っている、星は『世界』の姿である事を。
人も獣も精霊も、そして古き神々すらも『エンテラ』という同じ星のもとに生まれた命である事を彼は理解していた。
――ウボオオォォ!!
『同じ星に生まれた兄弟』。その言葉に、イファートの動きが止まり、慟哭する。
――ウボオオォォ!!
そうそれは間違いなく慟哭であった。咆哮ではなく慟哭。
深き怒りではなく、深き悲しみの声色。
血と骸溢るる地に響き渡るその声は、多くの者達を戸惑わせた。
城に篭もる者達は震え声をあげる炎の巨躯をただ見上げていた。
されどそんな中、ジバ族の娘だけは少々様子が異なっていた。
「泣いているのか……? 神が、まるで幼子のように……」
イファートの慟哭にカムは幼き日、父ムーソンと交わした会話を思い出す。
『ねぇ父様。教会の神様ってとてもすごいのよ。なんでも知っていて頭がすごくいいって。あとねすごく強いのよ、絶対に泣かないの、転んだってへっちゃらなの。それに完璧? なんだって。間違ったり、失敗だって絶対にしないのよ』。
書物に記された草原の外の世界に、幼き彼女は憧れを抱いていた。
教会の神々がずっと眩しく映る少女に、父は笑いながら言った。
『ああ、教会の神様達はそうらしい。だけどカム、草原の狼神は違うぞ。教会の神様みたいになんでも知ってるわけじゃないし、失敗だってする。それにすぐ怒る』。
『ええ、私、教会の神様の方が好きだな』。
『そうか。だけど狼神様にも教会の神様なんかよりずっと素敵なところもあるぞ』。
『ほんとに?』。
『ああ、ほんとさ。機嫌が良いとな、狼神ヴィンガルムは子供みたいに笑うそうだ』。
子供みたいに。
その響きが、あの日の自分にはひどくかっこ悪いものに思えて嫌だった。
なんと愚かな娘だったのだろう。
今ならばわかる、父ムーソンが言っていた事の意味が。
どうして笑わぬ者達に、人の喜びの何が理解出来ようか。
どうして涙を流せぬ者達に、人の痛みの何が理解出来ようか。
笑わぬ者よ、涙を見せぬ者よ。
完璧と謳われ、人及ぶべくもない優れたる天上の神々よ。
お前達は知っているか。
大粒の涙を流し、声をあげ泣く者達の痛みを、その苦しみを、お前達は知っているのか。
かつてあれほど眩しく映っていた天の神々が、今はひどく遠く、色褪せた作り物のように思えてならない。
教会の神々に対して決して抱けぬ感情。
それが、胸より溢れて仕方が無い。
「そうか、お前も帰るべき家を無くしたのだな。それが悲しくて、それが怖くて、だからお前は……」
セセリナは言っていた。
ミダンディアと呼ばれた地に、古に滅びた炎の王国があったと。
その王国こそが、古き炎の神々の家だったのだ。
それを天の神々とそれに従う人の子が奪った。
それはあの炎の神にとってどれほど不安で、悲しい出来事だったろうか。どれほど心細く、恐ろしい出来事だったろうか。
かつて突如として父を殺され、家族を殺され、一族を殺され、一人草原に放り出された娘にわからぬはずがない。
己と同じように、彼の神もまた帰る家を失くした者だったのだ。
――ウボオオォォ!!
迷い子がそうするように古き神が泣く。
ただ不安が溢れ、寂しさが溢れ、悲しみが溢れて止まらないから、どうしようもないから、イファートは泣いているのだ。
慟哭する炎の神のその姿に、カムは胸が締め付けられる思いであった。
哀れだと、そう思わずにはいられなかった。
何という事だろう。
己より圧倒的な存在を、千の軍勢をあっと言う間に消し炭にしてしまう力の持ち主を、遥か古より生きる神に対して、草原の地に育った娘は憐憫の情を抱かずにはいられなかったのだ。
彼女だけではない。多くの者達がそうであった。
天上の神々を崇める壁の民達すらもそれは同じ。
そして、繰り返し助けを求めるように泣き続ける神のその声は、深き眠りの底に揺蕩う少女にもやがて届いた。
神の慟哭が召喚者である娘の意識を呼び覚ましたのである。
「ベルティーナ!!」
「おお、気がついたか」
何度呼びかけても目覚める事の無かった娘が意識を取り戻すと、彼女の周囲に集まる者達は驚き、歓喜する。
そんな者達を尻目にベルティーナはイファートの方を見て呟く。
「帰さないと……。あの子を皆のもとへ帰さないと……」
そう言って彼女は立ち上がると、ふらふらと歩き出した。
心配したミルカが傍に駆け寄ろうとするが、鷲鼻の老魔術師はそれを制止する。
「見ておれ」
ローガ開拓団の者達はトーリのその言に従い、ベルティーナの行動を見守った。
そして彼らが息を呑む中、古き炎の神々を従える女王は言葉を紡ぐ。炎の巨神を呼び出した時と同じ、古き言葉の詠唱だった。
「おい、あれを見ろよ」
ガドーが空を指差した。そこには再び開く大穴があった。
そして詠唱に応ずるようにイファートの霊体が赤い光の粒子となり、その穴の中へと昇っていく。
そうしてそのまま、まるで消えるようにして慟哭する神は人々の前より去っていったのである。
「終わったんだよな? 俺達は生き残ったんだよな!?」
殺戮の限りを尽くした炎の巨神の姿が消えると、ガドーは確かめるように、噛み締めるように仲間達に問うた。
その問いにディオンがうっすらと笑みを浮かべながら答える。
「ああ、俺達の勝ちだ」
「勝ち……。そうだよな、あの軍勢を追っ払ったんだ、俺達の勝ちだ……」
ディオンの言葉に安堵すると同時に、死闘を制した勝利を実感し始めるガドー。
彼は笑い、焼けた大地に魔物達の骸が転がる城外を見やり叫んだ。
「くくっ、はははは!! ざまぁ見やがれ、クソ野郎共!! てめぇらがどれだけ束になろうが俺達の敵じゃねぇ!!」
彼だけではない。絶望的な戦況からの奇跡的な生存と勝利に、壁の大男達、大女達も沸く。
そしてその盛り上がりの中、彼らを祝福するかのように空が白み始めた。
夜明けだ。血塗られた戦いの夜が明ける。
昇り始めた太陽に、多くの同胞の犠牲のうえに自分達は生き残ったのだと、壁の民達はその事をひしひしと感じながら空を見上げ、中には自然と涙を流す者さえもいた。
だが死闘の果てに掴み取ったこの奇跡的な勝利すらも、壁の地に永遠の平穏をもたらすものではない。
次の冬が来れば魔物達はまた押し寄せてくるだろう。そうして戦いは過酷さを増し、また多くの同胞を失う事になるのだ。
その事は、この地に生まれ暮らす者達こそがよく理解している。
だが今は、夜明けの太陽の祝福を浴びる今この時は、ただひたすらに掴み取った勝利を喜び、戦いの民として、壁の守護者として、使命を見事果たしたその誇りに彼らは胸をふるわせるのである。
たとえその感動が一時の喜びに過ぎず、いずれ夜がまた訪れるのだとしても……。




