記憶の迷宮
去りゆく邪剣使いの後姿を黙って見送った後、トーリ自身もまた、なおも続く防衛戦に身を投じる。
戦況を盛り返したとはいっても、まだまだ多くの魔物達が攻め寄せてきている最中なのだ。
休む暇などありはしなかった。
その忙しさの中にあって、老魔術師がどうしても気にかけてしまうのは、城外の敵軍ではなく、内で味方として戦うあの男の事であった。
――止めるべきだったか。しつこく問いただすべきだったか。
魔法を唱え、魔物の群れを払う最中にも彼の脳裏に巡るのは邪剣使いの危険性、その正体について。
――だがそんな事をしていてどうする。今優先すべきは目の前の敵を追い払う事。
わかりきった優先事項、しかし懸念がこびり付き離れようとしない。
――もし魔剣の力が暴走するような事があれば……。
いや、それは杞憂か。
あの男には件の精霊が付いている。悪い精霊には見えなかった。彼女がいれば剣の暴走も抑えきれるのやもしれない。
それともそれこそが希望的な観測にすぎない落とし穴なのだろうか。
トーリは同じような問答をぐるぐると何度も繰り返していた。
そのうちに彼は精霊のある言葉を思い出す。
『レグス』。
青き精霊の少女は男にそう呼びかけていた。
男は自分達には『ゲッカ』と名乗っていたはずである。もしそれが偽名だとするならば、彼女が呼んだ名こそが、男の本当の名なのだろうか。
あるいはそれすらも偽名なのかもしれない……。
くだらぬ思考だとトーリは思った。
それを考える事に、たいした意味などないはずであった。
――名前など……、名前?
くだらぬはずの思考が連想し繋がっていく。
――名といえば、あの男が呟き漏らした『ガルドンモーラ』という言葉、やはりどこかで聞いた覚えがある。
それもまた『名』であろうか。
いったい何の名か。
物の名か、はたまた地名か、人名か。
――人名……。
その考えに及んだ時、老魔術師の全身を答えとなる記憶が閃光の如く貫いた。
――ガルドンモーラ!!
錆び付いた記憶が衝撃と共に勢いを増して色づきよみがえる。
――まさか、黒の怪人ガルドンモーラの事か!!
フリアの地に住まい魔術を極めんとする者達において、『ガルドンモーラ』の名を一度も目にも耳にもした事がないという者はまずいないだろう。
それほどに黒の怪人の名はフリアの魔術師の間では知られているものであった。
とはいえ、その広く知られる名とは対照的に、彼の詳しい素性について知る者は多くない。
正確な出自は不明で、伝えられる容貌から大陸南のジリカ大王国よりやってきた黒武人ではないかと推測されているが、それが正しいかどうかまでは定かではない。
そもそも、伝え聞くほどの魔術師であるなら外見を化かす術の一つや二つ扱えていても不思議ではなく、性別すらも恐らくは男であろうという推測止まりにすぎぬのだ。
『ガルドンモーラ』について言える確かな事は、最も古きものでジリカ大王国に保管される書において八百年近く昔にその名が記されているという事であり、不確かな事では、十数年昔のフリアの地での噂話にまで登場しているという事だ。
その年月は人の寿命を優に超えている。
魔術師の中には秘術や秘薬を用いて長命となる者もいるにはいるが、人の身では百を超えれば大往生といえ、正確に記録されているものに限れば百五十年ほど生きた魔術師がいるものの、到底八百年には及ばない。
他にも隠者として二百、三百年と生きた魔術師の話はあるものの、やはりそれでも八百年にはまるで足りない。
それほど八百年というのは人の生としては通常考えられない数字であった。
その為、エルフ説から二つ名の一子相伝説までいろいろと真偽不確かな話には事欠かず、果ては存在そのものすら疑う者も少なくない。
ある時は稀代の奇人として語られ、ある時は超凡なる賢人として崇められる謎多き伝説の魔術師、それが『黒の怪人ガルドンモーラ』である。
――何故その名があの男から出てくる……。
トーリの思考が目まぐるしく回転し、脳より記憶を引きずり出し続ける。
――ガルドンモーラ……、ガルドンモーラ……、ガルドンモーラ……。
黒の怪人について己が知る限りの事を思い出そうと懸命になる老魔術師。
古く格式高い書に記されていた事柄から、真偽不確かな噂話まで、ありとあらゆる記憶を彼は必死によみがえらせ続けた。
そして記憶の迷宮にて手にする一つの光明。
それは何処より風に乗って伝わってきた出所も不確かな話。
ロレンシアの英雄王ラルファンが背丈の低い老いた黒武人と極々短い一時期、懇意にしていたという噂話で、その老人こそが黒の怪人ガルドンモーラではないかというものだった。
――英雄王ラルファン……。
妙にひっかかる。
ガルドンモーラについての数ある記憶の中で、この眉唾物の噂話に、トーリの直感が何かあると告げている。
――何だ……。
英雄王ラルファンはロレンシア史上最も偉大な王であったが、教会主導のもと連合が成される前に、アンヘイの狂王との戦いに挑み、敗れ、戦死している。
すでにこの世を去った男との噂話にどうしてこれほどまでに心がざわつくのか。
――何を見落としている……。
一度ガルドンモーラより離れ、ラルファンに思考の対象を切り替えるトーリ。
彼が治めた王国ロレンシア、彼が娶った妻、彼が育てた一人娘。
――一人娘……、蒼い花の女王リーシェ……。
英雄王の一人娘は父亡き後、アンヘイとの和睦の為、人質として狂王のもとへと送られた。
そして解放戦争の終結と同時に帰国すると、その後は女王として英雄王の娘に恥じぬ統治でロレンシアを見事復興させるだけでなく、ミドルフリアでも有数の強国にまで押し立てた。
彼女の統治は冷然たる合理主義であり、ロレンシアの貴族社会の内に君臨すれど諸侯と必要以上に馴れ合うような真似は決してしない。
そのようなやり方は、惰性で続く名門貴族達の反感を買う事は多かったが、代わりに燻っていた有能者や貴族に不満を持つ平民達からは絶大的な支持を受けており、蒼い花の女王の異名で彼女は人々に慕われ、敬われている。
完全無欠の名君にすら見える蒼い花の女王。しかしそんな彼女にも眉をひそめたくなる話の一つぐらいは存在していた。
それは王位継承者でもあった彼女の一人息子についての事である。
その子供は、彼女が帰国後まもなくして生んだ子であり、その赤子の瞳は母の美しき青い目とは似ても似付かぬ色をしていた。
瞳の色だけではない。髪の色も、肌の色も違ったのだ。
黄色い肌に黒い髪、つまりは東黄人との間に出来た子供であった。
狂王のもとへ人質として送られ帰って来た彼女が東黄人との子を生んだ。
その事実に、誰もが想像を同じくした。
その赤子の父親は狂王ではないかと。
無論、女王達が公にそれを認める事はなかったし、そもそも東黄人至上主義者であった狂王が色の違う女との間に子を作るかという疑問も浮かびはしたが、この恐ろしき仮定は拭い難く、ロレンシア国民の間に長く燻り続けた。
それほどに狂王の堕とし仔は皆に恐れられていたのだ。
解放戦争後、フリアに地獄をもたらした狂王の再来を防ごうと、人々はその血を絶やす事に躍起となった。
教会主導のもと『狩り』が各地で徹底して行われ、戦地から脱した狂王の親族から使用人達までも逃がしまいと、証拠はなくともその疑いだけで次々と東黄人達が拷問、火刑に処され、まさに大量虐殺がフリア東部を中心に至る所で発生したのである。
誰もその凶行に声を大きくして反対する事は出来ない。いや、したところで止まるはずもなかった。
この『狩り』はフリアの地を浄化し、安寧をもたらす為に教会が出した聖命なのだから……。
対象は当然のように赤子にも及び、罪も無き母子が告発という死刑宣告を受け、炎に焼かれ死んでいった。
正義の名のもとに、業火は多くの東黄人の命を灰へと変えてしまったのである。
そのような狂気なる執行の手が、ロレンシアの女王が生んだ赤子に及ばなかったのは、彼がまさしく女王の息子であり王族であったからに他ならない。
当時の教会も一国家の王族には証拠もなしには強く出られなかったのだ。
こうして難を逃れたかに見えた女王の子であったが、さらなる過酷な運命が彼を待ち受ける事になる。
それは通称『風月の黒蠅事件』とも呼ばれ、後にロレンシア中を揺るがす事に繋がる一つの強盗事件より始まる。
『黒蠅』とは当時ロレンシアを騒がせていた強盗団の呼び名であり、彼らは過激かつ手際の良い犯行を重ねに重ね、貴族達の所領を荒らしまわっていた。
あまりの手際の良さとなかなか捕まらない強盗団に、どこか有力な貴族の後ろ盾を得ているではと噂される事もあったが、被害を被るのがその貴族達が中心なのだから、所詮は噂止まりに終わる。
そしてある年の風月に事件は起こる。ラザーン公領で金貨の輸送の任に当たっていた荷馬車隊が『黒蠅』に襲われ、同行していたラザーンの公太子までもが巻き込まれ重傷を負ったのだ。
その報を受けたラザーン公の怒りは凄まじく、彼は際限なく捜査費をつぎ込むと『黒蠅』の隠れ家を見つけ出し、制圧。
あっという間に事件を解決してしまった……、かのように思われたのだが、事件はこれで終わらない。
捕まった『黒蠅』の一人がラザーン公領での事件は依頼を受けてのものであり、それも狙いが金貨ではなく公太子であった事を自供したのである。
事件は単なる強盗事件ではなく、暗殺未遂事件の様相を呈するようになったのだ。
ラザーン公太子暗殺未遂事件の黒幕として最初に挙がったのは、政争相手である貴族達であった。
ラザーン公は英雄王ラルファンの実弟であり、紛う事無きロカの血が彼には流れている。
その息子であるラザーン公太子も当然それは同じであり、公太子はラザーン公領の第一後継者であると同時に、王位継承権の保持者でもあった。
ロレンシアでは王位は基本として、王からの指名による選抜制で決められており、たとえ生まれによる王位継承権の優先位が最後尾にあったとしても、指名を受けた者が次期国王となる事が出来る。
そして当時ロレンシアは次期王の座を巡り、真っ二つに勢力が割れていた。
有力候補の一人が女王の息子であるのは自明として、その対抗となっていたのが件の暗殺未遂事件の被害者、ラザーン公太子であったのだ。
公太子は容姿端麗かつ文武に優れたる才人として領民達から慕われるだけでなく、諸侯からの信頼も厚く、特に女王の統治下で煮え湯を飲まされる事も多かった名門貴族達からの期待は大きかった。『古き良きロレンシアをもう一度』を合言葉に、彼らはラザーン公太子こそが次期国王に相応しいと、その後押しを熱心に行っていたのである。
対して、国民達から絶大な支持を受ける女王とは違い、その息子は曰くある出自から人々の覚えも悪く、女王派とされる臣下の中にすら彼を後継者候補から外すべきだと主張する者がいたという。
そのような状況下で女王がくだした一つの決断。
それは彼女の息子が齢十五のうちに、後継者の指名を行うという事であった。
要するに、自身の息子とラザーン公太子のどちらを次期国王とするかの判断を下すというのである。
当然両人の支持者達はその期限まで裏表問わず熱心に働き、さらなる支持者を集め、国民達を煽った、次の国王に相応しきはどちらぞと。
その時、貴族達とは別に公太子の大きな後ろ盾となった勢力が存在した。
ロレンシアのみならずミドルフリア、延いてはフリア全土にすら影響力を持つ一大勢力『フリア教会』である。
教会が公太子の後ろ盾となった理由はきわめて単純で、彼らとしても狂王の堕とし仔の噂があるような者が一国の王に選ばれるのは好ましい事ではなかったのだ。
そのうえ、女王の統治は彼らにとって都合悪き事も多く、もし古い政治の理解者ともなれるラザーンの公太子がロレンシアの王となれば、教会はフリアの地における影響力をさらに強める事も可能となる。
玉座を狙う公太子派と教会の利害は『息苦しい女王の統治からの脱却』という点で一致していた。
アンヘイを滅亡させフリアの地を救った連合の旗振り役となった教会は、他国と同様にロレンシアでも国民達から多くの支持を集めており、その彼らが公太子派についた事実は大きかった。
当初こそ拮抗していた両陣営の勢いも、次第に天秤は公太子派へと傾いていき、日が経つにつれ、その差はどんどんと開いていく。
そして貴族、聖職者、平民と、あらゆる層から公太子を支持する声が高まり、絶対的なはずの女王ですらそれを無下に出来ぬほどになった頃、『ラザーン公太子暗殺未遂事件』が発生したのである。
事件は、劣勢をひっくり返す為に王子派の支持者達により企てられたものだと疑われ、捜査対象として多くの王子派の貴族達が徹底的に調べられた。
公正性を重んじるロレンシア女王としても、あからさまに捜査を妨害するような真似は出来ない。女王に出来る事は、彼らの無実を信じ祈る事ぐらいであった。
だが結末は最悪なものとなる。
物的証拠を伴って何人かの王子派の者達が逮捕されるだけでなく、調べに対して犯人の内の一人が驚くべき事を自供したのだ。
それは、この暗殺計画の指示を出したのが女王の息子自身であるとの、彼女にとって信じ難いものであった。
ロレンシア中に激震が走った。
曰くの王子が卑劣にも己の対抗者であったラザーン公太子の暗殺を謀るとは、やはり悪魔の血を引く者か、と。
物的証拠を伴って次々と判明する事実に、王子派だった者達の多くも渦中の王子を見放し、ロレンシアの人々は憎悪の念すら向けて彼を糾弾した。
王室より追放せよ、いいやそれでは足らぬ、たとえ王族とて処刑に科すより他になしと。
女王も証拠を突きつけられて追求されれば、たとえ己の息子とて理を以って庇い立てする事は不可能。
合理のもと多くの貴族達に煮え湯を飲ませてきた彼女が、もし、己の子かわいさに強引に事件を終幕させれば、内乱にすら発展しかねない事態となっていた。
ロレンシア国中が王子の死を望んでいた。
当の本人は陰謀を訴えていたが、そんな主張をいくらしたところで、彼の声に耳を貸す者などいない。
英雄王の娘は国民達に愛されていたが、彼女の息子は違う。
自由なるフリアの地であっても、肌の色が異なるだけで色眼鏡で見られる事は避けられず、ましてや東黄人となるとなおさら、狂王の堕とし仔となると言わずもがなである。
忌まわしき血を宿す悪魔の子の一刻も早い死を、人々は求めていたのだ。
そして女王はついに彼らの声を受け入れ、年の終わりに己の息子を火刑に処する旨の皮紙に署名する。
刑の執行日を、全ての罪の赦しを慈悲の女神に乞う月である『祈月』にした理由、それは女王から息子へのせめてもの情けであろう。
処刑当日、刑の執行が行われる王都の広場は、ロレンシア中より集った大勢の人々で溢れかえっていたという。
教会と並び不可侵の象徴たる王族の処刑など滅多に見られるものではない。
平民達は期待していたのだ、王族が流す赤い血が見たいと。
けれども、日々理不尽を被る貧民窟の人間も、生まれながらにして贅を約束された王宮に住まう人間も、同じ赤い血を流すという単純な事実は、王家の血の神聖を貶める事になる。
無学な貧民達にまでその事実を知られるのは、一国の支配層に位置する者達にとって都合悪き事でもあった。
『王族の血は俺達と違って赤くないらしい』。
馬鹿馬鹿しくとも、この不条理な世界で支配者が支配者であり続けるには、街々で囁かれるそのような迷信すらも利用する必要があったのだ。
処刑といえど血を流すのは都合が悪い。されど、絞首刑では期待し集った人々を満足させる事は出来ない。
そこで選ばれたのが火刑である。
火刑ならば血を流す事なく刑を終える事が出来るうえに、炎に身を焼かれ、異臭を放ち、咎人が喚く様は見物人を満足させる事だろう。
加えて、なにかと火刑を好む教会の心証も良い。
そのような政治的判断から、女王の息子は業火に焼かれる事となったのである。
しかもその炎を焼べるのが、女王自らの手でというのだから、刑を目にした者達はさぞ驚いた事だろう。
刑の執行時、群衆が咎人に罵声を飛ばす中で、顔色一つ変えず彼女は己の息子を火に掛けたという。
生まれながらにして呪い子の噂を立てられ、ついに十五の時に自身の母親の手によって身を焼かれる事となった哀れなロレンシアの王子。
その王子の名を、ベルフェン王国にて長らく政治に携わってきた老魔術師も記憶している。
呪い子の名は……。
――レグス……。
血の気が引いた。
全てが繋がったその恐ろしさにトーリは震撼した。
何年も前に死んだはずのロレンシアの王子と同じ名を持つ、同じ年頃の、同じ人種の男。
それが今日、この戦場に立っている。
――偶然か? 馬鹿な、こんな偶然があるものか!!
動揺を覚えながらも、トーリはこの信じ難き事実をどうにか冷静に処理しようと努める。
他に何か大切な事を見落としていないか、必死に脳味噌を働かせ考える。
そして彼は思い出す、男が所持していた指輪の事を。
――そういえばあの指輪の意匠、あれはまさか、至上の蒼き花『サフィルス』か!!
『サフィルス』はロレンシアを代表する国花であり、また王室であるロカ家の紋章としてもこの花は使用されている。
さすがに指輪と王家の紋章では意匠が異なるものの、気付いてしまえば同じ花を表していると十分に見る事が出来た。
老魔術師が思い出す記憶の多くが、ロレンシアの王子とあの邪剣使いとを結び付けている。
――もはや同一人物と考えるのが自然にすら思える、だが……。
たった一つの絶対的な事実がそれを否定していた。
どれほど偉大な者も、死ねば皆、肉体より魂は離れ大いなる流れの中へと帰る事になる。
神々に認められた高潔な魂が聖人として選ばれ現世に帰るなどという伝説もあるにはあるが、所詮は記録も不確かな伝説。
それに、たとえ禁術たる死霊術を用いたとしても、出来上がるのは生ける屍にすぎず、やはり生前の人物でありはしない。
『死んだ者は生き返らない』。
これは人類の長い歴史の中で、偉大なる魔術師達ですら抗えなかった不変の事実。
そして、ロレンシアの王子は公衆の面前で火刑に処され、焼かれ死んだはず……。
――であるなら、あの男はいったい……。
トーリが記憶の迷宮で手にした光明。
その光が照らし出した先には、さらなる深い闇が広がっていた。




