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黒剣

 ベルティーナを助け、シド達すらも苦戦するダークエルフをわずか一太刀で斬り殺した男。

 それはレグスであった。


「邪魔だ、どいてろ。こいつらは俺が狩る」


 乱暴な口調でベルティーナに命じるレグス。

 彼の瞳には深い闇と狂気が淀んでいた。


――これがこの男の本性?


 ベルティーナは目の前の男に驚き、途惑いを覚える。


 ゲッカと自分達に名乗ったこの男は掴み所がなく、どこか無感情にすら見える印象であったのに……。

 それがどうした事か、まるで別人だ。

 掴み所がないどころかはっきりと男から伝わってくる異常なる狂気。

 これが男の本性だとしたら、自分達は何と危険な人物を招き入れていたのだろうか。


 動揺し己を見つめるベルティーナに、レグスはまるで興味を示さない。

 乱暴な一言をかけた後、すぐに次なるダークエルフの方へと彼は向かっていく。


 その様子をどこか唖然と見ていたガドー達だったが、次の標的へと近付く男の姿にハッとし、ディオンが声をかける。


「気をつけろ、ゲッカ!! こいつらかなり腕が立つ!! もしかしたら、昼間お前が相手にした壁の民以上かもしれん!!」


 ディオンは己が相手したダークエルフがわずか一太刀でやられてしまったのは、あくまでその一撃が不意打ちによるものであったからだと考えていた。

 だから彼は慢心しているわけもないだろうと思いながらも、いちおうの注意を促がしたのである。


 しかしその言葉にはまるで反応を見せずレグスは向かっていく。

 相手の方もそれに気付き、剣を構え直す。今度は不意打ちとはいかない。

 一対一の真っ向勝負であった。


 それを見守る者達は言いようのない緊張感に襲われる。

 無理もない。レグスの強さは決闘裁判での激闘で証明されているが、枯れ森のエルフの精鋭隊とてその力量はずば抜けている。

 勝てる保障などないと、ディオンやガドー達は思っていたのだ。


 レグスと枯れ森のエルフの二戦目、先に仕掛けたのはダークエルフの方だった。

 調子良く駆け出した精鋭エルフが、相手との距離を縮めながら加速していく。

 その加速に合わせ、迎え撃つ構えを見せるレグス。

 そしてある程度の距離まで互いが近付いた時、ダークエルフが急加速する。


――速ぇ!!


 ディオンとガドーの想像を上回る急加速。

 魔法の力によって強化されたダークエルフの瞬発力は驚異的な加速を生み出していた。

 それもただ速いだけではない。

 この尋常ならざる急加速によってレグスの反撃の間を完全に外している、……ように周囲の者達には見えていた。


 だが……。


「まじかよ……」


 ガドーの目の前で再び瞬殺劇が繰り広げられる。

 レグスがまた一太刀にて相手のダークエルフを葬ってしまったのだ。


――マジで化け物か、こいつ!?


 昼間の決闘でブノーブを相手にしたその奮闘っぷりも驚くに値する見事なものであったが、まだあれはほとんど互角の実力に見える戦いであった。

 それが今度は圧倒的な瞬殺劇。

 ダークエルフ達がブノーブよりも弱いのか、明確にそれほど差がある相手なのか……。


 いいや、そんな事はないはずだ。

 少数精鋭で斬り込んできたダークエルフ達もかなりの凄腕に違いない。

 ディオンが剣を交わえた感覚で言えば、ブノーブ以上の剣の使い手にすら思えたのだ。

 もちろん彼は直接ブノーブとやりあったわけではない。錯覚だといえばそれまでの事である。

 しかし、いくらなんでもこれほどの差とは……。


 ガドー達はレグスのあまりの強さに戦慄した。


「隊長」


 残る煉撰隊の面々のうちの一人がケルドラに声を掛け、仲間が討たれた事を知らせる。

 すると、それまで余裕を感じさせる空気を漂わせていた煉撰隊の者達、その空気、顔付きが変わった。

 乱戦の最中にありながら、彼らの視線が自然と仲間を討ち果たした男の方へと注がれる。


 そして五人のダークエルフ達が部隊の長であるケルドラを中心に、レグスのもとへと向かっていく。


 手を出せる空気ではなかった。

 助太刀や不意打ちを行う、そんな気を起こさせる状況ではなかった。

 それでも幾人かの壁の民達がダークエルフ達に向かって果敢に斬りかかっていくが、やはり相手にならない。

 鮮やかな反撃で瞬く間に斬り伏せながら煉撰隊は標的に向かって進んでいく。


 そうしてレグスの前に立った枯れ森のエルフの精鋭達。

 仲間を二人も屠った標的を前にして、ケルドラが口を開く。

 彼の口から聞こえてきたのは青語であった。


「溢れ出る邪悪な気と禍々しき異様の黒い剣、それに闇に淀むその瞳。……貴様、使ったな。黒剣に宿る外道の力を」


 侮蔑、嘲笑、呆れ、憎悪、敵意、警戒。

 あらゆる感情が込められたケルドラの言葉にも、レグスはこれといった反応を見せはしなかった。


「ふん、無視か。それとも言葉を交わす事も出来ぬほど、すでに正気を失ったか、愚かな人間よ」


 やはりレグスは語らない。

 暗い闇を宿したその瞳でじっとダークエルフ達を見つめている。

 いつ斬りかかってこようと、迎え撃てるように。


 そんな男の様子にこれ以上の言葉は無用と、ケルドラは自分達の言語に切り替えて同胞に命じる。


「お前達、奴を人間だとは思うな、化け物と思え。欺瞞の神々と愚かな人間共が生み出した業深き黒剣の力は、脆弱な人間をも怪物へと変える。手抜きも遊びもなしだ、最初から全力でいく」


 部隊長からの命にダークエルフ達の反応は分かれた。


「ちょっとは出来そうなのと遊べるかと思ったのに、五人がかりで全力かよ。つまんねぇ、あっと言う間だなこりゃ」


 不満気にそうこぼす者もいれば。


「油断するな馬鹿。隊長がわざわざそう命じるのはそれほどの強敵だからだ」


 それを注意し気を引き締める者もいる。


「ちっ、だけどラルダラ達を殺った糞人間をいたぶれねぇのは残念だぜ」


 仲間の無念に面白くない思いをしているのは、彼一人ではない。

 他のダークエルフ達もそれは同じである。


「弔いならば他の人間共の血と骸の山でやってやればいい。獲物は他にいくらでもいるんだ」


 そのようにいくらかの会話をダークエルフ達が交わした後、煉撰隊の隊長たるケルドラから攻撃開始の命が飛ぶ。


「では……、始めるぞ!!」


 ケルドラの合図を受けて、左右両端の二人がそれぞれ大きく分かれ、挟み込むようにしてレグスに襲いかかる。

 時間をおかずに残り二人のダークエルフも続く。

 そして最後にケルドラも動き、たった一人の標的に向かって五人もの精鋭が同時に斬りかかった。


 四方八方から繰り出されるダークエルフ達の斬撃。

 人の身にある者ではとても防ぎきれるようには思えない、それほどに圧倒的で巧みな連携術だった。


 だからこそ、勝負は一瞬にして決まると思われた。


――なんて野郎だ!!


 ガドー達の目の前で黒い剣の使い手が乱舞する。


 ダークエルフの連携攻撃を受けながらも、それを止め、流し、かわし、強引に連携網を斬り裂き、致命の反撃を入れていくレグス。

 彼には見えていた、高速で繰り出される剣の軌道、その全てが。

 そして反応し切っていた、四方八方、死角から放たれる一撃にすらも。

 人間技とは思えない超人的な剣捌きに身のこなし。

 黒い剣が嵐のように荒れ狂い、枯れ森の精鋭達を斬り殺す。


 圧倒する、まるで雑兵を蹴散らすが如く、煉撰隊の面々を圧倒し斬り殺す。

 レグス達の戦いを見る者の予感は正しく、確かに勝負はすぐについた。


 全滅。

 斬りかかった五人のダークエルフ共の敗北という結果でだ。


「まさか邪剣の力がこれほどとはな……」


 膝をつき血反吐を吐きながら青語で呟く敗北者ケルドラ。

 彼は他の四人とは違い即死こそ免れてはいたものの、体に負う傷口からは大量の血液が噴出している。

 もはやそう長くは持ちそうにない。


「だがな覚えておけ、愚かな邪剣使いよ……、いずれその剣は主であるお前をも喰らうだろう……」


 侮蔑と憎悪を込めた口調にて、死を悟りながらもケルドラは語り続ける。


「惜しい、まこと惜しいぞ。逃れえぬ破滅がもたらすその断末魔の叫びを聞けぬのがな……」


 呪々しく捨て台詞を浴びせ続けるダークエルフをレグスが振り返り見る。

 彼の瞳は無感情にケルドラを見下ろしていた。


「何をほざいてるか知らんが、青語ぐらい次はもっと上手く喋れるようにしておけ。それでは聞き取れん」


 レグスの口調は単純に死にいく者の訛りのひどさを馬鹿にしているものとは違っていた。

 もっとごく単調で、ある意味自然な口調。無感情に等しい純粋な言葉。


「……あぁ」


 何かを思い出したかのような表情を見せてレグスは言う。


「お前に次はないのか……」


 その言葉と表情で、死にゆくダークエルフは理解する。


――やはりこの男、既に正気を……。


 その瞬間、黒い剣がケルドラに向けて振り下ろされた。



 シュドゥラのもとに『煉撰隊』全滅の報が届けられたのは、ケルドラの死後まもなくしての事であった。


「馬鹿な、全滅だと!? ケルドラまでもがやられたと言うのか!?」


 同胞よりその知らせを受けた枯れ森のエルフの長はうろたえながら報の信憑性を確認する。

 しかし彼が望むような答えが返ってくるわけもなく……。


「いくつかの経路から同じ内容の報が届いております。まず偽報や誤報の可能性はないかと」


 顔色を蒼白とさせながら報告する同胞の返答に、シュドゥラは明らかに気落ちしてみせた。


 いくら精鋭といえど、壁の民が守る城の内へと乗り込めば無傷ではいれまい。そんな事はわかっていた。

 一人や二人欠ける事は覚悟のうえでの投入であったのだが、まさかあの手練れ共が全滅という結果になろうとは……。


「それでケルドラ達が築いた橋頭堡の方はどうなっている? そこから崩せそうか?」


 これでせめて城攻めの橋頭堡をしっかりと築けたのなら、多少なりとも精鋭隊を送り込んだ意味もあろう。

 しかし……。


「残念ながらオークやリザードマン達では敵の反攻を受け切れそうもありません。じきに城外へと追いやられてしまうかと」


 城攻めの状況が好転する事もなく、枯れ森のエルフ達は貴重な精鋭戦力を失ってしまった。

 まさに最低最悪の結果であった。


「それとケルドラ様からの報せも別に届いておりまして……」

「ケルドラからだと?」


 わざわざあの男が死の直前に残した報せ。

 よからぬ予感がシュドゥラの胸をざわつかせる。


「『黒い剣の使い手』が現れたかもしれないと……」

「黒い剣の使い手……」

「しかも信じ難い事ですが、報告では煉撰隊はどうやらその剣の使い手、ただ一人の手によって全滅させられたようでありまして……」


 そこまで聞いて、ようやくシュドゥラは合点がいった。

 どうして一騎当千の兵達が全滅してしまったのか。

 どうしてわざわざケルドラが死の直前に意味深な言葉を残していたのか。


 黒い剣。

 この状況で思い当たる物がシュドゥラにはある。


「そうか、そういう事か……。やってくれた、やってくれたな!! 傲慢な偽神どもに仕える蒙昧な奴隷めらが!!」


 枯れ森のエルフの長が煉撰隊の全滅に落胆し、黒い剣の使い手の出現に憤る頃、その当人たるレグスは、ダークエルフ達に続き乗り込んできた魔物共を掃討せんと敵軍の群れの中へ単身斬り込んでいた。

 その暴れ様たるや、どちらが人で、どちらが化け物かわからぬほど。

 黒い剣の乱舞はオークやリザードマンをいとも簡単に蹴散らし続ける。


 彼に続くようにして壁の民達も奮闘してみせるが、やはりこの場に異様に目立つのはレグスの活躍であった。

 それを少し遠目から眺める老魔術師トーリ。彼は乗り込んできた敵を追い払う援護をしようと他の場所からわざわざ駆けつけたのだが、到着した時にはすでにこの場の戦況は決まってしまっていた。


 乗り込んできた魔物共をどんどん押し込む防衛側の兵達。

 老魔術師の助けがなくとも、このまま敵を城外へと追いやれるだろう。

 それほどに防衛側の勢いは凄まじい。

 その原動力となっているのは異様の黒き剣使いの活躍に違いない。

 いったい何故彼はそれほどに強いのか……。


「まさかあれは……」


 様々な知識をもつ老魔術師は人外の剣捌きを見せる男の戦いっぷりと、彼の体と剣より発せられる邪気を感じ取りながら、その正体に気付く。


「『ケルサスケントゥリア』、『百魂の剣』か!!」


 かつて天の慈悲深き女神ティアタムは、苛烈極まる天魔の戦いの最中にあって、彼女の信徒たる者達に穢れに堕ちた魂に救いをもたらす神剣を授け(たも)うた。

 その神剣には邪に囚われた魂を浄化する神力が備わっており、宥恕と慈悲の女神の信徒らはこの剣を用いて戦い、多くの魂を救済したという。

 されども時が流れ、五大国の勢いが増す世になると、慈悲深き女神が与え給うた神剣は貶められ、その名と姿を変える事になる。

 時のユロア大連邦、青国の大王に仕える魔術師達が企んだのだ。

 神剣の力を歪めれば、剣の内に閉じ込めた魂を浄化するのではなく、己の力とし利用出来ぬかと。


 彼らの企みは見事成功した。

 多くの失敗と犠牲を伴ったが、神力を歪めし禁断の魔剣を完成させてみせたのである。

 そして魔剣は青国の大王へと献上され、彼の大王はその破壊的な威力を目の当たりにする事になる。

 一目でその恐ろしき剣の力に魅入られた大王は、各地に眠る救魂の神剣を狩り集め、それをもとにして魔術師達に魔剣を量産させた。


 こうして生まれたのが『ケルサスケントゥリア』、またの名を『百魂の剣』と呼ばれる百本の禍々しき邪剣であった。


 百本の邪剣にはそれぞれ名が与えられた。

 ある剣は王より、ある剣は主より、ある剣は戦いでの活躍を以ってして、そしてある剣は忌み恐れられて……、時と場を変えながら、それぞれに名がつけられていった。

 それから膨大な時を積み重ねる内に、最初に与えられた名すら変え、姿をも変える事もあったが、邪剣の持つ凶悪な力はいつの時代も変わる事はなかった。


 神の力を歪めし禁断の魔剣にして破滅をもたらす邪剣『ケルサスケントゥリア』。

 男が持つ黒剣も、そんな内の一本に違いなかった。


「なんという物を……、正気か? あの男……」


 黒き邪剣を扱い魔物共を蹴散らす男を、手放しで称賛する事などトーリには出来ない。

 剣の正体に気付いてしまったのならば、彼はむしろ懸念せねばならなかった。

 邪剣の力を利用する反動、その恐ろしさを。


 百魂の剣には大きな副作用があった。

 魂が持つ穢れをも力として利用する為に、発動する力の大きさに比例して、剣の使い手にも尋常ならざる負担がかかるのだ。

 肉体的な負担はもちろんの事、それ以上に精神にかかる負担はより大きなものとなる。

 凡人では一振り分と持たず命を落とすか、正気を失う事になろう。

 鍛錬に鍛錬を積んだ不屈の精神力の持ち主にのみ、この邪剣は扱う事が出来た。


 しかし、不屈の精神力を持つはずの者ですら邪剣を使い続ければ、やがてその魂は磨耗し、命を落とすか正気を失う事になる。

 それは邪剣を使い続ける者が決して逃れる事の出来ぬ破滅の宿命であり、代償。

 事実、長い歴史の中で百魂の剣は多くの破滅を生み出してきた。


 魔剣『亡骸の城(キャッスルオブボディ)』を手にしたある国の将軍は、剣の力を以って自軍を勝利間近に導きながら、戦いの最中に発狂し敵味方かまわず全滅させてしまう。

 魔剣『黒涙(ブラックティア)』を手にしたある流浪の戦士団は、恐ろしき魔物を討伐し救国の英雄になる寸前のところで同士討ちを始め壊滅。

 魔剣『渦巻く者(トルネーダー)』を手にしたある奴隷剣闘士は、見事百連勝を飾り、自由の身となった後に王都を脅かす通り魔となり、最後には処刑台へ送られた。


 利用した誰もが剣に魅入られ、魅入られた者達が等しく破滅を迎えたのだ。


 そもそもからして、邪剣の力を利用し勢力を急拡大するユロア大連邦で起きた大内乱、その原因となったのがこの百魂の剣であるというのだから、どれほど曰くある物かがわかるというもの。

 トーリは警戒せねばならない。

 魔物を薙ぎ払う男が正気を失い、こちらに刃を向けだしかねないという事を。


 そんな老魔術師の心配をよそに、レグスは順調に魔物共を斬り殺し続ける。

 邪剣を手に戦うその男の顔には笑みすら浮かんでいた。


――なんと笑うか、この状況で。


 それは一時劣勢であった戦況を盛り返した安堵の笑みには見えない。

 もっと残虐で恣意的な笑み。


 黒き剣を手に戦う男は楽しんでいるのだ、この戦いを。


 違う。彼にとってこれは狩りだ。

 男の戦いは一方的に暴力を行使し、死を貪り喰らう底なしの獣の姿そのものであった。


 寒気がした。

 魔術と政治の世界に身を投じ、数多の恐ろしき残酷を目にしてきた老魔術師が男の戦いに震えたのである。


――まさに悪魔的よの……。


 いったい何が悪魔的なのか。

 それは男の戦いっぷりであり、魔剣の力であり、そして魔剣を生み出した人間の業がである。

 されどその悪魔的業を以って魔剣は生まれ、その剣の力を行使したからこそ、一度崩れかけた戦線を立て直せたのだ。

 恐ろしくとも、それをことさら批難する事などトーリには出来なかった。


 ただ単に戦いに有用な戦力となるからだけではない。

 彼は自覚していたのである。

 所詮、己もまたその悪魔的な人間の業に生きてきた者である事を。



 殺しに殺し。

 やがて煉撰隊に続き城内に入り込んだオークやリザードマン達を全滅させてしまうと、邪剣を振るう男はまだ殺し足りぬとばかりに城壁の際に向かい歩を進めだした。


 その後姿にトーリは直感する。


――まさかあの男、城壁から外へ飛び降りる気か!?


 城外には殺しても殺しても群がり続ける魔物の大軍勢、魔物の海が存在している。

 その海へと邪剣使いは身を投げようとしていた。


 城壁の高さがどうだと言う以前に、味方もいない敵陣の真っ只中に飛び降りて戦うなど正気の沙汰ではない。

 たとえ魔剣の力を得て人外の強さを誇ろうと、たった一人で城外から押し寄せる魔物の波を全て捌き切れるとは思えない。

 考えるよりも先に体が動いていた。


 老魔術師は急ぎ詠唱を行いながら地面に魔法陣を描いていく。

 その間にも、レグスはどんどんと歩みを進めていき、城壁の際へと迫る。

 そして彼が城壁の際に立ちまさに飛び降りんとするその寸前、トーリは魔法陣を完成させ、術を発動させた。

 魔法陣より影なる手が邪剣使いの体目掛けて伸びていく。


 トーリのその魔法に対してレグスの反応が遅れたのは、その術に殺意がなかったから。

 老魔術師が彼を救わんと思い、発動させた魔法であったからだろう。

 影なる手はレグスの体を掴むと、彼を城壁上から内へと強引に引きずり落とす。まるで地面に叩きつけるよう無理矢理に。

 その不意の激しい衝撃にレグスの意識が一瞬飛ぶ。


「邪剣使いの小僧よ、気は確かか? それとも剣の魔に呑まれてしもうたか」


 禍々しき黒剣を手に握り締め仰向けに倒れる男に近付き、トーリがその顔を覗き込む。

 息はしていたが瞳は闇に沈み、焦点が合っていない。意識が正常にない証拠だ。


 短く詠唱し杖を軽くレグスの体へと当てるトーリ。

 すると、杖を当てられた体が跳ねるようにして反応を示し彼の意識が覚醒した。


 意識を取り戻したレグスは朧気な視界に映るトーリの姿を見て呟く。


「ガルドンモーラ……」


 その言葉が何を意味するのか、この時はまだ老魔術師は気付かない。

 ただ、どこかで聞いた覚えのある言葉の響きだと感じるだけである。

 深く考えはしなかった。

 状況が状況だけに、呟き漏らした言葉の意味を考えるより先に、他に優先すべき事があったからだ。


「まだ呆けておるか。しっかりせぇ。こんなところで寝ておると、流れ矢を喰ろうてしまうぞ」


 トーリにそう声を掛けられて、ようやくレグスは正気に返る。

 一人で体を起こし、立ち上がる彼に老魔術師が言う。


「お前はその剣が、いったいどのような物であるかをわかって使っておるのか?」

「……無論だ」

「邪剣の力に頼る代償は高くつく、お前もその事は理解しておろう。賢き者の選択とは思えんな。現にお前は今、正気を失っておった」


 咎めるような視線と言葉を浴びせるトーリに、レグスは冷ややかに返答する。


「だが城は落ちなかった」


 老魔術師は言い返す事が出来なかった。

 実際、彼が魔剣の力を使わねば、戦況は非常にまずい状況であったのだ。

 それに加えて、なんだかんだでこうして無事に正気を取り戻してもいる。

 結果としては、男の選択は大正解だったといえるだろう。


 微妙な空気が二人の間に漂う中、不思議な力の接近をトーリは感じた。

 何かがここへ近付いてきている。


「レグス!!」


 宙を飛びながら二人のもとへやってきたのは青き霊体を持つ少女であった。


 レグスの異変に気付き慌て駆けつけた彼女の姿を見てトーリは驚いた。

 そして彼女の霊体より溢れ出る不思議な力を感じ取りながら、老魔術師は二つの事を思い出す。

 一つは、その力がこの戦場でときおり感じられた異質な力と同じ類いのモノであった事。もう一つは、戦いの直前に壁の民達が交わしていた会話の事だった。


 その者達曰く、この戦いには偉大な精霊様が助力してくれるのだという。


――この娘が、あやつらが言っていた精霊か!!


 なんと立派な霊体であろう。

 間近で見て、その力を感じ取るだけで、格の高い精霊である事が直感的に理解出来た。

 それに加えて、基本精霊というのは人を嫌うとされているのだが、どうもこの精霊は様子が違うらしい。

 老魔術師の目の前で邪剣の魔に侵され正気を失っていた男の体調を心配し、力を使った事を咎め、ずいぶん親しそうにあれやこれやと会話しているではないか。


 驚きの連続だった。

 目の前の男が邪剣を手にしている事も、精霊の仲間がいた事も、ちょっとやそっとの出来事ではない。


 そして、その驚きや付随する疑問の山を押し退けて、前面に飛び出してくる一つの根本的な疑問。


「恐ろしき魔剣を振るうだけでなく、これほどの精霊までも連れておるとは……、お前さんはいったい何者だ?」


 率直な老魔術師の問いに、男は短く返答するのみであった。


「……さぁな」


 その言葉を残し、彼は精霊を連れ添いながら再び戦いへと戻っていく。

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