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蠢く影

 月に厚い雲がかかり、夜闇の暗がりが増す。その闇の中で蠢く影に誰も気付けはしない。

 神聖なる審判の日を明日にと控えた夜、代闘士レグスは街の住居区から隔離された建物の一室にいた。


 部屋の中で静かに虚空を見つめるレグス。そんな彼のもとへ小さな光体が近付く。

 装飾品の類いが一切なく、寝具と僅かばかりの光を取り入れる為の天窓しかない殺風景な部屋を眺めながら、浮遊するそれは言った。


「まるで牢屋のようね」


 声の主、光体の正体はセセリナだった。


「何故お前がここにいる。ファバはどうした。何か問題が起きたのか」

「まさか。あの子なら大丈夫よ。親切な方が面倒見てくれてるわ」


 その言葉にレグスは訝しげな目でセセリナを見た。


「安心なさいな。もともとあなたが頼もうとしていた、あの遊牧民の娘よ」

「カムか」

「ええ。彼女、結局放っておけなかったのね……。今は二人仲良く、天幕の中で御就寝中よ」

「ファバは何と?」


 変に自尊心の強いファバの事だからと、レグスは懸念していた。


「大人しくしてるわ」

「意外だな」

「いろいろあったのよ」

「いろいろ?」

「他の開拓団の人間と揉めたところを彼女に助けられたの」

「呆れたな。ダナの街の一件で多少は学んだものかと思ったが」

「あら、あなたがそれを言えて?」

「どういう意味だ」

「どうもこうもないわ。今回の事全部よ」


 精霊の少女はレグスをきつく睨む。


 互いが互いの言葉を待ち、静かな時間が過ぎていく。

 淀んだ空気の中、先に口を開いたのはレグスの方だった。


「星の(しるべ)を探せ、それ無しには旅は続けられない」

「何よ、それ」


 セセリナが顔をしかめた。


「指輪の中でお前も聞いていたはずだが、覚えていないのか?」

「いつの話よ」

「俺がまだ子供の頃、何回目かの誕生日を迎えた日の事だ」

「あいにく前にも説明したけど、盟約を果たすまで私は寝てる時間のが長いぐらいだったから、あなたの身に起こった出来事を一から百まで知ってるわけではないし、覚えているわけでもないの」


 霊力を少しでも高める為にセセリナは多くの時を指輪の中で眠って過ごしてきた。レグスが呟いた言葉が何を意味するのか、彼女にはわからなかった。


「そうか……。その日は俺の誕生日だった。王族の記念日ともなると無駄に盛大なものだが、数ある余興の一つとして王都で評判の占い師達が何人か呼ばれた……」


 古い記憶を思い出しながらレグスは語る。


 五、六人はいたであろう占い師達が次々と幼き日のレグスを占っていく。その結果、占い師達の口から発せられる言葉はいずれも似たようなものばかりで、つまりはどれも王族としての明るい見通しを示しながら、少々警告の込められた抽象的な物言いをするだけのひどく退屈なもの。

 それが四回も五回も続いていく。このまま終わったのなら、この出来事自体も忘却の彼方へと追いやられていた事だろう。


 しかしそうはならなかった。最後の一人となった老婆が、他のつまらない占い師達とは違っていたからだ。


 彼女は何処から王都へと来たのかもわからぬ流れ者であり、皺枯れた声で話す不気味な女だった。

 されどその不気味さが人を惹きこむ不思議な力を持っており、自然と耳を傾けずにはいられなくなるのだ。

 彼女の占いは他の者達以上に抽象的であり具体性に欠けていたが、もっとも特異だったのはその短さである。

 幼いレグスを一目見て、彼女はたった一言『星の導を探しなされ、それ無しには旅は続くまいて……』とだけ発し、後は無言を貫いた。


 その意味のわからぬたった一言が、他の占いよりもずっと印象深くレグスの内に残っていたのだ。


「あの罪人の言葉を聞いた時、その事が頭を過ぎった」

「まさか本気で占いなんて信じて、あんな無茶をしたって言うの?」

「信じた……、さぁどうだかな」

「呆れた。そんなくだらないものを当てにするなんて、どうかしてるわ。あなたらしくもない」

「俺らしくない、か」


 再び空気が淀んだ、その刹那。夜風が強く吹きぬけ、不気味な音を上げる。

 やがてそれは風のざわめきからクスクスと女の笑い声へと変化し、レグス達の部屋に響き続けた。


「何よ!?」


 異様な気配が部屋中に漂う中、一言も発さないレグスとは対照的にセセリナが声を上げる。


「隠れてないで出てきなさい!!」


 彼女の声に応えるように影が蠢いた。

 レグス達の目の前でそれは人の形を成し色付いていく、まもなくして影は妖艶な女へと姿を変えた。


「そう彼を責めてあげないで精霊さん。絶望の淵に立てば、誰でも藁にも縋りたくなるものよ。たとえそれが、狂王の堕とし仔だろうと」


 挑発的な笑みを浮かべながら女はレグスを見る。


「お久しぶりね」

「グロア……、幻影の魔女がいったい何の用だ」


 警戒心と嫌悪感を露わにしてレグスは女に問うた。


「あらあら、怖い顔をしないで坊や。あなたを心配して様子を見に来てあげただけじゃない」


 訳有り気な二人の様子にセセリナは強張った声でレグスに尋ねる。


「知り合いなの?」

「影法師グロア。『蛇』に所属し幻影の魔女とも呼ばれている。師ガルドンモーラは厄介な隣人と呼んでいた」

「厄介な隣人……。なるほど、道理で人間とは思えない邪気を感じるわけね。あなた……、『シャドルゥ』の者ね」


『シャドルゥ』は『エンテラ』とは似て非なる異界である。

 太陽の昇らぬ夜の世界であり、そこに住まう者達の感性もエンテラの人間達とは異なっている。

 人の形はすれど、人とは違う。

 グロアという名ですら通り名に過ぎず、真の名ではないだろう。


 影の魔女は多くが謎に包まれていた。


「まぁ、さすがは精霊さんね。初対面で言い当てられたのは二百年ぶりぐらいかしら」

「影の世界の魔女が、このエンテラの地に何の用があるって言うの? 何を企んでいるのかしら」

「企む? ひどいわ。私はただこの世界が気に入っているだけ。あなたも同じでしょ?」

「穢らわしい魔女と一緒にされたくないわね」

「あんまりな言い方ね。差別よ、偏見よ。か弱い乙女の心が傷ついてしまったわ」


 乙女と呼ぶにはグロアの容姿は扇情的すぎた。人として見れば、最低でも二十代後半にはなる外見であり、とてもではないが乙女とは呼べない。

 もとよりこの魔女は彼女の言をして数百年は生きている事になる。か弱いはずもない。


「つまらない芝居はやめろ」


 一切の同情心もなくレグスは魔女に言った。


「冷たいのねぇ」


 グロアが声色を変える。


「私は、『お前』の数少ない理解者だというのに」

「理解者だと? 笑わせるな。お前に人の心など理解出来まい」

「アハハハ、人? あの狂王の堕とし仔が、人間を気取るの?」

「黙れ」

「お前は私と同じ世界の住人よ」


 そう言って魔女は嬉しそうに語る。


「聞いたわ、明日の決闘裁判。相手は壁の民の戦士だそうね、それもとっておきの。……勇敢に戦い、同胞を救い、正義を知る、立派な大男」


 魔女の顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。


「お前はそんな男を、天界の神々の名を語り欺いて、殺そうとしている。己のエゴの為に、罪も無き無垢の民を手にかけようとしている。……似ているわね、そういう所。あなたの父親そっくりよ」


 レグスにとってそれは禁句にも等しい言葉だった。

 彼は隠し持っていた短剣を魔女目掛けて投げつける。


 しかし、急所に向かって飛んでいったはずの凶器は魔女の体を通り抜け、そのまま壁に衝突し落下した。


「無駄よ。目の前にいるのは魔女の影に過ぎない。本体は別の場所にいる」


 短剣が通った箇所をおぼろげに揺らす魔女の姿を見ながら、セセリナが言った。


「そうかっかしないで坊や。これでも私、褒めてるつもりなのよ?」


 相変わらず余裕の笑みを浮かべながらグロアは言う。


「だって、そうでしょ。あなたが立ち向かうものの大きさを思えば、こんな小さな事で躓いてはいられない。大事を成すなら情けなど邪魔になるだけ」


 魔女の瞳が妖しく光っていた。


「秩序など全てをゆっくりと腐らせていくだけで、退屈極まりないわ。どうして人は平穏などという無聊(ぶりょう)な日々を過ごす事を良しとするのかしら。その癖、争いをやめる事を知らない。本当は気付いているのね。気が狂うほどの激情の中にこそ、愛すべき生がある事を」


 狂気だ。この狂気こそが魔女が魔女たり、人々に恐れられる所以。


「ねぇ、お前も同じでしょ、ガルドンモーラの最後の弟子レグスよ。お前の命は正気でいられるほど、安い命ではないもの」


 淫惑な口調で放たれる魔女の言葉が場を支配しようとしていた。

 だが……。


「失せなさい。影の世界の者よ」


 人を惑わす魔女の言葉も精霊には通じない。


「これ以上、お前のその汚らわしい口説を続けるつもりなら、力ずくでも退場して貰う事になるわ」


 青く小さな少女は妖しくも禍々しい魔女に臆する事なく言い放った。


「あら、一匹の精霊にそんな事が出来て?」


 魔女の方もセセリナに気圧される様子はない。


「試してみる?」


 精霊と魔女がつかのま黙し睨み合う。

 そして……。


「……やめておくわ」


 退いたのは魔女グロアの方であった。


「坊やのかわいらしいお友達の頼みだもの、ここは素直に聞いておいてあげるわ」


 妖しげな笑みを浮かべたままグロアは言葉を続ける。


「壁を越えるつもりなら精々注意なさい。ヘルマの子供達がずいぶんと騒がしくなってる」


 ヘルマの子とは魔物達の事。魔女の警告にレグスが返す。


「冬は終わった」


 灰の地の魔物の動きが活発になるのは冬の期間と言われている。

 今はもう春に入った。本来その動きは多少なりとも大人しくなるはず。

 しかし、魔女はそうではないと言う。


「だけど夜はいつでもお前達の傍にある。望まずとも陽は落ちるもの。今度の夜は少しばかり長くなりそうよ」

「どういう意味だ」


 レグスは問うがグロアは答えなかった。


「ふふふ、生きていたらまた会う事もあるでしょう。楽しみにしているわ。……ああ、それと」


 何やら思い出したように魔女は言葉を付け足す。


「お前が連れてるあの男の子、あれはよくないわ」


 ファバの事だった。


「盲目な羊程度にしか思っていないのでしょうけど……」


 魔女グロアの姿がすっと消え、レグスの間近へと瞬時に移動する。

 そして彼女は彼の耳元へとその妖艶な顔を近づけ、囁く。


「あれは『飢狼の性』に生まれた者よ」


 そう言って妖しく微笑み、再びレグスから距離を取るグロア。


「決して満たされる事のない狼を飼いならそうなど無駄な事、早めに処分しておくのね」

「そんなくだらぬ忠告を、俺が相手にすると思うか」

「これは忠告じゃない、予言よ。戯れで傍に置いておけば、いずれお前に災いをもたらす事になる」

「……失せろ」

「精々その時になって後悔しない事ね、坊や」


 魔女はその言葉と共に彼女を形作っていた影を霧散させた。

 同時に、あの禍々しい気配が部屋からは完全に消えてしまっている。


「レグス、魔女の言葉など気にしちゃ駄目よ、明日の事に集中なさい」


 グロアが去った後、セセリナはレグスに気遣うような言葉をかけた。


「ああ、わかっている。魔女の忠告など詐欺師の戯言と変わりない」


 今さら魔女が何を言おうが、明日の決闘は待ってなどくれない。

 そして相手はこの冬一番の戦士となった大男ブノーブである。迷いを抱いたままでは、命取りになるだろう。


 レグスが生き残る為にすべき事、それはあの大男の戦士を殺す事に集中する事だった。

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