不如意
カムとの交渉が決裂した後、ファバはローガ開拓団のもとを離れ、一人別の天幕にて過ごす事になった。
もはやレグス達と開拓団との間に雇用関係は無いも同然であり、少年がシド達と共に過ごすなど論外の選択肢であったのだ。
そのうえ彼が壁の民の保護を受ける事を拒んだ為、このような状況と相成ったわけである。
まともに戦う事も出来ぬファバが壁の民の保護下に入るのを断るなど、ずいぶんとわがままな話にも思えるが、レグスには強く言う事が出来なかった。
彼自身、壁の民の保護下が少年にとって本当に安全な場所だとは言い切れなかったからだ。
それにベルティーナ達もすぐに動くとは思えなかった。
ファバに危害を加えるとしたら、レグスの訴えが壁の王から退けられ、その咎が開拓団にも及んでからとなる確率の方が高い。
だったら、下手に身動きがとり辛くなる壁の民の保護下よりは、ファバのわがままを聞く方がマシなのかもしれない。
そういった考えからレグスはファバの希望を聞き入れた。
無論、まったくの助けなしではいざと言う時に困る。
だからレグスは大切な指輪を少年に預け、もしもの時が来たらセセリナの力を借りるように言い聞かせていた。
「信じられない!! いったい何を考えてるのよ!! あの大馬鹿者!!」
指輪から出てぷりぷりと怒るセセリナ。少年の前に姿を現してからずっとこんな調子だった。
勝手にファバの御守を押し付けられたのも面白くないが、レグスを守るという役目がある彼女にとって、現状は好ましいものではない。
しかもそれがレグス自身の無茶の結果がもたらしたものなのだから、余計に腹が立つというもの。
「知らねぇよ、俺に当たるなよ」
「あんたもあんたよ。ただのガキんちょの癖に壁を越えたいだなんて」
「今さらまたその話かよ。第一、俺がどうしようとてめぇには関係ねぇだろ」
「関係ない? よく言えたものね。じゃあどうして私がこんなところにいるわけ? 一人じゃ何にも出来ないお子様を助けてあげる為じゃなくて?」
「助けてくれだなんて、頼んだ覚えはねぇ!!」
空気は最悪だ。
もとよりセセリナはファバを連れて行く事には反対していたし、少年の方もそれを知っている。
口ではどう言おうと、そんな彼女の力を当てにしなければならない己の無力さが、ファバの苛立ちをより大きなものへとしていた。
そんなギスギスとした雰囲気の中、セセリナが何かに気付く。
「誰か来る……」
そう言ってファバと顔を互いに見合せた後、慌てて指輪の中へと戻る小さな精霊の少女。一瞬にして場の緊張感が高まる。
少年は急いで手近の武器を拾い上げると、全身の神経を天幕の外の気配へと集中させた。
――ガシ、ガシ、ガシ。
往来する人々の足音。
いくつものそれの中から一つ、この天幕へと近付いてくるものがある。
息を殺し背後に回したファバの手には、矢の込められたパピーが握られていた。
そして少年の心臓の高鳴りが最高潮に達した時、天幕の入り口が開かれる。
「……何だよ」
訪問者の顔を見て、ファバの全身から一気に力が抜けた。
「あんたか、脅かしやがって……」
「脅かすつもりなどなかったのだが……」
少々困った顔を浮かべながら天幕へと足を踏み入れたのは、あの遊牧民の女カムだった。
「何の用だよ……、まさか奴らに頼まれて」
彼女はいちおうローガ開拓団の人間だ。
その性格からして可能性は薄いだろうが、指示を受けて危害を加えにきた状況というのも皆無とは言えない。
「そう警戒するな。彼らの頼みでお前をどうこうしようってわけじゃない。そんな回りくどい手段をあの者達がとるはずもないだろう」
「じゃあいったい何の用だよ」
「少し、話がしたいと思ってな」
「話?」
「ああ、お前の壁越えについてだ」
「おいおい、まさかまた説教ってわけか? お節介が過ぎるぜ、あんた」
「私自身そう思う。だがやはり子供の行き過ぎた無茶を放っておくわけにはいかない」
他人から子供呼ばわりされて喜ぶ子供はいない。
「子供? あんたが俺をどう見ようと勝手だがな。ぐだぐだと説教なんて聞きたかねぇし、聞く気もねぇ」
睨む少年にカムは言う。
「お前は理解していないのだ」
「ああ!?」
「まだ何も理解していない。だからそんな無茶をしようとする」
「ああ、そうだよ!! 俺は何にもわかってないただのガキだ!! そんな事はわかってる!! だからこそ、俺は壁を越える!! それを、赤の他人にどうこう言われる筋合いはねぇぜ!!」
「世の中には知ってから後悔しても遅い事がある」
「だったらどうだってんだ。後悔するかもしれないからって、狭い世界の中で、何もせずじっとしてろってのか!! そんな生き方御免なんだよ!!」
「世界は広い。そして何も壁の先だけが広い世界の全てではない。まずは学べ、この壁の内の世界で。正しく生きる術を身につけるのだ」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。正しく生きる? 毎日教会にでも通ってお祈りしてろって言うのか? そいつはイイや、ご立派なこったって。けどそんなもんクソだ、クソ以下のクソったれだ!! 坊主の説教なんて何の役にも立ちやしねぇよ!!」
「違う、そうではない」
「じゃあ何だってんだ」
「営みに触れ、営みを学ぶのだ。 様々な人々の中で暮らし、人々の心に触れろ。良い場所を知っている。小さな村だが心優しい者達が暮らしている。きっとお前の事も歓迎してくれるだろう。そこでしばらく過ごすのだ。汗をかいて畑を耕し、鶏の世話をし、時には近くの街の祭りに参加してみるのも良いだろう。……そうやって過ごしていく内に、今とは違う景色が見えてくるはず。そしてそれはすごく大切な事だ。こんな無謀な旅を続けるより、今のお前にとってずっと、ずっと大切な事だ」
どこか優しげな口調で語り掛けてくるカム。
そんな彼女に対して、ファバは心底うんざりとしていた。
言葉が出ない、頭が痛くなってくる。
ずれた親切ほど鬱陶しいものはない。
それがどれだけ相手の為を思った助言であろうと、少年が必要としたのは優しい言葉掛けでも無ければ、品行方正な生き方でもないのだ。
カムの思いやりなど、彼にとっては声を荒げる気力を萎えさせる程度の効果ぐらいしかなかった。
「わかった。わかったよ。あんたは良い人だ。よくも知らねぇガキ相手に、親身になって助言してくれてるって事もよぉくわかった」
「ならば……」
「だけど俺には必要ねぇ。今さらのんびり畑を耕して暮らしていく気なんてねぇし、鶏の卵拾いなんてのは話にならねぇ。俺に必要なのは、こいつだ」
腰に挿した短剣を鞘から抜き、抜き身のそれを見せつけながら、少年は断言した。
「女の助言なんかいらねぇ。俺は強ぇ野郎と過ごして、そいつの戦い方を盗む。何年かかろうと、何度死にかけようが、俺は必ず盗み取ってみせる。そうやって俺は強くなる。誰にも負けねぇぐらい強く」
「そんな力を手に入れていったい何をするつもりだ」
似たような疑問に、咄嗟に答えを出せなかった時もあった、だが今は違う。
「何がしたいとかどうとかじゃねぇんだ。そうならないと同じなんだよ。誰かにぶん殴られるのに怯えて、誰かに大切なもんぶん盗られるのに怯えて……。そうならない為に、まずは力が必要なんだ。誰にも負けないぐらいの強さが」
「強さとはそんなものじゃない」
いつか聞いた言葉だった。
「わかってるよ、そんな事は!! だけど偽物だってかまわねぇ。俺が欲しいのは、気にくわねぇ奴をぶっ飛ばす力だ。それが俺にとって、紛れもない強さなんだ。……あんたの言う立派な生き方をしたって、俺は俺自身に胸を張れねぇ。そんな生き方、御免なんだよ!!」
他人に認められようと、他人に赦されようと、己が己自身を許せなければ、何の意味もない。
少年は少年が脆弱である事を許せなかった。
だからこそ彼は力を欲する。暴力という他者を圧倒するだけの力を。
そんな彼の執念が伝わったのか、遊牧民の女は表情を変えて語り始める。
「……私は十五の時、生まれて初めて人を殺めた。憎い相手だった。どれだけ殺しても殺し足りぬほど、憎んだ相手だった」
何かを思い出すようにゆっくりと、しかし力強く言葉を発していくカム。
「その男を殺す為だけに、私は生き、ひたすら修練をつんだ。……ずっとそれが正しい事だと思っていたのだ」
彼女の言葉をファバは黙って聞いていた。
「だが、そうして生き、やがて手にしたものは間違った強さだった。今でもよく覚えている。浴びた血の熱も、その臭いも。忘れようとしても決して忘れる事など出来ない、人を殺めてしまった者が背負う呪い。ひとたびその呪いにかかれば、もう同じようには笑えない。同じようには泣けやしない。喜びも怒りも、それまでと同じではなくなってしまう。一度手を汚した人間は、もう二度ともといた場所には帰れない。……トウマ、お前はこっち側に来ちゃいけない」
悲しくも優しい瞳だった。
それは普段の凛とした表情からは想像も尽かぬほどに脆い女の顔。
偽りの演技で出来るようなものではない。
だが、……いや、だからこそ、少年にとってそれは皮肉にも、背中を押すような行為に他ならない。
「くく、ははっ、くははは」
小刻みに笑い少年は言う。
「十五で一人ね、上等だよあんた。……俺はもう片手の指じゃ数え切れないほど人を殺してる。何の罪もない奴らをさ。とっくの昔に俺のこの手は血に塗れてるんだよ!!」
宿っていた。
狂気が、強い憎しみが、怒りが、悲しみが。
それは無垢な少年には決して出来ない禍々しい顔。
「あんたの言う通りだぜ。もう呑気に畑耕して生きてけるようなご身分じゃねぇんだ!!」
甘い見通しだった。
どれほど見当違いの言葉を掛けていたのかをカムはようやく承知した。
幾ばくかの沈黙の後、女は言う。
「そうか……、邪魔をしたな」
そしてその去り際、彼女は少しの間足を止め、振り返りもせず、レグスの今後についての事を少年に伝えた。
「あの男が要求していた決闘裁判の件、正式に認められたようだ。期日は七日後の正午。相手はこの冬随一の戦果を誇った戦士だそうだ」
「なんであんたがそんな事を知ってる」
「さきほど我々の天幕に壁の民達が来て、そう言っていた」
カムは壁の民の言語を知らない。だから実際には開拓団の者達が翻訳したのを伝え聞いただけである。
「勝てるといいな」
彼女がそう小さく零したのは、何も自身に迷惑がかからぬよう男の勝利を願ったからではない。
少年がどれほどあの男を必要としているのかを理解したからであった。
「勝つさ、絶対に勝つに決まってる!! 負けるわけがねぇ!! どんな大男が相手だろうとあいつは絶対負けねぇ!!」
少年は強く言い切った。
だがそれは、必死に縋り懇願するような声のようにも女には聞こえていた。
カムだけではない。
――素直に彼女の助けを借りたらいいのに……。
二人の会話を指輪の中で聞く精霊とてそれは同じだった。
三日後、決闘裁判の話はすぐに広まり、この門街の地で知らぬ者はいないほどになっていた。
他の開拓団の男達の奇異の目に晒されるファバ。少年の容貌もあってか、揶揄するような言葉が盛んに浴びせられていく。
それでも彼は耐えた。
下手な揉め事はレグスにも迷惑を掛け兼ねない。
そして揉め事を起こしたくないのは壁越えを目前とした他の開拓団の者達とて同じ。
少年が数日我慢さえしていれば大きな問題にはならないはずだった。
「あれだぜ、例の件の男の連れってガキは」
「見ろよ、あの顔」
その日も少年の近くを通る度に、意地悪気に話す男達が何人もいた。
相手にせず無視していたファバだったが、二人組みの青目人達が彼へと近付き、目の前で足を止める。
「よぉ、お前が噂の野郎が連れてるガキか、苦労するよなお前も、頭のおかしいご主人様を持つとさ」
下品な面をした男達はどうやらファバの事をレグスが所持する奴隷なのだと思っているらしい。
「さびしくなるよな、お前のケツの穴もさぁ」
「ぎゃっはっはっは!! いくら女に不足しててもこんなゲテモノ食えねぇよ!!」
「あの大男達に喧嘩売ろうって野郎だぜ、こっちの趣味もイカれてやがるのさ」
己の股間を握りながら男が言った。
人目も気にせず低俗極まりない会話をする二人、少年は彼らをあしらうように言う。
「他人の尻の穴を心配するより、自分の身の心配してた方がいいんじゃねぇか、おっさん」
「ああん?」
「顔に書いてるぜ、私は荷物運びの下っ端ですって。壁を越えるのが怖くて怖くて仕方ありませんってな」
「てめぇ……」
「ここでいろんな奴らを見かけたけど、あんたらその中でも頭抜けて弱そうだ。あっと言う間に魔物の餌になっちまわないか、俺は心配だぜ」
壁越えを前に大きな問題を起こしたくないだろうという算段からのちょっとした挑発のつもりだった。
しかし気が付いた時には男の足が地面を蹴り、ファバの胴体へと向かっていた。
「がはっ!!」
地面を転がるようにして倒れ込む少年に対して、蹴り飛ばした男が言う。
「何だって? もういっぺん言ってくれよ、最近耳が悪くてなぁ」
「おいおい、やりすぎんなよ」
ニヤニヤと笑う男達。
蹴られた苦痛に耐えながら、少年は立ち上がる。
「なんべんでも言ってやる……。てめぇらみたいな雑魚、壁を越えたところですぐにくたばるのがオチだってんだよ!!」
啖呵を切ったファバに対して、男達は互いに顔見合わせて肩をすくめる。
そして蹴り飛ばした男が再び少年に近付き、中腰となって目線を合わした。
「喧嘩売られて喚くだけの雑魚が何言ってやがる。その手は飾りか? 奴隷の小僧はご主人様の命令がないと、喧嘩の一つも出来やしないのかい?」
「俺は奴隷なんかじゃねぇ……」
「へぇ、じゃあただの根性無しってわけか」
我慢ならなかった。
馬鹿にされた事だけが理由ではない。
もっと別の衝動が少年を突き動かしていた。
「上等じゃねぇか……、やってやるよ!!」
無防備に晒されていた男の顔を勢いよく殴りつけるファバ。
少年にとってそれは渾身の一撃であったが、どうやら男にはほとんど効いていないらしい。
殴られた頬を片手ですりながら姿勢を正して男は言う。
「弱いねぇ、弱すぎる。これじゃあゴブリンも倒れやしねぇよ。パンチってのはな、こうやるんだよ!!」
男の拳が少年の腹を打つ。
内臓が飛び出しそうな衝撃。堪らずファバはうずくまる。
「おいおい一発だけでもうお寝んねかい、坊主。話にならねぇぜ、こりゃあ喧嘩にもなんねぇよ」
子供相手に大人気無く挑発を繰り返し男は笑った。
その笑い声を聞きながら息を整え、苦痛に涙を浮かべファバは呟く。
「ぶっ殺す……、ぶっ殺してやる……」
「おいおい冗談きついぜ。そんなへなちょこパンチじゃ、赤ん坊も殺せねぇよ」
「うるせぇ!!」
再度殴りかかるファバだったが、今度は避けられ空振りに終わる。
「どこ狙ってんだ。パンチのやり方はさっき教えてやっただろうが。こうやるんだよ!!」
拳を振り下ろそうとする男に対して上段に構えるファバ。
しかし、男の攻撃は振り上げられた拳ではなく……。
「あっ、悪りぃ。手じゃなくて足の方がでちまった」
蹴りだった。
「ちくしょう、卑怯な手使いやがって……」
「何だって? さっき言ったろ最近耳が悪くて困ってるって。もっと大きな声で言ってくんねぇかなぁ」
「ぶっ殺してやるっつってっんだよ!!」
それからも同じ展開。いや、それ以下だ。
ほとんど何も出来ず一方的に殴られ、蹴られ続けるファバ。
ただの子供が大人の男とまともにやりあって勝てるはずもない。
最初からわかっていた。わかっていた事だった。
――ちくしょう。俺だって……、俺だって……。
遠退く意識の中で少年が思い浮かべていたのは、己よりも一回りも二回りも大きな相手を圧倒した男。
かつて彼にとって絶対者であったダーナンを殺した男、レグスの事だった……。
気を失っていた少年の意識が戻った時、彼は自身の天幕の中で仰向けとなっていた。
そのまま己の身に起きた事を整理しながら天井を眺めんとするファバであったが、傍らに人の気配を感じ取り、慌てて身を起こそうとする。
しかし、動いたと同時にひどい痛みが全身に走り、堪らず声を上げた。
「動くな。安静にしていろ。無理に動けば、それだけ治りが遅くなるぞ」
少年の傍らにいたのはジバ族の女カムだった。
「なんで……、あんたが、こんな所にいる……」
「私がお前をここまで運んだからだ」
「……あんたが俺を助けたって? 頼んじゃいねぇぜ、そんな事」
「ああ」
「なんべん言ったらわかるんだ。余計なお世話だって事が。俺はあんたの力を借りたいだなんて、これっぽっちも思っちゃいねぇ」
「わかっている」
「だったら!! ぐっ……」
体を無理に動かさなくとも、力むだけで強い痛みを感じた。
痛みのせいで冷や汗が出るほどだ。
「……何が目的だ。悪いがここに置いてあるもんはほとんどあいつのもんだ」
あいつとはレグスの事。
「俺には金もねぇ、何もねぇ、やれるもんなんて何一つありゃしねぇぞ」
怒りに満ちた少年の顔。
とても助けてくれた相手に向けるようなものではない。
「そんな物必要ない」
少年とてわかっている。
この女が金品欲しさに人助けをするような人物ではない事など。
「だったら何だ。感謝して欲しいのか。勝手に恩を着せて、恩人気取りでもしようって言うのか」
それもない事はわかっている。
だから腹が立つ。だからこそ許せなかった。
女の事ではない。
この女に助けられ、心配される、己が許せないのだ。
こんな少年でも、通りすがりの人間の気まぐれに助けられたのなら、礼の一つぐらい素直に言えたのかもしれない。
しかし彼女は違う。明確に守ろうとしている。
ファバが子供だから。
圧倒的に弱い存在だから。
その事実が、少年には耐え難い。
「礼などいらない。もし礼を言う事があるならライセンに言え。あの子が知らせてくれたから、お前を助けられた」
「あの鳥に俺を見張らせていたのか」
「万が一の時に備えてな。実際そうしていなければ、最悪の事態になっていたかもしれん」
カムはセセリナの事を知らない。本当に少年の身が危なくなったら、精霊の助けが入る事など知らないのだ。
だから彼女は鷹の知らせを聞いた時、急ぎ彼のもとへと駆けつけた。
「そうなりゃよかった!!」
少年が声を荒げる。
「そうなっちまうなら、それまでの奴って事だ」
自身を粗末に扱う事によって、まるで己を試しているかのようなファバの発言。
少年の胸中にある苛立ちと無念をカムは知る。そして、彼女は落ち着いた口調で諭すように語った。
「お前は勘違いしている、……己の身を弄ぶように無茶をしてみたところで、何一つ証明する事は出来ない」
しかし女の一般論もファバには伝わらない。
彼は知っている。よく知っている、目の前でその無茶を成し遂げてきた男の存在を。
「あいつはやってみせるさ、どんな無茶だってやってのける。今回の事だってそうだ。相談の一つもなしでいきなりだ。いきなり、あんなでかい奴らに喧嘩売るような真似して、平然としてやがる。団の奴らが呆れるような真似を、平然とやってのけっちまう」
ファバが見てきたレグスの姿。
「どんな奴が相手だってブチのめしちまう。どんな化け物が相手だってぶった斬っちまう。きっと、今回の決闘だって……、どうせあいつは上手くやっちまうのさ!!」
無茶な事だろうが、無謀な事だろうが、結局やってのけてしまうレグスという存在。
あの男は圧倒的な強さを、ファバの目の前で証明してきた。その証明こそ、少年が欲するモノに他ならない。
「お前は、あの男のようになりたいのか?」
「なれるもんならなりてぇさ。けど、このザマだ。ちんぴらの一人ものせやしねぇ。こんなんじゃ、いつまで経っても奴みたいに強くなんかなれねぇ」
ファバの声は震えている。
「お前はまだ子供だ。これからゆっくりと力を付けていけばいい。そうすればお前が望む力も、いずれは……」
「あと何年だ。何年すれば、俺はそうなれる。奴に近づける? 旅を一緒に始めてここに来るまでの間に弓の使い方を学んだ。馬にも乗れるようになった。けどそんなんじゃ、全然近付いた気がしねぇ。想像出来ねぇんだ。奴の強さに近付いていく自分の姿が……、追いつくどころか、どんどん遠くなっていく」
焦りがあった。絶望的なほどの差を感じた。
共に過ごせば、過ごすほど。
日に日に、学べば学ぶほど。
少年の心の隅で、暗い陰が囁く。
『自分はレグスのようにはなれない』。
そんな己の心の声に、必死になって耳を閉ざしてきた。
だが……、そんなものは無意味だ。
思い知らされる。
レグスが相談もなしに勝手に罪人を助け、その騒ぎに巻き込まれ、彼の指示を聞く事しか出来ない自分。
思い知らされる。
意地を張ってみたところで精霊の御守が必要な自分。
思い知らされる。
絡んでくる輩一人、満足に追い払う事も出来ない自分。
思い知らされるのだ。
赤の他人に一方的に心配され、助けられている自分という現実に。
自覚せざるを得ない。
情けない。
情けなくて、……死にたくなる。
それでも。
どれほど惨めだろうと、諦める事など出来ない。
どれほど無様だろうと、認める事など出来ない。
それが出来る程度の性であるなら、もとより、この危険な旅に意地でも付いて行こうなどとは思わなかったろう。
「俺は……、俺は……」
底の底、己の根源から湧き続ける力への渇望と、否応無しに見せ付けられる限界と言う名の壁。
身が千切れそうなほどの激情を、少年は今この時も抱いていた。
「……人には生まれた持った器がある。それは大きさも形も様々だが、同じ物など一つとして存在しない」
声を震わし、目に涙を浮かべる少年にカムは言い聞かせるように語る。
「お前の持つ器と、あの男の持つ器も、やはり違うのだ。人は同じモノにはなれない。どれほど強く焦がれようと、他人と同じにはなれやしないのだ」
「諦めろってのか? 俺のは小っせぇ器だから、縮こまって生きてけってのかよ!!」
少年の言葉をカムは優しく否定する。
「そうではない。器の大小の問題ではないのだ。小さな器が、大きな器よりも劣る謂れなどない。丸い器が、四角い器より劣っているか?」
「何が言いたいんだよ」
「問題はその器に何を入れようとするかだ。あの男が収めているモノを無理に入れようとしたところで、入るはずもないのだ」
「じゃあ、どうしろってんだ。俺は強くなりてぇんだ!! 強く……」
「あの男を見すぎるな。まずお前がすべき事は、己を見つめなおす事だ。自分という人間を知れ。長所も短所も、何に喜び、何に怒り、何に悲しむのか。人を知れ、世界を知れ、そうすればやがて見えてくるはずだ、己の器というものが。……お前には、お前に相応しいモノがある。あの男の真似事なんかではなく、お前にしか手にする事が出来ないモノが必ずある」
「そんなものありゃしねぇよ。あるってんのなら教えてくれよ。俺にしか手に出来ないモノってやつをよぉ!!」
「それを見つけるのは、お前自身の役目だ」
「誤魔化すんじゃねぇ!!」
「誤魔化しなどではない。お前だけがお前の器を知れる。そしてお前だけがそこに収めるべきモノを見つける事が出来るのだ。……まずは己の器を知れ、それが大人になるという事でもある。お前はまだ子供なのだ」
「……えらそうに言うあんたはどうなんだ? あんたは見つけたのかよ。自分にしか手に出来ないって、ご大層なモンをよ」
首を横に振るカム。
「私もお前と同じだ。ずっと探している、私の器に収めるべきモノを」
「何だよえらそうに説教しておいて、そりゃ……」
呆れる少年に、女は少しだけ微笑む。
「私は、私の運命を知らない。いったい何を為す為に生まれ、何を為し死んでいくのか。その答えを見つける事は決して容易い事ではない。フリアの地を友と共に巡り、壁を越え、未知なる地へと赴こうとしている。いつ見つかるかもわからぬ答えを追い求めて、私はここまで来た。これからも旅は続く、十年、二十年とこの旅は続いていくのかもしれない」
「ずいぶん気が長い話だぜ」
「そうだ。だけどそれが生きるという事だ。答えを知らぬ私には可能性がある。今の自分では想像すらも出来ぬ答えを見つける事も可能なのだ。お前も同じだ。……お前には可能性がある。今だ己の器すらも知らぬお前には、私なんかよりもずっと大きな可能性がある。これから先、かつての私がそうであったように、今のお前には想像も及ばぬモノに数多く出会っていく事だろう。だから焦るな、急ぎすぎるな。大丈夫だ、世界は広い。お前だけの未来は必ず存在している」
この遊牧民の女といると不思議とある女の事を思い出す。
肌の色も、髪の色も、瞳の色も、顔立ちも違う、似ても似付かぬはずの女の事を。
ダナの街のロゼッタ、あの娘は今、何をしているのだろうか。
「何言ってるか、難しすぎてよくわかんねぇよ……」
本当は言いたい事ぐらいわかっている。だけど、女の言葉を否定も肯定も出来なかった。だから、少年は精一杯誤魔化す。
「すまない。こういう話はあまり得意ではないのだ」
「……あんたはひどい奴だぜ。そうやっていらぬお節介を焼くより、冷たく突き放してくれる方が何ぼかましってもんだ。……あんたといると、ひどく惨めな気分になる。……死にたくなってくるよ」
「ここで死ねば、お前はただの負け犬のままだ。器も知らず、収めるべきモノも手に出来ず、何も為す事すら出来ない負け犬のまま終わっていく。それでいいのか?」
「いいわけがねぇ……」
「だったら、しがみついてでも生きてみせろ。無様でも、惨めでも生き抜いてみせろ。くだらぬ喧嘩に体を張るのではなく、確実に一歩ずつ歩みを進めていくのだ。それが、どれほど小さな一歩であろうとだ」
「だからって壁の内で大人しく生きてくつもりなんてねぇぜ」
ファバのその考えを変えられない事は、一連のやりとりでカムも十分と承知している。
だから彼女は選択した。
「ああ、わかってる。だからお前に頼みがある」
「頼み?」
「お前だけの未来を見つける、その手伝いを私にさせて欲しい」
助力の申し出。
この女は説教だけに止まらず、本気で少年の手助けをしようとしているのだ。
それはファバが壁越えに拘るように、この女もまたこの無力な子供を見捨てる事が出来ないという拘り。
「はっ、ほんと呆れるほどお節介な人だよ、あんた……」
「ああ、それが私という人間だからな」
女の言葉に答えず、少年は天井を眺めながら鼻をすする。
「ひでぇ臭いだ……」
それが素直に他人に助けを乞えない少年なりの答えだと、女にはわかっていた。
「ジギタリスと風来草を混ぜ合わせた塗り薬だ。打ち身によく効く」
塗り薬が放つ独特の強い臭いが、天幕の内に漂っていた。




