ドルバンの山猫Ⅱ
――ロッデンハイム!!
砦に反響する奇怪な不快音の正体、それはジヌードと共に召喚された巨大な魔草の危機を知らせる叫びだった。
魔造食人草クチャウは一般の草木がそうであるように普段は鳴きなどしない。だが、自身の身に深刻な危機があった時、生者の正気を奪うかのようなひどく不快な叫び声をあげる。
今まさに砦に響く声のように。
「ジヌード、お前はここに残り、牢の女達を守れ。青い目の男達が女共を無理に連れていこうとするなら容赦なく殺せ。いいな?」
男はそう命じ、牢で震える女達にもここを動かぬよう言い聞かせると、急ぎ砦の三階、ロッデンハイムのもとへと向かう。ロッデンハイムやジヌード達の成果によってその数を増した盗賊達の死体、砦に散らばるそれらに目もくれず彼は走った。
そして魔草を召喚した部屋に男が駆け戻ると、そこには鼻が曲がるような異臭が充満し、炎に焼かれる彼の僕の姿があった。
巨大な草が焼かれながら縮んでいく。
こうなってしまってはこの魔草に戦闘能力はない。影に張った根も蒸発するように消え失せ、ただ焦げついた種だけが男の目の前に残った。
「十分だ。今夜はもう休め」
焦げた奇怪な種に語りかけると、男は召喚する際にも使用した巻物を取り出し短い呪文を唱える。
すると、種は巻物の中に吸われるように消えた。
「ほう、お前が化け物の飼い主ってわけだ」
突然、背後から声がした。
反応してすぐに振り返ると、そこには弓を手にした初老の盗賊が一人立っている。
「ふん、東黄人か。相も変わらずクソみたいな真似をしてくれる」
苛立ちを隠さず、盗賊は殺気のこもった青い目を男に向けていた。
ただ者ではないだろう。ロッデンハイムの危機に多少の動揺があったとはいえ、気配を覚られる事なく近付き現れた人物だ。
「マッフェム……。弓の名手らしいな」
彼は察した、目の前に立つのが、下っ端の盗賊が言っていた弓の名人マッフェムだと。
「ほう不思議なもんだねぇ。東黄人の猿に知った面は少ねぇ、見ない顔だがなぁ」
「迂闊だったな。弓の使い手が無闇に姿を晒すとは。不意をつけば、私に傷一つつけるぐらいの好機はあっただろうに。……この距離ならお前の首を刎ねるのに、手間はかかるまい」
男とマッフェムの間に距離はそれほどない。そのうえマッフェムは弓を構えてすらいなかったのだ。
「少し話がしたいと思ってな。不意をつく必要はないさ。この距離で十分俺の間合いだ。お前の剣が届くまえに、そのドタマをぶち抜くなんてわけないんだぜ」
「その体勢でか」
「ああ、そうだ」
男は内心驚いた。弓の名手と呼ばれるような人間の腕前を見る機会は何度かあったが、この狭い距離で彼の剣よりも早く、正確に矢を放てる者など見た事がない。
マッフェムの言葉に偽りがないならば、彼が出会ってきたどんな弓使い達よりも早射ちに長けた相手という事になる。
「たいしたものだ。お前の思い上がりではないのなら、それほど早く射てる人間を私はこれまで見た事がない」
「だろうな。長い稼業、時には戦場も渡り歩いたが、俺以上の奴ぁいなかった。まっ才能だな」
マッフェムも解放戦争を生き抜いた男である。巨大な戦争の全てを見て知っているわけではないにしても、一兵士として過ごしたあの戦場に自分以上の人間がいなかったと言うのだからかなりの腕に違いはない。
「だがそれも昔の話ではないのか。人間誰もが老いには勝てまい。ましてつまらない盗賊稼業では才能も腐らせるだけだろう」
「そうじじい扱いしてくれるな若いのよ。それに盗賊ってのも悪かないもんだ。逃げ惑う猿共を射殺すのもなかなか技術が必要でな。腐らせる暇なんてないもんさ」
残忍な笑みを見せながらマッフェムは言葉を続ける。
「さて、殺す前に聞いておこうか。どうやってこんな化け物連れて来た。この辺りで見るような魔物じゃねぇ。ザナールだけでなくフリア全体でも見れやしないだろう。かつてあの戦場で見た、狂王の軍勢を除けばな。……いったい何者だお前」
盗賊達が主に活動するザナール国周辺で普段生息が確認されている魔物の種類は多くない。人間社会にとってある程度の脅威となるような存在に限れば数えるほどと言っていいだろう。
このような傾向にあるのは何もザナール国だけでなくフリア地方全体、そしてその隣域の大国、ユロア大連邦の広大な領土においても同じであった。
男が従えるような恐ろしく危険な怪物はそれこそ人の文明の力が及びきらぬグレイランドか、あるいはもっと禍々しい何かによってもたらされたとしか考えられない。
狂王ヌエが邪悪な魔導師達と結託し操った魔物達。マッフェムが目にした魔草の凶悪さはあの頃の記憶をよみがえさせるに十分であった。
「そんな事を知ってどうする」
「ただの好奇心さ。貧弱な東黄人は自分の力じゃ何も出来ないから、悪魔と取引をして化け物を戦わせるのかね? いったいどうすれば、こんな化け物を操れる、教えてくれよ」
「お前のくだらない好奇心を満たしてやってもいいがその前に、私も聞いておきたい事がある。キングメーカーという石を探している。石について何か聞いた事はないか?」
「くっくっく、今度はあの呪われた石か。……まるで過去に時間が戻っちまったみてぇだな。俺は夢でも見てるのか?」
「老いてボケるにはまだ早いぞマッフェム。私の質問に答えろ」
「おいおい、そりゃないだろ若造。礼儀ってもんを知らないのか? 俺の質問が先だろ」
「私の質問が先だ。お前から石の情報を得られるとは期待できないのでな」
「くっくっく、そりゃ違いねぇな。俺はあんな石に興味ないんでね。残念だが何も知らんぞ。人並みの噂話以外はな」
「では取引不成立だ」
「だな」
決着は一瞬だった。
ほとんど同時に二人は動き、片方がその場に倒れた。
「あ、こ、こん……」
何か言おうとしながらも、その途中で倒れた方は息絶える。彼の胸には鋭利な短剣が深々と突き刺さっていた。
「やはり腐らせていたな。戦争で身を削りながら戦っていた頃のお前ならば、このようなつまらない油断などしなかっただろう」
勝ったのはマッフェムではなく侵入者である東黄人の男だった。
二人の勝敗を分けたのは使用した武器の違いもあるが、結局はマッフェムの慢心にある。
剣で斬りかかるのではなく、短剣を急所に投げる事によってマッフェムが前提としていた間合いの概念を崩した男も確かに見事であるが、侵入者の武器を目につく剣と決めつけ、ローブの内に隠し持った短剣の存在を失念していたマッフェムの失態が無ければ結果が変わっていてもおかしくはない。
それほどの僅差であった。
実際、驚くべき事にこの瞬時の間に、マッフェムの弓からは矢が放たれていた。
何の考えもなしにマッフェムに斬りかかっていたのなら、結果は変わっていただろう。
――残るは……。
もうだいぶ盗賊達の数も減ってきた。
最初の喧騒が嘘のように今や砦内は静まり返っており、外に逃げ出した者達がいくらか生き残っているだけである。
ドルバンの山猫の首領ダーナンの姿もきっとそこにあるはずに違いない。
男は砦内を駆け降り外へと向かう。
囚われの女達が残る地下を除けば、誰もいないはずの砦。だが、男が一階に着き外へ出ようとした時、何者かの気配がした。
その気配はゆっくりとではあるがこちらに近付いてくる。
男は物陰に潜み、様子をうかがう。
――子供?
そこには怯えながら周囲を警戒し歩く少年の姿があった。
手に持った松明で行く道を照らしながら、もう一方の手にはしっかりと短剣が握られている。
――しかも東黄人、あれが例の子供か。
青目人で構成された盗賊団に東黄人の少年が一人紛れているという話が、盗賊を尋問し聞きだした情報の中にあった事を男は思い出す。
話によれば、首領であるダーナンや盗賊の古株達だけでなく新米連中にまで奴隷、玩具の如くひどい扱いを受けているそうだが、これが事実ならば、少年がダーナンの今の居場所を知っている可能性がある。
子供の周囲に他の気配がない事を確認して男は彼の前の姿を現す。
「どこへ行くつもりだ」
「な、なんだお前!!」
闇の中から急に出現した男に少年は驚き、警戒の眼差しを向けながら手にした短剣を構えた。
「やめておけ、震えたその手で何を斬るつもりでいる。……私がその気になればお前を殺すのに瞬きする間も必要ないだろう」
男の脅しにごくりと息をのみ込む少年。恐怖と葛藤しながら彼は尋ねた。
「あ、あ、あんたが犯人なのか?」
「一体何の」
「とぼけんな!! この砦を、あいつらを殺した奴かって聞いてんだ」
言葉が整理されていないのは恐怖感のせいか、それとも盗賊にありがちな育ちの悪さのせいか。
この場合は両方であろう。
「落ち着け、私はお前と少し話がしたいだけだ。お前が私に危害を加えないのなら私もお前には手を出さない。さぁ、まずはお前の話を聞こう。ゆっくりでいい、落ち着いて話す事だ」
少年の言いたい事など既に理解していたが、少年の興奮状態を冷ませようと男は試みる。
「だ、だから……」
興奮で荒くなった息遣いを、無理矢理静めながら少年は言う。
「お、俺達を、ドルバンの山猫を襲ったのはあんた達なのか?」
少年の問いに男は素直に答えた。
「ああ、そうだ。だが正確には『達』ではない、私一人だ。今夜、山猫を襲ったのは私だけだ」
「う、嘘だ!! あんた一人なんてあるはずがない。騙されるもんか。……第一あの化け物はなんだってんだ。あれはあんたの仲間じゃないのか?」
「嘘などではない。あれは私の僕、私にとって手足のようなもの。お前は手と足を仲間内に数えるのか?」
「僕? あんな化け物が?」
「そう、僕だ。お前の言う化け物が私の命令一つで手足のように動くのだ。殺せと命じるだけで、盗賊の屍など無数に築ける」
「嘘だろ……」
「お前にそんな嘘をついて私に何の得がある」
「それは……」
「お前が信じたくないのならば信じなくとも構わない。だがこれだけは言っておく、今日限りで山猫は終わりだ」
「あんた頭まで殺るつもりか? ……無理だね。あの化け物の強さを知らないからそんな事が言える。それに運良く頭のダーナンを殺れたって山猫は終わらない。実際、団をまとめてるのはマッフェムのじじいだ。他に雑魚何人殺したって意味なんてないぜ、残念だったな」
「そのじじいならもうとっくにくたばっている」
「なんだって!?」
「私が殺してきたばかりだ」
「……はったりだ」
「金貨三枚の模様を刻み込んだ弓だったな、奴の得物は」
少年は驚愕した、男の言う事が事実であったからだ。
「嘘だろ、あんた本当に……」
「鱗の欠けた蛇、翼の欠けた竜。バウアー兄弟が手にしていた剣につけられた模様だ」
「あいつらまで!?」
「仲間の死を信じたくないかもしれんが、それが事実だ」
「仲間? 仲間だって!! あんな奴ら仲間なんかじゃねぇよ!!」
男の『仲間』という言葉に少年は強く反発した。
「お前も盗賊団の一員だろう」
「だが、仲間なんかじゃねぇ!! 利用してやってんだ!! 俺が、俺が利用してやるんだよ!!」
願望が混ざった虚しい言葉に、少年の盗賊団内での境遇がうかがえる。
「仲間じゃない、か。ならば一つお前に聞きたい。何故、東黄人であるお前が山猫に加担する。何故、同胞を苦しませるような真似をする」
「同胞だって!?」
怒りを含み少年は言う。
「それがなんだってんだ、ええ!! それが何になるってんだ!! 笑わせんなよ。奴らが俺に何をした!! 何をしてくれたと思ってんだ!!」
憎悪と怒りを含んだ叫びは続く。
「見ろよこの面を」
少年は自分の顔を手にした松明を近付け照らす。
そこにはおぞましいほどに醜い顔があった。
青目人が東黄人の容姿を馬鹿にする事はよくある事だが、同じ東黄人である男から見ても少年の顔はひどく醜いものであった。
それはまるで……。
「ゴブリンか」
それが盗賊団での少年の呼び名だった。
「ああ、そうさ。ここじゃそれが俺の名だ。青目人は俺達東黄人を悪魔の子と呼び忌み嫌う。馬鹿にし見下し、奪い、殺す。けどな……、村じゃ奴らは俺を呪われた子と呼んでいた。お前の言う同胞の俺を!! この醜い面を見て、忌み嫌い、見下した!!」
「復讐か、それがお前が山猫に加担する理由か」
「復讐? くだらねぇ!! 青目人だ、東黄人だ、そんな事はどうでもいいんだよ!! 知ってるか? 青目人も東黄人も笑いながら人間を殴るんだ。醜いってだけで奴らはガキを笑いながら殴れるんだ!! 皮を剥げばどっちも同じクソったれじゃねぇか!!」
「そのくそったれと同じ真似を何故お前もする」
「同じだからだ!! 俺もあんたも、皮を剥げば同じクソったれだ!! どいつもこいつもかわらねぇ!! だから俺は、俺はそのクソどもを利用する!! クソどもにまじってクソどもから奪う、奪って奪って、奪い続ける!! それが生きるって事だろうがよ!!」
まるでこの世の全てを敵にまわし生きんとするような叫びに、男は一瞬自身の過去を見た。
それは深く暗い塔の奥、それは氷のように冷たく清廉な女の顔、それは歪んだ笑みを浮かべる老人、それは憎悪を向ける群衆、そしてそれは炎。
「お前は本当に呪われているのだな」
「……だろうな、皆がそう言ったさ」
「そうではない。今のお前がだ。善悪を失い、世を憎み、まるで世界が敵であるかのように振舞う事しか知らぬ。お前の心の醜悪さこそが、呪われているのだ」
「知ったような口ききやがって、お前だってただの人殺しだろうが。 それがわかったように善人面して説教かよ」
「善人ではない。ただ、今のお前ほど腐ってはいないつもりだ」
「舐めやがって、どうせガキだから何もできねぇって思ってんだろ!! ちくしょう、ちくしょう!! どいつもこいつも馬鹿にしやがってよぉ!! くそがぁぁぁ!!」
怒りで恐怖心が麻痺したのか手にした松明をその場に投げ捨て、少年は男に襲い掛かる。
男にとってそれはまるで亀の走り、短剣の振りは蝶よりのろまな舞いにすぎない。
剣を抜くまでもない。
素手で少年の持つ短剣を叩き落とし、足払いで彼を転ばせる。
力量差は歴然としていた。
「がはっ!! くそ!!」
地面に叩きつけられて、それでも少年は立ち上がり攻撃を試みようとする。
しかし。
「がっは!!」
男に思いっきり蹴り飛ばされてしまう。
ごろごろと転がりながら倒れこむ少年。
「気がすんだか」
男の言葉に再び少年は立ち上がる。
「殺してやる。殺してやる!!」
それから何度となく同じ光景が繰り返された。
殴りかかる少年、それを簡単に捌く男。
しまいには少年は精根尽きたか、その場に倒れこんだ。
「ああぁあああああああああああぁああ!!」
そして絶叫した。
「なんでこうなる!! なんで、なんで俺だけが!! ちっくしょううううううううううう!!」
そんな少年の叫びを男はただ聞いていた。
「……殺せよ」
ぽつりと少年がもらす。
「何故だ」
「何故? 俺は山猫の一員だ。あんたの標的だろ? それともガキを殺す根性はないってか!? 今さらびびんなよ偽善者、ほら殺せよ!!」
少年の言う事にしたがったのか、男が剣を抜き少年に近付く。
抵抗するつもりはないらしく少年は目をつぶりその場から動かない。
男の剣が少年の首筋を撫でる。
「怖いか?」
「黙れ」
「お前は今から死ぬ。そして己の悪事を永劫地獄で償う事になる」
「黙れ。そんなもん教会の坊主共の戯れ言だ。地獄なんてありゃしねぇ」
「なるほどそうか、ではお前は夢無しの夜に帰ると言うのか」
「黙れよ」
「何もない世界だ。喜びも苦しみもない、自我すらも失い、全てが永遠の夜の闇に消えていく世界、何もないという恐怖。お前はそこへ行こうと言うのだな。称賛するぞ少年。お前のその勇気を」
「ごちゃごちゃうるせぇ!! さっさとやれって言ってんだろうが!!」
耐えれなくなったか目を開け、罵倒を飛ばす少年。
男は剣を収めると、そんな彼の胸倉を掴み立たせた。
「叶えてやろう、お前の望みを。だが楽に死ねるなど都合のいい考えは捨てろ」
胸倉を掴む手とは反対の手で男は細い首を締め上げる。
少年はとっさの反応でそれに抵抗したが、非力な子供にはどうすることもできない。
「どうした。何故抵抗する。お前の望みを叶えてやるというのに」
息苦しさに必死にもがきはじめる少年。
限界は近い。
その目から涙が溢れる、そして……。
「た、たす……」
もうこれ以上は無理だという瞬間に、男が手の力を緩めた。
「がっはっ!!」
倒れこみ空気を貪る少年。その姿を見下ろしながら男は言う。
「虚勢を張るな。お前が本当に死を覚悟していたのは最初に松明を投げ捨てた瞬間のみ。剣を抜かなかった時のお前の安堵した表情、私は見逃さなかったぞ。お前の覚悟など、その程度のものだった」
もう少年には何もなかった。
抵抗する気など、死ぬ気など、虚勢も、怒りも、憎悪も、何もない。
まるで裸にされたようだ。
見透かされていた自分の空っぽさを。
悔しくはないのだ。悲しくもない。
ただただ疲れた。少年は疲れていた。
――もういい。どうだっていい。
彼に何かあるとすれば、そんな感情だけ。
「あんた、ダーナンを探してんだろ」
死んだ声で少年は言った。