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カム

 フリア北東に『ブルヴァ』と呼ばれる草原地があった。

 冬は少々寒さが厳しくなる地ではあったが、牧畜に適したこの場所には古くから遊牧の民が暮らしを営んでいた。

 六百年以上も昔、この地に住まう『ジバ族』は他の遊牧民を武力によって従え一大勢力築き上げたという。

 ただそうした時代が長く続く事はなかった。

 草原の外まで影響力を持つようになったジバ族。彼らが身内同士の権力争いによって衰退すると同時に、それまで頭を垂れていた他族の者達まで、我こそは草原の王にならんと反旗を翻し始めたのだ。

 もとより古くから争い合っていた者同士である。ブルヴァの民として纏め上げる力をジバ族が失えば、もはやこれを他に為せるような者はいなかった。


 一夜の夢物語と言うには長く、百年の王国と呼ぶには足りぬ、短きブルヴァの栄光。

 栄光が遠い日の記憶になり、草原の外の者達がジバの名を忘れかけていた頃に彼女は生まれた。

『カム』。

 幼少時、彼女はジバ族内でも有力な一族を率いる長ムーソンの娘として幸せな日々を送っていた。


 父ムーソンは争いを好まぬ男だった。

 賢明で優しい男。書を好み、喧嘩を嫌い、酒を苦手とする男。

 かつてのジバの栄光を築いた英雄達とは全く異なる性質の男。遊牧民らしくない男。


 そんな者が一族を率いる事に反対する声がなかったわけではない。

 だがそういう者達にムーソンは言った。『もう、そういう時代ではないのだ』と。


 そういう時代。冬が厳しくなると略奪の為の戦争を繰り返す時代。

 他者を従えるのに言葉はいらない。暴力だけが全てであった時代。欲しい物は奪う時代。

 そんな時代は終ったのだと。


 実際、ブルヴァの民にはもうフリアを荒らしまわるような力は残されていなかった。

 それは草原の民を纏める者がいないというブルヴァ側の事情のみならず、六百年前と違いフリアの国々が繋がりを強め、外敵に対して共同で対処する体制が整い始めていたからだ。

 無闇に草原の外へと手を出せば、狂王ヌエのアンヘイ王国に対抗する大連合ほどではないにしても、ブルヴァの民に対抗する連合体が作られ、脅威を排除しようと草原に攻め入ってくる事になるだろう。

 そうなれば、今の彼らにそれを撥ね退けるだけの力はない。


 だから彼らにとって今の時代必要なのは言葉だった。

 草原の外と繋がる言葉。内で争わぬ為の言葉。言葉の力、知識の力、知恵の力が必要な時代がきたのだ。


 そうは言っても暴力の必要性が草原から完全に消えたわけではない。

 盗賊や魔物など草原を荒らそうとする者達が存在する。古き時代に縛られ暴力の甘美から醒めぬ者達がいる。

 ムーソンは喧嘩を嫌い、暴力を嫌う男ではあったが、臆病者ではなかった。

 戦いが必要となれば先頭に立ち、狩りで鍛えた弓術で多くの敵を見事に射抜いてみせた。

 そうしてただ臆病だから戦いを嫌うわけではない事を一族の者達に証明していたのだ。


 ムーソンという人物の評判はジバ族の内だけに止まらず、他族の者すらこの男に感心し、中には彼がジバを率いる大族長となるのならば、ジバの民に従うという者達すら現れ始めた。

 ジバの次期大族長はムーソンだという声が内外で高まっていく中で、面白くないのは他の有力な一族である。

 誰もが我こそは次期大族長にと考えている中で現れた共通の脅威に、彼らは互いに手を組み、企んだ。新しき時代などと甘言を吐く輩を草原から排除しようと……。



 カムが十一歳になった秋のある日、その事件は起こった。

 カム達が暮らす天幕群がトーザという男を中心とした反ムーソンの者達に襲われたのだ。


 一族の者達が次々と殺されていく中、ムーソンは戦い続けた。

 彼は襲ってきた者達の誰よりも強い男だった。

 一族の者を守る為、家族を守る為、必死に戦い続けた。

 しかし、それも、その奮戦も、最後には娘のカムを人質に取られるという形で終わりを告げた。

 ムーソンの予想以上の強さに、誇りも捨てて幼い少女を盾にするという浅ましき戦い方。


 ムーソンは叫ぶ。


「それがお前の言う誇り高きジバ族の戦い方だとでも言うのか!!」


 ムーソンの怒りにトーザは邪悪な笑みを浮かべて言う。


「これが『新しい時代』の戦い方だ。ムーソン、俺はもっと上手くやるぞ。かつてのジバの栄光を、俺は越えてみせる」


 そして新しい時代、言葉の力を信じた男は怒りと屈辱、後悔と懺悔の中でその命を落とす事になる、娘の命は助けるという為されるかどうかもわからぬ約束と引き換えに。


 彼の命、その最後の瞬間、泣き叫ぶカムを前にしてムーソンは最後に微笑み、最愛の娘に言葉を残した。

 ただ生きろと、それだけで十分なのだと。


 トーザ達は約束を守った。ムーソンの一族でただ一人、この少女の命を取る事はしなかった。

 だがそれは誇りからでも慈悲からでもない。

 父を、母を、兄弟達を殺した男達は言った。


「もうすぐ冬がくる。この小さな娘に何ができようか。ただ凍え飢えて、死ぬだけだ」


 血塗れの天幕に男達の笑い声が響き渡っていた。



 それから四年の歳月が過ぎた。

 トーザ達が冬も越せぬと笑い、野に捨てた一人の少女。

 ムーソンの娘カムは生きていた。


 ブルヴァと呼ばれる草原地で、彼女は一族ただ一人の生き残りとして、過酷な世界で生き続けていたのだ。


 彼女が生きる目的はただ一つ、復讐だった。

 あの惨劇を生き残った鷹と途中加わった草原の馬と共に、少女はひたすらに復讐を果たす力と機会を求め、武を高め、智をめぐらした。


 十五の時、彼女は自身に復讐を果たすだけの力がついた事を実感する。


 時は来た、一族を滅ぼした卑劣な者達に復讐するその時が。

 皆殺さねばならない。

 あの夜にいた男達を皆、自分の手で殺さねばならない。


 最初の標的はトーザだった。


 父をその手に掛けた男、一族を破滅へと追い遣った首謀者、必ず殺しておかねばならない男。

 トーザはこの四年でジバ族の大族長の地位を得るまでになっていたが、だからこそ、最初に殺しておかねばならないのだ。

 彼女の復讐が始まれば身辺の警護はより強力になり、復讐は困難なものへとなっていくだろう。

 ならば警戒の薄い最初の一人は、これから先、万が一復讐の道半ばで倒れる事になっても、殺しておきたい相手。

 トーザ以外にあろうはずもない。


 この男は必ず殺す、そしてそれをなす力が今の自分にはあるとカムは確信していた。

 大族長と言っても草原の外の国の王様のように、城や宮殿の中で暮らしているわけではない。

 トーザを殺すのに高い城壁を越える必要など存在せぬのだ。


 カムは日の明るいうちに、弓を手に馬に乗り、ライセンを連れてトーザの住まう天幕群を襲った。


 ジバの鷹は夜目が利く。優秀なライセンが味方であるのだ、ただ殺すだけなら夜の方が都合がいい。

 だが彼女はそうしなかった。

 よく見えるからだ。明るい方がトーザの死に様が、恐怖と後悔に歪む顔がよく見えるからだ。


 ライセンに導かれ警備の薄き経路をつくカム。巧みに鷹と馬を操り標的の天幕へと押し入る。

 そして素早くトーザの身に刀剣を突きつけると彼女は宣言した。


 自分が何者であるか、何をしようとしているのか、何が始まるのか。


 帰るべき場を失い、復讐しか見えない女に刃を突きつけられた男は下手な説得など無駄だと理解したのだろう。

 醜く命乞いを始める。


 その醜悪な様にカムは怒り、罵倒し、確信する。

 この男はやはり死ぬべき者なのだと。


 もういい、今殺そう。これから先の復讐が続かぬとなっても構わない。

 この醜い男の命乞いをこれ以上耳にするよりはずっとましだと、手にした刀剣でトーザを殺そうと決断した時だった。


 彼女の視界の片隅に映った者によって、その手が一瞬止まったのである。


 それは子供だった。

 トーザの幼き子供達。恐ろしき復讐者を見つめる子供達の姿。

 父親を殺そうとする者を前に怯え、震え、怒り叫ぶ幼き子達。

 己を見る彼らの瞳が、あの日の自分と重なった。


 何故自分がそんな目で見られなければならない。何故自分がまるで悪者のように罵声を浴びねばならない。

 これは正当な復讐のはずなのに。


『奪う為に奪ってはならない。救うために奪うのだ』。


 幼き日に父が言った言葉をふと思い出した。


 草原の民は草原に生きる者を殺し、生きていく。

 何かを奪い生きていく。

 だがそれは救うためのものだ。

 自分を、家族を、一族を。

 誰もが罪を背負い生きていく、だからこそそこに救いが無ければいけないのだと。


 どうして今、この時になってそんな言葉を思い出してしまったのか。


 復讐なんてものは意味がない。悲劇をさらに生むだけだ。

 そんな言葉はまやかしだと思っていた。


 間違っていたのだろうか。

 この四年、復讐の為に生きながらえてきた、その全てが無駄だったというのか。


 だが、そうであっても。

 全てが間違いであっても、今さら止められるはずもない。


 カムは叫び、トーザを斬り殺す。


 そしてそこから先の事を彼女はよく覚えていない。

 かすかに残っている記憶、それは怒号と罵声の中、逃げ出すようにしてトーザの天幕群から脱出した事と仇の一族が自分に向ける憎悪の瞳。


 彼女は逃げ出したのだ。

 復讐を完遂する為ではない。

 生き残る為ではない。

 ただ全てから、自分の行いの全てから、ただただ逃げ出したのだ。


 十五の娘の心はそれほどに脆いものだった。




 トーザを殺し、修羅場から脱出したカムではあったが、心の折れた彼女はもはやただの抜け殻となっていた。

 彼女の頭の中にあったのは一つの思考。


 ここにいてはいけない。


 父の言葉に背いた自分、奪う為に奪ってしまった汚れた自分はこの草原にいる資格がないのだと、本気でそう思い込み、彼女はひたすらに東へと歩を進めた。

 付き添おうとする鷹や馬を突き放して別れ、彼女は飲まず食わずで東に進み続けたのだ。


 死のう。

 草原の外で死のう。

 取り憑かれたようにその考えだけが、彼女を支配していた。


 だが十五の娘が飲まず食わずの徒歩で行くには、草原の地は広すぎた。

 当然、草原の外に出る前、その道中で彼女は倒れてしまう。


 あとはもう死ぬだけ、そのはずだった。


 しかし何の因果だろうか。草原の外にある村からやってきた一人の行商人が鷹のライセンに導かれ、倒れていた彼女を発見する。

 行商人は意識を失ったままの彼女を助け自分の村へと急いで連れ帰った。

 それは奇しくも、草原の外へという意味では彼女の願いを叶える形となっていた。


 そして、これは彼女にとって大きな転機となった。


 草原の外の世界、彼女を救った行商人と心優しき村の人々との出会いによって彼女は変わっていく。

 時に訪れる試練も乗り越え彼女は成長していった。

 救うために誰かを殺めてしまう事もあったが、それはもうかつての自己の為の復讐とは違う。

 村々を襲う盗賊や魔物を退治し続ける日々。


 そして二十一の時、彼女は壁越えの開拓団の噂を耳にする。


 グレイランド。

 かつてジバ族はブルヴァの草原に流れてくる前、この広大な灰の地の何処かで暮らしていたのだという。

 ジバの者達が『太陽と黄金の平原』と呼ぶ民族の古き故郷。父ムーソンが語り、夢見た地。

 それこそが彼女が壁の先に求めたモノであった。

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