壁の民
新年を祝う旗月が終わり、天秤月が訪れたフリアの東端『壁の地』では、連日、グレイランドから押し寄せる魔物の群れと壁の民との戦いが繰り広げられていた。
毎年、冬の時期はグレイランドに巣くう魔物共の活動が活発になる。
温かく豊かなフリアの地を目指そうと、彼の魔物達は壁の地へと押し寄せてくるのだ。
単なる蛮人達と違い、魔物のやっかいなところはその多くが非常に野蛮な上に、恐怖心が薄く、また極端に学習能力に欠ける種が存在する点であろう。
数百年、いや千の年を過ぎても、決して破られる事のないこの鉄壁の地を越えようと、灰の地に冬が来る度彼らはやって来て、多くの穢れた骸を大地に転がしていく。
そう冬の度に何度も、何度もである。
特に今年の冬は例年まれに見る厳冬で、グレイランドの魔物達による壁の地への侵攻は量だけでなく回数も増していた。
灰色の肌を持つ戦士達は感じていた、年々この地の冬が長くなっている事を。
「ドゥドゥ!! 矢だ、矢をもってこい!! もっとだ!! もっと!!」
壁の民の戦士が、彼ら独自の言葉で仲間に命令する。彼らの言葉は五大言語の流れの中には属していない。それは未開の地グレイランドを除けば非常に珍しい事であった。
「ブゥブ!! 北のズズが増援を求めてる!! 何人か向かわせなくては!!」
北の方角に上がる狼煙を見ながら別の壁の民の戦士が言った。
彼らの名は独特だった。ドゥドゥ、ブゥブ、ズズ、ガガ、ドノド、同じ音を入れる事を好み、男には必ず濁りを加える。
「ルル!!」
逆に女の名は濁らない。
「何人か連れて、救援にいってやれ!!」
「あいよ」
壁の民は男も女も、子供も老人も戦う。勇敢に戦う者だけが壁の民であり、肢体の欠損者や重度の病人、赤ん坊などの例外を除き、武器を握らぬ者は死罪となる。
灰色の肌を持ち生まれた者は、戦士として育ち、戦士として死んでいく。
数千年と続いてきた彼らの生き方はこれから先も変わる事はないのだろう。
「クルク、バルバ、バルボバ、ついてきな。ズズの奴が助けを求めてる」
「ちっ、ズズにゲルゲ、口だけ野郎共が自分の持ち場一つ守れぬとは!! 生き残ってたら皆の前で笑い者にしてくれる!!」
「そりゃ楽しみだ」
「ふざけてる場合か!! あそこにはギギド達もいたはず、好かない野郎達だが腕は確か。あいつらが助けを求めるなどよっぽどの事だ!! 急ぐぞ!!」
四人の戦士が壁上を北へと走る。
壁の上といっても、そこらの城や街が持つ外壁などとは比べものにはならない幅がある。身長三フィートルを越える大男、大女達が十人、二十人並んでも余裕があるほどだ。
巨大な壁上を北に向かうその途中、倒れている仲間を彼らは発見する。
「ズズ!!」
それは血に塗れ、深い傷を負って倒れた戦士ズズの姿だった。
息を切らしながら彼はしぼり出すようにして言葉を吐き出す。
「ルル……、黒沼のトカゲ共だ。トカゲ共が壁を登って来た……」
黒沼のトカゲ、そう言われて彼女らが思い出すのは、グレイランドにあるデヌーバの黒沼のリザードマン達しかいない。
「黒沼のトカゲだと!? そんなわけ……、今攻めて来てるのはオーク共とトロルの奴らだ。お前とて見たはずだ。壁の下に群がる浅ましき奴らの姿を!!」
五十フィートル下には大量のオークとトロル達が門を破ろうと押し寄せて来ている。その姿は壁上からでも確認出来た。それに対して彼らは魔物達に向かって矢を射って戦っていた。
しかしそれは奴らの罠だとズズは言う。
「俺もそのつもりだった……、奴らと戦っているはずだったんだ。だけど違った、トカゲだ、沼のトカゲ共が壁を登っているんだ。オーク共は囮だ」
「ありえない。沼のトカゲとゲドラ山のオーク達が手を組むなんて、それはお前とてわかっているはず」
「そのありえない事が起きている……」
人が同じ人種や同じ民族あるいは同じ国民同士で固まり動き、時に対立するように、魔物も同じ種や部族単位で固まり、互いに敵対し争いあう事も少なくない。
特に違う主を崇める眷属同士の仲は悪く、暴力と破壊の皇帝ボロスの眷属であるオークやトロルと恐怖と支配の皇帝ネロの眷属である黒沼のリザードマンの対立はその際たる一例であった。
通常ならば灰の地の沼のトカゲと山のオーク達が協力し合いこの壁を襲うなど有り得ない事だった。
「トカゲ共はもう数十匹と壁を登っただろう……」
「なんだと!! そんなになるまで……、何故もっとはやく助けを呼ばなかった!! リザードマン如きと油断したか!! それとも壁をよじ登る大量のトカゲ共に気付けぬほどお前達の目は節穴だったか、ズズ!!」
「星明りだ……。恐らく悪知恵働くゴブリンの魔術師共が、星明りの術で我らの目を眩ましたのだ。気付いた時には奴らはすぐ傍まで……」
壁の民の青い目に夜の闇は通じない。夜の闇中であっても、太陽の下と同じように視界を確保出来る者達である。だが、彼らにはある体質があった。それは月は見れても星が見れないという奇妙なものだった。
何故彼らの目には夜にあれだけ美しく輝く星が映らないのか、その謎は彼ら自身とてわからない。
悪しきゴブリン達はその弱点を付き、魔法で星明かりをリザードマン達に纏わせて、接近するまで彼らの存在に気付かぬように策を謀ったのだ。
「ゴブリンまでもこの戦いに加わっていると言うのか……」
「ルル、重兵団の奴らを呼べ……。お前達で手に負える数ではない。はやくしないと……、手遅れにっ」
激しく吐血するズズ。
「ズズ!! 大丈夫か!!」
「俺はもう駄目だ……。トカゲ共、毒まで使ってやがる……」
「もういい喋るな。すぐに聖来草を持ってきてやる」
「間に合わんさ……。それよりもはやく重兵団の奴らを……」
「ああ、わかってる。安心しろすぐに呼んで来る」
「そうか、よかった……、なぁ、ルル……」
「なんだ」
「俺は、俺は勇敢に戦ったんだ……」
「ああ」
「本当はこんな惨めな死に方でなく、戦って死ぬはずだったんだ……」
誇り高い壁の民が涙を浮かべながら訴えかける。
「だけど、みんなやられちまったから……、仕方なく、仕方なく……」
「わかってる。わかってるとも。お前は誇り高い戦士だ。恐怖に屈するはずもない」
「ああ、そうだ……。俺は戦士だ……。奴らを二十匹は狩ってやった……。ルル、みんなに伝えてくれ、俺は勇敢だったって……。戦って死んだんだって……」
「わかってる。何も心配するな。お前の名は勇者の石碑に必ず刻まれる。誰がそれに反対などするものか」
「よかった。よかっ……」
血を流しすぎたか、それとも毒のせいか。ズズが苦痛と安堵が混じった複雑な表情を浮かべながら息絶える。
「ズズ!! ズズ!! くそっ!! くそ共があああああああ!!」
ルルは怒りで絶叫する。
ズズが親しい友だったからではない。どちらかと言えば気に喰わない奴の内の一人だった。
だがそれでも、誇り高い壁の民が涙を浮かべるその心情、戦いの民であるはずの彼が大量の魔物を目の前にしながらも、背を向けねばならなかったその屈辱。
想像出来ぬはずがない。彼女とて同じ壁の民なのだから。
「クルク、すぐに来た道を戻れ。ブゥブと重兵団の奴らにこの事を知らせるんだ」
「何故私が」
ルルの指示にクルクは不満気だった。
「私よりバルバの方が弱い。私は戦うぞ、戦士が同胞の仇を前にして背中を向けるなど出来ん」
「黙れ!!」
ルルは厳しい口調でクルクに命じる。
「いいか、これは命令だ!! この中で一番足の速いお前が適任なのだ。ズズは己の誇りを傷付けられようと、我ら壁の守護者としての誇りの為にここまで走ってきたのだ!! その覚悟の重さ、お前に理解できぬはずがない!!」
クルクは反論出来なかった。
「……わかった。あんたがこの場の隊長だ、指示には従う。だが、私は必ず役目を果たしお前達のもとへ行く、それまでにくたばるなよ!!」
クルクがそう言うとルルは笑みを浮かべて返答する。
「当たり前だ。私を誰だと思っている。勇者ザルザとハルハの子、ルルだ。トカゲが何十、何百いようと私に傷一つ負わす事は出来ん」
「約束だぞ」
「ああ、約束する」
二人の女は固い約束を結んだ後、一方は仲間にこの緊急事態を知らせる為、来た道を戻り、駆けて行った。
全速力、武器を捨て、鎧を捨て走る、三フィートルの大女。
彼女の走りなら援軍を呼びこちらに送るまで、そう時間はかからぬはずだ。
「いくぞ、バルバ、バルボバ」
ルルは残る二人を連れ、ズズ達の持ち場であった壁上の拠点へと急いだ。
遠目からではその場の異変はわからなかった。星の光が漂っており、奴らの姿が見えにくくなっていた。
されどある程度の距離に近付いた時、ルル達の目の前に大量のリザードマンが姿を現す。
二足歩行するトカゲ達が戦い死んでいった壁の民を貪り喰い玩具にする残酷な光景が、そこには広がっていた。
「腐れトカゲ共があああああ!!」
何の迷いもなく、何の恐怖もなく、内から湧き上がってきた激しい怒りの感情に身をまかせ、壁の戦士達は魔物の集団へと突撃する。
リザードマンは使用する武器に槍を好んだ。彼らは白兵戦において槍の間合いで戦いながら、相手に懐深くまで詰められた場合、それを捨て、己の鋭い爪や牙で対応するという戦い方を基本としていた。
不快な鳴き声を上げて手にした槍で攻撃してくるリザードマン達。
「ふん!!」
ルルはそれを軽くかわしながら、三フィートルの巨体から斬撃を繰り出す。
その威力たるや凄まじく、リザードマンが纏う硬い鱗の肌ごと、いとも簡単に叩き斬っていく。
ルルの斬撃に対して敵の硬い鱗肌も、剥き出しの腹を守る為に身につけた革製の防具も役には立たない。
速く、重い、一撃がリザードマン達を次々と葬っていく。
三フィートルを越える大女の前では、その半分ほどの背丈しか持たないリザードマンはまるで子供であり、恵まれた筋肉を持つ壁の民に比べ、この魔物達の膂力などたいしたものではない。
そのうえ通常ならば大きく開く剣と槍の間合いの差、それがこの戦いにおいては様子が違っていた。
槍は確かに間合いの長さに優れた強力な武器であるが、身長三フィートルの壁の民が振るう巨大な剣の前ではその優位も霞んでしまっていたのだ。
「ズズの忠告を忘れるな!! 奴らは毒を使うぞ!!」
黒沼のリザードマンは元来毒を持たぬし、また毒武器を作るほどに邪知深くはない。
この魔物達の武器に毒を与えた者がいる、恐らくはゴブリン達だ。
奴らは利己的で臆病者で残忍、そのうえ浅ましく、打算的な魔物。戦いの矢面に立つ事を嫌い、奇襲や卑劣な策を用いる事を好む。
星明かりの魔術を利用した奇襲や卑劣な毒の武器は奴らが喜んで考え付きそうな事、加えてゴブリンは黒沼のリザードマン達と同じく皇帝ネロの眷属である。この二種の魔物が協力関係にあるのは不思議な事ではない。
毒の武器は傷を負っただけでも致命傷となり兼ねない。だが、これだけの数、戦いの民である彼女らとていつまで無傷でいられるか……。
「くそ!! やられた!! 左腕がぁ!!」
百は越えるリザードマンとわずか三人の壁の民、その戦いの中で、戦士バルバは槍攻撃を左腕に受けてしまう。
「バルバ!!」
「大丈夫だ!! 毒が回るより速く、このゴミ共を掃除してやる!!」
壁の民との戦いでそんな悠長な時間を与えてくれる毒を、あのゴブリン共が用意するとは思えない。
そんな事はバルバもわかっている。
決死なのだ。
彼もバルボバも、そしてルルも、今は決死の戦いの最中にいるのだ。
戦いは続く、やがて毒によって動きの鈍ったバルバが討たれ、バルボバもがトカゲ達の手にかかり死んでしまう。
ルルは仲間の死の度に怒りを増し、それを力に変えてリザードマンの屍の山を築いていく。
だが斬れども斬れども、敵は次々と壁を登ってきており壁上の数が減る気配はない。
戦士を超え、勇者を超え、武神の如く戦い続けるルルであったが、彼女の体力の限界は近づいてきていた。
「よく戦い、よく殺すな、西の壁の大女よ」
リザードマンの鳴き声とは違う耳に障る不快な声。覚えはある。聞き間違えるはずもない。この邪悪な声を持つ魔物は……。
「ゴブリン!!」
ルルが声の方に目をやれば、そこにはリザードマン達よりもさらに背丈の低い、醜悪な魔物が立っていた。
「臆病者で卑怯者のお前達がこんな前線まで出てくるとは!! 待っていろ、今すぐ我が剣の錆にしてくれる!!」
ルルの叫びに醜悪で小さな魔物はケラケラと笑い言う。
「ここはもう俺達のものだ大女。お前一人ではどうにもならん。じきに壁の上は黒沼のリザードマンで溢れ、門はオークとトロル達に破られるだろう!!」
「ぬかせ!! 千を越える年を重ねても一度足りとてお前達はこの壁を越えられはしなかった!! 今度も同じ事だ!! 私が死のうと、同胞の勇者達がいる!! 再び、お前達はせまい穴ぐらの奥へと追いやられるのだ!!」
「敗れたのは俺達ではない俺達の先祖だ。そして勝ったのもお前達ではない、お前達の先祖だ。同じではない。お前は死に、お前達は壁を守れぬ」
「驕るなゴブリン。お前もお前の先祖も同じだ。穴ぐらに隠れ住まう軟弱者だ!!」
ルルの言葉に腹を立てたのか、ゴブリンは短く同じ言葉を繰り返し叫んだ。
それは魔物達の言語、そんなもの知りはしないルルであったが、魔物の言葉がわからぬ彼女でもこのゴブリンが何を叫んでいるかぐらい直感で理解できる。
殺せ、殺せ、殺せ。
リザードマン達がゴブリンの言葉に従い、再びルルへと襲い掛かった時、壁の上に喇叭音が鳴り響く。
その音に魔物達は途惑い、ルルは笑う。そして彼女は言う。
「さぁ来たぞ、お前達の死神が!! くたばれ、薄汚いグレイランドの魔物達よ!!」
ドカドカともの凄い音を発しながら、その一団は近付いてきた。
獅子馬に跨り、鋼鉄の武具を身に纏う壁の民の戦士達。
王が誇り、民が誇る精鋭『重兵団』。それがその一団の正体だった。
重兵団の突撃を受けたリザードマン達は瞬く間にその数を減らしていく、ある者は屠られ、ある者は弾き飛ばされ、壁の上と下にトカゲの魔物の死体が散乱する。
重兵団は一人一人が一騎当千の優秀な戦士の集まりで、とてつもない強さを誇るが、彼らのこの突撃にこれだけの圧倒的な突破力と破壊力をもたらしているものは間違いなく、彼らが跨る獅子馬と呼ばれる獣であろう。
獅子馬は名から察せるように、獅子と馬とが混じったような巨大な肉食の獣で、重い武具を身に纏う三フィートルもの大男、大女を軽々と背に乗せ地を駆ける事が出来るだけの脚力を持っていた。
性格は非常に獰猛で、ユロアやフリアの一部では獣というより魔物の一種として見られ恐れられるほどである。当然、壁の民以外にこの肉食の獣を飼いならそうとする人間はほとんど存在しない。
壁の民は信じている。
最強の獣に、最強の戦士が跨る、それこそが壁の民最強の軍『重兵団』であると。
「ははっ見ろ!! 怯えろ!! 灰の地の穢れた者たちよ!! これが勇者の軍だ!!」
ゴブリンなどの例外を除けば、恐怖心を抱きにくいとされる魔物達、だが重兵団の大迫力の突撃には奴らもさすがに恐怖するらしい。ルルは逃げ惑うように混乱する魔物達を見て笑った。
「さすがだな、生きていたか戦士ルルよ」
重兵団の一人が獅子馬に跨りながらルルに声をかけた。彼女の顔見知りであった。
「ああ、当然だ。だが、礼を言わせてもらおう、勇者ゴドゴ」
壁の民は通常皆、『戦士』の地位にある。重兵団など一部の者や戦死者には『勇者』の地位が与えられ、戦士と勇者は区別される事になる。
彼らは己が戦士である事に誇りを持っているが、勇者となる事に憧れている。
「なぁに礼ならクルクの奴に言ってやれ。彼女の走りがお前を救ったのだ」
「ああ、わかった」
「他の者は……」
ゴドゴの言葉に無言で首を振るルル。
「そうか……」
「なに、奴らもあんたと同じ勇者となれる事を喜んでいるだろうさ」
「そうだな。俺も同じだルル。彼らと同じ勇者である事を誇りに思う」
「皆あんたに憧れていた。あんたのその言葉は何よりの救いになるだろう、ありがとう」
「しかし、獅子馬もなしにいったいトカゲ共を何体仕留めたんだ、お前は……」
周囲に転がるリザードマンの死体の数々を見ながら感心と驚き、それにある種の呆れにも似た感情を込めてゴルゴがルルに言う。
「さぁな。数える気などなかったからな。ただ目の前の敵を狩り続けただけだ」
「春が来れば、お前も重兵団入り確実だ。この冬のお前の戦いっぷり、誰も反対する者などいないだろう。楽しみにしているぞ」
壁の民は冬の期間グレイランドの魔物達と戦い続け、春が来て一息つく時に重兵団への選抜が行われる。
もとから有望な戦士として注目されていたルルであったが、この冬の戦果は特に著しく、それに加えてこの度の活躍である。もはや彼女の重兵団入りは確実なものだった。
「気が早いな。先の事に胸を躍らすより、私には戦士として為さねばならぬ事が残っている。戦いはまだ終っていないのだ」
「頼もしい限りだ、勇者ザルザの娘よ」
「何匹か逃げ込んでいるかもしれん、詰所の方を見に行く。あんたも来るか?」
「ああ、いいだろう。ガルーガ、お前は狩りを続けていろ」
ゴドゴは自分の獅子馬ガルーガから降り、ルルと共に見張りの番の為に用意された詰所となっている部屋へと向かう。
途中、リザードマンを追い散らす兵の何人かを加えて、彼女らは下へと続く階段の前まで来る。その先にあるのがズズ達が寝泊りしていた部屋で、そこは寝具だけでなく食糧や武器防具の予備まで保管しているうえにかなりの広さがある。死角も多く、敵が潜んでいればやっかいになる場所だ。
「さっき壁の上まで忌々しいゴブリンが来ていた。こういった場所での戦いを奴らは好む、皆注意してくれ」
ルル達は用心深く部屋を調べていった。目を、耳を、鼻を、あらゆる感覚を駆使して悪しき魔物を探す。
ゆっくりと慎重に、物陰に注意しながら彼女らは進んだ。
ゴソリと何かの音がした。
自分達の足音ではない。置かれている物に引っ掛かったわけでもない。
何かがいる。
緊張感が高まる。さらに慎重にゆっくりと彼女達は音のした方へと近付いていく。
――ここだ。
詰まれた箱の影に何かが居る。
ルルは後ろについてきた者達に目で合図をし、覚悟を決める。
そして彼女は手にした剣を振りかざし飛び出した。
「忌々しき魔物共め!!」
彼女の叫びとほぼ同時に、それは叫ぶ。
「ああああ!! 待って!! 待って!!」
それは予想外の生き物だった。
一フィートルの醜悪なゴブリンでなければ、リザードマンでもない。ましてやオークやトロルでも。
人間だった。灰色の肌と青い目を持つ人間。
ルルと同じ壁の民。ただし、怯えるように縮こまった姿勢を正しても、この者の背丈は彼女の半分もないだろう。
「マルフス……」
唖然とするルル達だったが、状況を理解すると女戦士の顔は怒りに歪んでいく。
「お前、こんなところで何をしている」
マルフスと呼ばれた小さな壁の民は震えて首を振るばかりで言葉が出てこない。
「何をしているかと聞いている!!」
「違う」
「違う? 何が違うんだマルフス。貴様!! ずっとここで一人、敵に怯え逃げ隠れていたのだろう!!」
ルルはマルフスの首を掴み押し倒す。
「く、くるしい。はなせ……、し、しぬ……」
「死ね!! 死ね!! 死ね!! 一族の恥さらしが!! 私がこの場で殺してやる!!」
マルフスは男だ。壁の民としては繰り返しも濁りもない、珍しい名を持つ壁の民の男。
男ではあるが背丈はルルの半分しかないので、同族の女の怪力の前にただもがく事しかできない。
「やめろ!! ルル!!」
ゴドゴが止めに入る。
「何故、止める!! こいつは戦いから逃げたんだぞ!! その意味があんたにわからぬはずはない!!」
戦いの民である彼らにとって逃亡や戦闘放棄は決して許されない重罪。そんな事はゴドゴも知っている。
「ああ、わかってる。お前の怒りはもっともだ。だがルル、こんな男を殺す為にお前の力があるのではない」
「その為だ!! こういったクズを殺す為に私の力はあるのだ!! 邪悪を討つ為に私の力はある。リザードマンにゴブリン、オークにトロルにミノタウロス、灰の地の邪悪をだ!! そしてマルフス、お前のような邪悪を!!」
バルバが死んだ。バルボバが死んだ。ズズが、もっと大勢の仲間が死んでいった。
冬が来る度、幼き日から共に戦ってきた友が、仲間が、次々と死んでいく。
それは誇り高い事、悲しむべき事ではない。彼らの誇り高き死は喜ぶべき事なのだ。
そう教えられ、そう考え、そう思い生きてきた。
だが、何の悲しみもないはずがない。後悔がないはずがないのだ。
もっと速ければ、もっと強ければ、救えた同胞もいたのではないか。彼女は己の非力を憎み、怒り生きてきたのだ。
「何故戦わない、何故逃げ隠れする!! お前の同胞が命を賭して戦っていたのだぞ!!」
ルルの声は震えていた。目には涙すら浮かべている。
「お前達と一緒にするな……。俺の体であんな大軍どうしようもない」
「体格のせいにするな臆病者!! 子供とて弓を手に戦っているぞ!!」
「こんなの俺の戦いじゃない……」
「お前の戦いだと? 笑わせるなよ、腰が引けて弓矢も満足に射れぬ半端者が、夜空を眺めるだけで見張りすらろくにこなせぬクズ野郎に、いったいどんな戦いがあると言うのだ!!」
「星々がそう言ったんだ!! 俺の戦いじゃないって、あんた達には星が見えないからわからないんだ!!」
「星が言っただと!! まだそんな戯れ言をぬかすかマルフス!!」
「戯れ言じゃない。あんたらには星が見えない。星が読めない。だから俺の言葉が信じられないだけだ」
「何が星読みのマルフスだ。お前の言う星の声、その預言がいつ当たった。何が当たった。いつも曖昧でそれらしい御託を並べて、本当に星が見えると言うならゴブリンの星明りの魔術も見抜けたはずだ!! トカゲ野郎共の接近に気付けたはずだろうが!!」
「俺が見張り番の時には奴らはまだ壁を登っていなかったんだ、俺は悪くない!! それにこんな戦い無意味だって俺は言ってたのに……、お前達は聞きはしなかった。だからこんな事になる!!」
「何だと……」
壁の民の戦いそのものを侮辱する言葉にルルは激怒する。
「いつもはイカれ野郎の戯れ言だと聞き流してやってたが……許せねえ。汚らわしいマルフス、殺してやるぞ!!」
「いい加減にしろ、ルル!!」
再び強く止めに入るゴドゴ。
「こいつを裁くのはこの場ではない、お前でもない。こいつは裁判を受けなくちゃならない。俺達は獣じゃないんだ」
ゴドゴの言葉にルルは動きを止める。
「それともなんだ。一族の恥になるからと、人知れずここで葬ろうとでも考えているのか? お前はそんな姑息な女だったか? ルルよ」
「違う……、私は勇者の子であり戦士だ……」
「だったら、堂々とせよ戦士ルル!! お前の剣は、お前の拳は、邪悪な敵を葬る為にあるのだ。一族の恥を怒りに任せて殺す為なんかじゃない」
「ああ、わかった。すまない、取り乱してしまって……」
「謝るような事ではないさ。お前は強くて賢い戦士だ。次の冬の戦いではお前はこの冬より多くの敵を討ち、多くの同胞を救うだろう。その大義を胸に生きよ、ザルザの娘よ」
二人の会話に当面の危機が去ったと安堵するマルフスであったが、ゴドゴは彼に厳しい口調で言い放つ。
「何を安心しているマルフス。この場にいる者は誰もがお前の大罪について正しく証言するだろう。お前が生きていられるのももうすぐ終わるこの冬の間だけの事。せいぜい冷たい牢の中で後悔するがよい。名誉を汚したことを。お前のではない、一族の、そして偉大な勇者であった父親の名誉をだ!! 覚悟しろ、勇者の石碑にお前の名は刻まれぬぞ!!」
憎悪と侮蔑を隠さず罵倒するゴドゴ。
彼の罵声を浴びながらマルフスは誰に聞こえるわけでもない小さな声でぼそりと呟く。
「俺は……、俺の運命は、ここで終わらない……」




