表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
知恵の木の森の中で  作者: 竜丸
10年 10月
9/17

平和な男子高校生たちと危ない少年

     1


 ここは都内有数の進学校。馬鹿な日本の大学は、いや語弊があるから言い直そう。日本の大学は馬鹿がこう思ってるからいけない。入るのが一番難しいと。確かに、他の国に比べて入試にかかる比重は大きい。でも、入った時は違いがなくても、入ってからの過ごし方でどれだけいい大学だろうが、卒業する時にその人間の価値は変わってる。横に並んでた奴が、いつの間にかいなくなって見上げると月に立ってたりする。そう、過ごし方一つで天と地ほど開くという事だ。

 僕達の通う高校は、入るのも進級するのも、赤点を取らないようにするのも、日々の積み重ねがないと高校生活は遅れない。表向きは確かにこうだが、実際中にいると腐っている人間は何人もいる。一学年に一人? いやちがう、なら一クラスに一人かって? それも違う。クラスに普通の、僕達のように真面目な学生は数えるほどしかいない。それが現実だ。

 休憩の時間、トイレに来た僕は、個室に二人で入る男子生徒を見た。彼らが個室で何をしているのか、僕は知ってる。危ない物の取引をしてるんだ。この学校で大胆にも裏取引をしてる。信じられないだろうが、名門と付いている学校だからこそ真面目な生徒が多いと思い込まれていて、抜け道が至る所にある。それが実態だ。悔しいが、ここで声をかけても何も変わらない。僕は手を洗ってトイレを出た。


「で、何てとこ?」

 黒縁に厚めの飾りっ気のない眼鏡をしている子を、人は真面目そうだなと思う。黒くて櫛で梳いただけの髪の毛もそれに拍車を掛ける。

「金は?」

 こっちの学生は、進学校ではギリギリだろう地毛だとの言い訳も通用するくらいの茶髪。本当に薄らと、光が直接当たらないところでは黒に見える。髪型も、少し固めているので、問題児扱いされてるかもしれない。友達ではないだろう二人の男子生徒が、個室で一体何をするのか。一時期話題になった、学生全員が関わっているような報道のされ方だった薬のやり取りかもしれない。

「一、持ってきた」

 茶髪の方が壁に耳を当てた。頷いたので、外に人はいないのだろう。学生服の上着の内ポケットに手を入れた。

「お前の好みってどんなのだっけ」

 好みがあるとは、もうどっぷりと嵌っているのか。せっかくいい高校だろうに、何とももったいない。

「そ、そりゃ、やっぱり、大きいのがいい」

 大きい。薬の効果ではあまり使われない表現だ。錠剤でも、小粒の方が飲みやすいだろうし、何を差してるのだろうか。効果の時間だったら長いだろうし、効果の強さなら高いやハイになれるだ。

「でかすぎるのも気持ち悪いぞ。程よいのが丁度いい」

「それはお前がモテるからだろ。やっぱり、男のロマンは大きいのじゃないか」

 男二人で、個室。まさかとは思うが、そういう関係か。いや、それだったらこんなトイレの個室で何て、しないだろう。見つかったら、色々な意味で人生が転がり始める。

「そうか、まあ、好みだからな。んじゃアドレス言うぞ」

 アドレス? 現代ではよく聞く単語だが、ここでゴルフのスイングに入る構えの説明をしたなら、少々見直すかもしれないが違うのは明白。

 真面目そうな男子生徒がポケットから携帯を取り出してメールを開く。茶髪の方はいいよと言われて、ゆっくりと聞き間違えがないようにはっきりとhttpと言って、その後にどこかのホームページのURLを話した。

 話が進むにつれて、やはり男の子は昔も今も大して変わらないのだと分かった。最近の女の子は、小さい時からおしゃれだ。町を歩いていて子供雑誌の取材だとカメラを向けられても決めポーズ一つでばっちりだが、同じ年代の男の子はヒーロー物の柄のトレーナーを着てたりする。

「で、ホントに、無修正が見放題なのか?」

「タダで、いつでも見れる」

「色んなの?」

「あぁ、いっぱいな」

「詐欺とかじゃないよな?」

「千円の為に詐欺すると思うか? フィッシングもないし、完全にタダで見れるって。あぁ、でも、家族兼用のパソコンだろ、お前の家」

「うん、そうだけど」

「だったらちゃんと履歴消しとかないとバレるからな」

 契約は成立と、千円の受け渡しの後二人は個室を出た。まぁ、ある意味裏取引になるのかもしれない。


 何事もないように時間が過ぎて、授業が終わった。皆、すまし顔で帰り支度を始める。大半の者にとっては、これからの時間が学校だ。今までの、朝起きて制服を着て受けていた時間は復習。効率の悪い、ダラダラと喋っているだけの復習。所詮は、名門校とはいっても学校であるのには変わりがない。大学に入るための力は、ここにいるだけでは到底付かない。あぁ、そこらにある三流大学なら通るだろうが、高い金を払って私学に通っていてそんなところを目指すのはまさしく三流だ。

 丁度三流の話をしてると、三人組の女子生徒が並んで帰っていくのを目撃した。同学年で、毎期のテストは下から数えた方が早いトリオ。きっちりと身嗜みを整えているわけでもなく、少し崩して着ているだらしない女子達だが、不思議と留年は一度もしていない。そこには確実に裏がある。恐らく、いや絶対に、あの三人はこの学校の先生と援助交際をしているはずだ。そうでないと辻褄が合わない。あんな頭の悪い三人が、一度も留年してないなんて。

 毎回、他の人間は入れ代わり立ち代わりしてるのに、あの三人だけが赤点付近をうろついている。この三年間、ずっと。後を付けて、一体どの先生と関係があるのか確かめてもいいが、僕達には今、他にやるべき事がある。不正を暴けないのは悔しいが、もっと重大な事件がこの学校では起こっているのだから。


「で、今日の相手は?」

 ある有名進学塾の名前が挙がった。溜息を漏らす他の二人。いかにも乗り気ではなさそうだ。

「キモいんだよね、塾の講師って」

「でもさ、テストの傾向と対策を考えてもらって、出る問題の予想立ててもらわないと無理でしょ、私達」

 三人並んで歩いていると、ダルそうにファストフード店で喋っているのが似合う感じだが、制服の威光でそうは見られない。時代が進んでも、名前があればそれなりの対応をしてもらえるのが世の中だ。

「それもそうなんだけどね」

 三センチ以内の誤差の範囲の三人の中で、一番小さい女子生徒が二人の背中を叩く。それほど強くなかったが、反射的に痛いなと二人揃って叩いた女子生徒を見る。

「我慢。今は我慢の時だよ」

 腕組みをして二人よりも前を歩きだす。

「将来の安泰の為に、ここを堪えないと」

「女で留年は不味いしねぇ」

 三人は頷く。

「一番いいのは女子大かな?」

「ただの女子大じゃダメだって。お嬢様大学じゃないと」

 僅かの違いで一番背の高い女子生徒が大きく頷く。

「私なんて、この高校来る前は見下されまくってたからねぇ。やっぱ、名前は大事」

「そんで、いい男を見つけながら大学でするのは資格確保」

 三人声を揃えて言った。

「いつでも離婚できるように」

 現実的な話だが、どれだけ大きな会社に入った優秀な夫でも、電車の中で女子高生のお尻を触ったと嘘でも叫ばれてしまえば、一パーセントも無罪になるか確率がない世の中なのだから、いつでも切り捨てが可能でないといけない。

 その事が分かってる時点で、この三人は馬鹿ではない。まぁ、男を物のように思っているのはどうかと思うが、可能な限り一生を同じ家で過ごしたいと慎重に選んでいるのだ。同じ年代の子でちゃんとそんな考えをしている子が、現代は多いかもしれない。昔、お見合い結婚が廃れた時代からバブル時代を生きた女性よりも現実を直視している。

「さて、その為に今日も頑張りますか」

「今日の講師とかもエロいのかな」

「ストレスも、目の前で手出せないイライラも溜まってるだろうからそこら辺は上手い事やらないとね」

 手慣れているが、どうやら援助交際ではなさそうだ。この後三人は、制服は鞄に詰めてくるようにと言って別れた。


「で、どうだった?」

 素早く二度頷くと、他四人と同じように腰を下ろして胡坐を組んだ。百九十あれば窮屈かもしれないが、平均的な身長なら問題ない普通サイズのベッドに、雑誌や漫画、ゲームや趣味の品が一つも乗っていない勉強机。綺麗に並んで置いてある本はすべて参考書。一般人が寝る前に読んだなら、一ページ進むのに三度以上は辞書を引かないといけなくなり眠気が吹っ飛びそうな類の物ばかり。勉強に必要な物以外がない部屋が、男の部屋独特の子供臭さを消していた。ボール一つないのだ。モデルルームの子供部屋の写真もびっくりだ。

「やっぱり、二人で帰ってたのか」

 外はまだ夕刻。こんな部屋に住んでいる学生なら、まず間違いなく学校の第二部が始まる。本来ならこの時間も、それに向けて復習をしているはずなのに、五人は神妙な面持ちで額と額を合わせるように顔を寄せてヒソヒソ話を始める。

 見渡す限りおかしな所はない。彼ら五人が部屋の隅や本棚、勉強机やベッドに視線を送りながら会話をしている姿は、さながら盗聴、盗撮されている部屋で否応なしに国家機密を話さなければならないSPのように見える。学生服だからスーツほどではないが、そうぱっと見は感じるとはいえ、真面目そうな五人が肉体を使って要人警護は無理だ。こう断言もしよう、彼らは体育祭が嫌いだ。

「なぁエース、本当に見たんだよな」

 彼ら五人の見た目は、どこからどう見ても日本人。西洋人なら見極めがつかないかもしれないが、東洋人なら間違いなく日本人と言う顔をしている。

「見たっていってるだろ。ジャックもいたんだ」

 少し笑いそうになってしまうが、この五人は真剣だった。恐らく頭の中で必死になって考えて、あまりその手の範囲を知らない中で考えた呼び名がこの名前なのだろう。たった二つだけでも他の呼び名想像付くくらいの、簡単すぎる呼び名だが。

「あぁ、本当だよ。塾の帰りに、生徒会長と副会長が並んで帰ってた。美男美女同士だし、頭はそんなに良くないけどお似合いのカップルだし別に不思議じゃなかった」

 話を受け取りもう一人、エースが続きを話す。

「けど、やたらとコソコソしてるからおかしいなって思って二人でつけたんだよ。確かに悪いとは思ったけど、警戒の仕方が不自然だったから。で、どんどん街灯が少ない方に行くから、ますます怪しくなって、尾行も簡単になっていって、ある公園に着いたんだ。そこで、二人を待ってたんだよ」

 彼ら、エースとジャックの話では、その二人を待っていたのがスーツ姿の男達だったという。別に怪しくは、まぁ公園で会っているというのは怪しいが、社会人ならスーツを着ている人間は多い。作業着と並んで大人の制服みたいなものだから、これだけで怪しいとは言えない。

 だが二人は断言する。まっとうな世界の人間ではないと。その後を、怖かったがかなり距離を取りつつ、絶対にバレない位置で撒かれてもいいから身の安全を確保しつつ付けると、二人が公園近くの路地に止めてあった高級外車に連れ込まれたのを見たらしい。ここまで来ると確かに怪しくなる。

 二人、生徒会長と副会長が家族だったり、近しい家の間柄ならこういう事があっても不思議ではないが、そうだったなら五人揃って怪しむ事はないはずだ。

「キングはどう思うんだよ」

 これで間違いない。残りは一番揉めただろうクイーンとジョーカーだ。どちらも別の、敢えて変えてるかもしれないが、少なくとも三人まではトランプから取っている。

「確かに変だな。二人とも頭は並みだから受験で必死なはずだし。まぁ、そこまでの家じゃないから気は楽だろうけど、どうせなら浪人したくないだろうし、遊んでる余裕はないよな」

「だったらどうする」

 キングと呼ばれた、立派な髭も王冠も剣も何も持っていない、至ってそこらにいる普通の青年が全員の顔を見回して頷いた。他のメンバーも頷き返してきたので、最後にもう一度キングが頷いた。

「二人を助け出そう。俺達の手で」

 何だか変な方向に進んでいく。もし、生徒会長と副会長が本当に危ない世界に関係するなら、五人の高校生がどうこう出来はしない。自分たちが特別とでも思っているのだろうか。そういった本はなかったはずなのに……。


     2


 平日昼間過ぎのファミリーレストランの人間模様は、中々に興味深い。サラリーマン風の男性は、常にノートパソコンと向き合って運ばれてきた料理には手を付けず、ブツブツと呟きながら画面を眺めては何を思ったのか一気にキーボードを打ち始める。まだ若い男性は、これぐらい打てないとスーツを着れない社会だ。絶対に必要なスキルではないが、パソコンを使う機会が出来て当然。なんなら少し年を取った上司に教えるぐらいの技術は欲しい。この彼は、就活中ではないだろうがパソコン画面との睨めっこは続けそうだ。一つ、彼に言えるのは子供舌という事くらいか。横の冷えていく料理はハンバーグと、パスタ呼びよりもこちらの方が似合っているスパゲティー。

 残りは三組。一組はガテン系のお兄さん三人。綺麗にしてきたつもりなのだろうが、作業着の泥汚れまでは落とせなかった。表面についている砂や泥は落ちているので、お店側からしたら嫌な顔は出来ない。今日は特に安売りをやっている雰囲気ではないし、何よりやっていても昼間の最盛期は過ぎているので割引はない。ガッツリ食べたいなら、毎日のように割引をやっているファストフード店を選ぶ。近くには洋も和もある。大衆食堂もあるし、そちらの方がしっくりくる。年齢も無精ひげが似合うおじさんに無精ひげが似合わない青年、坊主頭に髭の剃り残しがない青年と十歳以上は離れている。そこまで大きな声でしゃべってはおらず、中々に礼儀正しい。この三人がここに来た理由は、ハンバーガーや弁当、丼物では物足りず、大衆食堂ではあまりメニューに無い物を食べたかったからだろうか。三人が美味しそうに食べているのは鉄板の上に乗ったアツアツのステーキ。

 残りは二組。若い男女が向かい合って座っている。互いが目を合わさず、テーブルの上には湯気の上がらないコーヒーと汗を掻いているオレンジジュースが乗っている。もう二人がここにきて長く同じような体勢でいる。何かは喋っているのだろうが、パソコンと睨み合うサラリーマン風の男性よりも口が動いていないようだ。普通ならグラス中に汗を流すオレンジジュースがそこまで派手に汗を掻いておらず、テーブルに水溜りを作っているのでも時間の経過が窺える。楽しいデートなら、時間が経過した日課のようなデートでもそれなりの格好をするはずが、コンビニにでも行きそうな地味な、けど外に出てもおかしくない服装をしている。この雰囲気で、まあ楽しそうなデートと思い浮かべる想像力は持ち合わせていない。普通に考えて二人の議題は別れ話。熱くなる様子もない事から結論は二人がよく知っている。喉を潤すために、男性が冷え切った関係を冷め切ったコーヒーで潤した。

 そして最後の一組、ここが問題だ。遅れてきた女性が席に座る。正面には二人。スーツ姿の男性と、学生服ではなく同じくスーツ姿の少年。三十代か見た目よりも上だとして四十前半の女性に、男性の方は頭を下げた。のんびりとした印象を受ける顔。髭も綺麗に剃っている。髪の毛も短く、染めた様子もない。

 礼儀のちゃんとしている男性とは違い、横の少年は違った。礼節を弁えない子供は何かと厄介だ。幼ければ仕方ないと納得もできるが、劇や映画など、趣味の場所に連れて行くのは控えなければならない。ただし、葬式などの場合は連れて行くしかない。少年がスーツ姿というのは、その葬式だとしか思えない。

 それなら一つ、疑問が残る。少年は横に座る男性とは違い、女性の方には目もくれず、ガテン系の男性達が食べているのと同じステーキを食べていた。日本には昔から、葬式が終わって暫くの間肉を食べない習慣がある。どれだけの人がこれを守っているのか知らないが、少なくともスーツを着ているという事は式が終わったばかり。親族でなければ関係ないと食べるかもしれないが、どうなのだろうか。二人の関係が父親なら、まずは葬式後の肉を注意する前に女性を無視している事を叱るだろうがその様子もない。

 挨拶を済ませた女性は、挨拶をしない少年を見た。怪訝そうな表情ではなく、かなり困ったように眉を下げる。それに続いて周りを確認する。自分たち以外には客が三組。従業員がいるレジからは一番遠い所に座っている。他の客もそれぞれ個別に時間を使いたいのか、皆二つ以上は席が離れていた。

 頷いてもう一度視線を少年に向ける。一切こちらを気にせず、黙々とステーキを食べる少年。最近の子は髪を長く伸ばすのに抵抗がないみたいだが、ポニーテールをしている少年は流石に見かけない。光の加減で水色が走り、跳ねるくせ毛をしている。咀嚼するのにあげる表情は、幼さはあるが男前だと呟きそうになるほどだ。世の中美貌は武器になるが、女性は少年の顔よりもこの場面にいる事に迷いがあるようだった。

「心配ありません。協力者です」

 誰が見ても困惑していた女性に、男性が手を差し出す。協力者と言われてもと、さらに眉が下がった。伸ばした手を取られず、ばつが悪そうに引っ込めるのは自己満足がしたいだけの人間だ。電車で席をお年寄りに譲ろうとしたのに結構だと断られて、内心嫌な気持ちになるようなのがその例だが、男性は違った。伸ばした手をさらに長くして強引に掴む術を持っていた。

「お父様からどうにかしてくれと、課長に話が直接ありました。お孫さん、お子さんの話ですよね」

 畳みかけるように続ける。淡々とボールを置いても転がらないような平坦な声で。

「表だって動けない時期ですから、我々のような知られていない課が来た訳です。公の存在でないからこそ、協力者も普通じゃない」

 横では残り二切れの一つをフォークに差して食べる少年。

「常識で考えないでください。手帳を見せろというのなら喜んでそうしますが、目立つかもしれません」

 確かに常識ではない少年の行動。目立ちたくない気持ちがあるだろう女性の気持ちを見透かして、そこを突く。困惑はしているが、自分から強く出られない立場だからか、小さく頷いた。

 流れからして、この三人を少しだけ知る事は出来た。

 まず男の職業は一つだけになった。手帳を見せるという行動をとるのは、あれしかない。警察官。これはまず間違いがない。新聞に限らず、記者も手帳は持っているが、警察官とはまるっきり違う。彼らは手帳を人に自分から披露はしない。絶対に見られないように隠す。対極にいるからこそ、男性が警察官で決定した。

 次に少年だ。幼い、恐らく十代前半の彼だが、小柄な割にガッチリしているのがスーツを着ていても分かる。警察官はこの少年を協力者だと言っていた。表の、普通の意味での協力者は一般市民だが、裏の、簡単な話が麻薬密売人などの協力者がいるが、この少年は後者の方に近いのだろう。普通なら学校の時間なのに、気にしている素振りもないので通っていないと、付け加える要素もある。現代日本で、少年を学校にも行かせないで仕事をさせてるなんて格好のマスコミのご飯の種だが、知られていないとすると相当裏の奥にいる課になる。それか、書かせていないかのどちらかだ。

 最後の女性は、こんな安いレストランに来るような恰好じゃない。ホテルで取る昼食も、わざわざ安くなるバイキングに行かずに、万札が飛んでいく高さでも笑って過ごせる身形だ。決して高くないだろうスーツの二人では、とてもじゃないが釣り合わない。会話からしても、夫婦ではなく話をしに来たという間柄。もしここで浮気調査だなんて来たら笑い話だが、悩んでいる素振りでも重たさが違う。いや、不倫ならこれくらい悩んでいて普通かもしれない。警察のお偉方の娘の夫が不倫だなんて、知られてしまえば出世に響く。

 これからする話の内容を、何度か頭の中で噛み砕いてゆっくりと整理していく。順序立てて、分かり易くするために時間を掛けるようだ。その間に、少年は食事を終えた。オレンジジュースを一気に飲み干し、ご馳走さまと席を立ちそうな勢いだったが、深く座り直して初めて女性を見た。

 整理していたはずの女性も、どれから言おうか見出しを作っていて真っ直ぐ向けていた視線と合ったので、謝るように頭を下げた。それを無視するほど礼儀知らずではなく、少年も会釈を返す。

 やる事の無くなった二人を、男性の方は元からただ待っているだけだが、待たせるのも悪いと思ったらしい。

「あの、デザートはいかがですか?」

 警察官は結構ですと手を挙げたが、横の少年が無理やり押し下げさせた。返事もせずに店員を呼ぶボタンを押す。やってきた店員に、さらに女性を無視する言葉が出てきた。

「同じのをもう一つ頼む」

「ステーキAセットでしょうか?」

 頷く少年に、笑顔でありがとうございますと店員は伝票に書き足して戻っていた。礼も返事もない少年に、また少しだけ困惑の表情になる。多分、こんなに礼儀知らずの子供とは会った事がないのだろう。それを察して警察官がすいませんと頭を下げる。

「一般教養がなくて。ここは自分が持ちますから、何か食べますか」

 気を使っても、綺麗なドレスに付いている埃を払うのに泥だらけの手で触れれば汚れてしまう。この気の使い方はその泥だらけの手だ。誤った判断ではあったが、自分から踏み込むようなヘマをするのには理由がありそうだ。

「いえ、私はこれから、その、食事を別のところで取ろうと思っているので」

「随分と遅い食事ですね」

「えぇ。今日の夜、ちょっとした用事があるので夕食を取れないんです。だから遅い時間に食べてそれでお腹を持たそうと」

「そうですか」

「あ、それと、ここの食事代は私が持ちます」

 この言葉を引き出させるのが狙いか? もしそうだとしたら相当セコイ男になるが、警察官は結構ですよと断る。

「そうはいきません。私の願いを聞いてもらうのに」

「それとこれとは話が違います。ところで、その願いの内容とはなんでしょうか?」

 目的はこっちか。少年の無礼な態度に、また困惑の色を強められたら時間が掛かる。早く話を進める為に敢えて自爆するような食事の進め方をした。

 上流に住む人々でも一般人が好む外食を口にしたりするが、レストランとなると話は別だ。ラーメンやカレー、飲み屋やジャンクフードなど、見栄っ張りな人間が好む高いメニューがない店に限る。ステーキや寿司など、明らかに値段に差がある場合はとてもじゃないが口にはしない。

 庶民からすれば高い肉や魚は滅多に食べられないご馳走だ。だから普通の、百グラム百円や二百円の肉でもおいしいと食べられる。普段から百グラムで札が消える肉を食べていると、安いと思ってしまうだけで舌が受け付けなくなる。まぁ、本当に優れた味覚を持っている人間は少ないだろうが、そういうものだ。

「それは……」

 もう一度躊躇ったが、引き伸ばし過ぎても自分の中でどう答えていいのか定まらないと感じていたのか、決心したように話し出した。

「息子が、おかしいんです」

 真剣な顔でそう切り出した。ご近所で立ち話をしながら大きな声で、ウチのバカ息子が、なんて明るい笑い話ではないようだ。重たい、人に聞かれたくないほどの内容なのだろう。

 おかしいにも種類はある。警察官僚の孫として一番やってはいけないのはどれだ。薬物関係の場合は、こんな一警察官に相談する前に完全隔離された病院や施設に閉じ込めればいい。窃盗、可愛らしく言えば万引きなども簡単に、現代でも揉み消すのは容易い。

 年齢からして肉付きがよくなっていてもおかしくない腕は、スラリと長くこれも若く見えている要因。伸ばしたりしていないが、垂れて盛大に揺れる事はない。もう少しで脇が見えそうな服装でも十分問題がない腕を、不安そうに口元に持っていく。少し震えてもいる手を、支えるようにしてもう片手を添えた。

「最近、塾に行ってないんです」

 おや、思っていたよりも随分と軽い話題が来たが、まさか、こんな事で、警察が動くなんて、流石にそんな事は、ないと思いたいが果たしてどうか。人が死ぬまで警察は手出しをしない。身の危険があっても日本では犯罪が起こってからしか警察は動けない。己の身は己で守らないといけない日本で、もしこんな事で動いたと見捨てられた遺族が知れば、怒りで理性がどこかにいなくなる。だからこそ思いたい、こんな事では動かないと。

「それで、友達と部屋に……」

 本題の前に、ウェートレスが食事を運んできたのを遠く、テーブル三つ向こうに見つけて口を噤んだ。言葉なんてまだまだ届くはずがないのに、慎重すぎるくらい慎重だ。これだけ警戒もしているし、まさかさっき話していた続きがないだなんてあるはずがない。

 黒い鉄板の上で、本当の値段が分からないステーキが音を立てて食欲を誘う。泡が一つ弾ける度に匂いで周りを誘惑する。食事時に鉄板の上で踊る肉汁の匂いをさせて横を通られると、思わず同じものをと言いたくなる。

 窓際、奥の席にいる少年には届かないので警察官の前に一旦皿を置き、お待たせしましたと商品名を読み上げて、営業スマイルを残して帰って行った。

 その背中が奥に引っ込むのまで確認してから、女性が警察官に視線を戻す。その間に、少年は二度目の食事を始めている。挨拶も礼もない失礼な態度にも慣れたのか、この行動は気にしないで今度はあっさりと話を続けた。一度会話を始めると、女性は止める術を知らない。聞いて欲しくて堪らないのだ。

「ここ一週間、いえ十日ほど、毎日友達と集まって、何か話し合っていて……。私が部屋に入ると会話を止めて、早く部屋を出て行ってほしいという空気を出すんです。こんなこと一度もなかったので、私、どうしていいのか分からなくて……」

 これならまだ、ご近所で奥様方がバカ息子自慢大会をしている内容の方がよっぽど深刻だ。もしこんな内容で一々警察が動いていたら、全国民の半分が警察官でも手が足りなくなる。それでなくても人材不足なのに。凶悪と呼ばれる事件が毎日起こっているのに、本当にこんな事に手を出すつもりなのだろうか。

 警察官は真剣に、嫌な顔一つせずのんびりとした顔を引き締める。不快な思いをさせないようにしている。横にいる少年は、一心不乱に肉を食べているが。

「年頃の少年にはよくある事です」

「でも、でも……。こんな事は一度もなかったんです、本当に。しかも五人揃って塾を休むなんて、他の親御さんにも申し訳なくて」

「確かに、時期も時期ですしね。受験の追い込みをしないといけないのに、心配ですね」

「あぁ、そのことは心配ありません。皆、余裕で受験は合格できます。相手側からのお話も沢山ありますが、五人の中で誰が一番酷い点で合格するか勝負するために受験を受けるらしいので」

 予想を裏切られても、警察官は表情を崩さなかった。瞬きの回数が一回半増えたが。

「受験なんてあの子達にとってはお遊びですが、塾に行かずに集まっている理由が分からなくて、どうしていいのか」

「一ついいですか」

 顔を上げて「はい」と返事をした女性に、警察官は当然な質問をした。

「もし受験が、その、百パーセント大学に合格できるのなら、塾に行かなくてもいいのでは? 空気も張りつめている頃ですから、行きずらいというのもあるかもしれませんよ」

「もともとあの子達にとっては、塾も遊びの一種ですから関係ありません。ただ、行かないというのが普通とは違うんです」

 金の無駄だろ。公務員の安月給の身からしたらこういう文句を言いたいはずなのに、真摯な姿勢で話を聞いている。心配そうに、どう解決しましょうかと語りかける表情は、心の内を隠す仮面には最適だ。ここで笑ってしまったり、明らかにめんどくさそうにしては社会人としては失格。ここまで演技を上達するには多くの人生経験を要するが、その苦労を警察官は見せない。

 迷路の中に迷い込んで泣き出しそうな女性に対して、二度三度首を上下に動かした。続いて出る言葉はこうだ、「分かりました」

「一体何をしているのか、こちらで調べてみます」

 了承したという事。こんな下らない、子供が躓いた公園の段差を今すぐ無くせと言ってくる親の願いよりも遥かに下らない願いを、警察が受けて捜査すると決まった瞬間だ。公でも、警察官でもないその関係者だが、警察が動く事には変わりがない。

 周りにいる誰か一人でもこの話を聞いていたら確実に文句を言ってくるが、近くには誰もいない。止める事はできない。これならまだ断然、確率的にはサバンナで印の付けた一匹の蟻を見つけるくらい難しいが、たった一人の指名手配書に載っている犯罪者を、写真だけを頼りに探す見当たり捜査をしている方が有意義だ。これが何人も探している見当たり捜査なら天と地ほど、意味合いが違ってくる。

 だがもう手遅れだ。受けると決まった以上、警察がこんなにも無駄な、育児もできない親の願いを聞いた事実は消えない。話の終わりが迫ったのを知って、少年は残っていたご飯やサラダ、肉やスープを一気に掻き込んだ。汚く音を立てて食べ終えて口を紙で拭いて丸めて置く。

 テーブルマナーを気にするような一般人は、日本人には少ない。警察官は気にも留めない。ちょっと汚いなと思う程度の人はいるだろう少年の食事の終わらせ方に、女性は明らかに嫌な顔を、汚いや嫌いではなく、臭い物が目の前に置いているような表情に変わった。気付いてか、自然にかは知らないが少年と目が合うと慌てて逸らす。よほどこの少年が怖いようだ。

 やり取りには気づいていただろうが、警察官は特に口を挟まず伝票を手に取った。払う気満々で歩き出した。懐にある薄い、恐らく太ってはいない財布を抜き出そうとしていたが、女性が急いで前に立って伝票を掴んだ。

「ここは私が払いますから」

 このセリフを屈辱的だと思わない男も増えたには増えたが、やはり男というのは見栄っ張りな生き物。女性に代金を丸々持たれるのを嫌う。警察官も、月に使える金の限度額の桁が違う女性相手でも簡単には引き下がれない。

「そうはいきません。食事をしたのはこっちの関係者ですから」

「いいえ、私の願いを聞いてもらうんです。ここの代金くらい、私が払います」

 一番遠いから良い物を、このセリフをガテン系の三人は聞き流せなかったろう。嫌味をまるっきり含めていない、本音で見下していると透けている女性は引き下がらない。

 譲り合い精神は、この場合奢らせる精神になる大人二人の横を、別々の客のように無視して少年は先に店を出た。これを黙って見過ごせないのは警察官だ。背中を目で追ってしまった。その隙に女性が伝票を奪ってレジに向かった。

 大きく息を吐き、しまったなと首を振って払い終えた女性に頭を下げ、さらに低く女性が頭を下げて二人は背中を向けて歩き出した。


「で、なんで俺が子守りをしないといけない」

 距離を置いて歩く二人。斜めに一メートルぐらい離れている。反対側の歩道を歩いている人は、まさか会話をしているなんてと驚くくらい、二人は他人のように振る舞う。

「篠田警視はこんなくだらない事に動いてる暇はない。お前は暇だろ」

 本音がすぐに出た。先程までの親身な態度はやはり演技だったのか。昔とは違うと言っても上司などに盾突いて得をする事はなく、篠田という警視も公務員でいる限りその定めは同じ。

 決して近づかず離れず、一定の距離を保つ。すれ違う人がいると、その人が遠くなるまで会話を止めて、誰もいない時にだけ口を開いた。

「は、確かに暇だな。だが、俺はあんた達と違って上の人間に尻尾を振るつもりはない」

「気を使わない、か」

「口にしなくても分かるだろ、あんたなら」

 二人の間を靴音が三人と一人の人間が歩いて、会話を止めた。強制的に入ってきた人間以外の足音は、警察官が少年を説得する言葉を探して回る。

 前へ前へと進んで見つけた手綱の引き方で、グッと身を近づけた。半分、五十センチくらいの、少し早く歩けば足のぶつかりそうな間隔にした。

「お前なら知ってるだろ」

 同じ年代とは全く異なる世界に生きてきた少年だからわかる事。

「金の成る木は一本では生えない」

 薄らと、道行く人に気持ち悪いと呟かれない程度の変化だったが、はっきりと笑った。

「どれだけ広大な砂漠でも、群れて森を作る」

「そう、隣にも必ず金の成る木がある」

 大通りから少し入っているからか、車の通りは殆どない。人通りも少ないからこそ、離れていて、しかも小声でも会話が成り立つ。

 また警察官が距離を取った。これ以上は近づかない。二人の、少年と警察官の所属する課との比喩になっているのかもしれない。

「だからこそ、お前にも損はない仕事だぞ」

「どこがだ。警察の偉いさんの娘に媚を売っても、金にはならないだろ」

「お前の目にはそう見えたのか」

 気になる言い方。眉毛が反応した。ピクリと、瞳と連動して振り返りそうになる自分を止める。

「どういう意味だ」

 上手く釣り上げるなと感心してしまう。事の運び方、相手の出方を読んで話を作っている。これが自然相手、魚釣りにも応用出来たらいいが、そう簡単にいかないから漁師よりも警察官が天職だと本人も自覚しているはず。

 続いて出てきたのは、横文字の企業名。漢字ではなくカタカナ、英語で名刺に書いてるかもしれない会社の名前だった。

 話の流れからして、全く関係ない会社の名前を出すはずがない。答えは一つ、正解率は八十%は軽く超える。

「社長の奥さんだ」

 名前までは書いてないので、普通の丸だろうが正解だ。格好も、相当金持ちだと感じていたが警察官の娘ではあそこまでは無理。上品に育て、いい所の男性と結婚させたかった父親にしてみれば、あまり納得できる相手ではないかもしれないが、資産は申し分ないはずだ。

 納得して、気にしていた眉と瞳は何事もなかったように元に戻る。

「報酬が弾むわけじゃないが、先を見ろ、か」

「そう、仕事の成功報酬はうちが出す限り変わりないが、次は直接指名があるかもしれないぞ」

「その時には、ちゃんとおめかしして行くかな」

 ただと、警察官が付け加える。「さっきの態度ではないだろうがな」

 確かに、先程の少年の態度では無理だ。目を瞑れない無礼の数々。口に出して挨拶は、結局最後の最後までしなかった。無視もしていたし、礼もなかった。挙句に別れの挨拶もしないという、初めから最後まで一貫した無礼さ。

 逆に清々しくもあるが、あれでは高い位置から見下ろすのが好きな人間から仕事はもらえない。彼らは見上げる顔が好きなのだ。女性の跪く姿も、男性の靴を舐める位置の顔も同等に。

 微妙な距離感の会話を聞く限り、少年はそういう事には詳しいはずだが、余裕があった。かなり明確な自信を持っているらしい。焦った顔も、惜しむ顔もしていない。淡々としている。

「今回の事をちゃんと片付けたら、さっきの態度なんて消える」

「関係はないだろ」

「あんたの目には見えないか?」

 言葉の裏返し。馬鹿にして熱くさせたい時に使いたいが、この警察官には有効な手ではない。効果は全くなく、平常心は崩せない。

 早歩きな足音が先を行き、それを追い越したのは四歩。二人の距離は変わっていない、時間的にはそれで十分だった。少年の差す言葉の意味に、警察官も気付いて先程とは逆に言葉を使い返した。

「先を見ている、か」

 嫌味がない分、すんなりと受け取った。

「そう、一代で成り上がった人間は、お嬢様の扱いは上手い。多少の嫌な事でも大げさに作り替える話を、真剣に受け止めていたらとっくに会社なんて潰れてる」

「普段は違うかもしれないぞ」

「本当にそう思うか?」

 振り返らない少年に首を振った。音も気配もさせない、軽い首振りも見ずとも読み取り、納得する。

 納得はしたが、一つ息を吸い込んでさてと間を切った。

「もし本当に、子守りだけなら俺にはやらさないだろ」

 区切った少年に対して、先程の話を続けるように変化なく話し出す。

「さっき言っていた五人が通っている高校にちょっかいを掛けている会社がある」

 一番の納得を見せた。

「俺が動いた方がいい相手、か」

「いや違う」

 的外れ。警察官がちょっとだけ勝ち誇ったような表情になった。

「暇がないからお前にやらすだけだ」

 自信から出来た読みの浅さに足を掬われて怒ったのか足を止めた。交差点、直進は青だ。数人だけの為に点灯している信号機は点滅もしていない。

 止まった少年とは違い、警察官は進む。あっさりと追いつき、追い越すその時に、一枚の紙を手渡した。ティッシュ配りのアルバイトではなく、スリが財布を抜くように滑らかで引っ掛かりのない手の動きは、次の一歩を踏み出す時には何気なく下ろされていた。

 誰も気にせず、誰の気にも止まらず二人は別れた。今日二人が会っていたと証言するのは、先程の女性と防犯カメラしかなかった。


     3


 暗くなり始めた部屋。温度の変化は随分と遅れるようになったが、季節の移り変わりと共に太陽が空にいる時間は昔と変わらず、十一月も間近になると足早に地平線の布団に潜り込もうとする。勉強しかやることのない部屋にいたあの五人は、明かりも点けずに何やらゴソゴソ部屋の中で動いていた。

 カーテンはしているが、赤と黒に染まる光が差し込み、何をしているのか知ることはできる。五人は背中を向け合って上着を、ズボンを脱いで着替えていた。皆着替えを終えると向き合った。

 黒いジャージ姿の五人。全てお揃いだ。準備が終わったのか声は出さずに頷き、手に持っていた何かを頭に持っていく。もう一度頷くと、両手で頭に置いていた物を掴んで一気に引き下げた。

 ジャージとお揃いの、目と鼻だけが出ている黒い覆面を被った。

 闇に紛れるには黒い恰好をするのが一番いいが、夜になっても明るいのが日本の都市の宿命。日本という国に過信している盲目な年寄りに媚びる政治家は、夜でも安全だとして明かりを消せと言っているが、そんなおとぎ話のような国はどこにもない。

 五人揃って強盗スタイルになって、家で寛ぐなんてことは考え辛い。着替えてどこに行くのだろう。本当だったら車の中で変装するのが一番いいが、まだ持っていないはず。十八歳になっているかもしれないが、進学校に通いながら免許はそうそう取れない。つまりはこの格好で外を出歩き、どこかに行くのだ。豪邸ばかりのご近所に見つからなければいいが。

 外に明るさが残っているので、すぐには行かないようだ。また五人揃って座り直した。

 話し出そうと顔を向け合ったその時、玄関の鍵が開く音がした。

 母親が、もしかすれば父親が主婦や主夫ならこの時間に帰ってくるのは普通。驚くようなことじゃないが、五人は鍵が開く音が聞こえると、肩を跳ね上げて驚いた。

「おい、今日両親帰ってこないんだろ」

 親が帰ってこないからこんな格好をしたのか。

「あぁ、両親揃ってブランドの限定公開日に招待されたらしくて、帰ってこないはずだ」

「でも、明らかに鍵開いたぞ」

 沈黙する五人。嫌な、脳の中で鳴る警鐘。家の人間でない何者かが侵入してきたという現状。

 マスクに開いている穴を、黒い瞳が泳いで誰かに答えを求める。全員理解はしている。自分たちは今、危ない状態にあると。素早く、昔はなかった外と繋がる手段。携帯電話で警察に電話すればいいが、こういう場合、的確な判断はなかなか難しい。誰もが違うと思いたいからこそ、行動できない。

 五人の脳は命令を出しているが中々体が聞きつけない。命令をどこかでシャットアウトしている。五人が五人ともそうなっているからこそ、打開するのはこの五人しかできない。行動に出せない時には、今何が起こっているが口に出して話すのがいい。それを一人が実行した。

「なぁ」

「なんだよ」

「もしかしたらさ、泥棒なんじゃない」

 間違いない。正解なのに受け入れがたく、信じたくないのはこの家が豪邸だから。ちゃんとした最新の防犯システムで守られている家の中に、玄関から堂々と泥棒が入ってくるなんて思いたくない。

 互いの顔を見合う。声を出さずに、マスクの口の部分が動いている。信じられずに、笑っているようだ。

 犯罪に巻き込まれた時の一番多い心理状態。まさか自分が、に陥っている。これを抜け出すのは相当困難で、苦労を要する。冷静でいて客観的に、現状の把握をしなければいけないのだから。この五人に至っては言葉に出しても信じられていないのだから、さらに厄介だ。

 ギシッと階段が音を立てる。はっきりしたのは、侵入者には足がある。霊ではないという事だ。まぁ、最近の幽霊は足があったりするが、昔ながらの霊ではない。

 普段は物音に関心何て示さないのに、こういう時に限って過敏になる。一歩一歩、上がってくるのが分かり、心臓は駆け足になる。

 どうする、どうしよう。皆が皆、見合うだけで行動が出来ない。テレビでこういう場合を見ていると、ワザとらしいと笑っているのに、いざ自分が同じような立場になるとコロッと変わってしまうのは致し方ない。

 キングと呼ばれていた青年が、両手を出して小声で大丈夫とつぶやき、取り敢えず扉から遠い壁に行こうと提案した。なるべく侵入者に悟られないようにする為に。

 誰もできなかった行動指示に、拒否する者はなくゆっくりと足を立てずに五人が移動した。大丈夫、階段を上がった直ぐそこの部屋が母親の部屋で、宝石類を探るはずだ。壁にくっついてキングはそう考えた。

 扉の開く音、五人が息を飲んで待つ。さあ、中を探せ。扉の閉まる音がした。中に入ったな、五人が声を立てずに笑いながら互いを見た。そうだと一人が携帯電話の存在を思い出して手に取った。ボタンを押そうとした時、扉が開く音がした。それは明らかに先程よりも近づいていた。そう、隣の部屋。父親の書斎兼仕事部屋の扉が開く音。

 まさか入っていない。普通の侵入者なら、まあ泥棒に普通があるのか知らないが、部屋を物色するはずだ。何もせず、それどころか部屋の中に入りすらせずに次の部屋に行くだろうか。行くはずがない、普通の、物取りの侵入者なら。

 ボタンを押そうとするのに、有り得ない行動をする侵入者に動揺して「1」のボタンからズレて「4」と「5」を同時に押してしまった。扉がまた閉まった。

 他の四人が自分の携帯で警察に電話をすればいいのに、早くしろと携帯の彼を急かすものだから余計に押せなくなっていた。

 その時、扉が開いた。

 黒い影。思ったよりも随分小さい。想像していた侵入者と違い、小柄なので落ち着くかと思ったが、逆に怖さが増した。そう、こんな豪邸に子供が、しかもまるで何かを探すように部屋を開けては閉め、開けては閉めて今目の前に立っているのだ。これらを総合すると、五人はある一つの結論にたどり着いていた。この侵入者は、何かを求めて彷徨い歩く幽霊という幼稚な結論に。

 怯えきって五人がより中心に入ろうとしている。怖ければ逃げだせばいいの。軽く首を振り、小さな影は壁を触り始めた。観察しなくても、暗い部屋で壁を触る理由は一つしかない。

 パチンと音を立てて、部屋に明かりが点いた。

 明るくなり、ちゃんと見えるようになった五人は一斉に動きを止めた。そこにいるのが、恐ろしい顔だったり、白い服の幽霊ではなく一人の少年だったから。

「な、何者だ」

 キングと呼ばれていた一人が声を上げた。残っていた怯えで少し声が波打っていたが。

「こっちのセリフなんだが」

 一方少年は低めの、ハスキーやいい声とまでは行かない冷静な声でそう返した。

 この場面だけを見た場合、キングと呼ばれた青年が言った言葉よりも、侵入してきた少年の方がどう考えても正論を言っていると誰もが思う。青年五人は、まさに泥棒ですよと言った格好をしている。

 何を言ってるんだとキングと呼ばれた青年が横を向いて、このことに気づいた。

「こ、これは、その――」

「泥棒か?」

 違うと反論したいところだが、説得力は皆無に等しい。よくよく考えれば、警察や警備会社を呼んだとしても、この位置関係からして捕まるのは自分たちだったのではないか。

 全員が気付いて、どうしようかと考えを視線で飛ばす。被っているマスクを取るべきか。でも、どう考えてもこの少年の方がこの家に勝手に入ってきた侵入者だ。足音からして探し物はしていたが、金目の物ではなかった。探し方からして、大きなもの、たとえば人を探しているような感じだった。高校生にもなって家の中でかくれんぼなんてしていない。ぱっと見ただけで分かる場所にいる。会社に資料や、金目の物ならもっと丁寧に、一部屋一部屋時間をかけて探す。目的があって探していた。それが人だった場合、行きつくのは誘拐。マスクを取れば、そのまま連れ攫われるかもしれない。

 この場面で取るのは得策ではない。被ったまま、誰が誰だかわからない方がいい。キングと呼ばれた青年が立ち上がり、四人も続いた。

 作戦なんかなかったが、人数的優位はこちらにある。相手はたった一人なのだ。しかも、立ってみると尚更少年が小柄だと認識できて怯えは消えていった。

「俺が、この家の人間だ」

 リーダーなのは間違いなかったが、キングと呼ばれていた青年が前に出た。

 泥棒でも誘拐犯でも、顔をばれないようにするべきなのに少年は素顔だった。確かに、背格好や歳からして随分と、カッコいいではなくきりっとした男前だがおかしい。

 堂々としている。キングと呼ばれた青年の言葉に、不思議そうに眉を寄せたぐらいで動き出す様子がない。

「その格好で信じろと?」

 的確な指摘だ。頭の良さを発揮するならここだが、出方や目的が分からない以上、あまりこちらの情報も出すべきではない。

「あぁ、そうだ。そっちこそ何者なんだ」

 落ち着き方、態度や仕草が、これまた住人と侵入者が逆ではないかと錯覚させる。

 立場や、相手の見た目で自分たちの方が有利でも、優位でもあるのに、落ち着き払う少年になぜか気おされている。五人対一人でもこれだけ差があるのは、慣れているかどうかの違いしかない。

 初めての経験、そうそうできない不法侵入者との会話。普通の生活を送ってきた、一般人より裕福ではあろうがこんな経験はしたことがない。初体験にしては落ち着いているが、少年の落ちつきっぷりは、侵入先で住人に何度も出くわした事があると言っている。

「相手に尋ねるなら、まずは自分から名乗るべきだろ」

 手を軽く広げ、どうぞと促す。

 断るべきだ。断るべきだが、ペースを握られては乗るしかない。一旦、今だけ話に乗るんだと言い聞かせて名前を言った。

「あんたがここの家の子供か。信じろっていうのは――」上から下、左右五人を眺める。「かなり無理のある格好だが、まあ信じよう」

 強く出られない。本当の事を話しても信じてもらえないのが、こんなにも屈辱的だとは知らなかった。

 目的がまだはっきりとしていないのに、自分の正体をあっさりと明かしてしまった。完全に相手のペースだが満足したらしい。次はそっちの番だと同じ質問をした。

「それで、君は何者なんだ」

 俺かと指を差す。全員が頷き、答えるのを待つ。

 勿体ぶるようにポニーテールを揺らして首を左右に伸ばし、肩を持ち上げ、力を抜いて落としてから口を開いた。

「豪邸の坊ちゃんを誘拐しに来た」

 小学生や女の子を無理矢理攫う場合なら、口を押えて車に連れ込むのが一番簡単な方法だ。力も大の男なら圧倒的に強いのだから。身代金でも私怨でも狙うのは弱い方がいいに決まっているが、この少年が誘拐しに来たと言っているのは高校生の青年だ。

 少々ひ弱でも、誘拐するには骨が折れる。力だってそれなりにある。やるとしたら不意を突くのが利口だし、何より誘拐しに来たと言っているのが五人よりも幼い小学生、もし幼く見えるのだとしても中学生の一人の少年だ。

 冷静に考えなくても実行は無理。言葉を聞いて、少年の口から誘拐と聞いて異様に、個々に差はあるが落ち着いてきた。手錠を掛けられ目の前に爆弾を置かれたが、鍵も一緒に置いて行ってくれたみたいだ。まぁそのカギが手錠とは別の鍵という可能性もあるが。

「一人で、君が」

「あぁ、そうだ」

 笑顔でうなずく。男前の笑顔につられるように、五人も笑顔になっていった。

「こっちは五人だよ」

「見ればわかる。それとも幽霊の友達でもいるのか」

「いや、五人だけだ」

 いける。これなら十分いける。今夜決行する作戦は、もっと危ない事のはずだ。一人の少年に負けていては話にならない。

「悪いけど、俺、格闘技やってたんだ」

「ほぉ、それはすごい」

「祖父が警察官で、やっていた方がいいと進められて幼い頃から」

「警察官っていうのは知ってる」

 そこまで調べていて、一人でか。随分自身があるんだな。キング青年が軽くステップを踏み始めた。

「怪我するかもしれないぞ」

「心配ない」

「それに、俺たちはこれから出かけなくちゃいけないから、救急車も呼べない」

「痛かったら唾でもつけとく」

 あくまで余裕だ。こっちの心配なんて気にも留めない。だったら手を抜く必要もないな。

 ステップを止めて、足の裏をフローリングにべったりと付ける。一歩、すり足で近づき、二歩、しっかりと距離を詰める。

 構えも何も取らず、普通に、両手を太ももの横にたれさせた状態で待っている。あまりにも無防備で、本当に攻撃していいのか迷いが出てしまう。

「心配しなくても大丈夫。慣れてる」

 顔にまで出ていたのか、少年がさあどうぞと促してきた。そのあまりの余裕っぷりと、小馬鹿にした態度にキング青年は一気に間合いを詰める。

 すり足だったが意外と速く、蹴りが届く間合いにまで踏み込んだ。相手の足はどう考えても届かない。一撃で決めたい思いが頭を過り、強さ、反応の速さを確かめる為の前蹴りではなく頭に向かって蹴りを繰り出していた。

 ぶれずに、しっかりと相手の動きを捕まえていたその視界の中から、少年が消えた。よく消えたと表現される、動きの速さに黒目が付いていけないなんて物ではなく、キング青年の目の前ではっきりと少年が消えた。

 途中で止められない蹴りを何とか、相手を探すために軌道を強制的に変えて床に下ろそうとした。思い切り蹴ることになっても仕方ないと心に決めていた青年の踵に、床の感触がなかった。

 それよりも、この体の感覚はなんだろうか。ふわりと、遊園地で乗る絶叫マシンの落下のような、落ちるような感覚。それに加えて、視界が急に上を向く。向こうとしたわけでもないのに、強制的に部屋の中が回転していくように動いていく。

 突然訪れた変化に、恐れる前に視界が天井の電気を見たと同時に、黒い影に首を攫まれ動きも、遊園地の絶叫マシーンもぴたりと止まった。

「どっちも怪我しなかったろ」

 黒い影が少年の姿に変わると、ジャージの首元から手を離して床に落とした。

 あまりの出来事、不意打ちを突かれて驚く暇もなく、一体何が起こったのか分かっていないキング青年の横で両手を広げて残り四人に微笑んだ。

「あんた達が何かしようとしてる。心配する声があったんで調べに来たんだが、今日決行するつもりらしいな」

 この服装を見て、これからコンビニに行くだなんて言葉を信じる馬鹿はいない。

「話してもらおうか、何をするのか」

 手のひらを揉むように親指を押し込む。

「もし嫌だというなら、次は足払いでは済まさないぞ」

 四人に断る勇気はなかった。


 美男美女、これから事務所に押される若手俳優と女優のような二人が並んで歩く。

「あ、あの、本当に私なんかが、その――」

「カナと違って君は原石みたいなものだから、自分に自信がないんだよ。ここの事務所の社長は、そういう原石の子を見つけるのが得意なんだ。だから自分に自信持って、絶対に綺麗になるから」

 二人の後ろについて歩く女の子は、いかにも勉強一筋といった風貌だ。真っ黒な髪。これは別に悪くないが、手入れも何もした形跡がない肩に掛かるくらいの髪型に、鼻周りにはソバカス。化粧の「け」の字もなく丸っきりのスッピン。今時、中学生でもしていない子を見かける方が珍しいのに、純朴と言っていいのか、疎いっていいのか、はたまた騙されやすいというだけか。

「そうそう、可愛いよ。化粧とかちょっと手を加えれば、男なんてすぐ飛びついてくるのに、勿体ないよ」

 女性が口にする同性への褒め言葉ほどあてにならない物はない。まだ難しい時期の天気予報の方が頼りにしていいくらいだ。

 後ろについて歩く女の子に気さくに、笑顔で話しかける女の子との見た目の差を比べれば一目瞭然だ。そう、先程の言葉には少し足りない部分がある。自分よりも容姿が劣る相手に対する評価、だった。まさにこの二人のような関係だ。

 褒め言葉を交えつつ持ち上げる。その心の余裕は、圧倒的に自分よりも下の人間だからだ。これが同じくらいになれば、またややこしくなる。今回は無縁だが、どちらにしろ女性というのは面倒臭い生き物だ。

 一方、男がそこまで綺麗ではない女性を褒める場合は、その人のタイプなだけかそれとも、ただ一夜を共に過ごしたいだけしかない。

 二人の放つ空気からして、後ろを歩く女の子に対する態度は、ちょっと世間を知っていれば見抜ける。確実に下に見ているが、大して世間を知らせない教育はこういう場合裏目に出る。

 廊下は段ボールやポスターもなく、綺麗で汚れ一つない。別に暗いわけでもなく、一見普通の会社のようだ。従業員も、受付に二人の女性。当たり前だが容姿一番で採用されている。それ以外にも廊下で二人、スーツ姿に黒髪、ちゃんとした社会人風の男性とすれ違った。

 知り合いとはいえ、怪しんではいたようだ。話の内容から、ここは何かの事務所だ。看板も、社名も掲げていなかった。ビル自体は新し目で、フロア一つを所有か、借りているらしい。本当に事務所、タレントかアイドルか、歌手かモデルかしらないが、ちゃんとした会社なら堂々と名前を前面に押し出しているはず。浮き沈みの激しいそういう関係の事務所は、名前を売って初めてスタートラインに立てるのだから。

 この、綺麗でも汚くもなく、本当に素朴に感じる女の子を、スカウトなどするだろうか。彼女自身も疑っていた節があるが、二人に盛り上げられているうちにすっかりその気になってしまったらしい。照れた様子で少し俯き、「そうかなぁ」とモジモジしていた。

 女の子が下を向いた隙に、二人が目線を合わせる。軽く微笑み、女の子は変な顔をしながら舌さえ出していた。小馬鹿にした態度が、本当の姿とは知らずに声を掛けられ顔を上げた。

「ここが社長の部屋だよ」

 社長室とも書いていない、普通の扉を男の子が開いて中に入った。

「何の用だ」

 広い部屋だった。無駄に広い。普通の会社なら机を付け合い、六個纏めて並べた座席を四つ作っても余りある広さの部屋だった。

 物もほとんどなく、真ん中にぽつんとソファーが向かい合い、間に机がある以外は、男が一人、椅子に座って書類を整理している机と、入り口がもう一つに、ベッドがあった。

「社長、連れてきましたよ。さぁ、入って」

 綺麗な女の子に肩を持たれて、背中を押されるように部屋の中に入った。社長と呼ばれた男は、書類をまとめながら顔を上げ、あぁと声を出した。

「お前たち二人か。で、君がここに入るっていう、えっと、何さん、だっけ」

 自己紹介を促されているが、なぜベッドがあるのか気になっていた女の子は慌てて顔を戻して、逆に聞き直してしまった。

「は、はい、何ですか?」

 季節はもう流石に秋が来ていた。暑がりな人は違うかもしれないが、掛け布団はそろそろ必要だ。ベッドの大きさもキングサイズはあるのに、掛け布団が見当たらない。なにより、仮眠をとる用だとしても枕がない。ただ、ベッドが、木の枠とマットレスがあるだけ。

「面白い子だ。君の名前だよ」

 抜けた反応にも、社長と呼ばれた男はほほ笑んだ。遠くでわからないのか、それともあまり人付き合いがないのか、見抜けなかったようだ。この男のなめまわすような視線に。

「あ、芥田空です」

「かわいい名前だ。君に似合っている」

 二人が慣れた足取りで部屋の真ん中にあるソファーに向かう。一人置き去りにされて、どうしようと左右を見た女の子に、男が君もどうぞと手を翳す。

 拒否も出来ずに、二人の後を追うように少し小走りで並んで座った二人と向かい合う形で座った。

「あ、あの、ここは、何て言う名前の事務所なんですか」

 部屋の中にも廊下、受付にすらなかった事務所の名前。勇気を振り絞った質問に、前の二人は笑った。何がおかしいのか分からずに、きょとんとしている彼女に対して、社長はあっさりと答える。

「そんなものはないよ」

「え……。え、でもそれじゃあ、どうするんですか?」

「ここに女の子を頼む相手は、直接ここに来る。だから名前なんて必要ない。それに、オークションに参加できるのは常連になった客だけで、私から連絡する」

 追いつかない情報処理。もう一度過るのは先程のベッド。そして、頭に残ったのはこの言葉。

「オークション……」

「あぁ、君みたいな女の子を売るんだよ」

 驚きと困惑、そして何よりも恐怖が顔を顰めさせる。女の子の人生の中で、こんな恐ろしいセリフを聞いたのは初めてだ。

 なんてことを言うんだと男の方を向いた顔が、乗り出してきた影に反応して正面を向く。男の子が机に片手を付いて、もう片腕を伸ばして女の子の手を掴んだ。

「でさ、お前って処女だよな」

 態度は変わっていた。先程までが演技だっただけだ。これが本性。優しく見せる演技は誰でもするが、下種な人間のフリをして徳になる場合は特殊な事情がない限りはない。

 答えられるはずがない。状況も状況で混乱もしているが、もし普通の時に同じ質問をされても相手を軽蔑するだけ。自分の口では絶対に答えられないのを知っていて、代わりに答えてあげようと動く口。ここに連れて来た女の子が茶化すように高い声、パチパチと何度も瞬きをして両手を合わせて顔を傾けながら頬に付けた。

「私、お嬢様なんで男とヤッたことなんてありません」

 思ってもみなかった。進学校の生徒会長と副会長の口からこんな言葉が出てくるなんて。もうどうなっているのか、一体なんなのか、分からなくなって首を振る。現実から逃げるように首を振るが、二人と違って聞きなれない男の声が現実に連れ戻す。

「おいおい、こういう子がそんな下品な言葉使いはしない。確かに、初めてなのにAVみたいなセリフが好きなのはいるが、処女を買う人間はあくまで初めてを買いたがるんだ。変な言葉使いは教えるな」

 強烈な勢いで押し寄せる受け入れたくない現実。今自分がどこにいるのか、どういう状況に置かれているのか、分かり始めたからこそ混乱が増す。

 逃げ出す気配もないのに、強く掴んで離さない男の子の頭を超えて音がした。扉が開く音。

 四人の男が、ゆっくりと入ってきた。見た目、空気、危ない人。初めて体が反応した。逃げ出そうとしたが、テーブルに置いていた手で自由だった腕をつかんだ。

「おいどこ行くんだよ。これからお前は商品として作り替えられるのに」

 別に好きだったわけではない。軽く憧れはあったかもしれないが、副会長と同じように自分とは違う人種だからこその憧れしかなかった。

 怯えた表情、強張る腕を無理矢理押さえつけられていた。振り払おうとしてもできないが、行動させるだけの意思がなかった。

 涙が流れ、力が抜けていく。崩れ、壊れていくこの姿に、男の子は楽しそうに笑った。

「手を離せ」

 愛は欠片もない見つめ合いをしていた二人の傍に男が立った。男の子に対してはイメージとの違いに行動が停止していたが、見知らぬ男に腕を攫まれると先程までの負の感情が溢れ出して一気に暴れ始めた。

 片手を残していた男の子の腕を振り払い、立ち上がって駈け出そうとしたが男の腕にすぐに引き倒されてしまう。防衛本能が突如目覚めて、どうするべきかを闇の中でも見つけ出す。

 この腕をどうにかしないといけないが力では絶対に勝てない。振りほどくためには痛みを与えればいい。ソファーに倒されて顔を上げた次には、男の手に噛みついていた。

 突然の痛みに腕を離してしまった。チャンスと女の子は立ち上がろうとしたが、男は腕を離しただけ。すぐさま後ろを向こうとしていた女の子の肩を掴み、ソファーに引き倒した。軽い悲鳴、倒された痛みに瞑った目を開けると黒い何かが飛んできていた。

 防御の姿勢も、避ける格好もないまま男の強烈なビンタを食らい、女の子は声も上げられないままソファーの背凭れの方を向いた。

「おい、何してる」

 低い声に、殴った男は固まった。声は椅子に座ったまま冷静ではいるが、目が、目だけが鋭く振り向かない男の背中に視線が突き刺す。

「お前今、顔を殴ったな」

 返事が出来ない。思わず、反射的に殴ってしまった。

「誰が顔を殴っていいと言った。顔だぞ? 商品として、最初に見られる顔を、わざわざ傷物にするつもりか? お前の顔から鼻が、唇が、目玉が無くなろうがどうでもいいがな、それだけいい商品の価値を下げてどうする。もし次、顔じゃなくても手を出してみろ。そのなにも詰まってない頭をぶち抜くからな」

 言われた当の本人は頷くだけで、すぐには動けなかった。残り三人が、女の子の横に立ち、肩と手を掴んで無理やり立ち上がらせた。

 頬が赤くなり、鼻血が流れていた。それ以上に、涙も鼻水も流れていたが、声は出ていなかった。

 叩かれたことはあったろうが、ここまで、大人の男の全力のビンタを受けたのは初めて。あまりの痛みに、顔も心も縮み上がっていた。この赤くはれ上がった頬を見て、殴った本人も縮み上がっていたが。

 かなり感情を抑えながら、椅子に座ったまま首で合図を送る。男三人が女の子を運んだ。行き先は一つ、部屋の中で明らかにおかしかったベッド。

 女の子を座らせる。そこで手を離すと、先程のように駆け出す気配はなかった。お尻と手でズリズリと下がって壁に付いた。

「心配しなくていい。もう乱暴はしない。ただ、君の裸を写真とビデオに収めるだけだ」

 一人がベッドから離れ、胸から小型のビデオを取り出した。一人から三脚を受け取り、ベッドと同じ高さにセットする。

 逃げたい、逃げなきゃ。頭は分かってるのに、先程の一撃が頭から抜けずに体はいうことを聞かない。そんな間にもセットが終わり、二人の男がベッドに乗り、女の子の腕をつかんだ。

 上げる悲鳴。上半身を揺らすが、両腕を抑えられて動けない。ゆっくりと壁から離され、ベッドの端、壁から一番遠くカメラに近い側に体を引きずられた。

 カメラのレンズは、ただじっとその姿を捉えている。何とか冷たく光るレンズから逃げ出そうとするが、抵抗すらできていない。もし離されたとしても走り出せるかと言われれば無理かもしれないが、必死で抵抗はしていた。

 そんな女の子の願い空しく、一人がベッドに乗って回り込み、女の子の後ろに張り付いた。あと一人、殴った男はビデオの後ろでカメラを微調整する。

 その姿に、抵抗が緩んだ。完全に殴られた男に怯えている。この変化を見逃さず、張り付いていた男はセーラー服の首元を掴んで力任せに左右に広げる。

 普通に来ているだけなら問題ないが、男の力にはあっさりと屈してボタンが三つ飛んでブラジャーが見えた。全部は見えていないが、カップ部分が半分以上露わになった。

 男の姿に気を取られていたが、ボタンのとび散る音に我に返って嫌だと悲鳴を上げる。そんな事関係ないと、男がさらにボタンを飛ばそうとした時、邪魔が入った。

「社長!」

 廊下に続く扉が開くと同時に男がそう叫んだ、

「なんだ、今撮影――」

「何だか変な奴らぐぁ」

 喋っていた男に大きな何かがぶつかって開いていた扉の空間から姿が消えた。

 何が起こったのか、部屋の中の誰もが分かっていない中、廊下にかすかな声が聞こえた。

「で、登場は、どうやってする」

「やっぱ、あれじゃないのか、名乗った方がいいんじゃないか」

「名乗るって、名前?」

「呼び名決めたろ、それだよ」

「でもその後は?」

「そ、それは、流れだよ、流れ。自然とできるって」

「そうは思わないけどな。だって誰もこんなの見たことないだろ」

 声が止まった。社長がカメラで撮っていた男に見に行けと首で合図を送る。

 断れるわけがなく歩き出す。得体は知れないが。子供のような声だ。そこまで心配することもないだろう。真ん中のテーブルと廊下の間くらいに来たところで、行くぞと廊下から聞こえた。

 続くのは、影と「え、どうすんだよ」という声。

「お、俺はキング」

 決めポーズもないのか、そう言い終わった後、どうしようかと悩んで、頭を掻く。普通なら何かしら決めポーズをして、次に誰か続くが、この段階で二人目が飛び込んできた。

「え、っと、俺は、あれだ、ジャック」

 そこからはもう普通に三人入ってきた。エースと分からなかった二人はジョーカーとテンだった。まさか数字だったとは。

 テレビの特撮でもないのでここで爆発が起こったり、キラキラ光ったりの演出はない。誰も決めポーズをしていないので、そんな派手な演出をされても困るが、五人は思い思いの場所を取る。

 キングは正面で、なぜか隠れるように一人、もう一人は決めポーズ、手を突出し叫ぶ。「五人揃って……何?」

 まぁ、グループ名などを決めている感じはなかったし妥当だ。残り二人はこうした方がよかったやああした方がよかったと言い合っている。

「確かに、変な奴らだな」

 途中で足を止めていた男が、対処の仕方が分からないまま、一応近寄っていく。その気配に、キング青年が身構える。

「なぁ、おお、違うキング、あれって」

 隠れるようにしてた一人が、戦闘するかもしれない緊張感の中で声を掛けられたキング青年は少し怒りながら首を向ける。

「なんだよ」

「あそこ、芥田じゃないか」

「あ、空……」

 ベッドの上で男三人に捕まっている女の子にここでようやく五人全員が気付いた。

 男に押さえつけられながらカメラを向けられ、頬を真っ赤に腫らして涙が流れた跡がある女の子。どんな辛い事をされていたのか、一発でわかるシチュエーションだ。

「み、見てないからな、お前の下着なんて」

「そうそう、見てない見てない」

 最初の一人と他三人は頷きながら、女の子のいない方に向か直った。呆然としていた女の子だったが、なぜか知っている人物の顔が浮かんだらしい。その名前を呼んでいた。

「太田、君」

「何で空がここに……」

 慌てて口を塞いだが、少し手遅れだった。その名前、声に聞き覚えがあるのはこの部屋には他にもいた。同じ高校に通ってるなら、知らないはずがないくらい、勉強ができるいつも五人でいるグループを知っている。

「お前、太田晶か」

 登場の勢いで忘れていたが、助けに来たはずの人間の声を聴いて五人が一斉にその方向を向く。

 女の子とは違い、ゆったりと寛いでいる生徒会長と副会長がいた。本来ならいないはずの女の子に驚き、さらに無理やり何かをやらされていると思い込んでいた会長二人はくつろいでいる。四人は混乱せずにはいられなかった。

「これ、どうなってんだよ」

「知るはずないだろ」

「これじゃあどう見たって、あの二人、手伝ってる感じじゃないか」

「それになんで芥田がいるんだよ」

「しかもその、ブラジャーだし」

 四人が振り返ると、話し合いにも、混乱もしていなかったキング青年が腕に力を込めていた。男がすぐそばにまで来ていたから。

「社長、太田はこっちに引き入れた方が良いですよ」

 大物がヒットした事に、笑顔を隠せない生徒会長が続ける。

「あいつの祖父、副総監やってるんですよ」

 とんでもない役職名に、社長も驚き、信じられないと首を傾げる。

「副総監、警視庁のか?」

「他にあるんですか。しかも、もうすぐしたらさらに偉くなるとかなんとか」

 上は片手で数えるほどしかいない。後の話は本当か嘘か真偽は分からないが、少なくとも副総監の孫というのは間違いがない。これは逃すには惜しい魚だ。待てと、近づいていた男を呼びとめた。

「あー、君は本当に副総監の孫、なのかな」

 自分で撒いた、嵌めようとして言ったわけではないだろうが結果そうなってしまった、種だ。自分でどうにかするしかない。

 一応、男は向ってくるのを止めたが、構えを解くほど気を抜ける場面じゃない。しっかりと拳に力を込めて、同じように言葉にも気持ちを込めた。

「答える必要はないだろ」

「確かにそうだな」

 もう無駄だが、あっさりとそうですと答えていい場面でもない。牽制にもならないだろうが、キング青年は自分の名前を言わなかった。

 苛立つ様子も、焦る姿もなく、社長は頷く。一度、二度頷いてから手を叩いた。一度パンと、何か思い出したようにわざとらしく。

「そうだ、君が太田という苗字ならこうしよう。彼女とsexをしてもらおう」

 何を突然いうんだと、五人と女の子が社長を見る。

「少々惜しいが、仕方のない事だ。君は初めてか? 少なくとも彼女は初めてだ」

 ふざけた提案に、怒るなという方が無理だ。大きな声で睨む。

「何でそんな事しないといけない。それに、空の気持ちも――」

「彼女の気持ちは関係ない。もう商品になるからな。ただ、君の名前だけを呼んだ彼女と、下の名前を呼ぶ君ならいいと思ったんだがな」

 目聡くなければ、綱渡りの人生をとっくに踏み外して谷の底にいる。僅かな会話を拾い上げて、そこから生き残る術を見つけていただろう社長に座る男が見逃すはずがなかった。

 ためらい、泳ぐ目。四人はどういう関係かとヒソヒソと会話をはじめ、ソファーで寛ぐ二人はニヤついている。

「どうかな?」

「出来るわけないだろ」

「そうか、では無理やりといこう」

 強制を促してきた。脱力はしていなかったが、不意を突かれて男に思い切り頬を殴られて地面に膝から崩れた。

 上がる悲鳴と、一発で殴り倒されてどうしようと悩む四人。痛そうと笑う二人と、振り向きどうするか尋ねてきた男に頷く社長。本当ならもうここまでだ。五人だけならここまでだったが、声がした。廊下からゆっくりと落ち着いた声が入ってきた。

「おいおい、あまり乱暴はよしてくれよ」

 カサカサと音を立て、揺らすポニーテール。本人も漏らすように、今月二度目の格好だ。

「まさか、こんな格好を二回もするなんて」

 音の正体はもちろん袋。コンビニか何かの、大きめな袋だ。

 予期はしてなかったが、考えればわかる。この五人だけなら、ここまでこれはしなかった。動揺はなく、確かめるように視線を投げる。気付いて横に首を振った。これで高校の関係者の線は消えた。

 背も小さいので、歳も下。合図を送って、床に倒れている青年と同じように伸せばいいが、何か妙な感じを受けてか社長は少し目を細めた。

 正体が見えない。袋で顔を隠しているのは当然だが、年齢を考えて、こんな場所に乗り込んできたのにこの落ち着いた態度はなんだ。

「話し合いに来たんだ、あくまで話し合いにな。だから暴力は止そう。平和主義者なんだ」

 そうは言いながらも、飄々とした態度で殴り倒した男の前にやって来ていた。

 かなり低い位置を見下ろす格好の男に、袋少年は見上げることなく前を向く。命令があればすぐにでも実行できるが、社長がまだ一言も発しない。握りこぶしを作った状態で待機する。

「なぁ、邪魔なんだが、退いてくれないか」

 膝蹴りさえ踏み込まずに顎を狙える近さで少年は見上げる。いい気持ちはしなかったが、しぶしぶ横に一歩動いた。

 案外素直なんだなと、俯き少年が笑う。そして今度は分かり易いように、わざわざ男の前に移動して言った。

「何も考えられない頭ならなんで付いてるんだ。必要ないだろ、どこかに置いてきたらどうだ」

 挑発をした。さっきのでも、ちょっとだけでも言葉を読み取れるなら思わず殴っていただろうが、ここまでしないと駄目なようだ。

 合図も指示も必要なかった。男は先程よりももっと力を込めて素早く拳を振り下ろした。青年五人以外にはそう見えた。だが結果は違った。こうなると知っていた五人は驚かなかったが、他は皆驚いた。

 ドンと重たい音が部屋に響く。少年を殴ったならこういう音はしなかったはずだ。何か重たく詰まった物がかなりの勢いで殴られた、低く重たい衝撃音。どこから聞こえたのかは、一目瞭然。うめき声もなく、ゆっくりと殴った格好のまま男が前のめりに倒れる。

 知り合いが突然倒れそうになるのを受け止めるのは人間として当たり前だが、少年は男を殴り倒した張本人。受け止める気なく、すっと横に避けたので、派手に床に倒れ込んだ。

「だから言っただろ、平和主義者だって。ただ違うのは、日本以外の平和主義者が懐に銃を隠し持っているのと同じように、俺も力を持ってるってことだ」

 自信があったから、こういう態度を取れていた。舐めていい相手ではない。直感がそう語りかける。何か危ない臭いがすると。

 まずはペースを相手からこちらに、せめてどちらに流れてもいい場所にまで引き戻さなければならない。容易い相手ではないだろうが、読み間違えるのは危険だ。

「素晴らしい平和主義者だとは分かった」

 首を軽く下げるようにどうもと返す。

「だが、君の正体がわからない。明らかにそこの五人とは別の人種だ。態度がそう教えてくれる」

「ま、こういう会社を仕切れるなら、駆け引きは出来なくちゃな」

「そういう心算はないんだ。ただ純粋に気になったんだよ。君みたいな少年が、なぜ危ない橋を渡るのか。そこの五人なら分からなくもないが、君はそんなにバカではないはずだ。渡るには危なすぎる橋だろ」

 頷いてはいるが、了承しているのか、そうだそうだと納得しているのか、それとも別の意味を持つのか、簡単には読み取れない。

「確かに、どんな繋がりがあるか分かったもんじゃないよな、こういう会社は」

 納得、か。信じる価値があるかどうか見定める前に、少年の続けた言葉でそんな価値はないと教えてくれた。

「ただまあ、良いカモでもある。こういうところは狙い目だが、調べ上げるには骨が折れる。見合うだけの金が得られればいいが、そうとも限らないからな」

 ここで終わりではない。少年の本音はこれだ。「それにこんな――」ベッドの方を指さす。「下らない商売に興味はないが、警察は違う。見逃さない。そこでだ。五十パーでいい」

 一瞬何の数字か理解できない大きさであり小ささの半分、五十%という数字。

「ここの売り上げの半分を渡すなら、どうぞ続けてもらって構わない。いい条件じゃないか」

 頭がいいと思っていたが、違ったか。

 交渉する場合、どちらかを選択する。あらかじめ低く設定して高く上げる。この方法は、値引き交渉などで使われる。初めは無茶な値引きを要求して、粘って粘って折れたふりして最初から狙っていた値段まで下げさせるやり方だ。もう一つは反対、高く設定してから安く見せる方法。こっちは買う側が仕掛けるのではなく売る側が仕掛ける。『今日はなんと、通常一万円のこの商品を二つセットにして、さらにこの小物までつけて一万円で結構です』 二つ付けれるなら一つは五千円で、小物までつくから本当はもっと安いのに、最初に高く見せられると安く感じてしまう不思議だ。

 交渉上手な人間ならどちらかを取るが、丁度半分を指名してきた。無茶な数字だ。当然売り上げの半分何て渡せるはずがないが、二割でも、一割でも他人に渡すのですら厳しいのは一緒。なら五割を目指すとしても低くいかなければならない。

 慎重になり過ぎていたか。手を突き組んで、口元を隠した。見られても構わないが、一応隠した口元に現れた余裕。

「そんな数字、いけると思ってるのか」

「無理だろうな、当然」

 口元だけに隠したはずの感情が、眉にまで伝わった。余裕の笑みではなく、探り切れない皺が深く入る。

 馬鹿にしているのか、それとも遊んでいるだけか。馬鹿だと思っていた提案を、いとも簡単に駆け引きなくそうだと返事をしてきた。どっちだ。見た目の年齢通りの頭をしているのか、小さな頭の中身はちゃんと制御されているのか。

 嫌な感じは残っているが、話し合いをしても分かりそうにないし、下手に踏み込んでもかわされかねない。女の子を捕まえていた三人に顎で命令をした。向えと。

「あんた達の言ってた生徒会長と副会長は、どうやらあっちの人間だったらしいな」

 キング青年を、ジャックが肩を貸して立ち上がらせた。

「でも、どうしてこんなところに手を貸しているんだ」

「そんなの俺が知るはずないだろ。後で聞くんだな」

 三人がベッドから立ち上がりこちらに歩いてくる。

「そこにいると危ないから、あんた達はあっちの子の所にでも行っててくれ。知り合いなんだろ」

 ベッドの上で破られた個所を抑えている女の子の方を向く。それは必然的に、三人に視線を向けることになる。

 自分たちがどうこう出来る相手ではないと、素直に従う事にした。一度生徒会長たちにキング青年が視線を向けたが、ソファーの二人の視線は少年に向けられていた。一体誰なのかと訝しげに。

 真っ直ぐ行くとぶつかるので、壁に沿ってベッドに進む五人。元々部屋にいた誰もが、いや服を破かれた女の子以外は注目を全くしなかった。させないようにしたと言ってもいい。

「あー、さっきも言ったが、俺は平和主義者なんだよ。だからそう、せめて一人一人にしないか」

「一人一人なら平和主義なのか」

 ごみ袋の隙間を泳ぐ瞳が社長を見つける。

「違うかな?」

 余裕だ。これは完全に余裕だ。馬鹿にしてるのでもなく、ただ緊張感を持つ必要がないほど余裕を持っているというだけだ。

 騒ぐ体の中身の声を聴かずに、三人を止めなかった。勘を頼りに生きて来たし、自分の中にいる自分が危険だと警告する中でも命を賭けてきた。今回も、大丈夫だ。相手はたった一人。いざという時の準備もある。そっと左手で、一段目の引き出しを開けた。

 三人が前までやってきた。囲む様子はない。一人が前に、残り二人が後ろで少年を見えるように、左右に位置を取る。

 妙な感じ、普通の少年が目の前にいるだけなのに、一撃目、どこを狙えば当たるのか想像ができない。

 少年の横では先程、一瞬のうちにやられた仲間が倒れている。拳に力を込めるが、構えはまだ作らない。慎重に、間合いがどこなのか探るようにゆっくりと近づく。

「でかいのは体だけか。随分と小さい肝だな」

 五人がベッドに着き、キング青年だけがベッドに寝かされる。

「あ、大丈夫……」

「おまえこそ、大丈夫だったのか」

 うんと頷く。

「メチャクチャ危ない所にいるのに、随分といい雰囲気で」

「そんなんじゃないだろ。ただ、心配だったから、声、掛けたんだろ」

 へいへいと四人が茶化す。

 挑発だとわかっているからこそ、冷静に距離を詰めようとした。だがピンと張ろうにも、相手が風になびく柳のように捕まえられない。そしていつしか、捕まえられない事に苛立ちを覚えさせられる。このようにして。

「まだこっちのバカの方が根性あったな」

 息はしているが反応がまるでない男の頭を踏みつける。火の点いたタバコを消すように動かしさえする。

 どちらもあった。視線を逸らし、体を横に向けて半身になったことと、あまりの侮辱っぷりに思わず体が反応した両方で、少年の頭に向かって拳が飛ぶ。

 十分届く距離、左右になら避けられるが、どっちに動いたとしても腕を反応させられる。どう動く、それとも受け止めるか。

 男の拳の先、目標にされたごみ袋がこちらを向く。妙にゆっくりと、スローモーションに見えた。走馬灯、死を感じて全てが遅く感じるあの感覚がここでやってきた。

 理由は分かっている。笑ったから、ごみ袋の中で、唇が笑ったのがうっすらと見えたから。次の瞬間、この遅い、全てがスローに動く世界でなければ捉えられていた頭が遠ざかった。一人、本来ある時の流れの中で、軽々と後ろに、体勢からしたら横に避けた。

 伸びきった腕。踏み込みの甘さが躓くように、腕に引っ張られて一歩前に出る。その腕に片手を乗せる。軽々と、自分よりも高い跳び箱を飛ぶ小学生のように少年が浮き上がった。

 勢いもなく、そこまで力を入れた様子もなかったが、男の肩に飛び乗る。片足が付き、もう片足が下りてくる前に肩から滑り降りて男の背中に回る形になった。

 この時誰もが、こう思った。人間のできる動きじゃない。漫画の世界の人間なら、これぐらいの、まるで地球に重力がないような動きは軽くできるが、この世界にはちゃんと重力がある。浮き上がるように飛び上がり、羽があるように舞い降りるなんてできないはずなのに、この少年は軽々とそれをやってのけた。

 止まる。想像もしていなかった動きに、一瞬だが皆の動きが止まった。意識が飛んだわけではなかったが、理解しがたい現実に脳が付いていけてなかっただけ。呼び戻したのは、部屋の中を一時停止した少年の手を叩く大きな音。

 真後ろにいる。咄嗟に後ろ蹴りを繰り出すが、見ていなかったはずの、背中同士を向けていた少年は前に飛び出しかすりもしなかった。

 たった一歩、後ろに構えていた二人の間を抜けて、後ろに回り込んだ。一人は勢い任せに腕を、半回転しながら繰り出す。どこにいるかなんて関係ない。力で、この小さな体なら一撃さえ当てればどうにでもなるという思いのまま打ち出した。

 一連の動きを見ていて、冷静ならこんな無茶な攻撃はしない。考えればわかる。当たるはずがないと。だが、見たから。一人異次元の世界を動き回る少年を目の前で見たから冷静で何ていられなかった。

 回ってくる腕に、体のひねり、肩の動きで見て取れた。もう一人は前に一歩出ながら、離れるようにして振り向く。落ち着いているのか、怯えているのかは振り向けば判断できる。

 空を切る腕。大きく、殴ってくださいと空いた、捻りを加えた横腹。どうぞと差し出されたのだから断るのもなんだ。ご馳走をくれるのだから、遠慮せずに殴るのではなく思い切り蹴り上げた。

 普通の人間が蹴っただけなのに、重く強い衝撃音が響く。はっきりと耳にして振り返った男の目の前には、ここにはいないはずの、今蹴っていたはずの少年がすでに立っていた。ぼーっとではなく、いると知ったその時点で一撃、勢いの乗った正拳が腹を捉えた。

 二つの音、つまりは二人。一瞬にして二人がやられた。思い切り後ろ蹴りをしてしまって、バラスンを崩して膝を点いていた男が立ち上がるよりも先に振り返りながら足を伸ばした。

 倒れている、確かに二人、死んではいないようだが倒れているが、こんな状態にした少年がいない。どこに行ったと探そうとしたが、先に目よりも耳が見つけた。後ろで、背中に音がした。袋が動く、静かな空間では異常に耳障りなパリパリと聞こえるナイロンの袋が動く音がした。

 後ろに回られている。どうするか、頭を使って考える。蹴りが当たるか。さっきのでも無理だったんだ、当たるはずがない。だったら殴るか。どうやって殴る。振り向き殴るまで待ってくれているのか。切り抜ける方法が、何かあるはずだ。少年と男の関係で、唯一と言っていい利点が一つある。アドバイスしたくなるほど焦っていた男だが、何かに気づいた顔をすると、グッと手を握り、次の瞬間に肘を思い切り後ろに突き出した。

 そう、男と少年で唯一、はっきりと優劣を付ける事が出来る物と言えば身長差。男の肘の辺りに、丁度少年の顎がある。そこに向かって力の限り、素早く、短い距離の一撃を繰り出した。

 当たった。袋の音がした。感触があった、物に触れた感触が。勢いを緩めずに、腕を伸ばしてさらにダメージを加えようとしたところで違うと、頭の中で大きく叫んだ。当たったのは、袋だけ。身が、少年がいない。

 止まらないはずだった腕だが、肩の可動域の関係で拳が背中に届く前に止まり、姿の見えない相手に何をされるか分からないので腕を引き戻したのと同じく、上から、頭を超えるように何かが降ってきた。

「悪くなかったが、惜しかったな」

 言葉と同時に肘が上がる。一歩と同時に踏み込み、繰り出される肘打ち。男が腕を戻すよりも圧倒的に早く腹筋の下の方、へその上あたりに肘が深くめり込み、意識も脳の奥底にまでひっこめさせた。

 相手にならなかった。袖を掴むどころか、影さえ踏めずに男が三人やられた。動きは人のそれとは違い、同じ世界の人間とは思えなかった。

 目の前で繰り広げられた空想上の世界の動きに、呆然となるのは当然の事。手に持っているのが武器だからこそ、社長は自分を保てていた。

「少年、君は何者だ」

 引き出しからまだ姿を見せていない力。安全確保の為に、引き金は引けない。

「知ってるだろ、こういう世界にいるなら」

 薄々は感付いてはいた。見たことはなかったし、存在するとも思っていなかった。世界には不思議な事が溢れていて、学者という名前の付く人間たちを全て一つの人間に集めても、地球上の事はもちろん、人の事すら全て分かってはいないが、話の中だけの存在だと思っていた。ゆっくりと、幼さがあまり残っていない精悍な顔がこちらを向き、真正面に社長を見据えて口がこう動くまでは。

「恵種、恵まれた種の名前くらい」

 働く頭は冷静にどう行動するべきか導き出した。安全装置を外して、両手で構える銃口を少年に向ける。

「本物か」

 何度も乗り越えてきた苦境。命の終わりを間近に感じたこともあるだろうが、この時ほどだっただろうか。両手で支えているのに銃口は揺れて辛うじて少年を捉えられる程度だ。

「偽物に見えるか?」

 動きからして人とは違う。頭の中では理解していても確かめずにはいられなかった。

「何でこんな会社を狙う。敵対しているところはそう多くない」

「敵対してる組織は組織だが、思ってるのとは違う」

 指を差す。先にいるのは紹介があった少年。副総監の孫。

 気付かないはずがない。詳しくは知らないし顔も知らないが、一人、突っ込んだ足の先が泥沼だった時点で知る名前。

「篠田、光太郎」

「そこまで知ってれば十分だな」

 疑問の顔すら見せなかった。部屋にいる他の人間、副総監の孫を含め、突然出た人の名前らしき名詞に反応していないが、少年は疑問も浮かべずに答えた。本物だ、疑う余地がない。

 不審な動きを見せれば引き金を引く。見た目に騙されるな。外見は子供だが、中身はその小さな器には収まりきらない化け物だ。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ、社長」

 横やりが、思わぬ場所から飛んできた。頬を引き攣らせて、苦笑いの生徒会長。

 当然だ、知らないのだから。傍からは、普通とは身体能力が桁違いとはいえ少年に銃を向け、撃つのにではなく小さな影に怯えて小刻みに震えているようにしか映らない。

「そういう物騒な物はなしだって」

「お前は黙ってろ」

 余裕のなさが、定まり切らない銃口と外せない視線で伝わってくる。

「そうそう、そんな危険な物向けられたら、心臓のドキドキが止まらない」

 一方の少年は何も持っていないのに、演技過剰に心臓の辺りに両手を、片手は上着の上に、もう片手は上着の下に持って行って鼓動を打つように動かす。

 馬鹿にされているのは一般的な人生を歩んできている人でも確実に読み取れるが、社長にはこの行動に対する反応がない。見ているが、視界にはっきりと捉えているが脳にまで映像が届いていない。

「どういう恵種なんだ」

 簡単に情報を渡すわけがない。ゲームを攻略するのにインターネットで調べて答えが出るような情報じゃない。一人を捕まえるのに、一つの国が躍起になるほどの価値があるのだから。

 生きてきた世界がその真ん中なのだから、少年も重々承知している。どうやれば見せるだけでも効果があるのかも。

「少なくとも、普通の人間が構えてるそんなオモチャじゃ相手にならないぐらいの恵種だ」

 脅し、警告、挑発、ハッタリ。駆け引きをするために出てきた言葉の場合、どれかに当てはまるが、社長はどれでもないと察した。

 真実。数分前までは考えてもいなかった事態に、縋るしかない銃が効かない相手。呼吸が速くなり、制御不能になっていた。打開策がなく、向ける銃口が定まらないまま、唯一の手段を取るしかなかった。引き金を引く。

 この部屋にいて現在意識がある者の中で、人間相手にこの轟音が響くのを見たのは撃つ者と撃たれた者しかいない。飛び出す弾丸が着弾しようと、人の体にダメージを与えようとして空気を切り裂く。あと少し、目標にしていた対象物に届くというところで、突然何かに邪魔をされ、軌道を天井にずらされた。一旦撃ち出された小さな弾丸には、軌道修正する力はなく、そのまま天井にめり込む。

 知っていた。会話からしてこうなると分かってはいたが、事態をはっきりと把握できるのは一人、撃たれたはずの者だけだ。

 何度やっても無駄だろう。分かっている、理解している、今見たから知っているが、こうするしかない、手段がこれしかない。

 一度だけではなく、二度三度、何度も何度も引き金を引くが、少年に弾丸は一度も届かず、何かに弾かれて壁や床にも穴が開く。それでも初めのうちは少年の体に向かって弾丸が飛び出していたが、撃てば撃つほど照準が定まらなくなっていく。一発、引き金を引く度に、本物だと見せつけられるから。

 七発目の引き金を引き終わると、口が動くのが見えた。音は聞こえない。銃声もさることながら、耳が勝手に音を遮断している。耳に言葉として入ってこなかったが、目で見てはっきりと言葉を認識できた。綺麗に口を、読み取れるように動かしてはいないが、脳が完璧に読み取った。

『無駄だ』

 八発目を撃つ寸前、どこか刺されて血が大量に流れ出すように力が外に、抜けるはずのない皮膚から勝手に流れ出して引き金を引けなかった。両手で支えていた拳銃がスルリと抜け落ちて床に落ちた。

 この時を待っていたかのように、自分の手から落ちてしまった命を慌てて取りに体を下げた社長に向かって少年が走り出した。

 見ているので何が起こったかは説明できる。銃を撃ったのに、少年には当たらなかった。簡単に説明できるが、詳しく説明すると鼻で笑われる光景を呆然と眺めていた八人の目の中に、また常識を簡単に飛び越える現実が走り抜ける。

 一歩、勢いに乗るまでにかかる歩数はどんな動物にも存在するのに、少年は一歩目から勢いよく走っている途中を切り出したと言われても納得する速さで駆け出す。

 人の動きではなく、動物でもここまで速く動く生物を見たことはないはずだ。野生の動物が本気で獲物を狩る瞬間を目の前で、遠くから望遠ではなく手を伸ばせば一緒に食われる距離で体感した人間はいるのだろうか。部屋の八人は、それを目の前で見た。動物ではなく、人間が人間を狩る瞬間だが。

 走り抜ける。大きく飛ぶように、水面ギリギリを飛ぶように低く。少年が走り出して、一呼吸、普通の人間が息を吸って吐くまでの間に、部屋の真ん中にある机に届く距離に来ていた。迂回をするか、それとも上に乗って駆けるか。

 八人が経験してきた物差しで測るならどちらかだが、もう持っている定規では幾ら距離を取って全長が見えるようにして測ろうとしても、どれだけ下がってもおおよその形どころか、自分たちが今どこまで見れているのかさえ無謀すぎてお手上げになる。答えを知りたいなら目の前で、CMを待たずに続きをくれる。

 机に脚が届く。ここから急には止まれない。迂回は消えたが、上を走るのか。そう、答えはそれであっていた。ただし、机には触れずに、机の上にある空気を駆け抜けたが。二メートル少しある机を、たった一歩で、走っているのと同じ格好、飛びますよといった動作なく飛び越えた。後はもう社長の机に向かうだけ。

 手を伸ばして銃を掴んだが、上手く掴めずに、両手で何とか自分の手の中に帰ってきた。さぁ、すぐに先程のように銃を構えよう。体を起こそうとして、背中に力を入れた時、音がした。ドンという、低い音が。体の中で骨が出した物ではない。はっきりと外から体の中に入ってきた。震えて音を出したのは、机だ。気付いた時には音のした辺りに向かって何度も引き金を引き、決心を固めるようにして机から体を起こして前にいる何かに直接撃ち込もうと、腕を机の上に置いた。

 何がいるのか、覗いた時に怪物らしい化け物がいてくれれば嬉しくはないが納得できるのに、いるのは少年だ。身を乗り出して、その少年を撃とうとしたが、影が、何かが机の前から飛び出した。身を乗り出していたので咄嗟には反応しきれなかったが、銃を向ける寸前までは行けた。寸前までだったが。

 机の上に乗った影が、銃を持つ腕を踏みつける。一人しか、こんな事をするのは一人しかいない。

「やめた方がいい。下手に動くと、腕を潰すことになるぞ」

 抵抗できるなら誰だってする。抵抗可能な力を持っていたらしない人間はいないが、見せつけられた生物の差に、お手上げするしかなかった。

 あっさりと拳銃を離す。いい判断だと拳銃を机から蹴り飛ばして自分も机から降りる。

「家は足の踏み場がないから机の上で過ごしてるが、行儀がよろしくない。今回の場合も、机に乗ったのは不可抗力だから勘弁してくれ」

 自分が乗っていた場所を、軽く手で払う。あくまで冷静で、相手を終始馬鹿にする態度。ワザとか地か判断できかねる。

 まるで今までが嘘のように、そうだと明るく手を打つ。豹変とまでは行かないが、近いものを感じた。

「さっきの話なんだが、ここの九割の売り上げで納得しよう」

 変わっていなかった。脅しの額ではなく、態度が。

 拒否をするべきだが、したところでどうなる。ただ単に、自分の命を落とすだけ。だったら納得するしかないが、一つ、確認したい事があった。諦めもあってか、冷静に頭が動く。

「警察に関係してるなら、見逃していいのか、こんなことやってるのを」

 一度ベッドの方に視線を向けるが、すぐに戻してほほ笑む。

「あんたらがどんなくだらない事で金を儲けてるのか興味はない。世の中に綺麗な金なんてないんだからな。だからどうぞ、今までよりも派手にやってもらって、いっぱい稼いでくれ。そうすれば俺も楽に生活できる」

「こんなのが警察官とはな」

 妙な勘違いだが、否定しない。そう思われても構わないから。だが聞き捨てならないのは警察官だろう。こんなのが同じとは思われたくない。

「勘違いするな。そいつは犬だ」

 部屋の外からの声だった。聞き覚えのあるのは一人、表情険しく振り返る。

「何で来た」

「事後処理の為だ」

 のんびりと、少年とは違った意味で飄々とした雰囲気の男がゆっくりと社長の下に向かう。

「悪いが見逃せない。お前たちの犯罪ならどうにでもできるが、ここは違うだろ」

 途中で拳銃を拾い上げる。ハンカチを使わずに素手で。

「ふざけるな。これぐらいの報酬は――」

「見逃せない。分かったらとっとと彼らと彼女を連れて帰れ」

 無言で睨み合う。一方は強く全力で押しているが、片方は表面こそは固いが、中身はジェル状で力を吸収されてしまう。

 どう考えても負けだ。粘っても意味がない。ふんと鼻を鳴らして、男を避けて歩き出した。向ったのはベッド。

「早く立て。お守は最後までしないといけないんだ」

 この年になって子守りを使われるのは嫌だろうが、言い返せる余裕のある者はおらず、キング青年に二人が肩を貸しつつ七人は部屋を後にした。

 一気に人数が減った部屋。最後に入ってきた警察官が胸から名刺を出す。

「佐藤だ、以後宜しく」

 引っかかる言葉。特異能力対策部、特殊事案課と付いていた名刺を見せるだけで胸に戻した警察官に社長が尋ねる。

「以後、とは」

 今後、付き合いがある時に使う言葉。当然そのつもりで使った。

「おそらくさっきの子は無理やり連れてきたのだろう。そういう風に騙して連れて来た場合、容赦なくここに関わった人間は殺す。だが、自分からくる場合は別だ」

 一般人が知らない部署とはいえ、庶民を守る人間にはふさわしくない言動は続く。

「裏にちゃんとした組織がなく、一人で体を売るのは危険だろ。だったらこういう場所があっても然るべきだ。しっかりと身の安全を保障できる、こういう会社があってもな」

 確かに、安全に体を売るのは難しい。が、未成年の場合、それだけで犯罪なのは知らない方が珍しい。取り締まる立場の人間が、手を貸すと言っているのはさらに珍しい。

「どういう意図が」

 簡単な話だと、第一印象ノッペラボウの警察官は微笑む。

「売り上げも自由にしていい。無理やり、強制をしなければな。ただし、こちらに渡してもらいたいものがある」

 笑っているのに、目まで笑っているのに、黒い瞳が叩きつけるように見下しているのが深く突き刺さる視線。

「ここを使った顧客のリストが欲しい。勿論、一般人には興味がない。偽名や、お使いにも興味はない。知りたいのは、警察関係者。警視庁でも、警察庁でもいい。それと、政治家だ」

 心当たりがないわけじゃない。というよりは、特別なオークションは、そういう関係者もいる。だが、渡せるわけがない。絶対管理の下、その日限りの招待状でこちらから送っているのだから。

「そんなのを置いて――」

「入ってるだろ。お前の頭の中には」

 よくよく考えれば直感が働いたはずだ。先程の少年が、ほとんど抵抗せずに引いたのだ。この男はそれだけの人物。

「心配するな。お前が忘れていても、頭の中には残ってる。それを取り出せるのがいるからな。それにな、使うわけじゃない。ここの情報を」

 喉が鳴る。つばを飲み込む音が、静かな部屋に一瞬だけ流れて喉の奥に消えた。

「持っておくだけだ。それだけでいいんだ。糸はな、張っておけば張っておくほど、力を増す。何重にもなれば、細いクモの糸でも切れなくなる。条件はただ、お前が、そうだな、三か月に一度、体を貸すだけでいい」

 まさかとは思うが、そういうのが目的ではないだろう。体を貸す、つまりはこれで情報を引き出せるのだ。方法は分からないが、そういう恵種がいるのだ。

 ここで断るのは、死も同じ。頷くしかなかった。

 いい返事に、警察官は振り返る。

「君たちにもこのまま続けてもらう。広告塔にしては質がいいからな」

「こんな事、していいのかよ」

 副会長は怯えきっていたが、生徒会長は意見を言えるらしい。まっとうに生きていたなら、面白い人材だっただろうに勿体ない。

「警察官なんだろ、あんた」

「あぁ。だから提案をしてる」

 恐ろしい発言だった。こんなのに身を守られてるなんてと、身震いが出る。

「ウチはな、出来てまだまだ日が浅い。だからこそ、張れるだけの糸は張らないと駄目なんだ」

「そんなの知るかよ。こんなの、新聞とかに売ったら一発でアウトだろ」

 餌としては上出来だが、させるはずがない。警察官はのんびりといった。

「その心配はない。君ら二人は、明日の朝、目が覚めたらこのことは忘れてる。憶えてるのは後ろにいる一人だ」

 キラキラと光る何かが、天井を覆っていく。生徒会長は気付いて出ようと副会長をゆするが、首を振って嫌がるだけで起こせない。何とかして連れ出そうとして、集中が一つに集まった。

 正気に戻そうとしていて、気が回らなかった。まさかそんなという思いがあったのかもしれないが、考えが甘かった。気付いた時には首に腕が回っていた。

 締め上げられる生徒会長の顔が、見る見るうちに真っ赤になっていき、目が盛大に泳いだと思ったらパッと離され自分の胸に倒れ込んできた。死んだと思って唇が怯えるが、絞め落とした張本人はのんびりと否定した。

「心配ない。殺してはいない。殺しなれてるから、調節は容易い」

 殺しの後に付いた慣れてるは、警察官の言葉とは思えなかったが、この警察官の言葉だと妙に納得できた。

 抵抗なんてするはずがなく、固まった副会長を背にして歩き出そうとした警察官だったが、もう一度だけ振り返って社長に言葉を掛ける。

「そうそう、たまにはオークションに出してもいい女の子は紹介しよう」

「なぜ、それを」

「それぐらいの情報は持ってないとな」

 七色の光が部屋を包むと、全ての人間が死んだように動かなくなった。警察官はそれを確認して部屋を後にした。


朝というのを伝えてくれるのは、何も時計の針が差すだけではない。どことなく白く、澄んだ空気を感じる。世界が眠っていたんだなと実感できる。街は不眠不休だろうが。

 少年が一人、お腹を気にしながらビルから姿を見せた。

「腹大分治ってきたか。安静にしてれば、もっと早く治るんだろうが、仕方ないか」

 くるくる巻きのポニーテルが揺れた。動いた後についてくる髪が示したのは、振り返った事実。

「聞きたいことがあるんだが、なぜ家を知ってる」

 そこにいたのは五人の、若い青年。普通の、平凡に見える青年たちが、学生服で待っていた。少年が出てくるのをじっと。

「教えてもらいました、兄貴」

 背格好からして、どう考えても今出てきた少年の年齢が一番低い。世の中には、確かに年下に対して兄貴という人間はいるが、少年が言われるのには流石に違和感がある。自分もそう感じたのか、怪訝そうに一言発しようとしたが、先に他の四人が揃えた兄貴との掛け声に素直に言葉が出なかった。

 一旦間を置いて、仕切り直して掌を開いて上げる。聞きたくない、止まれの意思表示。

「悪いが、俺はあんた達の兄貴になった事はないし、なるつもりもない。今日はトレーニングの日で、朝は走るんだ。構ってる暇はない」

 分かったかと念を押して歩き出そうとしたが、心配ないですと返答があった。返してくる言葉にしては明らかにおかしく、噛み合いがまったくない。

 呆れはしたが、知らないんだろうと強く言おうとするものの、先に青年が動いてポケットから一枚の紙を出して差し出す。

 嫌な予感がしたのか、すぐには受け取らない。爆発物ではない。ただの紙が一枚、綺麗に折られているだけ。間に何も挟まっていない。文字が黒い黒鉛かインクで書かれているだけだろう。慎重になる場面でもないのに、随分と躊躇う。じれったいのは、差し出していた青年。早く受け取って欲しいので、無理やり少年の手の中に収めさせた。

 渋々、嫌々ながら紙を開いて中を確かめる。

『それぞれに大事な御子息だ。丁寧に接して、機嫌を損ねるな』

 最後に名前が記されていた、篠田光太郎。

 読み終えると、片手で強く握りしめ、自分が出てきた小さなビルの壁に向かって投げつけた。

「ほとんどタダ働きだったってのに、何でこんな事に……」

 コメカミとコメカミを親指と人差し指で掴んで目を覆った。首を軽く振って、溜息をついて、もう一度首を振る。状況とすれば、諦めるしかないらしい。乗り気は欠片もないが、手を離して青年を見据える。

「大丈夫だったでしょ、兄貴」

 中身を知っていてこの笑顔だったなら中々だが、恐らくは知らない。色々な意味で呆れて首を振りつつ、少年が口を開く。

「勝手についてくるなら、そうすればいい。ただし、兄貴と呼ぶのはやめろ」

 青年五人は声を揃えて返事した。

「分かりました、兄貴」

「……もういい、好きにしてくれ」

 どうやら、立場は少年の方が上でも、主導権は青年たちが持ちそうだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ