獣と少女の物語
1
離れて歩く二人の陰。深い森に包まれた空は、見え隠れする月と星だけではあまりにも心細く、道標も何もない。舗装された道路もなく、獣が作った通りを進むには少女の足では辛い。前を歩く男は後ろから必死についてくる少女には目もくれない。まっすぐ、邪魔な木があれば薙ぎ倒し、行く手を阻む物を許さず直進する。軽々と、道に落ちている枝を拾って投げる労力と変わらないくらいの力加減だが、一瞬だけ木を折るのに立ち止まるこの間に少女は少しだけ距離を縮められるが、また歩き出せば背中が見えるか見えないくらいの距離にまで広がってしまう。
男は下着しか穿いていない。服もズボンも、帽子もネクタイも、靴さえ履いていない。一方の少女は、そのまま汚れを払えばファッションショーのトリを務めてもおかしくないような身形をしている。全く接点のなさそうな二人が、なぜこんな森の中を歩いているのか。そもそも少女は一切気を使わないこの男の後ろを、なぜ必死で追いかけているのか。
それは少し前、数時間前に遡らなければ見えてこない。二人の物語が始まる瞬間は、そこにある。
リンス・キュロッド嬢。
今年十一になる彼女は、時間に追われていた。忙しいという意味ではない。時間に追い詰められていた。期限は残り一年にまで迫った人生の終わりの日。檻の中に閉じ込められるその時が、あと一年に迫っていた。
ヨーロッパの複数の国が重なる国境に存在する、地図に乗らない国。そこの最有力の貴族の家の長女にして一人娘が、このリンス嬢だった。
身長も体重も、体の成長具合も他の十一歳と大した違いはない。年齢からすれば可愛らしいが似合いそうだが彼女の場合は、美しいという言葉が当てはまる美人ではあった。長く、ワックスを付けても形を止められないほど柔らかな緑がかった髪も、真珠の輝きを思わせる白く艶やかな肌も、確かに素晴らしかったが、リンス嬢には同じ年代の少女ではありえない一つの魅力にして、キュロッド家の因果が集約された魔力があった。それが、幼さを超越した色香。近づく生物全てを惑わせるほど匂い立つ。指の動き一つ、髪の毛が靡くそれだけで男は勃起し、女は絶頂を迎える。落ちた髪一本に人々は群がり、争いさえ起った。
そんな少女に迫っていた期限それは、子供を作る事。長年続いてきた呪いの儀式。それから彼女を逃がしたのは、リンス嬢の母親だった。
世界の全ての人間に与えられる平等は、幾つかある。代表的なのは、この世に生まれる事とこの世から死に去る事。この二つだけは、全ての人間に、命ある生物に平等に与えられた権利だ。他には歳を重ねるなどもあるが、一番身近にある平等といえば夜の訪れを感じる事。これは誰にでも与えられている。
大きな窓にすっかりと日が落ちた夜空が、人の吐き出した二酸化炭素によって汚されてはいるが、それでもなお健気に輝いている。部屋の中から夜空を見上げるには、明るければ近寄らないと無理だが、この部屋の照明器具は一つも点いていない。
普段はどれだけ色鮮やかな部屋でも、夜が放つ黒色からは逃れられずに地味な色合いへと変化していた。
宮殿と呼んでしまうこの家の、人がいる部屋で唯一照明が点いていないこの部屋の真ん中で、二人は抱き合っていた。部屋にある全ての物が、静かにただ二人を眺めていた。
跪き、力の限り抱きしめる。頭を撫でている母親から流れた涙が、途中でリンス嬢の頬を伝って彼女の涙に変わる。これが最後、自分の娘を、自分の娘と認識できる状態で抱きしめられる最後と、母親は知っていた。だから今までで、生まれて初めて抱いた時よりも大切に自分の娘を抱きしめていた。
「庭の林を抜けた先、貴方が近寄ってはいけないと言われていた小屋は、地下に繋がっているの」
本当なら自分が、自分の足でこの子を連れて逃げたい。でもそれは出来ない夢、自分が描く空想。だから母親は覚悟を決めて伝える。唯一、この子を自由に、檻の中に閉じ込められずに済む手段を。
「そこに幽閉されているのは、明日の為に連れてこられた、人の形をした怪物」
抱きしめていた、永遠にこうしていたいと願った思いを自らの手で遠ざけた。リンス嬢の肩を持ち、片手に自分の手に握っていたカードを手渡した。
「これでロックが外れるわ。貴方はそこで、命乞いをするの。私をここから連れて出てくださいと。けれど、もし拒否されたなら、貴方は求めなさい」
一番大事な、自分の命よりも大事な娘に捧げる最後の道標。
「私をここで殺してくださいと」
理由はよく知っている。リンス嬢は母親の言葉を冷酷だなんて微塵も思わなかった。自分でも、自由に生きる為にはそうするしかないと、自由に死ぬ為にはそうするしかないと知っているから。
十二になった時、キュロッド家の娘は子供を授かるまで性行為を繰り返す。自分と血の繋がった実の父親と。それがこのキュロッドの、この名もなき国の貴族の家の伝統だった。そして、キュロッドが最も有力な名門であるのは、生まれてくる娘の魔力とさえ感じてしまう色香にあった。
この家の現当主は、今年五十七歳になるロイド・キュロッド。わずか十歳にして、今の地位に付き、娘を生まれさせた。相手は自分の母親だった。この当主になった経緯も様々言われているが、最も有力とされているのが父親をロイドが殺したという説。ただこれも本当かどうかは分からない。それから自分の娘、三人と子供を作ってきた。他の家の娘も孕ませたりもしたが、それは知った事ではなく、母親も合わせると四度結婚をした。そして、今度のリンスで五度目だった。だが、このリンスに関しては何度となく暴走しそうになっていた。
キュロッド家が有力でいられたのは、ロイドの結婚相手になった母親や娘の色香のお蔭だった。この国では、通貨は女の体だ。一番初めの子供さえ自分の娘であれば、あとは通貨として使われる。その通貨の価値がキュロッド家の場合、他の家よりも格段に高かった。
他の家から見て、それだけ価値の高い通貨を三度目の前にしても、ロイドは平然と娘を育て上げた。自分の子供として、新しい娘を産ませる為に、自分の家を高める通貨として、大事に。だがリンスだけは、今までにない娘だった。全てが、爪の垢一つ舐めとる時でさえ自慰行為をしてしまいそうになるほどだった。
必死で、ロイドにとっては初めて抑える性欲だったが、夢見るリンスの十二歳。その日までは手を出さないと、ここまで来ていた。父親のそんな様子を目の前で見てきた。風呂はロイドが素手でリンスの体を洗っていく。目の前にある禁断の果実を今すぐにでも貪り尽くしたい感情に駆られながらも、体を洗うという行為だけに徹していた。ただ、自分を戒める為に毎日、リンスの耳の穴に向かって、本当なら女性器に入れたい欲望を抑える為に入れ続けた。
「私はお前が十二になるまでは、絶対に手は出さない。なったその日から、愛し続けるその日までは、リンス、お前はあくまで私の娘だ」
この呪いの言葉をわずか四つから聞かされ続けていた。だからこそ、自由になるにはこの機会しかなかった。絶好の、そして唯一のチャンスが今日なのだ。
もう行きなさい。母親が最後にそう言おうとしたが、リンスが自ら抱き着いて、頬にお休みのキスをして部屋から出て行った。
一生の別れを切り出す母親の気持ちを汲んで、そう行動した彼女の気持ちを汲んで、母親は部屋の中で泣き崩れた。
グラハッド・K・グリッター。
恵種になったのは幾つの時か。男にとってはどうでもいい事だった。獣は生きる為に命を奪うが、この男は違う。戦うが為に生きているだけ。もし戦えなくなれば、喜んで自ら命を断つ。いや、命を断ってくれる相手がいるなら、それほど歓喜する瞬間はない。戦う事こそが生きる理由なのだ。自分よりも強い相手がいるなら、どこへでも行くのが当然だろう? 食べる事が喜びの人間が、極上の料理がある店に行かない理由があるか? 性行為だけが生きがいの男に、極上の女が誘っていて断る理由があるか? だからこの男は戦いを求める。生きるという意味そのものの為に。
体躯は人間のそれではない。二メートルよりも三メートルに近い。背の高い人にありがちな細長い筋肉の付き方ではなく、類人猿でさえ霞むほど張りも盛り上がりもある。筋力はその中で最強のゴリラでも子供と大人以上の差がある。硬さも筋肉との表現は相応しくなく、合金加工されていると触れただけなら思ってしまうし、銃弾さえもそう思い込む。ピストルはもちろん、マシンガンやライフルでさえ傷が付かなかった肉体。一度ミサイルを撃ち込まれた事があったが、着弾する前に上空から近づいてきているのに気付き、爆風の範囲外まで逃げた事もあり、近代兵器で殺すのもままならない。
これ程の筋肉は、この男の恵種がそれに対する恵種だから。ただ恵種にとって、身体能力を上げるだけの恵種はハズレだとされていた。現在でもそういう認識で間違いない。恵種には同じ恵種がいないが、身体能力を上げる恵種だけは複数存在が確認されていたからだ。それに、恵種になった時点で、たとえ完全なる補助的恵種であっても、身体能力は普通の人間よりも優れる。そう、言ってしまえば身体能力が上がるのは恵種にとってはオマケだ。大量生産されるお菓子のオマケ。その大量生産品の中でバグがあった時、それは製作者が想定していたレア度の高いオマケよりも高価値になる。そのバグがこの男だった。
恵種の段階は現在、実り。呼び名は通称、フェンリル。神をも喰らい殺す魔狼。
そんな男が今はどうして、一貴族の屋敷に幽閉されているか。一つは恵種になって長らく、体を休めてこなかった附けが出てきていた時だったのがある。本来なら出せたパフォーマンスが、知らず知らずのうち落ちていて、不覚にも殺されるのではなく捕まってしまった。ある二人の日本の警察官の恵種によって捉えられ、ある恵種によって力を抑え込まれていた。この効果が大きいと思い込んでいた取引する者達だったが、逃げ出そうと思えば可能ではあったが、自らの意志でそうしなかった。
実験やなにやらされそうになったが、そもそも刃物が通らない肉体は、外側からしか調べられない。耳の穴、口の中、瞼、瞳、男性器、肛門、どこにも針が刺さらなかったし、メスも受け付けない。試に喉を通して胃の中で針を刺そうとしたが、それも無理だった。胃の中に入った時点で胃カメラを改造した機器が溶かされてしまったから。そして導き出したのが、この男は正真正銘、人間ではないという事。一応ではあるが効果があった実験は、電気を流して筋肉の動きを制御するというもの。ただしこれはこの男にも得になっていた。電気を浴びるようになってから、体が回復していくのが実感できていた。日に日に、呼吸を強めていく一つ一つの細胞に、錆を落としきって真っ新になるまではこのままでいようと決めていた。それが逃げ出さなかった一つの理由。それに、効果は抜群ではないが本来の力の半分近くまでは電気で押さえられていたから、簡単に今の状態は打破出来なかった。
そしてもう一つの理由は、ここに連れてこられ、体の回復を待っていた時にある事を耳にしたから。話していた相手も、聞こえるように言っていた。当然だ。ここはこの男の為だけに作られた施設。わざわざ一服するのに、一番奥に来る必要がない。それが明日だ。待っているのは、自分の為に用意される戦いの宴。
その時を心待ちに、檻の中で静かに待っていた。今すぐにでもと疼く体を説得しながら、静かに、エネルギーを溜めていた。
続く廊下。暗く、明かり一つない。壁伝いに歩くリンス嬢の手の先から、ふっと、壁が奥にでも開けばそのまま勢い余って倒れてしまいそうな程、強く張り付くように歩いていた。
彼女の人生の中で、目を開いたのに伸ばした手の先が見えない経験は一度もない。暗い場所といっても、せいぜい夜、大きな窓のある部屋で明かりを点けないくらいだ。彼女の体には、傷一つ付かないように細心の注意が払われていた。だからいつでも周りが明るかった。暗くて周りが確認できずに、足にテーブルの角をぶつければ一大事になる。ただそんな心配はいらなかった。リンス嬢の肌には、一度たりとも傷という傷が付いた事がなかった。
耳に届くのは、響く自分の足音と、打ち続ける心臓の鼓動だけ。呼吸も早くなっているが、体の中を駆け巡る血の源流にかき消されていた。
この小さな胸の奥にある心臓の動きの速さは、果たしてこれから待つ恐怖からくるものだけだろうか。表情は見えないが、怖がっているだけではないような気がした。どんなに素晴らしいレールを敷かれた人生でも、子供には好奇心がある。廊下のこの奥に待つのは、絵本の中の可愛らしい獣ではない。人を軽々と、平然と殺してしまう恐ろしい、言葉だけではない恐怖を体現したような魔獣が待っているのだ。呪いを解いてくれる優しい王子様ではないが、人の形をした獣にこの呪縛を解いてもらえるとなれは、楽しみに待つなという方が無茶かもしれない。彼女の人生にはそれほど娯楽もなかった。
女の子は小さいうちから女性である。大人びた格好をしたがるし、リンス嬢の格好もまた少女ではなく淑女だった。どこぞの得体のしれない奇抜なファッションショーではなく、誰が見ても綺麗なドレスだと頷く格好だ。膨らんだ、いかにも歩きにくそうなスカートではない、お尻の高さを強調するようなぴっちりとしたワンピーススタイルのドレス。緑がかった髪に合わせて、純白ではなくエメラルドが基調だ。そうなれば、スタイルをよく見せたいのだからハイヒールを履きそうなものだが、黒一色の廊下に響く靴音はゴムの音。ペタン、ペタンと響く。かなり不恰好になるが、もしもがあるから、リンス嬢はヒールの高い靴どころかヒールのある靴さえ履いた事がなかった。扱けては一大事だから、そういう配慮があって当然だ。
小屋に入ってすぐは階段だった。長く永遠と続く階段。ここには明かりがあった。下り続けて地下に着くと、そこには監視室があり、ここにも明かりがあったが、そこまでだった。真っ黒に塗り潰されて、時間の感覚さえなくなってから随分と経った。少女の足で、慎重に確かめながら歩いてはいたが、それでもかなり奥まで来たが、まだ行き止まりに着かない。監視室を曲がったのを最後、角さえ出てきていない。未知の生物の体内に迷い込んだお姫様は、それでも歩き続ける。涙も流さず、手探りで前に進む。
同じ事の繰り返しは、飽きに繋がる。好物のカレーでも、丸三年三食全てに飲み物もカレー味が続けば嫌いになる。リンス嬢のそれはそれは美しいであろう心臓も、やたらと鼓動を打ち続けるのではなく、平常時と同じ数字ではないが随分それに近い心拍数になっていた。あと十分、この闇の世界にいたならほとんど普段と変わらないぐらいの脈拍数になっていたかもしれないが、突然心臓が激しく、ここに来て一番の高鳴りに変わった。
壁があった。確かに、廊下が横に曲がれと言っている。強制的な命令でも、壁を突き破る力をリンス嬢は持っていないので、従って体を横にする。一歩進んでみるが、壁に変化はない。これはもしかしたら、曲がり角なのかもしれない。次の一歩で分かるはずだ。こんなところで躊躇っていても仕方がない。迷うのも早々に次の一歩を踏み出した。指先から伝わる情報。壁が変わった。これは扉だ。この奥に、いるはずだ。ゆっくりと手探りで探すと、また違う物資の感触があった。そこには溝もあった。手に持っているカードを差し込む。奥にまでいかない。だったら違うのか。違うのは向きかもしれない。ひっくり返して入れてみる。
久しぶりに聞く自分が発しない音。機械音。なにやら壁の中で動き回った歯車達が、果たしてこの少女を中に入れてもいいものか考えながら動いていたのか、開き始めるまでに三秒時間を要した。だが中に入れると決めると、あっさりとスライドして部屋の中に案内する。
開かれた扉。合図をくれてもよかった。たとえば、信号が赤から青に変わるように、どこか真っ暗闇の中で光ってくれれば別だったが、何もなく、煌々と照らされた部屋の照明に、リンス嬢は目を閉じ、しばらく動けなかった。あまりの眩しさに、瞼を閉じても部屋から背を向けたほどだ。
徐々に暗闇にも馴染んでいったのだ。明るい世界に生きてきた少女なら、闇に眼を慣らすよりも光なら短時間だ。背中に浴びる光。人工灯の妙に暖かい明かりを感じる。少し首を傾け、首筋から差し込む光に眼を当てても大丈夫だった。一気に振り返るのはご法度だが、ゆっくりと、待っているのが人か獣か、悪魔かこの眩しすぎる光に相応しい天使か確かめる為に、部屋の中に瞳を向ける。
息を飲んだ。飲み物を飲むように、喉を鳴らして。一歩、動けないとは知りつつも、恐怖に、あまりの大きさに、有り得ない扱いに怯えながら、一歩と進んで部屋の中に踏み込んだ。
八角形の部屋の角、床と天井、合わせて十六の角から伸びる鎖。貨物船の碇を繋いでいるような太さの鎖が、中央に飾られている生物に伸びていた。両手足がピンと張るくらいに広げられ、大の字になっている。その腕に、足に、胴体に、しっかりと鎖が固定されていた。頭には天井から伸びる線に繋がった鉄仮面がしてあった。表情は窺い知れない。完全に部屋の中に入ったリンス嬢の後ろで扉が閉まった。
ここまでは来た、ここまでは来れたが、これから先に進む勇気は今までの比ではない。なぜなら、自分を殺してくれという願いを口にしなければならない可能性もあるのだ。それ以前に、こんな扱いを受けている相手が話を聞いてくれるのか。もしかすれば、この封印を解いた瞬間、自分は殺されるかもしれない、もしかすれば犯されるかもしれない。恐怖を一度でも体験した事がある人間なら、誰だって躊躇う。
それでももう部屋の中に入ってしまったのだ。後戻りはできるが、したところでなんになる。結局待つのはショーケースに飾られる未来だけ。だったら前に踏み出そう。立ち止まってもいいから、自分で未来を作ろう。
壁を一周見回すが、色の塗られていない銀色の鉄が覆い尽くす部屋に機械らしき物はない。扉の横の、ドアを操作する外と同じだろう機械しかない。この獣を捉えている鎖を、首輪を外すのは、あの入り口にあった監視室でするのだろうか。流石に戻っている時間はない。
今日は明日に迫った、リンス嬢の母親の誕生日パーティー前夜祭。一応とはいえ、まだ結婚している妻の誕生日会は盛大に行わなければならない。チャンスだと、ここしかないと父親に、夫に内緒でここの監視役もパーティーに呼んでおいた。ロイドには内緒だと伝えて、ある程度経ったら帰るようにとも言っていた。そろそろ戻ってくる時間かもしれない。だからこそ、監視室で何かしている時間はない。
握り締めても崩れないカードは、固いは固いが、少女の力がそれ以上に弱いというだけ。宿した勇気も小さく消えてしまいそうだ。出来る事は、このカードを機械に差すだけ。それをしたら、本当に終わってしまう。自分の人生が、終わってしまう。でも、そこにしか縋れなかった。願うようにカードを差し込んだ。先程と同じ音がして、扉が開いただけだった。もう彼女には、リンス嬢には何もできなかった。
一定時間が過ぎて、リンス嬢の目の前で扉が閉まった。カードが穴から抜き出しやすいように飛び出す。どうすればいいのか、色々と習った勉強の中から、この場面に有効な物はないか頭を巡らす。夢見た世界地図。どこに行きたいと、地理の時間は一番の楽しみだった。数学は嫌いじゃなかった。パズルを解いているような気になった。唯一の娯楽になっていた。英語はしっかりと勉強した。絵本を読んでもらう時に、言葉の意味を理解しているとしていないでは楽しさが違ったから。必死で何か使えないか蓄積された知識を探すが、何も役立ちそうにない。仕方なくカードを手に取った。
もう自分の足だけで逃げ出すしかないのかもしれない。必死で走って、庭の終わりの門にまで辿り着いて、何とか木をよじ登って、山を下ろう。自分の足だけでは限界があるかもしれないが、逃げ出せるかもしれない。この終わりしか見えない世界からは、父親の手から逃げれるかもしれない。
カードをもう一度だけ強く握って、差し込もうとした。そこで気が付いた。入る時には一回で開かなかった。暗くてよく見えなかったから。向きが逆だと思った。だったら今度はこっちでも試してみればいい。四通り、裏と表、右と左、四回チャンスがある。一番可能性のあるのは、最初に差し込んだのとは向きを変え、裏返したこの向き。願って、何が出てきてもあなたに感謝すると誓って、神に思いを込めながら差し込んだ。開かれるのが悪魔の封印とも知らずに。
機械音がしたが、先程とは別の音。振り返ると、頭を覆っていた鉄仮面に線が入り、何等分にも分かれて隙間を開けた。落ちてくるのは、真っ黒な髪の毛。束で、ドサッと落ちる音が聞こえるくらい大量に垂れてきた。手触りが触れなくても分かるくらい、乱れ、汚らしい髪質。風呂に入った事がないのか聞きただしたいが、答えてくれる相手ではない。開いた仮面は天井の中に消えた。
閉じていた瞳がゆっくりと開く。胸が膨らんでいく。ピント張られた両手足の筋肉が盛り上がっていく。大きいと思っていたこの男の体が一回り、二回りと膨らんでいく。走る血管、信じられないが少女の目の前で、人間が力を込めただけで筋肉が倍以上に膨らんでいく姿があった。
目が開ききると、口が開き始める。ここではっきりと少女は耳にした。揺れる部屋、上がる音、唸り声。地震が来る寸前に聞こえる、あの地が揺れ始めた事を伝える重たいものが引きずられるような振動音。それがこの獣の口から、体の奥底から、肉体を通して、喉を通して部屋を揺らし始めたのだ。初めは小さかった。開いている口も、唸り声も、振動音も、筋肉の盛り上がりでさえ、小さかった。
獣の大きくなる咆哮に怯え始めるのは、身の危険を感じる鎖。獣を捕まえる為に作られてもいないのに、男の腕に、足に、胴体に引き付けられて、千切れそうな体を鉄の軋みで訴えかけるが、獣は効く耳を持たない。さらに一回り、全ての物が大きくなった。少女の足は震えていた。立っていられずに、座り込んでしまったが、はっきりと震えを感じた。男の、この獣一匹の唸り声で部屋全体が、地下にあるこの建物全体が揺れている。耳を抑えても一緒だが、考える思考はなかった。
人間じゃない、一か所、限界が来て鎖が千切れ飛ぶ、これは獣でもない、そうなれば続けざま、バランスの崩れた鎖は一気に崩壊した、空想上の生き物だ、自由になった両手足にさらに力を込めて、動けなかったここ数年の溜まったエネルギーを発散する、でないとこんな事現実にあるはずがない、全快だった、全開でもあった、これが同じ種類の生物だと誰も信じない、開ききる口の大きさに合わせて喉の奥から溢れ出す言葉ではない何かが部屋の中に響き渡る、でもこれでいい、最後の最後、出し切った事を告げるように声が消え息の吐き出される音だけがして、少女の体を浮き上がらせるだけの風が舞った、この獣なら、確実に殺してくれるから。
2
止まる時間。リンス嬢から話し掛けろだなんて、とてもではないが言えない。じっと、一人で始めたダルマさんが転んだを止められずに獣の動きを、自由になった怪物を見据える。
有り余っていたエネルギーを放出して、元の大きさにまで戻った獣は、あの爆発するような咆哮から一転、静かに目を閉じて深呼吸をしていた。
吸い込む度に上下する胸は、本来の人間という動物が持つ胸筋の大きさを遥かに超えていた。普通の人間にこの大きさの筋肉が一つ、腕でも足でも胸でも背中でもいいが、どれか一つでも間違って付いていたら、あまりの重たさに引き摺ってしまう。常識外の肉体が、人類の抱く最高の筋肉がこの一つの肉体に集結していた。
指一つ動かすだけで、体の中のエンジンが稼働する音が外にまで届く。そんな幻聴を耳にしても、自分の勘違いだとは誰も思わない。この魔獣が、本当は生物ではなくアンドロイドか人型ロボットとの結論に到達するから。
「迎え……」
一つ一つの動作が周りに与えるのは恐怖だけのこの怪物が、大胆さの欠片もない呟きをした。
はっきりと聞こえはしたが、喋れるのか。人間の言葉を話せるとは、対面して思っていなかったリンス嬢は一瞬耳を疑った。自分はいつの間に、獣の話す言葉を覚えたのかぼーっと、固まったまま思い起こそうとした。
確かにペットは飼っている。パピヨンという犬種だ。耳の毛が長く、その形が蝶のようだからこういう犬種名になった。名前はフリー、そのままの意味だ。こんな家に来たけど、貴方には自由でいてほしいと。そのフリーとは一週間に一度、庭を一緒に散歩する。メスで、彼女もリンス嬢の事は好きだ。普段は家にいる使用人が世話をしていて、よく懐いている。それは親や飼い主として懐いているのであって、リンス嬢の場合、週に一度、おいしい食べ物をくれる女の子として懐いている違いがあった。
三年、実質半年も飼っていない犬の言葉を憶えられるはずがない。何年も、何十年と一緒にいてもペットが言葉を憶えられないように、人間も同じ人間という括りの中にいる生物の言葉しかわからない。だったら結論は簡単だ。目の前にいるのが、人の形をした獣ではなく、人間だという事。結論は出たが自信はなかったリンス嬢の耳にもう一度獣、のような男からの言葉が届いた。
「……ではないようだな」
ゆっくりと、やはり深呼吸をしていた時の穏やかであると感じてしまう動きで顔を、小さく動かなくなっている少女に向ける。
グラハッドにとても意外で、理解できない状況であった。自分を連れていくのに、まさか少女一人で来るはずがない。恵種ならまだ考えられるが、反応を見る限り違う。だったらなぜ解放された。しかも、明日なはずだ。
「では、我の感覚は狂っていなかったという事か」
絶対音感は、身近ではないが聞き馴染みのある言葉だ。全ての音が、雨がサッシを叩く音だったり風が回転式ハンガーを回す音だったりが音階に聞こえるというもの、らしい。自分がそうではないから断言はできないが、不思議な能力だ。
恵種は、人間が持つべきものの中に無理矢理恵まれた種の力が入る為に、何かを失わなければいけない。だが、その失くす物が全て悪い事とは限らない。ただ失くすというだけだ。グラハッドが失ったのは、体内時計であり、手に入れたのも体内時計。
「明日なはずだ、我の為の宴は」
向ける視線に対して無反応。投げかける言葉も、ただじっと見つめてくる視線に焼かれて、少女の耳にまで近寄れない。
物珍しいのは当たり前。こんな人間他にはいない。一般人とは触れ合う機会がほとんどなかったが、こういう反応でも仕方ないとは思う。今まで色々な、数えきれない人間と出会ってきたが、自分よりも遥かに小さく、小柄だった。この少女はそれよりも断然小さい。
じっとしているのに飽きるのを、数年同じ体勢でもいられるグラハッドは、少女の方が先に飽きるだろうと待つ事にした。少女の事情を知らないし、自分には明日まで時間がある。
目が合っている。こっちを見ているが、襲ってくる気配はない。そういえば、何か話しかけてなかったか。電源のスイッチが急に入って、開ききる前に瞬きを三度繰り返して壁に背中を付けた。随分遅れて怖くなった。少しでも離れたいと、刺激してしまいそうなほどあからさまに後ろに下がった。
まっとうな反応に、言葉を掛けても反応してくれるはず。グラハッドはまたフューズが飛ばないように、負担が最小限で済むような、はっきりと聞こえるが小さ目な声で尋ねた。
「我を解放した理由は、なんだ」
風貌、母から聞かされた獣という言葉、目の前で感じた悪魔のような咆哮。そのどれとも当てはまらない丁寧な、そう感じてしまう言葉使いに強張っていた体の力が緩んだ。いつでも逃げ出せる、逃げ出してはいけないという事を忘れて、三十秒と逃げられないとは考えずに、走り出せるだけの筋肉には力を入れていたが。
聞かれているのは、解放した理由だ。素直に言うべきか、もし言ってしまえばこの場で犯し、殺されるのではないか。それでいいじゃないか。いいはずなのに、中々口に出せない。
いざ目の前に拳銃があっても、自殺したいと常日頃から口走っている人間が本当に口の中に銃口を突っ込めるか、コメカミに押し当てる事が出来るか。もしそこまでできたとしても、今のリンス嬢がここまでは来ていても、引き金を引く最後の最後に振り絞る勇気があるか。経験なんて同じ年代の少女と比べても少ない彼女に、この世の終わりを選べる勇気を見せろというのはあまりにも過剰な選択肢だ。
口が動き出そうとするが、震える唇。指で押さえて震えを止めようとしても、指からも伝わる恐怖の心に上手く言えない。自分をここから連れて出てくださいと、もしそれが無理ならこの場で殺してくださいと、どうしても話し出せない。
代わりに出てきたのは涙だった。佇み静かにこちらを見ているだけで、恐怖して自然と涙が出てきた。全身、小刻みに震える振動音が鳴ってもおかしくない震え方。世界中の、リンス嬢の知る箱庭に来る男達に、もしこんな姿を見られたら何をされるか分かった物ではない。挨拶をするだけで、跪いて手の甲にキスをするそれだけで、全ての男はズボンを膨らませていた。その姿を見る度に、男の汚らわしさに、父の態とこういう生態だと教え込む考えに嫌気がさしていた。ただその汚らしい儀式が、意外にもこの場で役に立った。
獣は何年と女性と関係は持っていないはずだ。勉強の中には性の事も、男の生態も随分と入っていたので知っているが、そういう場合、すぐに興奮してしまうらしい。逆に全く興奮しなくなる男もいるそうだが、獣なら、これだけ雄々しい獣には考えられない。涙に溺れる瞳の中で、日常的だった一番の挨拶ともいえる男の股間の変化がないのを、冷静に確認する事が出来た。
出会ってきた全ての男の中で、このオスが一番理性的なのかもしれない。涙も、怯えていた心も、指の震えも、最後には唇も、普段通りに動かせるようになっていた。
「私を、連れ出してください」
尋ねた理由の答えがこれか。酷い、グラハッドにとっては腕の悪いマッサージ師に当たった程度の、扱いだったが、それにしてもこの対応の変化は罠を疑ってしまう。まあ、それはそれで面白く、楽しいかもしれないが。
連れて出るとそこには何十、何百、何千と、自分に殺意の目を向ける人々がいる。そんな展開が待っていたなら喜ばしいが、少女は演技をしていない。間違いなく、役者ではない。だったらこんなところにまで来た、本当の理由を知らなければならない。
下らない、自分にとっての生きる意味にそぐわない理由なら聞く必要がない。明日になれば生きている意味が、恵種グラハッドが復活する日が待っているのだ。もう一度同じように、理由はと尋ねた。
するとこの少女はニュアンスを変えてきた。「私を、えと、私を連れ、違う。そうだ、私を、攫ってください」
攫う。随分と意味合いが違ってくる。連れ出すなら、ただ外に出せばいいだけ。暫くブラブラとして家に戻ってくればいいが、攫うとなるとそれが意味するのは誘拐の二文字。この少女の立場が、ぼやけてはいるが、身分がある人間であると理解はできる。道端に寝る子供を攫っても誰が心配する。保護を口にしている人間は、言葉に出してれば問題がないと思い込んで、近くの公園に住んでいるホームレスの子供の事など目の中にすら入らないのだから。
「なぜ攫わねばならん」
あなたを攫いに来たとキザにポケットから造花を取り出す泥棒なら喜んで連れ出すだろうが、この獣には、グラハッドには少女を攫っても何の得もない。価値はあるだろう。そこらに売れば、相当額の値段が付く。人として生まれてきてはいるので、感性は人間と同じだ。つまりはこの絶世の美少女を、美しい顔をしていると認識する感覚は持っている。だが、それだけだ。
泥棒だけじゃない。普通の男なら、たとえ犯罪になったとしても、捕まって一生を過ごす結果になったとしても、この子に自分を攫ってくださいと見上げられて断れる理性を持つ者はいない。ギリシャ神話以外の神々でさえ、一晩だけでもベッドの中で過ごす為に命さえ惜しまない。
男という性別なら、オスの本能に忠実な馬鹿なら二つ返事で頷くが、グラハッドが持つもっとも強い本能が戦いなのだから、少女のお願いを聞く理由がない。明確に動かない理由は何度も出ている、明日があるから。
「攫って、欲しいのです」
「攫う理由がない」
「だったら――」ぐっと胸の前を、心臓をこれで握り潰せるように握った。「殺してください」
理性なき獣ならすでに犯すか殺すかしている。そうしない人間の思考を持ったこの怪物に対して、リンス嬢の願いは届きそうにない。冷静に、見てくれの荒々しさとは正反対な対応をする。
「殺す理由がない」
「何日も、食事を取っていないはずです。だから、私を、わた、しを……」
食べてください。逃げ惑う草食動物を生きる為に食らうような肉食動物ではないと、対応でわかっているはずだ。自分の口から殺してくださいも、食べてくださいとも言ったが、一向に行動する気配がない。それどころか、自由に動けるようになっても逃げ出す事さえしない。
弾も込めたし、安全装置も外したのに最後に振り絞る勇気で引いた引き金が壊れていた。
「人を食べるのも悪くはないが、肉の少ないその身を食べて何になる」
「……若い肉の方が、おいしいと聞きます」
「食事は楽しむに値しない。生命維持をするだけで十分だ。何よりも空腹の、乾いた肉体の方がより血が滾る」
ここで引き下がる道はない。振り返っても、ただ真っ暗で、いつ奈落の底に落ちるともしれない通路があるだけ。
「明日に迫っているのだ。宴が」
熱がだんだんと籠ってきた。それだけ楽しみなのだ、明日が。
明日あるのは母の、リンス嬢の生みの母の誕生日。確かに盛大に祝われる予定だが、なぜこの鎖に繋がれている獣が楽しみにする。どのみち関係ないはずだ。はっきりとした疑問が頭の中に浮かんだ。
「明日は、貴方に何か関係があるのですか?」
「あぁ、我の為の宴がある」
「貴方の、為の……」
そんなのは聞いていないが、父親ロイドは無駄にサプライズが好きだ。隠しているのだろうが、一体何をするつもりなのだろうか。
「貴方の為の宴とは、一体何でしょうか?」
随分としつこく聞いてくるが、この魔獣に対しての宴など一つしかない。
「殺し合いだ。我と人間、獣、それだけではなく何か兵器の一つでも用意しているだろう。それらと命を賭けて戦う宴が待っているのだ」
呆然とした。まさか母の誕生日に、そんな野蛮な見世物をするなんて。そう思ったが、この獣の行動原理の計算式が薄らボンヤリではあるが見えた。
私、リンス・キュロッドよりも、戦いの方が上だという事。何よりも、戦いが好きなのだ。
「だったら、やはり私を、攫ってください」
行けるはずだ。きっと行ける。言葉が通じるからこそ、ただの獣ではないからこそ惹かれるはずだ。リンス・キュロッドという娘に、この娘の価値に。
「何度も言うが、理由が――」
「あります。私を攫う理由が、貴方にはあります」
自信がある。相手も少し、今の今まで怯えるだけだったリンス嬢の変化に興味を持ったのか、顔を向けてきた。
「どういう理由だ」
「私を攫えば戦えます」
「明日、戦え――」
「私を連れ戻す為に、何度も父は手を打ってくるはずです。何度も、どんな手段を使ってもいいから、必ず」
考える。この娘にそれほどの価値があるのか。口ぶりからして、この家の娘なのだろう。演技の可能性もあるにはあるが、こんな子供に芝居を打たせて誰の得になるのか。家の主人か、それともこの魔獣フェンリルの復活を見学する観衆か。得にはならないはずだ。
何よりも、これが演技だとして断る理由がどこにある。もし演技で、連れ出すまでがカメラの回る芝居だとしても、それ以降の事を考えてみると悪い話ではない。もし明日、宴があったとしてもそれは一日だけの晩餐会。一度だけの楽しみよりも、長く続くおいしい話があれば乗らない手はない。
明日、宴が終わればこの家には興味がなくなる。刃向う者はすべて殺して、それ以外は捨て置くつもりだったが、気が変わった。話の流れが変わった。
それにだ、もしこの少女の言ってる事が本当だったら、話の進み方がより大きく変わる。死に物狂いで取り返しに来るはずだ。どんな手を使っても、どれだけ金が掛かろうが必ず。そして、答えは決まった。
「いいだろう。攫ってやる」
いつの間にか眠っていた。攫われた形となったリンス嬢だったが、宮殿から抜け出すまでに既に五人が死ぬ様を目の当たりにした。簡単に、庭の隅に咲く名も知れぬ小さい花でも毟るように容易く、攫ってくれた獣は殺してみせた。
殺された、なのに痛みを感じず死んだ事は分かったであろう監視員の一人から服を剥ぎ取っていた獣だが、一般人のサイズが入るはずなく今はリンス嬢の下に敷かれている。血の臭いはしたが、生まれてこの方酷使してこなかった足が急にスパルタで鍛え初めても練習に耐えられる筋肉なんてあるはずなく、疲れに負けて掛け布団もなく熟睡してしまった。
普段なら物音で目覚めたりはしない。一旦眠ると、朝の決まった時間に自動で目が開くまで絶対に起きない。毎晩寝る時間が決まっているからこのようなサイクルを作れたので、うらやましく思った朝の通勤ラッシュに追われるサラリーマンでは手に入らない。ましてや今日は生まれて一番動いた日。突然狼がやって来て噛みつかれても目なんて覚めやしないが、近くにいるのは狼を素手で解体して食べるような獣。深く落ちていたはずの眠りから、圧迫された空気が逃げ出すその気配だけで脳が目覚めた。
目は開けたくなかった。指を動かせるくらい目が覚めたが、反応が違う人間がいると信じたかったから。こんな獣のような、怪物のような人間でも、自分を性の対象として見ない男がいると信じたかったから。
そっと近づいてくる。起こさないように、気付かれないように。強くない月明かりから伸びる影が覆い被さってきた。それに続くのは、リンス嬢を攫った獣。体が強張った。寝ているつもりだったのに、今からされるだろう事が頭を過って防御姿勢になった。
フワフワのベッドの上で、好きな男性と初めてを過ごせるなんて思っていない。大人になる前、まだ少女の段階で父親とする事は決まっていた。それに、男性を好きになるというのもよくわからない。普通ならドラマで、それとも小説で、それか雑誌で、果ては漫画で恋愛という物に興味を持っていく。こんなのを使わなくても、幼い時から男の子と女の子が同じ空間で遊んでいれば、好きになるという感情は芽生える。初恋が、と言っていいのか悩みどころだが、幼稚園の時という人も少なくはない。でもこの少女、リンス嬢にはそれがなかった。父親がそんな環境に置くはずがない。だから、男性を好きになる感覚がなかった。
持ち合わせていない恋愛感情とは違うが、目の前で人を殺す姿を見ているのに、自分でも信じがたいが少しだけこの獣の事を好きになりかけていた。初めて自分を性の対象として見なかったからかもしれないが、確かにカテゴリーに無かった好きという感情が製作を始めた段階だったから余計にショックだった。
やっぱりそうなのか。足元にまで来た。掛かる鼻息。荒れてはいない。高ぶってもいない。だったらどうして。伸びてくる。気配でわかる、腕を伸ばしてきた。リンス嬢の体に向かって。
生物が苦しみのあまり上げる、鳴き声ではなく反射的に漏れる悲鳴のような声がした。続けてもう一つ、同じ声がした。そう、二つ。
すっと身を引く影。さっきとは違い足音を立てて戻っていく。悲しくて、はっきりと悲しくて正常値よりも多く分泌されていた目を潤わせる水が、体を起こした弾みで涙に変わって頬に流れた。
獣が腰を下ろす。両手に指程の大きさの、リンス嬢にしてみれば手首ぐらいありそうなネズミが握られていた。潤む視界でも分かり、慌てて立ち上がった。
「それ、何ですか」
反射的に聞く質問。毎日丁寧に、歩く廊下の柔らかな絨毯でさえ靴の底に糸切れが付着しないくらい掃除されていた屋敷でも、ネズミくらいは目にした。庭に少しだけはみ出ている木や、外から掘られた穴などから、目と目があったりもした。飾り立てられた世界に住んでいても知っているが聞いてしまった。
首を軽く傾げた。生きてきた世界は違うが、まさかネズミすら知らないとは。不憫だなんて思いわしない。戦う為だけに世界を巡って来て、これ以上不幸な経験を、瞬きをして開く事なく次の瞬間には死が訪れる現実しか知らない子供を知っている。助けるつもりなく結果的に助ける形になったりはしたが、英雄扱いを受け付ける気はサラサラなかった。そんな世界があるだなんて本の中でさえ読まないだろうお嬢様は、ネズミさえ知らない。
「ネズミだ。お前の足の血の匂いに寄ってきた。もっと来るぞ」
細く温室育ちの二本の足は、高く育った木の下で必死に生き抜いてきた雑草達にあっさりと負け、血だらけになっていた。足のこの感覚が痛みだと生まれて初めて体験できたが、今のリンス嬢は体にネズミがいないかどうかの方が心配として大きかった。全身を払い三度回転した。優雅な佇まいとは反対な、何とも不恰好なダンスだった。
いないと確信できて落ち着いたリンス嬢の耳に不快な、ぐちゃぐちゃと噛み砕く音が聞こえてきた。発した音源を確かめて、今度は尻餅をついてしまった。やはり獣、肉食なんだなと痛感した。
捕まえていたネズミを一匹、口の中に入れて砕いていた音。火を通しても食べる事を躊躇うネズミを、洗わず焼かず、生のままで食べるその姿は食事を楽しむ野生の動物そのものだった。
自分もあんな風に簡単に、食べようと思ったらいつでも食べられるんだろうな。そう思っているリンス嬢の前で二匹目が口の中に消える。生きる為なんだから仕方ない。命を繋ぐには命を食べるしかない。頭の悪いベジタリアンは生きている物を食べないというが、植物が死んでいるなら酸素はとっくになくなっている。彼らはただ殺される時に泣き叫ぶ動物を食べるのが嫌なだけだ。もし命が大事なら、害虫の一匹も殺した事がないのか徹底的に聞いてみたいが、リンス嬢は違った。素直な、けれど自分でもびっくりする現象が起こった。
お腹が鳴った。動いている状態のネズミを食べる姿を見て、自分にも何か消化させろと胃が欲してきた。グロテスクと思った脳とは違って体は正直だった。消費したエネルギーを補うのは、生きるのに必須条件だから何も不思議がる事ではない。それでも、名前が雑誌に載るような料理人が作ったフルコースでも鳴らなくなっていたリンス嬢の腹の虫が、こんなところで鳴るなんて。
いつの間にか、本当に人形になっていたのかもしれない。死んでいたが、この姿を見ているだけで命そのもののような獣に触れて、本当の意味で心臓が生きようとしているのかもしれない。もう一度、腹の虫が鳴いた。
食べ物を探す力なんてあるはずがない。朝も昼も晩も決まった時間、決められた場所に座ると自動的に運ばれてきていたのが食事なのだから。辺りを見回しても、食べられる物と食べられない物を見極められない。ただし、食器に盛られていたなら食べられるのだと分かる。
落ち葉の上に敷かれた布一枚の布団の横に、大きな葉っぱが三枚。一つ一つの上に、見慣れぬ奇妙は木の実が置いてあった。しかも大量に。食事の終わった獣に、これはなんですかと視線を向ける。
一々説明が必要なのか。面倒臭くはあるが、生きる為だ。戦いという生の為に、グラハッドは口を開く。
「食事だ。上手くないが毒はない」
「ど、でも、どうして」
「お前をここで殺して何の意味がある。取り返しに来てもらわなければ困るだろう」
理由はそれだけ。もし父が見捨てれば確実に殺されるが、少なくとも生きている実感はあった。だから無性に、止まっていたはずの涙がまた流れた。今度は純粋に、作った傍からポロポロと。
泣かない子供かと思っていたがよく泣く子供だった。感情を隠さないのが、隠せないのが子供だからこれでいいが、ここで泣く理由がグラハッドには想像できない。あるとすれば一つだけ。
「食べられないと泣いたところで、それしかないぞ」
首を振る、力強く三度振って、手を葉っぱの器に伸ばして持ち上げた。口の傍に持ってくると、汚れた手で、食事前の挨拶もしないで掻き込んだ。泥で汚れている手はバイ菌だらけだし、虫が這っていたかもしれない葉っぱも木の実も関係なかった。今も木の実の中にいたかもしれないが、関係なく頬を膨らませて噛み砕いていく。口の中に広がるのは、ただただ酸っぱいだけの味。美味しくなんてなかったけど、無くなったらすぐにまた掻き込んで、三度で一つがなくなった。
涙を流すほどおいしいわけではない。食べる前から涙を零していたのだから。ただ、木の実を見て、一つも残さず、一つも落とさないその姿に、生きようとするその姿を見てグラハッドは横になった。下には何も敷いていないが、外で裸のまま寝ても腹を壊さない。このまま眠ろうとしていたが、モグモグと聞こえた。それがこちらに向けられていると三度目で気付いて視線を合わせた。
口をパンパンに膨らませている少女が、こちらに向けて何かを言っているようだが、口の中の物がなくならないと言葉にはなっていない。何度か噛み終えて口の中の物がなくなった。何を話すのか待っていると、慌てて最後の木の実が乗っている葉っぱを持ち上げ口の中を膨らませてから、また話しかけてきた。
馬鹿にしているのではない。必死で食べているだけだと見て取れるが、それでももう少しやり方があったはずだ。そんな頭の回転も残っていなかった少女が食べ終わるまでグラハッドは待った。
かなりの量があった木の実をすべて平らげ、体をこちらに向けてようやくしゃべり始めた。言葉になったと言った方が正しい。
「私、このままじゃ寝られません」
さっきまで熟睡だった娘が何を突然。
「さっきまでは寝ていただろう」
「でも、ネズミが噛みに来るのでは、もう無理です」
「だったらどうする。このまま歩いて町にまで降りるか。我はどれだけこの森が続くのか知らんぞ。恐らくヘリか何かで運ばれたのだろうからな」
「だから――」指を差してきた。自分に向かって。「貴方の上で寝かせてください」
あまりにも想定外の提案に、一瞬だけ考え、結論はその間に出た。
「我をなんだと思っている。優しいお前を攫いに来た神だとでも――」
「思っていません。でも、困るのは貴方も同じだと思います」
「お前が寝られずに、どう困る」
「ネズミに噛まれたら明日、歩けません」
近くにいるだけで怯えていた少女はいなくなっていた。
「貴方が明日、私を抱えてくれるなら結構ですが、そうする気はないでしょう。でも森に置いていっても、今日攫った意味がなくなる。違いますか?」
言い返せなかった。頭は少女の方が勉学に励んでいたので回転がいい。これ以上言い合いをしても無駄だろう。聞く気はなさそうだ。まっすぐ目をそらさずに見てくる。
「好きにしろ」
顔を上に向けてそのまま目を閉じた。
血に染まる布を持ち、小走りで体の横に立った。筋肉が血に塗れていて、美術の本に載っていた彫刻よりも綺麗だった。提案したものの、指を伸ばして触れる前に一旦止まって引き返そうとした。寝るのに硬さを調べるだけで恐れてどうすると、伸ばして触れてみる。
硬い、歴史上の芸術家に彫られたような物質的固さに、腹筋を何度か触る。生物に感じない筋肉を擦って、はっとなった。この上で寝るのは、ベランダのコンクリートの上で寝るよりも心地が悪いんじゃんかと。
何かないか周りを探す。ベッドのマットレスが落ちていたなら喜んでこの上に、あればマットレスの上でよさそうだが、森の真ん中で見つかるはずがない。だったら、先程まで眠っていた落ち葉を使おう。片手で掴んで上に乗せるが、どれくらい時間が掛かるのか。量もたくさん必要だ。もっといいものを使いたいと、別の物を探す。すると以外にも近くにいいものがあった。汚らしいとはもう思わなくなった太く黒い髪の毛。
布を置いて両手で掬い上げて腹筋に掛ける。その上に布を敷いてよじ登った。意外と悪くない感触。後は掛布団が欲しい所。探すまでもなく、もう片方に広がっていた髪の毛を掴んで包まった。
初めて感じる人の温もりと、限界まで貯まっていた疲労にすぐに眠りに落ちた。
小さく包まり寝息を立てる少女に、明日まで待てばよかったと後悔しつつも、グラハッドも眠りについた。
こうして、二人の物語は始まった。
3
投げつける、壁に向かって手当たり次第に、掴める物全て投げつける。こんな八つ当たりで気が紛れるはずもなかった。投げられる物は全て投げると、今度は長いテーブルを殴る。蹴っては両手で叩きつける。怒りが、堪えられない苛立ちがロイドをそうさせていた。
「ロイド様落ち着いて――」
一人の使用人が宥めようとしたが逆効果だった。近づいてくると届く範囲に入った瞬間に殴りつけていた。力の限り殴りつけ、蹲ったところを何度も何度も蹴り続けた。
三人、他には使用人がいたが怒り狂うロイドに声を掛けられない。掛ければ同じ事が待っているから。鼻や口といった簡単に血が出る個所から飛び散るのは仕方ないにしても、目からも耳からも流れ始めていた。確実にこのまま蹴り殺すつもりだ。蹲っている顔に、投げつけて壊れた椅子の破片を持ってきて叩き突き刺す。何度も、連続で繰り返してとうとう使用人は動かなくなった。反応の無くなった使用人の頭に、座る部分の角を最後に叩きつけて残り三人を睨みつける。
「何してる」
あちこちに向く髪の先端が怒りに呼応しているようだった。切れた息で、悪魔が神を睨みつけるのも無表情だと言いかえてしまう形相で近づいてくる。
「何をしてると聞いている!」
「は、何をと言われ――」
拳が飛んだ。間髪入れず二人目に意識を変えながら蹲った使用人の顔には膝蹴りをして顔を抑えたところで腹を蹴りつけた。
「こんなところで殴られるのを待ってるだけか? そんな暇があるなら今すぐ森を探せ!」
「しかし夜の森を探すのは――」
殴られる。咄嗟に頭を下げたが、髪を攫まれ後頭部を壁に叩きつけられた。
「危険か? どうだ言ってみろ!」
最後の一人もどうなるかは決まっていた。何を言っても同じだ。なら素直に受け入れよう。
「危険です。それに今行っても恐らく間に合いません。相手はあのフェンリル・グラハッド。私達が追いかける立場になった時点で、捕まえるのは不可能です」
「だったら明日の為の動物や恵種を放て!」
早口で言い切ったら、まだ殴られなかった。正論で行けば、もしかして大丈夫なのか。包み隠さず、現状がどれだけ不利か説明する。
「そんな事をしたら、荒々しい恵種や動物がリンスお嬢様を襲わないとも限りません」
「だったらなぜグラハッドはリンスを襲わなかった? どう考えても今いる奴らよりも狂暴だろう」
「それは分かりませんが、攫うという行為をしているので理性があるのだと思います。本当の、言われているような怪物なら、リンスお嬢様が解放した時点で命を奪っていたはずです」
納得したのかロイドが離れていく。自分だけ殴られずに済むとは思っていなくてほっとして目を閉じたが、いけないと開いた視界に飛び込んできたのが椅子の角。避ける暇なく突き刺さった。
痛みに苦しむ声を、怒りで叫び狂うロイドが掻き消す。その狂気に、呻くのを何とか必死に堪える三人の使用人。救いの手はないのか。動かない使用人にまた一蹴り飛んだ。蹴り上げ、地面に足を下ろして振り返った丁度その時、部屋にノックが響いた。入れと怒りをぶつける。
扉が開き、二人の使用人が妻を、リンスを逃がした女を捕まえて入ってきた。怒りはさらに燃え上がる。火に油を注いだ瞬間だった。燃え上がった怒りをぶつけられずに済んだ三人ははっきりと、髪の毛が逆立つ瞬間を見た。
足早に、走り出すように近づく。観念しているのか下を向き、膝立ちにされている妻はその時を待った。鼻を押し潰すように鷲掴みにされ、見上げられるこの瞬間を。
「なぜリンスを逃がした」
「同じ思いをさせたくなかったからです」
分かりきった答えだ。それぐらいしか、命を賭けて逃がす理由がない。だがとてもクダラナイ理由だった。この世でロイドだけはそう高らかに叫ぶ。
「それがこの家に生まれた子の宿命だ」
「その宿命が今日終わったんです」
最後の「です」は言葉が潰れていた。ロイドが潰してまともに出させなかった。力をより込め、立ち上がらせた。そのまま自分の体重をかけて壁に押し付ける。口で息ができるのに、鼻を締め上げて窒息死させるように。
「私がどれほどリンスに愛情を注いできたと思っている」
「注いできたのが愛情なら、私もこんな事はしません」
「そうか、愛情じゃないか? あれは十分私の愛情を注ぎ込んだ体だ。毎日丁寧に、どれだけ忙しかろうが私の手で洗ってきた。全く同じ、全てのサイズが同じ人形なら今すぐにでも作れるくらい丁寧に」
「だったら自分の手で作って、その人形で満足してください」
目の色が変わった。濁り腐りきった色が、ドブの底のヘドロを掻き混ぜた色に。
「手を出さずに堪えてきて、人形で満足しろだと? あの美しい顔が歪むその姿を、いつの間にか芽生えた快楽に戸惑う姿を、私を受け入れ完全に快楽に溺れる姿を見る為だけに育てて来たのに、人形で! そんな慈悲深いこの私に人形で満足しろだと!」
全ての体重も、全ての力で頭を締め付け、押し潰そうとしている。激痛が走る顔を凛と保ち、彼女は母親であり通す。
「リンスは生きてます。私の子――」
「私の為だけに生き、私を愛する為だけにリンスは生まれてきた! 私だけのものだ!」
悲しくなんてなかった。何十代と続いてきた、狂いに縺れた狂気の家計だ。男はこうなる。女はだからこそ冷静でいられる。
「もうそれも無理です。リンスは獣と共にここを発ちました」
笑った。握り潰そうとしている掌のその下で、頬が上がって笑い顔を作った。誰にも、掴んでいるロイドにだけ伝わるようにはっきりと笑い顔を作った。
それが怒りをより高めたが、狂った先には冷静さが待っていた。ぱっと手を離し、屈んで目を合わせる。今度はロイドが笑っていた。引きつり、怒りを前面に残したまま般若の顔で笑っていた。
「必ず連れ戻す。その頃にはお前はお前ではなくなってるがな」
「リンスがそれまで、子供でいてくれるといいですね」
挑発だ。使用人なら間違いなく殴っている。それだけでは収まらず、首を絞めているかもしれないがしなかった。だが今回は違った。泡が広角に残りながら笑っている。
「明日まではお前は私の妻だ。見世物も続けないとな」
覚悟は決まっていた。そうなるとも知っていた。
「恵種がいいか、それとも動物に食われながらやるか、機械で焼くのがいいか?」
「手荒にしても価値が下がりますよ」
「そうか、お前の誕生日を祝いに来る豚どもがいいか。いいだろう、明日はお前の誕生日だ。私の妻から通貨に生まれ変わる誕生日だ」
立ち上がり、二人に連れて出ろと命令した。立ち上がらせて二人は出て行った。静まる部屋。気まずいのは殴られてはいるが意識がある三人の使用人だ。
どうするか判断に迷っているとロイドが動かない使用人を連れて出て行けと命令したので、喜んでと尻尾を振って部屋の外に逃げ出した。
一人になった。今ので怒りが晴れたわけではない。首筋が怒りで盛り上がり、怒鳴りつけた。連れ攫った、自分だけのものだと断言したリンス嬢を連れ攫った獣の名前を何度も、何度も叫んだ。
叫び過ぎて枯れた声も関係なく、潰れて転がっていた椅子の足を窓に投げつけ割れた窓に向かって叫んだ。
「もし私だけのリンスに傷を付けてみろ。貴様を地獄の底からでも蘇らせて、何度も殺してやる。何度も、何度でも! グラハッド! 貴様はどんな手を使ってでも殺してやる! グラハッド! お前の汚れた手から私だけのリンスを必ず、必ず取り戻してやるからな! グラハッド!」
そして最後には自分の手で、足で窓のガラスをたたき割り、血だらけになって部屋を出た。