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知恵の木の森の中で  作者: 竜丸
10年 10月
6/17

木の利かない探偵社

     1


 黒いごみ袋を肩に担ぎ、随分と機嫌の悪そうな面持ちで歩く一人の少年。職務質問は確実にされそうだが、季節外れのサンタに間違えられる事はないだろう。

「糞ったれ。まだ腹いてぇ」

 毎年のように遅刻を始めた秋が悪びれもせずにやってくると、緑色をしていた葉は忽ち色を変えた。人間にしてみれば季節が変わっただけだが、夏にしてみれば気分が悪いかもしれない。自分の時には一色だった癖にと嫉妬の声が聞こえてきそうなほど、日本の紅葉は独特で、色取り取りだ。

 一度強い風が吹けば、木の葉が雨のように舞う。桜の時も、この紅葉の葉の時も、散り際はとても美しく人を魅せるが、散った後は邪魔物扱いを受ける、少しかわいそうな存在だが。

 体に乗って、無残にも踏みつけられるのを避けようとしていた落ち葉達は、建物の中に入る前に少年に振り落とされてしまった。ガラス扉に自分の姿を映して、軽く身だしなみを整えてから中に入った。

 ホールと呼ぶには狭く、玄関と言うには広い空間が広がる。正面には二階に続く階段しかない。地下はいないようだ。昼間なのに少し暗い建物内。階段横から、奥まで部屋があり、その中は明るい事から窓は部屋の中だけにあるらしい。いや、もっと奥の廊下に行けば窓はあるのかもしれない。

 誰もいないのか、随分と静かだ。二階に居るのかもしれない。日本人なら、こんな空気の漂う建物の中に、綺麗な内装も相俟って入るのは気が引けるだろうが、少年は違うようだ。

 通い慣れている様子で靴を脱ぎ、横にある白い靴置きの三段目に掴んで並べた。スリッパもあるが、靴下でいいのかそのまま歩きだした。

 とはいっても、すぐ横にある扉、職員室と書いてある紙が張ってある部屋に入った。

「あら、いらっしゃい」

 四つのステンレス製だろう机が二列に別れ、正面を向き合い正方形を作っている。内、二つにはパソコンが乗っている。電源は入っていない。それぞれの机の上には、色々な本が置いてあるが、ゴチャゴチャとはしておらず綺麗に整頓されていた。

 少年に声を掛けてきたのは、この四つの机の向こう側、窓を背にする格好の机で、何やら書類に目を通していた女性だった。

「他のは?」

 女性は立ち上がり、灰色の机と同じ色と素材だろう書類入れらしきものに近づいた。

「地域の方々と二週間後にね、ちょっとした行事をしようってことになったの。その打ち合わせ」

 歳は幾つだろうか。背が随分と小さく、小柄な少年よりも低い。横に並べば意外と背は変わらないかもしれないが、筋肉質の少年と比べてしまって全体的に小さく見えているのかもしれない。

 年相応の皺のある肌。白髪交じりの髪は、黒く染めないのだろうか。表情は柔らかく、あまり気にしそうな感じは受けない。地味な服装に一つでも何かあればいいのだろうが、装飾品が何もなく、一段と質素に見える。

「そうだ。『しょうた』君も一緒に――」

「いや、止めておく」

 残念そうな顔をしてから、女性が棚の前で足を止めた。脇の下辺りの高さの棚の上には、ポットと、逆さ向けのコップが六つ。下には布が敷いてある。

 急須も一つある。気持ちを切り替えるように一呼吸置いてからそれを手にしたが、少年は「茶はいいよ」と制した。

「でも、ここまで歩いてきたんでしょ? 喉、乾いてない?」

「別に。それに、ここに来る為に歩いてきた訳じゃない。スーツの新調と、トレーニングと、その、病院の帰りのついでだから」

 肩に担いでいたゴミ袋を、来客用だろう小さな白いテーブルとお揃いの四つの白い椅子の一つを引いて、上に置いた。

 確かに、少年の頬には一つ絆創膏が張ってあり、細かなすり傷が付いている。血も出ていたのが、無数にある細い『かさぶた』で分かる。

 別にその事をどうこう言っている口振りではない。四つの机の内、一つの机の上に腰を降ろす。普通だったら怒られそうな行動だが、女性は怒らなった。それどころか目を伏せた。

「ごめんなさいね」

 背中を向ける少年に、頭さえ軽く下げた。後ろを気にする素振りは見せつつも、決して振り返らずに少年は頭を掻いた。

「別に、その、俺はあんたやここの奴等の為にやってる訳でもないし、気にしないでいい。それに、謝られる位なら、すー、あれだよ、あの、礼を言われる方が、気分はいい」

 足音が近づいてくるが、少年はその方向を見ずに目を逸らしていた。少し早い瞬き、女性とは反対側に泳ぐ黒目。見たくないや、見ないと言っているのではなく、向く事が出来ないと表情が語っていたが、流石に正面まで来られてはそう言う訳にはいかない。

 猫背気味の体勢のまま、右手で鼻から下の部分を捏ねつつ、ゆっくりと女性に視線を向ける。

 最初は床から、徐々に上がっていく。嫌らしさがあると舐めるようにと表現するべきだが、少年の場合は前面に出てきているのが恥ずかしいという感情。三段跳びの一跳びの間で溜めを作り、また跳んでは溜めを作り、少年の視線は上がっていく。

 苦労しながらも四歩目で女性の胸にまで来た視線が、深呼吸してから最後の一跳びで女性の顔まで届いた。

「ありがとう」

 柔らかかった表情が、少年に語り掛ける感謝の気持ちで一杯になっていた。決して美しいからでも、可愛いからでもなく、その余りの優しさに、少年は裏返った声で「うん」と返しながら、慌てて顔ごと横を向いた。

 女性がゆっくりと少年に近づく。机に体が付くくらいに近寄ると、腕を伸ばして少年の頬を触った。絆創膏を触った。かさぶたも触った。

 その一つ一つに、謝罪の気持ちを込めないで、こっちを見ようとしない少年の横の、少しだけ見える額に自分の額を当てて、もう一度口に出して言った。

「ありがとう」

 今度は少年の声が裏返らずに、少しだけ口元を綻ばせながら「うん」と頷く代わりに答えた。

「あ、しょうたんだ」

 その時、部屋の扉が開いて四人、入ってきた。

 恥ずかしがっていた割には、自分から額を離そうとしなかった少年だったが、女性がお茶を入れに向かったので、結局すぐに離れてしまった。

「しょうたん、久しぶりだね」

「その呼び方止めろ」

 部屋に入って来るなり、いきなり声を掛けてきたのは一番小さな、小学校低学年だろう女の子。口調はハキハキしているが、鼻を抜けるような甘ったるい息が掛かる声をしている。小さい女の子が好んでか、それとも親の趣味なのかは知らないが、お人形さんが着ていてもおかしくない服装をしている。

「しょう――」

「もしお前達が同じ呼び方したら三、四日は立てなくするぞ」

 顔を見合わせ、頷いてから同時に言葉を発した二人の男の子に対して、少年は極端なほど見下した表情を作った。男の子二人は途端に縮こまって小声でごめんなさいと謝った。この年代の男の子は、やんちゃな子が多いが、二人の場合も本来ならそうなのだろう。少年に凄まれるまではやんちゃそうにしていたのだから。とはいっても、少年と男の子二人は大した年齢差はないように見える。

「お茶、入りましたよ」

 少年の手を取って笑顔を振りまいていた女の子と、石像化していた二人の男の子は、我先にと女性の下に向かう。来客用だろうテーブルに持って行こうとお盆の上に置いていたお茶を、側に着くなり次々に取っていった。

「大垣さん、私たちが大垣さんの班になったから」

 ポットからお湯を入れたのだから、当然お茶は熱々。火傷をしたとか何とか言って騒いでいる三人に構いながらも、女性は分かりましたと話しかけた女子高生風な子に返した。

「なんであいつ等あんなに慌ててたんだ」

「さぁ。大垣さんが恋しかったんじゃない、しょうたみたいに」

 髪は少し色が付いている。脱色か染めてかの区別は出来ないが、黒から遠い色をしている訳ではない。現代日本でなら、厳しい部類の会社でも面接お断りとまでは言われなさそうだ。

「それなら仕方ないか」

 パッと見た顔の印象が猫なこの女子高生は、何を期待していたのか、面白くないと言いたげな顔を少年の間近にまで持っていった。

「ホントあんたって大垣さんの事好きだね」

「あぁ、悪いか?」

 からかい甲斐がないと、首を捻った。

「見た目や態度からしたら、もっと否定した方がいいんじゃないの」

「見た目の話をするなら、『きょうや』はどうなるんだ」

「あぁ、あれは、まあ、ね。ってか、今日来てないでしょうね」

 慌てて部屋を見回す女子高生風な子。少年は一人でやってきたので、当然話の中に出てきていた『きょうや』という人物はいない。

「今日は人妻五人の御守だ」

「あぁ、そう」

 安堵の様な、呆れとも取れる溜め息をついた。

 落ち着いた雰囲気の二人と違い、熱いお茶組はまだ騒がしい。落ち着きなく女性にあれやこれやと絡んでいる。

 三人それぞれが違う遊びを提案し、女性を独占しようと企んでいるようだが、それを許す訳にはいかない。皆で出来る遊びを考えましょうと話題を出した瞬間に、今度は三人がそれぞれ皆で遊べると主張し始めた。確かに、おままごと、トランプ、サッカーといった遊びなら人数はあまり関係ない。

「おい――」ため息一つ吐いて、女子高生風の子に顔を向けた。「話振ってくれ」

 右の足だけに体重を掛け、腰に手を当て机の横に立ちながら、何の事と首を傾げる。靴を脱いで机の上で胡坐を掻いたまま、指差す先には自分が持ってきたゴミ袋があった。

 黒色で何が入っているのか外からでは分からない。物は詰まっているらしく、随分と膨らんではいる。

 納得したらしく、軽く唇を舐めた。印象だけでは人は判断できないが、この女子高生風な子に惚れた男は苦労しそうだ。男の子二人とは違う意味のやんちゃな空気があった。

「ねぇ、あのゴミ袋って何ぃ?」

 注目を集めるのに十分な態とらしさがある喋り方。ちょっとでも経験を積めば分かりそうな物だが、三人の注目がゴミ袋に逸れた。

「……土産だ」

 小さな勾配でも凄い勢いで転がる綺麗な球体なのかと言いたくなるくらい、騒がしかった三人の注目がゴミ袋に移った。解放された女性は目配せで二人に感謝して、ゴミ袋に向かった。

「固く締めてるからハサミで切った方がいい」

 二歩ほど歩いてからの忠告に頷いて、自分の机の上にあるペン立ての中からハサミを取って、改めてゴミ袋に向かった。

「おい、何であんな態とらしく言った」

「あれぐらいじゃないと、三人の注目は集められないって」

 扱い慣れた者の言葉でも、あまり信用できないらしい。

「そんなもんか」

「そんなもんさ。馬鹿な男と一緒。ちょっと位大げさな方が受けんの」

「……あんまり大垣さんに心配かけるなよ」

「大丈夫。いざとなったらしょうたんに助けてもらうから」

 低学年の女の子にはそこまで強く言わなかったが、女子高生風な子には男の子二人と同じように苛立った感情を乗せて、「その名前で呼ぶな」とキッパリ言い切る。

 怯えた二人とは違って、彼女が待っていたのが少年のこういう態度だったらしい。怖がるどころか満足げに頷く。

「分かったよ、しょうたん」

「お前――」

 完全にお遊びモードに入った女子高生風な子だったが、ゴミ袋が開いた事でそちらに向かった。

 呼ばれたくない名前で呼ばれ続け、イライラしながらも机から足を降ろした。軽く伸びをして、首をゆっくり二三度傾けてから出口に向かう。

 体を出口に向けた所で、全員分の反応があった。

 ゴミ袋から出てきた物それは、苺を被ったり、体が苺になっている変なクマのぬいぐるみ。男の子二人はぬいぐるみかよと嫌そうな顔をし、女子高生風の子は特別嬉しそうではないが貰っておくようだ。この三人と好対照な反応を示したのが、低学年の女の子。

「しょうたん!」

 思わず足が止まるほど大きな声に振り返ると、両手を広げて走ってきている女の子の姿があった。

「ちょっと、ま――」

「ありがとう」

 大した勢いではないが、女の子が出来る全力の感謝の気持ちが少年の体にぶつかった。はたく事も避ける事も可能だったのだろうが、後ろには背の高い棚がある。確実に少年が受け止めないとそれにぶつかっていた。

 ちゃんと受け止めはしたが、女の子は異変に気付いて顔を上げた。小刻みに息を吐き、小さな呻き声とほんの少し震え。正常とは言えない反応に、慌てて離れて心配そうに見上げる。

「大丈夫?」

 手で大丈夫と反応を返す。小刻みな息使いを大きな深呼吸に変えて頷く。強く目を閉じ、最後に大きく深呼吸してから女の子の頭を撫でた。

「大丈夫、ちょっと、肋骨とかが、な」

 ごめんなさいと何度も謝る女の子に、少年の持つ空気には似ても似つかわしくない優しい感情が滲み出てきた。それは少年に先程、ちょっとだけ額から伝わった物なのかもしれない。

 自分がしてもらったのと同じように、女の子の額と額を合わせて、大丈夫ともう一度言った。おまじないではないが、効果はかなりのもの。女の子も落ち着いて笑顔になった。

 今度こそ帰ろうとした時、すぐ側に気配を感じた。後ろに感じ、確認しようと体を捻った瞬間、脇腹に強い衝撃を受けて思わず体が飛び上がった。

「あ、ホントにアバラ逝ってるんだ」

 あっけらかんとした口調で握り拳をほどく。無理矢理殴らされたように痛そうに手を振る。殴られると分かっていたなら回避の仕方も変わっていたはずだが、確かめる事を先にしてしまった為の想像以上のダメージ。腹を抱えて少年は蹲った。

「あんちん、何で急に殴ったり――」

「いや~、あんな反応されると、本当に痛いかどうか確かめたくなるでしょ。そう言うものじゃない、人間って」

 女の子が女子高生風の子に詰め寄るが、平然としている。

「おい、今ならもしかして――」

「俺達でも勝てる」

 ゴミ袋の中に人形をそっと直すと、合図を黒眼だけ動かして取り合う。女性と女の子が心配そうに少年の背中などを摩っている。絶対に勘付かれないように、且つなるべく逃げやすいように椅子を手に取る。

 抜き足差し足忍び足。物音一つさせないようにつま先立ちをして、大股で一歩踏み出す。女子高生風の子は特に何も言うつもりはないようだが、首を小さな幅で振った。

 蹲っていた少年が声を出す。痛みのある腹部に響かないよう、気遣った大きさで。「もし――」

 顔を上げて、怒りの籠った顔を向ける。男の子二人に。「もしお前らが同じ事やったら、一ヶ月は入院だと思え」

 怨念籠る眼差しに、椅子を離して両手を上げた。オオカミ系統の動物が腹を見せるのと同じように、人間の明確な降参のポーズ。何とか落ち着かせた腹痛を抱え、横目で確認を取りつつ膝立ちになる。

 摩っていた二人には感謝して、堪えられない怒りを溜めながら立ち上がった。二度息を吸い込み、心配そうにしている二人に気を使わせないように、沸騰する気持ちをなるべく抑え込んだ低い声を作った。

「何の、ために、殴った」

「え、聞いてなかったの。ちゃんと聞いててよね。殴りたかったから」

 冷静に、冷静にと表情まで落ち着かせようとしていたのを見透かしたように、馬鹿にした口調で女子高生風の子は笑った。

「感情抑え込むことなんてないのよ。あんたも私も、まだ子供なんだし」

「悪いが、俺はそう言う訳にはいかないんだよ」

 ふっと、吹いていた風がピタリと止まるように、大人がする憂いの表情を少年は顔に覗かせた。意識的にではなく、無意識の中で現れた感情だったのだろう。

 年齢は確実に下なはずの子が、自分よりも遥かに年齢を重ねてきた、経験を積んできたと分かって、不意打ちを喰らった感覚になった。どうやったらこんな年齢で、今のような表情が出来るのか、女子高生風の子にも、女性にも分からない。

 そう思わせたのも束の間、また怒りがこみ上げて来たようだ。傷だらけの顔に、深い皺を作った。

「今日はもう帰る。次来る時にはお前と――」女子高生風の子から、差す対象を変える。「お前ら二人にはプレゼントは持ってこないからな」

 何故かとばっちりを男の子二人が受けた。

 子供を怯えさせるのに十分な、足音を立てるがに股歩きで出口に近づくと、勢いよく扉を開けて、音が鳴らないように閉めてから建物を後にした。


     2


 体は痛いかもしれないが、足取りは軽かった。どうやら感情が先に歩いているらしい。スキップとまでは行かないが、弾む心に釣られて軽い足取りだ。

「何、なんかあったの」

 角を曲がった所で、急に人だかりが出来ていた。

 スーツ姿の人間は殆どいない。少年を入れても十数人だろう。ここの街に来る人間は殆どが買い物、ショッピングやお菓子、スイーツを食べに来たりしている若者だ、雑誌や、テレビ、インターネットで毎日のように最新の何かが紹介されている街。

「何か喧嘩があったんだって」

 普通は若い人なら好んで来るような場所だが、少年にはあまり似合っていない。場違いとさえ感じる。普段の少年ならこういう場合どういった行動を取るのか興味があるが、今日は機嫌がいい。平時とは明らかに違う行動をする。

 周りを見回し、良い物を探している時に日常と違う事にも感づいて最善の方法をとる。


「だから、向こうがぶつかってきたの」

 ピアスを開けているだけでゴチャゴチャ言う人は少なくなった。ただ、卒業アルバムや面接の時には確実に外す方がいいとされている。それでも昔よりも確実に否定だけをされるものではなくなってきているが、若い警察官に悪態をつく若者は少し違った。

 両耳を合わせると二十に近い数のピアス。唇や瞼など、見ているだけでも痛そうな場所に幾つも付いている。

「もしそうだとしても、ただぶつかっただけで殴り掛かるのはちょっと――」

「いやいや刑事さん」

 若い時にグループを作る際、かなりのウエートを占めるのが趣味趣向だろう。歳をとれば近所付き合いや会社の人間関係にされがちだが、学校の中ではない外の世界でのグループは同じ興味のある物で固まる。まあ、歳を取っても若い時の人間関係がそのまま続く事もあるが、あまりそう多くはない。

 今殴ったと注意をされたグループは、七人いる。内三人が随分とやんちゃそうで、もう一人はかなりガタイがいい。この四人だけなら、まあ分からなくもないグループなのだが、残り三人がいる事で、一体何のグループなのか分かりにくくなっている。

「向こうは携帯を見ながらぶつかってきたんですよ」

「確かに、歩行中の携帯は良くないが――」

「これがもし、ウチの大二じゃなくて子供だったらどうします。お年を召された方だったらどうします? 一大事になるかもしれない。だからこっちは泣く泣く、これからはこんな事はしちゃいけませんよと言う気持ちで心を鬼にして、彼を思って殴ったんですよ」

 くぐもった笑い方を、饒舌に喋る男と同じタイプの二人がした。大人しい外見、顔も髪も、服装も、とてもじゃないが歓楽街に来るような人間には見えない。真面目な外見の三人がどうしてこの四人と一緒に居るのか、話を聞かない限り答えは出そうにない。

 殴られた方は、ごく普通の青年だった。その横に居るのは彼女だろう。お似合いのカップル。さわやかで、真面目風な男の言っている事が本当だとしても、果たして前方不注意をする類の人間だろうか疑問が残る。

 カップル二人の横に、中年の小太りと言うには少々太すぎるお腹をした警察官が、腰を降ろして話を聞いていた。青年はチラチラ殴った男がどこに居るのか確認するように目線を飛ばしながら、太り気味の警察官に突然殴られたと小声で答えている。

 本当ならもっとカップルとグループの距離を取って経緯を聞きたいのだろうが、如何せん七人グループを相手にしているのは若い警察官一人。怖いのはガタイの良い男と、ヤンチャそうな三人だけとはいえ、キッパリとした態度でカップルに近づこうとするのを止めてはいるが、距離を取る事は出来ていなかった。

 殴り掛かった男は右へ行ったり左に動いたり、忙しない動き。残りのヤンチャそうな二人は、仲良さそうに真面目タイプの二人とカップルを指差したりしながら笑っている。

 目の動きからすると、この五人にはそこまで注意を払っているようではなかった。厄介なのは、野次馬の注目を集めるように身振り手振りで自分達は悪くないと主張する、多分リーダー格の縁の細いメガネを掛けた男とじっと、じっくりと若い警官だけを注視し続けているガタイの良い男の二人。

「だから、もしそうだとしても――」

「そうだとしてもではないんですよ、巡査さん。僕達は社会的に感謝されるような事をしたんです。多分彼は二度と、二度と携帯電話を見ながら道を歩く事はしないと思いますよ。どうですか。これで将来的に、一人の怪我を救ったかもしれない。彼はこれで、車を運転しながら携帯を弄る事もないでしょう」

「いや、それは――」

「えぇ、確かに道路交通法で禁止されている行為ですが、シートベルトと同じで皆が守っている訳じゃありませんよ。つい、ちょっとした心の隙間でやってしまう人がいるんですよ。非常に残念な事に。でも、彼はしなくなったはずです。携帯を見てしまったがための不慮の事故の可能性を一つ無くしたんです。それがたった一発殴られただけで済んだのなら、決して損では――」

 口を挟ませない、正論に似た暴論を語る男のよく回る舌を止めたのは、たったの一言。「下手な弁護だな」

 アメリカのドラマに出てくる弁護士が陪審員に訴えかけている最中に、急にその一言が割って入ってきたように全員の注目が言葉の先の人物に移った。

 小柄ながらもスーツを着ている。下ろし立てなのか、綺麗な折り目が付いている。皺も脇や膝や、よく動かす所にしか入っていない。そこらに居る子供なら確実に衣装負けするだろうが、小柄な割に筋肉質なのがはっきり分かる為か、似合っていない事もない。

 何十人といる人達は、その少年を見て固まった。理由は先に上げた物ではないが。

「日本じゃ、まだそこまで演技する必要はない。将来は弁護士にでもなるつもりなのかしらないが、なりたいならこんな所で馬鹿と遊んでいるより勉強をした方がいい」

 ガサガサと音を立てながら近づく。人が歩く時にするとしたら買い物をした時にもらった袋が鳴る時ぐらいだろうが、正にその袋が鳴っている。

「へぇ、結構物を知っているようだね、坊や」

 子供が遊んでいると思うのも当然かもしれない。今時の子供がこんな事をして遊ぶのか定かではないが。

 癖の強いポニーテールは出ている。目と口も一本線で見えている。それ以外の顔の部分は、ナイロン製の白い袋に隠れて見えなくなっていた。つまりは頭から袋を被っていると言う事。

「知っていて当然だ」

 忙しなく動いていた男に、カサカサ音を立てて近づく。ピアスだらけの殴った男も、袋の切れ目から出ている部分が自分に向いていると知って足を止めた。淡々と近づき、丁度男の手の伸びきる場所で足を止めた。蹴りなら届く範囲。

「何だガキ」

 警察官と話している時よりも二つほど音の高さを落とした。威嚇や警告の時の高さ。顔自体はどちらかと言えば可愛いに分類されそうなピアス男の凄みに、口の端に笑みを浮かべた。袋を通してでも分かるくらいししっかりと。

「喉は乾いてないが、何か飲み物でも買おうと思って財布を見たんだが、全然入ってなくてね。だから貰えるか、金」

 冗談のつもりでもないだろうが、ピアス男は苛立ちを必死で抑えているようだ。

「何勘違いしてるが知らないがな、ボコるぞ糞ガキ」

 血管が浮き出る。夏の残りが色濃く残る半袖から覗く腕にも、言葉を切る度に動くコメカミ部分にも同じように。

 太り気味の警官は二人から離れる訳にはいかない。後ろを気にしながらも、若い方の警官に目線を送る。どうするべきか待っていた若い警官は、受け取った直後には動き出していた。右に向いて行く体。

「ちょっと待ってください、刑事さん」

 殴り掛かった瞬間に割って入れる距離にまで近づきたかったはずの若い警官の腕を、目の前で喋っているリーダー格の男が掴んだ。

「どういうつもりだ」

 適応するには横暴過ぎるが、公務執行妨害がチラつく。二人ともそれを分かりながら、少年とピアスのやり取りに気を配る。

「大丈夫です。大丈夫」

「今すぐ手を離せ」

 袋の奥に隠れて見抜けない考えが、一呼吸の瞬間だけ警察官とリーダー格に向けられ、またピアスに戻る。

「おい大二、分かって――」

「あんたも大変だな、お仲間は馬鹿ばかりで」

 一人だけに向けていた挑発が全員に向けられる。インテリ風な三人は平然と受け流す。右から左にそのまま言葉が出ていくが、真正面から受け止めてしまいがちな他四人。

 若い警官がもう一度離せと警告を送るが、リーダー格の男も譲れない。

「心配いりませんよ。おい、分かってるな」

 言葉が遠く、中々入り込めない。ピアスは言葉を発しなくなっている。他三人も徐々に少年に距離を詰めていく。流石に不味く、太り気味の警官も後ろの様子に注視しなければならなくなってきている。

 周りで見ている人間もとばっちりを受けたくないのか、誰も喋らず、離れる事さえ躊躇わせる。嫌な緊張感がそこかしこにピンと、風に舞って浮き上がった葉っぱ一つで切れるくらい余裕を持たさず張り巡らされていく。

 中心に居るのは少年だ。一番多く、緊張の線を纏めている袋頭は、ゆっくり筋を伸ばすように左右に揺れている。周りの人間は、当事者以外ならこの光景に思わず笑ってしまう程、やる気が感じられなかった。

 現に、緊迫していくのは馬鹿らしいよと言わんばかりの、締まりのない空気を少年は発していた。お腹を軽く摩り、愚痴をこぼすように呟く。

「あー、腹痛ぇな、糞」

 完全に前のピアスを忘れたような態度。最初の喧嘩腰はどこに行ったのか、一人締まりのない態度を取る。

「おい」

 堪らず、ピアスから声を掛けた。それが挑発だとも知らずに。

「あれ、まだいたのか。さっさと金置いて帰ってくれないか。男七人、楽しめばいい。金があったって使い道もないだろ。女一人いないようだからな」

 しまった。リーダー格の男が、読み切って出された挑発に気付いた時にはピアスの足が地面を離れていた。バランスも考えない無茶苦茶な蹴り。それでも十分に当たる距離、タイミング。

 次の動きは考えていなかっただろう蹴りが捉えたのは、袋のカサカサと言う音が精一杯だった。とてもではないが一般人なら反応できないタイミングだったはずなのに、余裕で欠伸でもくしゃみでも可能なくらいに軽々と回避された。当たると思い込んでいたピアスは、蹴りの力に引っ張られ、よろけて扱けてしまった。

 若い警察官は腕を振りほどき、リーダ格の男は大きな声で犬でも叱るように名前を怒鳴り付ける。このどれよりも先に、地面から立ち上がるピアスの耳に届いたのは、簡単な、ちょっと考えれば見抜ける挑発。

「十分当たる距離に居たんだが、想像以上に足が短かったんだな。せっかく蹴られた振りをしてやろうと思ったのに、軽く動いたら当たってもいなかった」

 体を動かす目的が、立ち上がるからタックルに変更される。低い位置から汚い言葉を吐き連ねながら。

「って、当たる訳ねぇだろ」

 無茶苦茶な姿勢からの体当りに、少年は自ら突っ込んだ。その速さ、ピアスのタックルの比ではなく、一気に体の横に張り付き、タックルよりも低く屈み込んで、防御しようとしていたピアスの腕よりも先に、深々と鳩尾を突き上げた。

 ここでようやく、おかしい事に気付いたリーダー格の男。振り抜き、立ち上がる少年の袋から覗く、ゴミを見下す眼差し。強い、滅多に聞く事はないだろう他人の骨が砕ける衝撃音。

 せめて普通の人間なら、向ける眼差しはピアスだろう。だがこの袋少年は違った。立ち上がり、向けられた本人にしか分からない瞬間的な眼差しは、リーダー格の男に向けられていた。

 止めに走り向かう若い警官の手が届く前に、振り上げられていた拳が九十度倒れ、水平になった右腕に左手が拳に添えられたひじ打ちがピアスの後頭部を貫く。

 こんな動き、単なる少年に出来るのか。

 若い警察官の手がやっと届く距離にまで近づいた。ちゃんと動きの先を計算しつつ肘を伸ばしきらずに、動くその瞬間を捕まえようとしていた。

 捕まえられる。そう思った腕の先、指の隙間に居たはずの少年がいつの間にか、若い警官はこの時消えたと思った速さで体の横を駆け抜けられていた。

 それはある程度の距離に居た二人も感じた事だった。まるで一コマ一コマ繋がりを描けていないぱらぱら漫画のように、瞬きをしている間に詰め寄られていた。二人同時して殴り掛かるがピアスと同じように、捉えられたのは動きの時に出る袋のカサカサと言う音だけ。顎にコメカミ、喉に肝臓をそれぞれ撃ち抜かれ、一瞬にして先頭不能に。

 その二人諸共殴る勢いで拳を振り下ろしていたガタイの良い男だったが、そんな大振りが捉えられるはずもない。瞬く間に入り込まれた懐で繰り出された一撃は、まさに死の一撃。少年が踏ん張り、蹴り上げる男の急所。他の三人に比べ、気を失う事の出来ない股間への攻撃に、涎を垂れ流し、唇を震わせながら地面に倒れ込んだ。

「はぁ、腹痛ぇ」

 ほぼ同時に倒れる三つの音も何事もなかったように、そう呟いて腹を摩った。

 早技と呼ぶに相応しい動き。跳ねっ気の強いポニーテールは三度だけ揺れて、もう動きを止めている。人垣が吹き抜けるはずの風を遮っているので、髪は少年の動きの後を追う。

 揺れる髪尻尾。顔が向いたのはリーダー格の男。警察官を前にして、あれだけ言葉巧みに丸め込んでいた影はすっかり隠れ、標的にされないように影を薄めていたが無駄だった。

 焦る必要はない。格が違い過ぎるこの少年に、居合わせた者全てが、生きるのに必要な心臓と呼吸以外の動きを停止させている。

 相変わらずカサカサと間抜けな音を立てながら近づく。嫌でも距離が詰まってくるのが分かり、視線を落としていたリーダー格の男の視界にも足が入り込んでくる。

 次いで影が落ちて下がってくる袋の音。完全に視界の中に入り込み、視線を交わす。先程までの見下すような眼差しはなく、穏やかと表現するのが当然と感じる瞳があった。

「あのさ、さっきも言ったんだが、何か飲み物を買おうと思って財布見たら金がなかったんだ。別に喉は乾いてないが。でさ、金、貰えるかな?」

 逆らう道を探させる気は毛頭ないようだ。がっちりと視線を掴んで離さない。リーダー格の男がここでするべきなのは、抵抗しない判断。すぐにポケットに入れている財布を取り出す。

「で、一人だけ?」

 自分達に向けての言葉だと気付かなければ鈍感過ぎるが、真面目風な二人は気付いて財布を抜いて近づく。

 少年は三人から財布を受け取る。

「でもさ、三人分って言うのはおかしくないか。そっちは七人な訳なんだが」

 今度は倒れてる四人から財布を取ってこいという指令。無い尻尾を振る為には、懸命に愛想を振るしかない。三人は倒れている四人に駆け寄る。

「君、どういうつもりだ」

 暫く茫然と、信じられないような動きに呆気を取られていた若い警察官だったが、行き過ぎた行為に我が返ってきた。

 後ろを向いているのが、ポニーテールの場所で分かる。全く揺れない馬の尻尾の背中を捕まえようと肩に手を伸ばす。当然気付かれてはいただろうが、掌が掴む形に変わっていくその中で捕まえられたのが少年の影だけだった。伸びていた腕を舐めるように髪が撫でて後ろに回り込む。

「どうも」

 抜き取られた四つの財布を受け取る。後ろで行われている行為を止めようと振り向くが、少年は既に真面目風な三人の後ろに回り込んでいた。

 何をされるのか。目の前で起こった、少年とは思えない身のこなしに、背筋をぴんと伸ばして気を付けをする。

「もう帰ってもいい。ただし、次こんな悪戯したら取るのは財布だけじゃないぞ」

 これには太り気味の警察官も参戦するしかない。後ろからこっそり、こちらは気付かれないように近づく。

 この袋頭が動きだけが敏感ならいいが、どう考えても周りを捉える感覚も鋭い。真面目風な三人が頭を下げて帰ろうとしている。この時になら確かめても問題はないはずだと、若い警察官が太り気味の警察官の位置、行動の速さを頭の中で再生する。

 瞬きをしているなら別だが、彼はしていない。している隙に逃げられそうだ。乾ききる前に黒い瞳を横に移動させ、視界の端で太い影を捉える。黒眼はやわらかい肉の壁に当たると、一時でも停止する事なくすぐに袋少年に戻ってきた。

 限界一杯だろうが、どう考えてもあと三十秒は時間が掛かる。

「待ちなさい。君たちは返す訳にはいか――」

「あぁ、確かに」

 まだ掛かる。後二十秒。三人はすぐにでも離れたかったのに、警察官の声ではなく少年の声で足を止める。

「ゴミは持って帰らないとな」

 体が傾く。まだ飛び込んでも影さえ踏めない。どうやら体を動かしたのではなく腕を動かしただけだったようだ。ゴミと言いながら、呻いて倒れている男四人を指差していく。後十秒。

「持って帰らないとな、ゴミは」

 二度も強調して言う少年の頭は、家に持って帰ればゴミを入れられそうな袋なのに、隙間から威圧してくる目は、自分たちをゴミだといっている。若い警官もその視線に一緒に唾をのみ込んでいる。後五秒。

 さっさとしろ。別に少年の口から出た言葉ではないが、真面目風な三人は同時に倒れている仲間の下に近づいて、それぞれが引っ張って行こうとしているようだ。三人が一人ずつなら行けるだろうが、ガタイの良い男はどうするつもりだろう。

「でさ――」後三秒。腕を伸ばそうと上げる。「気付いてないとでも?」

 まったく太り気味の警察官の方を確かめずにワンステップ。自分の方に向かってきた体を捕まえようと両手で抱え込む形を作るが、腕で輪を作った時にはお腹に張り付き、後ろに駆け抜けられていた後。

 馬鹿にされてばかりではいけない。意外にも最近では、こう言った体型の人でも素早く動ける人はかなりいる。当然、警察官は完全なる体資本の仕事で、しかも交番勤務だろう彼が動けないはずがない。袋の音が残る場所を目で追うように、見失わないように顔を動かし、後に体も続けと向ける。

 どうやら少年は殴られた被害者の方に向かっているようだ。何をしでかすのか。自分のやるべき行動が軽率だったかもしれない事を悔やみながら、足を踏み出した。

 おかしいな。この時初めてそう感じた。出来ればもっと早く気付くべきだった。何かに躓いて、躓くという感覚よりも足を捕まえられた感覚が残りつつ、体が前に倒れていく。

 足で踏ん張る事は出来ない。だったら手しかない。勢いよく倒れていく大きな肉の、自分が付けた余分な塊を受け止めるべく、両腕を伸ばす。ここでぴんと張ると、衝撃で折れてしまうかもしれない。肘を軽く曲げ、間接に余裕を持たせる。約百十キロの肉の塊を受け止めた道路と、自分自身の掌から大きな音が鳴った。

 こんな事で怪我をするのは馬鹿らしかったが、どうやら明日からも仕事に来れる。

「先輩ーー」

 後輩の若い警官が向かってくる。だがどうしてそんなに必死な顔で向かってくるのか。「ズボン!」

 立ち上がろうとして初めて、足を掴んでいる者の正体が分かった。普段なら大きなお腹に挟まれて必要もないと思っていたはずのベルトを抜かれて、いるべき場所に居られなくなったズボンがバランスを崩させた。

 切れた音はしなかった。流石にベルトが壊れたなら気付く。周りにも落ちてはなく、ズボンにも着いていない。座ったまま下着が見えないように引き上げる。だったらベルトはどこに行った。

 答えがあるとしたら一つ。

「必要ないな」

 何やら女性向けの洋服関係らしき店に向かってベルトを投げ捨てた。勿論少年が。

 投げ捨てられた木の棒を追い掛けるように立ち上がろうとした太り気味の警察官だったが、駄目だとすぐに思い止まる。若い警官も機転が利くのか、いや表情から察するにただ一生懸命なのだろう。手から離れた時点で駆け出していた。

「は、ふざけんなよ」

 小声ながらもはっきりとした口調で発する苛立ち。カップルを前にして、何をそんなに怒っているのか。既に六つの財布の中身を取り出し、最後の一つ地面に叩きつけていた。

 不満があったのは何も彼と彼女にではない。七つあった財布の合計に相当不満があるようだ。

 札が十八枚。樋口一葉が一枚、福沢諭吉が二枚、残りは描かれている偉人には申し訳ないが、一番価値の低い野口英世が残りの十五枚、後は小銭が九百二十三円。計四万飛んで九百二十三円しかなかったからだ。

 若い警官が近づくと人混みは割れて、すぐにベルトを掴む事が出来た。手に取るとすぐに戻る。

「糞、七人で、お前、七人で四万って。あいつら何なんだ、中学生か、ったく」

 後ろの状況は音だけで判断している。どうやらもう、ベルトを通してズボンを履き終えたようだ。

 溜め息を呆れと諦め分の二度吐くと、カップル二人の前にしゃがんだ。普通ならありがとうございますの一つでも言うところだろうが、如何せん相手は得体のしれない袋少年。

 身構えるなと言うのは理不尽だ。嫌な気持ちになりそうなほど身構える二人に、平然とした口調で万札を差し出す。

 平然と、とは言いながらも実の所、相当悔しそうに唇を噛んでいいたりもする。

「ほら、今日の所は何か、そうだな。デカイ七匹のカラスに絡まれたとでも思って、変な夢だとでも思って忘れる事だ。その程度の傷で二万ももらえたなんて、かなりの笑い話になるだろ」

 少年の意外な行動に、カップルはどうするべきか迷い、行動できない。軽く息を吐く。仕方ないことに、一々腹を立てていたらきりがない。

 カップルにぐいと近づき、男の手に一万、女の手にも一万、それぞれ握らせた。あまり屈んでいると、流石に捕まえられる可能性がある。

 取り敢えずは捕まえる事。警察官二人は短い距離ながらも、左右にも反応できるような速さで近づく。

 立ち上がり、手を払う。纏わり付く虫でも払うような軽さで。

「帰りな。このまま警官二人に捕まえられると、今日一日つぶれるぞ。休みの日は楽しまないとな」

 声に明るさが混ざった。不慣れな笑い。苦手分野に手を出してまで、二人を納得させようとした。それが透けて見えて、カップルは頷いた。

「ちょっと、君達!」

 太り気味の警官が手を伸ばすが、若い警官よりも後ろに居る為に届くはずがない。だったら若い警官が手を伸ばすべきだが、彼の眼には少年しか映っていなかった。

 振り返る袋頭。笑う顔は余裕の証。今度こそはと意気込み気負う若い警官を引き付けるには十分な餌だった。お陰で微塵もカップルを気にしていない。

 これで大丈夫。どこまで進んだか確認はしていないが、先程ベルトを投げた店に向かって走り出す。

 向かってこられる方にしてみれば迷惑な話だ。まぁ、野次馬などしているから巻き込まれても仕方ないのだろうが。

 その中の一人の男を見据えて、真っ直ぐに走って向かう。顔を両手で掴まれ、動かせないような視線の強さに、男は固まってしまった。

 絶対にこの速さで行けばぶつかってしまう。三段跳びの選手が試合でする大きな一歩と同じ、少年の体の方が断然小さいのでとても大きく見える歩幅で僅か二歩で目の前にまで来た。

「野次馬って言うのは、結構危険なんだ。今度からは止めた方がいい」

 競技ならここで飛んでいる所だが、少年はピタリと止まった。強力な粘着物に靴が掴まったと思うくらい、ピタッと止まってそう言った。

 そこに警官が跳び掛からん勢いで突っ込んでくる。

「例えばそう、警官が飛んでくるような事があるかもしれない」

 先程までと同じように消えた少年。どうやっても捕まえられる気配はない。身体能力も、おそらく鍛え方もまるで違うのが窺えてしまう。

 それでもあきらめない。彼は警察官だから。目的は随分と変わっているような気はするが。

 すぐに切り返しだ。そこで初めて気が付いた。周りへの気配りを完全に忘れてしまっていた事に。他が見えなくなってしまっていた。今までと同じように消えた少年の先に男がいる事を今知った。

 どうやっても、若い巡査では少年のように止まれはしない。ただこのまま突っ込む訳にもいかない。ならどうするか、だからどうしたか。

 態と膝を曲げて、体を横向けにする。人と人の隙間に無理やりにでも体をねじ込む格好をどうにか作り出した。左足を残し、右半身が引っ張られるように地面に近づく。手は付くべきだ。下手をすると頭を打ち付けてしまう。右足はお尻の下辺りにでも持って行くしかない。なるべく体重を掛けたくはないが、一般人を転ばせる訳にもいかない。

 まずは右ひざが地面にぶつかる。痛がっている暇はない。地面に着くなり滑り出し、続いて右手を伸ばそうとするが、このまま伸ばして良いのだろうか。庇うのは頭なのだから、頭部を守るように動かした方が賢明ではないか。

 まだ間に合う。どうあっても人間の手では捕まえられない吹き抜ける実態のない風と錯覚しそうになる少年とは違い、これは自分の体だ。だから、今からでも間に合う。

 若い巡査の断言にも似た決意通り、右腕は頭が地面に打ち付けるのを守る事が出来た。ただし、滑るのは止められず、服やらしき店の階段までヘッドスライディングはしてしまった。

「意外と良い反応だな」

 若い巡査の行動に、足を止めて感心している。余裕はあるのだろうが、巡査は一人ではない。この機を逃す手はないと、バタバタと走りそうな所を堪えて、その中でも全速力で背後に忍び寄る。

 人だかりのこの中で、一人の人間の気配なんてものを感じられる者は少ない。ただし彼は、少年は違った。

 指を一本、空に向ける。ビルとビルの間に浮かぶ窮屈な青空の中、子供の目にはタイ焼きに見えそうな雲が泳いでいる。何もその雲をさした訳ではない。日本語の名前の由来通りに使うために立てた指、人差し指。

 仔を描くように動いて、太り気味の巡査を突き刺す。

「もう一度ベルトを抜き取ろうか?」

 晒してしまった醜態を蘇らされて、太り気味の巡査は慌てて足を止めベルトを両手で掴む。

 動いている物と止まっている物とを比べ、どちらの方が掴んだり引っ張ったり、抜いたり盗んだりするのが楽かと言うと、圧倒的に後者だ。

 人が取る咄嗟の判断がいかにいい加減かを示す行動。しまったと思った時にはもう遅い。何時の間に、僅か足を止めベルトを掴み、嵌ってしまったと気付くまでの間に、小さな袋が目の前まで来ていた。

 またベルトを取られる。身を屈めた太り気味の警官の丸々と肉の着いた背中に、走った勢いのまま手を触れた。

 浮き上がる体は軽々と舞い上がり、体操競技の跳び箱で披露する演技、二回転に二捻りを加えた空中動作を取り、綺麗に、前につんのめる事もなく減点対象になる動作のない完璧な着地を決めて両手を掲げた。その手には触った場面がなかったはずのベルトが握られていた。

「さぁ皆さん」

 掲げた手を下げてお辞儀をする。道化師がショーを始める時と終わる時に取る動作。今回、袋を被った道化は終わりの言葉を続けた。

「楽しい楽しい無料の公演は終わりました。これからは有料になりますが、続けて見る人はいますか?」

 誰も反応しない。と言うよりもどう反応していいのか分からないようだ。想像通りだったのか、感情を表に出さずお辞儀のポーズを解く。

「どうやらまだ見たい人が殆どの様ですね。だったらそうですね、一分二十万でどうでしょう」

 ざわつく人垣。袋の道化は右足を軸にクルリと回転して、立て続けに言葉を放つ。

「今ので顔は覚えました。それでは始めますよ。よろしいんですね。もし支払わないとういうのなら家に乗りこんで、指でも耳でも臓器でも、無理矢理引きちぎってでも払わせるのでよろしく」

 口調は冗談にも聞こえるが、行動と何よりこの少年が放つ空気が冗談とは言っていない。確実に言葉に出した事は実行する。感じ取った野次馬は、我先にと人垣を崩して逃げ始めた。

 一定の方向に力が作用し始めると、その中を逆行するのは一苦労だが、若い巡査はその流れが起こる前に袋の少年に向かって走り出す事が出来ていた。

 視線は少年にしかなかったが、途中で太り気味の巡査に掴まってしまった。前にしかなかった意識が慌てて態勢を整えようとする方に働くが手を突いてこけてしまった。

「また先輩取られたんですか」

「今回はちゃんと抑えてた」

「あー、ちょっといい――」

「少し待ってください。ちゃんと抑えてたって――」

 この若い巡査は、一つの事になるとそれにしか頭が回らなくなるようだ。手を上げて待ってくださいと言って喋ってる間に、どこからともなく違和感がやってきた。得体のしれない違和感でもないが、気付くまでにそれだけ掛かっていた。

「って君、そのベルトを返しなさい!」

「返したらこのまま帰っていいかな」

 とんでもない主張。うんと頷ける訳がない。

「無理に決まっているじゃないか。さっきの不良グループは返すは、殴られたカップルも返すは、それに先輩のベルトも取るは、どんな事をしたか――」

 至極真っ当な主張も、この袋頭では理解する気はないようだ。話の途中で割って入った。

「じゃあ、交番で話を付けよう。そっちの方が速いから」

 何かとんでもない事を言い出すのかと思っていた巡査たちだったが、意外にも自ら交番に出向くという主張に互いの顔を見た。


     3


「で、どうだったんですか?」

 言い淀む。チラチラと向ける視線の先にはポニーテールの少年。髪の癖具合から、袋を被っていたのはこの子だ。

「それがな、どうやら本当らしい」

 顔を近づけ、頬を付けて少年に背を向ける。

「しかも、言ってた通り、篠田警視直属の協力者、らしい」

「あんな子供がですか? 確か篠田警視って、特異能力、対策部の、あのえ、っと、特殊、事案課の課長ですよね」

「あぁ。怪物や化け物と戦ってるっていう、噂の特事課だ」

「だったらあんな子供が――」

「さっき俺達がどうなった? 不良達は?」

 数分前の出来事、反論の道はない。あの動き、普通の人間じゃ出来やしない。この少年も、多分化け物や何かなのかもしれない。それぞれに思い浮かべる想像上の化け物像は違えど、今、後ろの椅子に腰かけている少年はそこらにいる少年と見た目は大して変わらない。ただし、明確に別の存在だ。

「で、話はついたかな」

 同級生にモテるよりも母親達に人気が出そうな感じの顔に、早くしてくれないかと文句を浮かべる。

 確かに、会話の流れでは話が付いたようだ。ただし、どう対処するべきかは逆に迷い出す結果になったが。

「確認は取れましたが、あなたのやった事は許されません。このまま帰す訳にはいきません」

 意思の強い眼差しで少年を抑え込もうとしたようだが、眉を軽く上げて首を傾げた。文句は言わない。そうしただけで太り気味の巡査に話す権利を渡す。

 受け取った太り気味の巡査が、若い巡査の肩を叩いた。

「あのな、後藤」

「なんです」

 彼の、この若い巡査の性格はおそらく、ほぼ間違いなく熱血漢。刑事物のドラマの熱血漢にはいくつか種類があるが、彼はどれに当たるだろうか。

 不正や圧力などといった言葉を嫌うタイプだろうか。だからこそ、それを知っていて太り気味の巡査は中々に話し辛そうだ。

「それがな、あー、篠田警視がな、直接迎えを寄越すから、引き渡してほしいって、な」

 さぁどう反応する。怒鳴るか、怪訝な顔で冷静に対処するか、呆れて首を振るか、諦めて頷くか。

 言葉を脳の中に落とし込む。じっくりと太り気味の巡査が話した意味を砕いて飲み込む。ゴクリと聞こえた音は、唾を飲み込んだだけではないはずだ。

「それは、命令ですか」

 冷静な対応だが、それが追い込むこともある。突っかかってこられた方が良かった。重たい唇の動きがまた悪くなった。

「お願い、だそうだ。俺も、聞き返したがな。取り敢えず、お願いだそうだ」

 最後の言葉は吐き出す溜め息に混ぜて、何とか人の言葉の形を保った。途中で崩れてはいるが、意味まで崩れてはいない。

 二人は黙ってしまった。透明なはずの空気が灰色に変わっていく。重たさだけが増して、鉛が重なっていく。もし今、道を尋ねる為に交番に入ってくる人がいたら、二度と道案内は頼まなくなるだろう。携帯で見ても十分な時代だ。

 盛り上げるまで行かなくても、普通の重たさを感じない空気に戻そうと太り気味の巡査は笑顔を作る。大根役者でも自然には出来ず、どれだけ名優でも演技で作れない引き攣った笑顔で。

「まあ、お前がそう言った類の事が嫌いなのは知ってる。けどな、今回の事は特別だ、特別」

 慰め口調で肩を揉む。納得させるには弱い言葉ではあるが、頑張っているのは伝わってくる。せめてこの場だけでも納得させたいのだろう。それだけ篠田という警視は特別なのかもしれない。

 あと少しで首を縦に振りそうになっていた、かもしれない所で口を挟んでくる。しかも最悪な形で。

「若い巡査さん。あんたまさか、警察官が正義の味方だとか思ってるのか?」

 目の前で積み上げていたトランプタワーが崩れる。止めようにも止められない。ドミノならまだ止め方があるが、トランプタワーの場合は一旦崩れると、全て崩れるまで待つしか手がない。

 机を挟んで若い巡査が腰を降ろした。休憩用なのか、湯のみが乗っている。

「あぁ、思っている。何か悪いか」

「いや、悪くはない。ただ、穢れのない綺麗な仕事だとは思わない方がいいと――」

「知ってる、それぐらいの事は。俺は、俺は……」

 口の中で無数に手を持つ言葉のパズルが、上手く結合できないでいる。一度目を伏せ、また見直して違う方に目を伏せる。

 選んでいる様子はない。どう言えばいいのか迷っている最中だろう。

「見てきたし、俺の憧れの人も、決して綺麗な手はしてない。ごつごつしてて不格好だし、落ちない汚れも付いてるのも知ってる」

 また少し迷う。スラスラは当然無理で、口下手気味の若い巡査だが、気持ちは真っ直ぐ伸びている。

「でもそれは、守る為に、自分を汚してでも守る為に汚れているだけだってことも、知ってる。だからこそ、そうだからこそ、警察官は正義の味方だって、俺は胸を張って言える」

 定規で引いた線じゃない。自分で真っ直ぐを意識して引いた線を、この若い巡査は持っていた。

 これからは人それぞれが持つ主観同士の争いになる。力の籠った眼差しから押された分、軽く黒眼を動かした。

「なら忠告の必要はないか」

 あしらうような態度に、逃げるなと上半身を突き出そうとした。お尻も椅子を離れたが直後、湯のみが前屈みになった顔の前に差し出された。

「立つんなら茶、入れてもらえるかな」

 先に先に、進む度に振り返り、笑いながら距離を保ち続けられる。しかもこちらが真剣になればなるほど、馬鹿にしてくる。息を大きく吐く。怒っても、苛立っても仕方ないとは分かりつつも、立ち上がって湯呑を取る時の手の動きに、感情が籠っていた。

 若い巡査が奥に消えたのと入れ違いで、太り気味の巡査が少年に近づく。

「あの、あまり刺激しないでください。彼は――」

「面白いからつい、突きたくなるんだ。珍しい反応なんで、ついね。父親が警察官って奴かな」

 頷くには頷いたが、続きがある。

「親だけじゃなくて、祖父も警官なんですよ」

「親子三代か。ま、ああなるわな」

「それが、話を聞く限り憧れだけじゃないみたいなんですがね。何せ彼の父親は――」

 湯気を立たせた湯呑を持って若い巡査が戻ってきた。話の途中だったが、小声でお願いをした。「刺激は無しで」

 離れる太り気味の巡査の変わりに近づいてきて、机の上に乗せている腕の前にお茶を置いた。

「何を話してたんですか」

 向きは少年のままだが、質問は後ろに向けられた。上手い返しは幾らでもありそうだが、太り気味の巡査が答える前に少年が口を開く。蓋をするように、湯呑の上に指を被せる。

「迎えが着たら帰っていいですよって話」

「な、先輩」

 態とブービーな答えを選んだようだ。最悪でなかったからまだマシではあるが。疑似餌だとも知らないで完全に食いついて振り返る。

 こうなると中々難しい選択肢しかない。下手な選択をすれば、後々が面倒になる。本来ならじっくりと考えたい所だが、そうもいかない。咄嗟の判断力が試される。「あ――」

「当然だろ。俺は何も悪い事はしてない」

「してない事はない!」

 見せ場ではあったが、あっさりと魚の食い付いた竿を奪われてほっとしたような、残念なような気持になった太り気味の巡査。

「君は一般人に手を出したじゃないか」

「一般人? あれが一般人に見えるのか?」

「あぁ。彼らは間違いなく――」

「薬か暴行か、それとも窃盗か暴力団関係か何かで繋がってるだろうな」

「それは君が見た目だけで判断してるだけだ」

 確かに間違ってはいない。ただこの主張を続けるなら、先程の言葉に不純物が足され、薄くなっていく。

「見た目だけ。見た目だけの割には通行人を殴ってたようだが」

「それは、双方から話を聞いて――」

「聞いたところでどうなる。数は二対七だ。それともあの野次馬の中で最初から見ていた目撃者を捜すか。その割には応援を呼んでいた気配はなかったな。現に来なかった。数が多いのにかなりの怠慢じゃないか」

 痛い所を知っている。突くのも上手い。

 実際は、応援は呼んだ。呼んだが、無線からはこう返ってきた。その辺りで騒動を起こさないようにしろ、何かあっても無視をしろという物だった。

 言いたくても決して言えない。この少年がこの事実を知れば、とことん叩いてくるに決まっている。

 隠しごとをしても、嘘をついたとしても若い巡査はすぐにバレてしまいそうだ。芝居が出来ない、よく言えば正直者。

「甘いんだよ、日本の警察は」

 突き所を敢えて外してきた。

「甘いって、どこがですか」

「どこがって、犯罪者を捕まえる時のやり方が。今さっきみたいなバカどもは殴って黙らせればいいんだよ。体で、痛みで躾けないとダメだ」

「そんな事許されるはずが――」

「許さないのは人権団体を名乗る下らない宗教団体と、自分のガキさえ躾けられない糞親と、金の亡者の成金弁護士と、世間の声を気にして真実なんて伝えないゴミマスコミくらいだ。誰が暴走族を車で撥ねて非難する」

「非難するに決まってるだろ! 僕だってする、そんなやり方」

「だったら走ってる最中の暴走族を止める上手い手があるのか?」

 現状ではない。怪我をさせる方法は出来ないのだから。当然反論する術がない。

 子供なら、少年くらいの体付きに見合った精神をしてるなら、ここで勝ち誇る。その方が断然楽だが、さらなる追い打ち。

「答えはない。それならこういう可能性が出てくるな。暴走族の記念撮影をケツに張り付いて撮ってる時、耳の不自由なお年寄りが青信号になったからと横断歩道を渡っていたらパトカーが追い掛けていた暴走族のバイクに撥ねられるなんて事が」

「そんなの起こった事は――」

「起こらないと断言出来るか? それにもしかしたら、すでに起こっているかもしれない。公表がなくて隠してるだけかもしれない」

 止める気は毛頭なく、止められる手段は持ち合わせていない。

「さっき言ってたな。警察官は綺麗事だけじゃないって、汚れてでも守るって。だったら汚れてみろよ。綺麗事だけじゃなくて、言葉だけじゃなくて」

「あぁ、分かった。やってやるよ」

 勢いというのは怖い物だが、大抵はその場だけで済ませても構わない。扉を一枚くぐれば忘れるのも結構だが、この若い巡査ならそうはいかないだろう。

「おかしいと思った事、明らかに間違っている事があれば、手を出せるか?」

 間違ってもそう言うタイプではない。近所のおばさん達に聞けば、挨拶の出来るしっかりした好青年と評価してもらえる。だが、一度熱くなったらどうにもいかない。

「必要があれば殴るさ。汚れても構わない」

「おい後藤、お前――」

 確実に実行しそうな真剣さ。流石に太り気味の巡査は止めに入ろうとしたが、タイミング悪く客が来てしまった。

「随分と険悪だな」

 険悪の持つ意味とは違い、のんびりした口調をした男。黒の色が強い灰色のスーツを着ている。

「どうも」

 ぎこちない動きで胸に手を滑らせ、手帳を出した。

「特事課の佐藤です。この子引き取りに来ました」

 タイミングは悪い訳ではなかった。いいと言った方がよさそうだ。火の点いた若い巡査は燃え上がる意思の強さを、目を逸らさない事で伝えていた。側によれば紙程度なら燃えて灰になる。

 煽りに乗っかってしまったからには引けない。絶対に目を逸らさないと瞬きすらしない大きな眼に映ってきたのは、瞬きをした次の瞬間には出口に向く眼だった。

「ま、精々頑張ってくれ」

 温度差がありすぎて、一瞬事態が飲み込めなかった。自分と話し合っていたのはこの子なはずなのに。そして気付く。時間潰しに使われたと。

 感情の変化が激しければ、冷静ではいれなくなる。終わった後に気付いても遅いのだが、どうしても感情任せになってしまうのは人間臭いから。

「茶、上手かったよ」

 一口も着けてないお茶が、湯呑の中で揺れる。零れるほど大きく。

「俺は本気だからな。絶対に守るからな」

 交番の前で軽く伸びをして、少年は歩き出した。「期待してる」

 言葉と裏腹な表情。歳は最低でも十、それくらい離れている。それなのに子供なのは自分だ。やりきれない思いを、湯気の立つお茶で一気に飲み干した。火傷と共に。


 日が落ちていく。柿色に染まっていく空。丁度サラリーマンが帰り始める時間帯だが、並んで歩く二人を同僚だとは誰も思うはずがない。一般的に使われるのとは少し形の違う同僚ではあるが、それでも同じだ。

「で、何する気だ」

 顔は見ないで話す。小さな歩幅なので、並んで歩くには一歩半必要だ。親子なら気遣うところだが、この場合はどうやら回転の速い小さな歩幅が遅い相手に足取りを合わせているようだ。

「何の事だ」

 人は増えれば増えるほど周りを気にしなくなる。誰もこの二人を気にする者などいない。

「あんたは動く方だ。電話してから来たならあまりにも速すぎるだろ」

 たまに少年の顔を見る女性や女の子がいるが、本当にたまにだ。

「走ってきた」

 動物は激しく体を動かすと、息が切れたり心拍数が上がったり、汗を掻いたりする。見え透いた嘘は、真実を隠すために吐く場合はほとんどない。

「この近くで何かある。さっきちょっとした騒ぎがあったが、誰も応援が来なかった」

 声には起伏がある方が感情を読み取り易い。隠しごとをしている場合は、表情に出たりもする。前を見ている二人の会話は、まるで独り言。こんな感じで会話を、レストランや映画館の隣でされた気味が悪くなりそうだ。

「随分と探ってくるな。手伝いたいのか」

 お腹を摩る。

「遠慮する。あんた達から来る仕事は、メンドクセェ割に金が安い。係わらないでいいなら係わり合いたくはない」

「安い、ね。こっちなんて仕事なのにお前よりも安いぞ」

「自分で選んだ仕事だから諦めるんだな」

 ぼーっとしている印象の顔を、のんびりと変えて笑った。

「諦めるしかないな」

「そうしな。それじゃあ、また」

 手も振らず、顔も見ず、二度と合わない様な別れ方の割には、次に合う言葉を残して二人は別れた。


     4


 人が減らない町。本来動物は種類によって活動時間は異なる。昼に行動する種類は一斉に昼に動き、夜の場合も夜に動く。それなのに人という動物は、一人一人活動時間が異なる。昼間は日の明かりの中やるべき事をやり、夜は自分達が色々なエネルギーによって作り出した明かりの中行動する。

 この町は夜の街だ。昼は死んだように眠っている。間違ってお日様が頂点に輝く頃に来ても何も楽しい事はない。ただし、夜になればその様は一変する。

 人のありとあらゆる欲望が詰め込まれた場所になる。一度足を付けてしまうと、触れた部分から腐り落ちて動けなくなり、抜け出そうという気持ちさえなくなる。

「邪魔だ、退け!」

 歳の差カップル、おそらくお金の関係だろう十代らしき少女と四十らしき男性を押し飛ばして、男達が走る。暗い街のさらに奥深くに陣取る人間達だ。

 走って向かった先はコインパーキング。白い高級車の前で止まる。中は見えないようにフィルムが張られていた。

「すいません、兄貴」

 三人、車の前に居たが、一人、ボンネットに腰を降ろしていた青年に息を切らした四人が頭を下げた。

「逃げられたみたいです」

 強面な四人に対して、兄貴と呼ばれた男は随分と今時の青年だ。スーツは着ているが、ネクタイは回しているだけ。緩々で何かに当たっただけで解けそう。頭はツンツンに尖らせたウニ頭。髪の色は染めた茶色をしていて、ピアスも両耳にしている。別段おかしくもない青年だが、兄貴と呼ばれている。

 影の世界の人間は、意外と車などには気を使ったりするのに、この青年はボンネットの上に座っている。しかもただ座っている訳ではない。

 靴を脱いで胡坐を掻き、食事をしている。紙に包まれて食べやすいハンバーガーを片手に、手を拭く用の紙の上には硬目の厚紙に入っているポテト、一口サイズの揚げた鶏肉が五個紙の器に、紙コップに入ったジュースが置かれていた。

 口の中に入っている物を流しこむようにストローからジュースを啜る。

「ゥング、はぁ、食べ始めたばっかなのに。まあいいや、で、どこ探してたの、お前達」

 意外な質問だったのか、息を整えている四人は答えない。当然答えてくると思ったのか、青年はチキンナゲットを口の中に頬り込んだ。

 一噛み、二噛みして答えないと分かって、呆れ顔を作る。一応答えを待つかのようにチキンナゲットをゆっくりと噛み砕いて、味わってから飲み込んだ。体の中に食べ物が入った代わりの空間を作る為に、大きなため息になって空気が吐き出される。

「もう一回分かり易く言うから。お前達はどの辺りを探してたんだ?」

 歳は一回りくらい下に見える青年に対して、男達は丁寧に馬鹿みたいに口を揃えて答えた。「この辺りを探してました」

 なぁと、それぞれに確認を取り、同じように頷き合う。

「頭痛くなってきた」

 目頭を押さえて、態とらしく、もう一度大きく息を吐く。

「大通り、建物の中、路地、どこを中心に探してたんだ」

 かなり数を絞ってもらった選択肢に、きっぱりと路地と答えた。

「最初っから?」

「はい」

 今度は言葉なく、目頭を押さえた。

「あのさ、あの豚の恵種は何?」

「色々な物に化ける恵種だと聞いてます」

 恵種の能力は詳しく知らせないのは当然だ。そこまで詳しい答えは望んでいないだろう。ここでは目頭を押さえなかった。

「で、その豚を探してお前達は路地を探したんだよな?」

「は、い」

 不安に思いながらも、男達は素直に頷く。

「で、その路地には人が沢山いたかな?」

 海外の貧しい人が大勢いる街なら別だが、日本ではあまりいない。公園や高架下の方がまだ人がいそうだ。

「いえ、いませんでした」

「だよね。だって路地だもん。あの豚はさ、確かに色んなものに変われるよ。変われるけどさ、こんな発見された近場で物に化けると思う?」

 男達は黙ってしまった。青年は続ける。

「逃げるんだったらさ、人がいいよね。だって姿を変えられるだけで、体の大きさとかはあれのイブが変えてたんだから。猫とか鼠とかに化けた所で、体の大きさ変わらないんじゃ色んなとこに引っ掛かるし、素っ裸で逃げなきゃいけないからもし途中で恵種が解けたら大変だしね。人間だったら服着ててもいいし、一々触って確かめても女だったら見分けはつかないし」

 身体的な疲れからくる息の乱れは収まったが、緊張から息が上がってしまう。

「それは、あ、気付きませんでした」

「あぁ、知らなかったっけ? 化けた物に合わせて体は変化しないって。だから昔は、あれに体を売らせてもたいして良くなかったんだって。子供好き、ああ勿論性的な意味で好きなおっさんに対して、見た目だけ子供で触ったら普通の女と変わらないってんじゃ話にならないからさ。で、話してなかったっけ?」

 唇が震え始めた。出てくる答えを聞けば当然だ。

「探す前に、教えてもらいました」

「そうだったっけ? おっかしいな、だったらちょっと考えたら路地を探す意味なんてないって分かるはずなんだけどな。ああそうか、見つけた時の服そう言わなかったんだ」

 完全に自分達の非を分からせる為に言葉を選んでいる。

「教えても、もらいました」

「だったら何で路地なんて探した。おかしいだろ、ここまで教えて路地を探すのは。確かに、服も化けさしたかもしれないが、顔体、服、ズボンかスカートか、上着かを変えるのは一苦労。長くは変えてられない。それにお前達が捕まえたら動揺して恵種を解くかもしれない。可能性は低いが、それしか捕まえられない。なのに、お前達は路地を探した。悠々と逃げれたろうな、あの豚女」

 四人は大きな体を小さく丸めて頭を下げた。震える体で、何とか頭だけは下げれた。

「すいませんでした」

「別に謝ってもらってもさ、もうどうする事も出来ないし。それに俺じゃなくて、小麗に謝るべきだしね」

「あの、今からでも探して――」

 四人の内、一人の男が顔を上げた。それを待っていたように、折り畳み式らしい線の入った鉄の棒が男の顔面を捉えた。

 呻き声を上げながら倒れる男。他三人も反応するが、車の前に居た二人の男に次々と殴打されて地面に倒れる。

 青年はハンバーガーを口に運びながらその光景を見守る。

 倒れたた男は次々に車の中に引きずり込まれ、四人すべて入ると一人の男が一緒に乗り込んだ。鍵は青年がポケットから出したリモコンで閉める。それと連動してか、フロントガラスも真っ黒に変わった。

 もぞもぞと車が動くと、運転席の窓が開いた。半分ぐらい開くと、髪の毛が覗く。頭は半分も出ていないが、窓はそれ以上開けないようだ。

 微かに聞こえるうめき声を聞くように、青年が胡坐のままボンネットを移動して開いている窓に近づくと、半分の窓から出ている頭を撫で始めた。

「あ、それ持っといて」

 撫でていない方、ハンバーガーを持っている手でポテトなどを差す。もう一人いた男が三つとも持つのを確認して、青年は身を乗り出して撫でていた頭に息を吹きかけた。

 窓の隙間から出ていた髪の毛は黒色だった。その色が、髪質が、頭の形までもが変化を始めた。アジア人らしい黒い色の髪が薄い色の茶色に変化を始めると、それ程手入れされていた様子はないが、風が吹けば揺れる程度の髪質だったものが重く、ガサガサで、少々の強い風でも乱れないだろう物に変わっていく。全てが均等に別の物になっていく中、最後に待っていた変化は窓が閉まり切る寸前に微かに見えた。

 それは人の物ではなかった。動物の物。尖り、遠くの音を拾うように機敏に動き、感情を示すために使われる物。耳だ。動物の耳が頭から生えていた。しかも人の頭から。そう考えると辻褄が合ってくる。

 人じゃなくなった。自然と結論はここに辿り着く。髪の毛は体毛に変わった。荒れ方、色の付き方、耳の形、これら全てを合わせると、一種類の動物が前を横切る。身近なペットの先祖になった動物。

 窓のフィルムで目視不可能な車内から、微かに聞こえる物音。揺れる車体。動いていると感じさせた次の瞬間、車の中では収まりきらない程の悲鳴が上がった。男の汚い、耳触りの悪い悲鳴。草食動物の群れに警告が伝わったかのように、一斉に騒がしくなった。

 中で暴れているのに、飛び上がり一回転してひっくり返りそうになる車。開けてくれと訴えかけるノック。強さが完全に狂っていて、窓も叩いている手も壊れてしまいそうだ。悲鳴は上がり続けているが、正常さは保っていない。狂っているのが微かな音源でも聞き取れる。ここまでなら人でも可能だろう。だが音がもう一種類存在する。

 道具を使えばこの音は可能だが、手動で動かす道具では到底出ない音が聞こえる。肉を引き千切り、骨砕く音。生きたまま動物を喰らう音。車の中に確実に、人を食べる動物がいる。砕く音が消えると、悲鳴が収まった。車内から出してくれと懇願するノックはさらに激しさを増すが、ボンネットの上では呑気にハンバーガーが口の中に消える。

「けどふぁ、ふふう、分かるよね。ちょっと頭使えば人が多い場所探さないといけないって。三十何年も生きてきて、一から十まで説明しないと分かんないのかな」

 ポテトに手招きをする。持っていた男は取り易いように目の前に差し出す。

「分からないんでしょう。考える力がないんですよ、彼らは」

「ふーん、そんなもんかね」

「そんなもんなんです」

 腰を降ろしている車の中で起こっているだろう血の晩餐と比べ、のんびりと食事を取る青年。悲鳴がまた上がり、砕く音がまた聞こえる。

 車は道路から四つ目の場所に止めているが、五メートルと離れていない。己が持つ欲望の中を進む人々でさえ、常識では考えられないような音に思わず足を止める者も少なくない。

 日本人離れした顔つきの女性二人も、足を止めて車を見た。アジア人だろうが、日本人ではないかもしれない二人は同時に車から目を逸らした。足が震えてすぐには動けない。こんな街に流れ着いたのだから色々な体験はしてきただろうに、恐怖が体を支配していくのが伝わる。少しだけ、駐車場から女性一人分遠い女性が、隣の子の手を握り、小さな二人分の勇気を集めて一緒に走り出した。ハイヒールなのも気にしないで、一気に駆け抜けた。

「失礼だな、せっかく手を振ってあげたのに」

 ジュースを飲んで、最後の一口を食べたこの青年が、女性二人に恐怖を与えた原因。本人に自覚はないらしい。

 通行人はもう誰も足を止めなくなっていた。空気がそうさせているのだ。誰も見てはいけないと、流れが出来上がっていた。

 女性二人と他の通行人が見たのは、揺れる車の上で平然と、ブランコにでも揺られているかのようにのんびりと、それでいて石膏で固めてしまったと思わせるほど無表情で手を振っていた青年。ゆっくりと、精確に二秒間隔で左右に振られる手。通行人誰もが、その手の動きで感じたのは手招きだった。こっちに向かっておいで、おいでと招いていると勘違いさせるような動きだった。

 行ったなら確実にこの世には帰って来れないだろう手招きに、誰もが係わりたくないと、ごく短い時間でこの町は駐車場に見えない壁を作った。

 悲鳴がまた消えた。車内の喧騒も一つ分小さくなった。そしてまた悲鳴と砕く音が聞こえる。ここまで来て、車の中から助けを求める音は聞こえなくなった。諦めたのだ、生きる事を。悟ったのだ、自分はもう死ぬと。三人目が食べられ終わった。食事はもう終わりだ。一人と、ナゲット一個。ハンバーガーを包んでいた袋と、空になったジュースとポテトの容器をフロントガラスとボンネットの境目、ワイパーが収まっている溝に詰め込み、青年は靴を履き始める。

 悲鳴が上がるが、今までで一番外に漏れない小ささ。踵が踏まれて折れている靴を履き終え、青年は最後のナゲットを口に運び、容器は同じようにワイパーの所へ。丁度そこで車内から音が聞こえなくなった。

 静まり返る駐車場。何も見ても、聞いてもいませんと言っている。全てが終わったであろう車内から、ノックが二つ。後部座席からだった。開いていく窓。耳が二つちょこんと覗いて、止まった。青年はその獣の耳に口を近づけていく。五センチくらいの距離を残して止めると、息を吸い始めた。それは先程、息を吹きかけたのとは逆の行為。吹き掛けた息を吸い取っているとさえ感じる行動だったが、あながち間違いでもなさそうだ。

 息を吸うのを止めると、先程まであった耳が消えた。扉の前に居た二人が離れると、ドアが開き、人が出てきた。青年と一緒に居た三人のうちの一人だ。

 ドアを閉めると、少し乱れたネクタイを直した。

「口も」

 暗さで確かではないが、車から出てきた男の口周りにはケチャップの様なものが付いていた。ポケットに手を突っ込むと、青年はハンバーガーショップでもらったのだろうグシャグシャの紙を手渡す。

 受け取り、口の周りを拭き取ると、少しだけ開いたままのドアの隙間に押し込んだ。その代わりというように、男はポケットから携帯電話を取出し青年に渡す。

 一仕事終えたと言った感じで、三人は歩き出した。駐車場奥の、前後三台、六台分の為に付けられた屋根のある場所に向かう。

「あ、ナンバープレート取っといた方がいいよね」

 中には四人いるはずなのに、微かな気配すら感じない車を三人が通り過ぎたが、青年の言葉に足を止めた。

「はい、手」

 男二人は両手を差し出す。青年は四本の腕を全て撫でてから、息を吹き付けた。腕の太さは、スーツの上からでは確認できないが細くはないだろう。それでも袖の大きさは随分と余裕があった。手首も廻った。

 息を吐き終った時、二人の男の腕回りが太くなっていた。短距離競走ほど強く腕を振らなくても、ウォーキング程度腕を動かすだけで袖が破れるくらい膨れ上がった。

 手首から上は獣の体毛で覆われ、爪も鋭く変化している。やはり人間ではなくなった。青年が撫でて息を吹きかけると、獣になる。

 知らなければこの変化に発狂してしまいそうだ。なにせ、自分の体が人ではなくなるのだから。だがこの二人は違う。平然としていた。

 二人は前と後ろに別れると、それぞれ今まで事がおこなわれていた車のナンバープレートを掴んだ。普通なら道具や用具でいじったりする。当然、高速道路で違反をする人間もいて、二百キロ近い速度で進んでも取れないようになっている止め具を、男二人が素手でいとも簡単に引きちぎった。取れ掛けのカサブタを取る方が余程難しいと感じさえする。

 それぞれにナンバープレートを持って青年の側に戻る。ここでも先程と同じように、吐き出した息を吸い取る。そしてまた、腕が元に戻る。

 今度こそ三人は屋根の下に入った。車は二台。屋根なしの所は一杯一杯詰まっていたが、屋根の下の方が不人気らしい。その中の一台、黒の高級外車に近づき後部座席のドアを開けた。

 中には二人の男が乗っていた。反対のドア側には丸々と太った男、手前には小柄な男。二人とも日本人には見えない。

「見つけられなかったようだな」

 小柄な男が喋り始めた。太っている男は、座席に座る事も出来ていない。

「路地を探したんだって。いやんなるよ」

「見た目を変えるだけの女を探すために、路地を、か。まあ、その程度だろう、日本人なぞ」

「そういう発言、止めてくんない。僕日本人だし」

 細く、開いていないような目の奥の黒眼を動かし、青年を見る。

「引き上げだ。お前にはやってもらう仕事があるらしい」

「へ、粟島どうすんの」

 運転席と助手席に男二人は乗り込む。

「小麗に責任を取らせるらしい。同胞の恥さらしめ」

「だから、国単位で見るの止めなって。どうしてそう無駄な事が好きなのかな」

「お前には分からんさ。ホツテ」

 太り気味の男がドアを開け、外に出る。小さな管の中からゲル状の物体が押し出される気持ちよさがあった。それに続いて小柄な男も外に出る。

「ん、一緒に帰んないの」

「帰ろうと思っていたが気が変わった」

 運転席に乗る男に視線を向ける。少しだけ目が開き、じっくりと細い笑いを浮かべる唇の様な目の中で味わい、転がす。

「血の匂いを嗅ぐと、自分でも味わいたくなるものだ」

 青年が代わりに後部座席に乗り込む。

「そんなもんなの。あ、でもさ、今日、警察が何か変な行動起こしてんでしょ。危なくないの」

「無能な四匹の猿が騒いで町を探しても警察は動かなかった。こんな掃溜めには来ていないのだろう。それに証拠は消す必要があるだろ」

 まあねと頷く。「じゃ、先帰ってるね」

 青年がドアを閉め、小柄な男もドアを閉めた。キーが回され、エンジンが動き始める。小柄な男は、火の入ったエンジンに負けじと、煙草を取り出し火を点けた。車が排ガスを吐き出すのと同じようなタイミングで煙草から煙が上がる。

「そんじゃあね、気いつけて」

 車が動き出し、屋根の下から出て行った。駐車場もすっと抜けて、道路を走りだす。小柄な男は煙草に火を点けたが、口には付けない。煙草の葉と紙を焼いて灰を作っていく。何とか落ちないように踏ん張る灰だったが、軽く親指で叩くと力なく下に落ちた。

 山にもならない程度の灰を落として、小柄な男は振り返る。一切煙草を口に運ぶ様子はない。

 忙しない足取りで歩き出す。太り気味の男は、歩幅をそのペースに合わせているようだ。それともただ大きな歩幅で歩けないだけか。

 先に先程の車の前に付いたのは小柄な男だが、足を止める気はない。その代わり、持っていた煙草を手首を返して上に向けた。次の瞬間、軽く勢いを付けて煙草を高々と空に弾き飛ばした。

 かなり高く上がった煙草を、弾いた本人も、太り気味の男もまるで何もなかったように無視して歩いて駐車場の出入り口に向かう。

 特に誰もこの二人を気にする事もない。おかしな行動はしていないから当然だが。

 人目がないのがこの駐車場の売りらしい。防犯カメラなしと大きく看板に書かれている。果たしてこれで、商売として成り立っているのだろうか疑問ではあるが。だから誰もこの二人の事に気付かない。駐車場を出て八歩、零と軽く呟いた小柄な男を振り返った中年男も、頭の中から小柄な男の姿は吹き飛んだ。駐車場の中にあったナンバープレートなしの車と同じように、盛大な爆発音とともに。


 夜でも明かりを必要としない部屋。カーテン越しでもネオンライトの光は強く、本を読めてしまいそうだ。赤や青に変化はせず、一定の色を放ち続ける。

 人の気配はある。ただ、部屋の中にはない。服も、テーブルも、食器類もない。何も見当たらない、簡素な部屋の押し入れの中に彼女はいた。

 胸元が大きく開いたドレスを着て、派手目な化粧。目鼻立ちがはっきりしていない日本人らしい顔なら負けてしまいそうだが、彼女の場合はよく似合う派手さだ。スタイルもよく、町を歩く時はさぞ自慢げに歩く事だろう。バカな男なら簡単に引っ掛かりそうな体型だ。

「大、丈夫、大丈夫、私は、大、丈夫」

 格好も見た目も、とてもじゃないがこんな部屋に住んでいる雰囲気ではないのに、彼女は押し入れの中で肩を震わし、涙も流して何度も呟く。

「大丈夫、バレてない、大丈夫」

 大事そうに苺の被り物をしたクマを抱えながら、何度も呟く。擦り切れて、随分と汚れている人形に囁く、大丈夫。ネオンの光が朝日に溶けるまで、彼女は何度も口に出した。唱え続けた、大丈夫という安心を齎す言葉を。


     5


 真下まで来て天辺を五分も見上げ続けると首が疲れる高い建物。日本の建築物でトップクラスの高さを誇るホテルが開業するとあって、多くの有力者が呼ばれた新築祝いパーティーが開かれようとしていた。

 日はすっかり落ち、月が綺麗に目を覚まして夜の黒い闇の中に輝く。

「ちょ、ちょっと大胆すぎませんかね、この格好」

 綺麗に整ったお河童頭には、月の放つ弱い光でもくっきりした天使の輪が出来ていた。可愛らしい顔も十分天使のようだが、性格には少し難があ、少し特徴的な性格をしている小柄な女の子、彩君と、

「似合っていますよ。孫にも衣装という奴――」

「無理矢理こんなに露出の多い服を着せられて辱められてるって叫びましょうか?」

「色っぽ過ぎて鼻血が噴き出そうです」

 相変わらず褒める時には極端なほど棒読みになる井場良太が、似合いもしない格好で、場違いにも程がある列の中に入っていた。

 彩君は幼い体付きには無理のある、背中が大きく開いたドレスを着ていた。腰のラインがはっきりと露わになっており、一歩後ろでも覗き込めばお尻が見えそうだ。腰にはクビレがあるが、背中が反っていて完全に幼い子と変わりがなかった。それでも色っぽいドレスを着ているだけで随分と大人びて映る。

 一方の井場も、綺麗に髭を剃り、髪の毛にも丁寧にワックスを掛けて整えている。服も普段着ているヨレヨレの汚らしいスーツではなく、何とタキシードを着ていた。これが意外にも似合っているのは、身長がそれなりに高いからだろうか。

 普段の二人が、仕事の出来ないサラリーマン風な男とコスプレ娘とは、この列の中に入っている人達は誰も知らないだろう。

 列を作る人達も、それはそれは綺麗な格好をしている。装飾品も成き、お金持ちがする派手目なゴツゴツした物を付け、趣味のわる、体型によく似合った大らかな服を着ている。そんな人ばかりではないが、一般庶民では手が出せない格好はしている。

「しっかし、こんな時代によくこんなホテル建てましたよね」

「中国は財力が一極集中ですから。それに、人口が多い分、日本の一パーセントと中国の一パーセントでは桁が変わります。ただまあ、それだけではないですがね」

 小声で話し合う。この列の中ならくっ付いていても違和感は、やはりかなりある。ま、言い訳も警察にするよりは簡単だ。

「やっぱなんかやってんですかね?」

「それを調べるのが俺達の仕事ですよ」

 腕を組むように足にくっついている彩君を見降ろさないように、目線を落とした歩き方はしていない。顔を真っ直ぐ向けて口だけを動かしている。

「そんなに簡単に調べられるんですか?」

「簡単ではありませんよ。俺の昔話が出来そうな人もいますから、目立つ訳にはいきません。頼みますよ、彩君」

 了解ですと、さらにきつく抱き付く。

 列は随分と長く続いているが、あまり文句を言う人はいない。かなり意外だ。見回す限り、間違いなく要人クラスもいる。待たされる事には不慣れな生活を送っている人種だ。待ち時間なしで、奥の部屋に案内されるのが普通だと思ってそうなのに、笑顔で列を乱さない。

 井場達が受付に付くまでに、四十五分も掛かった。

「大変長らくお待たせいたしました」

 女性ではなく男性が対応するようだ。シックな色のホテルマンの制服を着ている。帽子もかぶっていて、かなり似合っている。機敏で、聞き取り易い発音で笑う。

「カードを拝見できますか」

 こういう所に来るには、当然招待状がなければならない。潜入する為に、勿論用意にされている招待状を取り出した。

 受付係に渡すと、係員はそのまま招待状を何かの機械に翳す。ここまですると考えていたし、調べてもいたはずだ。そうは思いつつも、二人は内心焦ってはいた。

 二人からは見えないモニターをじっと見つめる受付係。この僅かな、だがおかしな行動をしてしまいがちな時間。もう一人いる受付係に彩君は笑い掛けたが、目があったのに完全に無視されてしまった。井場はいたって普通に、受付係が動くのを待つ。

 モニターから一瞬二人に視線を送って、一つ頷いた。

「鈴木啓太様と、佐々木春香様ですね」

 無視された事に少し怒り気味に彩君が頷いてから、井場も続く。

「お二人のご関係は」

 失礼ですがと断りもなく聞かれるとは思ってもみなかった質問だが、彩君は口を開いた。「こ――」

「親子です」

 その前に井場が答えた。

 その答えに彩君は井場を睨み上げたが、敢えてその怒りの目を避けつつ、答えを求めている受付係の相手をする。

「恥ずかしい話ですが、離婚してしまいまして。滅多に会えない娘ですから、親の威厳をと、こういう大きなパーティーに連れてきたいと、無理言って招待状を貰ったのです」

「そうですか。これは大変失礼しました」

 後に付ける為に、失礼という言葉を取って置いたのだろうか。

「申し訳ありませんがボディーチェックをしてから、会場へとご案内いたします」

「こんなご時世ですから、警戒は厳しければ厳しいほどいいと思いますよ」

「ありがとうございます」

 当然なやり取りをしてから、二人はそれぞれ同性からの身体検査を終え、会場へと足を運んだ。


 これから数十万、数百万人、もしかすればそれ以上の人間が宿泊するホテルに、完成後千人にも満たない順番で足を踏み入れている事に、感動する者もいるだろう。このホテルの名声が上がれば上がる程、人の目を気にする人間はそういう気持ちになっていく。

 その中でやはり、どう考えてもこんな権利が似合わない井場は、表面上はにこやかにしている。案内される間も、完成したばかりの内装を珍しそうに眺めたりしていたが、会場に入ってからはそれだけではなくなった。たまに別の顔も覗かせるようになっていた。

 こんな場所にまで制服で来ている人間を注意深く、けれど気付かれない用にさりげなく。動きを探り、こちらを探られないようにほんの一瞬だけ、黒い瞳がより汚く濁る。

「親子って、娘って」

 会場に着いてからもずっと呟き続ける彩君。よほど応えたようだ。ただまあ、傍から見ればもっともいい答えなのだが、それでも満足してくれてはいない。

 あんな所で目立ってしまっては元も子もない。井場は調べ物をしないといけないのだ。すんなり中に入る必要がある。

「あそこはああいう感じで、少し気まずくした方が入り易いので親子でいきました。ですから、態々苗字が別――」

「だったら恋人とかでいいじゃないですか」

 だからそれが目立つと言っている。勿論、同じような事を話す。

「もし俺と彩君が恋人同士だと言えば、其処ら中に居る警察関係者に捕まってしまいますよ」

「どうしてですか。十五歳ですよ、私」

 見た目がと口走りそうになったが、ここでいつもの様なやり取りも目立ちかねないと、機転を利かせた。

「法律上アウトですから、十五歳は」

 あまり上手い機転の利かせ方ではなかったが、それならと渋々納得は得られた。

 それでも満足はしていない。ブツブツと文句を放つ。剥れて横を向くと、あるものを見つけてしまった。一旦気づいてしまうと体は正直なようで、本能に彩君は従い動き始める。

 井場は何かに気付いて視線を送る。制服姿の中年や初老に近い男達の輪の中に、一人の若い女性が入るのを見逃さなかった。真っ赤な、スタイルの良さを自慢するような体の線が浮き出るドレスに身を包み、素顔を厚くて派手目な化粧で隠す。

 性格はいかにもキツそうだが、愛想良く崩して笑う。それでも尚他人を見下すような空気に、虐げられたい男なら堪らないだろう。軽く会話を交わして、制服組から女性が離れた。

「俺が彼女をつけますか彩君は、って、彩君」

 すぐ側に居たはずの小さな影が無くなっている事に気付いて、姿を探す。本来ならこれだけ背の高い人間ばかりの中に紛れ込めば見つけるのは容易ではないはずなのに、何ともあっさりと発見する事が出来た。そこだけポッカリと、穴が開いたように人がいなくなっていたから。

 大体、こういったパーティーに来る人間は慣れている人が殆どだ。だから何をやれば目立つか、どんな事をすれば馬鹿にされるかを知っている。彩君はこんなに大きなパーティーには初めて来た。張る見栄も持っていないから、こんな行動も起こせる。

「何をしているのですかあ、春香君」

 注目を浴び過ぎている中を、井場が近寄る。

「ふぁにっふぇ――」喉を鳴らして飲み込むが、詰まったので慌てて水で流しこむ。「ぷふぁ、ご飯に決まってるじゃないですか。おいしいですよ、このお肉。一緒に食べませんか」

 先程までの事が演技だったような機嫌の治り方だった。寧ろ今は上機嫌である。何とも扱い易い、基、単純な性格をしている。

 彼女の機嫌をいとも簡単に治してくれた物は皿の上に乗っている。外枠が茶色の熱を通した色をしているが殆どの部分が赤く、一瞬過熱していないように思わせる一口サイズに切られた肉、サイコロステーキ。一皿に十個乗っている。

「食べません」

「でもおいしいですよ」

 どうぞとフォークに刺す。ここで下手に断ると機嫌が悪くなるかもしれない。そう判断したのか、周りを軽く気にしながらもフォークから肉を食べた。

 確かにおいしい。一流になる予定のホテルの料理だから当然だ。力を入れている最初の食事が不味いなんて事になったら、かなり印象を悪くしてしまう。

 まあ、それはどうでもいいと、彩君の目線に合わせるように屈んだ。

 殆どの人が変な物を見るように二人を見るが、もしかすれば子供と同じ目線でご飯を食べる優しい父親だと取ってくれる人もいるかもしれない。いないだろうが。

「彩君、俺はあの女の行動を探ります」

 彩君の見ている世界と同じ高さに来ると、意外と人と人の間に隙間があるのが分かった。顔を確かめられないが、服装ならばっちり分かる。

「あの赤いドレスのですか?」

「このホテルのオーナーです」

 艶の良い肌は、オーナーというよりその娘の方が似合っている。

「随分若いんですね」

「だから色々あるのですよ。で、彩君はあの制服たちをお願いします」

 あまり健康的ではない体型の割合が多い制服組。分かりましたと軽く頷く。

 その間にも、赤いドレスは色々と動き回っている。

「それではこれからは別行動ですが彩君、あまり目立つ行動はしないでくださいね」

 でもと彩君は目を伏せる。確かに一般人では滅多にお目に掛かれないような食事が用意されているから、食べ過ぎたくなる気持ちは分からなくも――

「私みたいな超絶美少女、何もしなくても目立っちゃいますよ」

 あぁ、そっちね。井場も同じ気持ちだったようだ。

「……背伸びしたくて色っぽいドレスを着たら、ただ破れているように見えるくらい美少女ですよ」

「……あ、あそこに居るのはおまわりさんだ。このおじさんにお尻が見えそうな服を無理矢理着さされたって泣きながら助けを求めたら――」

「世の男全員が鼻血を出すくらいセクシーですよ」

 心が死んでいる脈の止まった棒読みに、不満げに肉を食べながらもういいですと言った。

「分かってもらえたようでなによりです。もう一度言いますが、目立たないでくださいね」

 二個目を頬張りながら大きく頷いた。

 その間にも赤いドレスは主要な人間の間を渡り終えたらしく、早足気味で出口に向かっていた。従業員が何かを伝えに行った素振りもなかったので、自分から行動を起こしているようだ。

 大きな、しかも大切な初お披露目の会を途中で抜け出すほどの重要な要件。あくまで優雅に、近寄ってきては握手をしたり話しかけてくる人を軽く流しながら、真っ直ぐ出口に向かう。

 井場はその出ていく所から真反対にある出口に足を向ける。

「あのすいません、ここの料理って持って帰れるんですか?」

 その後ろでとんでもない事を聞く声が聞こえてきた。一瞬足を止めそうになったが、止めたら終わりだと次に出てきた言葉で確信を持った。

「え、あ、多分、よろしいかと――」

「じゃあ、袋とか貰えます? 小さい袋は、そうだなぁ、十四枚くらいと大きい袋二枚。料理をそれぞれ入れるんで」

 戻れない。もう手遅れだ。どうやったら今からでも他人の振りが出来るだろうかと頭を巡らし会場を出た。


 初めて一般人が入るとあって、従業員兼警備員は多数存在している。見回りまでいる。ゆっくりと、潜んでいても隠しきれないお尻を捕まえるように首を左右に振る従業員に向かって、男は歩き出し、いや、走り出した。

「あ、あのぉー」

 警戒していた反対側から来た声がとても普通とはほど遠く、従業員は慌てて振り向く。

 足を内股気味にして、小さな歩幅の連続で駆け寄ってくる男。男性が内股になって歩くのは、急所に何かが起こった場合と、生理現象を我慢している場合だ。

 瞬きの速さも尋常ではなく、軽く唇を噛みながら少し汗を掻いているように見える。股間まで抑えているとあっては、この男の状態は一目瞭然。接客業で、ここまで分かり易い最後の場合を示していて気付かなければ、三日と立たずしてクビが確定する。

「す、すいませんが――」

「お手洗いですね」

 ビンゴだ。言葉を出さずに頷く。

「お手洗いは、あちら――」赤いドレスの女が向かった方を差す。「の角の先のエレベーターを越えた所にあります」

 うんうん。首を振る。

「大丈夫でしょうか」

 ここで初めてはいと答え、「ありがとう」との礼の言葉を受け取ったかすら確認せずに走り出していた。当然だ。この男の目的は、エレベーターがどこで止まるのかを見ないといけないのだから。ただしこの場合は、他に人間が乗りこんでいない事が条件になる。一緒に入ったとしても、彼女の部下だけしかダメだ。

 必死に、心は少し焦っているが、漏れるのを我慢している顔を作りながら走り抜ける。廊下もやたらと長く、端から端までなら五十メートルはありそうだが、従業員のいた場所からだと二十メートルちょっとで済んでいる。

 もう角まで着く。普段なら探りも入れずに曲がる事は非常事態以外ありえないだろうが、傍から見れば非常事態なのだ。曲がった先がどうなっているのか確認せずに体を左に向けた。

 赤いドレスの女の横顔が、エレベーターの中に消えた瞬間を確かめた。部下二人も乗り込む。エレベーター前には従業員が残っている。他の所に比べて一回り大きな背格好の従業員。

 一人は会場の中に注意を向けていたが、片方が走ってくる男に気が付いた。必死な形相で、走ってきた勢いそのまま、タックルでもしそうだ。

「どうしまし――」

「トイレがこっちにあると聞きまして!」

 エレベーター上の、階を示す数字はまだ動いている。近づいてくる間も、一度も止まっていない。

「それでしたらむ――」

「どこですか詳しい場所!」

 一つ一つ、数字が増えていく。中に乗っていれば別だが、外の階数の電光掲示だけでは、何時止まるか分からない。

「あの落ち着いて――」

「落ち着ける訳ないじゃないですがかなり危ないんですよ!」

 対応していなかった従業員も、流石に五月蠅過ぎるので注意を向ける。まだ黄色い光は動いている。

「おい、連れて行っ――」

「早くお願いします場所!」

 催してきた時の対処法も人それぞれだが、パターン的には二つに分ける事が可能だ。一つはじっと、出来る限り動かないようにして抑える。もう一つは、動き続けて意識を散らすパターン。この男は後者だ。少なくとも今は。まだ黄色く光る数字は階数を数えている。

「おいもう連れて――」

「だから場所!」

「分かりましたから行きましょう!」

 最初から対応していた従業員も、イライラしてきていたもう一人に釣られて大きな声を出した。これぐらいで限界かもしれない。従業員が腕を取ってきた。半ば強引に連行するように。

「ちょっと急に持たないで下さいよ漏れたらどうするんですか!」

「だからほら、行きましょう」

 流石にこれ以上は従業員の数が増えそうだ。諦めるしかなく、歩き出そうとした時、従業員越しに、昇り続けていたエレベーターが止まるのを見た。

 一、二、三、あれだけ快調に次の数字に変わっていた黄色い光はまだ止まっている。確信が出来ない今、もう少し粘るしかない。

 腕を取られて歩き出したはいいが、あれだけバタバタしていたのに急に内股になって、ゆっくり前に進む。

 先程までの騒がしさから一転した動きに、付き添わない方は後ろから蹴り飛ばしそうな目付きだ。経験上、確実にこのタイプだと踏んでいた。さっと振り返ると、付き添わない方は会場に目を向けていた。

 付き添いの従業員がどうしましたかと聞くまでの二秒間の間に、高い場所に留まっていた鉄の箱が降り始めた。正解だ。二人はトイレに向かった。

 トイレに続く角を曲がる。すぐ手前に障害者用のトイレがあり、五歩ほど歩いた場所に男性トイレの入り口、そこから奥に五歩ほど歩いて女性トイレの入り口だ。防犯上、女性トイレの方が曲がってすぐにある方が良さそうだが。

「おい、さっきのは」

「あれ、持ち場は?」

 トイレを我慢していた男の姿はない。中に居るようだ。

 二人はトイレに来なければ見えない場所にいるにも拘らず、誰もいないか確かめる。

「二人して離れるのは不味いんじゃないか」

「ちょっと気になってな。お前は感じなかったか」

 対応の仕方などを考えれば、トイレに連れてきた従業員は人が良い。それでは警備などは務まらないが、本来の仕事はホテルマンなのだから人当たりがよくて損はない。無愛想気味だったこの従業員の方は鼻が利くようだが、ホテルマンとしてはどうだろう。

「あの男、微かに瞳が怪しい動きをしていた。あの角度、おそらくエレベーターの階を見ていた」

「そんな事ないと思うが。俺と目が合ってたし」

 人が良いという例えは合っていなかったようだ。注意力が足りない。これが正解。それを知っているのか、後から来た従業員は納得していない。

「一瞬だ一瞬。俺が会場を見ていた時に瞼を降ろす間、僅かな隙まで見てた、様な気がする」

 説得力に欠ける言葉だと、語尾には余計な物が足される。

「確かに今日は警戒をしなきゃいけないが、心配し過ぎだって。それに気がするってだけで人を疑ってたらキリがない。俺達は別にそういう仕事じゃないんだから」

 のんびりしている人間程、意外と意見を変えなかったりする。今回の場合でも、怪しいと疑っている方が押され気味だ。

「それでも、確認はするべきだ」

「確認って、カードを見るのか?」

 頷く。「出てきた情報を調べてもらう」

「そこまでしなくても――」

「ふぅ、助かりまし、あれ――」どうしたんですかと言った口ぶりになる。「何でもう一人の従業員の方が?」

 態とらしくはなかった。演技臭くもなかったはずだが、聞いたのが不味かったのかグイッと前に踏み出す。注意力のない警備員が壁際に押された。

 男は手を拭きながら廊下に、出口に体を向ける。

「申し訳ありませんが招待状を拝見できますか」

 廊下に向いたので逃げ出すと思ったのか、肩に手を伸ばす。力を込めて振り向かせようとするが、とても一人では動かせそうにない。頻繁に使用される言葉を使うなら、ビクともしない。

「構いませんよ。何せかなり助かりましたから」

 手を置かれている感覚さえないのか、内ポケットにカードを取りに向かう。武器を出すかもしれないと警戒しなければならないが、従業員は動かない肩を必死で引っ張る。

 滑り込ませると、すぐにありましたとカードを抜き取る。その言葉でやっと我に返り、カードを受け取る。警戒は十分にしながら、肩から離した手を何時掴まれてもいいようにと思っていた従業員は肩透かしを食らったような気分だった。何も怪しい動きをしなかったから。

「ただそれ、偽名ですけど」

 この言葉を聞くまでは。

 距離は取るべきだ。くっ付いていては何も出来ない。お互い様ではあるが、侵入者はどういう手段を取るか分からない。専門職なら密着状態なら羽交い絞めや後頭部に一撃くらいはしそうな物だが、自信も経験もなかったのだから仕方ない。

 注意力のない従業員には聞こえていなかったのか、慌てて後ろに踏み出す同僚の行動理由が分からなかった。音が聞こえ、前屈みになって崩れていく同僚の姿を見て尚更、この状況がどういう物なのか理解できない。

 だが、股間を抑えながら涎を垂らして倒れていく同僚を、反転する一歩で後ろに回り込み、こちらに向かってくる男、侵入者の姿を見て初めて危機的状況にあると察知した。

 野生動物なら本能で危険な生物を感じ取れるが、彼になかったその生存本能では、この侵入者には手も足も出ない。無線で危険を伝えるか、この場で戦うかの判断途中ですぐ手前にまで来ていた侵入者の拳を鳩尾に受け、声を上げることなく上半身が折れた。

 その間にも後ろに回り込んだ侵入者が腕を首に回し、もう片方の上腕を掴み、回した腕に首を押し当てるように掴んだ腕で頭を抱えて抑え込む。綺麗に決まったスリーパーホールドに、十秒と持たず、殆ど暴れずに気を失った。股間を蹴り上げられた従業員も、意識はほぼないだろうが、念のためにスリーパーホールドを決める。

 完全に気を失った二人の男を、片方の肩にそれぞれ担ぐ。成人男性が意識を失くした状態の場合、抱え上げるには相当苦労するが、侵入者は容易く持ち上げていた。持ち上げた後で、廊下に散らばる二つの帽子も拾い上げる。

 向かう先は女子トイレ。入ってすぐの手洗い場で中の個室が見えないようにしており、侵入者が誰も入っていないか確認出来たのはその壁を越えてからだった。

 片方の壁に六つの個室に、奥の壁には小さな窓。部屋にトイレがあるが、ここは大きな会場がいくつかあるのでこれでも少なく感じる。

 全て開いてどうぞと招いてくれる個室から、侵入者は奥から二番目の誘いに乗って中に入った。

 一人を蓋の閉まった便座の奥、壁と便座が繋がっている部分に置き二つの帽子を被せると、もう一人は肩に担いだまま服を脱がし始めた。まずはズボン。ベルトを取り、特に難しくもなく脱がす。脱がし終わったズボンは壁に凭れるような形で気を失っている男の足に置く。

 ズボンを脱がせ終わった従業員を一旦両手で抱え、柔らかいマネキンを操るように頭を逆様に向けると、先ほどとは前後上下反対にして肩に担いだ。用は侵入者に後頭部が見えるような格好だ。肩の上は腰の辺り。この状態で器用に従業員の上着を脱がせ始める。幸いな事に、ボタンは四つ。サイズ調整の為に四つ付いているので、実質は二つ。大きなボタンで、簡単に脱がせる事が出来た。

 これで不要になったのか、蓋を開けて普通に便座に座るように肩から滑らすように置いた。

 起きる気配はまだないが、この二人が意識を取り戻した時に自由に動かれるのは不味いはずだ。侵入者が何もしない訳がない。

 上着を脱ぎ、ネクタイを外す。カッターシャツは大体の物が同じ様な見た目をしているので、従業員が着ていた上着を身に付けた時点で見分けはつかない。

 ボタンを止めると、もうこれで従業員と何ら変わりはない。帽子を取り頭に被ると、上半身は完璧だ。一つの帽子はそのままに、ネクタイを壁際の従業員の口に噛ませ、三周回して猿ぐつわにした。

 次はズボンに取りかかる。ベルトを外して脱ぐと、壁際の従業員の足に置いていたベルトとズボンを取り履いた。余っているベルトは、壁際の従業員から帽子を取ると、便座に座る従業員の口に押し込み、上からベルトできつく締め上げ、こちらも猿ぐつわにした。

 これで完了という訳にはいかない。二人が目を覚ましても、すぐに動けないようにする必要がある。一番いい方法は手足を縛る事。

 脱いだ上着で二人の頭を縛りあげる。きつく動かないようにして、壁際の従業員の上着とズボンを脱がすと、履いていたズボン一つで二人の腕を繋ぎ合わせる用に括りつけ、足は上着とズボンで括ってお終い。

 二人が目を覚ましてできる事は、暴れて便座から落ちることぐらいだ。まだ意識がないのを最後に確認してから個室を出た。

 本来なら足早にトイレを出たい。何せ女性用のトイレなのだ。もし誰か来たら面倒な事になる。侵入者の足も個室前を抜ける時は足早だったが、手洗い場の鏡の前に来ると足を緩めた。

 こんな時に身だしなみを直している場合じゃないが、こんな時だからこそ落ち着いた様子で変な場所がないか、見慣れない格好の自分を覗き込んでいる。

 帽子の歪み、上着のおかしな皺、ボタンは綺麗に止まっているか、慎重に確認していき、納得したのか頷いてトイレの出口に向かった。直ぐには出ずに、入り口に立っていた観葉植物の葉を五枚千切ってポケットに綺麗に詰めてから後にする。

 幸運な事に人は来ていなかった。男性用トイレ、障害者用トイレの前を過ぎて、大きな廊下に出る手前で一旦足を止める。格好が完璧なのだから、何食わぬ顔で人前に出ても問題ないが、侵入者の行動理由は、変装に自信がないからではなかった。覗き込み、確かめたのはエレベーターの前。

 誰か来ていないか。もし来ていたなら考える必要がある。大人数とはいえ、全く知らない同僚の顔は少ないはずだ。それに、誰もいなかった場所に、一人戻ってくるなど怪し過ぎる。だからこそ確かめた。他の従業員が着ていないかを。

 廊下の壁が続いていた視線の先が、ようやくエレベーターの前まで届いた。誰も来ていない。確認できた時点で小走りでエレベーターに向かった。

 走るのは良くない。小走り程度ならよく見かけるが、走っている姿を接客業の人間が客の前でする事など殆どない。気持ちはすぐにでもエレベーターの前に行きたいはずだが、しっかりと体と考えを統一させ、早足で向かう。

 後五メートルという所で人影が見えた。ホールの中から人が出てきた。これがもしこのホテルの人間なら不味い事になりかねない。ここまでは上出来。顔がばれているのは二人だけ。だからこそ上手く運びたい。気持ちが大きく揺れたのか、歩幅が随分と小さく、走り出す寸前の所で、元に戻った。早歩きの、大きな歩幅に戻った。

 出てきたのは客だ。男の客。こっちに向かってくる。この様子を、侵入者はよく知っている。走ってくる男性客に笑顔を向けながら、「トイレはあちらです」と手で示した。軽く慌てた礼を返して、客はトイレに向かった。

 本当ならそんな風に走りたいが、距離ももう短い。十秒と掛からずにエレベーターの前に着く。ほっと一息。侵入者がもし、よくやったというような息を吐いているなら、確実にこれから先は厳しくなる。気を抜いていい場面じゃない。

 当然、この侵入者は手慣れている。エレベーターの横に立つように動きながら上に向かうボタンを押して、ホールに体を向ける。

 最初に止まった時点よりも、四つしか下に降りていなかった黄色い光が、滑らかに下に降りてくる。

 ここに立っているとよく分かる。誰もといっていい程、こちらに関心がない。パーティーに出席している者同士しか興味がない。いや、正確に言うなら自分よりも上の肩書きにしか興味がない。

 焦っていた自分を見下すように俯き軽く笑っていた、そんな短い時間で充分だった。さっきはあれだけ長く感じた時間。トイレを本当に我慢している時の、動きの遅くなる時計の針が嘘のように、もう鉄の箱が着いた事を示す音が鳴っていた。

 もう一度ホールを確かめるが、誰も気にしてはいない。誰も乗り込まないのかと口を閉じ始めた扉の隙間に侵入者は滑り込み、先程見た階のボタンを押した。突然の滑り込み乗車に文句一つ言わず、エレベーターは侵入者を上へと運んだ。


 気の短い指が何度となく机をコンコンと打ち鳴らす。もう片手は主人の耳に携帯電話が張り付きそうなほど強く押し当てている。

 綺麗に装った衣装、完璧に作りこんだ化粧。普通の女性ならその二つがあれば、精々自分の好みと違うという不満顔ぐらいが一番酷い顔のはずだが、彼女の表情はそんないいものではない。

 目、眉、唇、頬、こめかみ、表情を作るすべてのパーツに苛立ちを込め、呼び出し音が途切れるのを待った。

 口が動いてはいるが、出ろと呟くには至っていない。何度も何度も、一度の呼び出し音の間に動かし続けた。口の中に折り重なって見え始めるんじゃないかと心配しそうになったが、具現化するよりも先に呼び出しの音が途切れた。

 溜まっていた音の出る言葉が一つに集中して、部屋の壁を揺らしそうな大声に変化させていた。

「どういう心算! 今日は、は――」

 天辺まで上り詰めていた感情が、電話の向こう側の声に一針刺されたくらいで全ての怒りを散らして萎んだ。

「あ、中野さん、どうして、この電話を」

 同じような激怒を示していたならマイクから相手の感情を読み取れるのに、まったく言葉は漏れ伝わらない。少なくとも、向こう側は先程までの女性のように感情を表してはいない。

 電話の相手が自分よりも上なら、自然と姿勢が正される。椅子に浅く座り、背中を伸ばして言葉を待つ。

 はい、はい。恐縮しきりで申し訳ありません。こればかりの対応をしていた電話相手に、急に素っ頓狂な声を出して尋ねる。

「あの、それはどういう意味ですか?」

 とてもではないが聞き取れない。小さな穴に耳を付けて中の声を窺っていた侵入者には、これ以上近づく手段はない。

 壁に開いている穴は僅か数ミリ。一センチの幅もない。まだ客の一人も宿泊させていないこのホテルで、もしこんな穴が開いていれば一大事だが、気配もなく穴を開けたのは間違いなくこの侵入者だ。

 本当なら責任を取るのはこの侵入者だが、このまま誰にも気付かれずに時間が過ぎて開業まだいってしまったなら、業者が非難されるのは間違いない。かわいそうだが、仕方のない事だ。

「はい、分かり、ました」

 質問の答えが返ってきたのか、それとも別の問題を突き付けられたのかは彼女と電話の相手しか知らないが、落胆して言葉に力がなくなっていた。

「それで、代わりは」

 言葉に出せ。このままでは何も伝わらない。今の所手に入れた情報は中野という名前だけ。日本に何人いる苗字だと思っている。小麦を見せられて、これから作る料理を当てろと言われても不可能だ。何のヒントにもなっていな名前だけではなく、もっと言葉を発しろ。

「そ、んな……。いえ、なぜ、彼に……」

 また期待外れの反応。壁に突き刺さっている葉っぱの筒を耳に当て、屈んでいるこの姿勢がどれだけ無防備か考えてもらいたい。まぁ、そんな心配をされているという事は、バレていると言われているのと同じだが。

 まだ話を続けてもらわないと困る。何一つ情報がない。聞き耳を立てるがまた小さく項垂れて、力ない返事を返すだけ。動きがあればすぐに反応できるようにアンテナは畳まず、会話を思い出す。

 なるべく早くここを離れられるならそうした方がいいのだから。

 新しい記憶のページを戻して読み直す。待っていた時間の長さに比例せずに、会話量は少ない。一言一句を整理し終えると、一つ、気になる個所が見つかった。部屋の中に変化はない。

 最初の怒鳴り声の最後の尻切れトンボを掴んでみる。「今日は」の後に、はっきりと「は」と続けている。これが意味するのは一体何か。

 今日にでもある行事か。招待客の中には半券でこの後のお楽しみ会があるのだろうか。それとも何かの名詞か。「は」で始まる数字は八がある。八十も八百もある。とてもではないが数字だとしたら取っ掛かりにすらならない。では職業や呼び名か。

 このどれも外れであってほしい。当たっていてほしい予想は、人の名前。今日来ていて、尚且つ調べる必要がある人物の中で「は」から始まるのは二人いる。

 ただ、名前だと確定するにはもう一押しが欲しい。あの時点で次に続く子音を聞き取れたならよかったが、発してはいなかったはずだ。もしかすれば口は動いていたのか。

 後悔は後からするものだと実感した。

 さて、これからどうするべきか。ここに留まり、ギリギリまで情報が出てこないか待つか、それとも習ったばかりの教訓に従い行動するか。

 迷いはする。人間は過ちを学べる動物だから。ただし、身に染みた経験でも、正解に近いであろう答えばかりは選べない。積んできた勘や見栄が邪魔をする。

 残してきた彩君も気掛かりではあるが、それでもこのままで――

「痛っ! なんだこれ」

 鈍る決断は本人だけの力ではどうにもできない時がある。本来なら仲間や友のアドバイスで決定するのだが、今回は違った。予防に張っていたトラップに引っかかった声でそうせざる負えなくなった。

 部屋の中で物音がする。部屋の外で物音がした気がした。

 全力で走っても問題ない。部屋の中はそうしないはずだ。自分よりも格上の相手と会話している時に、機嫌を損ねられては一大事。自分がどういう行動をしているのか悟られないように動くはずだ。

 見回りをしていた二人のうち、角の壁に近い方が靴の底から針みたいな物を抜き取った。二人して何か確かめる。

 緑色で、細長い。裁縫の針に色を塗ったのかもしれないが、こんなところに落ちているのは不自然だ。しかも、絨毯が敷いているとはいえ、靴を貫通するほど固定されているのは変だ。

 なんだろうな。緑色の何かを持ちながらそう聞こうとした従業員が視点を動かした。一緒に見回りしていた横の従業員を見たはずだが、目の前が黒くなっている。突然出された何かを判断する能力は、鍛えようにも早々鍛えられない。これが手だと気付いたのは口を押えられ、顎を動かないように固定されつつ壁に押し付けられた時だった。

 逃げろなんて言っていられない状態だが、頭の中では警告を伝えようとしていた。そんな必要はない。慣れていない仕事とはいえ、危険という言葉を習っていたなら誰もがそう感じる状況だ。

 だが逃げるという行為も習う必要がある。現代日本で、危険を感じて逃げる経験は滅多に出会えない状況だ。

 頭の中では声を出すか、身構えるか、こちらから迎撃を仕掛けるか少ないが対処法の書いている説明書を用意した。どれか一つ選ぶにしても今から目を通して、練習をして、実技をやってから初めて実戦で使える、咄嗟の判断がいる現状では不要なもの。

 腕に続いて見えた影。まずはどれだ。男。顔を憶えたが、一瞬にして記憶はどこかに蹴り上げられた。一定の工程があるように、無駄のない動きで蹴り出された一撃は、従業員の股間を正確に捉えていた。

 声も出せずに崩れていく。口を押さえつけられているが、もう一人は自由に動ける。両手で押さえている手を退けようと掴むがビクとも、いつの間にか自分の体の一部に変化したのではないかと錯覚するほど微動だにしない。

 考え込んでいる暇はない。解くのが無理なら殴ってでも。振り上げる腕。後は肘の辺りを叩けば、折れ曲がって力が抜けるはずだ。

 頂点よりも手前で落下を始める腕。額の高さ辺りから鼻下に来た自分の腕が止まった。一体何が起こったのか、従業員の彼の眼にはしっかりと映っている。音もなく、録画していた映像作品が一時停止ボタンを押されたと同時に動かなくなるように、腕が掴まれた。

 まだ片腕は自由だ。この場を凌げるなんて思ってはいないだろうが、時間を掛ければ誰か来てくれると考えるべきだ。抵抗はしなければいけないのに、壁に押さえつけられている従業員は手を出せなかった。しても無駄なのだと侵入者が語ってきたから。口からでも目からでもなく、抵抗できないように押さえつけるという形で。

 壁から離される。一気に引き寄せられる体が途中で回転させられ、背中に回り込まれた。抵抗する気力の無くなった従業員はあっさりと絞め落とされた。

 ホテルのドアらしく、丸ではなく棒状の取っ手が下がって中から女性が顔を覗かせた。電話を耳に当てたまま、慎重に誰かいないか確かめるように。

 誰もいないし、気配もない。携帯だから見て回れるが、女性はそうせず、自分がどうしてるかも伝えずに無音でドアを閉めた。

 息を止めていた侵入者が、股間を蹴り上げた男も首を絞めたのはこの直後。二人を持ち上げ、近くの部屋の中に寝かせてから走り出していた。

 エレベーターの前に来たが、乗るべきではない。流石にもう新しい従業員二人がエレベーター前にいるはずだ。降りるべき階の一つ上に止めてもいいが、定期的におかしな点はないか確かめるような細かい従業員なら、あまりの不自然さにすぐに感づくはずだ。数回上でも同じ事。なら使うべきは階段。エレベーターを通り過ぎ、八歩ほど横にある階段を駆け下り始めた。

 よほどショックだったのか、まだ喋っている相手の話は聞きながらも、支えきれずに項垂れる女性。伏し目がちでまっすぐ視線を持ち上げれない。それもどうやら終わるようだ。分かりましたとさらに頭を下げて、電話を切った。携帯電話を投げる。力が弱すぎて二十センチと離れていなかった机の角に弾かれ、床に転がった。目を閉じて、合わせた両手で鼻と口を包んだ。

 三段飛ばしや四段ではなく、十五段近くある階段を一段だけ触れるだけで降り、勢いを殺さずに手すりを掴んで曲がり、同じように一足で飛び降りる。

 掌から口と鼻を抜いて、形の残る両手の間に溜息を吹き込んだ。瞬きを何度もするが、涙が流れない。目は確かに潤んでいるのに、まったく泣けない。

 五階分下った。まだまだパーティー会場は下。時間はないが、考える時間は嫌なほどある。息を切らせている男が階段から現れたら、不審がるなという方が無理だ。すぐ横にはエレベーターという便利なものがあるのだから。

 見上げる天井がやけに広く感じた。高くではなく、どちらかという低く自分を押し潰してきそうなくらい近くに感じるのに、一人だ、お前は一人だと確認させようとしているのか、シミ一つない真っ白な天井は広く感じた。

 それ以前に、階段から来るのがおかしい。高さが高さだ。下手をすれば食事に有り付けずにお開きになる。こんな考えを持っている招待客が何人いるかは知らないが。まずは階段からではなく、別の所から彩君が大人しく、おそらく待っていないだろう階に戻らなくてはならない。

 流れない涙は、上を向いても目の中に溜らなかった。逆に、白銀の砂漠世界を見つめていたら蒸発して乾きそうだ。ゆっくりと視線を戻した。

 この高層ホテルで途中の階に、階段を使わず、当然エレベーターも使わないで入り込む事は可能だろうか。低い家、普通の家というべきだろうか、二階や三階、辛うじて四階くらいなら窓から侵入する方法もあるだろうが、何十階というホテルの窓から侵入するのは簡単ではない。だからこそ、高層マンションのベランダの鍵を閉めなかったりしてしまうのだ。

 パーティー会場にいた時の華やかさも美しさも、随分と霞む疲労感を漂わせた表情に、深いため息。これからの事を案じていると、もしこの場で誰が入って来ても察してくれる。そんな人、一人もいないよ。恨めしそうに、自分の人生で作ってこなかったのを後悔するように扉に視線を送る。

 それでも道はそこしかない。どこかに迂回道を作るとしても床を、天井を突き破るなんて裏技を駆使しても、落下の振動や音で注目を集めるだけだ。まあ、この侵入者だけが逃げるには、このまま地上まで駆け下りれば済むが、後が怖いからしない。一瞬だけ浮かんだ脳の提案に首を振り、窓で行くと決心を固めた。

 真っ白いのは天井だけではない。繋がっている壁も同じだ。シミがないのは完成したばかりだから当然。だったらあの黒い点はなんなのか。慰めの言葉を掛けてくれる人を連れてこなかったドアから視線は外れ、椅子から腰が浮き上がった。

 選ぶべき方法は定まったが、場所が問題だ。部屋の窓でも、今日使う予定のない部屋から出てきたら一発でアウト。廊下の窓を使っても同じ事。ならば、使える窓はあそこしかない。

 近くに来たが、何かわからずにしゃがみこむ。手も這わせていたので、屈んだ時点ですぐに穴だと認識できた。問題はこれからだ。この穴がいつできたのか。もし工事の手抜きなら他にもこんな個所があるかもしれない。

 何とか上の階までたどり着いた。慎重にではあるが、素早く扉を開く。身を乗り出して前方を、誰もいないのを確認して後方も確認する。大丈夫、少なくとも今は安全だ。音を立てないようにドアを閉めて進む。目的は一つ。

 綺麗に開いてる穴が、失敗で出来たのではないと直感した。腕をノブに伸ばしながら立ち上がり、廊下を見回す。誰かいるはずだ。見回りがいなければおかしい。

 探して回る廊下の窓。どの辺だったか思い出す。同じ場所にあってくれればよかったが、そうではなかった。階段からではなく、エレベーターからの距離で大体の位置を探る。確信は出来なかったが、ある程度近い場所を見つけて足を止めた。はめ込み式の窓なのだから開けられない。どう見ても刃物は持っていないが、開ける術をこの侵入者は持っている。ポケットから一枚の葉っぱを取り出した。片手は窓に吸い付けるように五本の指を立てて置き、もう片手は葉っぱで窓の淵をなぞっていく。

 聞こえたような気がしたのは、間違いじゃなかった。確かに誰かいた。それが従業員ではないはずだ。二人一組での見回りが義務。一人だけなら目立つし、この階は定期的に巡回する人間が変わる。情報は何も出していない、相手は何かしらを得ようとしていたネズミ。これはチャンスだ、挽回する好機だ。廊下を曲がるが誰もない。

 窓を切り終えた。高層階になれば、窓を開けて穏やかな風を感じるのは困難だ。強い、軽い寝癖なら反対方向に寝癖を付け変えてくれるぐらいの風は吹いてる。すぐにでも吹き込んできていいはずの風が、侵入者の手の動きに合わせて待ちわびたように吹き込んできた。五本の指で、持つ場所がなかった窓を掴んでいた。吸盤なんてない、侵入者の握力がなせる業。本来なら雨風を凌ぐ窓を水平にして、そこからは荒く廊下に寝かせた。

 何もないわけじゃなかった。絨毯が随分と凹んでいる。いくつかの足跡もあるし、何よりも強い圧力が掛かっていたようだ。この近辺以外は残っていないから名探偵でなくても推理は出来る。この近くに潜んでいるのかもしれない。いっその事、自分が捕まえようとしてやられたとしてしまえば少しは名誉が回復するか。そんな淡い思いを持ちつつ、近くの部屋を覗いてその考えは変わった。

 窓枠には足が掛かっていた。枠に一杯に広げられ、窓の嵌っていた壁に力を加えて体重を支えている。吹き荒れる風に帽子は諦めて廊下に置いてある。手には丸めた二枚の葉っぱ。何をするのか聞こうとしても、この風と状態からでは話をするのは無理だ。聞かなくても侵入者は行動する。丸めた葉っぱを壁に突き刺した。言葉だけでは誰も信じないだろうが、本当に葉っぱが突き刺さったのだ。次の瞬間、足が窓から離れ、侵入者の体重を葉っぱ二枚が支える格好になった。体操の吊り輪で倒立をしているようなものだ。そこから演技が始まる。

 走って戻る部屋。あの二人は死んでなかった。生きてたようだが、目の前で、今まで何度も見てきたが一人であんな人間を見たなら、女一人では絶対に抵抗は不可能だと悟った。

 ゆっくりと体を倒していく。風に揺すぶられずに体を倒していき、九十度から五十度くらいまでは順調に倒せたが、それ以上は手首の関係で聊か困難だ。一呼吸吐いて、まさかこんな高層で本当に吊り輪の演技を始めるかのような間合い。一度唇を舐めた舌をひっこめると、右手を離した。一気に倒れる体、外した右手は壁と左手の指一本の隙間に人差し指をねじ込んで、次に左手も離した。一人の人間の体重を指一本で支えている。一点だけには掛けられないが、ほとんどの力を指一本に込め、重力に抗う。落ちるよりも先に始めた回転で、足が壁に触れた。ただの壁じゃない。窓枠の嵌っている部分の壁だ。次に左手で葉っぱを掴む。赤く膨れ上がっていた人差し指から、少しだけ血が散った。これでほっとは出来ない。片足だけでは不安だし、まだ勢いも死んでいない。蹴りそうになる窓から軌道を変えて、一旦普通の壁に足を叩きつけて勢いを殺してから両足を窓枠に乗せた。土踏まずも乗っていないが、体を支えるにはこれで十分らしい。一息吐いた。今度は少し安堵して、上で窓を切ったのと同じように葉っぱを使った。

 先程までいた部屋に戻ると、一番初めに女性がしたのが鍵を閉める事だった。怖いものは怖い。二つ以上の顔を持ってはいるが、人間であるのは変わりない。死ぬのが怖いのは生きている証で、防衛は生存本能だ。ちゃんと閉まったかノブを回して確認を済ませて備え付けの電話を取りに机に向かった。

 ボタン何てはずしている暇はない。一気に引きちぎって上着を脱ぐ。まだ二人は意識を取り戻していない。ズボンも同じように引き千切り、二人を縛っていた自分の服に着替える。狭い個室とはいえ、肩に誰も背負っていないのですぐに着替え終えた。

 繋がる内線。一言目が随分枯れていたが二三喋る間に戻った。強い意志を感じるハキハキとした口調。元々が日本人のような綺麗な発音に関心してしまいそうになる。伝えたのは三つ。一つは護衛を寄越せ、一つは今女性がいる階を探せ、そしてもう一つ。

 洗面台の前で止まる。服の皺が酷くネクタイもしていない。何よりも自分がここに入ったと見た者は個室で寝ている。このまま廊下に出れば無事で済むだろうか。こんな考えなら、あまりこういう行為をするのには向いていない。髪の毛をグシャグシャに乱して、水で濡らした手で何度か頬を叩く。大丈夫、普段通りの顔に戻れば怪しまれもしない。日常がそうなのだから。


 無線が鳴った。エレベーター前で退屈そうにしていた一人が反応して返事をする。先に取られてまたやる事がなくなった従業員は何気なく廊下の確認をする。左、何もない。右、何かいる。

 横の従業員は唇に指を当てて静かにしてくれとやっている。神妙な面持ちでのやり取りに、邪魔をしたら文句を言われそうだ。だったら仕方ない。一人で対処するしかない。

 腹を抱えて、髪の毛は一本も寝ておらず、顔は水分でべた付いている。冷や汗だ。足を引きずっているのは、素早く動けないからか。

 あまり振動を与えるのもかわいそうだと、かすかな振動も起こらないようなゆっくりとした足取りで声を掛けに向かう。

 せっかくのパーティーなのに、勿体ないな。そんな気持ちが働いた。碌に物も食えてないんじゃないか。完全に腹を下してる。

「大丈夫ですか?」

 廊下の絨毯でもいいから横になりたいと訴えかけてきた。言葉には出ていないが、表情が助けてくれと声を張り上げている。

「は、はい。大丈夫です」

 嘘を付け。反射的に出そうになったが喉の奥の蓋で閉じ込め、手を添えた。

「会場に戻りますか?」

「はい、あの、子供が待っているので」

 今後の事を考えると、付き添うしかない。もしこれを誰かに見られ、仕事がありますと見捨てたら嫌な噂が広まる。体調不良の人を無視するような従業員がいるホテルだなんて、何とも食いつきのいい記事になりそうだ。

 手を添えて引っ張り、会場にまでどうにか連れて来た。一瞬、抱えようかとも考えたようだが、ないとも限らないから止めた。首か背中に戻される事があるかもしれない。

 ここで見捨てるのもまた野暮だ。余計に周りの目がある。子供がいるのはどこか聞くと、恐らく物を食べているという事なのでバイキングの台の付近に向かう。

 親が腹を壊しているたらさぞかし心配してるだろう。そんな考えがあった従業員は、現実に言葉を失った。

 床に正座をして、両手を前に付いて項垂れている女の子の姿。これが娘だというのだから明るく声を掛けろとはとても言えない。肌も触れなくてもスベスベで、見上げた顔も可愛らしい。ただ、親の心配よりも食欲が勝つ性格はどうなのだろうか。

 二人とも顔を確認したが、口は開かなかった。開けなかったと言った方が正確か。男の方は呆れて、女の子の方は一言でも発してしまえばギリギリまで詰め込んだ何かが口の奥底から溢れ出てきそうで。

 何も言えなかったが、じっとしてても始まらない。逆に終わってしまう。帰りましょう。父親が手を差し伸べた。娘も掴んで立ち上がった。

 なぜか自分までも同じ目線で見られているような気がして、従業員は目を伏せて、急いで退場を促す。こんな場面で顔を憶えられたくもない。

 父親の方は頷いて急いで出ることを承諾してくれた。今は、少なくとも周囲の目を確認しなくていい。帰りに変な目で見られないか確かめる時の一度でいいはずだ。蔑んだ目を確かめるのは。

 二人の足並みは揃った。一刻も早くこの場を離れようと確認を取らずとも納得し合って出口に向かおうとしたが、この焦りの原因が二人の足を止めさせた。

「袋」

 たった一言だった。唇は震えている。これ以上言わせるなとではなく、次の言葉を出すときは吐く時だと涙まで流して訴えかけている。

 指の先にあるのは黒い袋。ずっしりと重たそうに、太った人のお腹がズボンに乗っかり崩れているように膨らんでいる。何が入ってるのか、二人に聞く勇気はない。ただし想像はついた。このパーティー会場にいる人間で、バイキングの皿から舐めるようにごっそりと料理を取る人間がいるとは考えられない。この娘以外は。

 しかも手まで汚れている。恐らくはあの骨付き肉が汚させたのだ。軟骨も骨に薄く残る肉も綺麗に無くなり、食べる部分が何もなくなった白い骨の山、目算で四十本の塊が残った皿がある。

 これだけ食べてまだ持って帰ろうとするのか。二人同時に思ったが、とてもじゃないが断れない。そんな時間もないし、空気でもない、何よりも娘が可愛かったからと従業員が心に思っても口には出せない。

 互いに袋を一つずつ掴むと、振り返らずに一直線。人を掻き分けずとも向こうから避けてくれるので苦労なく会場から出られた。二人は速足のままエレベーターに向かい、下に押すボタンを押した。

 顔色は悪いが、父親が従業員に頷きかける。

「ありがとうございます」

 あの状況で、ここまで来たんだ。すぐさまホテルから出たいという気持ちが伝わってきた。分かっていますと頷いて返事をした。

 もう一度ありがとうと言おうとしたが、エレベーターの到着音にどうぞと促されて頭を下げただけだった。

 乗り込む二人。そこに先程エレベーター前で一緒に警備をしていた従業員が駆け寄ってきた。どうやら随分と上の階に集まれとの事らしい。

 袋を父親に渡すと、従業員は揃って階段に向かった。

 慌ただしい従業員の動きも、パーティーには無関係。当然、エレベーターが閉まって、二人が地上に向かったのも知らない。


     6


 二人の人間を下ろすのよりも自分の体重の重たさに少しだけ機械音で文句を垂れるエレベーターの中で、二人は無言でいた。

 井場は両手にごみ袋を持ち、彩君は両手で口を押えている。そうしていないと物が出てくるのだから文句は言えない。

 本来、動物は限界まではしない生き物だ。動ける限界を制限して、自身の体に危険が及ばないようにしたりする。食事に関しても、満腹中枢が働いて抑えるのだが、彩君の場合はないのかもしれない。生まれて二三か月で満腹中枢はできるというから、彩君は赤、これ以上はやめておこう。

「彩君。一つ、確認してもいいですか」

 鉄の箱が一階一階地上に近づいていると知らせてくる光を見つめている。横で小さい体をさらに小さく屈めている女の子の事は心配せずに、デジタルで減っていく数字を眺めていた。

「はい」

「それ、演技ではないですよね」

 期待はしていた。水の中に一分間蝋燭を沈めて火が消えない可能性くらいの期待ではあるが、ちゃんと持っていた。

「はい」

「ですよね」

 あっさりと、水に沈めた瞬間に火は黒い煙を残して消えたが。

「もし演技だったら、中々の機転だったと思ったのですが、少しだけそんな考えを持った俺が馬鹿でした」

 この言葉に対して、普段なら一つくらいやり取りがあってもよさそうだが、彩君にそんな余裕はない。出来ればそっと、話しかけないでもらいたと無反応。

 妙なやり取りにも、井場も深くは突っ込まずに赤い数字を数える。

 数字が減る。大抵は悪い事だ。世の女性で、歳と体重が減る以外に数字で減って欲しいものがあるか、どんな答えが返ってくるかアンケートを取ってみても面白い。

 一般的にはよくないが、エレベーターの数字に関しては人それぞれ。高いのが嫌いなら減って欲しいし、空に近づきたい人は増えてほしい。井場の場合は早く減ってもらいたいと、少し時間を欲しいの両方が存在する。理由は二つある。

「彩君。一階に着いたら走りますよ」

 このままでは走るなんて到底不可能なイヴが隣にいるから。もう一つは赤いドレスのオーナーが最後に伝えた言葉。

「もう一階には、俺達を捕まえようと従業員がいるはずです。流石に歩いてでは抜けられません」

 話しかけるなと言っている。彩君はまったく反応せずに無言で口を塞いでいる。

「それと、この袋は置いていきますよ。邪魔に――」

「ダメで――」

 慌てて出した言葉は途中で飲み込んだ。胃酸も含めて。

「向こうは何人いるかも分かりません。あなたがその状態ですから、俺が抱えていくしかないでしょ。だったらこれは荷物に――」

「凛ちゃんに、食べてもらう、から、ダメ」

 慎重に、胃酸を刺激しないように選んで意思を伝えた。大層だが、本当に人質を解放してくれと交渉しているような言葉運びだ。

「はぁ、別に姉さんはそんな事で文句は言いませんよ」

 二人の関係はよく見えないが、井場が姉さんと呼ぶ人物に袋でグシャグシャになった食事を持って帰りたようだ。それが喜ばれるかは別として。

 じっと、安静にしていなければいけない満腹状態なのに、彩君は続ける。ここで折れる気はない。

「持って、帰る。凛ちゃんに、食べて、欲しいから。おいしかった、から」

 ここで説得するのはどうやら無理なようだ。女性の相手に慣れているなら、事の運び方も変わるだろうが、とてもじゃないが井場はプレイボーイじゃない。人生でモテた経験が一度有るか無いかの男。これからあるかもわからないから勉強のしようもないが。

 別方向に持っていく力もなく、残り三つを残した赤い数字に別れを告げた。

「では、一つは彩君が持ってくださいね」

 膝裏に手を回し、背中に手を添えつつ彩君を寝かせるように抱え上げた。

 抱える方も抱えられる方もこんなパーティーに来るよりもよほど慣れていると、手慣れた様子で簡単に持ち上がった。

 片手は離せない。もし自由にしたら溢れ出るから。でも約束はしたから、背中に回していた手から袋を一つ受け取る。両手ならまだしも片手ならこのまま落としかねない。でもお腹の上に置くのは不可能だ。だったらどこならいいだろう。置ける場所が少ない自分の体を眺めて、本当に単純に、いい場所を見つけたと彩君は袋を持ち上げて置いた。

 唯一安全における場所、それは自分の膝の上だった。つまりは、井場が袋を持っている腕の上。抱えている状態も、水平より頭の方を上にして足の方を下げているから彩君の体重も、食事の入った袋二つ分の重たさも一本の腕に掛かっている事になる。

 それでも文句は言わなかった。言う前に一階に着いたのを告げる音が鳴ったから。


 七人の従業員が入り口の前に立っていた。一定の距離を取り、いつでも撃てるように構えている。

「随分と物騒ですね」

 女の子を抱えた男が、ゆっくりとエレベーターホールからフロントのある空間にやってきた。黒い、ごみ袋のようなものを持っている。中に入っているのが武器か何かかもしれない。従業員達の腕に力が入る。

「まさか一人で調べていたの?」

 赤いドレスの女は入り口側ではなく、エレベーターホールに近い壁際にいた。男は自分に向けられる鉛を吐き出す口の視線をかわして、美しいとはっきり断言しても問題ない女に瞳を向ける。

「一人に見えますか」

 確かに女の子を抱えている。どこをどう見ても一人ではなかったが、調べていたとなると別の話だ。男の服装は乱れ、随分と動き回っていたと窺えるが、女の子は違う。顔色が悪い。緊張や疲れからではなく、気持ち悪さからくる血色の悪さだ。

 そんな子が調べ回れるだろうか。演技で血の気まで引かせる事が出来るなら、この女の子はすぐにこんな危ない仕事を止めて女優になるべきだ。今の若手女優の中に混ざっても一年必要なく頂点に行ける。

「動けるのは」

 冷静な対応に、男も足を止めて対応する。本来なら失礼がないように鏡の前に立って服装を正したいが、そこまでさせてはくれない。従業員達が邪魔をするだろう。

「確かに」

 赤ちゃんが母親のお腹の中で丸まるような体勢のまま女の子は動いていない。

「なので、提案を一つ。俺達をここから無事に出してくれませんか」

 とんでもない提案に、従業員は戸惑ったが女は大きな声で笑った。十人しかいない広いホールの中で声が木霊する。

「食べ過ぎたようなので、走れなくて、この子」

「そんな事で、素直に出すとでも」

 状況的には無理だ。どう考えても無傷でこのホテルから、二人が出る姿を想像できない。ごみ袋の中に重火器でも詰まっていれば違うかもしれないが、相手七人は既にサブマシンガンを構えている。

「えぇ、出してもらえると思っていますが」

 この状況でも、男は平然としている。どこぞのアクション映画くらいでしかお目に掛かれないような状況が、目の前で、自分に対して行われているのにこの冷静さ。慣れという感覚をマヒさせる麻薬は、どんな薬よりも怖い。

 こういう状況では、せめて拳銃を構えているくらいが日常だ。それならまだ平然としていてもいいが、流石にサブマシンガンはこんな街中ではお目に掛かれない。

 構えている方も、そんな銃をこんなホテルの入り口で人間に構える経験はこれっきりの体験だ。存分に楽しむつもりらしい。自分の腕に感じる重たさにも、怯む様子がない。先程までいた従業員達とは、顔つきからして違う。する仕事が違うのだろう。

「ふざけないでもらえるかしら。洒落は好きじゃないの」

 きつい表情。好戦的な口調。相手をねじ伏せるのがさぞ好きなのだ。惨めにも唇をかみしめて、見上げてくる瞳が好きなのだ。だからそういう表情をしなさい。この絶望的な状況で。

「洒落じゃありませんよ。出してくれると信じていますから」

 微笑むなんてあっていいはずがない。受け流しているというよりも、頭を良い子良い子と撫でられている。

 歯が削れる音がした。女性には似合わないがこの女にはよく似合う苛立った表情。眉間にも鼻筋にも皺を寄せて暖簾に向かって腕を押す。

「アナタはどこの飼い犬よ、素直に答えなさい!」

 ヒステリックになる。パニックとは違い、一人で叫んでいるだけだが見ていて気持ちいがいい姿ではない。本人は気付かなくても、周りが止めるべきだがこの女にはそんな人物がいない。この場面だけを見ればだが。

 どれだけ強く当たっても、いくら勢いよく包んでも、最大限努力して優しく囲っても、風は捕まえる事が出来ない。男はよく知っている。自分が何度となく体験してきたから。

「だったら貴方はどこに飼われているのでしょう?」

 グッと赤いマニキュアが手のひらを突き刺す。深々と刺さっても、赤く染まったのが流れ出した血かどうかも区別がつかないほど、真っ赤だ。

「こんな質問をされて答える犬がいますか? よほど自分に自信があれば別ですが、俺は憶病なので」

 すっと顔を寄せる。両手で口を押さえている女の子の耳元に唇が触れそうなところで動く。

 従業員が反応して安全装置に指が掛かる。下ろしたての黒い銃身が熱を帯びる期待感に膨らんだが、女が止める。

「撃ってどうする!」

 それを踏んでいた。撃てるはずがない。

 女の子が手を翳して目を閉じる。口が動いて男が頷く。女の声に、従業員は慌てて走り出したが、そこに向かって巨大な影が伸びてきた。

 緑の少ない都会にちょっとでもいいから自然を作りたいのなら屋上緑化を法律で決めればいいが、そんな無駄なものが通るはずもない。自然保護団体も保護やそこに関するお金が目的で、積極的に緑を作りはせず、企業も苦笑いで適当に観葉植物を置いておけば自然を考えているとアピールできると思っている。

 このホテルが今記者に発見されれば、銃の事は無視してでもこの巨大な、突然現れた木を特集してくれるはずだ。フロントから太い幹の広葉樹が入り口を塞いだ。従業員は幹の中に捉えられた。

 男は走り出した。その広葉樹に向かって。女も追いかけようとはしたが、高いヒールでは追いつけるわけがない。ヒールを履いていなくても追いつけるとは思えない速さで広葉樹の幹を蹴り、上に乗った。

 一度振り返ると、見下すはずの瞳が見上げている滑稽な姿を目にした。悔しくて憎くて、でもどうしようもない。振り返り止まっているのに、手を伸ばそうにも影さえ掴めない。

 無表情で男は振り返ったが、女は途中で男が笑ったように感じた。自分を馬鹿にして、コケにした。思わず、自制心もどこかに飛んで、抑えたはずの銃声よりも大声で叫んでいた。

「許さない、許さない! 私に挽回させないアナタを許さない!」

 八つ当たりはぶつかるべき相手がおらずに、ホールの中を彷徨った。向けるべき苛立ちはこの生えた木しかない。ツカツカヒールを鳴らして近寄る。

 爪がボロボロになるまで引っ掻こうと思っていた木が、手が届く前に消えた。中から暴れまわっていたのか息を切らして服装をを乱した間抜けな従業員が代わりに出てきた。

 もう怒りのぶつけるべき相手はこれしかいない。突然自由になって驚いていた従業員の前まで歩みを緩めず近づくと、何でしょうかと動こうとした頬に向かって往復でビンタをした。

 綺麗に人の頬からなる乾いた音が響いて、入り口に背を向けた。なぜ自分だけがビンタをされたのか頬を抑えて考えている従業員だが、ただ目の前にいたからだと気付くことはあるのだろうか。振り返った女はまたヒールを鳴らして歩き出す。

 何でだろうかと悩んでいる従業員ではなく別の人間が声をかけた。

「あの、どちらへ?」

「……上に戻るのよ」

 乱れた髪を手櫛で梳いて歩き出す。途中で抜けて随分時間が経っているのでそろそろ戻らなければいけない。化粧も直す必要があるが、上に行って本格的に修正しないといけない。

 もう悔しくても顔を崩せない。一歩進んでは息を吐き、苛立ちを排出する。そうしなければいけない。体の中に負の感情が残ってしまえば化粧なんかで隠せはしない。いくら相手が馬鹿の老人であっても。

「生き残るためよ」

 エレベーターホールの上がるボタンを押した。

「日の差す世界に、残るためよ」

 開いたエレベーターに乗り込む。最後に残した言葉は、次の誰かがボタンを押すまで床に転がっている。いつかここに戻ってくると、縋り付いていた。


 足をバタバタさせている彩君。まるで誘拐したような光景だが、井場の言葉はどうにか持ってくださいと励まし続けているので、近寄れば勘違いはされない。暫く全力で走り続け、ホテルから二つ曲がった通りに出た。

 町のど真ん中にあるホテルだ。敷地は建物が立っていて庭を作る余裕はなかったが、目の前には道路があって交通の便はかなり優れている。そこを売りにしているホテルでもあるのだから当然だが、井場が確信を持っていた相手がサブマシンガンを撃てなかった大きな理由は、ここにあった。

 角を二つ曲がった先で、都会の真ん中で初めて車を一台見つけた。それまでは一台もなかった。走っていなかったではなく、止まっていたのも初めて見つけた。こんな不自然な事はない。しかも車は端に寄せずにハザードランプも出さずに止まっている。

 それが自分の迎えだと、近づき窓が下がって初めて知った。

「乗れ、井場」

 懐かしい声だった。一応、誰の気配もないが辺りを気にして、何もないと納得してから車に乗り込んだ。

 助手席の窓が閉まり、代わりの後部座席の窓が開いて、そこから彩君が顔を覗かせた。まぁ、あとは言わなくても分かって貰えそうなので書かないでおこう。

 走り始めた車。信号はちゃんと機能しているが、人っ子一人いない。ここだけが、この一帯だけがドラマか何かの為に作られた巨大なセットのようだ。

 赤になった信号を無視して車が突っ切る。時速は五十キロ程度に抑えている。それ以上早くすると後部座席の小さな顔が心配だから。

「久しぶりだな」

 ハンドルを握る男から話を切り出した。井場からでは中々口を開けなかった。真っ白で滑らかな背中を摩りながら、バックミラーを見ずに対応する。

「お久しぶりです、田中さん」

 失礼かもしれないが老人と呼ぶべき年齢の男、田中はバックミラー越しに歯を見せた。井場が顔を伏せているのは確認していたが、それでも笑顔を作った。

「お前が今回の事に加わっとるとは聞いとったよ、篠田警視から」

「今回の事。この人がいない町の状態の事ですか」

 井場の陰鬱な空気も染まる、明るい笑い声だった。それがまた辛くて、井場は余計に小さくなる。

「これはテロ対策の訓練だ」

 高層から身を乗り出して眺めた下の町の、ある一定範囲から明かりが消えていた。それでこの町一つから人が消えていたのか。そんな単純な事で可能とは考えられない。日本でこんな大規模な訓練をしようものなら非難轟々は間違いなしだ。

「随分とタイミングがいいですね」

 そこも引っかかるところだ。どちらが先か、鳥か卵が先かの答えは簡単に用意できないが、この問題の答えは簡単に口から出てきた。

「だからあんなあからさまなパーティーに要人が集まっとったんだ」

 集まれる機会を作った。誰にも怪しまれずに集まる為にここまでするか。知らない世界の者からすれば苦笑しかないが、彼らもまた必死なのだ。

 蹴落としたと思ったら、向こう側にまた一人いた。そこを気にしていたら上から蹴りが飛んできた。どの世界でもそうかもしれない。そう考えれば小市民が生活苦を考えなければ一番楽なのかもしれない。

 ハンドルが切られて右折する。

「聞いてなかったです。訓練があるとは」

「聞いとったら、訓練にならんだろ」

 車に乗って初めて井場も笑った。

「たまには会いに来い、井場」

「俺にはそんな事、出来ません」

 ゆっくりと背中を摩る。泡の立たない濡れた石鹸のような触り心地の良さに、嫌らしい気持が生まれて当然だ。ただ井場は違った。謝るように目を閉じて、ゆっくりと摩る。

「鬼柱って名前は、ご存知ですか」

 彩君が聞けば怒る名前も、車の外に出して風に吹かれていれば耳には届かない。一瞬彩君の首を越して言葉が外に飛び出しても、すぐに数メートル後ろに置き去りにされる。

「あぁ、知っとるよ。その子なんだろ、娘」

 返事は出来ない。本当は口に出したいが、出てこなくて頷いた。

 ここで気楽に、気軽な言葉を掛けられるタイプの男だと思っていた田中の口も重たかった。慎重に言葉を選ぶが、誰も飛び出さない路地を気にして上手く切り返せない。本来なら上手いのだろうが、井場相手だからか、井場の話した事だからかは区別がつかない。

「俺がもっと慎重に動いておけば、あんな事にはならなかった。甘かった。本当に甘かった。自分自身にも、篠田警視を見抜けなかった目も、本当に」

 車の中は長く無言になった。どちらも話し出さない。最初に会話の切っ掛けを作ったのが田中なのだから、次は井場が当番だ。続けたいのならそうだろうが、その気はなかった。

 ただ一言、田中にも、彩君にも、自分自身の耳にも届かない声で呟いた。「綺麗になったぞ、鬼柱」

 車が向かったのはあるマンションの駐車場だった。規制されている中にあるマンションだったが、この横側には路地にできる場所があった。その中に三人は消えた。

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