世界に生るのは成熟した三つの実
朝日が差し込む玄関に一人の女性がやってきた。彼女の名前はサニー・ローレンス。
海の風を全身に浴び、お尻を突き出すように屈む。身長が高く、手足も長いがモデルのようなスラリとした体型ではない。バレーボール選手にスカウトされてもおかしくないしっかりとした筋肉がついている。
突き出されたお尻にぴったりと薄い生地のホットパンツが吸い付いている。性別がもし男なら、このホットパンツは生まれてきたことを天に感謝しているはずだ。デニム生地ではなく、下着と同じ生地なので寝間着として着用しているのもあって、もうたまらないだろう。あくまでも、もしの話だが。
さぞ触り心地のいいお尻を、食べてみると露骨に誘惑しているのに気づかない男はいないだろうが、後ろには誰もいない。居るのは前だ。
「あまり刺激的な格好はしないでほしい」
「大丈夫、私、女の子が好きだから」
「そういう問題ではないんだが」
上着もタンクトップ一枚。下着はつけていない、というよりもこの格好が下着そのもの。体を倒している事もあって、覗き込めば胸の形は確認できてしまう。
したくなくてもしてしまうのが男の性だし、話し相手の男もそういう事を言っている。普通ならセクハラで問題になる現代だが、彼女は平然と見下ろしている。ここまで余裕があるのには理由がある。相手は絶対に自分に対して手出しをできないと知っているから。まぁ、それだけではないが。
「じゃあ、どういう問題?」
男っぽい性格なのは格好で分かる。顔もスタイルも、どちらも男に口説かれる用に作られてはおらず、女性に色々な意味で憧れる為に造形されている。
とはいってもだ。彼女ほどの女性が目の前で下着姿を披露していて、こんな風に問いかけられて飛び掛からないでいるには相当の忍耐力を要する。
「仕事ができなくなるし、第一君の彼女に殺される」
もう一つ、君に殺される。付け足す必要があったが、どちらも口にはしなかった。
「大丈夫、結構浮気してるけど、気づかれなければいいんだよ」
「それを私の前で言うかな、普通」
化粧をすればいくらでも美人の部類に入るのに、寝起きもあってかその気は微塵もない。間違っても男性とは勘違いされないだろうが、役者になった時には男役でも勤まりそうな顔を崩して、性格がにじみ出る笑い声で笑った。
「は」をはっきりと聞き取れる豪快で大きな声。五十センチと離れていない男は耳を塞いだ。それを見てごめんごめんと謝り、腕を伸ばす。
「確かに、そんなこと書かれたら私が殺されるな」
慣れた手つきで、男も腕を伸ばす。
ここは白い空間、サニーが上半身を突っ込んでいるのはポストの中。そして、この男はポストマン。世界中で起こった恵種に関する出来事を新聞にして月に一度、契約している個人、団体、組織、国に売り配る。
安い紙に皺が寄る音がして、何もなかった白い場所から夕刊くらい薄い新聞を抜き出す。これから何百回繰り返す動き、新聞を渡す。渡した後は代金を受け取る。こんな生活をしていてもお金がいるのだから不思議だ。
「またどうぞ」
ポストから体を抜き、来月と手を振る。ポストマンが手を振りかえしたかは見えなかったが、今まで白い空間だったポストの中は黒い、普通の家のポストと変わらないただの箱になり、影を作った。
うんっと背を伸ばす。短くボサボサに切られた髪が、潮風に揺れる。髪を洗うのに短い方がいいという理由で昔はほとんど坊主頭と変わらなかったが、今は耳が半分は隠れるほど長くなった。真っ白ではなく少し焼けた肌に黒の混ざった茶髪が映える。
「朝の風は気持ちいいなぁ。このまま泳ぎたいけど、飛び込んだら死ぬって怒られるし、やめとくか」
止めとくと言った割には名残惜しそうに海を眺めて、納得させるように三度下を覗き込んでから中に戻った。畳一畳くらいの玄関を一歩でも出ると、海に落ちる設計になっている。欠陥住宅ではない。ここは家ではなく、動く建物。
「あの、朝ご飯食べませんか?」
「駄目だ。お前、昨日キスさせたらこれが完成するまで手伝うって言ったろ」
鉄骨が剥き出しの部屋。床も壁も天井も全て鉄板。色が少し茶色くなってはいるが、錆びて今にも崩れ落ちそうといった感じではない。むしろ古くは感じず、錆びだけが剥がれ落ちそうだ。
バスケットコートなら四面置けそうなほどの広さがあるが、階段が二つと普通の家のサイズのキッチンに、八脚の椅子とテーブル、食器棚と冷蔵庫があるだけの寂しくガランとしている。
二人の女性は、ダイニングキッチン風の場所から遠く離れた所で作業をしていた。骨組みだけだが、随分と大きい物を作っている。
「それ、とれ」
目が確認できないほど分厚いゴーグルに、油汚れかソバカスか見極め不能な頬と鼻に付いている点の数々。
命令口調で取らせた鉄板を受け取ると、邪魔だと髪の毛を顔から払い除ける。玉にされていれば細く美しい糸に勘違いしてしまう美しい金髪なのに、自分の髪が不要だと言わんばかりだ。
細長く丸い、魚雷やミサイルみたいな形の物体の周りを鉄板を持ったまま歩き始める。着ている白衣は床を掃除している。随分と大きな面積で、もう少しサイズに合った物もあるだろうに、何故これなのか。身長は少女、小学生の高学年くらい。髪の毛の長さはロングの一歩手前ではあるが、身長の事を考えれば超ロングといってもよさそうだ。
顔の大きさも身長の割には大きいが、肩幅からしたら小さく手の長さも下に気を付けをすれば擦りそうな程。かなりバランスが悪いが白衣のボタンをちゃんとしているのでどういう格好なのか確認はできない。
二週回って、三週目の途中、魚雷で言えば弾頭部分の場所で足を止めた。
大工が木材を肩に乗せて運ぶ時のようにして持っていた鉄板を体の正面に持ってきた。まだ魚雷は骨組みしかなく、板状のものは貼り付けられていない。それに、まだまだ板を張り付けるには骨が足らない。今つけたとしても、完成して水面に浮かせたりしたら自分の重みに耐えきれなくなって崩れる。作り始めたばかりという感じだ。
ゴーグルの女性が作り始めたのなら知っているだろに、スカスカな骨組みに鉄板を押し当てた。二十秒、しっかりと右手で鉄板を押し当てる。鉄同士が触れているのは一か所で、手が何百度にでもならない限りくっつくはずがない。
三十秒が過ぎた。抑えていた右手が骨組みから離れて鉄板の上を滑る。顔よりも高い位置にある鉄板の一片を掴み、左手で下の一片を掴む。
一瞬だけフリーになっていた鉄板。浮いているのかとも錯覚したが、両手で支えているから違う。そう思いたかったが、次の瞬間、彼女が人間ではないと知った。
鉄板がゴーグルの女性の手の中でどんどんと縮んでいく。柔らかいチョコレートを舌と上顎で潰していくようにゆっくりと、形を残しながらふにゃりと。甘い味のしない蕩ける鉄を掌で押さえつけていくと、両手の指が触れ合い、交互に絡み合っていく。手のひらの部分はくっつけずに親指同士をくっつけると、輪を作った。
人間の体温はどれだけ高くなっても鉄をこんな風に細工することは不可能。なら一つ、このゴーグルの女性は恵種だ。
無理やり形を変えられてしまった鉄は、もう彼女の手に為す術なく丸く一本の棒に姿を変えていく。軽く丸みを帯びさせて膨らみを演出する。曲線、ゆっくりとしたカーブを描き終えると、残りは一気に鉄の棒を伸ばして一本の骨組みに作り替えた。両手を離したがもう完璧にくっついている。
「あの、エリカさん」
「なんだ」
ゴーグルの女性、エリザベス・カレンは呼ばれても返事をするだけで出来たばかりの鉄の骨の出来を確認している。指で弾いたり、少し離れてバランスを確かめたりと忙しない。
「これって、どれくらいで完成する予定なんですか?」
手伝えと言われている割にやる事がないこの子は、ナタリー・キース。ここに来る前は娼婦をしていた。朝から晩まで、寝る暇もなく色々な店を掛け持ちし、それぞれの店で常にトップを誇るほどの人気だった。
別にお金を稼ぐためにやっていたわけではない。今の彼女の格好も普通の、彼氏が来ない時用のラフで着やすい素材のパジャマで、セクシーなものを着ているわけではない。ベテランの風俗ライターでもこの姿からは娼婦だと見抜けはしない。
「早ければ三日――」
お金を払って性欲を発散しに来る客が選んでいたのだから、顔は可愛くて当たり前。全体的に彫りは浅く、濃い顔が好きだという人には好まれないだろうが幼く見えるので広い層に受ける。
想像力を働かせれば、この状態から、もう少し前から手伝っていたなら尚更時間が掛かると分かっていたはずだ。誰もがそうではないのだろうが、彼女は一般的に思われている娼婦のイメージ通りの頭をしているらしい。
遥か遠くに存在する完成姿が発見できないと目を零れ落ちそうになるまで開いて驚いた。声も出ない驚きようだったが、エリカの言葉はまだ途中。続きをあっさり繋ぐ。「長ければ三か月だ」
あまりにも現実離れした完成予想時間。傍からは、まあ妥当な完成予想に、一本一本が太く中年以上の男性からは羨まれる、光の加減で灰色に見えるセミショートの黒髪を掴んだ。
「そんな、じゃあご飯は?」
いい疑問だが、待っているのは絶望だ。社会に出たなら聞いてはいけない事は、耳に入れる事も口に出す事も堪える術が自然と身に付くのだが、彼女は持っていなかった。だから答えを求めてしまった。
「その間なし」
こちらも、流れからすれば妥当だ。常識からは随分とズレを感じるが。
「いや、三日はまだしも、三か月って死にますよ」
初めて常識的反応をした。だが相手は非常識で話をする。平気だとちょこちょこと動き、使う予定もないだろう工具類が乗っている台車から錆に差す油を取った。
まさか。そう、そのまさか。蓋を開けるとエリカは油を夏場の仕事終わりのサラリーマンよりも豪快に、喉を鳴らして飲んだ。
三度ほど塊となって油が喉を通ってから口を離した。ぷはぁーと、擬音を付けたくなる。
これがもし、一般的に飲み物として分類されていれば、酒でなくても風呂上がりの牛乳やコーヒー牛乳、イチゴ牛乳でもいいし、部活終わりの溶けてきて飲み頃のスポーツドリンクでも構わないが、目の前で飲まれたのは動きにくくなった鉄製品の動きを滑らかに戻す為の油だ。真似なんて札束一つじゃやりたくもない。
「そ、それって――」
「油だ」
「それで三か月もどうやって過ごすんですか!」
「私は大体これが主食だぞ」
今度は膝を点いて空を見上げるように頭を抱えた。
「だからあんなに唇が光ってて美味しそうだったんですね! よくよく考えれば油の味しかしなかったし、血迷った、私血迷った!」
油を元の台車に戻して、平然と船体の確認作業に戻る。
「一応、人とのキスは初めてだったんだ。有難いと思え」
ファーストキスというのは、往々にしてドラマチックとは限らない。夢見る乙女が青春時代に想像していた初めても、青臭い友情を謳歌していた男臭い青春時代に妄想していた初めても、理想通りに上手くいった人はどれだけいるだろう。まさかの形で、こんなファーストキスを体験した人はいないはずだ。居てほしくもない。
初めてを奪ったなら言いえぬ喜びを噛み締めるべき現状も、相手が相手だけにそうとも言ってられない。気になる一言も忘れずに口から洩れていたし、確かめずにはいられない。彼女はそういう人間だから。
「人ととは、って、一体何と、キスしたことあるんですか」
怖いのなら聞かなければいいのに、どうしても聞きたがる人はいる。自分自身を演出している人の場合は違うが、怖いものが嫌いなのに指の間から怖い映像を見たがるあれと同じだ。
「私の恵種は知ってるな」
「はい」
「その研究の為だ」
こちらの分からない話だ。理解すると思ってエリカも話したが、分からないと首を傾げたのに気づいて、面倒臭そうに船体から視線を持っていく。
「私の恵種は工作だ。鉄を思い通りの形に作り替え、それを意思通りに動かせるようにする、な。ただなぜか、人の作った物しか無理なはずの恵種が、私のは作る形が限定されてる」
「動物とかですよね」
「あぁ、その研究相手達とキスをした」
さっきの言葉を巻き戻して聞き直す時間が必要だった。落ち着こうと心に命令しようとしていたのに、エリカが邪魔をする。ワザとだと思うが、なかなか嫌らしい。
「動物はまだしも、昆虫は辛かった。奴らの口は小さすぎるからな。力加減も難しいし、入れ過ぎるとグシャッだ。そうそう、キス以外もいろいろ経験したが、やはり昆虫は辛かった。奴らの物は入れるのも入れられるのも――」
「いやぁ! そんな話嫌です! 何でそんな事したんですか!」
「付け足しは可能だが、形を正確に模写しないと動かせないんだから仕方がないだろう。内蔵系は必要なかったが性器は必要だったからな」
「そんな、でも、そんな事しなくても!」
不思議な反応だなと、今度はエリカが首を傾げた。
ナタリー、呼び名はナナの彼女は娼婦をやっていた。表の娼婦など一握りも存在しないのだから、彼女も裏の世界を生きてきた。一応ルールは存在するが、色々な店を渡り歩いたとなれば個別の決まりが存在する。その中には性的サービスから一歩踏み込んだ店も存在した。性行為だ。
そういう道を歩んできていたなら、経験は当然済んでいる。人間以外とする機会はそうそうないだろうが、ナナも処女ではない。
万人がナナの人生を聞いただけならそう思って当たり前だが、彼女には男性経験がない。こう聞いても誰も信じないだろう。娼婦として幾つもの店でトップにいたと聞けば当然嘘だという。
人間の場合ならそうだが、ナナもまた人間ではなかった。彼女も一人の、人よりも優れた種、恵種なのだから。
「お前は娼婦だったんだろ? だったらこんな話も聞くんじゃないのか」
「確かに娼婦してましたけど、私は処女ですよ! そういう話も好きじゃありませんし」
変な奴だと、鉄の骨に意識を戻す。
「エリカ、ナナ、ご飯出来たから食べにいらっしゃい」
部屋の中にはもう一人いた。何もない部屋で物が置いてあるのは二人が集まるここともう一つ、キッチンのある場所。
はっきりと食事の言葉を聞いて、初めて鼻が利いた。朝食はあまり匂いがしない料理が主流だが、広いとはいえ同じ部屋にいて気付かなかったのは目の前の事態に手いっぱいだったから。
返事をした。ナナが向かうというニュアンスを伝えようとする前に、エリカが必要ないと。
テーブルの上には皿が用意されていた。六人分ある。勿論二人の分は含まれていた。料理を作っていた女性、リリス・クライスが何でと二人の方を見る。
エリカはこっちを全く見ていない。一方のナナは懸命に何ども首を横に振っている。関係性とは違う上下関係が堂々と二人の間にあるのを見抜いたが、敢えて頭と口は連動させなかった。
「じゃあ、昼は食べに来なさいよ」
優しい表情に、ナナは首を深く項垂れた。エリカに至っては反応すらない始末だったが、リリスは嫌な顔一つせず朝食を皿に盛り始めた。
厚い唇と黒い肌からして、リリスには黒人の血が流れている。人種はそれぞれに特徴があるが、リリスの場合、黒人らしさはそれしかなかった。鼻もすっきりと高く、色の色素が薄い束にして太陽に翳すと透けそうな茶色の髪。顔は唇以外は白人のそれだった。
だから彼女は昔苛められた。どうしても、どうしたって人は同じ場所に集まりたがる。同じ趣味、同じ宗教、同じ人間で。彼女は黒人のグループにも、白人のグループにも入れなかった。
両親がいたならまだ別だったかもしれないが、お金もない孤児だった彼女にどこかの輪に入る力はなかった。だから恵種になった。生きる為にはなるしかなった。生存本能がそう導いたのかもしれない。恵種には万人がなれるわけじゃないのだから。選ばれ、恵まれた種を持つ者だけがなれる。
幼い頃から恵種になった彼女の人生はそれほど変わりはしなかった。日の当たらない道を歩き始めても、どこにも入れなかった。ここ以外は。
「お、丁度いい時間」
新聞を持ってやってきたサニーが、料理を盛り付けていたサニーを後ろから抱きしめた。頭一つ大きいサニーの腕の中で、ここに来るまでは自分が作り方を知っているとは思わなかった表情になった。笑顔。嬉しそうな、幸せそうな言葉で表現せずとも物語ってくれる感情。
振り返り、朝の挨拶を交わした。それにしては随分と過激だが、二人は恋人同士なのだから誰も文句は言わない。もし同性愛を否定する者がいても、ここまで言葉は届かない。ズカズカ許可も取らずに踏み入ってきたら一大事だが、ここに踏み込んでくる勇気のある愛の伝道師は世の中探してもいやしない。二人はゆっくりと朝の挨拶を楽しんだ。
まだ続きをしたかったのか名残惜しそうなサニーを椅子に座らせ、食事の飾りつけを済ませた。
さぁこれで食べようと椅子に座らずに、今度はもう一つの物に取り掛かる。食べながらという者もいれば食べる前、食べ終わった後にと人それぞれだか、皿の横に並んでいる飲み物の用意だ。
冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出す。注ぐコップは三つ。透明なガラスが一瞬にしてオレンジの色に染まる。高さはそれぞれバラバラ。一つは半分、一つは七分目、もう一つはなみなみ。注ぎ終えて外に出しておく理由もないので、開けたままだった冷蔵庫に仕舞った。
残りは、用意されている皿を考えて三つ。好きでない者にとっては焦げを飲んでいるようにしか感じないコーヒーが用意されていた。白く底のあまり深くない、口の広いコップにコーヒーメーカの出来立てアツアツを注いでいく。コーヒーとカップの白と黒のコントラストは目で楽しむためなのか、毎日の事なのでリリスは不思議に思う事なく、同じような量を注いだ。
入れたてのコーヒーに、何も手を加えず、砂糖も添えないでサニーの前に置いて、残り二つのコーヒーカップも置いた。
オレンジ色のグラスは一つだけ食事の横に置き、残り二つはそれぞれ対応する朝食と同じ手に持つ。
「うん、何?」
毎朝の習慣。同じ事の繰り返しはマンネリになるが、時間短縮にも繋がる。経験は積めば積むほど良いとは言わない。不必要なものを溜めてしまう場合も当然ある。それが生きていくという事なのだから。けれどこの手慣れた朝食の用意は、一人追加されて日が浅いのに完璧だ。これが経験、積み重ね。
お腹は減っているのに険しい顔一つしていない横顔に、食べてくれと湯気を立てて待っている朝食には目がいかなかった。
「綺麗だなと思って」
目を逸らさないで伝えた。毎日一緒にいてもそう思える、思えていたとしても口に出せる関係は滅多な事じゃ作り上げられない。決まり事で、挨拶のようにするのなら続けられるだろうが、サニーは心が感じたままを伝えただけ。
お世辞でも褒められれば嬉しいのに、本音で褒められて嫌がる人はいない。嫌いな人なら別だが、リリスにとってサニーは掛け替えのない人。
ありがとう。長い二人の関係に、返す言葉は微笑み一つ。その顔がまた堪らなく好きで、もう一つの本音も出てしまう。
「だから今晩は裸エプロンしてよ」
完全におっさん趣味の下ネタ。始まったばかりの今日に、さっさと別れを告げて月がお天道様に変わってくれとの発言にも平気で、それでも嬉しそうに駄目とほほ笑む。
「エプロンはこれしかないんだから」
「汚れたって洗えばいいんだから、ね」
伸ばしたて手から踊るように腰をくねらせて逃げた。
もう一度食い下がったが、お尻を振るように歩きながら駄目と残して食事を運ぶ。向かうのは作業を続ける二人。
残念そうに溜息を吐いてはみたものの、コーヒーを口に付けながらおかずにしたのはリリスのお尻だった。一口飲み、今度は今日の夜の事を思い浮かべて溜息を付き、新聞を広げた。せっかくの出来立ての朝食には手を付けないが、一緒に食べるのが当たり前の二人には当然の行動。それでも、新聞から目を離してお尻を眺めながらコーヒーを飲むのは聊か行き過ぎだが。
効率を求める時、静寂を好む人もいれば、音楽がある方が集中力が高まるという人もいる。無言で、鼻歌も口笛も吹かずに、次の骨組みの繋ぎ合わせる個所を探しているエリカは前者。静寂の中で作業をする。
こういう人間は、総じて自分の世界に入り込む。周りが見えなくなるというやつだ。後者、音楽などを掛けたりする方は周りから自分を遮断する手段として音で音を消している。どちらが優れていると断定はしたくないが、必要なものを要せず、思い描く夢の中に入り込める人の方が集中力が上だと感じても無理はない。
凄みも、無音の中、一心不乱に何かに打ち込む人の方がこちら側まで魅入られてしまう。ナナもこんなに集中しているのだし、朝食を食べに行っても気付かれないと感じつつ、動けないのはそのせいだ。
「はい、どうぞ」
あまりにも広がるエリカの作業世界に引き摺り込まれていたナナは、真後ろまで来ていたことに気付かず、軽い悲鳴を上げた。
「は、リリスさん、あれ、いつの間に」
「食べるでしょ?」
ぼーっと突っ立ていたが、驚きのあまり座り込んでしまったナナと視線を合わせて食事とオレンジジュースを差し出す。
後ろに来るまで、こうやって目の前に出されるまで食事の存在を意識していなかった体だったが、こんなにも近くにあると知ってしまった瞬間には、もう止められなかった。くれと素直に腹を鳴らして返事する肉体と、嫌々ながらも手伝っていたのにいつの間にか同じ作業をしてる感覚になっていた脳は少し躊躇った。
私だけ食べてもいいんだろうか、いやダメだ。葛藤は隠れきれずに目が泳ぐ。食事とエリカのどちらを取るか。
「大丈夫」
これがもし犯人として取調室に座らせている時なら、罪を犯していなくても間違いなく犯人に仕立て上げられるほどあからさま。床にジュースと朝食を置いてリリスは立ち上がった。
鉄骨魚雷を半周回って横に立たずに台車の横に並ぶ。
一度目は無視、二度目は少し反応、三度目でイラッとした口調で返事をする。これもお決まりのパターン。そして、これに嵌ればもう簡単。
「はい朝食」
「必要ない」
あくまでも強気。それはどうかな。「じゃ、オレンジジュースも要らないのね」
分厚いレンズの下で黒目が動く。
「そ、そこに置いておいてくれ」
「ご飯も食べるんだよ」
返事をしない。だったら強硬手段。口に運んで飲むふりをして、負けを宣言した。
「分かった。集中も切れたし、食べるからそこに置いておいてくれ」
簡単に手玉に取られてしまった。どの世界でも母は強いし、母親の立場に立つ人間は一人一人の人間性の把握を一番している。
魚雷越しにナナにどうぞとほほ笑んだ。祈りを捧げるのではなく、いただきますと手を合わせた。これは日本の食事前の動作。この中にいないはずの国の文化だが、教えた人物は最後に階段から登場した。
「へへ、また姫と一晩過ごしたのか」
渇いて艶のない笑い声でエリカが茶化す。
「あぁ、今朝起きたらまた布団に潜り込んでたんだ」
「相変わらずのロリコンだな」
二人いる方の大きい方が失礼だなと怒ったフリだけした。
「私は女の子でも男の子でも、女性でも男性でも、私と同い年くらいまでの人間なら相手をするというだけだ」
また乾いた笑いをした。
堂々とそう宣言したのがこの組織のボス、四条 慶子。大体気付いてはいるだろうが、この組織に人間はいない。当然四条も恵種だし、もう一人、身長はサニーと大して変わらないが、体格が全く違う四条と並んでいるせいで余計に小さく見える少女も恵種だ。
少女の方はキリアム・レナ。通称、姫。これは四条が付けた呼び名。本当はただ、四条が呼んでいたのを他も真似たというだけだが。
朝食のパンを口に含んだおはようのナナ、二人と顔を合わせてテーブルに向かうおはようのリリス、朝の挨拶の代わりに「へ」を続ける笑いのエリカ。それぞれの個性をしっかりと厚い胸板で受け止め、おはよう。四条は横に付いている姫の頭に手を置き無理やり下げ差した。
手を離すとすぐに四条を見上げるが、おはようと笑いかけられ頬を染めて目を逸らす。「おはよう」
「本当に姫はボスが好きね」
両手で抱きしめて丁度良いサイズの本を胸の前で抱えて、怒った表情でリリスに抗議を示すが彼女には無駄だと知っている。この組織の母に当たる存在だ。まだテレが残っている顔を見られる方が恥ずかしいと、すぐに顔を伏せた。
最後の一人。コーヒーを啜っている途中だったので片手を上げて挨拶を送ったサニー。きつい縛りはありそうにないが、組織のトップにこの態度はいかがだろう。
トップに立つ人間は、こういう態度を取られるのを嫌う人物が多数を占めるが、ここのボスは声でおはようと返した。怒ってはいないし、気にもしていないようだ。
製作組を残してリリスが歩き始めた。姫はボスの横に付いて歩きたいらしく、ちょっと屈めば股下を潜れるボスの歩幅に合わせて懸命に足を動かす。一歩に対して三歩。毎朝の事だ、心得ている。離しそうになっては足を止め、追いついた時点で次の足を進める。
カルガモ親子の行進が頭を過る。微笑ましく、頬を緩めるなという方が無理がある。
「いいな、姫ちゃん。キスしたい」
「やめとけ、殺されるぞ」
頬じゃなく、口元が緩んでいる者もいるが。
一口含み終えて、お揃いの皿の上にコーヒーカップが帰る。プラスチックにはない、陶器独特の質感がカチャリと音を立てる。その音の大きさで、物を大事にする人間か、そうでないか判断してもいい。どんなものでも立てないように、立てた方がいい場合を除いて音は出さない方がいい。
大雑把な性格ではあるが、普段はあまり音を立てないサニーが叩きつけるようにコップを皿に置いた。新聞を読んでいたからだ。
一つの事に集中して他が疎かになったわけではない。ある一つの記事に目を奪われ、他の事を気にする余裕がなくなっただけ。椅子も蹴り飛ばすように後ろに倒して立ち上がると、ボスに向かって足早に歩く。
怖い顔つき。あまり見ぬ表情に、全員がサニーに注目する。
足を止めていたボスの前に立つと、新聞を突き出した。
「橋本が捕まった」
持っている指の先の記事を見るボスだが、すまんと先に謝った。
「英語は読めない」
新聞は英語で書かれている。
「日本で捕まった、そう書いてる」
ポストマンの書く記事は絶対だ。間違いはないし、干渉もない。そのどれも許さない。だからこそ信用されているし、信頼する価値がある。
「捕まった、か」
「あぁ。殺されたでも倒されたでも別の組織に移ったでもない、捕まっただ」
この場でおちゃらける者は、場を和ませるのではなく単なるバカだ。「あの――」
とても自分が発言していい場面ではないと読み取って、ナナが後ろにいるエリカに小声で尋ねる。「橋本って誰ですか」
蔑むような眼はゴーグルに隠れた。堂々と見せてやってもよかったが、へへっと笑っただけで許すようだ。
「橋本くらい知っておけ」
「仕方ないじゃないですか。私、こういうのとは無縁な生活だったんですから」
面倒臭そうな口ぶりではあるが、誰かが教えてやらなければまた同じ事を聞かれるかもしれない。効率の悪い人間は、一度ではなく十回言っても同じ事をするのはいるが、そうではないように願いつつ説明してやるようだ。
「橋本康人。ポストマンが発行する新聞に名前が載る数少ない恵種だ。理由は分かるか?」
首を振る。「何でですか」
「それだけ成長した恵種だからだ。それに、恵種の間でかなり目立つ位置を、堂々と歩いていたからな、知れ渡った。橋本以外には紙谷陽一とあと一人、国家権力者でもなく恵種でもないのに載る篠田光太郎を憶えておけばいい」
「へー、なんとなく覚えました」
エリカの願いは簡単に崩れた。また説明する必要があるだろうが、その役回りが自分に来ない事だけを願うしか、もう手はない。
「で、そんなに強いんですか、この、誰かさん」
もうすでに三人の名前が絡まって一言も出てこなかった。
「橋本だ」
「そう、その人」
笑った。またあのへへっと、笑った。ナナが残念な子だからではない。橋本という名前に対して笑った。凄いものには手を上げ笑うしかないと言うように、笑った。
「おそらく、ダメージを負わないというのに関して、恵種で右に出る者はいない。目の前で見てきたからこそ言える。あの布をぶち破れる者はいない」
「え、でも負けたんですよね」
「捕まっただ」
捕まったのでも負けたと同じ。もう一度問いかけた答えに、エリカは笑う。あまり気持ちのいい笑いではないが、意外にもよく笑う性格らしい。
「恵種が負けた場合は、イコール死だ。ルールなんてないんだからな。だがな、捕まえるは勝つより難しい」
これ以上はただのお勉強。上手く教えられないからこそ、教養の本でも読ませた方が早い。
「こんな事が出来るとしたら、一人しかいないな」
「その一人も載ってる」
掴んでいた新聞の別の場所を指す。
「ヨーロッパで恵種を捕まえてた。日も浅いし、何よりこの二人なら堂々と名前を載せてる」
確かにポストマンの記事は真実しか書かないが、どちらかが有利になるような記事も書かない。どちらといえば二つだけになるが、どこが有利になるようにも、どこが不利になるようにも書かない。一方だけに加担すれば、どこかから攻撃を受ける。それを避ける為に、伏せるべきものは伏せる。例えば、有名ではなく単なる一つの駒でいる恵種の名前や恵種の詳細、どこに住んでるか、容姿、年齢など、そういう情報は自分の心の中だけに収めている。
だからこそ恵種に関わる全ての組織から狙われ、だからこそ恵種に関わる全ての組織から手を出されない。
「橋本を捕まえられるほどの恵種がいる日本に、本当に本を盗みに行くのか」
本題はこれ。サニーが心配する気持ちは当然だ。恵種が手を出したくない国、それが日本なのだから。
「当然」
そんな事は百も承知。ボスは肩を掴んだ。力の入っている肩が固まらないように揉んで解す。
「姫の為とはいえ、危険すぎないか」
「直ぐには行かないさ。だからこそこの亀・レオンで向かってないだろ」
この建物は海の上を泳いでいる。滑るように、誰にも気付かれずに。
「こいつはエリカの恵種の塊だからな。日本の近海に止めてたら一日も経たない内に光太郎に発見される」
家庭教師役をやる気のなかったエリカに問い掛ける。
「で、完成予定は?」
「三日から三か月だ」
だそうだと手を離した。シリアスだったのもここまで。サニーが姫の頭を撫でようと触れた瞬間叩き落された。
「触るな」
「はぁ、もう少し慣れてくれたってよくないかな、姫」
「お前なんかと仲良くしたら、何されるか分からない」
筋肉が凄すぎるというわけではないが、逞しいは超えているボスと、額一つ分低いサニー。背の大きな二人の横にいた姫と目を合わせようと腰を落とした。
「別に何もしないって」
「この前風呂に入っていた時、無理やり入ってきて手で体洗ってきたし、一人で寝てた時、布団の中に入ってきたから、お前とは絶対仲良くしない」
こんな事をしていたなら言い訳を事前に用意しておく必要がある。隠し事など無ければないに越した事はないが、清廉潔白な人生なんて人間が誕生してから両手で足りなくなるほどの人数もいるか定かではない。
一瞬で組み立てられない順序の道を、移動の振動で崩して近寄ってくる影に慌てて、余計に完成された言葉がない。
「ち、違うって、そんな、そんな変な事しようっていうんじゃなくて、あれ、スキンシップ、スキンシップだって」
これでどうだ。立ち上がってリリスに体を向けるが、信用度ゼロの瞳の濁り方。気おされて後ろに下がってしまう。これはますます不利にするが、人間後ろめたいと背中から誰かが引っ張るのかもしれない。
「こんな小さい姫にまで手を出そうとしたの?」
「違う、そんな、そんな事しないって。リリスだけ、リリスだけが好きなんだから」
完全に追い詰められた男の言い訳になってしまった。苦しくて苦しくて、好きだという言葉でこの場を取り繕うとして、余計に印象を悪くするとわかっているのに、どうしても言ってしまう。
「あの、私でよかったら相手しますよ。でもキスだけですけど。初体験は好きな人と――」
「いや、お前はいい」
あっさりと断ったが、無意識に出る言葉ほど気を付けなければいけないというのに。
見た目もそこらの男よりよっぽど女性に人気が出そうで、性格までも男よりも男らしい。
「お前は、って何?」
そして今気付いた。「違う、そういう意味じゃない」
しばらく続きそうなこの二人は放っておいて、ボスと姫はテーブルに向かう。
「サニーに襲われそうになって私の所に来たのかい」
絶対に顔は見せれない。若いのに白髪と黒髪が混ざり合う後頭部を向けながら、うんと首を縦に振った。
「そうか。でも姫はウチのエースなんだから、サニーに余裕で勝てるだろ。あぁ、本持ってないと無理か」
風呂の時はビニールを被せて本を持って入る。湯気に触れる事すらない。寝る時は人形の代わりに本を抱いて寝る。古い本ではなく新し目の本を抱いて。
でも姫は頷いた。うんと。
「じゃあ明日からは一緒に風呂入るか。そうすれば寝る時間も一緒だろうし」
にやけてる顔がばれないように大きくうんと頷いた。
ここは海の上に浮かぶ、亀・レオン。恵種で出来た鉄の塊、動く基地。ここにいるのは六人の恵種の組織。