カミキリ
1
薄いオレンジの光が照らす部屋。絨毯はホテル独特の、沈み込むような毛の立ち方をしておらず、隠しているはずの下のコンクリートの感触が直に伝わってきそうだ。壁紙はもう取れない染み込んだ臭いやシミだらけで、高い金を払ってここに泊まりたいと思う人間はいない、そう断言出来る。
明かりを点けた男は、一言も発しないままベッドの傍にすり足で近寄った。
一人きりで服装も旅行らしからぬスーツにコート。色も地味な黒に近いグレー系。年にして四十を過ぎたあたりだろうか。手には金属製らしきスーツケースを持っていたが、ベッドの傍で床に置いた。
東洋人。西洋人にはどこからどう見ても間違えられない。硬い表情だが普段の顔のようで、眉間に眉を寄せていないのに線が取れずに皺になっている。しっかりとした眉に低くて大きい鼻、唇は少し厚く、真一文字に結ばれているせいか余計に表情が硬く見える。頬はこけてはいるが、骨格がいいのか肉のない頬をしているのに貧相どころか、第一印象は頑固と捉えられる。ただ、一つ不似合いなものがあった。耳を挟むような形で付けるイヤーカフスをしている事だ。シルバー一色で飾り気はないが、異様に感じて目立ってしまう。
顔の形同様に骨格がよく、百八十近くある身長が肩幅のせいで高さを比べられる物がなければ小さく思われるほどだ。
薄いコートをすぐに脱がずに、着たまま男は腰を屈めた。手を持っていくのはベッドのマットレス。片手で掴むとそのまま持ち上げた。抱えるのではなく壁に立てかけるように持ち上げ、ベッドの骨組みを剥き出しにして、もう片手でマットレスを支えていた木の板を触り始めた。
姑が厭味ったらしく埃を確かめるような手の動きだが、このホテルはとてもではないが観光ガイドに載るような高級さはない。それに、こんな所を調べずとも壁や天井、絨毯などで調査員なら価値を分かるはずだ。
一通り触り終えると、もう一つのベッドも同じように確かめた。不審な動きだが、この男の行動はこれで終わりではなかった。
スタンドライト、それを乗せている小物入れに始まり、壁に冷蔵庫、一体型の風呂とトイレ、クローゼットまで隅々見て回った。勿論手を触れて。クローゼットの天井や冷蔵庫の裏は埃だらけだったが一切気にしていなかった。
部屋の中の全てを調べ終わった男は、スーツケースを置いているベッドに近づき、コートを脱いで初めて腰を下ろした。部屋の中に入って五十五分、一時間近く経っていた。
これでほっと一息でもつくのかと思っていたが、スタンドライトの横に並んでいた電話を手に取り、どこかに掛け始めた。
呼び出し音が七度鳴り、相手が出たらしく口を開く。それがなんと、ルームサービスを頼むというものだった。このホテルはどこからどう見ても安ホテルだ。ボーイなどが存在するとはとても思えない。ルームサービスとは名ばかりで、食事を作っているおばさんが何かを持ってくるのかもしれない。いや、それでもおかしい。こんなホテルに、食事を作る人間が常駐しているとは信じられない。なら一体ルームサービスとはなんなのだろうか。真相はもうすぐ自分の足でやってくる。
頼んでから部屋にノックが響くまでに九分掛かった。一流シェフにでも作ってもらっていたのか、それともただサボっていて遅かったのか、部屋に入ってきた人物を見てどちらも違うという事が分かった。ワゴンにはワインクーラーに冷やされた赤ワイン、薄くスライスされてソースの掛かった肉料理や小皿があった。一流ではないだろうが全うな料理人が作った物で間違いがない。
意外ではあるが、サービスはちゃんとしているのかもしれない。持ってきたのも制服らしきものを着ているボーイだ。髭も綺麗に剃っているし、髪も整いきっちりと身嗜みを整えている。
じっと待っていた男は料理をちらりと確かめ、「ワインを」とボーイに促した。ここでも予想外だったのがボーイの手慣れた動きだ。恐らくまだ二十代中盤だろう青年だが、一日何十回とやる機会のあるホテルではないだろうに、一流どころと何ら変わりのない洗練された動きでワインを開け、グラスに注いでワゴンの上に置いた。
こんな安ホテルでこれ程の腕を持つボーイに出会えたら思わず拍手でもしてしまいそうだが、男は平然とグラスを持ち上げ、ワインを口に運んだ。
一気に飲むのではなく、軽く口を付けた程度でワゴンにグラスを戻した。
「あまり酒の事は分からない口からすれば、もう少し安物でもよかった」
「ホテルがホテルなので、サービスは其れなりの物をと思っております」
誰でも表情を崩しそうな言葉だ。自分の働いている職場の料理を其れなりと表現しているのだから。遜っているとしても余り宜しくない。これぐらいの年齢なら口煩く言いそうだが、男は眉一つ動かさずに答えた。
「心配ない。私が頼んだものはもっと質がいいものだ」
ワゴンの上は、あと料理だけだがあまり高級には思えない。
「一体何の事でしょう」
当然、ボーイはこう答える。先程のような洒落っ気はない。
「キャッチャー&フライヤー」
訳の分からない言葉だが、ボーイにはこれで十分だった。溜息を一度して、耳の穴に入るか入らないかの所を人差し指で赤くもならない程度掻いた。
「空中ブランコですか。あいつ等、もう少し情報の安売りを止めるように言わないとな」
口調も少々崩れ気味だ。
「それで、あなたは何が欲しいんですか」
変化した態度にも無反応で、一枚肉を食べた。残り三枚。
「情報以外、何か売り物が?」
また溜息。「ありませんよ」
「この地域に住んでいる恵種を知りたい。国に関係していない者が一人いると聞いている」
声のトーンすら高くなっていたボーイだったが、急に変わった。「恵種、それは一体なんですか?」
明らかに警戒の色を強めた。その引き金は恵種。一般人の知らない名称だ。この男は踏み込んでいる。それが急に壁を作らせた。
「スタンドライトと冷蔵庫のコンセントに盗聴器、部屋の天井と壁の角に一つの盗撮器、風呂場の天井裏に防水のビデオカメラ」
隈なく部屋を探してはいたが、特にこれといって反応はしなかった。おかしな動きをしなかった事もあり、ただ部屋を調べただけだと思っていた。このボーイは少なくともそうだ。
「初めは趣味で始めたのだろうが、その時偶然に恵種の存在を知った。コールが七度も掛かったのは見ていたからだろう」
何も言い返せない。相手の警戒をへし折るには、ここでの足踏みは盛り返すチャンスを与える事になる。男も分かっていると話を止めない。
「料理自体は非常にシンプルな物だが、私の格好からしてビジネスマンが安ホテルに来た位に思い、下準備をしていなかった。金を持っていないからこんなホテルに泊まっている。恐らく外で安いファストフードで済ませると考えていたので、時間が掛かった」
もう一度肉を口に運んだ。ここにきての一呼吸にも、男には余裕が、ボーイには逃げ道に壁があった。
「君が作ったのだろ。このホテルに、一流どころからくる理由はない。ただ、レストランなどでアルバイトをしていたなら、別業種だ。来ても不思議ではない。ここからは想像だが、見ず知らずの人間の性行為を盗み見るのが好き。それがここに来た理由かな」
深い溜息。強くはないが、長く体の中に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
「あぁ、そう。他人がやってる所を見るのが好きなんだ。いや違う、ガキの頃から父親も母親も一週間置きに新しい女や男を連れ込んでやってた。それが日常だったんだよ。だから見ると落ち着くんだ。これで全部だ。警察にでも連れてくか?」
格好に合わない口ぶりと態度に豹変した。完璧なまでに自分の人生を読まれたのだ、しかも汚い部分を。隠す必要がなくなったのだから当たり前だと言えばそうだ。
「悪いが君の犯罪については興味がない」
畳んでいたコートから財布を抜き出し、二十一枚の札をワゴンの上に置いた。「恵種の情報が欲しい」
彼の罪には興味がないと、きっぱりとした態度で示した。ここまで掘り起こされて、断れる手段など無い。帽子を取り、髪を自らの手でグシャグシャにかき混ぜた。今の彼を見たら、百人が百人、手際も態度も悪いボーイだと回答するはずだが、本当はかなり優秀だ。男が保証する。
「ここから三十二番街に出て、真っ直ぐ行くとこの町で一番古いパン屋がある。夕方でも人気だからすぐに分かる。そこを左に曲がって三つ目の路地を折れて暫く歩くと、ここと同じようなアパートがある」
もう一口。男はワインを口に含んだ。
「ただ古いだけの建物。アンティークでもなく、新しくもなく、ただ古くて汚いだけのアパートだ。アンタなら分かるよ」
グラスを札の上に置くと、コートに財布を入れて袖を通した。行動の意味ならすぐに分かる。動機は不純とはいえ、色々と見てきているはずだ。すぐに止めに入る。
「おいちょっと待てよ。この金じゃ情報はここまでだ。もう倍、それで恵種の情報なんかを教える」
スーツケースを掴んで、ボーイに目をやった。
「場所が分かれば十分だ。あぁ、部屋は分からないか」
「部屋は三階の02から04まで使ってる。恵種がいるのは03だ」
情報を付け足してくれた。金はないぞと財布を触り指を振るが、ボーイは首を振った。
「アンタで恵種の事を教えるのは三人目だ。これの意味する事も、簡単に分かるだろ」
鈍くないのは証明済みだ。だったらこの言葉で分かれと言いたげだ。勿論理解はしているはずだが、ここまでボーイが引き止める真意までは読み取れない。
二つ。男がボーイの問に答えた。「治安維持組織と聞いた者が殺された」
「そう、一人は警察官だ。もう一人は、多分、アンタと同じ探偵か何かだ」
「ふ、探偵か」
「違うのかよ?」
どうぞと掌を向けて促す。不満げながらもボーイは続ける。
「俺はここに勤めて五年。覗き目的で選んで正解だったのは、ここの客は不倫も売春も多い事。旅行客なんて年に二三組だ。だからある時変えたんだよ。不倫や売春やってる男や女の情報を売る代わりに、やる時はここに連れて来いって。売って金になる、客として金になる、無理やりやられるのも見れる。得しかなかった。なのにここ三年、売春宿がここから奴の所に変わった」
やって欲しいという事。性ではなく生を。
「それで、この街の警察が手出し出来ない恵種を私に殺してほしいと」
「あぁ、なんとなくだが、やれそうだから。アンタなら、奴を。そ、そう、思っ、たから」
自分で言っていて馬鹿らしく感じたのか、最後の方の言葉は随分尻すぼみになった。
意外と素直なのだろうか。やっている事も、やって欲しい事も、目的も人間としては最低だが、スタートが腐ってなければよかったのかもしれない。
男は笑って答えた。「君の目的の為ではないが、私は彼に来てもらわないといけなくてね」
「一人で、そんな事出来んのかよ。あいつ、恵種ってのは、変な事出来るだけじゃなくて、体自体も化け物なんだぞ」
「恵種を知っている者が、そんな事を知らないとでも」
「ま、そうだろうが。でも、あいつ、人間を折ってたんだ。背骨を、ボキッと」
「蕾、花付け辺りか」
男の呟いた言葉に、ボーイは首を傾げたが、何でもないと男は言った。
「もし、次に恵種が現れたり情報が入ったなら君から連絡をしてほしい」
コートの内ポケットから一枚の名刺を渡した。そこに書かれていたのは読めない文字だったが、英語で説明があった。それに驚きと笑いが出た。
「アンタ、日本の警察官かよ」
「あぁ、それじゃあ」
出口に向かう男に、最後の言葉にならないように声を掛けた。
「ケチった事、後悔すんなよ」
「心配ない。一枚は君の料理の分だ。中々だった」
姿が見えなくなると、扉が丁度音を立てて閉まった。残っていた肉二枚を手掴みで食べて、悪くないとワインを一気に飲み干した。
ワゴンに残っていた二十一枚の札を丸めてポケットに詰め、手に残っていた名刺を眺めて、最後に同じポケットに入れる。
「ま、死ぬだろうな。名前憶えちまったけど、新聞に載るかな。載らないか、紙谷陽一。明後日くらいの新聞は読も」
2
鼻歌交じりで男は歩いていた。向かう先はどうやらアパートらしい。街並み自体が観光名所になっている町では珍しく、汚らしい佇まいをしている。壁も剥がれっぱなしで、黄ばんでいた。
そんな事はお構いなしに、明るくアップテンポな曲に合わせてスキップでもし出しそうな足取りでアパートの扉を潜った。
「今日の新しい子は、どんなのかなぁ~、可愛いかなぁ~、楽しみだなぁ~」
呑気にも、無警戒にそんな事を口にしている。外見上、ここは普通のアパートだ。古臭いとはいえ、それ以外は至って普通。
男の口ぶりは、確実に如何わしい商売の臭いがする。許可を取っていないのは確実だ。それを堂々と言葉に出しているのは無警戒にもほどがある。
エレベーターがないこのアパートは階段でしか上がれない。足早にいつもの通路の角を曲がった。そこに普段と違う者がいた。
「聞きたい事がある」
四五十の初老の男性だ。
考えもしていなかった事に、男は角を曲がった時点で腰を突いていた。いい年してこの驚き用は何ともみっともない。
「驚かしたかな」
右、左を確認して、口を尖らせた。「驚くに決まってるだろ」
可愛らしい女の子がするのならまだ許せるだろうが、大の男がするとただ気持ちが悪いだけの反応だったが、子供っぽいのだろう。我慢をするしかない。
尻をワザとらしく音を立て払い、立ち上がる。左右確認していたのは、警戒してからではなかった。
誰も見てないなと呟いたのだから、呆れるしかない。だが、これほどまでに、この町では力が弱いのだ。法を守る番人が。
「へぇ、固そうに見えるのにあんたも好きものだね」
微塵も、この男の中には初老の男性に欠片も警戒する気持ちがない。続けて出てきた問い掛けも、大きく的を外しているが気づくはずもない。
「どこで聞いたのよ。今日新しい子が入るって」
普通の犯罪者もここまで気軽に、ペラペラ話してくれれば取り調べは十分もあれば終了する。どれだけ馬鹿でも、ここまでパーツをくれれば話を組み立ててそれなりに見せる事が可能だ。
「ホテルで聞いた」
これで十分だ。なぜならこの男なら、進んでしてくれるから。
「あ~、あそこかな。盗撮男のところ。でもあいつ、ここ嫌いなのに、って、そうか。あんた、女の子いないってねだったんだろ。あいつのところじゃ、もう紹介できないし仕方ないな」
一を見せれば十作ってくれる。恐らく、全くの的外れな事を言っても同じ事をしてくれたはず。どうせなら、もう一度同じ事をやりたいだろうが時間は戻せないので仕方ない。
首を縦に振ってそうだと返す。もう一度ジロジロ、上から下へを繰り返して、二段高い段まで登って脇腹を小突いた。
意図は想像できる。表情もそう言っている。
これで気が済んだのか、ついて来いと階段を駆け出した背中に向かって確かめた。
「ボスはいるのかな」
「何言ってんの。当然だろ。新しく入った子の具合を確かめんのはボスなんだから。その後で俺ら。勿論あんたもな」
泣き叫ぶ女の子、謝る母親、押さえつける男達、鼻で笑う女達。こういう場所ではありがちな光景だ。普通の神経の者では正気を保てない場面も、ここに集う者ならばごくごく日常。そう、今日は奮発して高い肉でも買いましょう、これぐらいの日というだけ。
ノックがして、男が返事をした。椅子に腰かけ、一人優雅に膝の上に女二人を乗せている男が、入れと声を出す。
「すいません、ちょっと遅れましてって、もうやったんですか?」
「あぁ、俺はな。お前は随分後だぞ、遅れ、誰だ、そいつ」
これもいつもの光景だったのか、呆れ顔だった男の目に一人の見慣れぬ初老の男性が映った。年恰好からして、ここに来るような客じゃない。普通なら一発で気付くのだが、鼻が詰まっているのか第六感が機能していないのか、連れて来た男は「下であった客ですよ」と恍け顔で答えた。
「お前は、まあいい。入ってやっとけ」
一体何故そんな反応なのか理解出来ないといった顔で、男達に押さえつけられている女の子の下に、いそいそと足を運んだ。
「で、何者だ、お前は」
女二人は怖い顔と言いながら、怯えたふりして男の腕の中に潜る。真剣に向き合うにしてはふざけた格好だが、部屋の中に流れているBGMが女の子の潰れるような悲鳴なのだからそんな気もない。
初老の男性は眉一つ動かさず、謝り続ける女と女の子に群がる男達に瞳を動かし男に戻す。
「話しにくいのだが、止めないか」
腰にあった手を、女二人の頭に持っていき撫でる。優しく、太い指で髪を解くように。
「気に入らないのか? ここに来る客なら好みそうなもんだが」
もう一度だけ見て、いやと話を続ける。
「それよりも話を早く進めるべきか」
「あぁ、そうしよう」
今まで可愛がっていた女二人の頭を、叩きつけるように前に突き飛ばした。床に倒れ込み、軽い悲鳴を上げた二人は不満げに離れていく。
さて。大股開きの太ももに、掌と肘を乗せ、立てた腕に顎を乗せる。話をする格好というより、品定をしているといった方が正しい。
「で、もう一回だけ聞いてやる。何者だ」
「日本の警察官だ」
流石に、あの恍けた男でも複数人いれば警戒しそうな言葉だが、一人しかいない。口から出てきたのはまさかの日本の警察官だ。冗談にしては中々洒落が利いてる。
ワザとらしいまでの声で笑い、部屋の中にいる奴らに目を向ける。殆ど誰も聞こえていないはずなのに、同じように全員が笑った。連れて来た男と親子以外は、高らかに。
一通り馬鹿にするような言葉を浴びせる男達を、腕一本で制した。まだ笑い足りないのか、半笑いではあったが。
「まぁまぁ、一人で乗り込んできたんだし、ゴチャゴチャ言うな。よっぽど頭が足らないんだろうがな」
もう一度、どっと起こる笑い。
「で、わざわざ遠い所からどんな御用で、日本の犬さん」
「お前を捕まえに来た。それだけだ」
この空気、先程までなら笑い飛ばしていそうだが、一瞬で場面は変化した。男の反応を見守る。それこそ、散歩を待つ犬のように、じっと。
「は、俺を捕まえに」
「あぁ。もう一度だけ言おう。お前を捕まえに来た」
辛うじて表情は笑っている。目つきは今までとは明らかに別物だ。特に焦る必要もない。町の警察が手を出せないほどの実力者。それだけ優秀な恵種なのだから。
そう、だからこそなのだ。何も初老の男性は変わっていないが、話をする度、目と目を合わせている時間の長さだけ伝わってくる。自分よりも上かもしれないと。
「おい、お前恵種だろ」
部屋がざわつく。「あぁ」
「なら知ってるだろ。恵種は成長する。俺は――」心臓の高さまで服をめくった。「花付けだ」
左胸を覆うように描かれている刺青。見慣れぬ植物が綺麗な、燃えるような花びらを付けている。彫り師の腕がよほど良らしく、描かれているはずの植物は自分が絵であるとは知らずに呼吸をしている。
「随分と成長しているな」
怯えない。いや、溢れ出す。体の奥底から、縮こまっていく気持ちとは裏腹に、恐怖を示す冷や汗が体の内側にこびりつくだけでは満足せずに小さな、目で確認できない肌の穴から漏れてくる。
唾も飲み込めない。この水分でさえ怯えになるから。そう思っていても喉が鳴る。一瞬にして干上がった口の中に涎でもいいから溜めろと促してくいる。
声を出そうとして口を開いたが、僅か数十秒の間に上と下の唇がくっついていて上手く単語を作れなかった。もう悟られていると分かりながらも、咳払いをしてから話し出す。
「そうだ、手を組まないか」
意外な言葉だったのか、部屋にいる者が一斉に目配せを飛ばしだした。どういう事だと確認を取るが、誰も答えを知りはしない。最も強いと思っている男の目の前に立つ、初老の男性以外は。
「興味はない」
想像通りな答えだ。少しでもいい。注意を逸らせれば、それで。
足の長い丸テーブルの上に置いてあったコップを手に取り、琥珀色の液体を口に含む。
「そうか。なら、食事はどうだ」
「悪いが先ほど済ませてある」
食い下がるしかない。心を少しでも許すくらいには。
「いい腕の料理人を知ってるんだ」
首を傾ける。そう、もう少しだ。一口、もう一度飲む。喉が潤って、先程の音は鳴らなくなった。
「肉料理でいいか」
「よほど腕がよくないと、満足はしないぞ」
「それは心配ない。で、焼き加減は? レアか、ミディアムか、ミディアムレアでもいいぞ」
調子を合わせるような口調に少々の違和感はあるのだろうが、部屋の中のためらいが薄れてきている。感付く程ではないが、注意深く観察していれば察すのは可能かもしれない。
「ミディアムレアで」
「まぁ、ちょうどいい焼き加減だな。で、酒は?」
特に誰かに指示を出したわけではなく、指を二三度来い来いと動かした。人を呼んだのではなく、コップを持って来いという合図だし、分からなければここに入れないだろう。
一人が新しい酒とコップを持ってきた。口を開けて注ぎ始めるが「酒は結構だ」と断る初老の男性に、遠慮するなと聞く耳持たずに並々と注いだ。
自分のコップにも継ぎ足し、両手に持った。後は相手に渡して乾杯したら宴が始まる。だが事はそう簡単に運ぶはずがない。
「そうそう言い忘れてたんだが」
腕が素早く動く。一歩、部屋に近づいた初老の男性に向かって浴びせるように動かしたコップ。飛びかかる液体は男性まで届きそうにないがそんな事構わない。なぜなら目的は別にある。
親指が動いた。スイッチを入れた。
「料理人が好きなのはウェルダンだ」
種も仕掛けもないコップだが、持つ男は恵まれた種だ。
透明なガラスの中に生まれた火種は、人の手の拍手が響く速さと同じスピードで成長した。一気に膨れ上がった幹に湧き上がる歓声。空気が焼ける臭い。
これがいつものあるべき姿だ。刃向う者は二度目の拍手を聞く事はない。そのタイミングの時には体の中まで焼け焦げている。
包み込む炎が初老の男性を隠した。部屋の者からは見えなくなった。だが、次の拍手は続いた。消えたのだ。猛った炎が、初老の男性の前で尻尾を巻くと、火の玉になり、次の瞬間には崩れて部屋の中にある酸素の体の中に消え失せたのだ。
考えてもいなかった展開。部屋にいる誰もが目を疑った。今初めて部屋の中に踏み込んだ初老の男性は至って普通だ。
「確かに、あの火は少々強すぎだ。ホテルで食べた料理の方が、やはりおいしかったようだ」
顔に掛かった液体。確かめている余裕なんてない。指で払い落とそうとしても次々に飛び散ってくる。
「そういえば自己紹介がまだだったな。名刺を読んでおいてくれ」
名刺なんて貰っていない。怯える顔にすまないといった顔で続ける。
「今投げた。料理をするには不似合いな火を消す為に」
鬱陶しい。俺は今怯えているんだぞ。初めてといっていい、自分とは次元の違う相手を前に感じた気持ちなのに、顔に飛び散ってくるこの液体はなんだ。振り払おうとして腕を動かした。
飛んでくる液体を受け止めているはずの右側からは、一向に掛かる液体が止まっていない。思い通りに動かない右手に苛立ち叱るように視線を送ったが、そこにはもうなかった。両腕は自分の体から離れて、コップを握りしめたまま床に転がっていた。
ここで初めて気づいた。切り落とされた。急に湧き上がる痛み。吹き上がる血に混乱する頭。現実から逃げだすように椅子から転げ落ちて這いつくばった。逃げるんだ、現実から、怪物から。
「花付けだ。その程度では死ねんぞ」
ゆっくりと部屋の中央まで来た。
そこでこの部屋に世の節理が戻ってきた。自分達のこれからの事が目の前に、今まで世界の王だと崇拝していた男の姿と一体になった時、狂気がやってきた。
叫びながら逃げ出そうとする者やその場で泣き崩れる者、受け入れられない現実に笑い出す者、そして壊された世界に激怒して銃を取る者。
向けるのは一人しかいない。お前が壊した。引き金に指が掛かったが、人差し指と中指の間から綺麗に腕の半分が吹き飛んだ。切り落とされた勢いで壁に叩きつけられた。
「黙って座っておけ」
怒鳴り声でもなければ大声でもない。部屋にやってきた時と変わらない大きさの命令だ。普通なら現実世界に戻ってきてしまったこの部屋では誰も聞こえないはずの大きさも、聞き逃す者は一人もいなかった。腕を切り落とされた二人を除いて。
「もし動けば」
一瞬だが腕が動いたのが見え、次の瞬間には悲鳴が一つ消えた。
「首を刎ねる」
今の今まで、小さな警告が発令されるまでの五月蠅さが嘘のように静まり返る部屋の中を、ゆっくりと歩んでいく。向かう先にはこの町に君臨していた男。惨めにも、薄汚れた床を舐めてでも逃げ出そうとしている王の横に、四歩で立った。
屈む事はしない。同じ目線まで落とす必要がないのだ。気宇で優しい人なら、道路の片隅で干からび雑巾のようになった動物の死骸に心痛めるかもしれないが、大抵の人は関心すら示さない。なぜなら、人間以外の動物は下なのだ。位が、命の重さが。
だから初老の男性もそうしている。自分よりも遥か下に存在する恵種に対して、当たり前の態度をとっているだけだ。
片手にはスーツケース。空いているもう片手で男の首根っこを掴んだ時、この町に来て初めて聞く音を耳にした。甲高く鳴り響くパトカーのサイレンだ。
3
「警察だ、動くな!」
ばたばたと響く足音。威圧する為に立てて踏み込んできたが、誰一人として騒ぐ者はいない。大立ち回りを想定していたはずの制服姿の警察官達は、踏み込んだ瞬間は足を止めたが、すぐに一人一人に手錠をかけ始めた。
普通なら近づかれただけで騒ぎ立てるのに、逮捕の意味を持つ鉄枷を嵌められた者は、皆一様に安堵の表情に変わっていく。
一人ひとり連れ出されていく中、制服ではなくスーツ姿の男が流れに逆らって入ってきた。足を踏み入れる前から目的は決まっている。
「ご協力どうも」
誰も手を付けていなかった二人、初老の男性と腕のない男に声をかける。どこにもよらずに近づく。
首を掴んでいた手を離し、低くなっていた視線を戻した。「協力した憶えはないが」
犯人逮捕に協力するのは庶民の義務であり、犯罪者を庇えばそれだけで罪になる。当然ながら初老の男性は知っている。国は違うとはいえ同じ警察官なのだから。
ただ彼の場合、国が違うというのが影響している。市民ならば何も言わずに引き渡すのだが、彼が来た理由はこの男を捕まえる為。犯罪者に手を出せず、警察署の中で縮こまっていただけの愚か者に手を貸すのに足を運んだわけではない。
「この町で捕まえたのだから、それだけで協力したことになるでしょう。それとも、この場を無理矢理にでも突っ切って連れて帰りますか? そんな事をすればどうなるか、想像しなくても分かるでしょう」
日本人に持たれる印象が変わる。災害があった時も、大きな事件があった時でも、静かにじっと我慢する礼儀正しさが別物になってしまう。日本人は警察官が他国で同じ職業の警察官を襲うような野蛮な民族だとでも言われそうだ。
態度や行動からして、そんな評価気にも留めないようだった初老の男性が、以外にも道を開けた。横にズレて、私服の警察官が通り易くした。
首で合図を送る。制服の警察官二人が初老の男性の前を通り、芋虫のようにクネクネ動きながら痛いと喚いている男を無理矢理立たせた。普通なら脇を抱えたり腕をつかんだりするが、今回は服しか持つところがなかった。
状況自体は慣れているが、相手の状態に苦戦しつつも連れて行こうとした。
「今夜は警備を万全にした方がいい」
歩き出そうとした三人に、忠告にしては随分と当たり前な事を言う。私服の警察官が怪訝な顔で当然ですとネクタイに触れた。
言われる必要などあるはずがない。花付けは中々貴重だ。着床、苗木、幼木、成木、蕾そして花付けが来る。普段なら触れられないレベルの実験材料に、研究している者なら喉を唾で鳴らす。
だからこそ警備は万全にしなければならない。どこから話が漏れ、どこが動くか分からないのだから。恐らく、今夜中には国が動き出す。警察署に着いた段階で、もしかすれば準備しているかもしれない。
常識的であり、知らないのは最大勢力の一般人だけ。助言をした初老の男性は知っている。本音は次。
触っていたネクタイを解く必要に迫られる瞳が教えてくれる。
「私がこの男を日本に連れ帰る為に足を運ぶからだ」
冗談ではない、本気だ。向けられる黒目の中に茶目が混ざる気配はない。この眼差しを向けられたら、誰もが同じ行動をとる。動くなという最も難しい動作。
少なくともこの部屋に例外は誰もいない。一人たりとも、まともに空気で肺を膨らます事さえしない。呼吸を、出来る事なら血の流れさえ止めたくなる。凍らせる視線ではなく、誰もが怯える眼光だった。
前触れなく訪れた静寂に、サイレンの音だけが空しく響く。国の中の治安を維持する為に作られた組織だけが公道で鳴らすのを許可されているサイレンに、私服の警察官は我に返った。相手は国外の人間だ。国の人間であっても許されない発言をしたのだ。引き下がる必要はない。
「あなたの発言通り行動すれば国際問題に発展する行為ですが、いいのですか」
さっきは効いた。しかも今回は直接攻めている。これでもう安心。
そう思う間もなかった。
「高高この程度の恵種に手が出せなかった者が、私を止められると思っているのか?」
初めて、この町では最初で最後になる感情を披露する。
貴様ごときが、俺に意見をするつもりか。眼光はそう怒鳴りつけ、読み取ってしまった私服の警察官は尻尾を丸めた。一番最初に腹を上に出して無防備を示さないといけないが、体は自分を小さくするのに精いっぱい。
「……せ」
小さすぎた言葉。一番近くにいた初老の男性だけは聞き取れた。
振り返った時には、何事もなかったように無感情になっていた。暴れてはいなかったが、もし痛いと足が飛んできたら数日療養では済まない怪我を負うので、慎重になっていた警察官二人。彼らは目があったが、少々驚いたくらいで怯えはしなかった。
それよりも、伸びてきた手が男の喉を締め上げつつ、連れて行こうとしたのに驚いた。抵抗したにはしたのだが、あっけなく渡したと証言されるのは間違いないくらい小さなもの。大きく拒めはしないが、もう少しどうにかするのは可能だったはず。
だからすぐに取り返そうと一人は腕の無くなった男を、一人は初老の男性の背中を捕まえようとしていたが、もう一度の言葉で手を止めた。
「離せ」
まだ手は届いていない。なら誰の言葉か。威嚇のうなり声も、怒りを表現する牙も抜き取られた私服の警察官の命令だった。
手首だけで男を空中で回転させ、背を向けつつ掴み直して歩き出す。
この年齢だ。常識はある。横に並んだ時に礼を述べた。引き渡し感謝しますという、何とも皮肉な礼だったが。これに対して返せたのは屈辱を宿した瞳ではなく、上からの命令があるのでという公務員らしい返答。
首を小さく頷かせて、部屋の出口に向かう。まだ大勢の逮捕者が部屋には残っていたが、誰も初老の男性の通り道を邪魔する者はいなかった。
部屋を出て二つ扉を過ぎると階段がある。丁度そこに、部屋にまで連れて来てくれたあの男がいた。最初の時に作った表情よりもさらに驚き、恐怖が追加されてはいたが、間抜けな顔の作りまでは変えられない。四段下にいた男に並ぶと、顔を向けた。
何をされたとしても、とてもじゃないが刃向えない。上に見つけた時点で体内の六割を恐怖が占めていた。並ばれた時には捕まえている警察官にまで震えが伝わっていた。
「なかなか楽しかった。次からはもう少し警戒した方がいい」
犯罪者に対して次からという、もっての外な言葉を残して初老の男性は階段を下りて行った。
姿が消えるまではどうにか堪えていた足だったが、芯が抜けてゼリーの柔らかさに変化していた筋肉は体重を支えきれずに尻を突かせた。これで今日、二度目。
部屋の中では、気配が消えたおかげで私服の警察官が自分の感情を抑えなくてよくなっていた。
「くそ、何で抵抗すら駄目なんだ!」
足を踏み鳴らし、祈りを捧げるように指を組む。付け根が痛くなるぐらい締め上げて、また堪え切れなくなって手を開いて同じ言葉を繰り返した。
もう少しすれば物に当たり散らし始めるかもしれない私服の警察官に、腕のない男を立ち上がらせた制服の警察官が何故駄目なのか、恐る恐るではあるが尋ねる。ゆっくりと、刺激する場所が少ないように慎重に。「警部補、落ち着いてください」
まずは宥める。会話を成立させるのに理性は大事だ。何が刺激になるか見当もつかないので、手も動かしてはいない。
「先程から、一体何の事を仰ってるんですか?」
動き回るのは止まった。だが、表情は怒りのまま固定されている。聞き方が不味かったか。ストレートすぎたかもしれないが、これ以上回りくどく言っても、それはそれで聞き出し下手に思われる。
ベストだと言い聞かせていた制服の警察官だったが、警部補が無言で、睨みを利かせたまま近寄ってきた。屋根裏部屋のような溜まり方をした埃なら辺り一面に舞い上がり覆われる、ドスドスと音を立てながら。
走り出してくれる方がまだマシ。一歩踏み出すごとに赤く燃え上がった怒りが近づいてきて、暑さに汗が噴き出す。一瞬で近づいてきてくれれば瞬く間に蒸発できるのに、苦笑いを浮かべる時間さえあった。
あと一歩踏み出せば靴同士の爪先がぶつかる近さで足を止めた。靴の代わりに警部補の人差し指が制服の警察官の胸を小突いた。
「上から、止められてたんだ」
その先が知りたい。縮こまってはいるが、靴が触れ合うまでいかない小さな踏み込み。
「一体、何を?」
何度も何度も、単語と同じだけ人差し指を突き続けた。
「もし、チャックを、抑えられる、恵種が、現れたら、引き渡すよう、言ってもいいが、抵抗、されたら、無条件で、引き渡せ。こう、上から、言われてたんだ」
上からの命令にしては随分と不可思議な点がある。ここに君臨していた恵種はこの町の犯罪者。当然、捕まえる権利はこの町の警察官にある。それを抵抗されたら無条件でというのは、あまりにもお人良すぎやしないか。胸を突かれ続けた制服の警察官も同じような事を聞いた。
流れからして同じように胸を突かれる覚悟をしていたが、今度はなかった。爆発していた勢いは一息吹かれてあっさりと煙に変わった。
「この国は、そうこの国は恵種に関して後れを取った」
煙はまだ燻っているが、火種は燃え上がりそうにない。
「あの男が言ったように、高高花付けにすら手を出せなかったんだ。この国は」
「しかし、いざとなれば狙撃して射殺は出来たのでは――」
「やろうとして3度気付かれたらしい。チャックがいつも座る場所は窓からは見えないし、上と下の階は潰して入れなくされてた。結果、出歩く時しか狙えず、大通りに出ない奴を見えるような場所からしか狙えなかったんだ」
「それでも、軍……」
口は自然と止まった。頭に浮かんだ単語を出せば、待っているのは恐怖だけ。腕の切られた男だけならまだいい。その男を寄せ付けなかった男が目の前に存在していた。はっきりと、形も思い出せるくらい近くに。
警部補も次の言葉は求めず、会話を続ける気もなかった。代わりに足が動いて壁に寄っていく。警察が手を出せなかった男の血が塗りたくられた壁の中心に、同じ角度で突き刺さっていた物を手に取るため。
「成熟の化け物め」
コンクリートに刺さるはずがない、紙の名刺を抜き取り丸めて床に投げ捨てた。
両手のない男はぐったりとして動かなくなっていた。人間は血液の三十%を失うだけで死の間際に立つ事になる。ただし、三十%を失う前に急に血が臓器などに行かずに機能しなくなって死ぬ場合が殆どだ。男の場合も後者に該当するはずが、血は既に止まっていた。
ありえない。腕を切られて血が止まるなど。普通の人間に当て嵌めればそうなるが、男は違う。あくまでこの男は恵種だ。腕の筋肉が自然と血管を締め上げ、血を外に漏らさないようにしている。それに留まらず、肌の色や血色がいいので血は全身に巡っている。
ではどうしておとなしいのか。簡潔に言うなら気を失っている。大人しくしろと言っても聞かなかったので、初老の男性が締め上げて今に至る。
パトカーは狭い路地に三台ほど止まっている。KEEP OUTのテープは、この汚い路地の始まりと始まりにそれぞれ張られていて、野次馬は随分遠くで群れを成していた。現場に入ってこられないようにするのは当然だが、路地に立ち並ぶ建物の住人はたまに顔を出したて覗き込んだりしている。外に出てこようとしたりする人もいるが、一定間隔に配置されている警察官が阻止していた。
このまま、男を手に持ったまま街中を歩くのは至難の業だ。人影が随分と沢山集まっているので、路地から顔を出すのも難しい。出来たとしても、この時代、携帯電話で写真を一斉に撮られてしまう。そうなれば、色々な問題が出てくる事になる。
配慮という言葉は適切ではないが、初老の男性も恵種として世に身を置くのだから、慎重になるのは当然だ。周りを見回す。三台あるうちの一台の中で無線から聞こえてくる情報を聞いているのであろう二人に近づいた。
窓をノックする。された方の窓が開き、顔を覗かせる警察官。
「すまないが、携帯電話を貸してほしい」
手荷物は二つ。一つは普通のスーツケースだが、もう一つは人形のようにも見えるが人間だ。ちゃんというなら恵種だが、人間でもある。無線を聞いていたのならもう知っているはずの情報に、頼まれた警察官は返事をする前に携帯電話を差し出していた。
「感謝する」
スーツケースを脇に抱えて携帯電話を受け取った。手慣れた番号なのか、親指で番号を押していく。打ち終え耳に持っていくと、コールは既に一つ目を終えて二度目を鳴らしていた。それから延々と呼び出し続けて、十八度目で相手は呼び出しに答えた。
「はい、誰ですか? 多分掛け間違え――」
「私だ」
電話に出たのは女性だ。声だけでは判断し辛いが高齢ではない。切った時になる通話終わりの音が鳴っていないので繋がっているはずだが、電話の向こうの女性は話し出さない。
もう一度同じだけの呼び出し音が必要かと指を折り始めようとした瞬間に、初老の男性は携帯電話から耳を離した。ピストルの音はしなかったが、これが合図だった。電話の向こう側で怒りの徒競走が始まった。
どうやら携帯電話を持て欲しいという節の内容だったが、離していたので詳細は分からない。切っ掛けが何もなかった怒りなのに、初老の男性の行動から察するに、いつもの事なのだろう。慣れている。
五分前後で電話相手が息切れした。透かさず耳に当てる。
「恵種を捕まえた」
「はぁー、はぁー、この前、言ってた、町ですよね?」
会話の流れや彼女の雰囲気からして、もしここで違うと言えば電話越しにでも握りこぶしが飛んできそうだが、そうだと返してゲンコツは免れた。
「で、場所は?」
周りに番地や通りの書いている看板はない。路地だから当然だが確認と見回し、なかったので警察官から聞き出し伝えた。
「お、運がいいですね。その路地なら丁度袋小路があるんですよ。いや、家があるんで違うんですけど、作れる場所があるんです」
一本道に思っていた路地に、一か所曲がり角があるのを発見した。携帯電話を借りている警察官に、車で角を塞ぐように止めてくれと頼んだ。二人の警察官は顔を見合わせた。答えは二人の中で確認せずとも決まっている。
この狭い路地で車の頭を反対に向けるには、一旦外に出てからでないと無理だ。振り返らずにバックミラーで確認しつつ進む。壁に擦らないように慎重に行きたいところだったが、フロントガラスの向こう側で付いてくる初老の男性の気配に、二度ほど壁に擦りつけてしまった。あとで住民から苦情が、上から始末書が来るが今を乗り越えられた喜びに二人はすぐに車を降りた。
頼んだ際に、袋小路の方ではなく路地に出てくれとお願いもしていたから。
胸を撫で下ろした警察官の肩をポンポンと叩いて感謝を示す。二人は頭を下げて少し離れた。
「車の高さでいいか」
「パトカーですか?」
「あぁ」
ちょっとだけ考えてから立ててくださいと返ってきた。理解できたのか、初老の男性は分かったと返事をした。
車を立ててください。女性が言ったのはこういう事だろうが、意味が分からない。そもそも、立てるという行為を製品になった車にするのはまず有り得ない。
疑問にさえ感じていない初老の男性が、携帯電話を片手間に用事でもするように肩と耳に挟んだ。スーツケースは脇に挟んだままだし、男も捕まえたまま。辛うじて自由に動かせるのは肘から下の腕の部分だけ。
パトカーのタイヤとタイヤの丁度間くらいの車体を掴む。周りも何をするか眺めていると、ゴリゴリという音が聞こえ始め、一斉に音源を確かめた。突然聞こえたものだから驚いたかもしれないが、これは前触れでしかなかった。
確かめたり眺めたりしていたので視界の中にはパトカーが入っている。中には誰も乗っていないので動くはずはない。横に立っている男性は、随分年も食っているし腕は自由に動かせない。だからこそ驚愕に変わった。
勢いは付けていない。腰の広さよりも少し大きく足を開いてはいた。ふんと、踏ん張る声を出すと、軽々と、それこそベッドのマットレスを立てるように車を横に倒した。
一人で、あんな掛け声一つで車を横倒しにした。倒したとは言っているが、地面に触れている側の窓ガラスは割れてはいない。長い時間この格好なら重みに耐えきれずに割れるかもしれないが、今はまだヒビすら入っていない。倒すというよりも寝かせたのだ、車を一人で。
七人ほどいた警察官も、建物の中から眺めていた住人も声を出せなかった。第一は理由に皆目見当が付いていないから。もう一つは、男性がこんなことをするとは思ってもいなかっただろうし、出来るとも思っていなかった。
あっけにとられている周りを余所に、初老の男性は肩から携帯電話を取って出来たと言った。
「オッケー、じゃあ繋ぐよ」
テレビの世界や空想でしか知らない世界を見れたのは、建物の上階から見下ろしていた八人だけ。
壁から、車の横の部分から、何かが伸び始めた。本を読むのには少々弱い月明かりを反射して、黄色だけではなく赤にも青にも、緑にも色を変えながら漂う光に、シャボン玉だと感付けた者はどれだけいただろうか。何もなかった、壁や車はあったがシャボン玉が膨らむ条件が一つもなかった空間に広がっていく。綺麗と表現したなら大人びすぎている幼く脆い美しさが輪を描き、波を作り渦を巻きながら大きく開いていた穴を狭めていく。
今なら間にあう。小さい頃に誰もが一度はシャボン玉の中に入りたいと思っていた夢が叶うが、誰もそんな考えは持たなかったようだ。大きかった入口が見る見る小さくなっていくと、最後は風船が縮む終わりに一気に空気を吐き出すように穴を塞いでしまった。
袋小路になった空間に、七色の世界が誕生した。我先にと急いでいる様子もなく、扉が開く音がした。
「来たよ、投げて」
電話から声がした。マイクを通して聞こえた言葉と声は喋っていた時と変化はないが、一つだけ変わった。車を隔てた向こう側から、電話と同じ内容の声と言葉が聞こえたこの一つだけが先程までと違う。
この変化に気づいているのは初老の男性だけ。警察官は電話相手を知らないし、今までシャボン玉を見ていた人々は急に無関心になったように連行される犯人に目を向けている。
電話相手が急に来たと知れば驚く現象も、種を知っている初老の男性にしてみればネタを知っているマジックと同じ。観客がいないのだからリアクションを取る必要がない。気を失っている男を車の向こう側に投げ込んだ。
触れられたシャボンは割れずにプールに飛び込んだ勢いで立つ波を起こして男を中に吸い込んだ。
「うわ、腕ないし。あの、運んでください。私か弱いんで」
男の声がした。数人いるらしく掛け声をして持ち上げたらしい。一二一二と聞こえる。
「はい、逮捕ご苦労様です」
電話ではなく車を越して労いの言葉が届いた。それだけ大きく感謝を示してくれたのに、初老の男性は小さく電話でありがとうと返した。
「あの、せっかくなんですから直接話しませんか」
悪くない提案だが全く乗り気ではない。若い女性が話しかけてくれるだけでも嬉しい男性は世には多いのに、電話越しに喋るので結構だと言わんばかりの態度だ。軽々寝かせた車を飛び越せない、電話でしか伝わらない返事をする。
「これで十分だと思うが」
女性も耳に電話は当てている。それでも電話に話しかける気はないようだ。
「久しぶりなんですよ、直接は。それに、今回の恵種、結構成長してるんですよね」
一人は電話、一人は直接。おかしな会話は続く。
「花付けだ」
「私よりも上じゃないですか。お祝いクラスですよ」
「そうは思わん。日本ではあの橋本を捕まえたそうじゃないか」
「先日、捕まえたみたいですけど、今現在上から五番目なんですから十分ですよ」
男性の方はそうでもないが、女性の方が直接話すことに意地になっている。絶対に電話で話したくないと声を張り上げる。
「花付けまでならかなりの数が確認されている。祝うとすれば紅葉からだ。ただまあ、君がいつまでも蕾なのは少々問題だと思うが」
声を張り上げていた女性が一瞬詰まった。はっきりと電話には届いたが。
「そ、それでも、私の恵種は貴重ですから――」
「花が咲けばもっと便利になるんじゃないか」
今度の言葉も十分嫌味になっているが、女性は堪えなかったのかさらに大きく張り上げる。
「何言ってるんですか。現在確認されてる空間移動タイプのイヴが五人で、私が一番使い勝手がいいんですよ。一人は噴水での移動だし、一人はトイレとトイレの移動だし、もう一人だって、確かに、確かに同じ本での移動は楽ですけど、でも本の大きさの物しか無理なんですから、やっぱり私が一番ですよ」
最後の一人の説明は自信を無くしかけたが、一番を主張すると自然と胸を張っていた。「ポストマンは?」
小さな呟きだったが、張った胸は急激に萎んだ。大きくない胸が自信と共に小さく元々の大きさに戻った。
それだけ強烈だったポストマンという言葉だが、簡単に略すなら郵便配達の人。世界にどれだけ存在しているのか見当もつかない人間に、彼女の不思議な恵種は負けるというのだろうか。もし負けるとすれば、ポストマンというのが一人の人物を指す時だけ。女性の方も男性のいう人物と一致しているのか、何とか虚勢を張れるものを探す。
「そ、それは、でも、ポストマンはあれじゃないですか、あの、何でしたっけ、万国不干渉者、でしたっけ、それじゃなですか。アースランゲージとかと同じ立場の。だから、そうですよ。だから私がやっぱり一番ですよ」
ふらふらと迷いはしたが、最後には胸を張れた。ぼそりと、電話にも届かないように男性が呟く。「使い勝手はポストマンが上だな」
最近の携帯電話が高性能なのか、それとも女性の耳が地獄耳なのか、車越しではなく電話から聞こえてますよと唇を尖らせて出てきた。機嫌を悪くした女性に対して男が取れる行動は限られている。
真面目に生きて来たであろう初老の男性では切れるカードも少ない。最小の経験値でも持ち合わせている簡単な手札、謝るを実践した。「すまない」
「いいですよ別に。確かにポストマンの方が上ですから」
元気いっぱいに車を越していた言葉も、電話越しでしかなくなった。もう一段階、働き始めた男なら入手可能なカードを出すしかないようだ。
「今度日本に帰った時は、何が食べたい」
食事で釣るという簡単なものだが、女性の言葉は電話を離れた。
「回らないお寿司かカウンターで食べるステーキで!」
この返答は、働き始めてすぐの男では財布が泣く。数日間食べる札がないと嘆くだろうが、初老の男性はそんな事もないだろう。
「同時には難しいな」
「だったら昼が回らないお寿司で晩がカウンターで食べるステーキで」
「おそらく夕食ぐらいしか時間はない」
「うぅん。そうか、時間ないし、でも予約取るようなところはいつ帰ってくるかもわからないから無理だし、ファミレスなんて毎日食べてるようなもんだし――」
「ステーキなら帰った時に買っていくが――」
「百グラム十万の肉でお願いします!」
「そんな肉聞いた事もないが尽力するよ」
グッと握り締めた拳の音がはっきりと耳に届いた。
「ただし、いつ帰るか分からないからシャボン玉の二人と部屋でお菓子ばかり食べてないでトレーニングをする事」
調子のいい返事が飛んできた。この明るさからして女性はトレーニングをしないと断言してもいい。これ以上言っても無駄だと、諦めも多少入っているトーンで電話を切る。
「いい返事だ。期待はしておこう」
パタンと閉じる音がして、別れの挨拶を残して女性は建物の中に消えた。
「私も期待してます、紙谷さん」
扉が閉まり、残った言葉を見つめながら改めて日本語の難しさを噛み締めた。
対応に疲れた顔をしつつも、立てた車を元に戻し、携帯電話を返す。
「長く使ってしまった。電話代が高いかもしれないがその時は日本の警察にでも請求してくれ」
夜に吹く涼しさは、機械的な嫌らしさはなく紙谷の耳を撫でて通り過ぎた。さて、どちらに向かうか。行き先は決まっていないが、日本の選択肢はない。なぜなら日本には篠田光太郎がいる。あの男で対応できなければ、駆けつけても手遅れ一大事だがまず無い。
右を見る。細く抜けた路地の奥に、一軒の店らしきものがある。
左を見る。こちらが来た道だ。どちらも同じくらいの野次馬。
なら行く方向は決まった。振り返る過去は一つでいい。紙谷陽一はまだ知らない景色に向かって歩き出した。