地下鉄、道路、歩道橋、上空 立体交錯点 (7)
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静まり返る校内。休みでもない日の夜八時に、人の気配がなくなる大学はない。学生も、大学教員もおらず、警備員の姿さえない。ただ一か所、図書館だけは人が集まっていた。
集まっていると言っても、勉強会ではない。明かりは点いていない。窓は大きいが、月明かりだけで本が読めるほどではなく、薄明りだ。
一階部分には向かい合うように本棚が並び、背を付け合っている本棚同士がまた向き合う。木で出来ている本棚は、ステンレス製の物よりも温かみがあって、本という元は木から作られている紙を包むのに最適なように思える。
二階建ての建物は真ん中、本棚が並ぶ部分が吹き抜けになっている。この部分を埋めればもっと本を並べられるのにと思ってしまうのは、心に余裕がないからだろうか。手すりがぐるりと二階の、一階を見下ろせる吹き抜けの部分に備え付けてある。階段は入り口に近い個所に二つ。遠い壁に貼り付けるように備え付けてある。
入り口と反対側の壁には鉄の扉があり、準備室に繋がっている。この準備室の中に、地下に続くエレベーターが備え付けてあった。
警察官は館内に数名陣取る。二階にも左右それぞれの吹き抜けから入り口を見下ろしていた。
待ち構える堂々一番手は、入り口入ってすぐの場所、書類などを入れる棚を背にして設置してあるカウンターに腰かけている一人の少年、玻璃硝太。
一階二階、それぞれから見える準備室側の壁に大きな、校庭から見える学校のそれと同じ時計があった。
細い、家で使うには太すぎる秒針が音もなく、一秒一秒刻むようにカチカチとは動かず、スーッと滑らかに時間の中を進んでいる。長針と短針も秒針が回す歯車に、撫でられるようにゆっくりと数字の中を一周回る。
デジタルの時計でないのなら、一秒刻む度に音を鳴らす時計の方が味わいがある。この時計では秒針が存在する意味を感じさせない。図書館だから、かすかな音でも嫌がる人がいる。無駄な音を立てさせないだけだと言われてしまえばそれだけだが。
後ろを振り返らず、静かに足を組み腕を組んでその時を待つ。待ち構えるならここがベスト。今夜の本を盗むパーティーの招待状を送ってきた相手だ。不意打ちを掛けるなら、何も言わずにやっている。
落ち着き、胸に耳を当てても普段と変わりがない心拍数の少年とは正反対な警察官が一人。二階の本棚に凭れかかり、少年と同じように目を閉じている若い警察官、後藤が一つ、大きく息を吐いた。
体からどんな音を発しているのか、近寄るどころか一目見ただけで目の中に飛び込んでくる。吐き終わったばかりの息を、自分で全部吸い込むように大きく肺を膨らませる。肘を畳んで、胸の前に持ってきている手を小刻みに震わせている。握力がどれだけあるか確かめるように、ゆっくりと開いては力強く掌に爪を食い込ませるを繰り返す。
置かれている状況に、判断能力が付いてきていない。ここがどこなのか、尋ねられても答えられるかも疑問だ。平静を装える以前の問題。命がけの仕事は多々あるが、人と対峙する意味での危険が伴う仕事で一番有名で一般的な警察官。遊び呆けたいから目指す人はいないはずだ。覚悟はある程度、毎日する仕事のはずなのに、ここまで感情を抑えられないのは、若さだけが問題ではなさそうだ。
後藤の傍にはもう一人、ベテランの警察官、田中が座っている。入り口に向けていた視線を時計に向けた。一分前。後は秒針が進んで八時に時間を合わせるだけ。
下手に早く落ち着かせても、このまま行かせても後藤の精神状態では効果がないだろう。だからここまで待って、声を掛けた。落ち着かせるものではない。時間はすぐそこ。一秒を刻むように動くよりも速足に思える秒針が、ラストラップ入った今だからこそ、掛ける言葉は一つ。
「後藤、覚悟を決めろ。お前が死ぬような事態になるのは、この中で最後だ」
子守りをしてやるぞ。手の震えが伝わっていた足から、ゆっくりと怯えが床に逃げて行った。馬鹿にしているとも取れる言葉だが、情けないからこそかけられた言葉。
傍から自分を見下ろした時、自分ならどう言葉を掛ける。性格を一番知っているからこそ、最適な言葉は見つからない。一つだけ断言してもいい。全く別の世界の自分がこの姿を見たらこう言うだろう。情けない奴。
大きく息を吸い込んで、一気に吐き出した。何度も自分の中に返って来ていた二酸化炭素が散って、酸素と混ざっていく。綺麗とは口が裂けても言いたくないが、自分の吐き出した二酸化炭素よりもきれいな空気を小さく吸いこんで、はいと返事をした。
閉じていた目、組んでいた手足を解いて床に降りた。首をゆっくりと伸ばした。右にゆっくり倒し、左にも倒す。軽く息を吐いて、右手だけ握り拳を作って開く。
大きな音をこれだけで出すのは困難だ。だったら図書館に響いたこの音の正体は? 一つ思い当たる。扉を開ける音。
開いた扉から入ってくる女性たち。期待外れだと気を抜くなら、硝太は既に死んでいる。ここまで生きながらえてはいない。何よりも、溜息なんて付いていられる暇はない。
開いた扉と、その他のガラス張りの扉二つから見える外の風景が、明らかにおかしい。下手な画家でもこんなに背景をずらして描くとすれば、意図して別の空間を描いているはずだ。何せ両側は背の低い木が丸く並んでいるのに、真ん中だけは白の高級外車の運転座席が見えるように止めてある、地下駐車場の風景なのだから。
「女、か」
瞳は入ってくる女性にだけ合わせた。鈍いと思わせるのも、一つの手だ。安い手だが引っかかる者も多い。戦う相手の実力は自分よりも下。ほっとする要因の一つだ。
小柄な少女、本を持っている。これが盗む本人か。大柄な女性。体格が一番いい。ガタイだけなら一殴りで男の頭に星を飛ばせる。背の大きさは同じくらいだが、しっかりとしたと表現するべき体格の女性。運動神経は間違いなくいいだろう。恵種に関係あるかどうかは定かでないが。最後は大人の女性の中では一番小さい、白衣の科学者風。笑い声はヒヒヒかな。
全員が恵種なら、間違いなく抑えきれない。隙はもう見せた。扉の景色のズレさえ気付かない馬鹿だと。何人ここで押さえられるか。それとも一気に四人相手か。
小賢しくも探りを入れる。このまま一気に戦うか。気取られていいのは、一人じゃどうにもできないという事まで。残りは流れか運だ。
「四人とは意外と少ないな」
「もっと多いと思ったかな」
一番ごつい女性が話役か。
「大層な紹介文だったからな」
笑う。余裕のある笑顔だ。駆け引きじゃなくて楽しむ時の笑顔だ。
「仰々しくした方がいいだろ。名前を公開するのは初めてなんだから」
「確かに、効果はあった。篠田ですら知らなかった名前だ」
「そうか、意外だな。光太郎ならもう調べがついてると思ってた」
撒かれたエサか、それとも馬鹿なだけか。本人は準備室前で確認の仕様がない。食付くしかないか。
「知り合いか」
「どう思う」
一番嫌いなタイプだ。はぐらかして流してくる。こういうのには、ハッタリが効きにくい。この段階で見せてくれたのはよかった。
「本人じゃないから分からないな」
「ごもっとも」
「話の流れを変えるようで悪いが、俺の相手は誰だ」
ほか三人の顔を見て、にっこりと笑いかけた。
同じくらいの身長の女性があきれ顔で言う。
「自分も楽しむ、ってわけね」
「そういう事」
むっとした顔をしたのは本の少女。ふて腐れたように硝太を睨む。予想外だったのは学者風の女性。ヒヒヒではなくへへへと笑った。
「姫よりも少年の方が好きか、やっぱり」
「そんな事はない。可愛い子は平等に好きさ。ただ、随分とやんちゃそうで、楽しみなだけだ」
もう一度へへへと笑う。風貌からしてヒヒヒの方が雰囲気が出ていいのに、もったいない。
「行かせると思うか」
一人じゃ無理な事くらい、弱音を吐かなくても相手は分かっている。
「心配しなくても、二人は下に行けるさ」
「二人じゃなく、全員ここで止めると言ってるんだ」
三人から向き直って、真っ直ぐと見据えた。「君は私に夢中になるさ」
先に飛んでくる言葉を、発した本人が前蹴りで押し付けようとする。一撃目、先手を取られる戦い方だが、こんな形で体に押し当てられては肝心なところで切らせる肉がなくなる。
伸びてきた足の分、後ろに反応して避けようとしたが、そこにはカウンターがある。後頭部に目が無くても、このくらいの感覚なら一目で覚えてなくては戦いにならない。机部分に手を付き、足で床を蹴り上げる。
片手よりも両手。後方宙返りのようにして浮き上がった体。カウンターの後ろに隠れるわけではない。飛んで書類棚の上へ。
飛び上がる時、二手に別れるのを確認した。学者が一人、体つきのいい女性が本の少女を抱えて左右に走る。
力の入り具合は、無意識で力みに繋がる。狙っていたのは、丁度書類棚の上に着地する格好。理想はそれだが、飛び出した速度がありすぎる。判断のしどころはたくさんある。咄嗟にも程遠く、結論は書類棚に手で掴まるだった。
カウンターに言葉が押し付けられた。残り香にもならない言葉の響きが、靴底で弾ける。違う。
まだ届かない。腕が泳いでいる最中に、空中で見たその音の正体。
床に固定されているカウンターが、たった一度の蹴りで剥がされると上げた悲鳴。蹴りはそれで終わらず、倒して書類棚にぶつかる。本来の役目を強制的に変えられ、斜めにされて足の踏み場に早変わり。
恵種の種類が、ただ力を増す恵種なら硝太は手を叩き喜ぶ。よくぞ来てくださいましたと。備え付ける言葉は、その程度でよく来たな。
握手を交わしたわけでも、体を交えてもいない。触れ合ったのは僅かな時間だけ。特徴の一つも発見するには足りない時間で、しっかりと握れたのは一つ。自分よりも強い、この一つだけ。
筋力を強めるだけの恵種でもないはずだ。宴を開催するような自信過剰さは、根拠となる実力がいる。己を客観的に見極められずに、馬鹿げたパフォーマンスをするだろうか。仮にそうだったとしたら、もう捕まっているだろう。正体だって知られている。現実は、篠田ですら、こっちだよと手招きされて動く気配を感じ取れた程度。
掴む書類棚。軽く揺れた。最初の一撃、ボルトの存在理由を無視した蹴りのままなら、揺れで済むはずがない。目を背ける余裕なんてなく、嫌でも飛び込んでくる次の行動を急かすごつい女性。なかったので作った発射台を、攻撃ではなく行動に移し替える。
刻まれた足跡から一度も離さずにいた。接着剤なんて使っていない。見せびらかしたくなかっただけ。浮き上がった時に、見ている人を驚かせたかった。君には無理だろ。一度のキックで、焼きつくように足跡を残すなんて。
格好よくポーズをとって着地を決めていたなら、せっかく避けた最初の一撃を貰う羽目になる。器用さなら手が有利。足が腕に勝るのは、力の強さ。二連続で腕の力だけで後方に飛ぶ。
書類棚と本棚まではかなりの距離がある。間にあるのは読書スペース。机がずらっと並んでいる。本棚までは絶対に届かない。二列並びの机の上に降りるのが最善か。
書類棚で隠れた戦う相手。深呼吸をする間もなく、また現れるだろう。飛べると勘違いしていた体が、やっと重力に足を引っ張られる。ごめんなさいは後でだ。机の上に靴で降り立つ。
同じライン、左右に別れる意識。一つを選べばまだ間に合う。学者か二人か。降りた体の横に、同時に並ぶ止めるべき相手。さあ、どっちだ。
二人が同時に一歩踏み出して、降ろす。確信を持たせてくれた。この二人ならどうにかなる。選べなかったわけではない。考える時間を自分から作ってしまった。
追いかけっこをしているなら別だ。足の遅い方を選べばいい。素早さには自信がある。片隅ではなく真正面に据えていたはずなのに、瞬時を怠った。書類棚の上に現れるごつい女性。
しまった。体重を斜めに倒していく。捕まえるのは、逃げるのに不利な方。人一人を抱えている分、身軽さが失われている。手負いではないが、こちらが自然と有利になる。タッチと、足を止めさせてからは三対一になるが。
目きりをしていない。まだ捉えている。片足で着地して、その足で飛ぶ。三段跳びか。距離は稼げない。重たいはずだ。体重の重たさは、筋力に比例する。屈強だが、重量がありすぎる。いける。
目を切った。ターゲットを本棚に消える寸前の、女の子の靡くマントに切り替えた。足を小さく、スタートダッシュ用に歩幅を狭くした。
違和感はなかった。捉えられると確信を持てた。なのになんだ、この気配。四人だった。三人は本棚に消えた。ごつい女性はまだ書類棚にいるはずだ。二歩目を踏み出し、降ろした瞬間、屈んでいた腰を持ち上げていく最中、顔の下、動くもの一つ。
瞳は落ちる、腰は上がる、足は飛び跳ねる。回避にしてはあまりにも間抜けな跳躍、後方宙返り。伸びてきて、顎を霞める影。腕、人の腕。
拳と手首の辺りまでしか見えなかった。判別材料にはあまりにも乏しい。証拠にはならない。断言してしまえば馬鹿にされるかもしれないが、硝太は言い切れる。男の腕だ。女性がいくら鍛えても、骨格までは隆々にならない。あれは男だ。
跳躍中は、無防備になってしまう。飛ぶ、鳥が空を舞うのは、羽を動かし自由自在なだけ。技術が発展していても、人が犯しきれない青い空。恵種なら別かもしれないが。特例で許可されていない硝太が、浮き上がり空中で回転している。
視界が回る。水平から天井に駆け上がり、今まで見ていた水平の後ろに向かって落ちていく。半分、天井から二階の手すりまでの半分。
今下にいるはずだ。何者かが、伸びあがっているはず。勢い、筋肉の動き、屈んでいた体をアッパーと同時に浮き上がらせている。なのになぜ、また感じる。気配があるのは後ろ、先程の正面ではなく、今から正面にする方向。
手が動く、胸に滑らせる。掴んで抜き出す。もう作り出すガラスの膜。飛び上がった時に描いてた通り動いていた体。正面に広がった膜に、強烈な衝撃。強制遮断の一撃で、エビ反りのまま、体を吹き飛ばされる。
踏ん張り、両足を広げていたなら対処の仕方はさまざまある。ましてや、吹き飛ばされるなんてありえない。回避で飛ぶのは、距離を取るためだけだ。追撃を受けるなら最悪の回避方法。
経験というのはこういう場合に生きる。喰らった衝撃。まともだ。正面に受けた。だからこそ借りる。勢いを利用して、足を畳んで丸まる。両足を抱え込むように動かして、頭を持ち上げる。本人的にはそうだが、傍からは首を後ろに反らしただけ。意外にもこれだけで、回転に勢いが付いた。
吹き飛ばされる体が、制御不能のまま机に向かう。本棚の分隙間を開けている机の、角に向かう体。今度は抱えた足を離して、思い切り蹴り上げる。死なない勢い。ぶつかる、これを避けるのは不可能。だったらダメージを無くすしかない。
来た、視線が正面に戻った。浮き上がる前の水平に戻った。足を腹の前に持ってこれた。この足の裏に、狙っていた。机の角がぶち当たる。伸ばす足、勢いを蹴りにして、机を弾き飛ばしてガラス膜を使って体を支えて、滑り込むように着地した。
ガラス膜を持っていない手で床に触れ、一度、本棚の間を確認する。もう追いつけないほど遠くなった背中がそこにあった。
名残惜しそうに眺めているわけにもいかない。足を突き、すぐさま立ち上がった。机の上、二度小さく拍手をする人物。本棚の上、今来たとしても驚かないあのごつい女性が、笑顔で感心していた。
「いい反応だ。敏感すぎるくらいにな」
いない。この空間。二人の持つ触覚的空間には、二人しかいない。結論は一つ、あれがこのごつい女性の恵種だ。頭を回転させる、呼吸を一つして考える。軽く浚っただけで出た答え、まだ正体不明。
「言った通りになったろ、君は私に夢中になる」
首を斜めに倒す。軽く傾げて不満げに膜を棒に変えた。
「いいだろう、夢中になってやる」
「そう来なくちゃ」
満足そうにごつい女性は笑った。