地下鉄、道路、歩道橋、上空 立体交錯点 (1)
1
暗い部屋。外の暗さをより暗く、何よりも重たくする為に、黒いカーテンが窓を覆い、昇り始める前の微かな太陽光さえ入らないようにしている。
何かの儀式でも始めそうな雰囲気の部屋の中には、七人の男がいた。全員スーツ姿で、いつでも外に出られる。きっちりと、六人は下ろし立てのように綺麗に線が入っていた。
「分かっていると思うが、今日が始まりの日だ」
一人、皺くちゃなスーツを着ている男は椅子に座っていない。カーテンと壁の微かな隙間から窓を見ている。外の景色まで見れてはいないはずだ。
「この国が終わる、始まりの日だ」
会話内容や時間帯を考えて、仲間でもない人間が招かれているとは考え辛い。真剣に、おふざけなら笑ってしまう言葉にも、気を引き締め、表情を硬く決意を固めているのが窺える六人。対照的に、男はしきりに窓を気にしている。首を傾げて角度を変えたり、細めたり大きく見開いたりしてどうにか見ようとしている。そんなに気になるなら、捲ればいいのに、手は使わず頭を使って目的を達成しようとしている。
「そもそもこの国が発展していること自体が間違っているのだ。だからこそ終わらせる、この国を。そして、この国に手を出せない愚かな者たちの為に、篠田光太郎という名前を地の遥か底にまで叩き落とす」
目的は今話した。アジア人だろうが、日本人ではないだろう部屋の中の人物たち。国を貶めるというのは並大抵の事ではできないが、やる手段がないわけではない。どれだけ汚い手だろうが、貶める為に命を賭ければ可能だ。六人からはそれが感じられた。命を賭けて、どんなに汚れてでも成し遂げようとする気概が感じられる。
一人、窓を気にしている男からはそれが感じられなかった。恍けた事をやっているだけで、これから大それたことをしようとしている空気は微塵も出ていない。
もし命を捨てる覚悟なら、当然六人のようになるが、この男は違うのだろうか。六人の輪を乱す男に、話している男以外の五人が気になり、チラチラと視線を送る。気にするなと言えないのか、気にするのが当たり前と思っているのか、話している中心にいる男は言葉を続ける。
「決行時間は今夜九時。配置はその前の六時。やりたくない者がいれば今すぐ名乗り出ろ。強制はしない。成功した瞬間、我々の命はないのだからな」
揺るぎ無く、決意は固まっている。強く、何者にも邪魔されない信念が六人の中にはあるようだが、一人、壁に瞼を押し付け覗こうとしている男はどうだろうか。
五人の中で広がるのは、この男への不信感ではないだろうか。心の中を、脳の考えの中を覗ける人間は、普通ならいない。確かめるには、本人の口から聞くしかない。話の中心にいる男に、輪の中の一人が手を上げ発言権を求めた。
少し、目的達成や信念を疑っているのではなく、嫌な予感がしてか話を纏めている男は眉を寄せたが、話させないわけにはいかない。頷きなんだと意見を求める。
「ここにいる人間。少なくとも六人は、命を捨てる覚悟は決まっている。だが一人、あの男はどうだ。とてもそういう風には見えない」
視線の先にいるのは窓際の男。相変わらず、おかしな行動を続けている。
「あの男は心配ない。やるさ、必ず」
「その根拠はなんだ」
「私自身がこの目で、はっきりと見たからだ」
自分が議題に上がっているのに、素知らぬ顔でくっついていた壁から離れ、自分のいた壁の反対側に回り同じ行動を続ける。
「あの男の恵種をだろ。その話はもう聞いた。俺が聞いているのは、あの男がやるという根拠だ。どう見ても、あの男は自分の命を懸ける覚悟など無い」
鋭くもない、当然な流れでの指摘でも、話を進めていた男には苦しい言及だった。空気は決戦前夜、死ぬしか選択肢のない戦士たちの最後の確認の場だ。互いに思いやりつつも、お互いに覚悟を決めて最後の最後、生き残りたいものは捕虜になれと言っている場面なのに、一人のんびりと星空を眺めて鳥に見えるだのなんだのと言って気持ちを乱している男を、簡単には庇えない。
やり取りにしてもそうだ。窓際の男は、他六人とは付き合いが長くないようだ。出会って短い期間で、命を懸けあう事を、信用しきって出来るだろうか。しかも呆けた態度を取る男に。庇うのにはとても苦心する状況だった。
「何よりも、あの男が日常で使う文字が日本の漢字だ。祖国の言葉ではなく、この国の、血に薄汚れた汚らわしい言葉だ。完全にこの国に染まり切った男を、心底信用できるか。俺は出来ない」
流れは完全に攻めている男に向かう。攻防は、どうしても攻める事の方が簡単になるのは自然の流れだから仕方ない。壊したり、直したりする場合も同じ。だから無能な政治家は攻める事しかできない場合が多い。新しく創造する力がないからだ。
決行当日に信頼関係が崩壊するのは避けなければならない。どうにかして繕おうとするが、下手に弁明すると余計に苦しくなる。攻める男に、他の四人も同調し始めているのだからなおさらだ。
どうするべきが、どうやれば体制を整えられる。言葉を探していた守る男に助け舟がやってきた。話に入る気も見せていなかった、窓を気にするあの男から。
「心配しなくてもいい。ここがやりたい事はやってのける。お前たちとは違って、私は準備すら必要なく、簡単にな」
挑発と取られるのが上等といった発言だった。空気は最悪な方向に向かう。
「誰がお前の言葉など信じられる。もしかすれば、特事課のネズミかもしれないお前の言葉など」
侮辱の言葉にも、微笑み口の端を上げて笑った。声を立ててはいない。次に喋るのは自分の番だから。
「そこまで怯える必要はない。命を懸けているのだろう。それとも無駄死にになるのが怖いのか」
どちらに反応するかで本気度が変わる。攻める男はどうだろうか。
「怖い? 怖がる必要がどこにある。我々がやろうとしているのは聖なる裁き、正義の鉄槌だ。恐れる必要などどこにもない」
無駄死にではなく、怖いに反応したからには、死ぬというのは大前提にある。決心はそこまで深く、はっきりとしている。壁でほほ笑んでいた男も分かったはずなのに、攻める男の発言で大きく、今度は自分が喋る担当なのに声を立てて笑った。
どこにも笑う場面はなかったはず。にもかかわらず、壁に凭れたまま大爆笑。馬鹿にしている、見下している態度に我慢なんてできるはずがない。椅子を立ち上がり窓の傍に向かう。
「何がおかしい!」
目頭を摘まんで、涙まで流して笑っていた。
「いや、すまない。あまりにも面白い発言だったから」
「俺の言葉の、どこに笑う場面があった!」
俯いて、目頭から手を離して涙を振るい飛ばしてから見上げた。
「全部だ」
「何……」
聞こえなかったのかな。もう一度、壁から身を離さずに言う。「全部だよ」
侮辱的な発言なのに、攻める男は思わずたじろぐ。普段の様子は知らないが、こんな顔になることはなかったのだろう。目に宿す闇色の黒い瞳は、この部屋のどんな濃い影よりも黒い。
「私は国を追い出された。いや、違う。生きる為に、どうすれば生き残れるかを考えて自ら出た。その選択が間違ってなかったのは、十五年後に生まれた土地を訪ねて分かった。そこにもう村はなかった。死んだか殺されたか、国に消されたかは知らないが、跡形もなくなっていた。お前たちがどこの育ちか知らないが、少なくとも私はお前たちのように、国の為にや正義やなんだとくだらない思いで動くことはない。それに、こうして生き残ったのはこの国でだからな」
淡々と、高揚なく語られる昔話。真っ暗な夜空を人の手で青空に変えられないように、この男の心を変えられる人間は存在しないとさえ思える真っ平らな言葉。
「一つ、私は命を懸ける事は惜しまない。ただし、お前たちのような下らない理由では懸けやしない。もし懸けるなら、戦いでだ。自分と同じくらいの相手、自分よりも強い相手との戦いの時だけだ。そして、その戦いの果てで、私は確実に生き残る。死ぬのを目的とすることは、決してない。可能性が一パーセントあれば、そのわずかな勝利に辿り着ける道を探し出すのが、私の戦いだ」
目的が圧倒的に違うと知った今、理由が分からない。なぜ一緒に行動しようとしているのかも。
「だったら一人でやればいい。なぜ一緒に行動する」
「量り兼ねているからだ」
「何の事だ」
「篠田光太郎という男の事だ。恵種ではないというのに、並大抵の恵種以上に名前を知られている男。この男が、どれほどのものか、命を懸けて戦う価値のある男かどうか、それを知りたい。今回の、ここのやろうとしている程度の事を簡単にやられるのであれば、価値はない。丁度いい、物差しにするのにな」
疑っていたことはなかったが、ともに命を懸けるのにはふさわしくない相手であるとは分かった。怒りの表情に、怒らせた本人が笑いかける。
「そうだ特別に、私の恵種を見せよう。これで信用してもらえるだろ」
「使える恵種だったら、どれだけ醜い化け物だろうと今回の事を成し遂げるために手を組もう」
押されていたのは随分前か、攻める姿勢が戻ってきた。
関心関心と頷くように、自分の掌を指でなぞり始めた。一体何が始まるのか、四人が注目する。話していた男は苦い顔だ。
指の動きにどことなく見覚えがあった。それに気づいたのは書き終えてから。漢字だ。文字までは分からなかったが、漢字を掌に書いた。その書いた手で、攻める男の顔を掴んだ。
「目に焼き付くぞ」
次の瞬間、掌の中で爆発が起こった。火も火薬もなく、煙も上がらないまま掴まれた男の頭だけが粉々に吹き飛んだ。
「分かって貰えたかな。お前たちとは違う存在だと。爆発は最小限に抑えた。だからこの程度で済んだと理解してもらって構わない」
一瞬だった。本当の爆発なら音、光、衝撃、煙、どれかで反応するのに、何もなく、ただ爆発が起こったという事実しかそこにはなかった。なかったのなら攻めていた男の頭は今もあるはずだから。
あっけにとられていた四人にではなく、話していた男に「風呂に入ってきていいか」と尋ねた。拒否するはずがなく、溜息の中にああと返事をした。
血の臭いを残して去った男の背中を呆然と眺めていた四人に、掛ける声は死んだ男を気遣う物ではなかった。
「もう一度言う、降りたければ降りろ。我々の未来はあれだ」
今の今まで仲間だった死体を指さす。四人の目の前では、頭だけが綺麗に無くなった死体が転がっているだけ。この死体を突然見せられても、先程の男だとは信じられないが、目の前で起こった現象を否定はできない。
「失敗すればああなる。成功した時には形は残らない。今逃げれば悔いが残るだけだ。どれがいいか、最後の確認だ」
間抜けだった表情の四人に、真剣さが戻ってきた。返ってきた言葉は四つとも同じだった。「やります」
2
煙が舞う部屋。白く霞んで見えるほどだ。喫煙が叫ばれる中で、ここまで副流煙が一つの部屋の空気を独占する光景は滅多にない。時代錯誤甚だしいここは、三流ゴシップ誌の編集部。
男の臭いばかりのする部屋に相応しく、掲げられている広告はいかにもという胸の大きな女性が水着姿だったり、手で隠している姿ばかりだ。普通の感覚なら、自分の机に水着の女性姿の写真が置いているだけでセクハラだのなんだのと言われるからこっそり持っていたりするが、ここには無用な気遣いだ。タバコの海がそれを証明していた。
おそらく記者に女性がいないのだろう。そうでなければこういう部屋になりはしない。
「おい加藤、姫さんはまだ来ないんだな」
姫とは随分不似合いな言葉だ。一人だけ離れた机に座っているのを見ると、編集長なのだろう。彼に呼ばれた男性、加藤 孝雄がパソコンの画面から目を離す。
「あー、どうでしょう。立花さんが呼びに行ったので、そろそろ来るんじゃないですかね」
朝の早い時間だというのに、部屋の中にいた編集長含め七人が、加藤の言葉で顔色を変えた。
「そうだな。お前たち、すぐに窓を――」
編集長の指示が出る前に、部屋の入り口が勢いよく開いた。全員が一斉に視線を送る。そこにいたのは、こんな雑誌の編集部に来るような風貌ではない女性の姿だった。
美しく、綺麗に手入れされた髪。少し茶色に見えるが、染めたり脱色ではなく、自然とこうなっているのだ。一歩進む度に、髪の上に浮かぶ光が下まで流れ、また上に戻るを繰り返す。髪自体が光を放っている錯覚さえ覚える。表情は鋭いが、丸く大きな目のお蔭か性格はきつくない印象を与える。鼻は少し丸く、東洋人の整形したようなキュッと鋭い物ではなく、これまた愛嬌を増させる。唇は薄めで、少し大きい。右上に黒子がある。舌で舐められる距離で、可愛さの中に色気を感じさせるのはこれが原因だろうか。身長も平均的な日本人男性が並べば、同じくらいになる。カツカツとなるヒールを履いているので、今は百七十五は優に超えている。
朝の挨拶もなく、この女性が向かったのは窓だ。一つ一つ、サッシが壊れそうな程思い切り開けていく。四つあった窓全て開けると、編集長の机までやってきた。椅子の上で視線を落としていた顔を上げさせるために彼女がとった行動は、思い切り机を叩く事だった。
「あ、お、おはようひ、みさちゃん」
「何時から私と編集長が下の名前にちゃんを付けて呼び合う仲になったんですか」
顔を上げた編集長の目には、可愛らしい女性の姿は映らず、自分をゴミでも見下すように視線を落とす顔があるだけだった。
「いや、そ、違うんだよ。これはね――」
「もう何度も言ってますよね。タバコ吸うなら窓開けてくださいって。何ですか、副流煙の中に埋もれてたいんですか? だったら主食をタバコにして食べてればいいじゃないですか」
この部屋にいて、タバコを吸っていなかったのは加藤ただ一人。他の記者はゆっくりと、ヒステリックにではなく低く冷たく罵る女性に悟られないように、タバコを灰皿で消そうとしていた。
「他の人も同じですよ」
背中越しに鋭く指摘する女性に、全員の方がびくりと反応して慌てて消した。
残りは一本、編集長の指にあるタバコだけが煙を上げている。消したいのは山々だが、下手に動いては刺激しかねない。かといって、このまま女性の顔に煙が当たり続けるのはもっと不味いような気がする。どちらにも動けなくなった編集長を救ってってくれたのは、部屋の外から届いた女性の声だった。
「美咲、そんなにここが嫌なら移ればいいでしょ。記者だけじゃなく、アナウンサーとしても声掛かってるんだから」
編集長に詰め寄った女性、朝田 美咲が着ているスーツは固い仕事用というよりも、今入ってきた女性、立花 夏子が言った見た目重視のアナウンサーが着ているような色合いに緩さだ。
「あのね、夏子。私はヘラヘラと男に媚びうるように笑ってるだけのアナウンサーなんかになりたくないの。自分の、この手でのし上がっていく。それが私よ」
「だったらこんな所にいないで、素直に大きなところに移りなよ。声掛かってるんでしょ」
「嫌。決めたの、私はこの手で自分ものし上がるけど、ここも私の力で一流雑誌に押し上げるって」
とんでもない発言に、立花は首を振りながらバッサリ切り捨てる。
「こんな所がそんな雑誌になるわけないでしょ」
まあ、皆そう思っている事だろうが、そうもキッパリと言い切らなくてもと内心は思った。椅子に座っている男全員が思ったが、この口論に口出しする勇気はなく、下を向いてマネキンになっている。
「何言ってるのよ。私がこの手でするって言ってるの」
「どうやって。いつ無くなってもおかしくないボロ雑誌だっていうのに。買ってるのなんて、質の悪い下品なゴッシップ好きのおっさんばかり」
毎日のようにある口論で感じるのは、確かに朝田の方は自分自身に過信しているが、ここに愛着がある。一方の立花は、周りの人間にとやかく言わず、表情は穏やかだが、言う事は誰よりも鋭くきつい。見た目はそうでもないのに、不思議だ。
そこまで手入れされていない黒髪を、片手で収められるくらいのポニーテールにしている。顔はよく言う日本美人というやつ。昔の絵に書かれているような顔ではなく、現代風の日本美人だ。切れ長の目に細く高い鼻、小さ目の口に形のいい輪郭。朝田はばっちりと化粧をしているが、立花はまったくしていない。すれば確実に美人なのに、興味がないらしい。身長はヒールの朝田と同じくらいある。随分と大きいが、足が太いわけじゃない。膝上五センチのスカートを穿く朝田とは対照的に、黒に近いパンツ姿なのがさらに惜しい。自分を魅せる気が全くないのだ。
この二人は、他の記者の間でも評判の二人組。もっと分かり易く、芸能ネタなどをやればいいのにという声が上がるが、二人、特に朝田にその気がないので記者の中だけで大きな評判になっている。それでも外に伝わり、声が掛かるほどだ。
「だから今回のこれ。もし本当に存在してるなら大スクープでしょ」
メモ帳を取出し書かれている文字を指でなぞる。
「この恵種っていう言葉の意味を捕まえられたら完璧よ」
呆れて物が言えない。表情はそうだったが、口は軽やかに動く。
「またそんな得体の知れない情報に踊らされるつもり。何度目よ、そんな訳の分からない物追いかけるの」
「回数は憶えてないけど、まだ三年目」
もうだよと呟く。猪突猛進、壊れない壁はない、自分に突き破れない障害物はないと掲げてメモを見せる朝田にあるのは自信だけ。人生いろいろだが、ここまで根拠なき自信を付けられる人生はそうそうない。うらやましい限りだ。
分かったらさっそく行動と、自分の机に向かって、引き出しから置いてあった鞄に色々物を詰め込んでいく。準備完了と鞄を持つと、荷物は立花に手渡された。
二人の関係に上下関係はなく、朝田も立花も相手を嫌っていない。普通、荷物を押し付けられる格好になれば嫌な気分になるが、立花は顔色一つ変えない。これが普通なのだ。
「ねぇ、この鞄タバコ臭いよ」
持たされるのには変えなかった顔色だが、この臭いには少し変わった。朝田も大きく目を開いて慌てて嗅ぐと、思い切りタバコの臭いが染みついてた。嫌いな割には鼻が利かない。仕事上でも、メモを取る係りが立花で、話を聞くのが朝田だが、引っかかったり鋭く臭いを嗅げるのは立花の方。それでもあまり前に出る気なく、目立つのが嫌いな為にメモ役になっている。身長や容姿で十分に目立っているが、本人はあまり気付いていないらしい。そういうところに鈍感なのは服装や化粧をしてないので想像できる。
出口は立花の後ろだが、朝田は振り返って編集長の傍に詰め寄った。
「次閉め切ってタバコ吸ってたら、家に乗り込んで、奥さんにセクハラされたって泣き演技しますよ」
「な、そんな事されたら家庭崩壊するじゃないか」
「あのね、編集長。今時タバコの臭いさせた記者でちゃんとした仕事できるの何ていないんですよ。一般の人に話聞くのに、タバコの臭いなんてさせてたら煙たがられて碌に話聞けないんですから。そんな風にして私の仕事邪魔するんなら、私もするって言ってるだけです」
可愛らしい笑顔で分かりましたかと尋ねられたので、反論が思い浮かばず素直に分かりましたと返事した。今度こそはこんな事がないだろうと出口に向かいながら一人一人に視線を向け、釘を刺していく。誰一人目を向けずに、彼女が部屋を出るまで息を殺し、扉が閉まってほっとするように息を吐いた。そして一斉に思い思いの場所に置いたタバコのパッケージを手にしたが、気配を感じて扉を向く。黒い影、すりガラスに張り付き中を確かめる、恐らく朝田の姿に全員が同時にごみ箱に向かってタバコを投げ捨て仕事を始めた。
加藤も後を追うように席を立ち、鞄を持つ。一人で取材に行くのか、三人で行動するとは思えないが二人と一緒に行くのか、出口に向かおうとしていたその背中を編集長が呼び寄せた。
「おい加藤、ちょっと」
何か呼び止められることなどしたかなという顔で、何でしょうと傍に寄る。
「この前貰った原稿、全部読んだよ」
そのことかと納得できた様子で次の言葉を待つ。
「よかった、かなりな。内容もよく纏まってたし、読者を納得させられるだけの文章だった。切り口も面白く、視点も斬新だった」
べた褒めの内容に、試合直後ではなく少し時間を置いて腫れてきたボクサーの瞼のような分厚く野暮ったく感じる目を、何度か素早く瞬かせた。
「それでな、どうだろう。もっと大きなところで記者やる気ないか」
意外な展開に、眉が下がりながら眉間に皺が寄る。なぜ急にこんな事を言われるのか読めない。顔にはそう書いてある。長年勤めてきた編集長が、そんな表情を読み取れないはずがなく、言葉には続きがあった。
「俺も昔は、まぁつまらない昔話だが、人々に訴えかけられる記事を書きたいって頑張ってたんだ。そこそこ大きな雑誌社でな。ただ、いつの間にか気付いてな。自分にはそんな才能ないって。お前にもらったこの間の原稿読んだらさ、何かその時の自分思い出してな。今や大手新聞社に勤めてる元同僚に見せたら、ぜひ会わせてくれってなったんだ。どうだ、悪い話じゃないと思うが」
突然の上手い話。詐欺話なんて日常茶飯事なゴシップ誌の記者だが、降って沸いたチャンスにすぐに答えを返せなかった。
「ちょっと加藤、何してるのよ、早く来なさい」
アナウンサー風ではあるが記者の朝田、記者でありながら纏める立花と、二人の担当に足りないのが一つ、写真を撮る係り。加藤はカメラマンを担当していた。
「分かりました、すぐ行きます。この話はまた後でお願いします」
「すまないな加藤。記者としては一番優秀なお前にこんな役させて」
ここはいつも言われているのか笑顔で返した。「あんな美人さん二人と一緒に仕事できるなら、男冥利に尽きますよ」
重たそうな、カメラ関係が入っている鞄を肩から掛けて出口に向かう。その背中にもう一度、「じっくり考えてくれ」と声を掛けた。
待っていた朝田が編集長の言葉に首を傾げながら扉を閉めた。小さな踊り場はすぐに階段とエレベーター。立花が開くボタンを押して待っていたので合流し、下に動き出した。
「でさ、考えてくれって、何の事」
遅れてまで話していた内容が気にならないわけがない。聞こえていたはずだがあまり関心を示さない立花とは違って、朝田は興味津々な顔だ。記者としての腕が確かなら、上手い返しぐらいできるはず。実力を証明するように、考える時間なく加藤の口は動いた。
「この前の素人女性の水着写真が随分良く撮れてるから、今度は風俗嬢を撮ってみないかって話です。記事もついでに書かないかってお誘いです」
なんだつまらないと、口には出さなかったが態度で示した。軽蔑したようにふーんと言いながら首を横にしたのと同時に、一階に着いた音を示してエレベーターが開いた。
3
本が床を埋め尽くす部屋。ゴミが部屋の中に散らかり足の踏み場がない、何て生温い。普通に歩こうとすると、ずっぼりと足が深々と埋まる。ソファーが二つあるが、高さが大よそ、玄関と戸が閉まっているもう一部屋から想像して五十センチあるために少し掘らないと本来座るべき座面には座れない。部屋の住人で、あちらこちらに毛先が跳ねる髪を一纏めにし、口に咥えていたゴムでポニーテルにした少年、玻璃 硝太が腰を下ろしているのが背もたれ部分なのが、部屋の本の嵩をよく表していた。
「朝も早い時間だってのに、あんた達みたいなのがウチに来るのは感心しないな」
頭を掻き、不機嫌そうにもう一つのソファーと対面する。この部屋にはいくつかの島がある。本の海に沈まず顔を出している一つが入り口側にあるコンロと流しのキッチン。流しの中には、ちゃんとした親が居ないと一目で分かる仕様になっていた。カップ麺の容器が折り重なり、割り箸が何本も刺さっている。皿があるどころか、割れた形跡すらない。この家には一度も食器が入った事がないようだ。当然ながら箸も割り箸だけ。一般家庭のキッチンに存在していてここにもあるのは、お湯を沸かすヤカンしかない。
「何て事言うんですか硝太君。この子達みたいな可愛らしい女の子こそ、この部屋に来るのに相応しいんじゃないですか」
もう一つは、玄関正面の壁、横引き窓二つの手前にある机。教師やサラリーマンが使う、灰色の塗装を塗られているのをよく見かける一般的な机だが一つ、おかしな点を挙げたくなる。それは、色。先程も書いたように普通は灰色に塗られているが、ここにある机は茶色に塗られていた。塗料を使って塗られているなら特に思うところはないが、色の正体が錆なのはいかがなものか。上、本来なら仕事や勉強をする場所には、コタツなどで使われる取り外し可能な木の天板が置いてあった。
「テメェは黙ってろカス。この馬鹿になに吹き込まれたが知らないが、ウチはまっとうな場所じゃない。普通の人間が来る場所でもない」
最後の島は二つ続きで、島よりも大陸になっている。机とお揃いの色をした本棚。当然、素材も机と同じ。揃えようと思っても、本来の色からかけ離れた机と二つの本棚を集めるのは、しようと思う人間がいないから珍しい事は珍しい。さぞかしぎっしり、部屋が本で埋まっているので綺麗に揃えられているのかと思った人がいるとは思わないが、その通り。二つの本棚は本来の役目に使ってもらえず、カップ麺が詰まった袋が二つ置かれているだけだった。目の前には自分たちの仕事があるのに、与えられない寂しさがなんとなく伝わってくる。
「分かってます。だからこそ、来ました」
この部屋のもう一人の住人、玻璃 鏡也がパッと目を輝かせた。
「ですよね。そんなに大胆だとは思いませんでした。そこまで決心が硬いなら話早いですね。いつ結婚しますか?」
年の頃は二十から、上に見ても三十歳手前。金持ちの持て余した財力が呼ぶ虚しさを、偽物の愛情でもいいからと満たすためにやってくる一流のホストクラブ。遊びのつもりで来ていた淑女をいつの間にか本気に変えさせる、美しさの中に秘める深い闇が覗く笑顔を鏡也が振り撒く。
ありがちの茶髪でも金髪でもなく、顔立ちが日本人離れしているせいで余計に目立つ黒髪は、自分が日本人だと主張しているようだった。背も高く、百九十センチはありそうだ。
総合的に見て寝衣装で似合うのはガウンだが、百円均一でさえ三着同時に売られているような安物の白い生地を使ったパジャマを着ている。ガウンとまではいかないまでも、これはこれで意外と似合っていた。体型も計算し尽くされたように、筋骨隆々でも太り気味でも、痩せ過ぎでもなく一番女性に好かれる見栄えの良さ。まさに女性の理想像。
「え、あの、何の事ですか?」
鏡也と硝太の違いは、苗字以外はかなり存在している。年も十歳以上は確実に違うだろうし、背の高さも、半分は言い過ぎとしても随分差がある。赤ちゃんの寝息ですらサラサラと流れるだろう弄った様子のない黒髪と髪型。クルクルと渦を巻く台風雲のような天然だろうパーマの薄い水色髪のポニーテール。目の色も怪しさをより引き立てる真っ黒な瞳とは違い、薄雲と混ざった空のように淡い、色鮮やかな薄青い瞳の硝太。
「何の事って。あぁ、妹さんたちの事ですか? 心配いりませんよ、僕が一緒に面倒見ます。勿論ワイフと愛妻として。あ、貴方は僕の奥さんですよ」
似ているのは、系統は違えど顔がよいという事か。アジア人でもっとも美しいと言っても差し支えない鏡也と、大きな猫目が鋭く光る、眠たさで瞼が上がり切っていないが、可愛いではなく男前という言葉が似合う硝太。少年であるのは確実なのだが、あまりにも大人びた色をしている顔が子供らしさを奪いとっている。
「いや、そういうのではなく、何を突然、訳の分からないことを――」
部屋の住人で優劣をつけた時、ほとんど鏡也に軍配が上がるが硝太が確実に勝っていると言える事が一つある。体の鍛え方だ。二人は同じようなパジャマを着ているが、体の割に大きな二の腕が服の上からも窺える。大き過ぎる訳ではないが、丸焼きにしたら固くて食べれないくらい固そうだ。
「そんな突然、一人と何て僕はしません。皆さん同じように扱います。四人で一緒にお風呂に入って、綺麗にしてからベッドに行きましょう。初夜は四人で過ごすんです。当然、当然皆さん同じ数だけぜ――」
部屋を埋め尽くす本の海は、ざっと見た限りで漫画や小説などといった娯楽作品が見当たらない。目立つのは普通の人生では一生触れそうにない本ばかり。
宇宙解体の法則、宗教人心掌握術、ガラスの歴史と生い立ち、物が物として存在する為には、など。どれも買う人間が、これだと決めていそうな本しかない。残りは事典くらいだ。無料で配布されていても受け取るのを拒否されそうな本達が、部屋の中を埋め尽くしている。
「テメェは喋んな」
足元の本を一冊蹴り上げ、宙に舞っている状態で掴んでそのまま投げつける。対面のソファーの右側、本棚に近い方でソファーに座っていた三姉妹の長女の方ばかり見ていた鏡也は、耳と頬に突き刺さりそうな勢いで飛んできた事典をまともに喰らって顔が捥げそうな程横に吹っ飛んだ。
呻きまわる鏡也を気にする三姉妹とは対照的に、投げた本人はごく当たり前、朝起きて瞼を開くくらい自然に何も起こらなかったように話をする。
「その馬鹿に何を言われてここに来たのか興味はない。今だったら何事もなかったように学校に行って日常生活に戻れる。さっさと帰って――」
「日常生活なんて、もう送れません」
勝気に思われがちな顔が歪んだ。三人の長女は高校生だろうか。見た目、雰囲気からして最低でも高校生と確信が持てる。残り二人、間、真ん中の次女は高校生と中学生どちらともいえず、三女は中学生と小学生のどちらとも取れる。この三人が近所にいれば、まず間違いなく町内会で有名な美人三姉妹で通っている。
「両親が死にましたから」
悲しみで染まる。必死で、隣にいる妹たちに心配させないように堪えてはいるが、差し込まない朝日の光でさえも目の中で泳ぎ回っている。
男は女の涙に弱い。この年代になれば知っているだろうが、長女は大きな武器を使わないで硝太を見据える。礼儀ではないが、その視線から逃げる事はせずに、硝太も話を聞く姿勢は取った。
「自殺したんです。知り合いの人の連帯保証人になって。その人、逃げて、とんでもない額の借金背負うことになって、返せる額じゃなくて、二人して、自殺したんです」
こういってはなんだが、ありがちな話だ。テレビでもインターネットでも、ドラマでさえも散々使ったネタ。連帯保証人なんて、よほどのお人好ししか今はなる人はいないだろう。残念ながら、この三姉妹の両親が良い人だった。言葉は悪いが、他人に簡単に騙されてしまうほど、馬鹿ないい人だった。
聞きなれた話に、硝太は一気に聞く態度を解いた。眠たそうに顔を擦ってやる気のない瞳を向ける。
「どこにでもある話だ。こんな所に来ずとも、警察でも対応するだろ、流石にな」
「違います、そうじゃないんです」
違いますが何に対してか。硝太の口からは、失礼な言葉は何も出ていない。否定されるようなことも言っていない。自殺者が出るくらいの取立てなら、少なからず公的機関が動く。直ぐに捕まったりはしないだろうし、今回の事が初めてならあと何人かは犠牲者が出るだろうが、ストーカーされているなんて相談よりもよっぽど真剣に話を聞いてくれるはずだ。被害者が出ているのだから。
不思議な、噛み合わない返し言葉に、何が違うんだと尋ねる。感情的に、他の自殺とは違うと言いたいだけかもしれない。興味は戻っていないが、話は聞くようだ。少し大きくなった声を落ち着かせるように一呼吸おいて、長女が話し出す。
「その知り合いの人が、両親の葬式の時に来たんです。親族しか残っていない時間に、来たんです。当然、当然追い返そうとしました。けど、その人が土下座しながら言ったんです」
毀れないように抑えていた感情が、一つ一つ、一粒一粒、目から流れ落ちる。
「ごめんなさい、って。消費者、金融の担当者に、囁かれて、行動してしまった。誰か、サインしてくれる、人間を連れて来て、同じ額借りて、連帯保証人にさせて、逃げろって。切羽詰っていて、してしまった、申し訳ない。そう言ってました」
真剣さはない。聞き流すように、アクビはしていないが同じくらい眠たそうにしている。
「はっきり言おう。ありがちな話だ。そこらに転がってる話だ。今も昔も、騙す側は頭を使って次に次に新しく手口を作っていくが、騙される側はいつの時代もバカ面下げて泣くだけだ。用心してれば引っかからないような単純で、少し手を加えただけの新しさなのにな」
気持ちがいい程の正論に、長女が俯く。偽善者なら慰めの言葉を掛けるだろうが、片隅にもない現実を口にする。
硝太にとって、この手の話は聞き過ぎてかわいそうという気持ちすらなくなっていた。他人が見ればそう思える態度だが、果たしてそうだろうか。不器用か、器用過ぎるだけなのか、見る人聞く人によって変わるだけ。
「こんなところに来なくても、警察でも弁護士でもどうにでもできる話だ。少なくともここは、まともな人間の来るところじゃない。深く入り込む前に帰るんだな。でないと後悔するぞ」
下に向けていた顔を上げる。鼻を啜って、弱音を飲み込んだ。
「出来ません。帰る事なんて、出来ません」
溜息一つ。「理由は? ここは普通の探偵事務所とは違うんだ」
「分かってます。だからこそ来たんです」
「分かってない。だったら聞くが、手持ちの金はいくらだ」
今持っている金ではなく、払える金額を聞いたつもりが財布を取り出そうとしたので聞き直した。貯金や保険金がいくら残ったのかと。正確な額は思い出せなかったのか、大体と付けてから持っている財産を硝太に言う。三百万だと。
必死で働き、三人の子供を育てつつ借金を背負った割にはなかなかの額だが、硝太は鼻で笑う。死んでまで貯めた額を鼻息で飛ばすように。
「話にならない」
「な、何でですか。この金額なら――」
「お前がここに来た理由」
まだ本当の目的は行っていない。両親が借金取りのせいで自殺したとしか聞いていないが、ここにいれば、ここに住んで硝太のように生きてこれば簡単に分かる。
「復讐したい。会社を潰すや相手の人生にダメージを負わせるんじゃなく、殺したい。だからウチに来た」
簡単に見透かされた心を両手で隠すように胸の辺りに持っていく。
「潰すだけだったらさっきから何度も言ってるように、警察や弁護士で十分だ。だがそこじゃなくて、ここを選んだ。それは普通に復讐がしたいわけじゃないからだろ」
トーンが低く、元々少年の雰囲気や年齢にしたら落ち着いている声がさらに低くなっていた。
「それで、その三百万を使って、消費者金融の人間を全員殺してほしいと。お前今どこに住んでる」
「……祖母の、家です」
また笑う。にっこりと微笑ましい笑顔じゃない、呆れ見くだす笑いだ。何も知らない子供を知識の差で馬鹿にしている笑い。
「もう若くないだろ、祖父母も。そこに三人で暮らせているなら、高校を出て、長女は大学は無理だろうから就職して、他の二人を大学に通わせるように、両親が残した三百万を使う方が賢明だ」
説得するような口調でも、宥め落ち着かせるような口調でもない。どちらかなら納得してしまいそうな言葉も、態度から明らかに漏れて出るこんな簡単な事も分からないのかという馬鹿にした空気。突っぱねたいのに、並べ立てられる言葉はどれも、自分が切り返せるほど矛盾が存在していない。黙って聞くしかなかった。
「頭がいい両親とは言えないだろうが、借金は残さなかった。それどころか、三百万も残してくれた。それで充分だろ。あとは日本の法に任せればな。穴だらけだが、そうそう悪くもない」
綺麗に纏められてしまった。反論の余地なしだが、ここは普通じゃない。優しい紳士が迷っている少年少女に道の先を示しているわけでもない。
「それとも何か、その三百万を使って、無意味な復讐でもするか? 俺は三百万じゃ当然受けない。そうだな、相手の人数構成も知らないが、特別にプラス二百万で受けてやる。丁度いい会社も知ってるし、金稼ぐために体でも売るか」
胸の前で組んでいた手。左手で右の握り拳を強く、右の掌に爪が食い込むのを手伝ように力を込めた。
「それでも、いいです」
「ほぉ、そうか。じゃぁ、次女、お前は次女だな」
真ん中に座っている女の子を見る。突然の指名にびっくりした顔をしたが、首を縦に振った。それを見てから続ける硝太の言葉に、一瞬部屋が静かになる。
「お前処女か?」
初対面でしかも初めての会話がこれでは、誰もが固まるのは仕方ない。答えるどころか思考停止した次女に変わって、長女が身を挺すように割って入る。
「そんなの何が関係あるんですか!」
関係ないし、自分だけでいいと思っていた長女には驚きの展開だったが、何をそんなに怒っていると言いたげに、呆けた顔を作る。
「当たり前のことを聞いただけだろ。長女、恐らくお前は処女だ。俺の勘だがな。それよりも、次女の方が精神が上。だから聞いた」
「だからどう――」
「だったら一応聞こうか。長女、どうなんだお前は」
覚悟はしてただろうが、急に振られたのでちょっとだけ戸惑いつつもまだですと言った。納得して、もう一度次女に話を振る。
「俺は数回払いでは受けない。前金と成功報酬なら、信用できる相手じゃ考えるがな。お前たちは信用に値しない、だから一括払いだ。それには二百万、すぐに稼ぐ必要があるだろ」
長女と次女の顔を人差し指で交互に見比べる。
「顔の系統も同じだし、誰もが姉妹だと納得する。ルックスもよくて二人とも処女ならかなりの値段が付く。おそらく、二回。二人なら二回で済むが、長女一人ならかなり時間が掛かる」
でもと口を挟もうとする長女の声を、より大きな声で硝太が掻き消し続ける。
「もしこの条件が嫌だったら他に行くことだな。少なくとも、他じゃその場でお前たちがやられるだけかもしれないが。これでも気を使ってやってるんだ。感謝されてもいいくらいにな。何なら一回だけにしてやろうか。三女も混ぜてな」
本の海に足を突っ込み、二人を守るように前に出る。
「私一人でやります! この子たちは関係あり――」
「あるから言ってんだろうが!」
凄みが違った。長女の甲高い、ヒステリックに近い声とはまるで違った。大きな声を出していたが、はっきりと声だけで怒りを伝える。その一言で長女が押されて言葉を無くした。怒鳴ったことを後悔しているわけでもないが、落ち着き、苛立ちの消えた声でここに来た理由を突いて行く。長女がではない、残り二人が付いてきた理由を。
「お前は一人で復讐しようと思ってるんだろうが、下の二人はそんなこと思ってない。ただ家族が、生きている家族が心配で付いてきた。一緒に生きてきてそんな事も分からないわけないだろ」
何も言えず、言い返す言葉失く俯く。後ろにいる二人はそんな姉の背中にそっと触れた。摩るわけでも慰めるわけでもなく、ただそっと手を添えた。
「だからこそ、復讐費用を稼ぐなら長女、お前と次女の二人が体を売れ。それが嫌なら今すぐ帰れ。こんな本だらけの部屋のこと忘れてまっとうに生きることだ」
沈黙が続くはずだった。三姉妹がゆっくりと考えて、ちゃんとした答えに辿り着く。決して簡単に決められないだろうが、そこまで行けるように背中を押した。言葉は汚いまでもそう感じた硝太の思いを打ち砕くように、頬を脹れあがらせた鏡也が体を起こす。
「硝太君、酷過ぎますよ、それは」
今日この日、朝起きてから一番感情を表情に出した。嫌な、嫌いな食べ物を寝ている最中に無理矢理入れられ飛び起きたような顔だ。
「テメェは黙――」
「何で三女ちゃんも省くんですか! しかも見ず知らずの糞どもにこんな可愛らしい三人の初めてを奪われるなんて僕は耐えられません!」
慌ててソファーから立ち上がって三姉妹の前に立つ。
「そんなの知るかボケ! いいか、よく聞け。お前がもし間違った選択をすると、心の傷はお前だけじゃなくなる。両親が死んだ傷なら三人で治せばいいが、体の傷はお前じゃ治せない。選択肢は二つだ。次女まで巻き込むか、ここから帰るかだ」
じっと、硝太の顔を見て言葉を頭に入れるが、すぐに上書きを促す。正解を、選ぶべき答えを踏み外させる囁き、いや違うミュージカルのような感情表現豊かな言葉たち。
「選択肢は三つですよ。僕が三姉妹の代わりにお金を払うです。大丈夫、三女ちゃんは僕がお相手した中でも三番目に若いですが、心にも体にも傷は残しませんよ」
流石に無視はできない。上書きを消すためには、修正する情報を入れるしかない。
「勘違いしないように言っとくが、あのバカが言ってるのはお前たち三人が自分に、あのバカに体を売れば復讐を請け負うってことだ。間違っても、お前たちを庇う為に言ってるんじゃない。あのバカは下半身で生きてるんだ。この間も人妻三人とやったばかりだ」
普通ここで横やりを入れるなら、硝太の言葉を否定する時だけだが、間違いを指摘するというずれた感覚を鏡也は持っていた。発言から大体こんな男ではないかと読み取れるが、ここまでとは。
「違いますよ、硝太君。この間は硝太君に三人の子供の面倒を見てもらっただけで、僕がお相手した奥様方は四人です。一人はお腹に子供がいたのでいい経験が出来ました。年も下が二十三で順に、三十四と三十五、四十七と幅が広くて最高でしたよ。豚も一匹もいなかったですし」
思い出し笑顔も百点満点。このまま雑誌の表紙を飾っても、今年度ベストスマイル賞を受賞可能なほど美しい微笑みだ。発言さえなくせばどんな男でも負けを認めるところだが、発言が発言だけに普通の感覚なら悔しくてたまらない。
それでも、こんな男でも、ここまでのルックスなら女性は落とされてしまうのだろうか。三割は、いや二割までにしてもらいたい。とはいっても、男も女も、見た目は重要なので仕方ないが。
「分かっただろ、ああいう男だあのバカは。考えるまでもないだろ。さぁ、さっさと――」
肩を掴んで本の海から引き揚げようとした硝太の腕を鏡也が掴む。その顔にはなぜか自信が溢れていた。
「硝太君。僕はね、硝太君が守銭奴だなんて思っていませんよ。でもね、僕の恋路を、ワイフと愛妻、奥さんになる三人との関係を邪魔するなら僕は容赦しません」
戦う心算だろうか。体躯、身長差は圧倒的だが、身のこなしなどを考えれば硝太が強い。でなければあそこまで見事に事典の直撃はなかったはず。
腕を振りほどこうとしていなかった硝太に、力強く、高らかに発言する。
「さぁ言ってみてください硝太君。一体いくら欲しいんですか? 僕がいくらでもお金なら用意しますよ」
戦う気はまったくなかった。それどころかまったくもって馬鹿な事を、意味の分からないことを堂々と言い切った。
「おい、テメェはどこに住んでんだ」
突然的外れ、鏡也だけがそう思った言葉に、可愛そうなものを見る目つきに変わった。
「ここに一緒に住んでるじゃありませんか。どうしたんですか、急に」
「だったらテメェはどっから金を出すつもりだ」
とんでもない発言だな、と鏡也だけが思い心底心配した表情に変わる。
「ここからに決まってるじゃありませんか。だって僕はここに住んでるんですよ。戦いすぎて疲れているんですね、少し休んでは――」
「で、ここの金は誰が稼いでるんだ」
どうしよう、この部屋の中にお医者様はいませんか。今すぐに休養が必要だと、涙まで流しそうだ。
「硝太君に決まってるじゃありませんか。僕はたまに、この間の硝太君が子守りをしている間に嫁妻守りをするぐらいですよ。何でそんな当たり前のことを聞くんですか」
「だったら、テメェは俺が稼いだここの金を、ここから出して、それを俺に払うと?」
やっと理解してくれたのか。初めて解けた計算問題に目を細めて喜ぶ父親の気持ちを、鏡也は少しだけ分かった気がした。
「そうです、ようやく理解してくれましたね。体は小さくても、また大人に近づきましたね」
「で、この循環の中のどこに利益があるってんだ」
きょとんとした。なぜそこが分からないのだろうと顔に出して。
「僕が三人とお付き合いできるじゃありませんか」
理不尽極まりない発言にもう止まるはずがなかった。一気に怒りが爆発する。
「だったらテメェが動けや!」
「だから僕も僕の仕事するじゃありませんか。三人の相手を」
「それのどこが仕事だボケ」
「これ以上僕が仕事するところはないじゃないですか。硝太君が事務所に乗り込んで、僕が三人の相手。完璧じゃないですか」
「テメェのイカレ具合がな!」
手を振りほどき、足場の悪い本の上でも関係なく、ソファーの向こう側にいた鏡也の懐に一足飛びで入り込み、振り下ろし気味の正拳突きを鳩尾にねじ込んだ。直後に折れた上半身から身を引き、降りてきた顎を蹴り抜いた。
大きな体が軽々と、「く」の字のまま空中で一回転して本の上に落ちた。
「お姉ちゃん、私、いいよ」
一番遠い、硝太から離れている場所から聞こえた声。自分の意思で決めるには幼すぎる。年齢は硝太と変わらないか上かもしれないが、経験が違う幼さの中の声。だからこそ止める。呆れも混じりながら。
「何度も言わせるなよ。この馬鹿は、お前たちの身を心配して、助けたい気持ちから言ってるわけじゃないんだぞ。お前たちの体が目的なだけだ」
性格を知っているからこその忠告だが、三女が見ているのは姉、長女だけ。割って入れない関係に、口を出しても無駄。
「お姉ちゃんだけ、悲しいわけじゃないよ。まーねぇは?」
次女も私もいいよと、二人の意思は固まっていた。態度を、二人に決心を固めさせたのは長女の態度を見てきたからだろうが、今日この部屋で、硝太の圧力に負けながらも折れなかった姿が一番強いかもしれない。
他人の、硝太の言葉ではもう揺らがない。変えられるのは姉だけだが、その長女がまさかの展開に戸惑い結論を求める。本来なら導き手がいる年代の子供だが、祖父母はどうか知らないがこの部屋にはいない。自分よりも年下ながら経験は随分上だろう少年と変態だけがいる。
前を向き過ぎていたと改めるには十分な二人の決心だったが、長女にもそれなりの決心があってここに来た。引き返せない。ここで引き返せばこんなチャンスはもう二度とないから。
血の出る手前まで噛み締めていた唇を離して二人に確認する。無言で二人が頷き答えは出た。
「私たち三人が、その、相手をするので、復讐をしてください」
最悪な選択だった。三つあったのに。今選んだ以外には、長女と次女が体を売るか、そのまま帰るか。この二つがあったのに、選ぶべきは一つしかなかったのに、選んだのは最悪な、一番最後に出された選択肢。
首を横に、傾げるように斜めにしながら振ったのは硝太。何でそれを選ぶかな、絶対に口には出さないだろうが心ではそう思っているはずだ。
一方この選択を聞いて顔に花を咲かせたのは鏡也だ。満開の花を咲かせて、事典と硝太からのダメージをすっかり忘れて手を打ちながら三人のソファーに回り込む。
「よかった、一番の正解を出してくれて。硝太君は仕事をしてお金貰えるし、僕はあなた方三人のお相手が出来るし、両親の復讐を三人は出来る。誰もが幸福になる答えですね」
嫌味じゃなく、心の底からの本心でこれを語れるのだから凄い。ずば抜けて頭が悪いのだろう。見た目が良くてもちゃんと学校生活を送って来ていたならこうはならなかっただろうが、見た目だけで生きてきた人間の見本のような男だ。しかも最上級の見た目と頭を持っている。恐らく目の前でこう言っても、ありがとうと笑顔になってくれるに違いない。
出てしまった結論に対しては、もうそれを尊重するのか長女を見くだしながら首を振って離れた。
さっさと行動したい鏡也は長女の腰を掴んでソファーの上に引き抜き、残り二人は片手で立ち上がらせた。足元が不安定なので長女を左手一本で抱え、残り二人を右腕一本で抱えてくるりと回った。本の海で優雅に、何度か回転しながら出口に着き、玄関の靴置き場に流れ込まないように策をしている空間に三人を下ろした。ちょっとだけ、あまりにも楽しそうな鏡也につられて笑顔になった三人に背中から声が飛ぶ。
もう一部屋に続く扉の前から長女に向けての最後の言葉だった。
「これからの人生は長い。自分一人の、強い復讐心に二人を巻き込むんだ。そのことを忘れるな。存分に、じっくりとお前の人生の中でその道を選んだことを後悔しながら生きな」
笑顔を一瞬で吹き飛ばすセリフに続いて、前蹴りで吹き飛ばすようにして扉を開けて中に消えた。
また唇を噛み締めた長女の手を二人がとり、その三人を包み込むようにして鏡也は外に出た。