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知恵の木の森の中で  作者: 竜丸
10年 8月
1/17

木の合う探偵社

     1


恵種えしゅ 正式名称『知恵の木の実の種』

新たなる知恵を人に齎したクスリ


「ガラス兄弟、またコンビニ襲ったらしいですよ」

 首を振っている扇風機の風に、大きく広げた新聞が数秒ごとに揺れる。声の主はすっぽりと姿が隠れて見えない。風の影響もあるのだろうが、真ん中の折り目辺りには、グシャグシャと皺が寄っていた。

「聞いてますか?」

 読んでいるのは女の子。随分と若そうだ。

「えぇ、勿論」

 話し掛けられた男は申し訳なさそうに椅子に座っている。頬や口周りに、チョロチョロと無精髭。どう剃ればこれだけ散漫になるのだろうか、見事なゴマ塩だ。髪は伸びただけで、セットの跡も櫛で説いた形跡もなく肩に掛かっていた。男が着ているスーツには、如何にも仕事が出来ませんといった線が無数に入っている。この格好で寝ていたようだ。少し垂れ気味の目が、眠たそうな印象を与える。本人はいたってリラックスしており、表情は作っていない。歳は三十を過ぎていそうだ。

 両手に白手袋を嵌めているが、潔癖とは程遠い。左手の中指と人差し指で広告や雑誌ばかりの、仕事の道具が見当たらない机の上から携帯を掘り起こした。自分の持ち物で手袋をしているのに、まるで汚物を摘むように二本の指で掴み上げ、もう片手の親指で開いて中を確認する。

「では、その事件の現場周辺を探りましょうか」

「う~ん、わかりました、行きましょ。行きますけど、出てきた時と印象が違い過ぎませんか、ガラス兄弟」

 新聞を折畳む女の子。黒髪の、綺麗に丸みを帯びたお河童頭が現れ、すぐにそれ以外も見えてくる。左目にはウサギの刺繍が施されたピンクの眼帯。セーラー服のような服を着ている。肌は真っ白で、刺繍のウサギにも負けないほどだ。クリクリとした目は、気泡のないビー玉のように綺麗に作られていた。ガラスケースに入っていたなら、人形と勘違いしてしまいそうだ。

「三年前に出てきた時は、あんなに格好よかったのに」

「そうですね。ところで、そういう格好、止めてもらえませんか。街中、歩き辛いですから」

「どうしてですか? 私と同じくらいの子たちは、皆こういう格好で学校に行ってますよ?」

 男はポケットに携帯を滑り込ませ、溜息を残して玄関に向かう。「ではせめて、ピンクは止めませんか」

 二人は恵種を使って仕事をする、しがない探偵。どれだけ有能な恵種を使えても、国関係の仕事以外で表立って動けはしない。だからこそ彼らの仕事は大概が、探偵や暴力団関係、海外で言えばマフィアなど。彼ら二人も当然の如く貧乏で、大きな仕事は全て裏家業。

 何も盗まれそうな物がないのに、三つの鍵を閉めて二人が部屋を出て行った。

 向かう先は、昨夜事件のあったコンビニ。実に三年ぶりに世間を騒がせているガラス兄弟。彼らもまた、恵種であるのは間違いなかった。


 恵種とは、一般的に超能力と呼ばれる能力を差す。それともう一つ、恵種という言葉には意味がある。人類の上の存在、『恵まれた種』という意味が。


「あの、さっきの話ですけど、変ですよね」

 真上にまで昇ってきた太陽。夏らしい高い空を見上げながら、男の後ろを女の子が歩いている。眩しそうに目を細め、お河童が風に揺れる。何とも愛らしい。

「君が、ですか?」

「……叫びますよ、変なことされたって」

「……今の彼らは偽者ですよ」

 並んで歩くと、ほぼ百パーセント職質を受ける二人。常に背中を丸めて歩く、顔色の悪い手袋男と、イケナイ肉体を使った水商売をしていそうなピンクのセーラー服を着ている女の子。

 まぁ、離れて歩くのは当然だろう。その無言の掟、暗黙の領域を無視して女の子が、歩道のアスファルトの小さな溝を目線でなぞり歩く男の視界の中に飛び込んできた。スカートをお尻と脹脛の間に一瞬で挟んで屈み、見上げる。

「ですよね、やっぱり! ガラス兄弟ってそんな小悪党じゃないですよね! あれだけのことやってのけるんだから、私たちの知らないところで悪と対峙してるんですよね!」

「……彼らに限ってそれはあり――」

「さっきからまるでガラス兄弟のこと、知ってるようにいいますよね?」

 確かに男の口ぶりは、ガラス兄弟を知っているように感じる。彼らと呼ぶのがそれを強くしている。

「まさか知ってるんですか!」

 立ち上がり女の子が男を掴んだ。身長差はかなりある。故に、ただ立ちあがって男を掴んだだけなのに、女の子の顔は男の下腹部近くに来ていた。

「あの、そんな事よりも離れて――」

「そんなことどうでもいいです! 知ってるん――」

「すいません、よろしいですか? 今日みたいな平日の正午に、一体何をなさっているんですか? 彼女、どう見ても学生ですよね」

 二人の目と鼻の先には、例のコンビニ。二人とも前を見ていなかったので、着いていたのに気づいていなかったようだ。

 制服姿の巡回中の警察官が不審の目を向ける。歩道だというのに、男の下腹部辺りに顔をやっているピンクのセーラー服の女の子。

 職質行きは、どう考えても免れない状況だった。


 二人は散々質問された。答えられない質問も多く、色々と不味い事は避けてはいたが、それが逆に怪しさを増して時間ばかり食う。結局最後までこっ酷く怒られ、開放される頃には、何も情報集めが出来ないまま、お天道様が空を赤く染めていた。

「失礼ですよ、あの警官! 私を子供だなんて!」

「あなたは背も小さいですし、十五歳は十分子供ですよ。それに制ふ――」

「そんなことないです! 私はいつだって準備万端です。白馬の王子様を迎え入れる準備が!」

 男は敢えて口に出さない。その考えと今の行動が十分子供ですよと。出そうになった言葉は、どうにか飲み込んだ。

 大人になれば後を引く甘ったるさにあまり食べなくなるバニラアイスを、事件のあったコンビニで買い、怒りながらも食べる女の子の顔は綻んでいる。

 男は何か言えば面倒臭くなると思ってか、食べ終わるのを壁に凭れて待つ気のようだ。

「けど、なんでこんな事件起こしてるんでしょう、偽者。下手したら本物に殺されませんか?」

 アイスはようやく棒の部分が見えてきた。随分と溶け始めている。

「その事を差し引いてもやり易いのでしょう、犯罪が。三年を過ぎても、どこの誰だか姿形すら見せず、未だに、一ヶ月に一度は特集が組まれていますから、彼らの名前は非常に使い易い。ガラス兄弟、世界中を見ても、はっきりと恵種と分かり、あれだけ大きな犯罪を遣って退けたのは彼ら以外居ないですから」

「世界三大ガラス博物館から、すべてのガラスを盗みだす。しかも、それをする前に美術館関係者に犯行声明を送りつけたことにより、犯行予告当日には、テレビ中継されているにもかかわらず、建物に使われてるガラスやガラスの美術品を、消しゴムでけすようにとも、糸で巻きとるようにともいわれる方法で全て盗みだした。……格好よ過ぎますよ、ガラス兄弟!」

「ま、どう考えても彼らは小悪党とういう優しい物ではないですね。正真正銘の悪党。マスコミは被害者が居ないと言っているが、結局、美術館の館長三人は自殺したし、その家族だって――」

 アイスを食べる手が止まった。コンビニの隣に立つ、マンションの車止めですら、女の子にとっては立派な椅子。男にすればかなり低い位置からではあったが、見上げ動かす口が音を出さなくても何を言わんとしているかが分かり、素直に謝った。

 その反応に女の子は満足したらしく、分かればいいですと、アイスを食べ始めた。ホッと息を吐いて、男はいつものように二本の指でポケットから携帯を取り出し、画面を確かめる。

 さて、この近くに出るかな、偽者君は。

 画面に映っていたのは男二人の、似顔絵らしき絵。何時も根暗で下ばかり見ていた目が人通りに向けられた。地面とばかり睨めっこを続けていた視線は、普通の人間のように使われれば別の力を持つようだ。

 前を見て探しているだけ、それなのに、通り過ぎようとしていたやんちゃそうな、軽くキスなどを交わしていたカップルの男と目が合うと、相手は息を止め、足まで止めた。

 恐怖、獲物の気持ち、目が合っただけ、それだけなのに、心の中にそんな感情が植え付けられた。体は自然と反応し、一気に汗を噴き出す。カップルの女がどうしたのと声を掛けているが、カップルの男は震えて動けない。

「すいません」

 男がカップルに近づく。ビクンと肩が跳ね上がる。

「昨日、この道を通りましたか?」

 カップルの女はカップルの男を気遣いながらも、通ってませんと答えた。

「そうですか、ありがとうございます」

 恐る恐るカップルの男が顔を上げると、先程見た男の視線は歩道に落ちていた。

「しいませんでした」

 噛んだ事も分からないカップルの男は、逃げるように女の手を引いて遠くに走っていった。

 男は収穫らしい収穫もなく、先程までいた壁に戻り、同じように似顔絵の二人を探す。とはいっても、さっきのカップル以外、人は通っていない。

 一滴垂らすのすら勿体ないとアイスを食べる事に集中していた女の子が、アイスを上に掲げるついでにと、男を見上げた。

「で、なんで井場いばさんがこんな事件に首を突っ込むんですか? 一銭にもならないじゃないですか」

 口周りがバニラアイスで白く汚れている。

「俺もですね、恵種になってから随分と時間が経ちました。色々と関係くらい作っていますよ。携帯に送られてきた情報じゃ、今回の事件は大きな報酬が出るらしいです」

 アイスを口の中一杯に頬張る。「いふら、でふか?」

 男、井場いば 良太りょうたが二百万と、いとも簡単に答えたので、女の子も二百万ですかと、アイスを口から出してあっさりと返した。残り一口。まだ一滴もアイスを地面には零していない。変わりに口元は真っ白で、ベタベタだったが。

「って、二百万ですか!」

 冷静に見えていたのは、あまりの金額の大きさに頭の理解力が追い付かなかっただけらしく、今まで慎重に味わい、最後の一口だったアイスを地面に落としてまで大きな声を上げた。

「そういう事は、なるべく小さい音量でお願いします、鬼柱――」

「苗字、呼ばないでください」

 今まで食べていたアイスよりも冷たい目をした。井場は小さく頭を下げて、名前を呼ぶ。

「……彩君」

「では小さく驚きます」

 小声で男を見上げながら二百万ですかと、鬼柱おにばしら、いやあや君が、ミュージカル俳優もビックリの大げさな表情を作った。

「まあ、そういう事です。で、犯人は何故か、理由は大体分かりますが、翌日くらいには警備が強化されている現場近くで女の子を襲うんです、あんな風に脅して」

 井場が顎で、五分に一度くらいしか車が通っていない道路の向かい、建設途中のビルの中に消えていく人影を指した。彩君も確認して近くにあった缶・びんのゴミ箱に木の棒を投げ捨てる。

 二人は横断歩道が無い道路に飛び出そうとしたが、井場が足を止めて彩君を見た。

「その前に、口と手、洗いましょうか」

 呑気にも程がある。彩君もイラっとして睨んだが、焦る必要はありませんからと、あくまでマイペースに淡々と話す。真剣なんだか、ふざけているのか分からなからない態度に足を踏み鳴らす。

「じゃあ、もう拭いてください!」

 確かに手もベタベタだったので、胸ポケットを親指で示す。

「いや、それは――」

「速く!」

 押し切られて、小さな胸に触れないように注意深く、ハンカチを二本の指で抜き取った。そのまま二本の指で口周りをハンカチで拭いていく。

「あの、ちょっといいですか?」

 二人が見ると、声の主は見慣れた制服。警察官の姿。

「何をしているのですか?」

 拭いているのはアイスだ。アイスなのだが、薄暗いマンションの駐車場を照らす明かりでは、こんな道端で付けていてはいけない物に見えたのだろう。人通りの少ない場所では、歩道ですらそういう行為をする人物もいるそうだし、ねぇ……。


     2


「分かるか、これ」

「ガラスの刃物。見たことねぇだろ、俺達の力だよ」

 この町自体は綺麗に、整備も整っている。深夜営業の店も多いが、それに見合うだけの人通りはない。

 バブル時代に構想された町。建てれば建てる程利益が出ると思い込んでいた人間の手によって作られた建物の中身は無く、広がる予定だった建物群は、整備された環境とは反対に、完成されずに止まっていた。今の時代では仕方がない。時の流れを読み切れなかった者の、敗者の嘆きを形にした城だ。

 連れ込まれた女性は、恐怖で声らしい音も上げられない。前日、ガラスを使える超能力者、ガラス兄弟が襲ったとされるコンビニは、見下ろせば見える場所にある。本物、少なくとも女性はそう感じた。

「お、お願い、た、助け、て」

 どうにかこうにか絞り出した言葉。

「だ、そうだ?」

 それに反応したのが身長は低く、ヒールを履いている分、女性の方が高いくらいの男。友達ならからかうかもしれない身長だが、彼らに言える者は少ないだろう。変わりと言っては何だが、首が無くなる程、全身が筋肉塗れ。付く所には全て付いていると言ってもいい。

 女性の背後を取っている男から視線を受け取った男が笑うと、二人同時に女性の耳に囁く。

「無、理」

 合図はなかったが二人が一斉に、ガラスのような刃物を女性の両方の頬に這わせる。すっと、絵の具を塗ったように赤い線が付く。痛みは感じていない。恐怖に切り裂かれ、体の奥底で震えている。赤い線は、頬から首、肩にまで順に下っていく。

 人にはそれぞれ嗜好があり、二人にとって、服は邪魔なようだ。肩を傷つけていた刃が、逆さを向いてボタンに触れた、その時だった。

「待て、偽者!」

 誰もいないはずの廃ビルに、女の子の声が響き渡る。男二人は慌てて振り返る。

「この可憐でキュートな私が、お前たちを捕まえ、二百万を手にするのだ! さぁ、大人しく捕まりなさい! さもないと、私の恵種が火を噴きますよ」

 男二人はまたもや顔を見合わせた。頷き合うタイミングも同じで、まるで双子。言葉の出てくる瞬間まで同じなのだから、兄弟でなければ気持ちが悪い域だ。「嘘吐け、ガキ」

「な、誰がガ――」

「彩君、走らないで、ください」

 息を切らせて、井場が追い付いた。

「井場さん、遅いです!」

 膝に手を置く井場は、この元気一杯のコスプレ娘に苦笑い。

「それは、だって、彩君、公務執行妨害、やめましょうよ」

 先程の警察官は今頃、股間の激痛を抑え、マンションのごみ捨て場で芋虫のように体をうねらせ、助けを求めようとしている頃だ。

「だって鬱陶しかったんですから、一蹴りで――」

「ったく五月蠅いガキだな」

 急に現れた井場は元気がないので鬱陶しく感じなかったようだ。逆に、テンションが上がっている彩君は鬱陶しくて仕方ないらしい。

「だ、だから、誰がガキなんですか! 私は準備できてます、白馬の王子様と一夜――」

「彩君、あまり生々しい事、言わないで、ください。と言うより、勝手に、先走らないで、ください」

 彩君が靴で地面を何度も蹴る姿は、子供が欲しい物をねだっている姿を連想させた。

「井場さん、きいてなかったんですか! アイツら、私のことをまたガキだって!」

「ここにいるから、聞いてますよ。ふぅ、少し落ち着いてきた。それにしてもあなた達も分かっていないですね。彩君はただお子様なだけですよ」

 見たままを答えてしまった。ガキや子供扱いよりも酷い、お子様扱い。

「そうですよ! 私はただお子さ……さっきの警察官の人助けにいかなくちゃ。男の人に無理やり蹴れって命令されてたっていえば信じて――」

「素晴らし色気をしているじゃありませんか」

 真っ直ぐ、自然の木の枝では作れない程、綺麗な直線の棒読みだった。

「……わかりました、そうですか。あぁ、そうですか。じゃあ、もういいです、私の恵種であの二人ぶっ飛ばしたら、井場さんもぶっ飛ばしますから」

 彩君は目を閉じ掌を男達に翳す。

「待って彩君。一般人もいるし、何より君の恵種は――」

「よし、どうだ、財布をだしてみろ! 大変なことになってるからな!」

 言われるまま、男二人はガラスの刃物を女性に押しつけながら、財布を取り出して中を確認した。

「うぉ、何だこれ」

 財布の中は黄色の、筒の先が四つに分かれた、見た事がない不思議な花で埋まっていた。

「どうだ! それが私の紙を原料に戻す恵種だ! どうだ参ったか! お願いだから参ったと……あぁ神様、なんでこんな恵種の為に私は左目を失ったんですか! ばか、神様のばかぁ!」

 男二人以上に彩君がダメージを受け、泣きながら地面に崩れ落ちた。

「だから、そうなるのに」

「なんて、なんて使えないんですか、私の恵種……。有り得ないほど不必要じゃないですか……」

「あぁ、あれですよ。木を森に植えれば――」

「私の恵種じゃ、伐採済みしか無理なんですから植えられないでしょ! それに、恵種は自然のものは作れないじゃないですか! 生命は作れないから、仮に植えても光合成もしないし、恵種の効果がきれたら直ぐにボッロボロの紙に戻るし! あぁ返して、私の将来有望だったあの頃を!」

「……一体、いつの事ですか?」

 圧倒的過ぎる二人のボケの前に、男二人は呆気に取られていた。

「何やってるんですか、警察を!」

 ここで一人、一番怯えているはずの捕まっている女性の適切な声で我に返った。ガラスのような刃物を女性の首に強く押し当てる二人の男達が、ではあるが。

 何故なら、井場と彩君はいつも通り、これが普段通りなのだから。

「とんだ恵種だ」

 前に出ている男の方に、井場が相変わらず俯いたまま対応する。

「恵種を知っているようですね」

「当たり前だろ? 俺達はガラス兄弟なんだぜ」

 まだ顔は上げない。見透かす必要もない相手だ。

「で、男。お前はどうなんだ? 恵種は使えるのか?」

「大した物じゃないですよ」

 井場の言葉で、ナイフを持ち替える。前にいた男はニヤニヤ笑って一歩近づく。おいと、捕まえている男に声を掛けられたが、聞こえていないようだ。

「そうか、それは有難い。ガキとはいえ、一度恵種の女を犯したかったんだ。それに顔は可愛いし、ガキも嫌いじゃない」

 背中に嫌な物が走る。これが世に言う、虫唾が走るというものなのだろう。背中がむず痒くなっている彩君を余所に、井場は淡々としている。

「それは趣味が良いですね。ただ一つ、いいですか?」

 もう一歩近寄ろうとしていた男が足を止めた。どうやら聞いてくれるようだ。そうでなくても話したろうが、こっちの方が有難い事には変わりない。

「お前達、恵種すら使っていないだろ」

 その場に居た全員が驚く言葉を平然と、初めて顔を上げて井場が言い放つ。女性も息を呑んだが、余りにも鋭い、自分達のような小悪党にはない、本物の裏の世界に浸っている瞳に、男二人の足が逃げ出そうと警告を発する。

「え、でも、あれってガラスの恵種じゃ?」

 彩君は三人の変化には関心を示さず、二人が手に持つガラスのような刃物を指差す。

「彩君、もう少し恵種の勉強をしましょうか。恵種はね、完全に同じ物は存在しない。本物がガラスを刃物にするだけの物か知りませんが。それに、恵種を使う者達が何故二人組みになるのか。アダムとイブから来ているだけではないんですよ。それは、最適な補助的恵種と攻撃的恵種が惹き合うから、と言われています。で、おかしくないですか、彼ら」

 教師が覚えの悪い生徒に手取り足取り教える時間が始まった。ピンクのセーラー服を着ている彩君には少し難しかったのか、じっくりと二人の男を見る。

 似た感じの筋肉、似た感じの顔、そして手には同じ武器。

「あ! なんで二人とも同じガラスの刃物を持ってるんですか?」

 正解と頭を撫でた。答えは実にシンプル。まず間違いない。

「作ったんだと思いますよ、自分達で」

「え? あんな筋肉してるのに、ですか?」

「えぇ。意外に器用なんでし――」

「そ、それがどうした!」

 完全に馬鹿にしている。図星だった時の慌て方だ。なんとも小悪党らしい。前に出ていた男が、唯一の逃げ場に戻る。

「そんな事より、こっちには人質が居るんだぞ! それに、お前も大した恵種じゃないんだろ!」

 見慣れた場面になってきた。こういう場合、助けに来た人間は一度怯む。男二人はそれを期待した、そうなると考えた。だが、井場の目に曇りはない。いや違う。曇る物がもうないだけだ。口ぶりはいたって冷静、瞳は凪いでいる。

「俺達が何ものかも分からないのに、人質になるとでも? 殺すなら殺せばいい」

 最悪の答え。女性にとっても、男二人にとっても。

 ただこの言葉に対して、他の誰よりも火が点いてしまう子がいた。

「なにいってるんですか! 私はあの人質を助け、新聞に載り、果ては白馬の王子様にみつけて貰うんですよ! こんなキュートな女の子が新聞に載れば、それはそれは大騒ぎですよ!」

「……そういう理由だったんですか。可愛いというのは否定しませんが、それはまあ、置いておきましょう」

 不満げに彩君は頷く。

「勿論助けますよ。で、あの辺りにある紙でどれくらいの木が作れますか?」

 井場が部屋の角を指差す。どうやらここは、誰も住んでいない訳ではなさそうだ。確かに、屋根もあって、壁もある。下の階にあるトイレらしき部屋は、扉さえ作れば風すら入ってこない。ここは、人生のレールから落ちてしまった人間の家になっていた。

 食べ残しや雑誌のゴミの山。彩君は、先程男二人にしたように目を閉じ、手を翳した。

「中身無しなら太さと長さ三メートルには」

 笑顔で十分ですと返す。

 垂れ下がっている目尻が、釣り上がる訳でもなく、一瞬睨みつけてから井場が走り出した。

 その姿を隠すように、男二人の財布の中の花が太い木に変わって視界を遮る。

「頼みますよ」

 言葉は彩君に、ゴミは男達に向かって投げられた。恐怖に支配されている男二人は、それを払い落すので精一杯。心の中は、二つの闇の中にある瞳に魅了されて逃げ出せない。

 散り散りになったゴミ。紙が三人の周りに散らばった。

 これからが本番。

 まるでそういうように、財布の中から生えていた木が消える。何が起ころうとしているのか考える前に、ゴミだった紙から、天井を突き破る勢いで五本の針葉樹が現れた。

 初めての領域。これが本物。話に聞いていた程度だった男二人には、驚愕するしか術がない。

 もう勝負は決まっている。それでも痛い目を見ないといけない。これからの方が大変なのだから。走って向かっていた井場は、勢いを付いたまま木を蹴った。盛大に、枝が触れ合っていた針葉樹が、台風に巻かれるように葉を落とす。まっすぐ、大粒の雨のように床に向かって降り注ぐ。

「俺のも大した物じゃない。人の手によって作られた植物の葉のみを、刃物のように変える恵種だ」

 囁かれた言葉。殺されるという恐怖。

 男二人が助けを求めるように伸ばした腕。それぞれに激痛が走ったはずだ。突き刺さったのだから、針葉樹の葉が。床に落ちる途中にある男達の肉体に、漢字の如く葉が針のように鋭く変わり、突き刺さっていく。

 頭、腕、肩、足、防ぎ切れない数の針の雨に、男達がのた打ち回る。這いながらも、未だに台風に揺られている木の間から男達が這い出てこようとするが、井場が感情なく蹴り返す。

 女性にとっては、今一体何が起こっているのか、恵種とは何なのか、これが現実なのか夢なのかさえ分からなくなっているのだろう。何も分からず怯え、その場で動けず、悲鳴を聞きながらへたり込んで涙を流している。

 分かっている、無駄な事だと。それでも、声を掛けずにはいられなかった。

「心配しなくても大丈夫。恵種は加減が出来ますから」

 男達の悲鳴も、数分もすれば聞こえなくなった。惨状と呼べるこの現状で、彩君はぐっと握り拳を作って掲げた。

「よし、これが白馬の王子様への第一歩!」

 強い子だ。呆れかもしれないが、井場は感心しているのだと心を言い聞かせた。新聞に載らないんですけどね、という言葉は飲み込みながら。


     3


 二つの血溜まりと、一つの尿溜り。井場はポケットからまた二本指で携帯を取り出し、「終わりましたよ」と電話を掛けた。

 それからまもなく、五分も経たないうちにフロアには如何にも裏社会のお兄さんといった、黒いスーツにサングラス、厚い胸板の男達が乗り込んできた。

 井場はその中の一人、唯一黒いスーツもサングラスもしていない、少し灰色がかったスーツを着た中年の男に目を奪われていた。

「井場さん、井場さん」

「はい?」

 スキンヘッドの、一番大きな男が井場の横で声を掛ける。

「どうしたので?」

「いえ、特に」

 動かない男二人に顔を向けた。光は差し込まない月明かりと、民家などから洩れている頼りない物しかない。サングラスの奥の瞳がどう動いているのか推し量れそうにない。

「死んでいるので?」

「いえ、殺してはいないですよ」

「こいつらが一ヶ月前、お嬢さんに手を出したゴミですか?」

「えぇ、そうです」

「ガラス兄弟というのは本当で?」

 思わず出た笑顔をすぐに引っ込め、真剣な、それを通り越して今にでも頭を撃ち抜きそうな鋭い視線を男に向けた。

「本物だったら勝てるはずがない、俺なんかが」

「そう、ですか」

 ネクタイを無性に緩めたくなる視線だった。夜になり、かなり涼しくなったが残っている蒸し暑さに関係なく、緩めたくなった。この男が勝てるはずはない、か。スキンヘッドの男が、目だけで部下に命令をした。虫の息の二人を捕まえ、立たせる。

「では、これを」

 何も包まずに二百万を取り出し井場に渡すと、男二人を連れて、一人の男を残してスーツの男達はフロアから消えた。


「久しぶりだな。三年ぶりか? いや、二年か」

 一気に人数が減り、熱が下がった。

「それにしても派手にやったものだな、良太。その血溜まりは、まあ、こんな廃墟なら問題はないだろうが」

 今まで見せていた視線の鋭さはただの片鱗だった。歯を見せ、唸り声が聞こえてきそうだ。眉間には何本もの深い皺。何時も、先程まで見せていた睨みの時ですら表情は飄々としていて、掴みどころがなかった。どんな感情を持っているのかさえ分からなかった。だが今は違う。明らかにこの男に対して、歯は軋む音が聞こえそうな程噛みしめられ、堪え切れない怒りを爆発させまいとしていた。

「何の、用ですか」

 井場の恐ろしいと表現しても間違いではない怒りを受けても、男は全てを薄らと吸い込むように微笑んでいる。三十いや、四十は軽く過ぎているか。白髪交じりのオールバック。髭は綺麗に剃られている。顔はやつれ、メガネを掛けているが滑り落ちそうになっているのを、少し大きめの鷲鼻が受け止めていた。

「近くのマンションで、巡回中の警部補が襲われた」

 新聞に載った後の、テレビ出演した時の受け答えを練習し始めていた彩君の動きが止まった。

「左目に眼帯をしていて、ピンクのセーラー服を着ている、お河童の可愛らしい女の子だったそうだ。知らないか?」

 頬笑みを崩さないまま、振り返っていた彩君を見るように男が体を傾け目を合わせた。だるまさんが転んだをしているように、目が合ってからは瞬きすら彩君は我慢している。

「そんなくだらない事の為に来たのではないでしょう」

 吐き捨て、切り捨てた。

「くだらない、か。お前の同僚――」

「あなたがいた限り、あんな若いのと俺は同僚になる事はありませんでしたよ!」

 少し、いつもよりも大きく低い声だった。今の今まで無関心だった彩君の顔が少し曇った。

「まだ怨んでいるのか。感謝されても良さそうなものだが。あんなに可愛らしいイブと出会えたのだ。お前のような冴えない男が」

 背中に感じた気配。

 心に語り掛ける。落ち着け、取り乱す必要はない。

「……なんであんなヤクザと一緒にいたんですか?」

 戻った、無理矢理戻した。それでも、心配そうな彩君の顔が少しだけほっとしたようだ。

「ウチの歴史はたかだが十数年しかない。そんな課だ。繋がりが、情報網が欲しい」

「四課が動きますよ」

 表情に変化はない。全てを吸い込む、言い知れぬ怖さを孕んだ微笑みから動かない。

「彼らが? そんな事になると本気で思っているのか」

 本心じゃない。せめて、少しだけでも揺さぶれたら。そんな思いも虚しく、男は笑う。

「怖くて仕方がない、どこもウチが。しかし、組織を動かすのは大変だ」

 やってきた。本番だ。この男がここに来た理由が分かる。

「だから良太、お前にやってもらいたい事がある」

 二人の間に流れる夏の夜。蒸し暑いはずの時間も、間違って二人を撫でて通り過ぎた風は酷く凍えてしまう。

 答える必要はない。まだ本題を話していないのだから。この男に、弱みを見せる訳にはいかない。

「鼠がいる」

 そういう、事か。またか。

 巨大な組織になるに従って、管理が行き届かなくなる。この男はそれ程上に居る訳でもなく、全てを見渡せる位置にもいない。いや、全てを見渡せる者など、あの組織にいるはずがない。

「それをお前に見つけてもらいたい。目星は付けている」

「嫌だと、断ったとしたらどうですか?」

 挑戦でも、挑発でもない。これは賭けだ。この男を揺さぶるための賭け。

 井場よりも一段低い所で、男は声を立てないまま笑う。微笑んだまま笑う。本心からなら表情に変化があるはずだが、この男は来た時の表情から何ら変わらず、微笑みだけを浮かべる。

「断れるのなら、そうすればいい」

 無理だ。この男を揺する事なんて出来るはずがない。

「ウチはまだ新しい課だが、国家権力だ。お前如き、簡単に捕まえられる。それに、彼女、人気が出る事は確実だろうな」

 体を透ける視線。彩君に向けられる笑顔。目を閉じた。

「最後に、これで最後に、してくれますか?」

 強気は消えた。掻き消されて、夏の蒸し暑さに溶けてなくなった。アイスのようにべとつく事すらなく。

 男の顔は笑っている。変わらない、あの時と。左手が妙に痛む。

「そんな事が許されると思うか。お前はこの国の為に働いてもらう」

 笑顔の中にあるもの、それはただ一つ。この国を守る。絶対の掟、信念。信者が崇める神の言葉。この国の為に。

 白い手袋が赤く染まっていく。痛くないはずだ、もう痛みは消えたはずだ。なのにどうしてこんなにも痛む。

「やってくれるな、良太」

 返せる答えはもう残されていなかった。「……はい」

「いい返事だ。これを」

 懐から紙を取り出し手渡した。

「あぁ、そう。警部補は何も見なかった。少し転んだ。それだけだったようだ。さぁ、行きましょうか」

 一度立ち止まってから、もっとも状況把握が出来ていない女性の腕を掴んで鷲鼻の男は出ていった。

 変わらない、変えられない。このまま一生変わらないのかもしれない。井場は埃が垂れる天井を見上げた。お月さまは、何重にも天井を隔てた向こうにある。窓がないのだから壁に開いた穴から顔を出せば見えるのに、考えても考えても、綺麗に輝く月を見る方法が分からない。

「終わり、ましたか」

 小さな声だった。はっとなった。

 何を自分はこんなに怯えているんだ。そうだ、イブがいる。恵種としての、小さくて可愛いイブがいる。

「えぇ、終わりました」

 怯えていた心の尻を叩いて、いつもの自分を叩き起こす。

 側まで近寄り、頭を撫でた。すいません、何度も心で呟いて。

「仕事が入ったんですが、やってもらえますか?」

 縮んでいた声が嘘のように、井場の言葉に、いつもの明るい声が戻って来た。

「当然です。私は井場さんの女神ですから」

 イブじゃなくて女神か。

 ニコリと笑う。救われているんだなと改めて思った。「お願いします」

「はい。あ、でも勘違いしないでくださいね。井場さんは私の白馬の王子様じゃないですから」

「歳が違うし、当然ですよ」

 二人は並んで廃墟を出た。


 暫く歩いていると、彩君が腕を組んで唸りだした。

「なにか、なにか重要なことを忘れて……あ!」

 思い出してしまった。一番考えていた、大事な作戦。初めの第一歩を。

「これじゃ、新聞に載れないじゃないですか!」

 大声で井場の腕を掴む。

「いや、元々載れないですから、恵種使っていますし」

「そんな、そんな詐欺だぁ!」

 彩君の叫び声が空しく夏の夜に抜けて、お月さまに届いた。

 見慣れたいつもの町に戻る頃には、日本はすっぽり夏の夜に抱かれ眠りを楽しんでいた。扇風機で涼んだり、暑くて寝苦しそうにしていたり、クーラーの中で快眠を楽しんだりしている。残業や夜の街の仕事の者も少なくはないはずだ。

「最悪ですよ。これだけ働いて新聞に載れないなんて」

 まだ文句が止まっていない。

「……何か働いてもらいましたかね」

「ホテルに行きましょうか。無理やり連れてこられたって通報します」

「……まあ、あれですよ。そう、彩君の能力も、逆なら一人でも相当使えたんでしょうね」

 無理矢理話の筋を捻じ曲げた。

「逆?」

「そう。木を紙に出来る、とかなら。しかもそれが、お金に出来ると凄く便利ですよね。なんてじょ――」

 思わぬ力に扱けそうになった井場。彩君の方に体を向けられた。

「そ、それ、それ凄いじゃないですか! じゃあ、練習を」

「練習? いや、冗談で、あの、えっと、彩君。何をしているんですか?」

 井場のポケットから二百万を抜き取る。

「落ち着きましょう、ねぇ、彩君、事務所費とか食費とか君の給料も――」

「二百万か……。ちまちま練習しても上手くならないだろうし、一気にいきますね」

「ちょっと、お願いだから話を、ねえ、ちょっと、貨幣偽造は犯罪に、ねぇお願い――」

「はいゴー!」

「いや、ちょ、ちょっと、本当に話を、話をぉ~!」

 新聞に載るどころか、タダ働きになったのは語る必要もなかった。

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