5、盲目鳥
愛実が消えた。
屋敷の雑事を任されていた女は、帰ってきた主にこともなげに言った。
「みずから出て行かれました」
なぜ止めぬ、と怒りを露にした安里に対し、女はどこまでも冷静に答える。「私の仕事ではございませんので」その目には、どこか安里を侮る色があった。
もともと望んで来たのではないと分かっていたが、仮初とはいえ、主の益にならないことを平然とやってのける女を許すほど、安里は愚かではなかった。
「もうよい、今日を以ってお前には暇を取らせる」
「ではそのように」
清々したと言わんばかりの表情を一瞬浮かべた女だったが、すぐにその顔は強張った。
「それだけでお許しになられるので? だから貴方は軽んじられるのです」
それまで安里の肩で羽根を休めていた鳥が喋りだしたのだ。女はうろたえたように一歩後ずさった。
「よろしければこの私が、本当の罰というものをお教えしましょう」
突如として翼を広げた鳥に、女は悲鳴を上げて逃げ出した。私物などあっただろうに、その身だけで屋敷を飛び出していった。
女のつんとすました様子しか見たことのなかった安里は驚いたものの、胸のすく思いで見送った。
「これで過ごしやすくなるな」
追随するように耳に心地よい男の笑い声がした。
「女の乱れる様というものは、見ていて実に心地よいものですね」
「おぬし、生まれて間もない子供だろう? そういうことを言うでないよ」
「私どもに年月など関係ありませんよ。ところで」
言葉を切った鳥は、安里の肩の上でゆっくりと首をめぐらせた。動作が他の鳥に比べて人間らしいところのある彼は、まるで考え込むようにしばし瞼を閉じた。
「鳥の匂いがします」
鳥といっても、彼が言うのはまったく別の『鳥』のほうである。連れてきた他の四羽も、どこか落ち着きがなく、そわそわと体を揺らしていた。
「残り香とはいえ、産毛が逆立つようです」
とても怯えているふうには見えなかったが、力のある鳥が屋敷に不法侵入したことはたしかだった。
自然とそれは愛実の失踪と繋がり、安里は身を翻して駆け出した。
「どこに行かれるのですか」
「同居人を探す」
「どうやって? 勘だとか言わないでくださいよ」
まさにそれだった。
立ち止まった安里の頭上をくるりと回り、鳥のくせに彼は呆れたようなため息をついてみせた。
「何のために私がいると思っているのです。匂いくらい辿れますよ」
「本当か? 犬のようなやつじゃの」
「野蛮な獣と一緒にしないでください」
今度は機嫌を損ねたのか、鋭い爪が安里の腕に食いこんだ。
少し前までは青々としていた森も、今ではすっかり秋の様相と化している。
落ち葉の溜まった柔らかい地面を踏みしめ、鳥女は渓谷を臨める崖の上に立っていた。
元々白い肌をしていたが、今はさらに白くしていた。知らない者が見れば、具合を悪くしていると思ったに違いない。実際、気分は優れなかった。
たった今、姉の意に沿わぬことをしたばかりのことだった。
しかし、いつまでもここに立っているわけにはいかない。鳥女は物憂げな表情を仕舞いこみ、相棒に視線をやった。
「帰ろう、旭」
「はい」
理知的な女性を思わせる旭の声は、鳥女を幾許か安心させた。
急いで屋敷に戻ることにした。まだ姉がいるかもしれない。
何食わぬ顔で会いに行けば、疑われることはないだろう。気の優しい姉の安里は、年下には甘い。嫌われるばかりの兄らとは違って、鳥女が屋敷を訪ねても不機嫌にはならなかった。
これからはまた彼女はひとりになるのだから、自分を印象づけておきたい。
先ほどよりは浮き立った気持ちで、鳥女は崖から離れ歩き出した。しかし数歩して、立ち止まった。
なぜ。
葉が枯れ落ち、すっかり寂しくなった木々の間に、姉の姿があった。こちらへ来ようとしている。肩にとまった旭がすばやく飛び立った。
しかし遅かった。
「旭!」
鍵爪に襲われた旭が甲高い鳴き声を上げた。急襲したのは大型の鳥で、旭を爪で捕らえたまま旋回し、一瞬だけ鳥女と視線が合った。
無礼者には見覚えがあった。生まれたばかりの、母のところにいる鳥だった。
気づいていたのか。
いや、気づかぬはずがなかった。
だからあの特別な鳥を姉に持たせたのだろう。それくらい母ならやりかねない。実の子供よりも安里を愛している、あの母なら。
「どこまでも私の邪魔ばかりするっ、」
憤ってみせても今は仕方ない。だんだんと近づいてくる安里の姿は、表情こそ見えなかったが怒っているのは間違いなかった。
「どういうつもりじゃ、小瑠璃」
鳥女の名を継いだと同時に捨てた名だった。今は安里だけが呼ぶその名で呼ばれ、普段なら緩む頬も、今はさらに強張り白くなるばかりだった。
冷や汗がにじみ、鳥女は意味もなく視線を泳がせた。
うろたえる鳥女の視線の先で、旭を捕まえた鳥が安里の肩に降り立つのが見えた。
苦しげに羽根をばたつかせ身をよじる旭の姿は哀れなものだった。美しい羽根が暴れるたびに何本も抜けていったが、捕獲したほうは気にも留めずに己の毛づくろいを始めていた。
「可哀相じゃ、離してやれ」
「私の獲物です」
「餌を前にして我慢できんとは、やはり犬のようなやつじゃ」
一人と一羽は睨みあった。
折れたのは、一羽のほうだった。
「すまんの。飛べるか、旭」
「………はい、」
安里の手の中から飛び立った旭は、対峙する鳥女のもとへと戻っていった。「申し訳ありません」弱々しく謝罪する旭に咎はない。そもそも匂いを辿れるような鳥を、母が持たせたのが悪い。
「愛実をどこへやった」
安里の目は怒りと同時に不安げに揺れていた。鳥女のすぐ後ろが崖だったのだから、ある程度察してはいるには違いない。
それでも敢えて聞くのだから、彼女はつくづく人間を慈しんでいるのだろう。
では私は?
狼狽していた鳥女の胸に、どす黒いものが巻き起こった。
私は、姉上のためにやったのに!
「あの娘なら」
一呼吸置いて言った。
「いまごろ、里の辺りに流れ着いているのではないでしょうか」
悪意など微塵も知らないといった顔で微笑んだ鳥女を見て、安里は一瞬喉を詰まらせた。
崖下には流れの速い川がある。鳥女の言うとおり、流れていけば里にたどり着くだろう。
生きている可能性は、皆無だった。
「なぜこんなことを? 兄上たちに何か吹き込まれたのか」
「いいえ。私の意志です。姉上こそどうなされたのです。人間に、そこまでしてやる価値などない」
「わしがすることはわしが決める。誰がなんと言おうとも、わしの邪魔はさせん。それがたとえ父上であってもだ」
鳥女の体が大きく震えた。恐怖に侵された顔をして安里を見る。
鳥女にとって、父親という存在はそう簡単に口に出来るものではなかった。年かさの兄たちでさえ、接するときは恐れ敬うほどだ。自分が彼の方の血を継いでいると思うだけで、身が震えるほどであった。
しかし安里には、そんな兄弟たちの感情こそが理解できなかった。
父は父である。たとえどれほど恐ろしくとも、自分が持つ血の半分は父のそれだ。必要以上に怖がって見せる気などさらさらなかった。
それよりも今は愛実だった。
本当に崖から落ちたというのなら生存は見込めない。しかし万が一ということもある。
安里は祈る気持ちで崖下を覗き込んだ。
………いない。
「愛実、」
知らぬ世界へと放り込まれ、死ぬ。
それがどれほど憐れで悲しいことか、想像に難くはない。次の満月、戻れるまでに、あと半月もなかったというのに。
「弔いをせねばな」
「何の?」
「もちろんおぬしの………はぁ!?」
「うわ、びっくりした。あんたすごい顔してるよ」
ひょっこり顔を出した愛実に、驚きのあまり安里は崖からまっさかさまに落ちるところだった。
上から下までまじまじと見やり、幽霊ではないかと疑った。しかし影もあるしぼやけてもいない。何より生気が満ち満ちていた。
「な、なぜ、おぬし、死んだのでは?」
「は? あんた喧嘩売ってんの? なんで私が死ななきゃいけないのよ」
「しかし、……こ、小瑠璃、これは一体どういうことじゃ」
詰め寄られた鳥女は悪びれもせず言った。
「断言はしていませんよ。あれは、意地悪です」
「なにぃ?」
「姉上に、意地悪したかったんですっ」
顔を背けて言い放つと、鳥女はそれきり黙ってしまった。その横顔は意地でも謝らないと言っていた。
「てかさ、ここどこよ? 私、気づいたらここにいたんだけど」
「旭に惑わされて連れてこられたのじゃろう。そうじゃな、小瑠璃」
返事はなかったが概ねその通りだろう。
ひとり訳の分かっていない愛実は、安里の肩にとまった大鳥に騒いでいた。
「疑ってすまなかった」
「なぜ謝るのです。私がしようとしたことは、崖下に突き落とすことと同様のことです。山奥に、捨て置くつもりでした」
「だが殺さなかった。わしは間に合った。それで十分じゃ」
「……………はい」
俯き、何かを耐えるようにしている鳥女の手を取り、安里は額と額を擦り合わせた。
幼い頃、どちらかがこうして慰めあった。二人は歳が近く、触れ合うことに羞恥はなかった。
「ね~、仲直りできた?」
「あぁ。………おぬし、ぼろぼろだが」
「だってこの九官鳥、私のことめっちゃ突いてくるんだもん」
「九官鳥ではない。安里殿、この生意気な人間、私が崖から突き落としてやりたいのですが」
意外と気が合っているように感じたのは果たして勘違いなのだろうか。
騒ぐ二人をぬるい目で見ていると、不意に手を握りこまれた。
「姉上、あの鳥ですが」
「あぁ。大鳥女様から貸していただいた」
「はい、母上が目を掛けている者です。生まれて間もないというのに、恐ろしい力を秘めている」
「あれがか?」
愛実を羽根でばしばし叩いている様は恐ろしいというよりも不遜であったが、それほどの脅威は感じられなかった。
「姉上にとってはそうでしょうね」
鳥女の言葉には、たっぷりと皮肉がこもっていた。
「私も妹いるんだけどさ、苛めてばっかりだったんだ」
鳥女の一件から数日後。
借り受けた鳥たちはそれぞれの役目を果たしている。その中の一羽は、愛実の頭の上が気に入ったようだった。
「妹の環は私と違って頭が良くて、学校じゃ生徒会長もやってるんだよ。あんまりにも私と違うからさ、見てて腹が立ってくるんだよね」
「なぜ?」
「なぜって、もう、分かんない?」
縁側に座って語らうことの増えた安里と愛実。着物さえ着ていなければ、あちらの世界でも普通に見られる光景だった。しかし安里の傍らには、座布団の上に鎮座する大鳥がいる。それがいつも余計なことを言った。
「自分の出来の悪さに腹を立てているんですよ」
「ちょっとバカ鳥っ、会話に入ってこないでよ!」
「バカはお前ですよ。頭はでかいのに大したものが詰まっていないようですね、可哀相に」
「てめえ唐揚げにしてやろうか!?」
襲い掛からんとする愛実を制する安里の向こうで、大鳥がくすりと笑った。嫌味な笑い方だった。
「私、絶対に鳥だけは飼わないっ、今決めた!」
「良い判断です。鳥も貴方にだけは飼われたくないでしょうから」
「羽根むしってローストチキンだこの野郎!!」
ひと騒動演じた後、息を荒げた愛実が言うには。
「つまり私が言いたかったのは、こうして離れてみてやっと違う見方ができたってことなの。そこのクソ鳥が言うみたいに、私は自分に腹が立ってたんだよね。なんで私はもっとうまくできないのかなあって。ここに来てやっと妹と親のことが、嫌いでもなんでもないってことに気がついたんだ」
「近くにいすぎると、かえってよく見えぬということか」
「うん」
「ではわしも、遠く離れた土地へと行けば、兄上たちのことを好きになれるやもしれんな」
「きっとそうだよ」
愛実は大きく頷いて、それから家事があるからと縁側を後にした。使用人の女を追い出してからは、二人で役割分担をしている。
「遠く離れた土地か……」
まるでそこに見えるかのように、安里の目は眩しげに細まった。
しかし夢心地を壊すように、男の声がした。
「貴方はまるで、生まれたての雛のようだ」
「どういう意味じゃ」
人間のように首をすくませ、彼はなおも言った。
「巣の外には素晴らしい世界が広がっていると信じて疑わない、ということですよ」
安里の目が、今度は別の意味で細められた。親しみのない冷たささえ感じさせる一瞥を鳥にくれてやると、すぐに逸らして立ち上がった。取り合う気はさらさらなかった。
帰還の日が、近づいている。