3、高嶺の笑み
「よいか、愛実。兄上に聞かれたことには、「はい」か「いいえ」のみで答えよ。余計なことは言うなよ」
高嶺のいる部屋に入る前に、安里が真面目な顔で忠告をした。
しかし愛実は、そんな簡単なことすらできなかった。高嶺を見た瞬間、すべてが頭の中からすっ飛んでいったのだ。
高嶺は、この世のものとは言えぬ美しさをしていた。
「愛い娘だ」
安里の住まう屋敷を出た高嶺は、笑みを浮かべて言った。
その娘は、今は部屋に戻り惚けている。その姿をありありと思い浮かべることができた安里は、やれやれと首を振りたくなった。
「兄上。お戯れにはあの娘は向かぬと思いますが」
「そうだろうか? 飽かぬ娘であったように感じた」
高く結い上げられた高嶺の髪が、風にもてあそばれて揺れた。彼の心のように気まぐれな動きだ。
空を映しこんだ清流のような髪から、屋敷のほうへと視線を転じ、安里は苦々しい思いを押し隠した。
さて、どこまで本気であるのやら。
言葉のみなら何もしないでおくのが一番だが、下手に妨害などしようものなら、天邪鬼な兄はその気がなくても娘を攫うだろう。
そうやって不幸になっていく迷い人の娘たちを、安里は何人も見てきたから知っている。
「安里」
「なんでしょう」
「悲しそうな顔をしている」
「それはきっと朝餉の食べ合わせが悪かったのでしょうや」
安里はすっとぼけると、別れの挨拶を朗々と述べた。高嶺は寂しげに微笑んでみせた。すべての者に罪悪感を抱かせるような高嶺の顔に、安里の心がまるで動かなかったというわけではない。しかし敢えてそれを見ないようにして、さぁ帰れ、今すぐ帰れと念じて見せた。
「また来る」
「えぇ、お待ちしております」
「そうだ、近々、鳥女も訪れるだろう」
「承知しております」
「では、ね」
高嶺は最後まで名残惜しげだった。
やがて従者と共に姿が見えなくなった頃、安里は「っケ!」と吐き捨てた。
「気っ色の悪い男じゃ」
「やい、愛実」
「なぁにぃ?」
案の定、愛実は惚けていた。その目は夢見る乙女状態だった。
思ったとおりの有様に、安里は適当にそこにあった枕を蹴飛ばした。派手な音がしたが、それでも愛実はぽけっと宙を見ている。
「腑抜けにもほどがあるぞ。トロンとしとらんと布団くらい上げんか!」
「高嶺様ってステキよねぇ」
「大馬鹿者めっ! 面の皮一枚に騙されてどうする!」
「高嶺様、私のことなんか言ってたぁ?」
「アホ娘と言っておった」
「うれしぃいい」
「目を覚ませ!」
「ったぁ! 何すんのよバカ!」
焦点すら定まっていなかった目にはっきりとした光が戻る。安里はほっと息をつき、きいきい怒る愛実に指を突きつけた。
「帰りたくないのか」
「は? え?」
「家に帰りたいのじゃろう?」
「当たり前じゃない」
「では兄上のことは忘れろ。あれは魔性じゃ。川の中から、おいでおいでをしている河童みたいものじゃ」
「高嶺様がカッパ!?」
「たちが悪いということじゃ。自分の側に引きずりこんで、苦しむ様を見て楽しむのが兄上の趣味といってもいい」
それも無意識に、だ。
兄、高嶺の困った性癖だった。
彼には、心がない。情がない。それを本人も気づいていない。
無責任に他人を魅了し、人生を狂わせる。可哀相にと嘆いてみせるも、次の瞬間にはけろりとしている。
高嶺ばかりではない。他の兄弟らも同じようなものであることが、安里の悩みであった。
「いいか愛実、家に帰れるかどうかは、お前しだいだ」
「私?」
「そうだ。あと、これを返しておく」
紫色の風呂敷包みを渡された愛実は、なにと視線で安里に問うた。開けてみろと言われて素直に結びを解くと、あっと驚かされた。
「私のカバン!」
「朝のうちに拾ってきた。無くなっているものがないか確認せよ」
「う、うん!」
学校指定ではない茶色のバッグ。
お気に入りのマスコットキーホルダーは泥に汚れていたが、無くなってはいない。ファスナーを開けて、まず携帯を取り出す。バッテリーは残っていた。しかし圏外。
買ったばかりのダイアリー、財布、ファッション雑誌、化粧道具、食べかけのお菓子。
教科書が一冊も入っていないのは最初からだ。すべて揃っていた。向こうにいたときと同じ愛実のカバン。
「大事にとっておくのだぞ。一日に一度は触れるといい」
「それが、帰ることと何か関係あるの?」
「ある」
安里の怖いくらい真剣な眼差しが愛実を見据える。手袋をつけた左手が、愛実の肩を強く握って引き寄せた。
「二人じゃ」
「え?」
「迷い人、おぬしのことを我らはそう呼ぶ。愛実、迷い人はお前が初めてではない」
「そう、なの? 私みたいなのが、今までに二人いたってこと?」
「違う。そうではない」
さらに引き寄せられ、鼻と鼻が触れ合いそうになる。照れて思わず顔を引いた愛実だったが、安里がそれを許さなかった。
「いいか、よく聞くのだぞ愛実」
「な、に」
「もう数えるのも嫌になるほどの迷い人を、わしは迎えてきた。その中で、帰ることができた者は二人だけじゃ」
愛実の体がぶるりと大きく震えた。それを押さえ込むように、安里の指が肩に食い込んだ。もたらされた痛みが、愛実をほんのわずか冷静にさせた。
「………嫌になるほどって、どれくらい? 十人?」
「もっとだ」
「百人? 千人? ねえ」
「もっと、もっとだ」
「なのに二人だけ?」
涙も出ない。こみ上げるものはあったが、そこまでだった。
「どうして、どうしてよ」
「理由は様々だ。望んで帰らなかった者もいる。だが、………残った者が、幸せだったかと聞かれれば、わしはそうだとは言えぬ」
愛実はもう限界だった。ぱくぱくと酸素を求めるように唇を喘がせたので、安里は布団に寝かせてやった。
帯を解き、襦袢一枚にすると、掛け布団を首まで掛けてやった。
「月が巡るまで待て。その間、己が己であることを忘れるな。大丈夫じゃ、わしが必ず帰してやるゆえ」
「ほんとう?」
「嘘は言わぬ」
その言葉に安心したのか、愛実は目を閉じ、やがては眠りへと落ちていった。
化粧を拭い去り、眠ってしまった愛実の顔の、なんと稚いことか。
安里は枕元に侍り、いつまでもその寝顔を眺めていた。