2、安里と愛実
目が覚めると、木目の天井が愛実を見下ろしていた。
私、おばあちゃんの家に来てたんだっけ?
でも、その割にはお布団重くないなあ。お線香の匂いもしないなあ。
わずかな違和感に苛まれつつも、起きる気がまったくしない。全身が倦怠感に包まれていて、足も痛い。けれどお腹は立派に空いていた。
「おばあちゃぁん、いないのー?」
甘えた声で呼べば、おばあちゃんはきっと「はいはい、どうしたの愛ちゃん」と言ってすぐに来てくれる筈だった。
けれど代わりに来たのは、まったくの別人。けれどどこかで見たような。
「だれがおぬしのおばあちゃんじゃ」
お膳を持って現れたのは、十四、五歳の少女。
特別可愛いということもなければ、ブサイクでもない。どこにでもいそうな普通の、それこそ愛実のクラスにいてもおかしくない、そんな少女だ。
髪は長くて、腰まであるのを首の後ろでひとつに結わえてある。まっすぐでとても綺麗だと思った。
袖のない着物と、裾を絞ったような袴を身に着けている。神社のお祭りで見たことがあるような古風な出で立ちだった。
そして肘の上まである手袋を、左手だけに着けていた。
「あんたっ、昨日の!」
「なんじゃ、今思い出したのか」
昨日出会った少女はにやにやと笑いながら、愛実のいる布団近くまでやってきた。なんだか腹の立つ笑い方だったので睨み返してやったが、良い匂いがして、愛実は自分が空腹だったことを思い出した。
「朝餉じゃ。食え」
「う、うん」
食欲にはまるで勝てずに、いただきますと同時にすぐさま白米に取り掛かった。
一粒一粒立ったお米はとても美味しかった。それから漬物も、お浸しも。野菜ばかりの朝食なんて、普段の愛実ならあり得なかった。しかし今まで食べてきた朝食の中で、今日のが一番だった。
「よい食べっぷりじゃなー。………それにしても、ぷぷ!」
ぷすぷす笑う少女にむかっ腹が立ったものの、今はなにより目の前の食べ物を平らげることが先決である。
愛実は笑い転げる少女を睨みつけながらも完食した。
「なにがおかしいのよ」
「いやだって、おぬし、顔が違うんじゃもの」
「顔ぉ?」
「今のほうが愛いぞ、ぷぷっ」
「っな! あんた、私のすっぴん笑ってるわけ!? このあんころもち!」
「誰があんころもちじゃ! わしの名は安里と名乗ったろうに!」
「うるさいっ、あんたなんてあんころもちで十分よ!」
「この眉ナシが言ってくれる!! というかお前、いい加減名乗らんか!」
「愛実よ! あ、い、みっ! あんたよりもよっぽど可愛い名前でしょ!」
「愛を忌むとはなんとまぁひねた名じゃの」
「愛が実るよ!」
空になった膳を挟んで言葉の応酬をしていると、開きっぱなしだった襖の先から、突然着物の女が現れた。
まるで幽霊みたいにぬっと出てきたので、愛実は悲鳴を上げてのけぞった。
「何じゃ」
安里は気づいていたのか平然としていた。現れた女に一瞥をくれる姿は、子供っぽい言い合いをしていた先ほどとは別人に見える。
「高嶺様がお見えです」
「なんと。おい愛実、兄上がおぬしに会いに来たぞ」
「たかね、さま? あんたのお兄さんが、なんで私に会いに来るのよ」
「品定めじゃ。はよう着替えて迎えねば」
現れた女に何事かを告げると、安里は部屋を出て行った。
途端に愛実は緊張した。
残った女と二人きりにされたことで、不安と恐怖が襲ってくる。なにより女の物でも見るかのような目が怖い。
同じ目をした人物を愛実はもう一人知っていた。生活指導の教師がそうだった。
女は膳を部屋の端に寄せると、あらかじめ掛けてあった着物を手に近づいてきた。
「それはお脱ぎください」
「で、でも、あの、なんか下に何も着てないんだけど、」
「湯文字はそちらに」
「ゆ、もじ?」
「お早く」
「え、あ、あの、その前に、トイレに行きたいんだけど」
「といれ?」
「げっ、通じないの?」
そういえばここがどこなのか、安里に聞くのを忘れていた。何よりも今知りたいことのはずなのに、なぜかあの少女といると気にならなくなってしまうというか、不安が吹き飛んでしまうのだ。
当たり前のことすら通じないここは、やはり愛実の知る世界ではないのかもしれない。
そう思うと、涙と絶望がせり上がってきた。
いきなり震えだした愛実を見据え、女は表情ひとつ変えはしなかった。いや、かすかに目を細め、不快を示している。
「あさとぉ、」
「呼んだか?」
「っぎゃ! あんた行ったんじゃなかったの!?」
「挨拶は済ませてきた。おい、なぜまだ着替えが済んでおらんのだ」
「この方が"といれ"に行きたいと仰られて」
「といれというのは厠のことじゃ。愛実、わしについてこい。そこのお前は兄上の相手でもしていろ」
「わ、わたくしがで、ございますか?」
それまで無表情を貫いていた女が一変した。
頬を紅色に染め、目が潤みだす。感激しているのだ。
そんな女を部屋に置いて、愛実と安里は廊下に出た。
「あの女になんぞ言われたか」
「別に、」
「これから何度も顔を合わせるじゃろ。慣れろとは言わんが、気にはするなよ」
安里にしては随分と辛らつな物言いをすると思った。
しかし愛実はすぐにあれっと首を傾げた。
昨日今日会ったばかりなのに、安里のことをそんなふうに思う自分が愛実には不思議だった。まるでもう友達みたいな素振りではないか。
「といれはここじゃ。落ちるなよ」
考えごとをしていたので、ろくに聞いていなかった。
厠に入った愛実は、素っ頓狂な声を上げた。
「なによこれぼっとんじゃない!」