3:心の自由を奪うもの
狭い、アパート。
ひとり暮らしには充分であるのだと、理解した今ではそうでもないのだけれど、最初は驚いた記憶がある。
自室より当然狭い。別邸の私室よりも狭い。その中に、部屋と台所に、お風呂までついているのだから。
1DK、という。ダイニングと、キッチン、そして部屋がひとつ。ごく当たり前の間取り。
それが当たり前じゃない世界で生きてきた私は――やはり、どこか特殊な育ちなのだと、痛感したものだった。
そんな部屋に、私の空間に、この前の見合い相手である、彼が、いる。
違和感、なんてものじゃない。似合わないこと、この上ない。
――西宮寺の跡取りたる、知る人ぞ知る、といわれる男の人が、どこか窮屈そうに、それこそ「いちきゅっぱ」でかえるようなラグの上に腰を下ろしている。
右へ左へ、上へ下へ。気を付けては居るようだけれど、彼の視線はあちらへこちらへと彷徨っていて。
――ものめずらしい、ん、だろうなー。
自分にも覚えのある感情だけに、少しだけおかしくって。
もしかすると、高階の娘たる私には似つかわしくない部屋、とか、思われてるかもしれないけれど。
――でも、似つかわしくないっていう、意味では。
――彼よりは、マシかも。
庶民的アパートと、チープな家具に、いわゆる超がつくような、御曹司という取り合わせ。なんとなく、違和感。そして――ちょっと面白い感じ。
見えない所でこほん、と小さく咳払いをして、浮かびそうになる笑いを、そっとかみ殺した。
「……粗茶ですが」
これは文字通りで、謙遜ではなかったりする。
お茶の葉があれほど安いものだとは思わなかった――スーパーという所は、本当に凄い。個人的には、スーパーよりも商店街の量り売りのお茶やさんの小母様が、優しくて好きだけれど。
それでも、ちゃんといれればそれなりに美味しいのだ。お茶だけは、作法の一環で身についているため、自信はある。
彼の落ち着かない様子をちらりと伺う。
彷徨っていた視線がゆっくりと私へと向かう。一瞬固まりそうになるけれど、意識してゆるりとローテーブルを挟んだ向かい側へと腰を下ろした。
「……ありがとう」
「いえ」
低い声。男性の声。
それ以上会話が続かなくて、困ってしまう。
彼は一体、どうしてここにきたのか。気づいたのなら、それが問題なのならば黙って破談することもできたはず。
破談までいかなくとも、親へと進言なり確認なり、することもできた、はず。
――それをせずに、ここにいる、理由。
こちらをじっと見詰める視線に居たたまれなくて、なんとなく視線を彷徨わせる。
何をいうのだろう、どうしたいのだろう。
不安に揺れる心を宥めていると、目の前の彼が深く溜息をついた。
びくり、と。
無意識に体が反応した。
怖いわけじゃない、けれど。
気まずくて。心もとなくて。
――身内以外の男性と、こんな密室(?)で、二人きりなんて、初めてだった、から。
それを怯えととったのか、目の前の彼が、不意に表情を緩めた。
ふ、と、浮かぶ笑み。元々美形な方であるのもあいまって、それは見事な、笑顔。
――双子並の破壊力かもしれません……。
お世話になっている双子の笑顔がちらりと脳裏に浮かぶ。
内心そう思いながらも、そんな笑顔をみせられてもどうしていいやらと、困ってしまう。
しかし、空気が緩んだことは確かで、気づかれないようにほっと息をつく。
目の前の彼は、ごまかすように咳払いをして。
――そして、口を、開いた。
「何故――こんなところに?」
何故、と、問われて。
明確な答えなんて、本当はもっていなかった。
体が僅かに震える。
ただ、普通の生活がしたかっただけ。
普通の生活がみたかっただけ。
ままごとのような箱庭の生活。
――まるで児戯のような、行動。
高階の両親には知られたくない、知られた所で解って貰えるはずのない、感情と行動。
内密にしてほしい、と、前置きして、語りだした話を、彼は、静かに聞いてくれた。
――ただ、静かに、聴いてくれた。
解って貰える、とは、思わない。
これは私の、最後のわがまま。
娘でいられる時代の、最後の、わがまま。
不安のまま語り続けて――そして。
「自らの立場を考えた場合、この行動があまりほめられたものではない、というのは、理解しているつもりです。ですけれど――何も知らないまま、何もわからないまま、そう、そのわからないという事実すらも知らないまま生きていくことは、私には、できませんでした。……わがままと、百も承知しています。ですけれど――この生活も、この小さな空間とその周囲と関わる生活も、全く今までと違って、見えてくるものも全く違って――いとおしいのです」
そう。
この生活の全てが、関わるすべてが、愛しくて。
だから、だから私は――小さな箱庭の生活を、欺瞞に満ちた嘘の生活を、続けている。
「高階の娘」ではなく「恵美」として生きられる、この場所で。
思い浮かぶのは、商店街の人々の顔。通りすがりに声をかけてくれる小学生。近所の小母様方。
笑いながら、からかいながら、時には叱りながら――関わった彼らとの時間が、愛しくて。
浮かんだ笑みは、とても、とても幸せなものだった。
じっと、見詰める視線。
熱い視線。――その熱を感じて、僅かに頬に朱がのぼる。
つい、語りすぎてしまった。つい、力が入ってしまった。
無言のままこちらを見詰める彼の視線に、どこかどぎまぎとしながら、呆れられてしまったのではないかと、おそるおそる声をかける。
はっとしたような表情をみせた彼は、そのまま、静かに笑みを浮かべた。――先ほどまで感じていた熱を、すべて消し去った、冷たい瞳で。
「そう、でしたか。では、高階のご両親にも内密のことなのですね。――それで、今後はどうされる、おつもりですか?」
どう、するのか。
どきり、と、心臓が跳ねる。
上げた視線の先、冷たく冷静な彼の視線と絡みあう。
これから。
彼の婚約者となり――西宮寺の嫁となる。それまでの、間。
許されるだろうか。許されるのだろうか。
――あと僅かの、猶予、だけでも。
「これから――貴方は、私の婚約者ということになる。そして、恐らくそのまま結婚ということになるでしょう。それが『決められたことである』のは、何よりもあなた自身が、理解なさっているはずです。――私が『西宮寺』の後継たる息子であるのと同じく、貴方は『高階』のご令嬢であるのですから」
私は。
そう、私は、高階の娘。
――ただの「恵美」でいられる時間は、もうおわりをつげているのかもしれない。
すっと、心にベールが降りる。一枚の幕、それは「高階」という、受け継がれてきた血縁の壁。
ひとつ、息を飲み、瞼を閉じる。「恵美」は、終わる。――私は、高階の、娘。
ゆっくりと瞼を開き、微笑みを浮かべる。――高階の、ご令嬢と呼ばれるものの、笑みを。
「解っております。私は、『高階』を支えるもの。そして、これから先は、貴方を支えるものとなるでしょう。ですから、今だけ――今しばらくだけで、結構です。もう少ししてはっきりとお話が纏まりましたら、この部屋もすべて引き上げます。――よろしいでしょうか?」
そう。
ままごとの時間は、終わりを告げる。
お遊びは、もう、終わりの時間なのだ。
寂しいと、哀しいと。私を、高階ではなく恵美である私をみて欲しいと、心の奥底で小さな子供が泣き叫ぶ。
それをぎゅっと押し込めて――静かに微笑んだ。ただ、静かに、微笑んだ。
――自由な時間は、おわりを告げる。
心の自由を奪うもの――それは、残酷な間での現実、だった。
「解りました。――それで貴方が満足なさるなら、いいのではないでしょうか」
胸が痛む。
――結局、この婚姻は、政略でしか、ないのか、と。
諦めていたけれど、わかっていたけれど――僅かに夢見たそれが、壊れた気がして。
けれど。
その全てを押し殺して、私は微笑んだ。
――「高階のご令嬢」、と、そう呼ばれるプライドにかけて。