4:それであなたが満足するならいいんじゃないですか
そこは、自分が生きてきた中ではあまり縁のない、しかしながら、所謂「一般的な」アパートのつくりであると、知識で知っていた通りのアパートだった。
いざなわれ室内へと入って、まず目に入ったのが6畳ほどのダイニングキッチン、その向こうにもう一部屋あるらしき作り、それだけの小さな部屋だった。
ダイニングであろう部分に敷かれたラグに、小さめのテーブル、クッションを進められて底に座ると、キッチンへと立った彼女を横目に部屋を見渡す。
小さな部屋。家具も必要最低限しかないようで、どこかすっきりとしている。
しかし、そこここに飾られた小物や、うまく配置された布などの装飾で、穏やかで女性らしい部屋になっている。
――彼女は、「ここ」に、もうひとつの生活を持っているのだ、と。
それを如実に感じさせられる、そんな部屋だった。
「……粗茶ですか」
ことり、と、目の前のローテーブルに、シンプルな湯のみが置かれた。
ふわりと漂う緑茶の香りに誘われるように、と眺めていた室内から、視線を戻す。
「……ありがとう」
「いえ」
向かいへと腰を下ろした彼女は、視線が合うと、どこか困ったように微笑んだ。
そう、あの二階の窓からのぞいていた時と同じように。
しばし沈黙が落ちた。何から聞けばいいのか、いまさらのように逡巡してしまって、言葉を発することができない。
彼女の方も相変わらず困った表情のまま、うろうろと視線を彷徨わせている。
このままでは埒があかない。
ひとつため息を漏らすと、目の前の彼女がびくっ、と、震えた。
その震える様子に驚いて見やれば、困ったような表情の中に、微かに怯えのような色が混ざった視線が、じっとこちらをみている。
何故。
不意に苛立ちがわきあがる。
何故、怯える? 何が怯えさせた?
彼女が自分に対して、怯えの色を見せたことが、どうしようもなく気になって。
眉間に皺がよりそうになるのを堪えながら、できるだけ相手を安心させるように、意識して笑顔を浮かべる。
何故ここまで、気を使っているのか。近年類を見ない状態の自分を不思議に想いながらも浮かべた笑顔に、彼女の表情が揺らぐ。
――何故余計に、困った顔になってるんだ。
ひとつ、咳払いをしてごまかす。
こうしていても、拉致があかない。
じっと視線をむけると、単刀直入に、聞くことにした。
「何故――こんなところに?」
びくっ、と震えた彼女は、しばしこまったように、左右に視線を彷徨わせ――少しばかり思案をするかのように僅かに首を傾げた。
さらり、と、彼女のまっすぐな黒髪が、肩に流れる。
「あの――高階の両親も知らないことですので、内密に――お願いできたら、嬉しいのですけれど」
静かに語りだしたその声に、はっと、我にかえる。
どうやら、無意識のうちに、その彼女の流れる黒髪に目を奪われていたらしい。
「……あの?」
俺の様子を訝しく思ったのか、彼女が恐る恐る問いかけてくる。
「いや……いえ、そうですね。お話の内容にもよりますが、ご希望に沿いたいとは思います」
ごまかすように告げた言葉に、彼女がほっとしたのがわかる。
やがて、ひとつ頷くと、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「たいしたことではないのです。ただ――普通の生活、というのを、知ってみたかった」
彼女は、やはり、俺と同じ世界の人間だった。
多数の人間の当たり前の生活とはかけ離れた生活が、彼女にとって普通であり、それ以外を知らなかった。
けれど、彼女はそれを知るときが来る。
大学へとすすむと、それまで閉鎖的だった高校までの特殊な環境とは違い、所謂「普通の人」と関わることが増えたのだという。
そのなかで、所謂「普通の人」である同級生の彼女たちと関わるなかで、自分とその彼女の常識の「差異」に気づき、疑問に覚えたのだと。
料理は、自分や家族がするもので、すべてを料理人がするわけではないこと。
洋服は、自ら洗濯機にかけて洗うものだということ。掃除機を使って掃除機をかける、ということ。
知識として、それらを知らなかったわけではないけれども。
実際に、同じ年齢の、同じ大学に通う少女が、ひとりで生活をしていると知って、彼女は愕然としたのだという。
――自分は、何も知らない。
――自分は、なにもできない。
彼女にとって、それはそのままでも許されるだけの環境に生まれついていて。
疑問に持とうとも、そういうものなのだ、で、すませてしまったところで、何も問題はないはず、だった。
けれど。
彼女はそれで治まらなかったらしい。
知りたい、と。
「普通」であることを、理解し、その生活をしてみたい、と。
強く強く――今までにないほどに、強く、願ったらしい。
そして、彼女は、双子の従兄弟の協力の元、こうして密やかに、そう、悪いいい方をしてしまえば、まるで「ままごと」のような、小さな隠れ家の生活を営むようになった、というのだ。
「自らの立場を考えた場合、この行動があまりほめられたものではない、というのは、理解しているつもりです。ですけれど――何も知らないまま、何もわからないまま、そう、そのわからないという事実すらも知らないまま生きていくことは、私には、できませんでした。……わがままと、百も承知しています。ですけれど――この生活も、この小さな空間とその周囲と関わる生活も、全く今までと違って、見えてくるものも全く違って――いとおしいのです」
ふわり、と。
それまで、どこか、不安そうに、哀しそうに――怯えすら滲ませていた彼女の顔が、柔かに微笑む。
そう、それは、あのときの笑顔。
商店街でみかけた、あのときの、笑顔。
とくん、と、心臓が跳ねた音がした。
柄にもない状況に、思わずうろたえる。
なんだ。なんだというんだ。一体、俺に何が起こっている?
一体、これは、なんなんだ。
「……あの?」
再びどこか不安を滲ませた彼女が、うかがうように問いかけてくるのに、なんでもないと、無理に微笑んで――ひきつっていたかもしれない、けれど。
「そう、でしたか。では、高階のご両親にも内密のことなのですね。――それで、今後はどうされる、おつもりですか?」
はっ、と、彼女が弾かれたように顔をあげた。視線が絡む。ゆらり、とその瞳の奥に揺れる感情が、なんなのか。
――俺は、それが知りたい、と、今、強く思って、いた。
そうか、そういうことか。
ふと、落ちてきた答えに、うすらと笑みが浮かぶ。
「これから――貴方は、私の婚約者ということになる。そして、恐らくそのまま結婚ということになるでしょう。それが『決められたことである』のは、何よりもあなた自身が、理解なさっているはずです。――私が『西宮寺』の後継たる息子であるのと同じく、貴方は『高階』のご令嬢であるのですから」
そう。
彼女は、俺のものとなるのだ。俺がどれだけあがこうと『西宮寺』であるのと同じく、彼女はどこまでいこうとも、なにをしようとも『高階』なのだから。
すっ、と、彼女の息をのむ音が聞こえる。そして、一度ゆっくりと閉じられた――思ったよりもまつげの長い――その目が、開かれたとき、そこには紛うことなく『高階』の令嬢たる、娘がいた。
まっすぐに向けられる視線。うすらと浮かぶ――しかし、あのふわりとした笑みとは違う――正しく、令嬢たる微笑み。
「解っております。私は、『高階』を支えるもの。そして、これから先は、貴方を支えるものとなるでしょう。ですから、今だけ――今しばらくだけで、結構です。もう少ししてはっきりとお話が纏まりましたら、この部屋もすべて引き上げます。――よろしいでしょうか?」
微笑む彼女は、先ほどまでのどこか怯えていた少女ではなかった。
ちり、と、胸の奥が痛む。
俺が欲しいのは、これじゃない。この微笑じゃない。――けれど。
彼女であることは、間違いないのだから、と、浮かぶ違和感をねじ伏せて、表情を取り繕った。
「解りました。――それで貴方が満足なさるなら、いいのではないでしょうか」
どこか意地悪ないい方になってしまったのは――やはりまだ未熟なせいなのだろうか。
瞬間的に浮かんだ、彼女の傷ついたような表情に――すぐにそれは消されてしまったけれど――ずきり、と、刺すような痛みが、走り抜けて。
あまりに自分勝手な感情に、内心で苦く笑うことしか、できなかった。