2:俺は俺、あなたはあなたです
そんなこんなで、見合いが終わり、近いうちに結納を交わすことまで段取りがついたらしい。
らしい、というだけあって、すべて父親と母親がしきっているのだし、まかせっきりだ。
親の希望で結婚するのだから、それでいいだろう。
しかし、相手の娘については、もう少し知っていてもいいかもしれない。
ふ、と、そんなことを思いついて、柏木を通じて色々調べさせた。
……いまさらですか、と、苦笑いすることはないとおもうのだが。
いつものごとくに仕事場に出社して、いつものごとくに次々と届けられる案件を処理して、柏木の手配のまま、あちこちの会社へと出向いて。
毎日代わり映えのしない、同じような仕事。誰にでもできる、と、まではいわないが、自分でなくてもいいのではないか、と、思えるような仕事の数々に、いまさらながらうんざりしてしまうのは、なぜ、だろうか。
ふ、と浮かぶのは、見合いの相手だった彼女の顔。そういえば、彼女は今まで出会ってきた女性と、初対面から違ったような気がする。
そう――まるで熱に浮されたように、じっとみられることの多い彼にとっては、そうでない反応と言うのは、めったにない。
異性からは熱のこもった視線を、一部同性からは敵愾心あふれる視線を、それが彼にとっての「普通」だっただけに、彼女のあの、彼をみているけれども特になにも感じていないような、特にみていることに理由などない、ただ、「みている」だけの視線というのは、今まで体験したことはほとんどないように思う。
そう考えて、なぜか胸がもやもやとした。
視線。彼女が、数歩遅れたとき。立ち止まって振り返った先で、じっと彼女が見詰めていたもの。ただの池の鯉だ。普通の、いや、少々品質はいいだろうが、ただの魚にすぎない。けれど、彼女が、じっと見詰めていた――彼には向けなかった、熱のこもった視線で。
それほどに鯉がすきなのか、と、考えることもできるけれど、なぜだろう、胸のもやもやは、おさまりそうにない。
考えてもせん無いことだと、頭をひとつ振ることで、考えをふり落とすかのごとく切り替えて、残りの仕事へと手を伸ばした。
彼女についての報告は、夕方、仕事が上がる前までにはきちんとした形で、資料として手元に届いた。
高階恵美。年齢20歳。お嬢様学校として厳格さでも有名な女学園に幼稚舎から通い、現在大学部の文学部に通う2年生。兄が一人、こちらは後継ぎとして現在着々と実績を積んでおり、次代の高階グループは安泰だと言われている。幼いころから政略結婚、もしくはそこまではいかなくとも同等のグループ、もlしくは母方の旧華族である実家との婚姻が予想されていたため、それを前提とし、厳しく育てられた。送迎はもちろん、一人での外出は全くなく、家と学校、習い事の往復のみで、その身辺は清らかすぎるほどである。また、友人関係も学園内にとどまっており、さほど多くはない。
目を通しながら、次第に眉根が強く寄るのを感じた。
この、娘は。いまどき、ここまで、厳格に育てる必要があるのだろうか。否、友達同士の付き合いでの外出すら、誰かがつきそうかほとんど行かない、とは、一体いまどきどこの王族だ、と聞きたい。なぜ、ここまで厳格に育てられたのか――それとも、彼女自身が「そうあること」を、望んだのか。
ならば、あの娘は。
じっと鯉を見詰めていた娘は――一体、何を思って、鯉を見詰めていたのだろう。
その心情を考えると、なんともいえず胸が痛む気がして、小さくため息を漏らした。
しかし、その彼女に対する認識を、改めることになる状況を目撃したのは、その日の帰り道でのことだった。
社から自宅へ戻る車中、広いその車内で、幾枚かみる必要のある書類を確認していた時のこと。
さすがに目に疲れを感じて、書類から目を上げ、窓の外を眺めた、そのとき。
「……っ?!」
視界の先に、見合い相手であった少女がいた。いること自体は問題はない。が、どうしてこんなところに、と、思う。
車はちょうど赤信号で止まる。その間、目が話せないまま少女を眺めていると、彼女はどうやら、商店街へと向かっているようだった。
――高階のご令嬢が、商店街へ?
いや、それ自体はありえないということはない。いまどき、普通の生活をしている人間の方がおおいのだから。
しかし。彼女は、調べたデータから考え合わせると、ここにいることはありえないように思えた。もしかしたら側に誰かついているのだろうか、と思うけれども、調査上では、彼女は学校と習い事と家の往復のみだったはずだ。
では、習い事の教室がここに? 否、その可能性も低い。高階のご令嬢が通う習い事、である。商店街にあるとは考えにくい。
そう考えているうちに、少女は、信号停車している車の位置からも見える、商店街の入り口の八百屋の前で足を止めた。
八百屋の店主が、少女になにか声を掛けているのが解る。少女は一度首を傾げるような仕草を見せて、いくつか野菜を指差し。
そして――微笑んだ。
どくん、と、鼓動がひとつ、激しく打った。
見合いの席で見せた、微笑ではない。心から沸き出るような微笑みだった。
呆然と見惚れる――そう、間違いなく、見惚れてしまったのだ――うちに、車は発進して、少女が遠くなる。
その遠くなる視界の中で、彼女が嬉しそうに、数種類の野菜を、手提げ袋へといれてもらっているのが、見えた。
「……柏木」
自宅へ帰りついて、まず、彼を呼ぶ。
そして、先ほどみたことを告げれば、この男にしては珍しく、はっきりと表情を驚きへと変えた。
「まさか。……高階のご令嬢が、ですか?」
そう。高階のご令嬢が、商店街を歩いていた。しかも、八百屋で買い物をしていた。
調査票との食い違いが、大きすぎた。
狭い世界でしか生活してないはずの彼女が、しかし、まるで庶民のように商店街へ訪れて買い物をし――。
彼女の、あの微笑が浮かぶ。
「なんにせよ、詳しく調べてほしい。高階の両親が知っているのかどうかはわからないが、知っていたとしたら隠しているということだし、知らないのであればそれだけ巧妙にあの娘が装っているということだ。そこを考慮にいれて、調べなおすように」
無言のまま、ひとつ頭を下げて退室していく柏木を見送って、スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めただけの姿で、どさり、と広いリビングの中央におかれたソファへと身を投げる。
彼女は。
同じ籠の鳥だと思っていたのに。
否。
同じじゃない。もっと狭い籠に閉じ込められている鳥だと思っていたのが、自分と同じか、それよりももっと自由にできる場所を持っていて……どこか、裏切られたような気分になったの、だ。
卑小な感情だ、と、苦い笑みが浮かぶ。
同じように、決められたポイントポイントははずせず、その場所をたどりながら生きている存在。
けれど。
「俺は、俺で。彼女は、彼女、ということか」
ふうわりと、幸せそうに微笑んだ、あの彼女が――うらやましいと、心から、思った。




