3:唇に指を這わせ
違うのだ、と、言いかけて言葉を止める。それは、何が違うのか、という、それを説明できる気がしなかったからだった。
この場所を手放すと彼女は言う。その時に湧き上がった感情をなんと説明したらいいのだろう。激しい喪失感に似たその気持ちに追われるまま、零れ落ちかけた言葉を、止めた。
それは、、この場所を残して欲しいと願い求めるのは、ただ、この場所を残すのは、何かが違う気がしたからだ。
そう、自分が欲しいと、そう願い思うものと何かが違う気が、した。
――だったら、何が違うというのか。
はっきりとしない曖昧な感覚が、どこか不快で、気がつけば表情がこわばってしまっていた。
それが彼女にどういう印象を与えるか、なんて、普段なら気づかえるであろうことすらも頭から抜け落ちて、思考の渦にとらわれる。
求めているのは、この「部屋」じゃない。この部屋という物質的なものではなくて、もっと曖昧な、けれどどこか暖かい「なにか」が、欲しいのだ、と。
それはわかっているにもかかわらず、そこから先、それが実際なんなのかがはっきりとしなくて、言葉を飲み込んだ。
――俺が欲しいのは、いったいなんなのだろう。
目の前で目を伏せる彼女をみつめて、静かに思う。彼女が欲しい。ああ、確かに自分は彼女という存在を求めている。だが、それは正解のようで何かが違う。彼女の何を求めているのか。彼女の何に惹かれて、そこまで彼女を求めているのか。そして、この部屋を残したい。確かにこの部屋は居心地がいい。が、この部屋があればいいのだろうか。それも、何かが違うという思いが湧き上がる。彼女と部屋。この2つがキーワードであるにもかかわらず、そこから導き出されるはずの解に、なぜか辿りつけない。
では、何が欲しい?
いったい、何をもとめている?
答えは眼の前にあるような気がしているのに、掴み取れないのは、なぜなのだろうか。
沈黙が続く。静かな部屋の中に聞こえるのは、リズミカルに時を刻む時計の秒針の音、そして冷蔵庫などから聞こえる僅かな機械音だけ。
よく話に聞く安普請のアパートのようでいて、けれどここは、思った以上に静かだ、と、落ち着かない思考のすみをそんな考えが逃避するようによぎる。
テーブルの上のお茶は、もうすでに冷めている。秒針の音が響く中、見つめ合うわけでもなく、向かい合ったまま二人、ただ無言で座っていた。
その、状況が。
――苦痛ではない。もちろん、気まずさがないとはいわないのだけれど。それでも、この空間に、むしろ、どこか安らぐ気持ちを覚える自分に、戸惑いを覚える。
それは、なぜか。
浮んだ疑問の応えは、けれど流れる穏やかな空気の中、はっきりとした形になる前に、ぱちりと泡のようにはじけて、消えた。
訂正しよう。
形になる前に、無意識に、消し去った。
それは、自分から一番縁遠いと思っていたもので。
自分の中に「それ」を求める気持ちが存在するという可能性すら、この時は全くわかっていなかったから。
――答えがでるはずなど、なかったのだった。
気がつけば容易いはずの願いを、けれど建前と見栄と、さまざまな思考に囚われて見失っていた。
苛立ちを抑えるように、きつく眉を寄せて、目の前の湯のみを睨みつける。
もやもやとした感情が、表に現れるのを止められない。まるで幼い子供のように、取り繕っていた全てを引き剥がされて、感情が表に出てしまう。
こんなこと、今までなかったはずだ、と、困惑しながらも、抑えこむように黙りこんでいれば、ふ、と、部屋の中の空気が揺れた。
は、と、視線を上げれば、わずかにこちらに身を乗り出す彼女の姿。
視線が、会う。
すると、一瞬狼狽えたように瞳を揺らすが、けれど、じっとこちらを伺う彼女がいて。
「あ、の。だいじょうぶ、ですか? 体調が、お悪いのでは?」
おそるおそる、と告げられた言葉の、その響きと。
その揺れる瞳の奥にのぞく、こちらをいたわる色と。
その、両方が。
思えば、今までこんな感情を誰かに与えられたことがあっただろうか。
こんな風に、心配されたことがあっただろうか。
――いつも、どこかに、何かが透けてみえるような言葉と視線ばかりだったというのに。
今、彼女から与えられる視線と言葉は、ただ、まっすぐにいたわりと温もりを、伝えてきていて。
衝動、というのは、得てして、自分でコントロール出来ないからこそ、衝動というのである。
言い訳するつもりはない。
触れたい、という思いが、弾けるように湧き上がり、その想いのままに、行動していた。
「え……っ?」
驚いたように身を引く彼女へと手を伸ばす。そっと伸ばした先、びくり、と、震えた彼女は、けれどそれ以上は逃げずに、不安の色を浮かべながらも、こちらをじっとみつめて、いて。
後少しで、彼女に触れる、と、いう、その寸前で、思わず手が止まる。視線の先では、小さく揺れる薄紅の唇。そこに誘惑されるように、ゆっくりと、辿るように、指先を振れさせた。
息を呑む彼女の呼吸が、指先に伝わる。
そっと、唇を辿る指の動きに、ふるりと彼女が震えて。
その伝わる温もりと、動きに、周囲の音は全て消え、高くなる心臓の音だけが、耳に響いていた。
震える唇と、そのぬくもりが、胸の奥の深い所に、強く響く。
視線が絡む。
そらすことなく、お互いの視線が絡む。
驚いたように、わずかに震えすら伝えるその視線の奥で、揺らぐ仄かな色を、知りたい、と。
心から深く、願った。
手を引き戻し、無意識にそれを自らの唇に触れさせる。
指先を追っていた視線が、そのまま唇にたどり着いた瞬間、一気に彼女の顔が朱に染まった。
慌てて片手を頬に当ててうつむく彼女の目が、羞恥からか潤んでいるのがわかる。
髪の間からのぞく耳すらも、赤く見えるその姿に、湧き上がる感情を、どうしたらいいものか。
そうだ、愛しいのだ。
彼女が愛しく、大事なのだ。
――そして。
彼女のもつぬくもりが、欲しいのだ。
そばにいたい。彼女が欲しい。彼女を愛したい。そして――愛されたい。
たどり着いてしまえば、たったそれだけのことに、どこまで時間がかかったのだろう。
自分がどこまでもおかしく思えて、小さく笑ってしまう。
それをどう捉えたか、更にうつむいて縮こまる彼女に、席をたち歩み寄る。
欲しいものは、彼女自身。
欲しいのは、彼女の温もり。
――欲しかったのは、「高階のご令嬢」である、彼女ではなく。
この部屋を作り上げた、高階恵美という女性そのものと、そして彼女との穏やかな関係であったのだ、と。
いまさらながらにではあるけれど、気づいたからには、もう、見失いはしない。
彼女の隣へと向かい、ゆっくりと、彼女のそばに片膝をつく。
気配に気づいて顔を弾けるように上げた彼女に、ただ、一言を告げるために。
――今更でも、遅くても。
これから「先」があるのだから。
幼い頃に与えられなかった温もりを、彼女に求めることは間違いかもしれないと思いながらもそれでも。
また違う、「家族の温もり」を、創りあげていけるだろうと、そう思える相手だから。
改めて、告げなくてはいけないのだ。
「――俺の、妻になってください」
その、言葉を。