2:触れた指先にうずく熱
街中を走り続けた車は、やがて商店街を横目に静かに止まる。たどり着いたのは閑静な住宅街、と、いえないこともないが、いうなれば普通の住宅街。その路上にどこか厳つい高級車であるこの車は、どうにも不釣り合いでもあった。その似あわなさがなんだか妙におかしい気分になって、小さく笑う。それを見とがめてか、こちらを見てくる彼になんでもないと首を振ってみせて、それから、深く呼吸をする。
どきどきと、心臓がうるさい。フワフワと浮き立つような、けれど逆に、締め付けられるような、不思議な感覚が、体の内側で波打っている。
見えるのは、私の部屋。小さな小さな、私の城。
婚約が決まってこの部屋で彼とあった日から、未だ一度もきていなかった、小さな部屋。
なぜ、彼は私をここに連れてきたのだろう。
わからない、という不安と、けれど、湧き上がる喜びとの狭間で、ぐるぐると心が乱れる。
ああ。
言い訳はやめよう。私は嬉しい。この部屋にこれたことが。――この部屋を、まだ手放さなくていいらしい、という事実が。
先に降りた彼が、こちら側の扉を開ける。目の前に差し伸べられた手に、一瞬ためらう。けれど、そっとそこに手を重ねれば、ぬくもりが伝わった。大きな手。促されるままに降りれば、するりと手は離れていく。
指先が。名残を惜しむように、絡められた気がして。
そこだけが熱を持ったような気がして、無意識に、ぎゅ、と手を握りしめた。
――口元が、緩んでいたのは、気のせいじゃないと思う。
促されるまま、後からついてくる彼の気配を感じつつ、部屋へと向かう。二階の、角。道路に面したその部屋は、極普通のアパートの部屋。カバンを探って、キーケースを取り出す。自宅の鍵を持つことはないから、唯一、私が持っている鍵といえるもの。お気に入りのキーケースに入れたそれを鍵穴に差し込めば、かちり、と軽い音。ノブを回す。ひらく。当たり前の行動、普通の行動だけれど、なんだかそれが何よりも尊いものにおもえて、ゆっくりと開いた扉の向こう、部屋は少しだけ、よそよそしかった。どうぞ、と、彼を先に、と促す。狭い玄関だから、すれ違うのも大変。ああ、と短く答えた彼が、私の横を通り過ぎる。至近距離。身長差があるから、見上げる視線になる。触れ合うか、触れ合わないかぎりぎりの距離。それでも、ぬくもりが伝わるような気がして、どきん、と、心臓がはねた。
彼をローテーブルの前へと促して、急いで台所へ向かう。生鮮食品だとかは、あのあと一度、叔母の家の人が来てきちんと処理してくれたはず。お茶くらいはあるかな、と、急いで電気ケトルに水を入れて沸かす。がさごそ、と探っていたらお茶発見。湯のみと急須を洗っていれば、すぐにお湯が沸くから、お茶を入れて戻る。と、渋い顔をした彼がいて。
「えと、お茶ですが……どうかされましたか?」
そっと湯のみ――安物だけど、気に入って買ったちょっと渋い色合いのもの――を差し出せば、いや、と、否定の声。それから、玄関の扉をちらり、と見やって。
「鍵がひとつなんだな。――少々無用心すぎないか」
「ええ、ですが、ここは下に大家さんがお住まいですし、周囲の部屋もかなりきちんとした方ばかりです。ここに泊まることはありませんし、だいじょうぶかと」
そう、このアパートは、叔母の持ち物で。叔母の持ち物にしては古い普通のアパートすぎるのだけれど、それにも理由があって。叔母の側近だった人のご両親がもともと経営していたらしいのだけれど、色々あって苦しくなったところに、そのご両親とも懇意にしていた叔母が、オーナーとして買取り、そのご両親を大家さんとしてやとったらしい。もともと叔母はこの周辺の、昔ながらの雰囲気というのが大好きだったようで、それを大事にするゆえに立て直すことなく、ただ改装を入れ、そのまま残している。――つまり、ある意味叔母の道楽のようなアパートなのだ。それに、別の階には警察の方や警備会社の方もおられる上、すぐ近くに交番もある。意外と安全な場所なのだ。
「それにしても――いや、よそう。お茶、いただくよ」
更に何かを言い募ろうとした彼は、一度首を振って、湯のみに手をつける。同じく手をつければふわりと緑茶の香り。互いに無言になって、静かにお茶をいただく。――その、沈黙が、嫌ではない自分が、いて。温かいな、と、ふと思う。そういえば、両親や兄と、私はこんな時間を持ったことがあっただろうか。共にあるだけの暖かい時間――もしかしたら、幼い頃にならばあったのかもしれないけれど、記憶の中にはどこにもなくて。それがとても寂しいことのような、しかし立場からすればしょうがないことのような、複雑な思いで息をつく。――家族に愛されていないわけじゃない、というのはわかる。けれど、私が求めるものと、家族の有り様が違うだけであり、あの家族の中では私のほうが異端なのだと、さすがにそれはわかる。――例えば、叔母や従兄弟たちのような家族の方が、あの世界では特殊なのだということが。
「――迷惑、だっただろうか」
聞こえてきた声に、驚いて顔を上げる。彼らしくない言葉のような気がして。視線の先は、戸惑うような彼の顔。ああ――もしかして、彼の今の言葉を言ったことに戸惑っているのだろうか? まさか、そんな、と思うものの、気まずげに視線をそらす様子をみれば、そうとしか思えなくて。数度またたく。
「いえ、いいえ。迷惑どころか――ありがとうございます。もう、これないと思ってましたから」
うすらと笑みが浮かぶ。そう、本当にそう思っていたから。嬉しかった、と続けようとしたけれど、はっとしたようにこちらを再度見た彼がまっすぐに私を見つめたから。それ以上言葉が出なくて。
「……来て構わないと、いったはずだが」
どこか苦しそうに吐き出されたその言葉が、嬉しくて。その優しさがうれしいからこそ、小さく首を振る。
「ありがとうございます。――ですが、あまり甘えるわけにもいきませんから」
「そうじゃなくて――」
そう言いよどんで、そして、綺麗に整えられた髪を彼がクシャリと乱す。その仕草が普段と違っていて、不安がよぎる。けれど、どうちがうのか、などと、言えるほどに私は彼のことを知っているわけじゃない。――何が違うのだろうか。わからない。わからないけれど、今は、そう、彼が迷惑じゃないといってくれる、その優しさが嬉しい。わからないならば、わかるところを増やしていけばいいのだから。
彼は、優しい。おそらく、そういうと嫌な顔をされそうだけれども、でも、私にとって彼はとても優しく感じる。来てもいいと言ってくれるその言葉は嬉しい。その優しさが、嬉しい。
――でも。ここをずっと残しておけるわけじゃないから。ここにずっといられるわけじゃないのだから。ならば、決断しなくてはならない。そして、その決断は、早いほうがいいに決まっているのだから。
「だいじょうぶです。ありがとうございます」
もっと気の利いた言葉をいればいいのだけれど。出てきたのはそんな、ありきたりな言葉で。でも、嬉しかったから。優しさが、嬉しかったから。言葉に込めた思いは、何よりも本当で。嬉しくて自然と緩む顔のままに、そっと微笑む。その私を見て、彼がわずかに目を細める。そこに浮かぶ感情は、なに? わずかに痛ましげにみえたのは、気のせい、だろうか。
やがて、息をついた彼が、低く呟く。
「……君に、任せる」
その声が。どこか苦しげに聞こえて。感じる違和感。違和感? 違う、これは――ギャップ、というもの、なのだろうか。冷静で冷酷とすら言われる、彼と。こうして私の目の前で、感情のゆらぎを見せ、ため息を漏らす彼と。その差異は、明確で。違和感、と思っていたものすらも、よく考えれば不快なものではなくて。――湧き上がる、感情。じわり、と広がる思いは、どこからくるんだろう。
ゆるり、と緩んだままの表情は、戻すことが出来なさそうで。
「ありがとう、ございます」
静かに再び同じ言葉を告げながら、どこか浮き立つ感情のままに、目を伏せる。私は浮かれていた。――ああ、だけど。
――では、この感情は、どこにいくの?
ひやりとした感情が、一瞬ふわりと浮かんで、消えていった。